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| ふりがな = みぞぐち けんじ
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| 画像コメント = 1950年代頃
| 画像コメント = 1950年代頃
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| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません -->
| 別名義 =
| 出生地 = {{JPN}}・[[東京市]][[本郷区]][[湯島|湯島新花町]]<ref>[[四方田犬彦]]著『映画監督溝口健二』p.11</ref><ref name="世界">[[佐藤忠男]]著『溝口健二の世界』p.3-20</ref>(現在の[[東京都]][[文京区]])
| 出生地 = {{JPN}}・[[東京市]][[本郷区]][[湯島|湯島新花町]](現在の[[東京都]][[文京区]]湯島
| 死没地 = {{JPN}}・[[京都府]][[京都市]][[上京区]]
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| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
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| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です -->
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| 没日 = 24
| 没日 = 24
| 職業 = [[映画監督]]
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| 活動期間 = [[1923年]] - [[1956年]]
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| 活動内容 = [[1920年]]:[[日活向島撮影所]]に入社<br/>[[1923年]]:監督デビュー<br/>[[1934年]]:第一映画社に参加<br/>[[1953年]]:『[[雨月物語 (映画)|雨月物語]]』で[[ヴェネツィア国際映画祭]][[銀獅子賞]]
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| 主な作品 = 『[[残菊物語]]』<br/>『[[祇園の姉妹]]』<br/>『[[元禄忠臣蔵#映画「元禄忠臣蔵 前編・後編」|元禄忠臣蔵]]』<br/>『[[西鶴一代女]]』<br/>『[[雨月物語 (映画)|雨月物語]]』<br/>『[[山椒大夫#映画|山椒大夫]]』<!--が認める代表作品を入力-->
| 主な作品 = 『[[瀧の白糸#1933年版|瀧の白糸]]』(1933年)<br/>『[[浪華悲歌]]』(1936年)<br/>『[[祇園の姉妹]]』(1936年)<br/>『[[残菊物語#1939年版|残菊物語]]』(1939年)<br/>『[[西鶴一代女]]』(1952年)<br/>『[[雨月物語 (映画)|雨月物語]]』(1953年)<br/>『[[山椒大夫#映画|山椒大夫]]』(1954年)<br/>『[[近松物語]]』(1954年)<!-- 誰もが認める代表作品を記述 -->
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| 日本アカデミー賞 =
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| その他の賞 = '''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''特別賞'''<br />1956年
| その他の賞 = '''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''特別賞'''<br />1956年
| 備考 = [[日本映画監督協会]]会長(1937年 - 1942年・1949年)、同理事長(1950年 - 1955年)
| 備考 =
}}
}}
'''溝口 健二'''(みぞぐち けんじ、[[1898年]][[5月16日]] - [[1956年]][[8月24日]])は、[[日本]]の[[映画監督]]である。[[日本映画]]を代表する監督のひとりで、1920年代から1950年代にわたるキャリアの中で、『[[祇園の姉妹]]』(1936年)、『[[残菊物語#1939年版|残菊物語]]』(1939年)、『[[西鶴一代女]]』(1952年)、『[[雨月物語 (映画)|雨月物語]]』(1953年)、『[[山椒大夫#映画|山椒大夫]]』(1954年)など約90本の作品を監督した。ワンシーン・ワンショットや移動撮影を用いた映像表現と完全主義的な演出で、社会や男性の犠牲となる女性の姿をリアルに描いたことで知られている。[[小津安二郎]]や[[黒澤明]]とともに国際的にも高い評価を受けており、1950年代には[[ヴェネツィア国際映画祭]]で作品が3年連続で受賞し、[[フランス]]の[[ヌーヴェルヴァーグ]]の監督などにも影響を与えた。
'''溝口 健二'''(みぞぐち けんじ、[[1898年]][[5月16日]] - [[1956年]][[8月24日]])は、[[日本]]の[[映画監督]]。


== 生涯 ==
女性映画の巨匠<ref>[[佐藤忠男]]著『日本の映画人 日本映画の創造者たち』p.581</ref> と呼ばれ、一貫して虐げられた女性の姿を冷徹な[[リアリズム]]で描いている。[[サイレント映画|サイレント期]]は下町情緒を下敷きとした作品で声価を高め、戦中・戦後は芸道ものや文芸映画でも独自の境地を作り出した。[[完璧主義]]ゆえの妥協を許さない演出と、[[長回し]]の手法を用いた撮影が特徴的である。[[黒澤明]]、[[小津安二郎]]、[[成瀬巳喜男]]らと共に国際的に高い評価を受けた監督であり、[[ヴェネツィア国際映画祭]]では作品が3年連続で受賞している。また、[[ジャン=リュック・ゴダール]]を始め[[ヌーベルバーグ]]の若い映画作家を中心に、国内外の映画人に多大な影響を与えた。代表作に『[[祇園の姉妹]]』『[[西鶴一代女]]』『[[雨月物語 (映画)|雨月物語]]』など。[[日本映画監督協会]]会員。
=== 生い立ち ===
[[1898年]][[5月16日]]、[[東京市]][[本郷区]][[湯島|湯島新花町]]11番地(現在の[[東京都]][[文京区]]湯島2丁目辺り)に、父・善太郎と母・まさの長男として生まれた{{Sfn|佐藤|2006|p=11}}<ref name="別冊太陽年譜">本地陽彦「溝口健二・年譜」({{Harvnb|別冊太陽|1998|pp=185-191}})</ref>。3人姉弟の2番目で、7歳上の姉に寿々、7歳下の弟に善男がいる<ref name="集成年譜">[[田中眞澄]]編「溝口健二年譜」({{Harvnb|集成|1991|pp=318-325}})</ref>。父方の祖父の彦太郎は、[[明治維新]]後に[[神田 (千代田区)|神田]]で[[手配師|請負業]]を営み、[[日清戦争]]や[[義和団の乱|北清事変]]では軍夫を募集して戦地に送っていた{{Sfn|岸|1970|p=570}}。善太郎は大工{{Sfn|岸|1970|p=571}}(屋根葺職人という説もある{{Sfn|新藤|1979|p=87}})で、一儲けしようと折からの[[日露戦争]]を当て込んで軍隊用[[合羽|雨合羽]]の製造事業を始めたが、いざ売り出そうとした時に戦争が終結したため失敗した{{Sfn|岸|1970|p=571}}。まさは[[御殿医]]の家の娘だったが、夫に忠実に苦労続きの生活に耐え、やがて病に倒れた{{Sfn|佐藤|2006|p=11}}。善太郎の事業失敗で借財がかさみ、家も差し押さえられたため、[[1905年]]に一家は浅草玉姫町(現在の[[台東区]][[清川 (台東区)|清川]]辺り)に引っ越した<ref name="別冊太陽年譜"/>。この時期の溝口家は貧窮のどん底生活を送り、口減らしのために寿々は養女に出された{{Sfn|岸|1970|p=571}}。


1905年に溝口は[[私塾]]の田川学校に入学し、[[1907年]]には近所に開校した[[台東区立石浜小学校|石浜小学校]]へ転入した<ref name="別冊太陽年譜"/>。同級生には後年に仕事を共にする[[川口松太郎]]がいた{{Sfn|新藤|1979|p=88}}。[[1911年]]秋、小学6年生の溝口は[[岩手県]][[盛岡市]]の親戚のもとへ預けられ、翌[[1912年]]に同地の小学校で卒業するまでの約半年を過ごしたが、盛岡へ預けられた理由は溝口にも分からなかったという{{Sfn|岸|1970|pp=572-573}}。東京の実家に戻ると中学進学を希望したが、父の反対で叶わなかった。養子の口もいくつかあったがいずれも上手くいかず、退屈な毎日を送っているうちに[[リウマチ]]を患い、約1年間の闘病生活を送った{{Sfn|岸|1970|pp=572-573}}。溝口は一家を貧困に陥れ、母を苦労させた無能力な父を憎むようになり、その関係は悪化していった{{Sfn|新藤|1979|p=88}}{{Sfn|岸|1970|pp=572-573}}{{Refnest|group="注"|映画評論家の[[岸松雄]]によると、溝口の監督作『[[浪華悲歌]]』(1936年)に登場する主人公の頑固で卑屈な父親は、溝口の父をモデルにしているという{{Sfn|岸|1970|pp=572-573}}。}}。この頃、寿々は養家から[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の芸者屋に奉公に出され、やがて[[半玉]]になると客で[[子爵]]の[[松平忠正 (藤井松平家)|松平忠正]]に落籍され、妾宅に囲われる身となった(後に正妻となる{{Refnest|group="注"|松平忠正は寿々を深く愛したが、当時は華族の結婚は[[宮内庁]]の許可が必要で、芸者である寿々との結婚は許されなかった。寿々は忠正の妾として4人の子を産んだが、独身だった忠正は他の華族から正妻を迎えさせられた{{Sfn|佐藤|2006|pp=14-16}}。その正妻は1926年に死去したが、寿々の妾という地位は変わらなかった。[[1947年]]に華族制度が廃止され自由結婚が認められると、忠正と寿々は正式に結婚した{{Sfn|佐藤|2006|p=73}}。}}){{Sfn|岸|1970|pp=572-573}}{{Sfn|新藤|1979|p=90}}。一家は寿々からの仕送りによって経済的に支えられ、暮らしも少しは楽になった<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Sfn|岸|1970|pp=572-573}}。
==来歴==
===生い立ち===
[[1898年]](明治31年)[[5月16日]]、[[東京市]][[本郷区]][[湯島|湯島新花町]]11番地(現在の[[東京都]][[文京区]])に、父・善太郎と母・まさの長男として生まれる<ref name="世界"/><ref name="本編">[[ある映画監督の生涯 溝口健二の記録]]本編より</ref>。3姉弟の2番目で、3歳上の姉に寿々、7歳下の弟に善男{{Refnest|group="注釈"|弟の善男は、[[法政大学]]英文科を卒業して[[東芝]]に勤めており、[[マルクス主義]]に傾倒していた。[[1938年]](昭和13年)に33歳で亡くなっている<ref>佐藤忠男著『溝口健二の世界』p.131</ref>}}がいる。父の善太郎は大工<ref name="集成">『溝口健二集成』p.318</ref>(屋根葺き職人<ref name="ある">[[新藤兼人]]著『ある映画監督 溝口健二と日本映画』p.87-88</ref>、請負業とする説もある<ref group="注釈">佐藤忠男著『溝口健二の世界』では、「溝口家は代々、[[新橋|新橋加賀町]]で請負業をしていた」と書かれている</ref>)で、[[日露戦争]]時に軍隊用雨合羽の製造をしていたが、戦争終結により事業は失敗。差押えを受けて、一家は[[浅草|浅草玉姫町]]に引っ越すことになった<ref name="集成"/>。


[[1913年]]、溝口は絵を描くのが好きだったことから、[[浅草]]の浴衣の図案屋に弟子入りした。同じ図案屋仲間の弟子には、[[松竹蒲田撮影所]]の監督で[[小津安二郎]]の師匠となる[[大久保忠素]]がいた。しかし、浴衣の図案に物足りなさを感じ、[[日本橋浜町]]の模様絵師に弟子入りした{{Sfn|岸|1970|pp=572-573}}。この頃、一家は寿々が父の隠居所としてあてがった日本橋新場橋(現在の日本橋と[[日本橋兜町|兜町]]の境)の家へ転居した<ref name="別冊太陽年譜"/>。[[1914年]]12月には貧苦の家庭で苦労し続けた母が亡くなり、それにより溝口の父に対する反発はさらに強まった{{Sfn|岸|1970|pp=572-573}}{{Sfn|新藤|1979|p=90}}。やがて溝口は本格的に画家の道を志し、[[1916年]]に[[黒田清輝]]の主宰する[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の葵橋洋画研究所に入り、1年間にわたり洋画の基礎を学んだ<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Refnest|group="注"|当時葵橋洋画研究所で塾頭をしていたのが[[和田三造]]であり、後年に溝口はその関係で『[[新・平家物語 (映画)|新・平家物語]]』(1955年)の色彩監修に和田を起用している{{Sfn|岸|1970|pp=572-573}}。}}。この頃、研究所近くの劇場[[ローヤル館|ローヤル館]]で[[ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシー|ローシー]]が[[浅草オペラ|オペラ]]を上演しており、その背景画を研究所が引き受けていたことから、溝口もそれを手伝っているうちにオペラに嵌まり、浅草オペラに通い詰めた{{Sfn|佐藤|2006|pp=14-16}}。また、[[寄席]]で[[講談]]や[[落語]]に親しむなど江戸趣味に凝り始め、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]、[[エミール・ゾラ|ゾラ]]、[[ギ・ド・モーパッサン|モーパッサン]]などの外国文学や[[尾崎紅葉]]、[[夏目漱石]]、[[泉鏡花]]、[[永井荷風]]らの小説を読み漁った{{Sfn|佐藤|2006|pp=14-16}}{{Sfn|岸|1970|p=574}}。
[[1905年]](明治38年)、[[私塾]]の田川学校に入学<ref name="集成"/>。一家の窮乏の口減らしのため、姉の寿々は養女に出される<ref>『溝口健二・全作品解説』p.389</ref>。寿々は養家から[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の芸者屋「三河屋」に奉公に出せられ、[[半玉]]となり、客の[[松平忠正 (藤井松平家)|松平忠正]][[子爵]]<ref group="注釈">松平忠正(1886年 - 1963年)は、[[松平忠礼]]の弟[[土井忠直]]の次男で、忠礼の養子となった</ref> に落籍(後に正式に結婚し松平寿々となる)され一家の家計を助けた<ref name="世界"/><ref name="集成"/><ref>四方田犬彦著『映画監督溝口健二』p.256</ref>。[[1907年]](明治40年)、同年開校の[[台東区立石浜小学校|石浜小学校]]に入学。同級生には後年に仕事を共にする[[川口松太郎]]がいた。6年生の時、[[盛岡市|盛岡]]で[[薬剤師]]をしている親戚に預けられ、そこで小学校を卒業した<ref name="ある"/><ref name="世界389">佐藤忠男著『溝口健二の世界』p.389</ref>。[[1912年]](大正元年)、東京に戻ったが、[[関節リウマチ|リウマチ]]に罹り1年間闘病していた<ref name="集成"/><ref name="世界389"/>。


洋画研究所を出てからも絵の勉強は続けていたが、それだけでは食っていけないため、花柳界育ちで顔の広い寿々の口利きで、[[1917年]]に[[名古屋市|名古屋]]の陶器会社の図案部に職を得た。しかし、溝口はどうにも働く気にはなれず、入社翌日に東京へ舞い戻った{{Sfn|岸|1970|p=574}}。翌[[1918年]]、[[神戸又新日報|神戸又新日報社]]で広告の図案係を募集していることを知り、[[銀座]]にある東京支社に志願すると簡単に採用され、月給40円で[[神戸市|神戸]]の本社へ赴任した{{Sfn|岸|1970|p=575}}。溝口は広告取りなどの仕事をする一方で、自作の[[短歌]]を紙面に載せたり、当時盛んだった[[新劇]]に熱を上げたりしていた<ref name="別冊太陽年譜"/><ref name="集成年譜"/>。この頃は気の合った仲間3人と[[関西学院大学]]前に一戸を借り、「三昧荘」と名付けて合宿していた{{Sfn|岸|1970|p=575}}。しかし、神戸又新日報も1年で辞めてしまい、東京に戻ると寿々の家に居候した<ref name="別冊太陽年譜"/>。20歳を過ぎても定職がない溝口を寿々たちは心配したが、溝口は仕事を探そうともせず、図書館や美術館に通ったり、浅草でオペラや[[活動写真]]を見物したりして日々を過ごした{{Sfn|佐藤|2006|pp=14-16}}{{Sfn|岸|1970|pp=576-577}}。
[[1913年]](大正2年)満15歳の時、浴衣の図案屋に弟子入り。同じ図案屋仲間の弟子に[[大久保忠素]]がいた<ref name="集成"/><ref name="映画術">[[貴田庄]]著『小津安二郎と映画術』</ref>。その後[[日本橋浜町|浜町]]の模様絵師に弟子入りし<ref name="世界389"/>、[[1916年]](大正5年)、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂溜池]]の葵橋洋画研究所([[黒田清輝]]主宰・[[和田三造]]塾頭)に入って、洋画の基礎を学んだ<ref name="集成"/>。この時、研究所近くの[[ローヤル館]]で[[ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシー]]が[[浅草オペラ|オペラ]]を上演しており、その背景画を研究所が引き受けていたので、溝口もそれを手伝ううちに浅草オペラに夢中になった<ref name="世界"/>。また、この頃から[[落語]]や[[講談]]などの江戸趣味に凝り始め、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]、[[エミール・ゾラ|ゾラ]]、[[ギ・ド・モーパッサン|モーパッサン]]などの外国文学や、[[尾崎紅葉]]、[[夏目漱石]]、[[泉鏡花]]、[[永井荷風]]らの本を読みあさっていた<ref name="世界"/><ref name="集成"/>。


=== 映画界入り ===
[[1917年]](大正6年)、姉の計らいで[[名古屋]]の陶器会社の図案部に入ることになるが、働く気にはなれず、入社翌日には東京に戻った<ref name="集成"/><ref name="映画術"/>。[[1918年]](大正7年)、[[神戸又新日報|神戸又新日報社]]広告部の図案係に就職するが、僅か1年で退職した。
[[1920年]]、溝口は[[向島 (墨田区)|向島]]で[[琵琶]]を教えていた友人の所へ遊びに行くうちに、琵琶を習いに来ていた[[日活向島撮影所]]の俳優の[[富岡正]]と親しくなり、富岡の手引きで向島撮影所に出入りするようになった。そのうち新進監督だった[[若山治]]と知り合い、若山の撮影台本の清書などを手伝っていたが、同年5月に若山に勧められるまま向島撮影所に入社した{{Sfn|岸|1970|pp=576-577}}。当時、映画の仕事は社会的に低く見られていたため、父や姉は入社にあまり賛成しなかったが、溝口がどうしても入りたいと言ったため、ようやく許可が下りた{{Sfn|佐藤|2006|p=17}}。溝口ははじめ俳優を志望していたが、最古参監督の[[小口忠]]の監督助手に入れられ、俳優の手配をしたり、毎日スタッフの弁当の伝票を書いたりするなどの雑用もこなした{{Sfn|岸|1970|pp=576-577}}。[[1922年]]には[[田中栄三]]監督の『[[京屋襟店]]』で助監督につき、田中にその能力を認められた<ref name="集成年譜"/>。しかし、同年11月の『京屋襟店』完成試写後に13人の所属俳優と[[阪田重則]]などの監督が連袂退社するという騒動が起き、その前後には小口も日活を退社したため、スタッフが手薄になった。溝口はこうした状況の中で、田中の推挙により監督昇進を果たした<ref name="田中栄三">[[田中栄三]]「第一回作品の頃」(『キネマ旬報』1956年10月上旬号)。{{Harvnb|集成|1991|pp=153-154}}に所収</ref>{{Sfn|岸|1970|pp=578-579}}。


[[1923年]]2月、溝口は若山の脚本による『[[愛に甦る日]]』で監督デビューした<ref name="別冊太陽年譜"/>。同月には監督2作目の『故郷』を発表したが、[[日本における検閲|検閲]]でズタズタにカットされたため、やむなく琵琶劇をつなぎに入れて公開した{{Refnest|group="注"|溝口の回想によると、検閲でカットされ琵琶劇を入れて公開した作品は『愛に甦る日』であるとし、「農民が金持に向って騒ぐところなんかがあるのでね、警視庁に呼びつけられて切られてしまいましたよ」と述べている<ref name="自作を語る">「溝口健二・自作を語る」(『キネマ旬報』1954年1月1日号)。{{Harvnb|著作集|2013|pp=357-371}}に所収</ref>。しかし、映画研究者の佐相勉は、「農民が金持に向って騒ぐ」場面があるのは『愛に甦る日』ではなく『故郷』の方であり、溝口の回想は記憶違いであるとしている{{Sfn|佐相|2001|pp=28-29}}。なお、溝口は『故郷』について「よく覚えていない」と述べている<ref name="自作を語る"/>。}}。溝口は5月公開の『敗残の唄は悲し』で初めて注目され、7月公開の『霧の港』で新進監督としての評価を得た<ref name="別冊太陽年譜"/>。同年9月1日には[[関東大震災]]が発生し、それにより溝口の自宅は焼失し、父や甥とともに向島撮影所に避難した{{Sfn|岸|1970|pp=580-581}}。撮影所は軽い被害を受けただけですみ、溝口は早速会社の命令でカメラマンの気賀靖吾とともに震災後の市内の実況フィルムを撮影し、次に震災を題材にした劇映画『廃墟の中』を監督した{{Sfn|岸|1970|pp=580-581}}{{Sfn|佐相|2001|p=218}}。しかし、向島撮影所は閉鎖と決まり、11月に溝口を含む所属者たちは[[京都市|京都]]の[[日活撮影所|大将軍撮影所]]に移った{{Sfn|岸|1970|pp=580-581}}。大将軍時代は1ヶ月に1本のペースで幅広いジャンルの作品を撮影したが、そのほとんどが不評で、スランプの時期と言われた<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Sfn|映畫読本|1997|p=7}}。
===日活時代===
[[1920年]](大正9年)、友人の[[琵琶]]の弟子だった[[日活]]の俳優・[[富岡正]]と親しくなり、[[日活向島撮影所]]に出入りするうち、[[若山治]]の知遇を得、同撮影所に入社した<ref name="集成"/>。俳優志願で入社したが、[[小口忠]]の助監督に就くことになり、やがて[[田中栄三]]の助監督として、彼の代表作である『[[京屋襟店]]』などの作品を担当した。


この頃の溝口は、毎夜のごとく[[祇園]]や[[先斗町]]、[[木屋町通]]などで飲み歩いていたが、[[1925年]]2月頃に木屋町の[[やとな]]だった一条百合子と親しくなり、やがて同棲生活を始めた<ref name="集成年譜"/>{{Sfn|岸|1970|pp=586-587}}。しかし、百合子とは痴話喧嘩が絶えず{{Sfn|岸|1970|pp=586-587}}、同年5月末に『赫い夕陽に照らされて』の[[ロケーション撮影|ロケ撮影]]から帰宅後、百合子に背中を剃刀で斬りつけられた<ref name="集成年譜"/>{{Sfn|新藤|1979|pp=55-59}}。傷は大したことがなくて命に別状はなかったが、この刀傷沙汰はスキャンダルとして新聞の[[三面記事]]に書き立てられたため、『赫い夕陽に照らされて』の監督を降ろされ{{Refnest|group="注"|『赫い夕陽に照らされて』は[[三枝源次郎]]に監督を交代して完成した{{Sfn|岸|1970|pp=588-589}}。}}、さらに会社から3ヶ月の謹慎処分を受けた<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Sfn|新藤|1979|pp=55-59}}{{Sfn|岸|1970|pp=588-589}}。溝口は起訴を免れて東京へ行った百合子を追い、ヨリを戻したが、結局別れて京都に戻り、9月に日活に復社した<ref name="集成年譜"/>{{Sfn|岸|1970|pp=588-589}}{{Refnest|group="注"|岸松雄によると、百合子はその後生活に困って[[洲崎 (東京都)|洲崎]]の娼妓に身を沈めたが、以後も不幸な生活が続き、数年後に[[長野県]]で自殺したという{{Sfn|岸|1970|pp=588-589}}。}}。翌[[1926年]]公開の『[[紙人形春の囁き]]』と『狂恋の女師匠』はスランプを脱した作品として高く評価され、前者はこの年に始まった[[キネマ旬報]]の日本映画ベスト・テンで7位に選ばれた<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Sfn|映畫読本|1997|p=8}}。
[[1923年]](大正12年)2月、若山治のオリジナル脚本による『[[愛に甦へる日 (1923年の映画)|愛に甦る日]]』で24歳にして映画監督デビューを果たしたが、貧乏生活の描写が余りにも写実的過ぎたため[[検閲]]で大幅にカットされ、やむなくつなぎで[[琵琶]]劇を入れて公開したという。同年だけでも11本の監督作を発表しており、漁村を舞台としたメロドラマ『敗残の唄は悲し』や、[[アルセーヌ・ルパン|ルパン]]を翻案した探偵劇『[[813 (小説)#1923年版|813]]』、[[表現主義]]風の『血と霊』など様々なジャンルの作品を作っている。同年[[9月1日]]、[[関東大震災]]が発生。その影響で[[京都]]の[[日活撮影所|日活大将軍撮影所]]に移り、『峠の唄』『大地は微笑む 第一篇』などの佳作を手がけた。


