ギュンター・ギヨーム

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ギヨーム(右)とブラント首相(1974年4月18日)
ギヨームとブラント首相、1972年-1974年

ギュンター・ギヨームGünter Guillaume、ただし死去時の姓はブレール(Bröhl)、 1927年2月1日 - 1995年4月10日)は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の軍人、スパイ。西ドイツ首相ヴィリー・ブラントの秘書になりすまして諜報活動に従事、ドイツ史上最も成功したスパイと言われる。1974年、その発覚によりブラント首相が辞任に追い込まれ、「ギヨーム事件」と呼ばれる。

経歴[編集]

ナチ党[編集]

音楽家の息子としてベルリンに生まれる。第二次世界大戦末期にドイツ空軍の対空砲助手を務める。歴史家のゲッツ・アリーの最新の研究によれば、ギヨームは1944年にナチス党に入党していたという。終戦後ベルリンに戻り、写真家として働く。

潜入[編集]

1950年、東ベルリンで「人民と世界」社の編集員となる。この年から1956年まで、ギヨームはドイツ民主共和国(東ドイツ)の国家保安省(シュタージ)にスカウトされ、西ドイツに潜入するための訓練を受けていた。1951年、同じくシュタージの工作員教育を受けていた秘書のクリステル・ボームと結婚した。2人は1男をもうけている。

1952年、ドイツ社会主義統一党(SED)に入党する。1956年、シュタージの指令を受け、身分を隠して亡命を装い西ドイツに移住し、フランクフルトに住んで喫茶店を経営する。

1957年、ドイツ社会民主党(SPD)に入党する。クリステルは同党ヘッセン州南部地区事務所の秘書となった。1964年から党の指導員として政治活動に従事する。フランクフルト地区の党事務局長となり、1968年からはフランクフルト市議会SPD議員団の事務局長となる。同年、市議会議員に当選する。翌年のドイツ連邦議会選挙に際しては、地元選挙区のSPD候補であるゲオルク・レーバー連邦交通相の選挙戦に従事、高い得票を得て、組織運営の才を発揮した。

レーバーの推薦でギヨームは連邦首相府の経済・財政・社会政策担当秘書となり、ヴィリー・ブラント首相の信頼を勝ち取った。1972年、その勤勉さと事務能力を買われてブラントの個人秘書になる。こうして彼は、西ドイツ首相の極秘文書や内輪の会議の内容、さらには私生活までを知りうる立場となった。

ギヨーム事件[編集]

既に1973年半ばから、西ドイツの防諜機関はギヨーム夫妻の諜報活動を疑っていたが、証拠を得て逮捕に至るまでは1年を要した。1974年4月24日、ボンの自宅で夫妻はスパイ容疑により逮捕された。その逮捕に際し、ギヨームは

「私は東ドイツ国家人民軍の士官であり、国家保安省の職員でもある。士官に対する敬意を払いたまえ」
(Ich bin Offizier der Nationalen Volksarmee der DDR und Mitarbeiter des Ministeriums für Staatssicherheit. Ich bitte, meine Offiziersehre zu respektieren.)

と発言した。

この事件は彼の姓をとって「ギヨーム事件」と呼ばれるようになり、西ドイツの内政に深刻な事態をもたらした。5月7日、ブラント首相は辞任した。6月6日、野党の動議により、連邦議会に事件の全容解明のため調査特別委員会が設置された。この委員会により、西ドイツ治安機関の監視体制が脆弱であることが明らかにされた。1975年12月、ギヨームは国家反逆罪により懲役13年、クリステルは同8年の判決を受けた。

スパイ交換後[編集]

1981年、東西ドイツ間のスパイ捕虜交換により東ドイツに戻り、公式に「平和の偵察者」(Kundschafter des Friedens)として顕彰を受けた。夫妻はカール・マルクス勲章を受章し、ギヨームは国家保安省大佐、クリステルは同中佐に昇進した。ギヨームはシュタージの工作員養成学校に名誉客員教官として招かれた。1985年、ポツダム法科高等専門学校(国家保安省大学校)はギヨームに対し「平和の保障と東ドイツ国家の強化に対する格別の貢献」により、名誉法学博士号を授与した。

英雄となったギヨームは一方、シュタージで看護婦として働くエルケ・ブレールと不倫関係になり、東ドイツへの帰還後間もない1981年12月に夫妻は離婚した。1986年にギヨームは15歳年下のエルケと結婚し、その姓ブレールを名乗るようになった。1986年と1988年に回顧録『告白』を発表した。東西ドイツ統一後はブランデンブルク州エッガースラントの自宅でひっそりと暮らし、1995年に腎臓癌のためでベルリンの病院で死去した。

家族[編集]

ギヨームと妻クリステルの一人息子ピエールは、両親逮捕後の1975年に東ベルリンへ移り、写真ジャーナリストとしての教育を受けた。彼はベルリンの壁崩壊直前の1988年に西ドイツへの移住を申請し、家族と共に移住した。シュタージが有名な「ギヨーム」の姓での西側への移住を許さなかったため、母の旧姓を取ってピエール・ボーム(Pierre Boom)と名乗った。2004年にピエールは『知らない父』という回顧録を出版している。同年3月、ギヨームの前妻クリステルは心臓病のため死去した。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]