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「神聖ローマ帝国」の版間の差分

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{{ドイツの歴史}}
{{ドイツの歴史}}
'''神聖ローマ帝国'''(しんせいローマていこく、{{llang|de|言語記事名=ドイツ語|Heiliges Römisches Reich}}, {{llang|la|言語記事名=ラテン語|Sacrum Romanum Imperium}},{{llang|la|言語記事名=イタリア語|Sacro Romano Impero}} , [[800年]] - [[1806年]])は、現在の[[ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[チェコ]]、[[北イタリア|イタリア北部]]を中心に存在していた[[国家]]<ref name=yshinsei/><ref name=daijirin/><!--左記の百科事典、辞典は神聖ローマ帝国を「政体」ではなく「国家」と定義している-->。帝国の体制は皇帝の権力が諸侯によって弱められることにより、[[中世]]から[[近世]]にかけて変化した。最後の数世紀にはその体制は諸領域の連合体に近いものになっている。


日本では通俗的に、[[962年]][[ドイツ王]][[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]が[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネス12世 (ローマ教皇)|ヨハネス12世]]により、カロリング的[[ローマ帝国]]の継承者として[[皇帝]]に戴冠したときから始まるとされ、高等学校における世界史教育もこの見方を継承している<ref group="nb">たとえば、山川出版社の受験参考書である『詳説 世界史研究』はカール大帝の帝権を「西ローマ帝国の復活」、オットー大帝の帝権以降を「神聖ローマ帝国」とし、両者の断絶を想定している。しかしながら、おなじ山川出版社による専門的な概説書『世界歴史大系 ドイツ史』では、オットーの帝権はカール大帝のフランク・ローマ的な帝権を継承したものであることが強調されており、オットーの帝権がカロリング的支配者の伝統に位置づけられている。</ref>。しかし、ドイツの歴史学界ではこの帝国を[[カール大帝]]から始めるのが一般的で、その名称の変化とともに3つの時期に分ける。すなわち、カール大帝の皇帝戴冠から東フランクにおけるカロリング朝断絶に至る「ローマ帝国」期([[800年]]-[[911年]])・オットー大帝の戴冠からシュタウフェン朝の断絶に至る「帝国」期([[963年]]-[[1254年]])・中世後期から[[1806年]]にいたる「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」期である<ref>[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]], pp. 15-49。</ref>。これは帝国国制の大規模な変化にも対応している。
'''神聖ローマ帝国'''(しんせいローマていこく、{{llang|de|言語記事名=ドイツ語|Heiliges Römisches Reich}}, {{llang|la|言語記事名=ラテン語|Sacrum Romanum Imperium}}, [[962年]] - [[1806年]])は、[[中世]]に現在の[[ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[チェコ]]、[[北イタリア|イタリア北部]]を中心に存在していた[[政体]]。


帝国はゲルマン王国の伝統に基づいた[[選挙王制]]の形式を取っていたが、中世盛期の三王朝時代([[ザクセン朝]]、[[ザリエル朝]]、[[ホーエンシュタウフェン朝]])では事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.48-49</ref><ref name=yshinsei/>。皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた([[帝国教会政策]])<ref name=teikokukyoukai/>。また、歴代の皇帝は「ローマ帝国」という名目のために[[イタリア]]の支配権を唱え、度々侵攻した([[イタリア政策]])。当初、皇帝権は教皇権に対して優勢であり、皇帝たちは度々[[教皇庁]]に介入していた。だが、[[グレゴリウス改革|教会改革運動]]が進展すると皇帝と教皇との対立が引き起こされ、[[11世紀]]後半から[[12世紀]]にかけての[[叙任権闘争]]は皇帝側の敗北に終わった<ref name=horikosi174/>。この間に諸侯の特権が拡大して領邦支配が確立されている<ref name=yshinsei/>。
首都はなかった。[[帝国]]というよりは実質的に大小の[[国家連合]]体であった期間が長く、この中から後の[[オーストリア帝国]](当時は[[オーストリア大公]]領および[[ハプスブルク家]]支配地域)や[[プロイセン王国]]などドイツ諸国家が成長していった。16世紀以降は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と称し、ドイツ民族が北イタリアやスラヴ諸国を支配する構造を明示したが、この時点で既に国家としての統一性は失われていた。末期には'''ドイツ帝国'''とも呼ばれ、[[1806年]]の帝国解散の詔勅はこの名で発布された。

[[1254年]]に[[ホーエンシュタウフェン朝]]が断絶すると、20年近くも王権の影響力が空洞化する[[大空位時代]]となり、諸侯への分権化がより一層進んだ<ref> [[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]], p. 76。</ref>。[[14世紀]]の[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]による[[金印勅書]]以降、皇帝は有力な7人の封建領主([[選帝侯]])による選挙で選ばれるようになり、さらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権等の大幅な自治権が与えられた。この間、異なる家門の皇帝が続く、[[跳躍選挙]]の時代が続いたが、[[1438年]]に即位した[[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]以降は[[ハプスブルク家]]が帝位をほぼ独占するようになった<ref group=nb name=dokusen/>。[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]治世の[[1495年]]から[[帝国改造]]が行われ、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなる<ref name=bsinseir/>。