1926年末、溝口は俳優の[[中野英治]]に連れられて行った大阪のダンスホールで、ダンサーの嵯峨千恵子(本名は田島かね、通称千恵子)と知り合い、次第に親密な関係になった{{Sfn|新藤|1979|pp=66-67}}{{Sfn|溝口健二の記録|1975|p=124}}<ref name="永田雅一">鈴木晰也「溝口健二と永田雅一」({{Harvnb|別冊太陽|1998|pp=89-92}})</ref>。しかし、千恵子にはオペラ歌手の夫がおり、彼を世話していた[[ヤクザ]]の親分から呼び出しがかかった。青ざめた溝口は、撮影所庶務課員で[[笹井末三郎]]とも親しかった[[永田雅一]]の力を借りて千恵子の身辺を清算し、翌[[1927年]]8月に永田の媒酌で結婚した<ref name="永田雅一"/>{{Sfn|岸|1970|pp=591-592}}。この年から[[1928年]]にかけて溝口の作品数は減り、体調を崩すこともしばしばあった<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Sfn|佐相|2008|p=228}}。1928年5月には撮影所が大将軍から[[日活撮影所|太秦]]に移転し、溝口はその新撮影所の脚本部長に就任し、しばらく監督業から離れた<ref name="集成年譜"/>{{Sfn|佐相|2008|p=228}}。9月には[[昭和天皇]]の御大典記念映画を監督する話が出たが、撮影所の都合で延期となり、次に溝口初の時代劇を[[大河内傅次郎]]主演で撮る話も出たが、これも実現しなかった{{Sfn|佐相|2008|p=228}}。[[1929年]]1月公開の[[泉鏡花]]原作『[[日本橋 (戯曲)#1929年版|日本橋]]』でようやく監督に戻り、同年は主題歌と共にヒットした『[[東京行進曲]]』や、当時隆盛した左翼思想を反映した内容の『[[都会交響楽]]』で成功を収めた<ref name="集成年譜"/>。
[[1925年]](大正14年)5月、痴話喧嘩のもつれから、同棲中の一条百合子(別れた後、貧しさのため娼婦となる)に背中を剃刀で切られるという事件が起きる。丁度『赤い夕日に照らされて』の撮影中の出来事であり、この事件で作品の監督を降ろされ、しばらく謹慎処分となる。しかし、9月には撮影所に復帰した。[[1926年]](大正15年)、『[[紙人形春の囁き]]』『[[狂恋の女師匠]]』などで下町情緒を描き、[[女性映画]]で独特の感覚を発揮していった。[[1927年]](昭和2年)、ダンサーの嵯峨千枝子と結婚。


=== トーキー時代 ===
[[1929年]](昭和4年)には、左翼思想の高揚に乗じて『[[都会交響楽]]』などの[[傾向映画]]を作って、リアリズム追求に邁進し、翌[[1930年]](昭和5年)製作の『[[唐人お吉 (小説)#1930年版|唐人お吉]]』は大ヒットした。同年にはパートトーキーの『[[藤原義江のふるさと]]』を発表するが、技術的に拙く失敗作となった。
[[File:Naniwa erejii poster.jpg|thumb|200px|戦前期の溝口の代表作のひとつである『[[浪華悲歌]]』(1936年)のポスター。]]
1929年5月以降、日本では[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[トーキー]]が公開され、早速国内でもトーキーが作られ始めた{{Sfn|映畫読本|1997|p=90}}。[[1930年]]に溝口もミナ・トーキー方式を使用して、部分的に歌やセリフを付けたパート・トーキー作品『[[藤原義江のふるさと]]』を撮影したが、雑音が多くて技術的には失敗した<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Sfn|映畫読本|1997|p=90}}。[[1932年]]には自身初のオール・トーキー作品『時の氏神』を撮影したが、撮影終了直後の4月4日に日活を退社し、[[白井信太郎]]の誘いで[[新興キネマ]]に移籍した<ref name="別冊太陽年譜"/>。同社で最初の仕事は、[[入江たか子]]の独立プロである[[入江ぷろだくしょん|入江プロダクション]]の第一回作品『満蒙建国の黎明』(1932年)で、2か月間に渡り[[満州]]各地でロケ撮影をしたが、編集作業が手に負えぬほど無茶苦茶に撮ってしまい、途中で編集を放棄して雲隠れしたという<ref name="集成年譜"/>{{Sfn|新藤|1979|pp=116-117}}。その次に再び入江プロで鏡花原作の『[[瀧の白糸#1933年版|瀧の白糸]]』(1933年)を撮影した。この作品はキネマ旬報ベスト・テンで2位に選ばれ、[[サイレント映画]]時代の溝口のピークとなった{{Sfn|依田|1996|p=41}}{{Sfn|岸|1970|p=599}}。


[[1934年]]3月、溝口は新興キネマと契約が切れたことで退社し、日活の製作部長だった永田雅一の要請で[[日活撮影所#多摩川撮影所|日活多摩川撮影所]]に入社した<ref name="集成年譜"/>{{Sfn|岸|1970|p=599}}。同社では[[山田五十鈴]]主演の『[[愛憎峠]]』を撮ったのみで、8月に永田が日活を退社すると溝口も行動を共にし、9月に永田らと[[第一映画社]]の創立に参加した<ref name="集成年譜"/>。同社では鏡花原作の『[[折鶴お千]]』(1935年)をはじめ、『マリアのお雪』『[[虞美人草 (映画)#1935年版|虞美人草]]』(1935年)などを撮影したが、いずれも低調な評価で再びスランプに突入した{{Sfn|新藤|1979|pp=107, 112, 125-127}}。[[1936年]]公開の『[[浪華悲歌]]』と『[[祇園の姉妹]]』では批評家から高い評価を受け、キネマ旬報ベスト・テンでは前者が3位、後者が1位に選ばれ、スランプを脱することができた{{Sfn|岸|1970|pp=600-603}}。[[岸松雄]]はこの2作を「日本映画史上に輝かしい金字塔を打ち立てた」作品と評し{{Sfn|岸|1970|pp=600-603}}、[[佐藤忠男]]は「それまでもベテランとして尊敬されていた溝口を、さらに巨匠という最高級の呼び名で呼ばれる存在にした」作品と述べている{{Sfn|佐藤|2006|pp=118, 124}}。
===新興キネマ・松竹時代===
[[1932年]](昭和7年)、日活を辞めて[[新興キネマ]]に入社。同社第1作は[[入江ぷろだくしょん]]と提携した『満蒙建国の黎明』で、[[満州]]で2カ月間[[ロケーション撮影]]を行った<ref>四方田犬彦著『映画監督溝口健二』p.100</ref> 国策映画だが、興行的には大失敗した。[[1933年]](昭和8年)、『[[日本橋 (戯曲)#1929年版|日本橋]]』に続く泉鏡花作品の映画化となる『[[瀧の白糸#1933年版|瀧の白糸]]』が[[キネマ旬報ベストテン]]第2位にランクインされ、興行的にも成功、溝口のサイレント期の傑作となった。[[1934年]](昭和9年)の『神風連』を最後に新興キネマを退社して[[日活多摩川撮影所]]で『[[愛憎峠]]』を撮るが、日活多摩川での作品はこの1作のみとなった。


1936年3月、数十人の日本映画の代表的監督が、互いの親睦を図るとともに、日本映画の向上に尽くす目的で[[日本映画監督協会]]を結成した{{Sfn|田中|2003|p=145}}。溝口もその創立メンバーに名を連ね、これを機に[[小津安二郎]]、[[清水宏 (映画監督)|清水宏]]、[[山中貞雄]]などと親交を結ぶようになった{{Sfn|田中|2003|p=145}}{{Sfn|岸|1970|pp=604-606}}。同年9月、第一映画社が経営難で解散し、溝口は翌月に上京して新興キネマ大泉撮影所に入社し、[[山路ふみ子]]主演の『[[愛怨峡]]』(1937年)、『露営の歌』『あゝ故郷』(1938年)を撮影した<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Sfn|岸|1970|pp=600-603}}。その間の[[1937年]]6月には、日本映画監督協会初代会長の[[村田実]]が死去し、溝口はその後任として2代目会長に就任した<ref name="別冊太陽年譜"/>。[[1939年]]には白井信太郎に招かれて[[松竹京都撮影所]]で1本撮ることになり、[[村松梢風]]原作の『[[残菊物語]]』を監督した。この作品はキネマ旬報ベスト・テンで2位に選ばれた{{Sfn|岸|1970|pp=604-606}}。同年秋には清水宏、[[内田吐夢]]、[[熊谷久虎]]らとともにキネマ旬報創刊20周年記念の満州視察団に加わり、帰国後の12月には内閣の映画委員に任命された<ref name="集成年譜"/>{{Sfn|岸|1970|pp=604-606}}。
同年9月、日活を退社した[[永田雅一]]が設立した[[第一映画社]]に参加。[[山田五十鈴]]主演・泉鏡花原作の『[[折鶴お千]]』などを経て[[1936年]](昭和11年)、[[依田義賢]]とはじめてコンビを組んだ『[[浪華悲歌]]』そして、祇園を舞台に対称的な性格の芸者姉妹をリアリズムに徹して描いた『[[祇園の姉妹]]』を発表し、戦前の代表作となった。同年、永田の新興キネマ入りによって第一映画社は解散、溝口も首脳部や他のスタッフと共に新興キネマに入った。


=== 松竹時代 ===
[[1937年]](昭和12年)、[[日本映画監督協会]]の2代目理事長に就任し、[[1955年]](昭和30年)まで務めた([[1943年]](昭和18年)に一旦解散し、[[1949年]](昭和24年)に再結成されている)。
1939年末に溝口は新興キネマを退社し、翌[[1940年]]に[[松竹]]と契約を結んだ<ref name="別冊太陽年譜"/>。溝口は早速『渡邊崋山』と『五代友厚』の企画を提出したが、どちらも会社側が乗らずに中止した{{Sfn|岸|1970|p=607}}。同年3月、松竹は時代劇映画の質的向上のため、封切日を定めずに時間をかけて秀作を製作する[[特作プロダクション]]を設立し、溝口はその1作目で[[田中絹代]]主演の『[[浪花女]]』(1940年)と、2作目で[[中村鴈治郎 (初代)|初代中村鴈治郎]]の追善記念映画『[[芸道一代男 (映画)|芸道一代男]]』(1941年)を撮影した<ref name="別冊太陽年譜"/>。1940年11月には内閣映画委員として、[[紀元二千六百年記念行事|紀元二千六百年式典]]に参列した{{Sfn|岸|1970|pp=608-609}}。この頃の溝口は急激に愛国心が高まり、日本民族の精神を鼓舞するような真の国民映画を撮りたいという熱意から、[[1941年]]に[[真山青果]]原作、[[前進座]]のユニット出演による『[[元禄忠臣蔵#映画「元禄忠臣蔵 前編・後編」|元禄忠臣蔵]]』前後篇(前篇は1941年、後篇は1942年公開)を撮影した{{Sfn|岸|1970|pp=608-609}}<ref name="元禄忠臣蔵">四方田犬彦「『元禄忠臣蔵』における女性的なるもの」({{Harvnb|映画監督溝口健二|1999|pp=177-178}})</ref>。この作品は[[戦時体制]]下の映画会社の統合によって特作プロが合流した[[興亜映画]](同年末に松竹に吸収された)で製作され、溝口が美術や考証を徹底したことで莫大な製作費がかかったが、興行的にも批評的にも成功を収めることはできなかった<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Sfn|岸|1970|pp=608-609}}<ref name="元禄忠臣蔵"/>。


『元禄忠臣蔵 後篇』を撮影中の1941年12月、溝口の妻の千恵子が精神に異状をきたした{{Sfn|新藤|1979|pp=63-65}}{{Sfn|岸|1970|p=610}}。千恵子は勝気で気性の激しい女性であり{{Sfn|佐藤|2006|pp=164-165}}、溝口にぞんざいな口を利いたり、月給を全部取り上げて小遣いもろくに与えなかったりしたが、その一方で溝口の作品を客観的かつ正確に批評してくれる人物でもあった{{Sfn|岸|1970|p=610}}{{Sfn|新藤|1979|pp=70-75}}。2人は時には激しく喧嘩することもあったが、溝口は妻に弱く、精神的に頼りきっていた{{Sfn|新藤|1979|pp=70-75}}。そんな妻の病気を知った溝口は号泣したが、妻を精神病院に入院させるとすぐに撮影現場に戻り、何事もなかったかのように撮影を続行した{{Sfn|新藤|1979|pp=63-65}}。溝口は妻の病気の原因が自分にあると思い込み、その後も悩み続けた{{Sfn|新藤|1979|pp=70-75}}。千恵子は終生病院を出ることはなかったが{{Sfn|佐藤|2006|pp=164-165}}、溝口はその後千恵子の弟の未亡人である田島ふじを事実上の妻に迎え、その2人の娘を養女とした{{Sfn|岸|1970|p=618}}。
新興キネマでは[[山路ふみ子]]主演の『愛怨峡』など3本を撮り、後[[松竹京都撮影所|松竹下加茂撮影所]]に移って[[村松梢風]]原作の『[[残菊物語]]』、[[田中絹代]]を初めて自作に迎えた『[[浪花女]]』、川口松太郎原作の『[[芸道一代男 (映画)|芸道一代男]]』といった芸道ものを製作。この3作は「芸道三部作」<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%BA%9D%E5%8F%A3%E5%81%A5%E4%BA%8C-138732#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29 世界大百科事典 第2版「溝口健二」の項]</ref> と呼ばれ、長回しのショットを基調とした演出スタイルをここで完成させていった。


[[1942年]]、溝口が会長を務める日本映画監督協会が戦時統合で解散し、国策団体の大日本映画協会に合流することになり、溝口は同協会の理事に就任した{{Sfn|田中|2003|pp=401-402}}{{Sfn|岸|1970|pp=612-615}}。この頃の溝口の映画作りは難航し、[[織田作之助]]の脚本で大阪物を作ろうとしたり、[[大化の改新]]を描く作品を検討したりしたが、いずれも実現はしなかった<ref name="集成年譜"/>。[[1943年]]、軍部の要請で松竹が企画した日華親善映画『甦へる山河』の監督を務めることになり、[[上海]]へ約1ヶ月間の視察旅行をした{{Sfn|岸|1970|pp=612-615}}。この視察旅行は軍の委嘱によるものだったが、溝口は軍属としての待遇が[[将官]]待遇ではなく[[佐官]]であることに不満を表明し、「上海の陸軍報道部長が大佐であるのに、溝口が将官待遇では命令が出せない」と言われて納得したという{{Sfn|岸|1970|pp=612-615}}{{Sfn|新藤|1979|pp=198-200}}。しかし、この作品もロケの困難さや製作費がかかりすぎるなどの理由で製作延期となった{{Sfn|岸|1970|pp=612-615}}。その後は戦局が大きく傾き、物資窮乏で劇映画の使用フィルムが制限される中で、『団十郎三代』『宮本武蔵』(1944年)、『名刀美女丸』(1945年)といった1時間程度の中編を撮影し、さらには[[情報局]]募集[[国民歌]]の宣伝映画『必勝歌』(1945年)を共同監督したが、いずれの作品も失敗作と見なされている<ref name="元禄忠臣蔵"/>{{Sfn|岸|1970|pp=612-615}}{{Sfn|新藤|1979|pp=157-158}}。
[[1941年]](昭和16年)から[[真山青果]]原作の『[[元禄忠臣蔵#映画「元禄忠臣蔵 前編・後編」|元禄忠臣蔵]]』前後編を製作する。同作では厳密な時代考証を行ったり、松の廊下を原寸大に再現するなど完璧主義による映画製作が行われ、結果長い撮影期間と破格の費用をかけて完成された。作品は文部大臣特別賞を受けたものの興行的には大失敗するという苦汁を嘗め、これを機に溝口は長い[[スランプ]]期を経験することになる。


終戦後の[[1946年]]、溝口は人手不足だった[[松竹大船撮影所]]に呼ばれて『女性の勝利』を撮影した<ref name="集成年譜"/>。同年4月には松竹従業員組合の委員長に選出されたが、就任の挨拶でいきなり「この後、諸君に命令いたします」と言い、組合員たちを唖然とさせたという<ref name="集成年譜"/>{{Sfn|依田|1996|p=142}}。結局、溝口はすぐに組合の仕事から手を引き、京都に戻って『[[歌麿をめぐる五人の女]]』(1946年)、『[[女優須磨子の恋]]』(1947年)を撮影したが、いずれも不評で戦中からのスランプが続いた{{Sfn|岸|1970|pp=612-615}}{{Sfn|映畫読本|1997|pp=115-116}}{{Sfn|新藤|1979|pp=161-163}}。とくに[[松井須磨子]]が主人公の『女優須磨子の恋』は、[[衣笠貞之助]]監督の[[東宝]]作品『[[女優 (1947年の映画)|女優]]』(1947年)と競作になるも、評価が集中したのは『女優』の方であり、作品的に敗北を喫した{{Sfn|岸|1970|pp=612-615}}{{Sfn|新藤|1979|pp=161-163}}。[[1948年]]公開の『[[夜の女たち]]』はキネマ旬報ベスト・テンで3位に選ばれるなど高評価を受け、溝口の復活を印象付けたが、翌[[1949年]]公開の『[[わが恋は燃えぬ]]』は再び失敗作となり、もとの低調さに後戻りした{{Sfn|岸|1970|pp=612-615}}{{Sfn|新藤|1979|pp=161-163}}。
===戦後===
[[1946年]](昭和21年)、絹代出演の民主主義的映画『[[女性の勝利]]』で復帰したが、不調が続き、翌[[1947年]](昭和22年)に作った『[[女優須磨子の恋]]』も競作になった『[[女優 (1947年の映画)|女優]]』([[衣笠貞之助]]監督)に評価が集中し、大惨敗した。


1949年5月、日本映画監督協会が任意団体として再建され、溝口は再びその会長に就任した(翌[[1950年]]に協会は事業協同組合に改組され、それに伴い溝口の肩書きは会長から理事長に変更した){{Sfn|田中|2003|p=405}}。この頃の溝口は、[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]主演で松竹が企画した『名工柿右衛門』の監督に決まっていたが、同年7月の菊五郎の死去により中止となった<ref name="集成年譜"/>。さらに[[原節子]]主演で予定した『美貌と白痴』も中止となり、その次に戦時中から映画化を望んでいた[[井原西鶴]]原作の『[[西鶴一代女]]』に着手しようとしたが、これもまた松竹と意見が合わなかったため中止となり、これが原因で翌1950年に松竹を退社した<ref name="集成年譜"/>{{Sfn|岸|1970|p=619}}。
[[1948年]](昭和23年)、戦争で夫を亡くし敗戦後の生活苦から娼婦に堕していく女性をシビアに描いた『[[夜の女たち]]』で長きスランプから復調。その後に『[[雪夫人絵図]]』([[舟橋聖一]]原作)、『[[お遊さま]]』([[谷崎潤一郎]]原作)、『[[武蔵野夫人]]』([[大岡昇平]]原作)などの文芸映画を作るが、これも低迷した。


=== 晩年 ===
[[1952年]](昭和27年)、[[井原西鶴]]の『[[好色一代女]]』を基に、溝口同様スランプ状態に遭っていた絹代主演で『[[西鶴一代女]]』を製作。当初国内ではキネマ旬報ベストテン第9位の評価だったが、[[ヴェネツィア国際映画祭]]に出品されるや海外の映画関係者から絶賛され、[[国際賞]]を受賞。海外で一躍注目され、国内でも溝口の評価が変り、彼は長いスランプをようやく脱することが出来たのである。
[[ファイル:The Crucified Lovers.jpg|thumb|200px|『[[近松物語]]』(1954年)のポスター。]]
松竹を退社してフリーとなった溝口は、[[新東宝]]と[[滝村和男]]プロダクションの提携で[[舟橋聖一]]原作の『[[雪夫人絵図#1950年版|雪夫人絵図]]』(1950年)、旧知の永田雅一が社長を務める[[大映]]で[[谷崎潤一郎]]原作の『[[お遊さま]]』(1951年)、[[東宝]]で[[大岡昇平]]原作の『[[武蔵野夫人#映画|武蔵野夫人]]』(1951年)を撮影したが、この3本も失敗作となり、長いスランプから脱出できずにいた<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Sfn|木下|2016|p=522}}{{Sfn|佐藤|2006|p=157}}。それでも『雪夫人絵図』の時の監督料は200万円で、当時の日本映画界で最も高給取りの監督となった{{Sfn|木下|2016|p=526}}。[[1951年]]7月の『武蔵野夫人』公開直後には、[[クレジットタイトル]]に「監督」ではなく「演出」と表記されていたことから、日本映画監督協会を通じてクレジットの表記を「監督」に統一することを各社に徹底させ、映画監督の権限や表現の自由を守ることを訴えた{{Sfn|木下|2016|p=20}}{{Refnest|group="注"|この表記の変更には、当時の日本映画界が監督を管理し、その権限を縮小させたり、表現の自由を制限させたりする目的で「演出」の呼称を使っていたという背景があった。例えば、プロデューサー・システムを導入した東宝などの映画会社は、監督を他のスタッフと同列に扱ってクレジットに「演出」と表記し、戦時中の[[映画法]]でも監督を「演出」と呼称した。溝口は一人の監督として、日本映画監督協会理事長として、これに断固として反対した{{Sfn|木下|2016|p=20}}。}}。


1951年9月、[[黒澤明]]監督の『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』(1950年)が第12回[[ヴェネツィア国際映画祭]]で[[金獅子賞]]を受賞した。これに強い刺激を受けた溝口は、念願の企画だった『西鶴一代女』を新東宝と[[児井英生]]プロダクションの提携で撮影した<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Sfn|依田|1996|pp=207-208}}。この作品は興行的に失敗したが、同年の第13回ヴェネツィア国際映画祭に出品され、[[国際賞]]を受賞した<ref name="別冊太陽年譜"/>。この受賞は溝口に大きな自信を与え、ようやく戦後の長いスランプから脱出することができた<ref name="永田雅一"/>{{Sfn|新藤|1979|pp=166-167}}{{Sfn|岸|1970|pp=621-623}}。その後、溝口は東宝との契約を1本残していたことから、[[石坂洋次郎]]の短編小説『憎いもの』の映画化に着手したが、シナリオをめぐり東宝と意見が対立したため実現には至らなかった{{Sfn|岸|1970|pp=621-623}}。結局、東宝との契約が未消化のまま、同年秋には大映と専属契約を結んだ{{Sfn|岸|1970|pp=621-623}}。
[[1953年]](昭和28年)、[[上田秋成]]の原作を幽玄な美で表現した自信作『[[雨月物語 (映画)|雨月物語]]』が[[ヴェネツィア国際映画祭]]で[[銀獅子賞|サン・マルコ銀獅子賞]]を獲得 (この年は[[金獅子賞]]の該当作がなく、本作が実質の最高位であった)。翌[[1954年]](昭和29年)の『[[山椒大夫]]』でも同映画祭サン・マルコ銀獅子賞を受賞。3年連続で同映画祭の入賞を果たすという快挙を成し遂げ、一躍国際的に認知される映画監督となった。3年連続の同映画祭での入賞は、日本国内では他に類を見ない功績である。ほか『[[祇園囃子 (1953年の映画)|祇園囃子]]』『[[近松物語]]』等の秀作を生み出した。


[[1953年]]、溝口は大映専属の1作目として、[[上田秋成]]原作の『[[雨月物語 (映画)|雨月物語]]』を撮影した{{Sfn|岸|1970|pp=621-623}}。この作品も第14回ヴェネツィア国際映画祭に出品され、溝口は『[[祇園囃子 (1953年の映画)|祇園囃子]]』撮影後の8月、脚本の[[依田義賢]]や主演の[[田中絹代]]らとともに映画祭に出席するため[[イタリア]]へ渡った<ref name="集成年譜"/>{{Sfn|岸|1970|pp=625-627}}。[[日蓮宗]]の信者である溝口は、滞在先のホテルの部屋に[[日蓮]]像の軸をかけて受賞を祈願したという{{Sfn|岸|1970|pp=604-606}}{{Sfn|依田|1996|p=287}}。その甲斐あってか『雨月物語』は第2席賞である[[銀獅子賞]]を受賞したが、この年は金獅子賞の授与がなかったため、実質的な最高賞となった<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Sfn|岸|1970|pp=604-606}}。翌[[1954年]]には[[森鴎外]]原作の『[[山椒大夫#映画|山椒大夫]]』が第15回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞し、これで3年連続の映画祭受賞となった{{Sfn|岸|1970|pp=625-627}}。この年は『[[噂の女 (1954年の映画)|噂の女]]』と[[近松門左衛門]]原作の『[[近松物語]]』も撮影しており、後者では[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]の監督賞を受賞した{{Sfn|岸|1970|pp=625-627}}。
[[1955年]](昭和30年)、[[大映]]の取締役の欠員1名の補充で衣笠貞之助と候補に挙がるが、衣笠が辞退したため、9月の[[株主総会]]で正式に大映取締役に就任、重役監督となった<ref name="集成325">『溝口健二集成』p.325</ref>。[[11月3日]]には映画監督として初の[[紫綬褒章]]を受章<ref name="愛した">『溝口健二を愛した女』p.246-249</ref><ref>木下千花著『溝口健二論』p.255</ref>。この年に[[カラー映画]]に取り組み、『[[楊貴妃 (1955年の映画)|楊貴妃]]』『[[新・平家物語 (映画)|新・平家物語]]』の歴史大作を製作した。


