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カール・カウツキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カール・カウツキー

生誕 1854年10月16日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国
ボヘミア王国プラハ
死没 1938年10月17日(1938-10-17)(84歳没)
オランダの旗 オランダアムステルダム
時代 19世紀哲学
地域 西欧哲学, ドイツ哲学
学派 マルクス主義, 生物学主義
研究
研究分野 政治哲学, 政治学, 経済学, 歴史学
概念 社会進化論的認識論英語版
道徳進化論英語版
社会文化的進化論英語版
超帝国主義英語版
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カール・カウツキードイツ語: Karl Johann Kautsky, 1854年10月16日 - 1938年10月17日)は、チェコ系オーストリア人ドイツを中心に活動したマルクス主義政治理論家、革命家政治家哲学者経済学者

略歴

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オーストリア帝国ボヘミア(現在のチェコ共和国中西部)のプラハに生まれる。父ヨハン・カウツキードイツ語版チェコ人で背景画家、グラーツからプラハに移り住んでいた母ミンナドイツ語版はシュタイアー人(民族ドイツ人)で女優・作家だった。7歳の時にウィーンに移り、ウィーン・ギムナジウムを経て1874年ウィーン大学に入学。大学では歴史哲学を専攻する傍ら、在学中の1875年オーストリア社会民主党へ入党。大学卒業後の1880年にチューリッヒへ転居し、翌1881年にロンドンを訪問しカール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスと意見交換する機会を持った。

1882年マルクス主義機関誌「ノイエ・ツァイト」を創刊、1885年から1890年にかけてロンドンに滞在しエンゲルスと度々意見交換をしながら、アウグスト・ベーベルエドゥアルト・ベルンシュタインらとともにドイツ社会民主党 (SPD) のエルフルト綱領の策定に関わった。エンゲルスの死後はベーベルと共に社会民主党のマルクス主義中間派を形成して党内の主導権を掌握した。しかし1913年にはベルンシュタインや社会民主党左派とともに、軍事力増強法案に反対し、1917年に至って「ノイエ・ツァイト」の編集主幹を辞しベルンシュタイン、フーゴ・ハーゼ、ゲオルク・レーデブーアらとともに独立社会民主党 (USPD) に参加した。

第一次世界大戦後の1922年にドイツ社会民主党に復帰しヴァイマル共和国の要職を短期間務めたものの、フライコールによる革命派の弾圧に反対し党の国会議員団から除名。1924年に政治活動から引退してウィーンへ帰郷するも、アンシュルスに伴いナチスに追われて、プレスブルクプラハを経由してアムステルダムへと逃れ、アムステルダムで客死した。

主な業績

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生前のマルクスエンゲルスと直接意見交換する機会を持つばかりか、エンゲルスの死後にはマルクスの遺稿の整理・編集の仕事を引き継ぎ、『経済学批判序説』(『経済学批判要綱』の一部)、『剰余価値学説史』、『資本論・民衆版』を編集・刊行した。また、ベーベルベルンシュタインなどと綱領策定に関わったことから、マルクス主義理論の正統的な後継者の地位を確立。自ら編集主幹を務めた「Die Neue Zeit」を足場として、社会主義の最も重要で影響力のある理論家の一人となりマルクス主義の法王と渾名された。

ベルンシュタイン批判、ローザ・ルクセンブルクカール・リープクネヒトなどのスパルタクス団およびレーテ運動批判、ウラジーミル・レーニンおよびボリシェヴィキを批判した。この他、『資本論解説』(1887年)、『近代社会主義の先駆者たち』(1895年)、『倫理と唯物史観』(1906年)、『キリスト教の起源』(1908年)、『権力への道』(1909年)、優生学についても語るなど、極めて多方面の文筆活動を行った。

ベルンシュタイン批判

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ベルンシュタインとは大学時代からの知り合いでマルクス主義者となったのも彼の影響だったが、1890年代半ば以降ベルンシュタインが打ち出した修正主義が党内に台頭していくと、『農業問題』(1899年)、『ベルンシュタインと社会民主主義の綱領』(1899年)などの著作で修正主義の一連の主張に反論した。

レーテ運動批判

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一方で、1910年代に入って盛んとなったローザ・ルクセンブルクカール・リープクネヒトなど左派の側に対しても批判を行った。

ロシア革命後、ボリシェヴィキの影響で、ドイツでレーテ運動が展開されると、カウツキーはソビエト制とボリシェヴィズムを批判し、スパルタクス団の「労働者・兵士レーテ」独裁論に対して、「国民議会か、労働者・兵士レーテか」という二者択一の問題設定は虚偽的であり、いずれもが必要であり、それらは革命の発展段階に応じて相異なる任務をもつとした[1]