この頃、日本映画界では[[カラー映画]]が普及し始めていたが、溝口も1954年6月に永田やカメラマンの[[宮川一夫]]らとともにカラー映画研究のため渡米した<ref name="集成年譜"/>。翌[[1955年]]には自身初のカラー映画として、大映と[[香港]]の[[ショウ・ブラザーズ]]の合作映画『[[楊貴妃 (1955年の映画)|楊貴妃]]』を撮影し、その次にカラー映画2作目となる[[吉川英治]]原作の『[[新・平家物語 (映画)|新・平家物語]]』を撮影した<ref name="集成年譜"/>。この2本は商業的成功を収め、『楊貴妃』は第16回ヴェネツィア国際映画祭に出品されたが、4年連続の受賞とはならなかった<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Sfn|木下|2016|pp=24-25}}。同年8月、大映取締役の欠員1名の補充で[[衣笠貞之助]]とともに候補に挙がったが、衣笠が辞退したため、9月の[[株主総会]]で正式に大映取締役に就任し、重役監督となった<ref name="集成年譜"/>。10月には日本映画監督協会理事長を[[小津安二郎]]に交替した{{Sfn|田中|2003|p=419}}。そして11月には映画監督として初めて[[紫綬褒章]]を受章した<ref name="集成年譜"/>{{Sfn|木下|2016|pp=24-25}}。
[[1956年]](昭和31年)、[[売春防止法]]成立前の吉原の女たちを描いた『[[赤線地帯]]』製作後、次回作『大阪物語』の準備中に体調を崩し、5月に京都府立病院の特別病棟1号室に入院した<ref>『キネマ旬報 第698号』p.391</ref>。病名は[[慢性骨髄単球性白血病|単球性白血病]]で、本人には病名を知らせなかった<ref>佐藤忠男著『溝口健二の世界』p.241</ref>。また、白血病は当時の医学では手の施しようがなかったため、そのまま回復に向かうことなく、同年[[8月24日]]午前1時55分<ref name="本編"/> にこの世を去った。享年58。


=== 死去 ===
同年8月に[[青山斎場]]で大映による社葬が営まれ<ref name="集成325"/><ref name="愛した"/>、[[池上本門寺]]に付属する[[本行寺 (大田区)|大坊本行寺]]に墓が建てられた(隣には溝口の友人の[[花柳章太郎]]の墓がある)。京都の[[満願寺]]にも分骨されており、そこには記念碑も建てられている。没後、[[勲四等]][[瑞宝章]]を受章。[[1957年]](昭和32年)、未完成の『[[大阪物語 (1957年の映画)|大阪物語]]』の製作を[[吉村公三郎]]監督が引き継いで完成させた。
[[1956年]]、溝口は最後の監督作となる『[[赤線地帯]]』を撮影したが、その前後から好きな酒が美味しくないと言い出したり、歯茎から出血したりするなど、体調に異変が見られた{{Sfn|岸|1970|pp=627-628}}{{Sfn|新藤|1979|pp=207-209}}。この作品の完成後、溝口は次回作として『[[大阪物語 (1957年の映画)|大阪物語]]』の製作準備を始めたが、この時も夕方になると微熱が出たり、足が紫色に変色したりするなどしたため、5月に製作準備を中止して[[京都府立医科大学附属病院]]の特別病棟に入院した<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Sfn|新藤|1979|pp=207-209}}{{Sfn|溝口健二の記録|1975|p=46}}。溝口は[[白血病|骨髄性白血病]]と診断されたが、病名は本人には知らされず、永田などの大映首脳部のみに知らされた<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Sfn|新藤|1979|pp=207-209}}。溝口は毎日のように輸血をしたが{{Sfn|溝口健二の記録|1975|pp=357-358}}、白血病は不治の病だったため、そのまま回復に向かうことはなく、8月24日午前1時55分に58歳で死去した<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Sfn|新藤|1979|pp=207-209}}{{Sfn|溝口健二の記録|1975|p=46}}。亡くなる前日には「もう新涼だ。早く撮影所の諸君と楽しく仕事がしたい」と絶筆を残していた{{Sfn|津村|1977|p=237}}。溝口作品で美術監督を務めた[[水谷浩]]は、溝口の死去当日に[[デスマスク]]を制作した{{Sfn|津村|1977|p=26}}。


8月30日、[[青山葬儀所|青山斎場]]で大映による社葬が営まれた{{Sfn|岸|1970|pp=627-628}}。戒名は常光院殿映徳日健居士<ref name="別冊太陽年譜"/>。墓は東京の[[池上本門寺]]の子院である[[本行寺 (大田区)|大坊本行寺]]に建てられた<ref name="永田雅一"/>。京都の[[満願寺 (京都市左京区)|満願寺]]にも分骨されて碑が建てられ、永田雅一が碑の側面に「世界的名監督」と刻ませた<ref name="別冊太陽年譜"/><ref name="永田雅一"/>。溝口の訃報はちょうど開催中だった第17回ヴェネツィア国際映画祭の会場にも届き、出品されていた『赤線地帯』の上映に先立ち、追悼の言葉が捧げられた<ref name="別冊太陽年譜"/>{{Sfn|溝口健二の記録|1975|pp=103-105}}。撮影に至らなかった『大阪物語』は、[[1957年]]に[[吉村公三郎]]監督によって映画化された<ref name="別冊太陽年譜"/>。同年8月には[[産経新聞社]]の主宰で、日本映画の最優秀作品の監督やスタッフに贈られる「溝口賞」が創設されたが、授与はわずか3回で終了した{{Sfn|田中|2003|pp=429-430}}{{Refnest|group="注"|溝口賞の受賞者は、第1回が『[[米 (映画)|米]]』の[[今井正]]と[[八木保太郎]]、第2回が『[[楢山節考 (1958年の映画)|楢山節考]]』の[[木下惠介]]、第3回が『[[彼岸花 (映画)|彼岸版]]』の[[小津安二郎]]と『[[浮草 (映画)|浮草]]』『[[鍵 (1959年の映画)|鍵]]』の[[宮川一夫]]である{{Sfn|田中|2003|pp=429-430}}。}}。
==作風==
[[Image:Kenji Mizoguchi 2.jpg|thumb|left|230px]]
溝口の撮影技法の大きな特徴として、ワンシーン・ワンカットの[[長回し]]を多用することが挙げられる。これは、俳優の演技の流れをカット割りによって断ち切ってしまうことを嫌ったためで、これによって流麗かつ緊張感あふれた演出を編み出し、高い評価を得ている。また、[[クローズアップ]]を用いず[[ロングショット]]を使ったことや、移動撮影やクレーン撮影を好んで用いていることなども特徴の一つである。


== 作風 ==
妥協を許さない映画製作でも知られ、セット・小道具・衣裳・時代考証などすべてのものに完璧を求めたことから「'''ゴテ健'''」(「ゴテる」は「不平や不満を言うこと」を意味する当時の流行語のこと)と渾名された。セットは全て原寸で作らせ、『元禄忠臣蔵』では実物大の松の廊下のセットが作られている。時代考証では、[[日本画家]]の[[甲斐庄楠音]]を時代風俗考証担当に抜擢したり、『楊貴妃』では当時の中国唐代研究の最高峰である[[京都大学]]人文科学研究所に協力を依頼したり、[[宮内庁]][[式部職]]楽部の尽力により唐代の楽譜を音楽に活用させたりしている。
=== テーマとスタイル ===
溝口は生涯を通して、封建的な社会や男性の犠牲となる女性を描き続けた{{Sfn|斉藤|1999|p=281}}{{Sfn|古賀|2010|p=166}}。映画研究者の[[斉藤綾子 (映画研究者)|斉藤綾子]]によると、溝口が描く女性には2つのタイプがあるという。1つは、男に尽くし、社会の犠牲となり、身を持ち崩したり極限まで貶められたりするが、それでも情を忘れないひたむきな女性、すなわち男の立身出世を助けるために喜んで身を捧げ、自己犠牲を遂げる女性である。その例は『残菊物語』『雨月物語』『山椒大夫』に見られるが{{Sfn|斉藤|1999|p=281}}、映画批評家の[[佐藤忠男]]は、泉鏡花原作ものの『日本橋』『滝の白糸』『折鶴お千』でも女芸人や芸者が若者の男の出世を助け、その犠牲となって身を滅ぼす姿が描かれていると指摘している{{Sfn|佐藤|2006|p=80}}。もう1つは、同じく社会や男性の犠牲になるが、そのような社会や運命に必死に抵抗する女性であり、その例は『浪華悲歌』『祇園の姉妹』『夜の女たち』『赤線地帯』に見られ、娼婦や芸者などの淪落の女性を描く場合が多い{{Sfn|斉藤|1999|p=281}}。佐藤によると、その一方で男性の描き方は、女性を助けることにおいて無力であったり、女性に対して卑怯な態度をとったりする場合が多く、強くて頼もしい男らしい男は滅多に登場しないという{{Sfn|佐藤|2006|pp=74, 132}}。


溝口の特徴的なスタイルは、[[自然主義]]的な[[リアリズム]]である{{Sfn|依田|1996|pp=29, 44}}。溝口は人間とその生活する場所を徹底的に観察し、虚飾のない生身の人間を赤裸々に描くことで、人間のありのままの姿を捉えた{{Sfn|古賀|2010|pp=167-170}}{{Sfn|都築|1995|pp=34-36}}。また、その人間は冷徹な目線で突き放すようにして描いている{{Sfn|新藤|1979|pp=45-47, 100}}。溝口作品の脚本家の[[依田義賢]]によると、溝口はよく「人間の体臭が匂うように描かなくてはだめ」「かんきつ(奸譎)な人間を描いてほしい」と注文したという{{Sfn|依田|1996|p=57}}。溝口のリアリズムは『[[唐人お吉 (小説)#1930年版|唐人お吉]]』(1930年)と『しかも彼等は行く』(1931年)で確立し{{Sfn|依田|1996|p=41}}、『浪華悲歌』『祇園の姉妹』で頂点に達した{{Sfn|岸|1970|pp=600-603}}{{Sfn|古賀|2010|pp=167-170}}。『浪華悲歌』では大阪の職業婦人、『祇園の姉妹』では[[祇園]]の芸者を主人公にして、男性本位の社会に反抗し、犠牲となる女性の姿を冷徹に描き、セリフで関西弁を徹底的に使用するなどしてリアリズムを追求した{{Sfn|岸|1970|pp=600-603}}{{Sfn|佐藤|2006|pp=118, 124}}。佐藤は、この2作を「日本映画のリアリズムはここでひとつの完成を見た」と評している{{Sfn|佐藤|1995|pp=360-361}}。
演技指導も厳しく、役者に演技をつけずやり直しを命じ、悩んだ役者がどうすればいいのか訊いても「演技するのが役者の領分でしょう」といっさい助言などをしなかった。また、演出の際、俳優たちに「反射していますか」と口癖のように言って回った。これは「相手役の演技を受けて、自分の演技を相手に“はね返す”」といったような意味合いであったといわれる。長回し主体の溝口演出においては重要な点であった。


リアリズムと並ぶ溝口の特徴的なスタイルは、唯美的傾向に近い情緒を持つロマンティックなスタイルである{{Sfn|依田|1996|p=29}}{{Sfn|佐藤|2006|pp=106, 115}}。この作風は下町情緒を描いた『紙人形春の囁き』『狂恋の女師匠』で定まりはじめ、泉鏡花原作の『日本橋』『滝の白糸』『折鶴お千』や、1930年代の『神風連』『愛憎峠』『マリアのお雪』『虞美人草』の「明治物」と呼ばれる作品など、[[明治時代|明治]]風俗を様式的に表現する[[新派]]悲劇的な作品などに見られた{{Sfn|新藤|1979|pp=107, 112, 125-127}}{{Sfn|佐藤|2006|pp=106, 115}}{{Sfn|依田|1996|pp=32, 54}}。松竹時代の『残菊物語』『浪花女』『芸道一代男』も明治物の系譜に位置する情緒的な作品であるが{{Sfn|岸|1970|p=608}}{{Sfn|依田|1996|p=87}}、この3本は[[歌舞伎]]や[[文楽]]などの伝統芸能の世界を描いた作品であることから「芸道三部作」と呼ばれている{{Sfn|佐藤|2006|pp=179-181}}。
時には気に入らない演技をする役者に暴言を吐いたりもしている。[[菅井一郎]]は『わが恋は燃えぬ』の撮影中に、「君は[[脳梅毒]]です! 医者に診てもらいなさい!」と言い放たれ、スリッパで頭を殴られたという<ref>佐藤忠男著『溝口健二の世界』p.275</ref>。[[水戸光子]]は『雨月物語』の際に「あんたは輪姦された経験がないんですか!」 と言われ、[[若尾文子]]には『祇園囃子』の際に、決して名前を呼ばず「おい、子供」、『赤線地帯』の際には「顔の造作が悪い」と罵倒。かつて[[入江ぷろだくしょん]]に雇われ、名匠と呼ばれるきっかけを作った恩人でもあった[[入江たか子]]も、『楊貴妃』で「化け猫ばかりやっているからそんな芸格のない芝居しか出来ないのだ」と満座の中で罵倒されている<ref>[[猪俣勝人]]・[[田山力哉]]著『日本映画俳優全史 男優編』p.48</ref>。ほか、『山椒大夫』の際に、子役に向かって「この子はどうしようもないバカだね!」と言い、すぐ近くにいた母親を落胆させている。『西鶴一代女』では助監督の[[内川清一郎]]と口論になり、彼を降板させている。そのとき内川に「女に斬られるようにならないと女は描けませんよ」と言い放ったという。


溝口は新しい動向に敏感なところもあり、時流や流行の変化に便乗して新しい題材の作品も作っている{{Sfn|依田|1996|p=30}}{{Sfn|佐藤|2006|p=107}}。日活向島時代には[[アルセーヌ・ルパン|ルパン]]を翻案した探偵ものの『[[813 (小説)#1923年版|813]]』(1923年)や、[[ドイツ表現主義]]の影響を受けた『血と霊』(1923年)を撮影した{{Sfn|佐藤|2006|p=107}}。1920年代の左翼思想の高まりを背景に、左翼的イデオロギーを打ち出した[[傾向映画]]が流行すると、溝口も『都会交響楽』『しかも彼等は行く』で傾向映画に挑戦した{{Sfn|佐藤|2006|pp=108-113}}。1930年代になると、[[満州事変]]直後に『満蒙建国の黎明』、[[日中戦争]]開戦後に『露営の歌』を作るなど、[[軍国主義]]の時流に便乗した作品も手がけている{{Sfn|佐藤|2006|p=107}}。終戦直後に[[GHQ]]の指導で[[民主主義]]啓蒙を目的とした[[民主主義映画|アイデア映画]]が作られるようになると、溝口も『女性の勝利』『女優須磨子の恋』『わが恋は燃えぬ』でアイデア映画を手がけたが、この3本は女性の自立や解放をテーマに描いていることから「女性解放映画三部作」と俗称されている{{Sfn|斉藤|1999|p=278}}{{Sfn|佐藤|2006|pp=198, 201, 209}}。
出演者に強い負荷と緊張を強いる演出法であるが、「ちゃんと考えて、セットに入るときにその役の気持ちになっていれば、自然に動けるはずだ、と監督さんはおっしゃるんです。それは当然ですよね」という[[香川京子]]のコメント<ref>没後五十年特別企画「溝口健二の映画」カタログ「はじめての溝口健二」</ref> などの好意的な評価も見られる。


=== 撮影手法 ===
前述の溝口の美しいカメラワークには、右腕であったカメラマン・[[宮川一夫]]の功績が大きく、『雨月物語』を始めとする溝口黄金期の作品の撮影を担当している。宮川を起用したきっかけは、映画会社から当時新人であった宮川を使うよう命じられたためで、溝口はひどく立腹するが、いざ仕事をしてみるとその才能を認めた溝口は宮川を右腕として信頼し、こと撮影に関しては彼の意見の多くを取り入れるほどだった。後に別の監督の作品が撮影が延びに延びたため宮川がその次に予定されていた溝口の作品に参加できなくなると、今度は「僕たちの仲を裂くんですか!」と会社に猛抗議するほどだった。
溝口の最も特徴的な撮影手法は、ショットを割らずにカメラを[[長回し]]することで、現実の時間をそのまま捉えるワンシーン・ワンショットの撮影と、[[クローズアップ]]を極力排して[[ロングショット]](遠景ショット)やフルショット(全身ショット)を多用したことである{{Sfn|古賀|2010|p=130}}{{Sfn|佐藤|2006|p=304}}。溝口がこの手法を採用したのは、ショットを割ることで演技の流れが中断されるのを嫌い、またクローズアップや[[クロスカッティング#カットバック|カットバック]]などの技法を使うことで「ごまかし」が利き、完全な演技を求めることができなくなると考えたためである{{Sfn|佐藤|2006|pp=333-334}}<ref>{{Cite journal|和書 |author=平井輝明 |date=1985 |title=連載56素稿日本映画撮影史 |journal=映画撮影 |volume=89 |publisher=[[日本映画撮影監督協会]] |pages=68}}</ref>。溝口が初めてワンシーン・ワンショットを採用したのは『唐人お吉』であり<ref name="愚問賢答">[[岸松雄]]、溝口健二「溝口健二の芸術」(『キネマ旬報』1952年4月特別号)。{{Harvnb|集成|1991|pp=57-62}}に所収</ref>、『残菊物語』でひとつの様式として完成した{{Sfn|佐藤|2006|pp=311-312}}。『残菊物語』では主人公の男と女が夜の堀端を歩きながら話をするシーンで、ずっと歩きながら話をする2人の姿を、路面より低い堀の中から見上げるような角度でカメラを構え、5分以上の長回しによるワンシーン・ワンショットの移動撮影を行っている{{Sfn|佐藤|2006|pp=311-312}}{{Sfn|古賀|2010|p=131}}。流れるように巧みな移動撮影も、溝口の特徴的な撮影手法である{{Sfn|佐藤|2006|pp=335-336}}。とくにクレーンを使用した移動撮影を好み、クレーンを必要としない撮影の時でもわざわざクレーンを使うことがあった{{Sfn|佐藤|2006|p=345}}。


=== 製作方法 ===
脚本家では、『浪華悲歌』以降ほとんどの作品でシナリオを書いたのが[[依田義賢]]で、クランクイン後もリライト要求に備えて現場に待機するなど溝口に忠誠を尽くした。溝口が白血病にかかったと聞いた時には、自らもショックで寝込んでいる。[[成沢昌茂]]も溝口映画の常連脚本家であり、級友の[[川口松太郎]]とも何度も仕事を共にしている。
[[File:Kenji Mizoguchi 2.jpg|thumb|250px|撮影現場の溝口(1950年代頃)。]]
溝口は完全主義者であり、つねに俳優やスタッフにベストを尽くして高度な仕事をするよう求めた{{Sfn|佐藤|1995|pp=371-372}}{{Sfn|古賀|2010|pp=137-139, 142}}。俳優の演技を絞り、スタッフに無理な注文を出し、自分が気に入るまで何度もやり直させた{{Sfn|都築|1995|pp=19-21}}。しかし、自分からイメージを伝えたり細かく指示を出したりすることはなく、あらゆる問題の解決方法は俳優やスタッフに委ね、その答えが自分の求めるものになるまで待った{{Sfn|佐藤|2006|p=28}}<ref name="メイキング">西田宣善「フィルム・メイキング 溝口映画の作られ方」({{Harvnb|映畫読本|1997|pp=132-133}})</ref>。溝口は俳優やスタッフに考えさせ、努力や工夫をつくさせたうえで修正し、決定するという方法をとることで、その力を最大限に引き出させた{{Sfn|古賀|2010|pp=137-139, 142}}{{Sfn|佐藤|2006|p=28}}。俳優やスタッフを罵倒し、怒鳴りつけることもあり{{Sfn|新藤|1979|pp=166-167}}、また役に立たない人物や要求に応えきれない演技をする俳優を容赦なく仕事から降ろした{{Sfn|佐藤|2006|pp=34-35}}。そのため溝口はしばしば「サディスト」「暴君」「ゴテ健(「ゴテる」は不平不満を言うこと)」などと呼ばれた{{Sfn|古賀|2010|pp=137-139, 142}}{{Sfn|佐藤|2006|p=339}}{{Sfn|溝口健二の記録|1975|pp=155-156}}。


脚本は自分では書かず、[[依田義賢]]や[[成澤昌茂]]などの脚本家に執筆させた<ref name="メイキング"/>{{Sfn|新藤|1979|pp=35-37}}。溝口の脚本作りの方法は、脚本家が書いた第1稿を酷評し、そこから何度も書き直させ、自分の気に入るような脚本に仕上げるというもので、完成するまでに10稿以上も練り直すこともあった{{Sfn|佐藤|1995|pp=371-372}}{{Sfn|新藤|1979|pp=35-37}}{{Sfn|津村|1977|pp=224-225}}。最終稿が完成してから撮影を始めても、撮影現場に脚本家を呼び寄せてセリフを修正させた{{Sfn|新藤|1979|pp=35-37}}{{Sfn|溝口健二の記録|1975|pp=27, 283, 389-391}}。その時は、当日に撮影するシーンのセリフを黒板に書き、打合せをしながら俳優にセリフを喋らせてみて、不自然なところや喋りくいところなどを直した{{Sfn|佐藤|2006|pp=333-334}}{{Sfn|新藤|1979|pp=35-37}}{{Sfn|溝口健二の記録|1975|pp=27, 283, 389-391}}。また、溝口は[[絵コンテ]]を作らず{{Sfn|津村|1977|p=106}}、撮影現場でリハーサルをする俳優の動きを見ながら、カメラのアングルやポジション、ショットの長さなどを決めた{{Sfn|佐藤|2006|pp=335-336}}{{Sfn|古賀|2010|pp=137-139, 142}}。
溝口組には前述の宮川一夫を始め、美術の[[水谷浩]]、音楽の[[早坂文雄]]、録音の[[大谷巌]]、照明の[[岡本健一 (照明技師)|岡本健一]]といった才能あふれるスタッフが参加していた。中でも水谷は日本では他のスタッフより知名度が低いが、反対にフランスでは水谷が一番有名。彼の手による溝口の[[デスマスク]]が、現在でも保管されている。戦前の溝口作品では[[坂根田鶴子]]が助監督を務めており、後に日本映画史上初の女性監督となった。俳優では[[田中絹代]](後述)、[[中野英治]]、[[梅村蓉子]]、[[菅井一郎]]、[[進藤英太郎]]、[[浦辺粂子]]、[[田中春男]]、[[山田五十鈴]]らが常連出演した。


リアリズムを志向した溝口は、映画美術でも本物の小道具を使ったり、スタッフにその時代の風俗や生活様式などを徹底的に調べさせたりして完璧さを求めた{{Sfn|都築|1995|pp=34-36}}<ref name="美術">「溝口映画を支えた美術」({{Harvnb|別冊太陽|1998|pp=93-100}})</ref>。溝口は『唐人お吉』で時代考証の重要性を認識し<ref name="集成年譜"/>、1930年代に明治物を作った頃から考証に凝るようになり、小道具の[[ランプ]]ひとつに細かく注文を出して1日中粘ったこともあったという{{Sfn|佐藤|2006|pp=106, 115}}<ref name="郷愁を語る">筈見恒夫「溝口健二・郷愁を語る」(『映画ファン』1938年9月号)。{{Harvnb|著作集|2013|pp=118-123}}に所収</ref>。美術や衣装や建築などの考証に専門家を招くことも多く、日本画家の[[甲斐庄楠音]]を時代風俗や衣装の考証に何度も起用したほか、『狂恋の女師匠』では美術考証に[[小村雪岱]]、『残菊物語』では美術考証に[[木村荘八]]、『元禄忠臣蔵』では武家建築考証に[[大熊喜邦]]、民家建築考証に[[藤田元春]]を起用した<ref name="メイキング"/>{{Sfn|映畫読本|1997|pp=81, 107, 109}}。こうした溝口の美術に対する完璧さの追求が頂点に達したのは『元禄忠臣蔵』である。この作品では徹底した史料調査に基づくリアルな[[忠臣蔵]]を志向し、大熊喜邦が所有する[[江戸城]]の平面図を基にして[[松之大廊下|松の廊下]]のセットを原寸大で再現した{{Sfn|都築|1995|pp=34-36}}{{Sfn|古賀|2010|pp=132-134}}。
溝口の内弟子には[[新藤兼人]]がいる。彼は『元禄忠臣蔵』で建設監督を務め、その後溝口に師事している。このときの苦労は新藤の初監督作品『[[愛妻物語]]』で描かれており、溝口のモデルの巨匠監督を[[滝沢修]]が演じている。溝口に崇拝の念を抱いている新藤は人格面でも一定の評価を下している。新藤は[[1975年]](昭和50年)に溝口の生涯を取材した[[記録映画]]『[[ある映画監督の生涯 溝口健二の記録]]』を製作している。


俳優への演技指導は、具体的にこうしろという指示は出さずに「やってみてください」と言うだけで、あとは満足のいく演技になるまで同じ芝居を何度もやり直させ、俳優に自分で演技や動きを工夫させるようにした{{Sfn|佐藤|1995|pp=371-372}}{{Sfn|古賀|2010|pp=137-139, 142}}{{Sfn|都築|1995|p=41}}。悩んだ俳優がどうすればいいのか訊いても「それはあなたが考えてください。あなたは役者でしょう」と突き返した{{Sfn|都築|1995|p=41}}。溝口は具体的に演技指導をしない代わりに、「反射していますか」と何度も俳優に問いかけた。この言葉には、俳優が相手のセリフや動きに反応して動くことができるかという意味がある{{Sfn|古賀|2010|pp=137-139, 142}}{{Sfn|佐藤|2006|pp=337-338}}。演技のやり直しは何十回もやらせることがあり、例えば『楊貴妃』では[[山村聰]]にワンカットで42回のテストを繰り返させ、『赤線地帯』では[[三益愛子]]の舞台的な歩き方が気に入らなくて80回ものテストをさせた{{Sfn|津村|1977|pp=142-144}}。また、俳優たちには、役になり切るために努力することを求めた{{Sfn|佐藤|2006|pp=29-30}}。文楽の世界を描く『浪花女』では、主演の[[田中絹代]]にたくさんの文楽の専門書を読んで勉強するよう命じ、『山椒大夫』でも女奴隷役の[[香川京子]]に中世日本の奴隷制度の歴史書や経済史の本を読むことを要求した{{Sfn|溝口健二の記録|1975|pp=27, 283, 389-391}}{{Sfn|佐藤|2006|pp=29-30}}{{Sfn|依田|1996|pp=82-83}}。
==人物==
===田中絹代との関係===
{{要出典|範囲=映画人との私的な交際はあまり見られなかったが、[[田中絹代]]とは公私にわたる親交を育んだ|date=2019年7月}}。『浪花女』で初めて田中を起用して以降、15本の作品に出演。『夜の女たち』では田中が初めて汚れ役を演じ、『西鶴一代女』では{{独自研究範囲|一世一代の名演を披露した|date=2019年7月}}。


溝口は俳優の演技が気に入らないとしばしば激怒し、時には悪口雑言を言い放つことがあった{{Sfn|佐藤|2006|p=339}}{{Sfn|津村|1977|pp=160-161}}。『わが恋は燃えぬ』では[[菅井一郎]]が少し長いセリフを喋り切れないことに腹を立て、菅井の頭をスリッパで叩き、「精神病院へ行き給え」と言い放った{{Sfn|津村|1977|pp=160-161}}<ref>{{Cite book|和書 |author=[[菅井一郎]]、[[浦辺粂子]]、[[河津清三郎]] |date=1966 |title=映画わずらい |publisher=六芸書房}}{{Harvnb|佐藤|2006|pp=340-343}}に該当文を引用。</ref>。『残菊物語』では主演の[[北見禮子|北見礼子]]の子供をあやす演技が気に入らず、「君、子供の抱き方が違う。子供を産んだ経験がないから」と言って降板させた{{Sfn|溝口健二の記録|1975|p=219}}。『雨月物語』でも兵士たちに輪姦される女性を演じた[[水戸光子]]の演技に満足せず、「キミはいったい(輪姦された)経験がないんですか」と怒鳴りつけた{{Sfn|津村|1977|pp=160-161}}。『楊貴妃』では[[入江たか子]]の演技に満足せず、「何ですかその芝居は。それは猫です、猫芝居ですよ」と罵倒した。猫芝居は当時の入江が主演した化け猫映画のことであるが、化け猫映画はゲテモノ映画として扱われていたため、往年の大スターである入江が落ち目になったという風に捉えられていた{{Sfn|新藤|1979|pp=2-7}}。溝口は入江に何度も演技をやらせても不機嫌な態度のままOKを出さず、入江はその気持ちを理解して自ら降板した{{Sfn|佐藤|2006|pp=34-35}}{{Sfn|溝口健二の記録|1975|p=167}}。溝口は過去に入江のプロダクションで『滝の白糸』を作って成功させてもらった縁があったため、周りのスタッフや俳優は溝口があまりにも冷酷だと批判した{{Sfn|佐藤|2006|pp=34-35}}{{Sfn|新藤|1979|pp=2-7}}{{Sfn|溝口健二の記録|1975|p=148}}。
田中との親交を物語るエピソードとして、{{要出典|範囲=幼時から「美人ではないが(演技力がある)」という冠詞をもって語られることの多い田中に、『お遊さま』撮影に際し「あなたを最も美しく撮ります」と語ったという話がある|date=2019年7月}}。また{{要出典|範囲=溝口は[[小津安二郎]]や[[新藤兼人]]らに、田中への求婚の意志を漏らしたことがあった|date=2019年7月}}。


溝口の製作方法は、俳優やスタッフに最高の緊張感を強いるものだったが、溝口も作品の雰囲気に浸りながら緊張感を作って自分自身を追い込んだ{{Sfn|佐藤|2006|pp=335-336}}{{Sfn|都築|1995|pp=19-21}}{{Sfn|新藤|1979|pp=14-16}}。撮影現場の緊張感が中断されないようにするため、撮影中は終日現場のスタジオを離れず、昼食時でも外へ出ることがなかった{{Sfn|都築|1995|pp=19-21}}{{Sfn|新藤|1979|pp=14-16}}。晩年にはスタジオに[[尿瓶]]を持ち込み、スタジオの隅で用を足していたという{{Sfn|新藤|1979|pp=14-16}}{{Sfn|溝口健二の記録|1975|pp=286-287}}{{Sfn|津村|1977|p=177}}。『雨月物語』の撮影では、移動撮影用のクレーンの監督席に腰かけていた溝口が、緊張感のあまり力強く手すりを握りしめて小刻みに震え、その振動がカメラにまで伝わってフレームが微妙にずれたため、カメラマンの宮川一夫の進言でクレーンの監督席から降ろされたという{{Sfn|佐藤|2006|pp=335-336}}{{Sfn|都築|1995|pp=19-21}}。
{{要出典|範囲=田中とはその後、彼女が映画監督をやることになったことを記者から聞かされて「田中の頭では監督は出来ません」と答え、これがもとで関係が冷却したといわれている。ただしこのコメントには田中が自分の元から離れてしまうことへの嫉妬心があったともいわれる|date=2019年7月}}。その田中は溝口没後、「他人だからという言葉では割り切れないものが、やっぱりわたしにはございますね」と語っている<ref name="本編"/>。


===その他===
=== 溝口組 ===
[[File:Saikaku ichidai onna (1952) 3.jpg|thumb|『[[西鶴一代女]]』(1952年)で主人公を演じた[[田中絹代]]。田中は後期の溝口作品に欠かせない主演女優として知られた。]]
{{要出典|範囲=父の善太郎は、溝口が幼いときに事業に失敗し、そのせいで貧乏生活を強いられることになったが、父は決して悪い人間ではなかった。しかし、生活力がなく酒好きであまり働くのが好きではない人間だったという|date=2019年7月}}。そのため、{{独自研究範囲|監督作品などを通しても、溝口の父親に対しての憎しみが描かれており、父親というものを好意的に描いたものは一つもなく|date=2019年7月}}、{{要出典|範囲=死別するまで和解には至らなかった|date=2019年7月}}。{{独自研究範囲|これらの経験から作品の情けない男性像というものに反映される|date=2019年7月}}。{{要出典|範囲=監督作品の『[[浪華悲歌]]』の[[竹川誠一]]演じる主人公・アヤ子の父である準造は、溝口の父がモデルであるとされている|date=2019年7月}}。
溝口は気心の知れたスタッフや、同じ俳優を何度も作品に起用することが多く、彼らは「溝口組」と呼ばれた{{Sfn|依田|1996|p=80}}{{Sfn|児井|1989|p=167}}。溝口組の代表的な人物と参加本数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述){{Sfn|映畫読本|1997|pp=58-130}}<ref name="全作品">登川直樹「溝口全作品・フィルモグラフィー」({{Harvnb|別冊太陽|1998|pp=192-211}})</ref><ref name="溝口組">佐相勉「溝口組 スタッフ・キャスト名鑑」({{Harvnb|別冊太陽|1998|pp=142-144}})</ref>。
* 脚本:[[依田義賢]](23本)、[[畑本秋一]](20本)、[[川口松太郎]](9本)、[[成沢昌茂]](3本)
* 撮影:[[横田達之]](27本)、[[三木滋人]](16本)、[[宮川一夫]](8本)、[[青島順一郎]](7本)、[[杉山公平]](6本)
* 美術:[[亀原嘉明]](25本)、[[水谷浩]](21本)
* その他スタッフ:[[坂根田鶴子]](助監督・編集・記録、19本)、[[早坂文雄]](音楽、8本)、[[甲斐庄楠音]](考証、8本)、[[大谷巌]](録音、7本)、[[岡本健一 (照明技師)|岡本健一]](照明、7本)
* 俳優:[[梅村蓉子]]、[[浦辺粂子]](16本)、[[田中絹代]]、[[菅井一郎]](15本)、[[進藤英太郎]](12本)、[[中野英治]]、[[酒井米子]](10本)、[[田中春男]](9本)、[[夏川静江]]、[[清水将夫]](8本)、[[入江たか子]]、[[山田五十鈴]](7本)、[[沢村春子]]、[[河津清三郎]]、[[毛利菊枝]](6本)、[[岡田嘉子]]、[[岡田時彦]]、[[山路ふみ子]]、[[柳永二郎]]、[[小沢栄太郎]](5本)
その中で溝口が最も信頼を置いた人物は、脚本家の[[依田義賢]]と美術監督の[[水谷浩]]である{{Sfn|古賀|2010|p=130}}<ref name="溝口組"/>。溝口は2人を「僕の肉体の一部みないな」存在と呼び、「僕がああだとか、こうだとか、口に出して説明しなくても、僕の考えている通りにやってくれる」と述べている<ref name="愚問賢答"/>。とくに依田は『浪華悲歌』で初めて組んで以来、約20年にわたり溝口作品で脚本を書き、溝口の女房役のような存在となった<ref name="溝口組"/>。小学校時代の同級生である[[川口松太郎]]も溝口組の脚本家で、芝居作りのツボを心得ていることから溝口の良き助言者にもなり、溝口は壁にぶつかると川口に相談した{{Sfn|新藤|1979|p=108}}。後期の作品では、撮影の[[宮川一夫]]、音楽の[[早坂文雄]]、照明の岡本健一、録音の[[大谷巌]]が信頼の置けるスタッフとなった{{Sfn|古賀|2010|pp=140-141}}。俳優では、『浪花女』で初めて起用した[[田中絹代]]が、それ以後の溝口作品に欠くことのできない演技者となった{{Sfn|岸|1970|pp=612-615}}。溝口は田中に恋心を抱くほど気に入り、戦後には結婚の噂話が流れたこともあった{{Sfn|新藤|1979|pp=178-183}}。


溝口の弟子となった主な人物に、[[坂根田鶴子]]と[[新藤兼人]]がいる。坂根は『しかも彼等は行く』以来溝口に師事し、監督助手や[[スクリプター]]や編集についた{{Sfn|新藤|1979|p=121}}。溝口作品で装飾を担当した荒川大によると、溝口は「坂根は俺の弟子であるだけでなく、脚本も直せる」存在だと言っていたという<ref>荒川大「作品をよくするためにはコンクリートの床でも剥がす」({{Harvnb|別冊太陽|1998|pp=85-87}})</ref>。坂根は1936年に『初姿』を監督して日本初の女性映画監督になったが、溝口はこの作品で監督補導にあたっている<ref name="別冊太陽年譜"/>。新藤は『[[愛怨峡]]』『元禄忠臣蔵』で美術助手を務めて以来溝口に傾倒し、溝口にシナリオ執筆を師事した{{Sfn|新藤|1979|pp=26-27}}{{Sfn|古賀|2010|pp=143-144}}。この時の苦労は新藤の初監督作『[[愛妻物語]]』(1951年)で描かれ、溝口をモデルにした大監督([[滝沢修]]演)も登場する{{Sfn|古賀|2010|pp=143-144}}{{Sfn|佐藤|2006|pp=406-415}}。新藤は脚本家として一本立ちしたあと、溝口の『女性の勝利』『わが恋は燃えぬ』で脚本を提供し、監督になってからも「溝口が絶対に着想できない本を書こう」と意識しながら映画を作った{{Sfn|古賀|2010|pp=143-144}}。さらに新藤は[[1975年]]に溝口の関係者にインタビューした記録映画『[[ある映画監督の生涯 溝口健二の記録]]』を製作した{{Sfn|佐藤|2006|pp=406-415}}。
{{要出典|範囲=『西鶴一代女』で家並みのセットを作ったところ、溝口がやってきて「下手の家並みを[[間|一間]]前に出せ」といった|date=2019年7月}}。{{独自研究範囲|それはほんのワンシーンのためのセットで映画の中でさほど重要ではない|date=2019年7月}}。{{要出典|範囲=助監督はやむなく嫌がる大道具のスタッフに頭を下げて徹夜で作り直させた。翌日、セットを見て監督が言うには「上手の家並みを一間下げろ」。つまり結局は元に戻せということであり、助監督は激怒して帰宅してしまった|date=2019年7月}}。ただし{{要出典|範囲=この無茶苦茶な指示は、演出に行き詰って苦悩していた溝口が時間稼ぎに行った苦肉の策だったともいわれる|date=2019年7月}}。


== 人物 ==
{{要出典|範囲=暴君として俳優・スタッフから恐れられていた溝口だったが、『雨月物語』の撮影中には、会心の演技を見せた[[森雅之 (俳優)|森雅之]]が「誰かタバコをください」と言った時に、自ら率先してタバコを差し出し、火を点けて労ったという話もある。これにはスタッフや森自身も大いに驚いたらしい|date=2019年7月}}。
[[File:Kenji Mizoguchi 1.jpg|thumb|200px|1950年代頃の溝口。]]
溝口は、撮影現場では俳優やスタッフを罵倒したりするような厳しい人物として知られたが、私生活では気が弱く、照れ屋でシャイな人物であり、仕事場と私生活とではまるで別人のようになったという{{Sfn|溝口健二の記録|1975|pp=288, 347, 378}}{{Sfn|新藤|1979|p=23}}{{Sfn|古賀|2010|pp=143-144}}。そんな溝口には大学教授や警察などの権威的な存在に対して弱い一面もあり、そのために作品の考証に学者や専門家などの権威者をよく起用した{{Sfn|新藤|1979|pp=198-200}}{{Sfn|岸|1970|pp=625-627}}<ref name="増村保造">{{Cite book|和書 |author=[[増村保造]] |chapter=溝口健二のリアリズム |date=1986-3 |title=講座日本映画3 トーキーの時代 |publisher=岩波書店 |pages=246-257}}</ref>。溝口は本物の小道具を要求するなど美術考証に凝ったが、スタッフが有名な研究所や大学が認めた小道具だと言い張れば、たとえそれが偽物だったとしても信じ込んだという<ref name="増村保造"/>。『西鶴一代女』の製作者の[[児井英生]]によると、溝口組の美術監督の水谷浩はそのへんをよく心得ており、本物の小道具が用意できなかったとしても、平気で偽物を用意し、立派な桐箱に入れたり、お墨付きを付けたりさえすれば、溝口はそれだけで満足したという{{Sfn|児井|1989|p=182}}。


子供の頃から怒ったりすると右肩が釣り上がるという癖があり、歩く時も右肩をいからした{{Sfn|岸|1970|pp=572-573}}。撮影現場でも俳優の演技がテストを重ねても上手くいかなかったりして機嫌が悪くなると、だんだん右肩が釣り上がったという{{Sfn|新藤|1979|pp=2-7}}。ほかの体の特徴としては、背中に一寸ほどの長さの一筋の刀の傷跡があった。これは1925年に愛人に斬りつけられた事件の時にできた傷である{{Sfn|岸|1970|pp=588-589}}{{Sfn|溝口健二の記録|1975|p=342}}。『西鶴一代女』などで助監督を務めた[[内川清一郎]]によると、溝口と一緒に風呂に入った時に、その背中の刀傷を目撃して驚いたが、それに対して溝口は「君、こんなことで驚いたら駄目ですよ。これでなきゃ女は描けませんよ」と言ったという{{Sfn|溝口健二の記録|1975|p=342}}。
{{要出典|範囲=妻の千枝子は溝口に罵倒されたことが原因で精神に異常をきたし、『元禄忠臣蔵』の撮影途中でそのことを知った際は、人目も憚らず号泣したという。スタッフ一同も「監督があれでは今日の撮影は中止かもしれない」と覚悟していたが、しばらくすると溝口が先ほどまで泣いていたような雰囲気を見せず監督の顔になって「撮影を再開しましょう」とスタッフ達に呼びかけ、これには製作陣一同も驚いたという|date=2019年7月}}。このように、{{独自研究範囲|他人に厳しいばかりではなく、自分にも厳しい人物であった|date=2019年7月}}。{{要出典|範囲=妻はその後亡くなるまで精神病院に入院していた|date=2019年7月}}。また{{要出典|範囲=妻の発狂後、溝口は妻の弟・田島松雄(日映のカメラマンだったが、[[1943年]]に[[マライ半島]]で殉職)の未亡人と同棲している|date=2019年7月}}。


溝口は若い時から古美術が好きで、暇があると京都や[[奈良県|奈良]]の仏像を見て歩いたり、後年に依田義賢らを伴って博物館や美術展へ行ったりした<ref name="郷愁を語る"/>{{Sfn|依田|1996|p=316}}。映画作りで『唐人お吉』辺りから時代考証に凝り出すようになってからは、[[ゲテモノ|下手物]](粗雑な作りの素朴で大衆的な品物)にも似た[[骨董品]]を集めるのを趣味としたが<ref name="別冊太陽年譜"/><ref>「ゲテモノ屋 溝口健二君」(『映画と演芸』1936年2月号)。{{Harvnb|著作集|2013|pp=94-95}}に所収</ref>、周囲の人の言動にたやすく動かされるところがあったため、書画骨董で何度も偽物をつかまされることがあり、[[大久保忠素]]に「偽物堂風動子」というあだ名を付けられた{{Sfn|岸|1970|pp=612-615}}。晩年は[[篆書体|篆字]]を書くことにも嵌まった{{Sfn|依田|1996|p=12}}。また、溝口は読書家でもあり{{Sfn|佐藤|2006|pp=29-30}}、たいていは人に勧められた本を乱読していたが{{Sfn|新藤|1979|p=28}}、仕事のない時は夜中の2時や3時頃まで読書をしたため、朝寝坊をするのが習慣になったという{{Sfn|津村|1977|p=197}}。
『西鶴一代女』を製作した[[児井英生]]<ref>{{Cite book|和書|author= 児井英生|year=1989|title= 伝・日本映画の黄金時代|publisher = 文藝春秋|isbn= 4163430105}}p182</ref> によると溝口監督はわがままで、権威のある人には弱く、目下のものには横暴というタイプであるため、役者からもスタッフからも嫌われていた。さらに映画で使われた道具を内緒で自分のものにしてしまったり、自分の生活費の一部を映画の製作費から支払わせていたということもあったという。


溝口は[[酒]]好きであるが、[[酒乱]]を起こすことがしばしばあり、その時は物を壊したりして周囲を困らせたという{{Sfn|津村|1977|pp=204-207}}。溝口の友人の[[渾大防五郎]]は、溝口と京都の妓楼で飲んでいた時に、あまりにも溝口の酒乱がうるさかったため、面白半分に泥酔した溝口を中庭の石灯籠に縛り付けたが、溝口はその後2時間近くも縛られながら眠っていたという{{Sfn|津村|1977|pp=204-207}}。戦後に[[織田作之助]]と料亭で夕食を共にした時も、織田が「僕もこの頃は[[井原西鶴|西鶴]]を勉強してるんですよ」と言うと、酔った溝口が突然「西鶴が君に分かるんですか。キサマなんかにわかってたまるもんか!」とキレて、織田に殴りかかろうとした。溝口は制止に入った人と取っ組み合いになり、そのうち階段から転げ落ち、傍らの座敷で放尿したが、その座敷の客は松竹時代に世話になった[[白井信太郎]]だったため、すぐに酔いがさめたという{{Sfn|津村|1977|pp=204-207}}。
{{要出典|範囲=[[成瀬巳喜男]]の『[[浮雲 (映画)|浮雲]]』が話題になっていたとき、当時の助監督の熱心な勧めによって鑑賞したが、その助監督に「成瀬には金玉が付いとるのですか」と感想を語ったことがある|date=2019年7月}}。{{独自研究範囲|両者の作風や人間性の違いを物語るエピソードである|date=2019年7月}}。


== 評価・影響 ==
{{要出典|範囲=溝口は俳優の演技に興奮すると我を忘れて手をブルブル震わせる癖があり、その振動が横にあるカメラにまで伝わるほどだった。そこで高い場所など不安定な位置からの撮影時は、本番になると溝口と同じ体重分の鉄板をカメラの横に置いて、本人は別の場所に移動してもらっていた。本番もできるだけカメラと同じ位置で見ようと、梯子の上に座布団を乗せて馬乗り状態の溝口の写真が残っている。当初は宮川一夫からこれを指摘されても全然本気にしなかったが、ある日ラッシュ(未編集の下見用フィルム)で画面のブレを目の当たりにして、「こんなに震えているのかい?」と照れくさそうに笑いながら素直にその非を認めたという|date=2019年7月}}。
[[File:Jean-Luc Godard at Berkeley, 1968 (1).jpg|thumb|フランスの映画監督[[ジャン=リュック・ゴダール]]は溝口を熱狂的に賞賛し、影響を受けた監督として知られる{{Sfn|古賀|2010|pp=186-187, 191}}。]]
溝口は1930年代頃から日本映画界で屈指の「巨匠」のひとりと呼ばれ{{Sfn|佐藤|2006|pp=214, 223}}、[[小津安二郎]]や[[黒澤明]]、[[成瀬巳喜男]]、[[木下惠介]]などと共に日本映画を代表する映画監督に位置付けられている<ref>四方田犬彦「溝口健二生誕百年によせて」({{Harvnb|映画監督溝口健二|1999|p=7}})</ref>。日本の映画批評家からは、女性を描くことで最もその手腕を発揮した作家として高く評価されてきた{{Sfn|斉藤|1999|p=280}}。[[岩崎昶]]は「日本の映画作家で女を描いたものはけっして少なくはないが、いまだに溝口以後溝口なしである」と評し<ref>[[岩崎昶]]「溝口健二」(『FC』第48号「溝口健二監督特集」、[[国立映画アーカイブ|東京国立近代美術館フィルムセンター]]、1978年6月)7頁。</ref>、[[津村秀夫]]も「人生流転の極限での人間の姿、女の姿をとらえては当代に並ぶものなき名人」であると評した<ref>[[津村秀夫]]「溝口健二論(その復調まで―)」({{Harvnb|集成|1991|p=89}})</ref>。「リアリズムの作家」としても高く評価されており<ref name="増村保造"/><ref>{{Cite book|和書 |author=岩崎昶 |date=1958 |title=日本映画作家論 |publisher=中央公論社 |page=88}}</ref>、とくに『浪華悲歌』『祇園の姉妹』は日本映画に本格的なリアリズムが確立した作品と見なされている{{Sfn|佐藤|1995|pp=360-361}}{{Sfn|都築|1995|p=54}}。しかし、戦後には「ワンシーン・ワンショットの手法のためにテンポが遅い」「題材が古くさくて前近代的である」などと批判されることもあった{{Sfn|佐藤|2006|pp=214, 223}}。


1950年代に[[ヴェネツィア国際映画祭]]で作品が3年連続で受賞してからは、国際的にも高い評価を受けた<ref name="回顧上映">[[佐藤忠男]]「ヴェネツィア国際映画祭での溝口健二回顧上映」(『キネマ旬報』1980年11月上旬号)。{{Harvnb|集成|1991|pp=206-210}}に所収</ref>。とくにフランスの映画批評誌『[[カイエ・デュ・シネマ]]』の同人で、[[作家主義]]批評を展開した若手批評家の[[ジャン=リュック・ゴダール]]、[[ジャック・リヴェット]]、[[エリック・ロメール]]などが溝口を熱狂的に賞賛した<ref name="影響">[[木下千花]]「海外の作家への影響 溝口現象を読む」({{Harvnb|映畫読本|1997|pp=140-141}})</ref>{{Sfn|古賀|2010|p=180}}。同誌が発表する{{仮リンク|年間作品トップテン|en|Cahiers du Cinéma's Annual Top 10 Lists}}では、[[1959年]]に『雨月物語』が1位に選ばれ、翌[[1960年]]には『山椒大夫』も1位に選ばれた{{Sfn|古賀|2010|p=180}}<ref>{{Cite web |url=http://alumnus.caltech.edu/~ejohnson/critics/cahiers.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120327102838/http://alumnus.caltech.edu/~ejohnson/critics/cahiers.html |archivedate=2012-3-27 |title=Cahiers du Cinema: Top Ten Lists 1951-2009 |website=alumnus.caltech.edu |accessdate=2021年7月26日}}</ref>。『カイエ・デュ・シネマ』の批評家は、溝口を日本映画や西洋映画といった枠を超えた、世界共通の映画言語である[[ミザンセーヌ]]を持つ普遍的な映画作家として高く評価した{{Sfn|古賀|2010|p=181}}<ref>[[エリック・ロメール]]「才能の普遍性」({{Harvnb|ユリイカ|1992|pp=60-63}})</ref><ref>[[ジャック・リヴェット]]「フランスから見た溝口」({{Harvnb|ユリイカ|1992|pp=64-66}})</ref>。なかでもゴダールは溝口を「最大の映画作家のひとり」と呼ぶなどして強く傾倒し、[[1966年]]の来日時には溝口の碑を訪れている{{Sfn|古賀|2010|pp=186-187, 191}}<ref>[[ジャン=リュック・ゴダール]]「簡潔さのテクニック」({{Harvnb|ユリイカ|1992|pp=56-59}})</ref>。
==影響・評価==
溝口の作品は[[ジャン=リュック・ゴダール]]をはじめ、[[フランソワ・トリュフォー]]、[[エリック・ロメール]]、[[ベルナルド・ベルトルッチ]]、[[ジャック・リヴェット]]、[[ピエル・パオロ・パゾリーニ]]、[[ビクトル・エリセ]]、マーティン・スコセッシ、アリ・アスターなど[[ヌーヴェルヴァーグ|世界の]]映画作家に多大な影響を与えた。なかでも、ゴダールの溝口への傾倒ぶりは有名で、[[1966年]](昭和41年)には京都にある溝口の碑を訪れた。再び日本を訪れ、現上皇と会った時にも溝口について言及している。彼が『ゴダールの映画史』でも、『近松物語』を引用し、『イメージの本』でも、『雨月物語』を引用している。なお、自身の監督作品『軽蔑』『[[気狂いピエロ]]』では、『山椒大夫』のラストシーンと似たショットを撮影し、オマージュを捧げた。