ソビエト権力・ボリシェヴィズム批判

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カウツキーは、議会制民主主義を擁護しながらソビエト権力を批判した。カウツキーは、発達した労働運動の存在するところでは「真の議会制はブルジョワジーの独裁の道具であるのと同じように、プロレタリアートの独裁の道具でもありうる」とし、1909年には「大衆闘争小児病」を戒め、われわれの政治闘争の目的は、議会における多数の獲得を通じた国家権力の獲得であるとし、平和的合法的な権力移動の立場をとった[1]

1918年には『プロレタリアートの独裁』でソヴィエト社会主義政権を一党独裁であると非難し、民主主義による社会主義の実現を主張した。カウツキーによれば、ボリシェヴィキは普通選挙で選ばれた国民代表機関すなわち憲法制定会議を解散させたが、これは二月革命で獲得した民主主義の廃棄であった[2]。ボリシェヴィキは、不平等選挙・間接選挙、公開投票制で選出される「階級の闘争組織」である労働者兵士農民ソビエトを「国家組織」としたが、これにより、ソビエトに代表されない国民が政治的に無権利とされ、ボリシェヴィキ以外の社会主義政党を含むすべての反対派の批判は排除され、反対派のプロレタリアも選挙権を剥奪された[2]。これはプロレタリアの一部による他への独裁であり、ボリシェヴィキは社会主義革命の物質的知的条件の欠如を「裸の暴力」の行使で埋めた[2]。ツァーリズムへの非合法闘争の経験が、権力崇拝と独裁の慣習を育成したことは「理解」できなくはないが、「承認」できないし、ましてそれを西欧の民主主義制度でも妥当とすべきものとするのは不当であり、ドイツの一部の社会主義者がこれを受容するのは理解しがたいとカウツキーはいう[2]

カウツキーは、マルクスのいうプロレタリア独裁は、プロレタリアが勝利した場合に純粋な民主主義から必然的に生じる状態であり、特定の統治形態を指すものではないとする[3]。プロレタリアの利益を代表するといっても、同一の階級的利益の実現の戦術的方法は同一ではなく、それに応じてその代表者は相異なる政党に分岐するのであり、民主主義のもとでは、同一の階級がその多数の選択によって統治政党の交替を生ぜしめる[3]。これに対して、独裁を特定の統治形態と解すれば、その主体は個々人かまたは特定の組織となり、これは多数者支配としての民主主義の廃棄であるほかない。この組織がプロレタリア政党だとしても、統治形態のとしての少数者の独裁はプロレタリアの一部による他の部分に対する独裁である[3]。また、個々の階級は、理論的に表象されるような同質的な形成物ではなく、それぞれに内部的分化、対立をふくむ。生活条件の一定のモメントは相異なる階級の成員にも共通に適合するのであり、ブルジョワとプロレタリアの階級対立、階級闘争という図式であらゆる問題を解決しうると信じることははなはだしい一面性に陥るとカウツキーはいう[3]。平等な政治的自由と権利を有するすべての市民が普通選挙によって構成する国民代表議会で、政治的に訓練されたプロレタリアの代表が多数を占めることによってのみ、政治革命が可能となり、社会主義への苦痛なき移行が可能になる。しかし、少数者(プロレタリア政党)の独裁の場合、人民に完全な組織の自由を保障することは自己の権力の崩壊に導くゆえ、反対派の政治的権利を剥奪し、その自由を拘束せざるをえなくなり、反対派の抵抗をよび、内戦を必然化し、社会主義の発展を阻害する[3]。多数(die Masse)を背後にもつレジームは民主主義を守るためにのみ暴力を用いるのであって、それを廃棄するためではない[3]。もしこのレジームが、その最も確実な基礎、強力な道徳的権威の厚い源泉、普通選挙権を除去しようとするならば、それは自殺行為となるとカウツキーはいう[4]

さらにカウツキーは「テロリズムと共産主義」(1919年)で、ドイツでの暴力抗争を避け、平穏でポジティブな創造にいたる唯一の道は民主主義であり、ドイツを統括できる唯一の制度は、労働者レーテではなく、憲法制定議会であると説いた[5]。また、民主主義の排除はボリシェヴィキの原罪で、ロシアの共産主義は兵営社会主義となったと批判した[5]。また「民主主義から国家奴隷制へ」(1921年)では、ボリシェヴィキの特徴は人格の蔑視であり、国家奴隷制がボリシェヴィキ的共産主義の頂点であると批判した[5]。社会との強い協力や、自由な批判なしに、現代国家の多面的かつ巨大な課題は果たされえず、民主主義なしには官僚の腐敗と狭量は増大し、国家の権力手段は腐朽する。これはブルジョワ国家よりもボリシェヴィキ国家にあてはまると指摘した[5]