『カイエ・デュ・シネマ』の批評家は、1950年代後半に映画監督となり、[[ヌーヴェルヴァーグ]]の旗手として活躍したが、その作品にも溝口作品の影響が見られた<ref name="影響"/><ref name="回顧上映"/>。リヴェットの『[[修道女 (1966年の映画)|修道女]]』(1966年)は、『西鶴一代女』から影響を受けたことを監督自身が明らかにしている<ref>[[筒井武文]]「<場>の要請する衣裳力学 溝口健二とリヴェット」({{Harvnb|ユリイカ|1992|pp=150-157}})</ref>。ゴダールは『[[軽蔑 (1963年の映画)|軽蔑]]』(1963年)の終盤の海へ[[パン (撮影技法)|パンニング]]するシーンで、『山椒大夫』のラストシーンを引用した<ref name="影響"/>{{Sfn|古賀|2010|pp=186-187, 191}}。ゴダールは『[[気狂いピエロ]]』(1965年)のラストシーンでも同様のオマージュをしており{{Sfn|古賀|2010|pp=186-187, 191}}、さらに『[[メイド・イン・USA]]』(1966年)では「ドリス・ミゾグチ」という名前の日本人女性を登場させている<ref name="影響"/>。
ロシア(ソ連)の映画監督[[アンドレイ・タルコフスキー]]は、溝口健二と黒澤明を深く尊敬し、新しい映画の撮影を始める時には、黒澤明の『七人の侍』と溝口健二の『雨月物語』を必ずもう一度見直す事にしていると、公言していた。実際、『ぼくの村は戦場だった』や『アンドレイ・ルブリョフ』には『雨月物語』の影響が見て取れる。


ヌーヴェルヴァーグ以外の監督では、溝口と同様に長回しと移動撮影を得意とする[[テオ・アンゲロプロス]]が、そのスタイルについて溝口から影響を受けており<ref name="影響"/>、[[ベルナルド・ベルトルッチ]]も溝口の流麗なカメラワークの影響を受けている<ref name="越境者">柳澤一博「海外作家との共鳴 共鳴する作品群 パゾリーニ、ベルトルッチと溝口」({{Harvnb|ユリイカ|1992|pp=67-71}})</ref>。[[アンドレイ・タルコフスキー]]は『雨月物語』を好きな作品の1本に挙げている<ref>{{Cite web |url=http://www.nostalghia.com/TheTopics/Tarkovsky-TopTen.html |title=Tarkovsky's Choice |website=Nostalghia.com |accessdate=2021年7月5日}}</ref>。ほかにも[[ジャン・ユスターシュ]]{{Sfn|古賀|2010|pp=186-187, 191}}、[[オーソン・ウェルズ]]<ref>{{Cite book |last1=Welles |first1=Orson |first2=Peter |last2=Bogdanovich |title=This is Orson Welles |publisher=Da Capo Press |year=1998 |page=146}}</ref>、[[ヴィクトル・エリセ]]<ref>{{Cite book |editor=Linda C. Ehrlich |year=2007 |title=The Cinema of Victor Erice: An Open Window |publisher=Scarecrow Pr |page=8}}</ref>、[[ピーター・ボグダノヴィッチ]]<ref>{{Cite web |url=https://www.poetryfoundation.org/harriet-books/2011/01/peter-bogdanovich-defines-poetry-on-film |date=2011-1-18 |title=Peter Bogdanovich defines poetry on film |website=Poetry Foundation |accessdate=2021年7月8日}}</ref>、[[マーティン・スコセッシ]]<ref>{{Cite web |url=https://www.criterion.com/current/top-10-lists/214-martin-scorsese-s-top-10 |date=2014-1-29 |title=Martin Scorsese’s Top 10 |website=The Criterion Collection |accessdate=2021年7月5日}}</ref>、[[アリ・アスター]]<ref>{{Cite web |url=https://www.criterion.com/current/top-10-lists/339-ari-aster-s-top-10 |date=2018-6-13 |title=Ari Aster’s Top 10 |website=The Criterion Collection |accessdate=2021年7月5日}}</ref>などの監督が溝口を高く賞賛したり、その影響を受けたりしている。
又、ギリシャのテオ・アンゲロプロスは、溝口健二のワンシーン・ワンカットの手法を学び、吸収したと、公言している。


== 作品 ==
[[英国映画協会|BFI]]の『Sight&Sound』誌選出の「映画史上最高の作品ベストテン」(1952年(昭和27年)から10年おきに選出)では、『雨月物語』が1962年度(第4位)と1972年度(第10位)でランクインされており、同ランキングに作品が選ばれている日本人監督は溝口と小津、[[黒澤明]]の3人だけである。
=== 監督作品 ===
溝口の監督作品は92本あるが、そのうち戦前期の大部分の作品は現存していない。以下の作品一覧は『溝口健二 情炎の果ての女たちよ、幻夢へのリアリズム』{{Sfn|映畫読本|1997|pp=58-130}}と『映画監督 溝口健二:生誕百年記念』<ref name="全作品"/>による。
; 凡例
×印はフィルムが現存しない作品([[失われた映画]])<br/>〇印は[[サイレント映画]]<br/>□印は[[サウンド版]]作品<br/>◎印は[[カラー映画]]
{{Columns-list|2|
* [[愛に甦へる日 (1923年の映画)|愛に甦へる日]](1923年、[[日活向島撮影所|日活向島]])×〇
* 故郷(1923年、日活向島)×〇
* 青春の夢路(1923年、日活向島)×〇
* 情炎の港(1923年、日活向島)×〇
* 敗残の唄は悲し(1923年、日活向島)×〇
* [[813 (小説)#1923年版|813]](1923年、日活向島)×〇
* 霧の港(1923年、日活向島)×〇
* 夜(1923年、日活向島)×〇
* 廃墟の中(1923年、日活向島)×〇
* 血と霊(1923年、日活向島)×〇
* 峠の唄(1923年、[[日活撮影所|日活京都]])×〇
* 哀しき白痴(1924年、日活京都)×〇
* 暁の死(1924年、日活京都)×〇
* 現代の女王(1924年、日活京都)×〇
* 女性は強し(1924年、日活京都)×〇
* 塵境(1924年、日活京都)×〇
* 七面鳥の行衛(1924年、日活京都)×〇
* 伊藤巡査の死(1924年、日活京都)×〇 ※[[鈴木謙作]]、[[大洞元吾]]、[[近藤伊与吉]]と共同監督
* さみだれ草紙(1924年、日活京都)×〇
* 歓楽の女(1924年、日活京都)×〇
* 恋を断つ斧(1924年、日活京都)×〇 ※[[細山喜代松]]と共同監督
* 曲馬団の女王(1924年、日活京都)×〇
* 無銭不戦(1925年、日活京都)×〇
* 噫特務艦関東(1925年、日活京都)×〇
* 学窓を出でて(1925年、日活京都)×〇
* 大地は微笑む 第一篇(1925年、日活京都)×〇
* 白百合は歎く(1925年、日活京都)×〇
* 赫い夕陽に照されて(1925年、日活京都)×〇
* [[ふるさとの歌]](1925年、日活京都)〇
* 街上のスケッチ(1925年、[[日活撮影所|日活大将軍]])×〇 ※オムニバス映画『小品映画集』の一篇
* 人間(1925年、日活大将軍)×〇
* 乃木将軍と熊さん(1925年、日活大将軍)×〇
* 銅貨王(1926年、日活大将軍)×〇
* [[紙人形春の囁き]](1926年、日活大将軍)×〇
* [[己が罪#1926年版|新説己が罪]](1926年、日活大将軍)×〇
* 狂恋の女師匠(1926年、日活大将軍)×〇
* 海国男児(1926年、日活大将軍)×〇
* 金(1926年、日活大将軍)×〇
* 皇恩(1927年、日活大将軍)×〇
* [[慈悲心鳥#1927年版|慈悲心鳥]](1927年、日活大将軍)×〇
* 人の一生 人生万事金の巻(1928年、日活大将軍)×〇
* 人の一生 浮世は辛いねの巻(1928年、日活大将軍)×〇
* 人の一生 クマとトラ再会の巻(1928年、日活大将軍)×〇
* 娘可愛や(1928年、日活大将軍)×〇
* [[日本橋 (戯曲)#1929年版|日本橋]](1929年、[[日活撮影所|日活太秦]])×〇
* 朝日は輝く(1929年、日活太秦)×〇
* [[東京行進曲]](1929年、日活太秦)〇
* [[都会交響楽]](1929年、日活太秦)×〇
* [[藤原義江のふるさと]](1930年、日活太秦)
* [[唐人お吉 (小説)#1930年版|唐人お吉]](1930年、日活太秦)×〇
* しかも彼等は行く(1931年、日活太秦)×〇
* 時の氏神(1932年、日活太秦)×
* 満蒙建国の黎明(1932年、[[新興キネマ]]・[[入江ぷろだくしょん|入江プロ]]・中野プロ)×
* [[瀧の白糸#1933年版|瀧の白糸]](1933年、入江プロ)〇
* 祇園祭(1933年、新興キネマ)×〇
* 神風連(1934年、新興キネマ)×〇
* [[愛憎峠]](1934年、[[日活多摩川撮影所|日活多摩川]])×□
* [[折鶴お千]](1935年、第一映画)□
* マリヤのお雪(1935年、第一映画)
* [[お嬢お吉]](1935年、第一映画)※高島達之助と共同監督
* [[虞美人草 (映画)#1935年版|虞美人草]](1935年、第一映画)
* [[浪華悲歌]](1936年、第一映画)
* [[祇園の姉妹]](1936年、第一映画)
* [[愛怨峡]](1937年、新興キネマ)
* 露営の歌(1938年、新興キネマ)×
* あゝ故郷(1938年、新興キネマ)×
* [[残菊物語#1939年版|残菊物語]](1939年、[[松竹京都撮影所|松竹京都]])
* [[浪花女]](1940年、特作プロ)×
* [[芸道一代男 (映画)|芸道一代男]](1941年、特作プロ)×
* [[元禄忠臣蔵#映画「元禄忠臣蔵 前編・後編」|元禄忠臣蔵 前篇]](1941年、興亜映画)
* [[元禄忠臣蔵#映画「元禄忠臣蔵 前編・後編」|元禄忠臣蔵 後篇]](1942年、松竹京都)
* 団十郎三代(1944年、松竹京都)×
* 宮本武蔵(1944年、松竹京都)
* 名刀美女丸(1945年、松竹京都)
* 必勝歌(1945年、松竹京都)※[[田坂具隆]]、[[清水宏 (映画監督)|清水宏]]、[[マキノ雅弘|マキノ正博]]と共同監督
* 女性の勝利(1946年、松竹京都)
* [[歌麿をめぐる五人の女 (1946年の映画)|歌麿をめぐる五人の女]](1946年、松竹京都)
* [[女優須磨子の恋]](1947年、松竹京都)
* [[夜の女たち]](1948年、松竹京都)
* [[わが恋は燃えぬ]](1949年、松竹京都)
* [[雪夫人絵図#1950年版|雪夫人絵図]](1950年、[[新東宝]]・滝村プロ)
* [[お遊さま]](1951年、[[大映京都撮影所|大映京都]])
* [[武蔵野夫人#映画|武蔵野夫人]](1951年、[[東宝]])
* [[西鶴一代女]](1952年、新東宝・児井プロ)
* [[雨月物語 (映画)|雨月物語]](1953年、大映京都)
* [[祇園囃子 (1953年の映画)|祇園囃子]](1953年、大映京都)
* [[山椒大夫#映画|山椒大夫]](1954年、大映京都)
* [[噂の女 (1954年の映画)|噂の女]](1954年、大映京都)
* [[近松物語]](1954年、大映京都)
* [[楊貴妃 (1955年の映画)|楊貴妃]](1955年、[[大映東京撮影所|大映東京]]・[[ショウ・ブラザーズ]])◎
* [[新・平家物語 (映画)|新・平家物語]](1955年、大映京都)◎
* [[赤線地帯]](1956年、大映東京)
}}


=== その他の作品 ===
没後50年にあたる[[2006年]](平成18年)には、<!--[[2003年]]の小津生誕100周年、[[2005年]]の成瀬生誕100周年同様-->DVDBOXのリリースや[[名画座]]などでの回顧特集が組まれ、改めて注目を浴びた。
特記がない限りは『溝口健二集成』の「溝口健二作品フィルモグラフィー」による{{Sfn|集成|1991|pp=315-316}}。
{{Columns-list|2|
; 映画
* 京子と倭文子(1926年、[[阿部豊]]監督) - 応援監督
* 阿里山の侠児(1927年、[[田坂具隆]]監督) - 応援監督
* 地球は廻る(1928年、田坂具隆・阿部豊・[[内田吐夢]]監督) - 顧問監督{{Sfn|佐相|2008|p=228}}
* 蔚山沖の会戦(1928年、[[東坊城恭長]]・畑本秋一監督) - 総指揮
* 一九三一年日活オンパレード(1931年、阿部豊監督) - 出演<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkatsu.com/movie/12894.html |title=一九三一年日活オンパレード |website=[[日活]] |accessdate=2021年6月14日}}</ref>
* 初姿(1936年、[[坂根田鶴子]]監督) - 監督補導
* 晴小袖(1940年、[[牛原虚彦]]監督) - 構成
* [[血槍富士]](1955年、内田吐夢監督) - 企画協力
* [[祇園の姉妹#リメイク版|祇園の姉妹]](1956年、[[野村浩将]]監督) - 原作
* [[大阪物語 (1957年の映画)|大阪物語]](1957年、[[吉村公三郎]]監督) - 原作
; ラジオドラマ
* [[土 (小説)#ラジオドラマ|土]](1937年、[[NHKラジオ第1放送]]) - 演出<ref name="集成年譜"/>
* 思ひ出の記(1938年、NHKラジオ第1放送) - 演出<ref name="集成年譜"/>
* 吉野葛(1939年、NHKラジオ第1放送) - 演出<ref name="集成年譜"/>
; 舞台
* 折鶴お千(1935年、[[大阪劇場]]) - 演出<ref name="集成年譜"/>
}}


== 受賞歴 ==
== 受賞歴 ==
『映画監督 溝口健二:生誕百年記念』の「溝口健二・年譜」による<ref name="別冊太陽年譜"/>。
===個人===
* 1954年:[[ブルーリボ (映画)|ブルーリボ賞]]監督賞近松物語
* 1936年:[[キネマ旬報ベスト・テ]] 日本映画ベスト・テ1位(祇園の姉妹
* 1952年:[[ヴェネツィア国際映画祭]] [[国際賞]](『西鶴一代女』)
* 1954年:[[芸術選奨]]
* 1953年:ヴェネツィア国際映画祭 [[銀獅子賞]](『雨月物語』)
* 1954年:ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞(『山椒大夫』)
* 1954年:[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]] 監督賞(『近松物語』)
* 1955年:[[芸術選奨]](『近松物語』)
* 1955年:[[紫綬褒章]]
* 1955年:[[紫綬褒章]]
* 1956年:[[毎日映画コンクール]]特別賞
* 1956年:[[勲四等]][[瑞宝章]](没後追贈)
* 1956年:[[勲四等|勲四等瑞宝章]]
* 1956年:[[毎日映画コンクール]] 特別賞(没後受賞)
* 1956年:ブルーリボン賞 日本映画文化賞(没後受賞)


===作品===
== ドキュメンタリー作品 ==
* 『[[ある映画監督の生涯 溝口健二の記録]]』(1975年、[[新藤兼人]]監督)
*[[ヴェネツィア国際映画祭]]
* 『時代を超える溝口健二』(2006年、櫻田明広監督)
**『西鶴一代女』:国際賞
**『雨月物語』:サン・マルコ銀獅子賞
**『山椒大夫』:サン・マルコ銀獅子賞
**『新・平家物語』:出品
**『楊貴妃』:出品
**『赤線地帯』:出品
*その他
**『西鶴一代女』:[[BBC]]選出「21世紀に残したい映画100本」
**『雨月物語』:[[アカデミー賞]][[アカデミー衣裳デザイン賞]]ノミネート、[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]経歴賞
**『近松物語』:[[第8回カンヌ国際映画祭]]出品

==おもな監督作品==
1953年(昭和28年)までの作品は[[著作権の保護期間]]が完全に終了した(公開後50年と監督死後38年の両方を満たす)と考えられている。このためいくつかの作品が現在[[パブリックドメインDVD|格安版DVD]]で発売されている。

ただし、[[淀川長治]]が絶賛した『[[狂恋の女師匠]]』などに代表される戦前の作品の多くが現在も紛失しており、『東京行進曲』、『瀧の白糸』などのように現存するものも欠落が多いため、デジタルリマスターにより修復・復元されている。
{| class="wikitable"
|-
!style="white-space: nowrap;"|公開年
!style="white-space: nowrap;"|作品名
!style="white-space: nowrap;"|製作 / 配給
!style="white-space: nowrap;"|脚本、脚色
!style="white-space: nowrap;"|主な出演者
!style="white-space: nowrap;"|上映時間ほか
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="11"|[[1923年]]
| 『[[愛に甦へる日 (1923年の映画)|愛に甦へる日]]』
| rowspan="10"|[[日活向島撮影所]] / 日活
| [[若井治]]
| [[山本嘉一]]、[[森きよし]]、[[小栗武雄]]、[[小泉嘉輔]]
| 60分/[[白黒]]/[[サイレント映画|無声]]
|-
| 『[[故郷 (1923年の映画)|故郷]]』
| rowspan="4"|溝口健二
| 山本嘉一、[[吉田豊作]]、小栗武雄、[[南光明]]、[[中村吉次]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[青春の夢路]]』
| [[風間宗六|吉村哲哉]]、[[宮島啓夫]]、[[酒井米子]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[情炎の巷]]』
| 南光明、森きよし、[[三桝豊]]、小栗武雄
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[敗残の唄は悲し]]』
| 吉田豊作、[[澤村春子]]、[[宮島啓夫]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[813 (小説)#1923年版|813]]』
| [[田中総一郎 (脚本家)|田中総一郎]]、溝口健二
| 南光明、[[星野弘喜]]、青山万里子、瀬川鶴子、吉田豊作
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[霧の港]]』
| 田中総一郎
| 市川春衛、澤村春子、[[森英治郎]]、山本嘉一
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[夜 (1923年の映画)|夜]]』
| rowspan="4"|溝口健二
| [[葛木香一]]、[[保瀬薫]]、酒井米子、[[稲垣浩]]、[[五味国男]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[廃墟の中]]』
| 澤村春子、葛木香一、小泉嘉輔、山本嘉一
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[血と霊]]』
| [[江口千代子]]、市川春衛、[[水島亮太郎]]、酒井米子、三桝豊
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[峠の唄]]』
| rowspan="2"|[[日活京都撮影所]] / 日活
| 山本嘉一、澤村春子、三桝豊、[[堀富貴子]]、水島亮太郎
| -分/白黒/無声
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="11"|[[1924年]]
| 『[[悲しき白痴]]』
| [[高島達郎]]
| 小泉嘉輔、酒井米子、葛木香一、[[高木桝二郎]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[暁の死]]』
| 日活京都撮影所第二部
| [[伊藤松雄]]
| 小泉嘉輔、[[鈴木歌子]]、澤村春子、[[木藤茂]]、水島亮太郎
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[現代の女王]]』
| rowspan="15"|日活京都撮影所第二部 / 日活
| [[村田実]]
| 酒井米子、南光明、三桝豊
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[女性は強し]]』
| [[日活文芸部]]
| 三桝豊、酒井米子、[[松本静枝]]、[[宮部静子]]、木藤茂
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[塵境]]』
| 田中総一郎
| [[鈴木伝明]]、[[高木永二]]、[[浦辺粂子]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[七面鳥の行衛]]』
| [[畑本秋一]]
| 北村純一、高木永二、[[徳川良子]]、小泉嘉輔、[[稲垣浩]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[伊藤巡査の死]]』
| 日活文芸部
| [[佐藤円治]]、[[林正夫 (俳優)|林正夫]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[さみだれ草紙]]([[紅殻 (映画)|紅殻]])』
| [[横山鉱寿]]
| 鈴木歌子、[[桂照子]]、小泉嘉輔、稲垣浩
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[恋を断つ斧]]』
| [[楠山律]]
| 浦辺粂子、若葉馨、三桝豊、小泉嘉輔
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[歓楽の女]]』
| rowspan="2"|畑本秋一
| 山本嘉一、三桝豊、酒井米子、吉田豊作
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[曲馬団の女王]]』
| 浦辺粂子、鈴木伝明、[[近藤伊与吉]]
| -分/白黒/無声
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="10"|[[1925年]]
| 『[[噫特務艦関東]]』
|
| [[中村英雄]]、[[中原光雄]]、南光明、山本嘉一、浦辺粂子
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[無銭不戦]]』
| 畑本秋一
| 山本嘉一、浦辺粂子、水木京子、高木永二
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[学窓を出でて]]』
| 溝口健二
| 南光明、三桝豊、森清、[[高島愛子]]、近藤伊与吉
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[大地は微笑む 第一篇]]』
| 畑本秋一
| 高木永二、[[中野英治]]、[[梅村蓉子]]、[[東坊城恭長]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[白百合は歎く]]』
| [[清水竜之介]]
| [[岡田嘉子]]、高木永二、御子柴杜雄、近藤伊与吉、山本嘉一
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[赫い夕陽に照されて]]』
| 畑本秋一
| 中野英治、南光明、[[渡辺邦男]]、[[伊藤真吉]]、梅村蓉子
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[ふるさとの歌]]』
| [[日活関西撮影所]]教育部 / 日活
| 清水竜之助
| 木藤茂、高木桝次郎、[[伊藤寿栄子]]、[[辻峰子]]、[[川又賢太郎]]
| 50分/白黒/無声
|-
| 『[[小品映画集 街のスケッチ]]』
| rowspan="4"|[[日活大将軍撮影所]] / 日活
| 溝口健二
| 東坊城恭長、岡田嘉子、星野弘喜、高木永二
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[人間 前後篇]]』
| rowspan="2"|畑本秋一
| 中野英治、岡田嘉子、高木永二、市川春衛、[[坂東巴左衛門]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[乃木将軍と熊さん]]』
| 山本嘉一、小泉嘉輔、[[磯川金之助]]、浦辺粂子
| -分/白黒/無声
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="6"|[[1926年]]
| 『[[銅貨王]]』
| 溝口健二
| [[加藤司郎]]、[[西条加代子]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[紙人形春の囁き]]』
| 日活大将軍撮影所 / 日活新劇部
| 溝口健二
| 山本嘉一、[[島耕二]]、梅村蓉子、市川春衛、[[岡田時彦]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[新説己が罪]]』
| rowspan="10"|日活大将軍撮影所 / 日活
| 溝口健二
| [[砂田駒子]]、高木永二、南光明、市川春衛、[[尾上松葉]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[狂恋の女師匠]]』
| [[川口松太郎]]
| 酒井米子、中野英治、岡田嘉子、小泉嘉助、[[田中春男]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[海国男児]]』
| [[武田晃 (脚本家)|武田晃]]、[[小林正 (脚本家)|小林正]]、[[山本嘉次郎]]
| [[広瀬恒美]]、[[根岸東一郎]]、御子柴杜雄、砂田駒子、[[柴山一郎]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[金 (映画)|金]]』
| 畑本秋一、武田晃
| 小泉嘉輔、[[小松みどり (1891年生)|小松みどり]]、[[谷幹一 (1901年生の俳優)|谷幹一]]
| -分/白黒/無声
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="2"|[[1927年]]
| 『[[皇恩]]』
| 畑本秋一
| 市川春衛、高木永二、南光明、[[滝花久子]]、山本嘉一
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[慈悲心鳥#1927年版|慈悲心鳥]]』
| 畑本秋一
| 山本嘉一、中野英治、岡田時彦、高木永二、[[夏川静江]]
| -分/白黒/無声
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="4"|[[1928年]]
| 『[[人の一生 人生万事金の巻 第一篇]]』
| 畑本秋一
| 小泉嘉輔、[[津島ルイ子]]、市川春衛、根岸東一郎
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[人の一生 浮世は辛いねの巻 第二篇]]』
| 畑本秋一
| 小泉嘉輔、根岸東一郎、滝花久子、市川春衛
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[人の一生 クマとトラ再会の巻 第三篇]]』
| 畑本秋一
| 小泉嘉輔、根岸東一郎、滝花久子
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[娘可愛や]]』
| 畑本秋一、溝口健二
| 小泉嘉輔、[[北原夏江]]、[[杉山昌三九]]
| -分/白黒/無声
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="4"|[[1929年]]
| 『[[日本橋 (戯曲)#1929年版|日本橋]]』
| 日活太秦撮影所 / 日活
| 溝口健二、[[近藤経一]]
| 岡田時彦、梅村蓉子、酒井米子、高木永二、夏川静江
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[朝日は輝く]]』
| 日活太秦撮影所 / 日活
| [[木村千疋男]]
| 中野英治、[[村田宏寿]]、[[土井平太郎]]、[[沢蘭子]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[東京行進曲]]』
| 日活太秦撮影所 / 日活
| [[木村千疋男]]
| 夏川静江、高木永二、[[小杉勇]]、[[入江たか子]]、滝花久子
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[都会交響楽]]』
| 日活太秦撮影所 / 日活
| [[岡田三郎]]、畑本秋一、小林正
| 夏川静江、小杉勇、入江たか子、高木永二
| -分/白黒/無声
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="2"|[[1930年]]
| 『[[藤原義江のふるさと]]』
| 日活太秦撮影所 / 日活
| [[如月敏]]
| [[藤原義江]]、夏川静江、小杉勇
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[唐人お吉 (小説)#1930年版|唐人お吉]]』
| 日活太秦撮影所 / 日活
| 畑本秋一
| 山本嘉一、梅村蓉子、島耕二、滝花久子
| -分/白黒/無声
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="2"|[[1931年]]
| 『[[しかも彼等は行く 前編]]』
| 日活太秦撮影所 / 日活
| 畑本秋一
| 梅村蓉子、浦辺粂子、[[菅井一郎]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[しかも彼等は行く 後編]]』
| 日活太秦撮影所 / 日活
| 畑本秋一
| 梅村蓉子、浦辺粂子、[[高津愛子]]、菅井一郎
| -分/白黒/無声
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="2"|[[1932年]]
| 『[[時の氏神]]』
| 日活太秦撮影所 / 日活
| 畑本秋一、小林正
| 島耕二、夏川静江
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[満蒙建国の黎明]]』
| [[入江ぷろだくしょん]]・[[中野プロダクション]] / [[新興キネマ]]
| [[上島量]]、[[増田真二]]
| 入江たか子、中野英治、[[松本泰輔]]、[[山形直代|山県直代]]、[[桂珠子]]
| -分/白黒/無声
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="2"|[[1933年]]
| 『[[瀧の白糸#1933年版|瀧の白糸]]』
| 入江ぷろだくしょん / 新興キネマ
| 東坊城恭長、[[館岡謙之助]]、増田真二、[[清涼卓明]]
| 入江たか子、岡田時彦、村田宏寿、菅井一郎、[[見明凡太郎]]
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[祇園祭 (1933年の映画)|祇園祭]]』
| 新興キネマ
| 溝口健二
| [[森静子]]、岡田時彦、[[鈴木澄子]]、菅井一郎、浦辺粂子
| -分/白黒/無声
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="2"|[[1934年]]
| 『[[神風連 (映画)|神風連]]』
| 入江ぷろだくしょん / 新興キネマ
| 溝口健二
| 入江たか子、[[月形龍之介]]、小杉勇、中野英治、滝花久子
| -分/白黒/無声
|-
| 『[[愛憎峠]]』
| [[日活多摩川撮影所]] / 日活
| 川口松太郎
| [[山田五十鈴]]、[[夏川大二郎]]、鈴木伝明、[[市川小文治]]、[[原駒子]]
| 102分/白黒/サウンド版
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="4"|[[1935年]]
| 『[[折鶴お千]]』
| [[第一映画社]] / [[松竹キネマ]]
| [[高島達之助]]
| 山田五十鈴、夏川大二郎、[[羅門光三郎|芳沢一郎]]、[[芝田新]]、[[鳥居正]]
| 96分/白黒/解説版
|-
| 『[[マリヤのお雪]]』
| 第一映画社 / 松竹キネマ
| 高島達之助
| 山田五十鈴、原駒子、夏川大二郎、中野英治、[[歌川絹枝]]
| -分/白黒
|-
| 『[[お嬢お吉]]』
| 第一映画社 / 松竹キネマ
| 川口松太郎
| 山田五十鈴、梅村蓉子、原駒子、[[浅香新八郎]]、芝田新
| -分/白黒
|-
| 『[[虞美人草 (映画)#1935年版|虞美人草]]』
| 第一映画社 / 松竹キネマ
| [[高柳春雄]]
| 夏川大二郎、[[月田一郎]]、[[武田一義 (映画プロデューサー)|武田一義]]、[[大倉千代子]]
| 75分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="3"|[[1936年]]
| 『[[初姿]]』
| 第一映画社 / 松竹キネマ
| 高柳春雄
| 月田一郎、大倉千代子、梅村蓉子、小泉嘉輔、葛木香一
| -分/白黒
|-
| 『[[浪華悲歌]]』
| [[大映嵯峨野撮影所|第一映画社嵯峨野撮影所]]、松竹キネマ
| [[依田義賢]]
| 山田五十鈴、梅村蓉子、大倉千代子、[[進藤英太郎]]、浅香新八郎
| 89分/白黒
|-
| 『[[祇園の姉妹]]』
| 第一映画社 / 松竹キネマ
| 依田義賢
| 山田五十鈴、梅村蓉子、[[志賀廼家弁慶]]、進藤英太郎
| 95分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;"|[[1937年]]
| 『[[愛怨峡]]』
| [[東映東京撮影所|新興キネマ東京大泉撮影所]] / 新興キネマ
| 依田義賢、溝口健二
| [[山路ふみ子]]、[[河津清三郎]]、[[清水将夫]]、三桝豊
| 108分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="2"|[[1938年]]
| 『[[露営の歌 (映画)|露営の歌]]』
| [[新興キネマ東京撮影所]] / 新興キネマ
| 畑本秋一
| 河津清三郎、山路ふみ子、菅井一郎、[[歌川八重子]]、田中春男
| 82分/白黒
|-
| 『[[あゝ故郷]]』
| 新興キネマ東京撮影所 / 新興キネマ
| 依田義賢
| 河津清三郎、山路ふみ子、清水将夫、[[加藤精一 (俳優)|加藤精一]]、[[山口勇]]
| 64分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;"|[[1939年]]
| 『[[残菊物語#1939年版|残菊物語]]』
| [[松竹京都撮影所]] / 松竹
| 依田義賢
| [[花柳章太郎]]、[[森赫子]]、[[河原崎権十郎 (3代目)|三代目河原崎権十郎]]、梅村蓉子、[[高田浩吉]]
| 146分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;"|[[1940年]]
| 『[[浪花女]]』
| [[特作プロダクション]]
| 依田義賢
| [[坂東好太郎]]、[[田中絹代]]、高田浩吉、[[川浪良太郎]]
| 145分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="2"|[[1941年]]
| 『[[芸道一代男 (映画)|芸道一代男]]』
| 特作プロダクション
| 依田義賢
| [[中村鴈治郎 (2代目)|初代中村扇雀]]、高田浩吉、[[林成年]]、[[嵐芳三郎 (5代目)|五代目嵐芳三郎]]
| 101分/白黒
|-
| 『[[元禄忠臣蔵#映画「元禄忠臣蔵 前編・後編」|元禄忠臣蔵 前篇]]』
| [[興亜映画]]、松竹京都撮影所 / 松竹
| [[原健一郎]]、依田義賢
| [[河原崎長十郎 (4代目)|四代目河原崎長十郎]]、[[中村翫右衛門 (3代目)|三代目中村翫右衛門]]、[[河原崎國太郎 (5代目)|五代目河原崎國太郎]]、[[市川右太衛門]]、[[三浦光子]]
| 112分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;"|[[1942年]]
| 『[[元禄忠臣蔵#映画「元禄忠臣蔵 前編・後編」|元禄忠臣蔵 後篇]]』
| 松竹京都撮影所 / 松竹
| 原健一郎、依田義賢
| 四代目河原崎長十郎、三代目中村翫右衛門、[[高峰三枝子]]、梅村蓉子、山路ふみ子
| 111分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="2"|[[1944年]]
| 『[[団十郎三代]]』
| 松竹京都撮影所 / 松竹
| 川口松太郎
| [[三代目河原崎権十郎]]、[[飯塚敏子]]、[[沢村アキヲ]]、[[京マチ子]]、田中絹代
| 65分/白黒
|-
| 『[[宮本武蔵 (菊池寛)|宮本武蔵]]』
| 松竹京都撮影所 / 松竹
| 川口松太郎
| 四代目河原崎長十郎、三代目中村翫右衛門、田中絹代
| 55分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="2"|[[1945年]]
| 『[[名刀美女丸]]』
| 松竹京都撮影所 / 松竹
| 川口松太郎
| 花柳章太郎、山田五十鈴、[[大矢市次郎]]、[[柳永二郎]]、[[伊志井寛]]
| 67分/白黒
|-
| 『[[必勝歌]]』
| 松竹京都撮影所 / 松竹
| [[清水宏 (映画監督)|清水宏]]、[[岸松雄]]
| [[佐野周二]]、大矢市次郎、田中絹代、小杉勇、[[上原謙]]
| 117分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="2"|[[1946年]]
| 『[[女性の勝利]]』
| [[松竹大船撮影所]] / 松竹
| [[野田高梧]]、[[新藤兼人]]
| 田中絹代、[[桑野通子]]、[[高橋豊子]]、三浦光子
| 84分/白黒
|-
| 『[[歌麿をめぐる五人の女 (1946年の映画)|歌麿をめぐる五人の女]]』
| 松竹京都撮影所 / 松竹
| 依田義賢
| [[坂東三津五郎 (8代目)|六代目坂東簑助]]、田中絹代、坂東好太郎、[[川崎弘子]]、飯塚敏子
| 74分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;"|[[1947年]]
| 『[[女優須磨子の恋]]』
| 松竹京都撮影所 / 松竹
| 依田義賢
| 田中絹代、[[山村聡]]、[[東野英治郎]]、[[千田是也]]、[[青山杉作]]
| 96分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;"|[[1948年]]
| 『[[夜の女たち]]』
| 松竹京都撮影所 / 松竹
| 依田義賢
| 田中絹代、[[高杉早苗]]、[[角田富江]]、[[永田光男]]、村田宏寿
| 75分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;"|[[1949年]]
| 『[[わが恋は燃えぬ]]』
| 松竹京都撮影所 / 松竹
| 依田義賢、新藤兼人
| 田中絹代、[[水戸光子]]、[[小沢栄太郎]]、菅井一郎、[[三宅邦子]]
| 84分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;"|[[1950年]]
| 『[[雪夫人絵図]]』
| [[滝村プロダクション]]・[[新東宝]] / 新東宝
| 依田義賢、[[舟橋和郎]]
| [[木暮実千代]]、[[上原謙]]、[[久我美子]]、[[浜田百合子]]、山村聡
| 88分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="2"|[[1951年]]
| 『[[お遊さま]]』
| [[大映京都撮影所]] / [[大映]]
| 依田義賢
| 田中絹代、[[乙羽信子]]、[[堀雄二]]、柳永二郎、進藤英太郎
| 95分/白黒
|-
| 『[[武蔵野夫人#映画|武蔵野夫人]]』
| [[東宝]]
| 依田義賢
| 田中絹代、[[轟夕起子]]、[[森雅之 (俳優)|森雅之]]、[[片山明彦]]、山村聡
| 92分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;"|[[1952年]]
| 『[[西鶴一代女]]』
| [[児井プロダクション]]・新東宝 / 新東宝
| 依田義賢、溝口健二
| 田中絹代、[[山根寿子]]、[[三船敏郎]]、[[宇野重吉]]、菅井一郎
| 148分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="2"|[[1953年]]
| 『[[雨月物語 (映画)|雨月物語]]』
| 大映京都撮影所 / 大映
| 川口松太郎、依田義賢
| 京マチ子、水戸光子、田中絹代、森雅之、小沢栄
| 97分/白黒
|-
| 『[[祇園囃子 (1953年の映画)|祇園囃子]]』
| 大映京都撮影所 / 大映
| 依田義賢
| 木暮実千代、[[若尾文子]]、河津清三郎、進藤英太郎、菅井一郎
| 85分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="3"|[[1954年]]
| 『[[山椒大夫#映画|山椒大夫]]』
| 大映京都撮影所 / 大映
| 八尋不二、依田義賢
| 田中絹代、[[花柳喜章]]、[[香川京子]]、進藤英太郎、[[河野秋武]]
| 124分/白黒
|-
| 『[[噂の女 (1954年の映画)|噂の女]]』
| 大映京都撮影所 / 大映
| 依田義賢、[[成沢昌茂]]
| 田中絹代、[[中村雀右衛門 (4代目)|七代目大谷友右衛門]]、久我美子、進藤英太郎、[[浪花千栄子]]
| 84分/白黒
|-
| 『[[近松物語]]』
| 大映京都撮影所 / 大映
| 依田義賢
| [[長谷川一夫]]、香川京子、[[南田洋子]]、進藤英太郎、小沢栄
| 102分/白黒
|-
|style="white-space: nowrap;" rowspan="2"|[[1955年]]
| 『[[楊貴妃 (1955年の映画)|楊貴妃]]』
| [[大映東京撮影所]]・[[ショウ・ブラザーズ|邵氏父子]]
| [[陶秦]]、川口松太郎、依田義賢、成沢昌茂
| 京マチ子、森雅之、山村聡、進藤英太郎、小澤榮
| 98分/カラー
|-
| 『[[新・平家物語 (映画)|新・平家物語]]』
| 大映京都撮影所 / 大映
| 依田義賢、成沢昌茂、[[辻久一]]
| [[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]、久我美子、林成年、木暮実千代、大矢市次郎
| 108分/カラー
|-
|style="white-space: nowrap;"|[[1956年]]
| 『[[赤線地帯]]』
| 大映東京撮影所 / 大映
| 成沢昌茂
| 京マチ子、若尾文子、木暮実千代、[[三益愛子]]、[[町田博子]]
| 86分/白黒
|}

== その他の作品 ==
* [[京子と倭文子]](1926年4月22日公開、[[阿部豊]]監督)応援監督
* [[阿里山の侠児]](1927年5月29日公開、[[田坂具隆]]監督)応援監督
* [[地球は廻る 第一部 過去篇]](1928年5月12日公開、田坂具隆監督)監督顧問
* [[地球は廻る 第二部 現代篇]](1928年5月12日公開、阿部豊監督)監督顧問
* [[地球は廻る 第三部 空想篇]](1928年5月12日公開、[[内田吐夢]]監督)監督顧問
* [[建設の人々]](1934年11月29日公開、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]監督)応援監督
* [[初姿]](1936年3月5日公開、[[坂根田鶴子]]監督)監督補導
* [[晴小袖]](1940年10月15日公開、[[牛原虚彦]]監督)構成
* [[祇園の姉妹 (1956年の映画)|祇園の姉妹]](1956年5月18日公開、[[野村浩将]]監督)原作
* [[大阪物語 (1957年の映画)|大阪物語]](1957年3月6日公開、[[吉村公三郎]]監督)原作
* [[ある大阪の女]](1962年2月24日公開、[[須川栄三]]監督)原作

== 出演作品 ==
* [[日活オンパレード]]([[1930年]][[12月31日]]公開、[[阿部豊]]監督、[[日活]])

== 参考書籍・映像資料 ==
*[[津村秀夫]] 『溝口健二というおのこ』 [[実業之日本社]]、1958年、新版[[芳賀書店]]、1977年
*[[依田義賢]] 『溝口健二の人と芸術』 映画芸術社、1964年、[[社会思想社]]〈現代教養文庫〉、1996年、新版田畑書店、2003年、ISBN 4803800294)
*[[新藤兼人]] 『ある映画監督 溝口健二と日本映画』 、[[岩波新書]]青版、1976年
**編著 『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』 映人社、1975年、※下記の新藤監督作品を再構成したもの。
*[[佐藤忠男]] 『溝口健二の世界』 [[平凡社ライブラリー]]、2006年 ISBN 4582765939 初版[[筑摩書房]]、1982年
*[[四方田犬彦]]編 『映画監督 溝口健二』 [[新曜社]]、1999年 ISBN 4788506920
*[[蓮實重彦]]・[[山根貞男]]編 『国際シンポジウム溝口健二』 [[朝日選書]]:[[朝日新聞出版]]、2007年
*佐相勉・西田宣善編 『映画読本 溝口健二 情炎の果ての女たちよ幻夢へのリアリズム』、フィルムアート社、1997年
**『溝口健二・全作品解説』 佐相勉  [[近代文芸社]]、※2001年からシリーズ刊行中。
**西田宣善編 『溝口健二集成』 [[キネマ旬報社]]、1991年
*『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ 詩と批評]] 特集・溝口健二』、[[1992年]]10月号、 [[青土社]]
* 映画『[[ある映画監督の生涯 溝口健二の記録]]』 監督[[新藤兼人]]、1975年、[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]] ※ドキュメンタリー、関係者のインタビュー集
* 映画『時代を越える溝口健二』 監督[[櫻田明広]]、2006年、[[角川ヘラルド映画]] ※ドキュメンタリー
* 溝口健二著,[[佐相勉]]編『溝口健二著作集』発行[[オムロ]]、発売[[キネマ旬報社]]、2013年 ※溝口健二による文章・発言・署名原稿を出来うる限り収集


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
=== 出典 ===
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{{Reflist|25em}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author=[[岸松雄]] |date=1970 |title=人物・日本映画史1 |publisher=[[ダヴィッド社]] |isbn= |ref={{Harvid|岸|1970}}}}
* {{Cite book|和書 |author=[[木下千花]] |date=2016-5 |title=溝口健二論 映画の美学と政治学 |publisher=[[法政大学出版局]] |isbn=978-4588420177 |ref={{Harvid|木下|2016}}}}
* {{Cite book|和書 |author=[[児井英生]] |date=1989-3 |title=伝・日本映画の黄金時代 |publisher=[[文藝春秋]] |isbn=978-4163430102 |ref={{Harvid|児井|1989}}}}
* {{Cite book|和書 |author=古賀重樹 |date=2010-11 |title=1秒24コマの美 黒澤明・小津安二郎・溝口健二 |publisher=日本経済新聞出版 |isbn=978-4532167639 |ref={{Harvid|古賀|2010}}}}
* {{Citation|和書 |editor=佐相勉、[[西田宣善]] |date=1997-9 |title=溝口健二 情炎の果ての女たちよ、幻夢へのリアリズム |series=映畫読本 |publisher=フィルムアート社 |isbn=978-4845997718 |ref={{Harvid|映畫読本|1997}}}}
* 佐相勉『溝口健二・全作品解説』1~13、[[近代文藝社]]、2001年9月~2017年10月。
** {{Cite book|和書 |author= |date=2001-9 |title=溝口健二・全作品解説1 1923年・日活向島時代 |publisher= |isbn=978-4773368154 |ref={{Harvid|佐相|2001}}}}
** {{Cite book|和書 |author= |date=2008-1 |title=溝口健二・全作品解説5 初の鏡花もの「日本橋」 |publisher= |isbn=978-4773375145 |ref={{Harvid|佐相|2008}}}}
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== 関連項目 ==
=== 関連文献 ===
* 大西悦子『溝口健二を愛した女 女流映画監督第一号 坂根田鶴子の生涯』[[三一書房]]、1993年9月。ISBN 978-4380932540。
* [[映画監督一覧]] - [[日本の映画監督一覧]]
* 長門洋平『映画音響論 溝口健二映画を聴く』[[みすず書房]]、2014年1月。ISBN 978-4622078098。
* [[日活撮影所]]
* [[蓮實重彦]]、[[山根貞男]]編『国際シンポジウム溝口健二 没後50年「MIZOGUCHI2006」の記録』[[朝日新聞社]]、2007年5月。ISBN 978-4022599223。
* ミシェル・メニル『溝口健二』近藤矩子訳、三一書房〈現代のシネマ〉、1970年4月。ISBN 978-4380705182。


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Kenji Mizoguchi}}
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* {{jmdb name |0107320 }}
* {{imdb name|0003226}}
* {{allcinema name |120609 }}
* {{jmdb name|0107320}}
* {{kinejun name |115553 }}
* {{allcinema name|120609}}
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* {{Movie Walker name|id=109250|name=溝口健二}}
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* {{青空文庫著作者|1272}}
* {{imdb name |id=0003226 }}
* {{Kotobank}}
* {{青空文庫著作者|1272|溝口 健二}}
* [http://www.kadokawa-pictures.jp/mizoken/ WEB MIZOKEN 溝口健二の映画(角川ヘラルド映画 - 現・角川映画)]
* [http://www.fsinet.or.jp/~fight/mizoguchi/ ORII'S WEBSITE/溝口健二 - 人と作品] <small>※個人による研究サイト</small>


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2021年8月29日 (日) 09:10時点における版

みぞぐち けんじ
溝口 健二
溝口 健二
1950年代頃
生年月日 (1898-05-16) 1898年5月16日
没年月日 (1956-08-24) 1956年8月24日(58歳没)
出生地 日本の旗 日本東京市本郷区湯島新花町(現在の東京都文京区湯島)
死没地 日本の旗 日本京都府京都市上京区
職業 映画監督
ジャンル 映画
活動期間 1923年 - 1956年
主な作品
瀧の白糸』(1933年)
浪華悲歌』(1936年)
祇園の姉妹』(1936年)
残菊物語』(1939年)
西鶴一代女』(1952年)
雨月物語』(1953年)
山椒大夫』(1954年)
近松物語』(1954年)
 
受賞
ヴェネツィア国際映画祭
銀獅子賞
1953年雨月物語
1954年山椒大夫
国際賞
1952年西鶴一代女
ブルーリボン賞
監督賞
1954年近松物語
日本映画文化賞
1956年
その他の賞
毎日映画コンクール
特別賞
1956年
備考
日本映画監督協会会長(1937年 - 1942年・1949年)、同理事長(1950年 - 1955年)
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溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年5月16日 - 1956年8月24日)は、日本映画監督である。日本映画を代表する監督のひとりで、1920年代から1950年代にわたるキャリアの中で、『祇園の姉妹』(1936年)、『残菊物語』(1939年)、『西鶴一代女』(1952年)、『雨月物語』(1953年)、『山椒大夫』(1954年)など約90本の作品を監督した。ワンシーン・ワンショットや移動撮影を用いた映像表現と完全主義的な演出で、社会や男性の犠牲となる女性の姿をリアルに描いたことで知られている。小津安二郎黒澤明とともに国際的にも高い評価を受けており、1950年代にはヴェネツィア国際映画祭で作品が3年連続で受賞し、フランスヌーヴェルヴァーグの監督などにも影響を与えた。

生涯

生い立ち

1898年5月16日東京市本郷区湯島新花町11番地(現在の東京都文京区湯島2丁目辺り)に、父・善太郎と母・まさの長男として生まれた[1][2]。3人姉弟の2番目で、7歳上の姉に寿々、7歳下の弟に善男がいる[3]。父方の祖父の彦太郎は、明治維新後に神田請負業を営み、日清戦争北清事変では軍夫を募集して戦地に送っていた[4]。善太郎は大工[5](屋根葺職人という説もある[6])で、一儲けしようと折からの日露戦争を当て込んで軍隊用雨合羽の製造事業を始めたが、いざ売り出そうとした時に戦争が終結したため失敗した[5]。まさは御殿医の家の娘だったが、夫に忠実に苦労続きの生活に耐え、やがて病に倒れた[1]。善太郎の事業失敗で借財がかさみ、家も差し押さえられたため、1905年に一家は浅草玉姫町(現在の台東区清川辺り)に引っ越した[2]。この時期の溝口家は貧窮のどん底生活を送り、口減らしのために寿々は養女に出された[5]

1905年に溝口は私塾の田川学校に入学し、1907年には近所に開校した石浜小学校へ転入した[2]。同級生には後年に仕事を共にする川口松太郎がいた[7]1911年秋、小学6年生の溝口は岩手県盛岡市の親戚のもとへ預けられ、翌1912年に同地の小学校で卒業するまでの約半年を過ごしたが、盛岡へ預けられた理由は溝口にも分からなかったという[8]。東京の実家に戻ると中学進学を希望したが、父の反対で叶わなかった。養子の口もいくつかあったがいずれも上手くいかず、退屈な毎日を送っているうちにリウマチを患い、約1年間の闘病生活を送った[8]。溝口は一家を貧困に陥れ、母を苦労させた無能力な父を憎むようになり、その関係は悪化していった[7][8][注 1]。この頃、寿々は養家から日本橋の芸者屋に奉公に出され、やがて半玉になると客で子爵松平忠正に落籍され、妾宅に囲われる身となった(後に正妻となる[注 2][8][11]。一家は寿々からの仕送りによって経済的に支えられ、暮らしも少しは楽になった[2][8]

1913年、溝口は絵を描くのが好きだったことから、浅草の浴衣の図案屋に弟子入りした。同じ図案屋仲間の弟子には、松竹蒲田撮影所の監督で小津安二郎の師匠となる大久保忠素がいた。しかし、浴衣の図案に物足りなさを感じ、日本橋浜町の模様絵師に弟子入りした[8]。この頃、一家は寿々が父の隠居所としてあてがった日本橋新場橋(現在の日本橋と兜町の境)の家へ転居した[2]1914年12月には貧苦の家庭で苦労し続けた母が亡くなり、それにより溝口の父に対する反発はさらに強まった[8][11]。やがて溝口は本格的に画家の道を志し、1916年黒田清輝の主宰する赤坂の葵橋洋画研究所に入り、1年間にわたり洋画の基礎を学んだ[2][注 3]。この頃、研究所近くの劇場ローヤル館ローシーオペラを上演しており、その背景画を研究所が引き受けていたことから、溝口もそれを手伝っているうちにオペラに嵌まり、浅草オペラに通い詰めた[9]。また、寄席講談落語に親しむなど江戸趣味に凝り始め、トルストイゾラモーパッサンなどの外国文学や尾崎紅葉夏目漱石泉鏡花永井荷風らの小説を読み漁った[9][12]