カウツキーは人民にとっての最良の教育機関は、討論と事実の伝達の全面的自由をその本質的な制度とする民主主義のなかで与えられるのであり、ソビエト権力が行なっている民主主義の排除と出版の自由の破棄は、この人民の教育機関を失うことだと批判した[6]。カウツキーは、無制限の出版の自由によるコントロールのみが、無制限・無統制の統治権力に擦り寄ってくる盗賊、山師、ならず者、嘘つきを監視するが、ソビエト権力はこの最良の監視手段を廃棄しているとし、自由な批判なしには現代国家における官僚主義的腐敗は必然であり、プロレタリア国家においてはこれは一層重要だという[7]。またカウツキーは、出版の自由への抑圧の正当化において、共産党だけが絶対的真理を掌握しているかのようなナイーブな観念をもたらしているが、絶対的真理などはなく、あるのは認識過程だけであって、政党が唯一の救いをもたらす真理を専売し、他の見解を抑圧するのに権力を用いるならば、認識過程も認識能力もあらゆる点で傷つけられると論じた[8]

ボリシェヴィキの反論

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カウツキーに対してレーニンは『プロレタリア革命と背教者カウツキー』(1918年)で彼を「背教者」や「ユダ」などと激しく罵倒し、『国家と革命』第6章でブルジョア政府への入閣を一時的例外的手段として認めた第二インターナショナルの「伸縮自在決議」を例に挙げてその議会主義を日和見主義と批判した。

レーニンはプロレタリアの階級闘争の任務において、搾取者の反乱の鎮圧と内戦は不可欠であり、階級としての搾取者を暴力的に抑圧し[9]、この階級に対して「純粋民主主義」、すなわち平等と自由を破壊すること[10]はプロレタリア独裁の必須の条件であり、歴史がプロレタリア独裁を日程にのぼらしめているときには、すべて真剣な政治問題は、一般に投票ではなく、内乱によって解決されると反論した[11][12]

レーニンは、ブルジョワ共和国における自由と平等とは、商品所有者と資本の自由・平等以外のなにものでもなく、私的所有と商業が残存する限り勤労者にとって真の自由はありえず[13]、資本の抑圧からの労働の解放と矛盾するような自由は欺瞞であると論じた[14][15]。レーニンによれば、社会民主主義者はドイツ憲法制定議会オーストリア憲法制定議会の選挙が民主主義的に実施されているというが、これは嘘であり、「実際には」言論出版集会の手段は資本家地主投機家に握られており、労働者や農民は民主主義から遠ざけられている[16][17]。したがって、ブルジョワからこの自由を奪い取り、出版所を国有化し、労働者農民に公共の印刷所と用紙を利用する平等の権利を保障してはじめて真の民主主義を闘いとることができると反論した[18][17]

ブハーリンは「プロレタリア独裁の理論」(1919)で、トロツキーは「テロリズムと共産主義」(1920)で、ボリシェヴィキによる政治的抑圧を正当化した[12]。トロツキーは帝国主義の時代において、民主主義を無垢な姿で再興しうると考えるのは、あわれむべき反動的夢想と批判した[19]。トロツキーはソビエトでは「山師やならずもの」を処理するうえで「ソビエトのコントロールと党の選別」が機能していると反論した[20]。ブハーリンも、ソビエトは労働者農民へ「現実の自由」を保障していると反論した[17]

著作

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著書(日本語訳)

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b 藤田勇 2007, p. 50-51.
  2. ^ a b c d 藤田勇 2007, p. 54.
  3. ^ a b c d e f 藤田勇 2007, p. 55.
  4. ^ 藤田勇 2007, p. 55-56.
  5. ^ a b c d 藤田勇 2007, p. 56.
  6. ^ 藤田勇 2007, p. 78.
  7. ^ 藤田勇 2007, p. 78-79.
  8. ^ 藤田勇 2007, p. 79.
  9. ^ レーニン全集30巻,p85-6
  10. ^ レーニン全集28巻、p271
  11. ^ 全集29巻p523
  12. ^ a b 藤田勇 2007, p. 57.
  13. ^ 全集29巻p81,31巻p393
  14. ^ 全集29巻p324
  15. ^ 藤田勇 2007, p. 85.
  16. ^ 全集28巻p396-7
  17. ^ a b c 藤田勇 2007, p. 86.
  18. ^ 全集28巻p397,494,29巻96,150
  19. ^ 藤田勇 2007, p. 58.
  20. ^ 藤田勇 2007, p. 88.

参考文献

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  • 藤田勇『自由・民主主義と社会主義 1917-1991』桜井書店、2007年。 

関連文献

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同時代の文献

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  • マルクス・エンゲルス共著『ゴータ綱領批判 エルフルト綱領批判』、後藤洋訳、新日本出版社、2000年9月、ISBN 4406027602
  • レーニン 著、レーニン全集刊行委員会 訳『プロレタリア革命と背教者カウツキー』(国民文庫)、大月書店、1953年3月、ISBN 4272810707
  • レーニン 著、レーニン全集刊行委員会 訳『プロレタリア革命と背教者カウツキー』 レーニン全集 第31巻(1920年4月-12月)(原書第4版)、大月書店、1967年1月30日 第12刷 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明、104-113、239-348頁。 

外部リンク

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