洋画研究所を出てからも絵の勉強は続けていたが、それだけでは食っていけないため、花柳界育ちで顔の広い寿々の口利きで、1917年名古屋の陶器会社の図案部に職を得た。しかし、溝口はどうにも働く気にはなれず、入社翌日に東京へ舞い戻った[12]。翌1918年神戸又新日報社で広告の図案係を募集していることを知り、銀座にある東京支社に志願すると簡単に採用され、月給40円で神戸の本社へ赴任した[13]。溝口は広告取りなどの仕事をする一方で、自作の短歌を紙面に載せたり、当時盛んだった新劇に熱を上げたりしていた[2][3]。この頃は気の合った仲間3人と関西学院大学前に一戸を借り、「三昧荘」と名付けて合宿していた[13]。しかし、神戸又新日報も1年で辞めてしまい、東京に戻ると寿々の家に居候した[2]。20歳を過ぎても定職がない溝口を寿々たちは心配したが、溝口は仕事を探そうともせず、図書館や美術館に通ったり、浅草でオペラや活動写真を見物したりして日々を過ごした[9][14]

映画界入り

1920年、溝口は向島琵琶を教えていた友人の所へ遊びに行くうちに、琵琶を習いに来ていた日活向島撮影所の俳優の富岡正と親しくなり、富岡の手引きで向島撮影所に出入りするようになった。そのうち新進監督だった若山治と知り合い、若山の撮影台本の清書などを手伝っていたが、同年5月に若山に勧められるまま向島撮影所に入社した[14]。当時、映画の仕事は社会的に低く見られていたため、父や姉は入社にあまり賛成しなかったが、溝口がどうしても入りたいと言ったため、ようやく許可が下りた[15]。溝口ははじめ俳優を志望していたが、最古参監督の小口忠の監督助手に入れられ、俳優の手配をしたり、毎日スタッフの弁当の伝票を書いたりするなどの雑用もこなした[14]1922年には田中栄三監督の『京屋襟店』で助監督につき、田中にその能力を認められた[3]。しかし、同年11月の『京屋襟店』完成試写後に13人の所属俳優と阪田重則などの監督が連袂退社するという騒動が起き、その前後には小口も日活を退社したため、スタッフが手薄になった。溝口はこうした状況の中で、田中の推挙により監督昇進を果たした[16][17]

1923年2月、溝口は若山の脚本による『愛に甦る日』で監督デビューした[2]。同月には監督2作目の『故郷』を発表したが、検閲でズタズタにカットされたため、やむなく琵琶劇をつなぎに入れて公開した[注 4]。溝口は5月公開の『敗残の唄は悲し』で初めて注目され、7月公開の『霧の港』で新進監督としての評価を得た[2]。同年9月1日には関東大震災が発生し、それにより溝口の自宅は焼失し、父や甥とともに向島撮影所に避難した[20]。撮影所は軽い被害を受けただけですみ、溝口は早速会社の命令でカメラマンの気賀靖吾とともに震災後の市内の実況フィルムを撮影し、次に震災を題材にした劇映画『廃墟の中』を監督した[20][21]。しかし、向島撮影所は閉鎖と決まり、11月に溝口を含む所属者たちは京都大将軍撮影所に移った[20]。大将軍時代は1ヶ月に1本のペースで幅広いジャンルの作品を撮影したが、そのほとんどが不評で、スランプの時期と言われた[2][22]

この頃の溝口は、毎夜のごとく祇園先斗町木屋町通などで飲み歩いていたが、1925年2月頃に木屋町のやとなだった一条百合子と親しくなり、やがて同棲生活を始めた[3][23]。しかし、百合子とは痴話喧嘩が絶えず[23]、同年5月末に『赫い夕陽に照らされて』のロケ撮影から帰宅後、百合子に背中を剃刀で斬りつけられた[3][24]。傷は大したことがなくて命に別状はなかったが、この刀傷沙汰はスキャンダルとして新聞の三面記事に書き立てられたため、『赫い夕陽に照らされて』の監督を降ろされ[注 5]、さらに会社から3ヶ月の謹慎処分を受けた[2][24][25]。溝口は起訴を免れて東京へ行った百合子を追い、ヨリを戻したが、結局別れて京都に戻り、9月に日活に復社した[3][25][注 6]。翌1926年公開の『紙人形春の囁き』と『狂恋の女師匠』はスランプを脱した作品として高く評価され、前者はこの年に始まったキネマ旬報の日本映画ベスト・テンで7位に選ばれた[2][26]

1926年末、溝口は俳優の中野英治に連れられて行った大阪のダンスホールで、ダンサーの嵯峨千恵子(本名は田島かね、通称千恵子)と知り合い、次第に親密な関係になった[27][28][29]。しかし、千恵子にはオペラ歌手の夫がおり、彼を世話していたヤクザの親分から呼び出しがかかった。青ざめた溝口は、撮影所庶務課員で笹井末三郎とも親しかった永田雅一の力を借りて千恵子の身辺を清算し、翌1927年8月に永田の媒酌で結婚した[29][30]。この年から1928年にかけて溝口の作品数は減り、体調を崩すこともしばしばあった[2][31]。1928年5月には撮影所が大将軍から太秦に移転し、溝口はその新撮影所の脚本部長に就任し、しばらく監督業から離れた[3][31]。9月には昭和天皇の御大典記念映画を監督する話が出たが、撮影所の都合で延期となり、次に溝口初の時代劇を大河内傅次郎主演で撮る話も出たが、これも実現しなかった[31]1929年1月公開の泉鏡花原作『日本橋』でようやく監督に戻り、同年は主題歌と共にヒットした『東京行進曲』や、当時隆盛した左翼思想を反映した内容の『都会交響楽』で成功を収めた[3]

トーキー時代

戦前期の溝口の代表作のひとつである『浪華悲歌』(1936年)のポスター。

1929年5月以降、日本ではアメリカトーキーが公開され、早速国内でもトーキーが作られ始めた[32]1930年に溝口もミナ・トーキー方式を使用して、部分的に歌やセリフを付けたパート・トーキー作品『藤原義江のふるさと』を撮影したが、雑音が多くて技術的には失敗した[2][32]1932年には自身初のオール・トーキー作品『時の氏神』を撮影したが、撮影終了直後の4月4日に日活を退社し、白井信太郎の誘いで新興キネマに移籍した[2]。同社で最初の仕事は、入江たか子の独立プロである入江プロダクションの第一回作品『満蒙建国の黎明』(1932年)で、2か月間に渡り満州各地でロケ撮影をしたが、編集作業が手に負えぬほど無茶苦茶に撮ってしまい、途中で編集を放棄して雲隠れしたという[3][33]。その次に再び入江プロで鏡花原作の『瀧の白糸』(1933年)を撮影した。この作品はキネマ旬報ベスト・テンで2位に選ばれ、サイレント映画時代の溝口のピークとなった[34][35]

1934年3月、溝口は新興キネマと契約が切れたことで退社し、日活の製作部長だった永田雅一の要請で日活多摩川撮影所に入社した[3][35]。同社では山田五十鈴主演の『愛憎峠』を撮ったのみで、8月に永田が日活を退社すると溝口も行動を共にし、9月に永田らと第一映画社の創立に参加した[3]。同社では鏡花原作の『折鶴お千』(1935年)をはじめ、『マリアのお雪』『虞美人草』(1935年)などを撮影したが、いずれも低調な評価で再びスランプに突入した[36]1936年公開の『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』では批評家から高い評価を受け、キネマ旬報ベスト・テンでは前者が3位、後者が1位に選ばれ、スランプを脱することができた[37]岸松雄はこの2作を「日本映画史上に輝かしい金字塔を打ち立てた」作品と評し[37]佐藤忠男は「それまでもベテランとして尊敬されていた溝口を、さらに巨匠という最高級の呼び名で呼ばれる存在にした」作品と述べている[38]

1936年3月、数十人の日本映画の代表的監督が、互いの親睦を図るとともに、日本映画の向上に尽くす目的で日本映画監督協会を結成した[39]。溝口もその創立メンバーに名を連ね、これを機に小津安二郎清水宏山中貞雄などと親交を結ぶようになった[39][40]。同年9月、第一映画社が経営難で解散し、溝口は翌月に上京して新興キネマ大泉撮影所に入社し、山路ふみ子主演の『愛怨峡』(1937年)、『露営の歌』『あゝ故郷』(1938年)を撮影した[2][37]。その間の1937年6月には、日本映画監督協会初代会長の村田実が死去し、溝口はその後任として2代目会長に就任した[2]1939年には白井信太郎に招かれて松竹京都撮影所で1本撮ることになり、村松梢風原作の『残菊物語』を監督した。この作品はキネマ旬報ベスト・テンで2位に選ばれた[40]。同年秋には清水宏、内田吐夢熊谷久虎らとともにキネマ旬報創刊20周年記念の満州視察団に加わり、帰国後の12月には内閣の映画委員に任命された[3][40]

松竹時代

1939年末に溝口は新興キネマを退社し、翌1940年松竹と契約を結んだ[2]。溝口は早速『渡邊崋山』と『五代友厚』の企画を提出したが、どちらも会社側が乗らずに中止した[41]。同年3月、松竹は時代劇映画の質的向上のため、封切日を定めずに時間をかけて秀作を製作する特作プロダクションを設立し、溝口はその1作目で田中絹代主演の『浪花女』(1940年)と、2作目で初代中村鴈治郎の追善記念映画『芸道一代男』(1941年)を撮影した[2]。1940年11月には内閣映画委員として、紀元二千六百年式典に参列した[42]。この頃の溝口は急激に愛国心が高まり、日本民族の精神を鼓舞するような真の国民映画を撮りたいという熱意から、1941年真山青果原作、前進座のユニット出演による『元禄忠臣蔵』前後篇(前篇は1941年、後篇は1942年公開)を撮影した[42][43]。この作品は戦時体制下の映画会社の統合によって特作プロが合流した興亜映画(同年末に松竹に吸収された)で製作され、溝口が美術や考証を徹底したことで莫大な製作費がかかったが、興行的にも批評的にも成功を収めることはできなかった[2][42][43]

『元禄忠臣蔵 後篇』を撮影中の1941年12月、溝口の妻の千恵子が精神に異状をきたした[44][45]。千恵子は勝気で気性の激しい女性であり[46]、溝口にぞんざいな口を利いたり、月給を全部取り上げて小遣いもろくに与えなかったりしたが、その一方で溝口の作品を客観的かつ正確に批評してくれる人物でもあった[45][47]。2人は時には激しく喧嘩することもあったが、溝口は妻に弱く、精神的に頼りきっていた[47]。そんな妻の病気を知った溝口は号泣したが、妻を精神病院に入院させるとすぐに撮影現場に戻り、何事もなかったかのように撮影を続行した[44]。溝口は妻の病気の原因が自分にあると思い込み、その後も悩み続けた[47]。千恵子は終生病院を出ることはなかったが[46]、溝口はその後千恵子の弟の未亡人である田島ふじを事実上の妻に迎え、その2人の娘を養女とした[48]

1942年、溝口が会長を務める日本映画監督協会が戦時統合で解散し、国策団体の大日本映画協会に合流することになり、溝口は同協会の理事に就任した[49][50]。この頃の溝口の映画作りは難航し、織田作之助の脚本で大阪物を作ろうとしたり、大化の改新を描く作品を検討したりしたが、いずれも実現はしなかった[3]1943年、軍部の要請で松竹が企画した日華親善映画『甦へる山河』の監督を務めることになり、上海へ約1ヶ月間の視察旅行をした[50]。この視察旅行は軍の委嘱によるものだったが、溝口は軍属としての待遇が将官待遇ではなく佐官であることに不満を表明し、「上海の陸軍報道部長が大佐であるのに、溝口が将官待遇では命令が出せない」と言われて納得したという[50][51]。しかし、この作品もロケの困難さや製作費がかかりすぎるなどの理由で製作延期となった[50]。その後は戦局が大きく傾き、物資窮乏で劇映画の使用フィルムが制限される中で、『団十郎三代』『宮本武蔵』(1944年)、『名刀美女丸』(1945年)といった1時間程度の中編を撮影し、さらには情報局募集国民歌の宣伝映画『必勝歌』(1945年)を共同監督したが、いずれの作品も失敗作と見なされている[43][50][52]

終戦後の1946年、溝口は人手不足だった松竹大船撮影所に呼ばれて『女性の勝利』を撮影した[3]。同年4月には松竹従業員組合の委員長に選出されたが、就任の挨拶でいきなり「この後、諸君に命令いたします」と言い、組合員たちを唖然とさせたという[3][53]。結局、溝口はすぐに組合の仕事から手を引き、京都に戻って『歌麿をめぐる五人の女』(1946年)、『女優須磨子の恋』(1947年)を撮影したが、いずれも不評で戦中からのスランプが続いた[50][54][55]。とくに松井須磨子が主人公の『女優須磨子の恋』は、衣笠貞之助監督の東宝作品『女優』(1947年)と競作になるも、評価が集中したのは『女優』の方であり、作品的に敗北を喫した[50][55]1948年公開の『夜の女たち』はキネマ旬報ベスト・テンで3位に選ばれるなど高評価を受け、溝口の復活を印象付けたが、翌1949年公開の『わが恋は燃えぬ』は再び失敗作となり、もとの低調さに後戻りした[50][55]

1949年5月、日本映画監督協会が任意団体として再建され、溝口は再びその会長に就任した(翌1950年に協会は事業協同組合に改組され、それに伴い溝口の肩書きは会長から理事長に変更した)[56]。この頃の溝口は、六代目尾上菊五郎主演で松竹が企画した『名工柿右衛門』の監督に決まっていたが、同年7月の菊五郎の死去により中止となった[3]。さらに原節子主演で予定した『美貌と白痴』も中止となり、その次に戦時中から映画化を望んでいた井原西鶴原作の『西鶴一代女』に着手しようとしたが、これもまた松竹と意見が合わなかったため中止となり、これが原因で翌1950年に松竹を退社した[3][57]

晩年

近松物語』(1954年)のポスター。

松竹を退社してフリーとなった溝口は、新東宝滝村和男プロダクションの提携で舟橋聖一原作の『雪夫人絵図』(1950年)、旧知の永田雅一が社長を務める大映谷崎潤一郎原作の『お遊さま』(1951年)、東宝大岡昇平原作の『武蔵野夫人』(1951年)を撮影したが、この3本も失敗作となり、長いスランプから脱出できずにいた[2][58][59]。それでも『雪夫人絵図』の時の監督料は200万円で、当時の日本映画界で最も高給取りの監督となった[60]1951年7月の『武蔵野夫人』公開直後には、クレジットタイトルに「監督」ではなく「演出」と表記されていたことから、日本映画監督協会を通じてクレジットの表記を「監督」に統一することを各社に徹底させ、映画監督の権限や表現の自由を守ることを訴えた[61][注 7]

1951年9月、黒澤明監督の『羅生門』(1950年)が第12回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞した。これに強い刺激を受けた溝口は、念願の企画だった『西鶴一代女』を新東宝と児井英生プロダクションの提携で撮影した[2][62]。この作品は興行的に失敗したが、同年の第13回ヴェネツィア国際映画祭に出品され、国際賞を受賞した[2]。この受賞は溝口に大きな自信を与え、ようやく戦後の長いスランプから脱出することができた[29][63][64]。その後、溝口は東宝との契約を1本残していたことから、石坂洋次郎の短編小説『憎いもの』の映画化に着手したが、シナリオをめぐり東宝と意見が対立したため実現には至らなかった[64]。結局、東宝との契約が未消化のまま、同年秋には大映と専属契約を結んだ[64]

1953年、溝口は大映専属の1作目として、上田秋成原作の『雨月物語』を撮影した[64]。この作品も第14回ヴェネツィア国際映画祭に出品され、溝口は『祇園囃子』撮影後の8月、脚本の依田義賢や主演の田中絹代らとともに映画祭に出席するためイタリアへ渡った[3][65]日蓮宗の信者である溝口は、滞在先のホテルの部屋に日蓮像の軸をかけて受賞を祈願したという[40][66]。その甲斐あってか『雨月物語』は第2席賞である銀獅子賞を受賞したが、この年は金獅子賞の授与がなかったため、実質的な最高賞となった[2][40]。翌1954年には森鴎外原作の『山椒大夫』が第15回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞し、これで3年連続の映画祭受賞となった[65]。この年は『噂の女』と近松門左衛門原作の『近松物語』も撮影しており、後者ではブルーリボン賞の監督賞を受賞した[65]

この頃、日本映画界ではカラー映画が普及し始めていたが、溝口も1954年6月に永田やカメラマンの宮川一夫らとともにカラー映画研究のため渡米した[3]。翌1955年には自身初のカラー映画として、大映と香港ショウ・ブラザーズの合作映画『楊貴妃』を撮影し、その次にカラー映画2作目となる吉川英治原作の『新・平家物語』を撮影した[3]。この2本は商業的成功を収め、『楊貴妃』は第16回ヴェネツィア国際映画祭に出品されたが、4年連続の受賞とはならなかった[2][67]。同年8月、大映取締役の欠員1名の補充で衣笠貞之助とともに候補に挙がったが、衣笠が辞退したため、9月の株主総会で正式に大映取締役に就任し、重役監督となった[3]。10月には日本映画監督協会理事長を小津安二郎に交替した[68]。そして11月には映画監督として初めて紫綬褒章を受章した[3][67]

死去

1956年、溝口は最後の監督作となる『赤線地帯』を撮影したが、その前後から好きな酒が美味しくないと言い出したり、歯茎から出血したりするなど、体調に異変が見られた[69][70]。この作品の完成後、溝口は次回作として『大阪物語』の製作準備を始めたが、この時も夕方になると微熱が出たり、足が紫色に変色したりするなどしたため、5月に製作準備を中止して京都府立医科大学附属病院の特別病棟に入院した[2][70][71]。溝口は骨髄性白血病と診断されたが、病名は本人には知らされず、永田などの大映首脳部のみに知らされた[2][70]。溝口は毎日のように輸血をしたが[72]、白血病は不治の病だったため、そのまま回復に向かうことはなく、8月24日午前1時55分に58歳で死去した[2][70][71]。亡くなる前日には「もう新涼だ。早く撮影所の諸君と楽しく仕事がしたい」と絶筆を残していた[73]。溝口作品で美術監督を務めた水谷浩は、溝口の死去当日にデスマスクを制作した[74]

8月30日、青山斎場で大映による社葬が営まれた[69]。戒名は常光院殿映徳日健居士[2]。墓は東京の池上本門寺の子院である大坊本行寺に建てられた[29]。京都の満願寺にも分骨されて碑が建てられ、永田雅一が碑の側面に「世界的名監督」と刻ませた[2][29]。溝口の訃報はちょうど開催中だった第17回ヴェネツィア国際映画祭の会場にも届き、出品されていた『赤線地帯』の上映に先立ち、追悼の言葉が捧げられた[2][75]。撮影に至らなかった『大阪物語』は、1957年吉村公三郎監督によって映画化された[2]。同年8月には産経新聞社の主宰で、日本映画の最優秀作品の監督やスタッフに贈られる「溝口賞」が創設されたが、授与はわずか3回で終了した[76][注 8]

作風

テーマとスタイル

溝口は生涯を通して、封建的な社会や男性の犠牲となる女性を描き続けた[77][78]。映画研究者の斉藤綾子によると、溝口が描く女性には2つのタイプがあるという。1つは、男に尽くし、社会の犠牲となり、身を持ち崩したり極限まで貶められたりするが、それでも情を忘れないひたむきな女性、すなわち男の立身出世を助けるために喜んで身を捧げ、自己犠牲を遂げる女性である。その例は『残菊物語』『雨月物語』『山椒大夫』に見られるが[77]、映画批評家の佐藤忠男は、泉鏡花原作ものの『日本橋』『滝の白糸』『折鶴お千』でも女芸人や芸者が若者の男の出世を助け、その犠牲となって身を滅ぼす姿が描かれていると指摘している[79]。もう1つは、同じく社会や男性の犠牲になるが、そのような社会や運命に必死に抵抗する女性であり、その例は『浪華悲歌』『祇園の姉妹』『夜の女たち』『赤線地帯』に見られ、娼婦や芸者などの淪落の女性を描く場合が多い[77]。佐藤によると、その一方で男性の描き方は、女性を助けることにおいて無力であったり、女性に対して卑怯な態度をとったりする場合が多く、強くて頼もしい男らしい男は滅多に登場しないという[80]

溝口の特徴的なスタイルは、自然主義的なリアリズムである[81]。溝口は人間とその生活する場所を徹底的に観察し、虚飾のない生身の人間を赤裸々に描くことで、人間のありのままの姿を捉えた[82][83]。また、その人間は冷徹な目線で突き放すようにして描いている[84]。溝口作品の脚本家の依田義賢によると、溝口はよく「人間の体臭が匂うように描かなくてはだめ」「かんきつ(奸譎)な人間を描いてほしい」と注文したという[85]。溝口のリアリズムは『唐人お吉』(1930年)と『しかも彼等は行く』(1931年)で確立し[34]、『浪華悲歌』『祇園の姉妹』で頂点に達した[37][82]。『浪華悲歌』では大阪の職業婦人、『祇園の姉妹』では祇園の芸者を主人公にして、男性本位の社会に反抗し、犠牲となる女性の姿を冷徹に描き、セリフで関西弁を徹底的に使用するなどしてリアリズムを追求した[37][38]。佐藤は、この2作を「日本映画のリアリズムはここでひとつの完成を見た」と評している[86]

リアリズムと並ぶ溝口の特徴的なスタイルは、唯美的傾向に近い情緒を持つロマンティックなスタイルである[87][88]。この作風は下町情緒を描いた『紙人形春の囁き』『狂恋の女師匠』で定まりはじめ、泉鏡花原作の『日本橋』『滝の白糸』『折鶴お千』や、1930年代の『神風連』『愛憎峠』『マリアのお雪』『虞美人草』の「明治物」と呼ばれる作品など、明治風俗を様式的に表現する新派悲劇的な作品などに見られた[36][88][89]。松竹時代の『残菊物語』『浪花女』『芸道一代男』も明治物の系譜に位置する情緒的な作品であるが[90][91]、この3本は歌舞伎文楽などの伝統芸能の世界を描いた作品であることから「芸道三部作」と呼ばれている[92]

溝口は新しい動向に敏感なところもあり、時流や流行の変化に便乗して新しい題材の作品も作っている[93][94]。日活向島時代にはルパンを翻案した探偵ものの『813』(1923年)や、ドイツ表現主義の影響を受けた『血と霊』(1923年)を撮影した[94]。1920年代の左翼思想の高まりを背景に、左翼的イデオロギーを打ち出した傾向映画が流行すると、溝口も『都会交響楽』『しかも彼等は行く』で傾向映画に挑戦した[95]。1930年代になると、満州事変直後に『満蒙建国の黎明』、日中戦争開戦後に『露営の歌』を作るなど、軍国主義の時流に便乗した作品も手がけている[94]。終戦直後にGHQの指導で民主主義啓蒙を目的としたアイデア映画が作られるようになると、溝口も『女性の勝利』『女優須磨子の恋』『わが恋は燃えぬ』でアイデア映画を手がけたが、この3本は女性の自立や解放をテーマに描いていることから「女性解放映画三部作」と俗称されている[96][97]

撮影手法

溝口の最も特徴的な撮影手法は、ショットを割らずにカメラを長回しすることで、現実の時間をそのまま捉えるワンシーン・ワンショットの撮影と、クローズアップを極力排してロングショット(遠景ショット)やフルショット(全身ショット)を多用したことである[98][99]。溝口がこの手法を採用したのは、ショットを割ることで演技の流れが中断されるのを嫌い、またクローズアップやカットバックなどの技法を使うことで「ごまかし」が利き、完全な演技を求めることができなくなると考えたためである[100][101]。溝口が初めてワンシーン・ワンショットを採用したのは『唐人お吉』であり[102]、『残菊物語』でひとつの様式として完成した[103]。『残菊物語』では主人公の男と女が夜の堀端を歩きながら話をするシーンで、ずっと歩きながら話をする2人の姿を、路面より低い堀の中から見上げるような角度でカメラを構え、5分以上の長回しによるワンシーン・ワンショットの移動撮影を行っている[103][104]。流れるように巧みな移動撮影も、溝口の特徴的な撮影手法である[105]。とくにクレーンを使用した移動撮影を好み、クレーンを必要としない撮影の時でもわざわざクレーンを使うことがあった[106]

製作方法

撮影現場の溝口(1950年代頃)。

溝口は完全主義者であり、つねに俳優やスタッフにベストを尽くして高度な仕事をするよう求めた[107][108]。俳優の演技を絞り、スタッフに無理な注文を出し、自分が気に入るまで何度もやり直させた[109]。しかし、自分からイメージを伝えたり細かく指示を出したりすることはなく、あらゆる問題の解決方法は俳優やスタッフに委ね、その答えが自分の求めるものになるまで待った[110][111]。溝口は俳優やスタッフに考えさせ、努力や工夫をつくさせたうえで修正し、決定するという方法をとることで、その力を最大限に引き出させた[108][110]。俳優やスタッフを罵倒し、怒鳴りつけることもあり[63]、また役に立たない人物や要求に応えきれない演技をする俳優を容赦なく仕事から降ろした[112]。そのため溝口はしばしば「サディスト」「暴君」「ゴテ健(「ゴテる」は不平不満を言うこと)」などと呼ばれた[108][113][114]

脚本は自分では書かず、依田義賢成澤昌茂などの脚本家に執筆させた[111][115]。溝口の脚本作りの方法は、脚本家が書いた第1稿を酷評し、そこから何度も書き直させ、自分の気に入るような脚本に仕上げるというもので、完成するまでに10稿以上も練り直すこともあった[107][115][116]。最終稿が完成してから撮影を始めても、撮影現場に脚本家を呼び寄せてセリフを修正させた[115][117]。その時は、当日に撮影するシーンのセリフを黒板に書き、打合せをしながら俳優にセリフを喋らせてみて、不自然なところや喋りくいところなどを直した[100][115][117]。また、溝口は絵コンテを作らず[118]、撮影現場でリハーサルをする俳優の動きを見ながら、カメラのアングルやポジション、ショットの長さなどを決めた[105][108]

リアリズムを志向した溝口は、映画美術でも本物の小道具を使ったり、スタッフにその時代の風俗や生活様式などを徹底的に調べさせたりして完璧さを求めた[83][119]。溝口は『唐人お吉』で時代考証の重要性を認識し[3]、1930年代に明治物を作った頃から考証に凝るようになり、小道具のランプひとつに細かく注文を出して1日中粘ったこともあったという[88][120]。美術や衣装や建築などの考証に専門家を招くことも多く、日本画家の甲斐庄楠音を時代風俗や衣装の考証に何度も起用したほか、『狂恋の女師匠』では美術考証に小村雪岱、『残菊物語』では美術考証に木村荘八、『元禄忠臣蔵』では武家建築考証に大熊喜邦、民家建築考証に藤田元春を起用した[111][121]。こうした溝口の美術に対する完璧さの追求が頂点に達したのは『元禄忠臣蔵』である。この作品では徹底した史料調査に基づくリアルな忠臣蔵を志向し、大熊喜邦が所有する江戸城の平面図を基にして松の廊下のセットを原寸大で再現した[83][122]

俳優への演技指導は、具体的にこうしろという指示は出さずに「やってみてください」と言うだけで、あとは満足のいく演技になるまで同じ芝居を何度もやり直させ、俳優に自分で演技や動きを工夫させるようにした[107][108][123]。悩んだ俳優がどうすればいいのか訊いても「それはあなたが考えてください。あなたは役者でしょう」と突き返した[123]。溝口は具体的に演技指導をしない代わりに、「反射していますか」と何度も俳優に問いかけた。この言葉には、俳優が相手のセリフや動きに反応して動くことができるかという意味がある[108][124]。演技のやり直しは何十回もやらせることがあり、例えば『楊貴妃』では山村聰にワンカットで42回のテストを繰り返させ、『赤線地帯』では三益愛子の舞台的な歩き方が気に入らなくて80回ものテストをさせた[125]。また、俳優たちには、役になり切るために努力することを求めた[126]。文楽の世界を描く『浪花女』では、主演の田中絹代にたくさんの文楽の専門書を読んで勉強するよう命じ、『山椒大夫』でも女奴隷役の香川京子に中世日本の奴隷制度の歴史書や経済史の本を読むことを要求した[117][126][127]

溝口は俳優の演技が気に入らないとしばしば激怒し、時には悪口雑言を言い放つことがあった[113][128]。『わが恋は燃えぬ』では菅井一郎が少し長いセリフを喋り切れないことに腹を立て、菅井の頭をスリッパで叩き、「精神病院へ行き給え」と言い放った[128][129]。『残菊物語』では主演の北見礼子の子供をあやす演技が気に入らず、「君、子供の抱き方が違う。子供を産んだ経験がないから」と言って降板させた[130]。『雨月物語』でも兵士たちに輪姦される女性を演じた水戸光子の演技に満足せず、「キミはいったい(輪姦された)経験がないんですか」と怒鳴りつけた[128]。『楊貴妃』では入江たか子の演技に満足せず、「何ですかその芝居は。それは猫です、猫芝居ですよ」と罵倒した。猫芝居は当時の入江が主演した化け猫映画のことであるが、化け猫映画はゲテモノ映画として扱われていたため、往年の大スターである入江が落ち目になったという風に捉えられていた[131]。溝口は入江に何度も演技をやらせても不機嫌な態度のままOKを出さず、入江はその気持ちを理解して自ら降板した[112][132]。溝口は過去に入江のプロダクションで『滝の白糸』を作って成功させてもらった縁があったため、周りのスタッフや俳優は溝口があまりにも冷酷だと批判した[112][131][133]

溝口の製作方法は、俳優やスタッフに最高の緊張感を強いるものだったが、溝口も作品の雰囲気に浸りながら緊張感を作って自分自身を追い込んだ[105][109][134]。撮影現場の緊張感が中断されないようにするため、撮影中は終日現場のスタジオを離れず、昼食時でも外へ出ることがなかった[109][134]。晩年にはスタジオに尿瓶を持ち込み、スタジオの隅で用を足していたという[134][135][136]。『雨月物語』の撮影では、移動撮影用のクレーンの監督席に腰かけていた溝口が、緊張感のあまり力強く手すりを握りしめて小刻みに震え、その振動がカメラにまで伝わってフレームが微妙にずれたため、カメラマンの宮川一夫の進言でクレーンの監督席から降ろされたという[105][109]

溝口組

西鶴一代女』(1952年)で主人公を演じた田中絹代。田中は後期の溝口作品に欠かせない主演女優として知られた。

溝口は気心の知れたスタッフや、同じ俳優を何度も作品に起用することが多く、彼らは「溝口組」と呼ばれた[137][138]。溝口組の代表的な人物と参加本数は以下の通りである(スタッフは3本以上、キャストは5本以上の参加者のみ記述)[139][140][141]

その中で溝口が最も信頼を置いた人物は、脚本家の依田義賢と美術監督の水谷浩である[98][141]。溝口は2人を「僕の肉体の一部みないな」存在と呼び、「僕がああだとか、こうだとか、口に出して説明しなくても、僕の考えている通りにやってくれる」と述べている[102]。とくに依田は『浪華悲歌』で初めて組んで以来、約20年にわたり溝口作品で脚本を書き、溝口の女房役のような存在となった[141]。小学校時代の同級生である川口松太郎も溝口組の脚本家で、芝居作りのツボを心得ていることから溝口の良き助言者にもなり、溝口は壁にぶつかると川口に相談した[142]。後期の作品では、撮影の宮川一夫、音楽の早坂文雄、照明の岡本健一、録音の大谷巌が信頼の置けるスタッフとなった[143]。俳優では、『浪花女』で初めて起用した田中絹代が、それ以後の溝口作品に欠くことのできない演技者となった[50]。溝口は田中に恋心を抱くほど気に入り、戦後には結婚の噂話が流れたこともあった[144]

溝口の弟子となった主な人物に、坂根田鶴子新藤兼人がいる。坂根は『しかも彼等は行く』以来溝口に師事し、監督助手やスクリプターや編集についた[145]。溝口作品で装飾を担当した荒川大によると、溝口は「坂根は俺の弟子であるだけでなく、脚本も直せる」存在だと言っていたという[146]。坂根は1936年に『初姿』を監督して日本初の女性映画監督になったが、溝口はこの作品で監督補導にあたっている[2]。新藤は『愛怨峡』『元禄忠臣蔵』で美術助手を務めて以来溝口に傾倒し、溝口にシナリオ執筆を師事した[147][148]。この時の苦労は新藤の初監督作『愛妻物語』(1951年)で描かれ、溝口をモデルにした大監督(滝沢修演)も登場する[148][149]。新藤は脚本家として一本立ちしたあと、溝口の『女性の勝利』『わが恋は燃えぬ』で脚本を提供し、監督になってからも「溝口が絶対に着想できない本を書こう」と意識しながら映画を作った[148]。さらに新藤は1975年に溝口の関係者にインタビューした記録映画『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』を製作した[149]

人物

1950年代頃の溝口。

溝口は、撮影現場では俳優やスタッフを罵倒したりするような厳しい人物として知られたが、私生活では気が弱く、照れ屋でシャイな人物であり、仕事場と私生活とではまるで別人のようになったという[150][151][148]。そんな溝口には大学教授や警察などの権威的な存在に対して弱い一面もあり、そのために作品の考証に学者や専門家などの権威者をよく起用した[51][65][152]。溝口は本物の小道具を要求するなど美術考証に凝ったが、スタッフが有名な研究所や大学が認めた小道具だと言い張れば、たとえそれが偽物だったとしても信じ込んだという[152]。『西鶴一代女』の製作者の児井英生によると、溝口組の美術監督の水谷浩はそのへんをよく心得ており、本物の小道具が用意できなかったとしても、平気で偽物を用意し、立派な桐箱に入れたり、お墨付きを付けたりさえすれば、溝口はそれだけで満足したという[153]

子供の頃から怒ったりすると右肩が釣り上がるという癖があり、歩く時も右肩をいからした[8]。撮影現場でも俳優の演技がテストを重ねても上手くいかなかったりして機嫌が悪くなると、だんだん右肩が釣り上がったという[131]。ほかの体の特徴としては、背中に一寸ほどの長さの一筋の刀の傷跡があった。これは1925年に愛人に斬りつけられた事件の時にできた傷である[25][154]。『西鶴一代女』などで助監督を務めた内川清一郎によると、溝口と一緒に風呂に入った時に、その背中の刀傷を目撃して驚いたが、それに対して溝口は「君、こんなことで驚いたら駄目ですよ。これでなきゃ女は描けませんよ」と言ったという[154]

溝口は若い時から古美術が好きで、暇があると京都や奈良の仏像を見て歩いたり、後年に依田義賢らを伴って博物館や美術展へ行ったりした[120][155]。映画作りで『唐人お吉』辺りから時代考証に凝り出すようになってからは、下手物(粗雑な作りの素朴で大衆的な品物)にも似た骨董品を集めるのを趣味としたが[2][156]、周囲の人の言動にたやすく動かされるところがあったため、書画骨董で何度も偽物をつかまされることがあり、大久保忠素に「偽物堂風動子」というあだ名を付けられた[50]。晩年は篆字を書くことにも嵌まった[157]。また、溝口は読書家でもあり[126]、たいていは人に勧められた本を乱読していたが[158]、仕事のない時は夜中の2時や3時頃まで読書をしたため、朝寝坊をするのが習慣になったという[159]

溝口は好きであるが、酒乱を起こすことがしばしばあり、その時は物を壊したりして周囲を困らせたという[160]。溝口の友人の渾大防五郎は、溝口と京都の妓楼で飲んでいた時に、あまりにも溝口の酒乱がうるさかったため、面白半分に泥酔した溝口を中庭の石灯籠に縛り付けたが、溝口はその後2時間近くも縛られながら眠っていたという[160]。戦後に織田作之助と料亭で夕食を共にした時も、織田が「僕もこの頃は西鶴を勉強してるんですよ」と言うと、酔った溝口が突然「西鶴が君に分かるんですか。キサマなんかにわかってたまるもんか!」とキレて、織田に殴りかかろうとした。溝口は制止に入った人と取っ組み合いになり、そのうち階段から転げ落ち、傍らの座敷で放尿したが、その座敷の客は松竹時代に世話になった白井信太郎だったため、すぐに酔いがさめたという[160]

評価・影響

フランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールは溝口を熱狂的に賞賛し、影響を受けた監督として知られる[161]

溝口は1930年代頃から日本映画界で屈指の「巨匠」のひとりと呼ばれ[162]小津安二郎黒澤明成瀬巳喜男木下惠介などと共に日本映画を代表する映画監督に位置付けられている[163]。日本の映画批評家からは、女性を描くことで最もその手腕を発揮した作家として高く評価されてきた[164]岩崎昶は「日本の映画作家で女を描いたものはけっして少なくはないが、いまだに溝口以後溝口なしである」と評し[165]津村秀夫も「人生流転の極限での人間の姿、女の姿をとらえては当代に並ぶものなき名人」であると評した[166]。「リアリズムの作家」としても高く評価されており[152][167]、とくに『浪華悲歌』『祇園の姉妹』は日本映画に本格的なリアリズムが確立した作品と見なされている[86][168]。しかし、戦後には「ワンシーン・ワンショットの手法のためにテンポが遅い」「題材が古くさくて前近代的である」などと批判されることもあった[162]

1950年代にヴェネツィア国際映画祭で作品が3年連続で受賞してからは、国際的にも高い評価を受けた[169]。とくにフランスの映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の同人で、作家主義批評を展開した若手批評家のジャン=リュック・ゴダールジャック・リヴェットエリック・ロメールなどが溝口を熱狂的に賞賛した[170][171]。同誌が発表する年間作品トップテン英語版では、1959年に『雨月物語』が1位に選ばれ、翌1960年には『山椒大夫』も1位に選ばれた[171][172]。『カイエ・デュ・シネマ』の批評家は、溝口を日本映画や西洋映画といった枠を超えた、世界共通の映画言語であるミザンセーヌを持つ普遍的な映画作家として高く評価した[173][174][175]。なかでもゴダールは溝口を「最大の映画作家のひとり」と呼ぶなどして強く傾倒し、1966年の来日時には溝口の碑を訪れている[161][176]

『カイエ・デュ・シネマ』の批評家は、1950年代後半に映画監督となり、ヌーヴェルヴァーグの旗手として活躍したが、その作品にも溝口作品の影響が見られた[170][169]。リヴェットの『修道女』(1966年)は、『西鶴一代女』から影響を受けたことを監督自身が明らかにしている[177]。ゴダールは『軽蔑』(1963年)の終盤の海へパンニングするシーンで、『山椒大夫』のラストシーンを引用した[170][161]。ゴダールは『気狂いピエロ』(1965年)のラストシーンでも同様のオマージュをしており[161]、さらに『メイド・イン・USA』(1966年)では「ドリス・ミゾグチ」という名前の日本人女性を登場させている[170]

ヌーヴェルヴァーグ以外の監督では、溝口と同様に長回しと移動撮影を得意とするテオ・アンゲロプロスが、そのスタイルについて溝口から影響を受けており[170]ベルナルド・ベルトルッチも溝口の流麗なカメラワークの影響を受けている[178]アンドレイ・タルコフスキーは『雨月物語』を好きな作品の1本に挙げている[179]。ほかにもジャン・ユスターシュ[161]オーソン・ウェルズ[180]ヴィクトル・エリセ[181]ピーター・ボグダノヴィッチ[182]マーティン・スコセッシ[183]アリ・アスター[184]などの監督が溝口を高く賞賛したり、その影響を受けたりしている。

作品

監督作品

溝口の監督作品は92本あるが、そのうち戦前期の大部分の作品は現存していない。以下の作品一覧は『溝口健二 情炎の果ての女たちよ、幻夢へのリアリズム』[139]と『映画監督 溝口健二:生誕百年記念』[140]による。

凡例

×印はフィルムが現存しない作品(失われた映画
〇印はサイレント映画
□印はサウンド版作品
◎印はカラー映画

  • 愛に甦へる日(1923年、日活向島)×〇
  • 故郷(1923年、日活向島)×〇
  • 青春の夢路(1923年、日活向島)×〇
  • 情炎の港(1923年、日活向島)×〇
  • 敗残の唄は悲し(1923年、日活向島)×〇
  • 813(1923年、日活向島)×〇
  • 霧の港(1923年、日活向島)×〇
  • 夜(1923年、日活向島)×〇
  • 廃墟の中(1923年、日活向島)×〇
  • 血と霊(1923年、日活向島)×〇
  • 峠の唄(1923年、日活京都)×〇
  • 哀しき白痴(1924年、日活京都)×〇
  • 暁の死(1924年、日活京都)×〇
  • 現代の女王(1924年、日活京都)×〇
  • 女性は強し(1924年、日活京都)×〇
  • 塵境(1924年、日活京都)×〇
  • 七面鳥の行衛(1924年、日活京都)×〇
  • 伊藤巡査の死(1924年、日活京都)×〇 ※鈴木謙作大洞元吾近藤伊与吉と共同監督
  • さみだれ草紙(1924年、日活京都)×〇
  • 歓楽の女(1924年、日活京都)×〇
  • 恋を断つ斧(1924年、日活京都)×〇 ※細山喜代松と共同監督
  • 曲馬団の女王(1924年、日活京都)×〇
  • 無銭不戦(1925年、日活京都)×〇
  • 噫特務艦関東(1925年、日活京都)×〇
  • 学窓を出でて(1925年、日活京都)×〇
  • 大地は微笑む 第一篇(1925年、日活京都)×〇
  • 白百合は歎く(1925年、日活京都)×〇
  • 赫い夕陽に照されて(1925年、日活京都)×〇
  • ふるさとの歌(1925年、日活京都)〇
  • 街上のスケッチ(1925年、日活大将軍)×〇 ※オムニバス映画『小品映画集』の一篇
  • 人間(1925年、日活大将軍)×〇
  • 乃木将軍と熊さん(1925年、日活大将軍)×〇
  • 銅貨王(1926年、日活大将軍)×〇
  • 紙人形春の囁き(1926年、日活大将軍)×〇
  • 新説己が罪(1926年、日活大将軍)×〇
  • 狂恋の女師匠(1926年、日活大将軍)×〇
  • 海国男児(1926年、日活大将軍)×〇
  • 金(1926年、日活大将軍)×〇
  • 皇恩(1927年、日活大将軍)×〇
  • 慈悲心鳥(1927年、日活大将軍)×〇
  • 人の一生 人生万事金の巻(1928年、日活大将軍)×〇
  • 人の一生 浮世は辛いねの巻(1928年、日活大将軍)×〇
  • 人の一生 クマとトラ再会の巻(1928年、日活大将軍)×〇
  • 娘可愛や(1928年、日活大将軍)×〇
  • 日本橋(1929年、日活太秦)×〇
  • 朝日は輝く(1929年、日活太秦)×〇
  • 東京行進曲(1929年、日活太秦)〇
  • 都会交響楽(1929年、日活太秦)×〇
  • 藤原義江のふるさと(1930年、日活太秦)
  • 唐人お吉(1930年、日活太秦)×〇
  • しかも彼等は行く(1931年、日活太秦)×〇
  • 時の氏神(1932年、日活太秦)×
  • 満蒙建国の黎明(1932年、新興キネマ入江プロ・中野プロ)×
  • 瀧の白糸(1933年、入江プロ)〇
  • 祇園祭(1933年、新興キネマ)×〇
  • 神風連(1934年、新興キネマ)×〇
  • 愛憎峠(1934年、日活多摩川)×□
  • 折鶴お千(1935年、第一映画)□
  • マリヤのお雪(1935年、第一映画)
  • お嬢お吉(1935年、第一映画)※高島達之助と共同監督
  • 虞美人草(1935年、第一映画)
  • 浪華悲歌(1936年、第一映画)
  • 祇園の姉妹(1936年、第一映画)
  • 愛怨峡(1937年、新興キネマ)
  • 露営の歌(1938年、新興キネマ)×
  • あゝ故郷(1938年、新興キネマ)×
  • 残菊物語(1939年、松竹京都
  • 浪花女(1940年、特作プロ)×
  • 芸道一代男(1941年、特作プロ)×
  • 元禄忠臣蔵 前篇(1941年、興亜映画)
  • 元禄忠臣蔵 後篇(1942年、松竹京都)
  • 団十郎三代(1944年、松竹京都)×
  • 宮本武蔵(1944年、松竹京都)
  • 名刀美女丸(1945年、松竹京都)
  • 必勝歌(1945年、松竹京都)※田坂具隆清水宏マキノ正博と共同監督
  • 女性の勝利(1946年、松竹京都)
  • 歌麿をめぐる五人の女(1946年、松竹京都)
  • 女優須磨子の恋(1947年、松竹京都)
  • 夜の女たち(1948年、松竹京都)
  • わが恋は燃えぬ(1949年、松竹京都)
  • 雪夫人絵図(1950年、新東宝・滝村プロ)
  • お遊さま(1951年、大映京都
  • 武蔵野夫人(1951年、東宝
  • 西鶴一代女(1952年、新東宝・児井プロ)
  • 雨月物語(1953年、大映京都)
  • 祇園囃子(1953年、大映京都)
  • 山椒大夫(1954年、大映京都)
  • 噂の女(1954年、大映京都)
  • 近松物語(1954年、大映京都)
  • 楊貴妃(1955年、大映東京ショウ・ブラザーズ)◎
  • 新・平家物語(1955年、大映京都)◎
  • 赤線地帯(1956年、大映東京)

その他の作品

特記がない限りは『溝口健二集成』の「溝口健二作品フィルモグラフィー」による[185]

映画
ラジオドラマ
  • (1937年、NHKラジオ第1放送) - 演出[3]
  • 思ひ出の記(1938年、NHKラジオ第1放送) - 演出[3]
  • 吉野葛(1939年、NHKラジオ第1放送) - 演出[3]
舞台

受賞歴

『映画監督 溝口健二:生誕百年記念』の「溝口健二・年譜」による[2]

ドキュメンタリー作品

脚注

注釈

  1. ^ 映画評論家の岸松雄によると、溝口の監督作『浪華悲歌』(1936年)に登場する主人公の頑固で卑屈な父親は、溝口の父をモデルにしているという[8]
  2. ^ 松平忠正は寿々を深く愛したが、当時は華族の結婚は宮内庁の許可が必要で、芸者である寿々との結婚は許されなかった。寿々は忠正の妾として4人の子を産んだが、独身だった忠正は他の華族から正妻を迎えさせられた[9]。その正妻は1926年に死去したが、寿々の妾という地位は変わらなかった。1947年に華族制度が廃止され自由結婚が認められると、忠正と寿々は正式に結婚した[10]
  3. ^ 当時葵橋洋画研究所で塾頭をしていたのが和田三造であり、後年に溝口はその関係で『新・平家物語』(1955年)の色彩監修に和田を起用している[8]
  4. ^ 溝口の回想によると、検閲でカットされ琵琶劇を入れて公開した作品は『愛に甦る日』であるとし、「農民が金持に向って騒ぐところなんかがあるのでね、警視庁に呼びつけられて切られてしまいましたよ」と述べている[18]。しかし、映画研究者の佐相勉は、「農民が金持に向って騒ぐ」場面があるのは『愛に甦る日』ではなく『故郷』の方であり、溝口の回想は記憶違いであるとしている[19]。なお、溝口は『故郷』について「よく覚えていない」と述べている[18]
  5. ^ 『赫い夕陽に照らされて』は三枝源次郎に監督を交代して完成した[25]
  6. ^ 岸松雄によると、百合子はその後生活に困って洲崎の娼妓に身を沈めたが、以後も不幸な生活が続き、数年後に長野県で自殺したという[25]
  7. ^ この表記の変更には、当時の日本映画界が監督を管理し、その権限を縮小させたり、表現の自由を制限させたりする目的で「演出」の呼称を使っていたという背景があった。例えば、プロデューサー・システムを導入した東宝などの映画会社は、監督を他のスタッフと同列に扱ってクレジットに「演出」と表記し、戦時中の映画法でも監督を「演出」と呼称した。溝口は一人の監督として、日本映画監督協会理事長として、これに断固として反対した[61]
  8. ^ 溝口賞の受賞者は、第1回が『』の今井正八木保太郎、第2回が『楢山節考』の木下惠介、第3回が『彼岸版』の小津安二郎と『浮草』『』の宮川一夫である[76]

出典

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参考文献

  • 岸松雄『人物・日本映画史1』ダヴィッド社、1970年。 
  • 木下千花『溝口健二論 映画の美学と政治学』法政大学出版局、2016年5月。ISBN 978-4588420177 
  • 児井英生『伝・日本映画の黄金時代』文藝春秋、1989年3月。ISBN 978-4163430102 
  • 古賀重樹『1秒24コマの美 黒澤明・小津安二郎・溝口健二』日本経済新聞出版、2010年11月。ISBN 978-4532167639 
  • 佐相勉、西田宣善 編『溝口健二 情炎の果ての女たちよ、幻夢へのリアリズム』フィルムアート社〈映畫読本〉、1997年9月。ISBN 978-4845997718 
  • 佐相勉『溝口健二・全作品解説』1~13、近代文藝社、2001年9月~2017年10月。
    • 『溝口健二・全作品解説1 1923年・日活向島時代』2001年9月。ISBN 978-4773368154 
    • 『溝口健二・全作品解説5 初の鏡花もの「日本橋」』2008年1月。ISBN 978-4773375145 
  • 佐藤忠男『溝口健二の世界』平凡社〈平凡社ライブラリー〉、2006年11月。ISBN 978-4582765939 
  • 佐藤忠男『日本映画史1 1896-1940』(増補版)岩波書店、1995年3月。ISBN 978-4000037853 
  • 新藤兼人『ある映画監督 溝口健二と日本映画』岩波書店、1979年。ISBN 978-4004140801 
  • 新藤兼人『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』映人社、1975年4月。 
  • 田中眞澄『小津安二郎周游』文藝春秋、2003年7月。ISBN 978-4163651705 
  • 都築政昭『日本映画の黄金時代』小学館、1995年7月。ISBN 978-4093871396 
  • 津村秀夫『溝口健二というおのこ』芳賀書店〈フィルム・アートシアター〉、1977年2月。 
  • 西田宣善 編『溝口健二集成』キネマ旬報社、1991年8月。ISBN 978-4873760452 
  • 溝口健二 著、佐相勉編 編『溝口健二著作集』キネマ旬報社、2013年6月。ISBN 978-4873764221 
  • 山口猛 編『映画監督 溝口健二:生誕百年記念』平凡社〈別冊太陽〉、1998年5月。ISBN 978-4582943122 
  • 依田義賢『溝口健二の人と芸術』社会思想社〈現代教養文庫〉、1996年3月。ISBN 978-4390115889 
  • 四方田犬彦 編『映画監督 溝口健二』新曜社、1999年10月。ISBN 978-4788506923 
    • 斉藤綾子「聖と性 溝口をめぐる二つの女」『映画監督 溝口健二』、277-297頁。 
  • 「特集・溝口健二 あるいは日本映画の半世紀」『ユリイカ』第325号、青土社、1992年10月。 

関連文献

外部リンク