[[16世紀]]の[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の治世に始まった[[宗教改革]]によって帝国は[[カトリック教会|カトリック]]と[[プロテスタント]]に分裂し、宗教紛争は最終的に皇帝側の敗北に終わり、[[アウクスブルクの和議]]によりプロテスタント信仰が容認されるとともに領邦の独立性が更に強化されることになった。宗教対立は収まらず、[[1618年]]に[[三十年戦争]]が勃発してドイツ各地が甚大な被害を受けた。[[1648年]]の[[ヴェストファーレン条約]]が締結されて戦争は終結し、全諸侯に独自の外交権を含む大幅な領邦高権([[主権]])が認められる一方、平和的な紛争解決手段が整えられ、諸侯の協力による帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立することとなった<ref name=wilson45/>。しかしながら、その後[[プロイセン王国|プロイセン]]が台頭したことにより、諸侯のバランスは崩壊し、帝国はやがて機能不全に陥った<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.110-110</ref>。

[[19世紀]]初頭にはフランス皇帝[[ナポレオン・ボナパルト]]の侵攻を受け、フランスに[[従属国|従属]]する[[ライン同盟]]に再編された。帝国内の全諸侯が帝国からの脱退を宣言すると、既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ皇帝[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]は退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。


== 名称 ==
== 名称 ==
古代[[ローマ帝国]]の後継を称し、その名称は時代とともに幾度も変化した。
古代[[ローマ帝国]]の後継を称し、その名称は時代とともに幾度も変化した。
* [[11世紀]]まで - '''ローマ帝国'''(または単に'''帝国'''<ref>ドイツ語の {{lang|de|Reich}} は「帝国」を意味し、ラテン語の {{lang|la|imperium}} に対応する概念である。</ref>)
* [[11世紀]]まで - '''ローマ帝国'''(または単に'''帝国'''<ref group=nb>ドイツ語の {{lang|de|Reich}} は「帝国」を意味し、ラテン語の {{lang|la|imperium}} に対応する概念である。</ref>)
:{{llang|de|言語記事名=ドイツ語|表示言語名=独|Römisches Reich}}
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:{{llang|la|言語記事名=ラテン語|表示言語名=羅|Imperium Romanum}}
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:独:{{lang|de|Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation}}
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:羅:{{lang|la|Sacrum Romanum Imperium Nationis Germanicae}}
:羅:{{lang|la|Sacrum Romanum Imperium Nationis Germanicae}}
「神聖」の形容詞は、[[1157年]]に[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]がドイツの[[諸侯]]に発布した召喚状に初めて現れる。
「神聖」(''Sacrum'')の形容詞は、[[1157年]]に[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]がドイツの[[諸侯]]に発布した召喚状に初めて現れる<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.96-97</ref>
[[File:Flag of the Holy Roman Empire (1200-1350).svg|thumb|神聖ローマ帝国旗(1200–1350)]]

元々、古代[[ローマ帝国]]や[[カール大帝]]の[[フランク王国]]の後継帝国を自称していた。フランク王国は[[西ローマ帝国]]の後継国家を自認しており、必然的に「神聖ローマ帝国」は、(西)ローマ帝国からフランク王国へと受け継がれた帝権を継承した帝国である、ということを標榜していた。そして帝位にふさわしいと評価を得た者が[[教皇|ローマ教皇]]によりローマで戴冠し、ローマ皇帝に即位したのである。しかしこの帝国は、「神聖」の定義や根拠が曖昧で、「ローマ帝国」と称してはいるが、現在のドイツからイタリアまでを領土としているものの[[ローマ]]は含んでおらず、さらに「帝国」を名乗りつつも皇帝の力が実質的に及ぶ領土が判然としない国であった。
元々、古代[[ローマ帝国]]や[[カール大帝]]の[[フランク王国]]の後継帝国を自称していた。フランク王国は[[西ローマ帝国]]の後継国家を自認しており、必然的に「神聖ローマ帝国」は、(西)ローマ帝国からフランク王国へと受け継がれた帝権を継承した帝国である、ということを標榜していた。そして帝位にふさわしいと評価を得た者が[[教皇|ローマ教皇]]によりローマで戴冠し、ローマ皇帝に即位したのである。しかしこの帝国は、「神聖」の定義や根拠が曖昧で、「ローマ帝国」と称してはいるが、現在のドイツからイタリアまでを領土としているものの[[ローマ]]は含んでおらず、さらに「帝国」を名乗りつつも皇帝の力が実質的に及ぶ領土が判然としない国であった。


また、古代[[ローマ帝国]]の正統な後継国家としては、15世紀中期までは[[コンスタンティノポリス]]を首都とする[[東ローマ帝国]]('''中世ローマ帝国''')が存続していた。当然のことながら、東ローマ帝国側は神聖ローマ帝国が「ローマ帝国」であることを認めず、その君主が「[[ローマ皇帝]]」であることも承認しなかった。一方、神聖ローマ帝国側でも、東ローマ帝のことを「ギリシア帝国」などと呼ぶようになっていた。
また、古代[[ローマ帝国]]の正統な後継国家としては、15世紀中期までは[[コンスタンティノポリス]]を首都とする[[東ローマ帝国]]('''中世ローマ帝国''')が存続していた。当然のことながら、東ローマ帝国側は神聖ローマ帝国が「ローマ帝国」であることを認めず、その君主が「[[ローマ皇帝]]」であることも承認しなかった(二帝問題)<ref>[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],pp.243-245</ref>。一方、神聖ローマ帝国側でも、東ローマ帝のことを「コンスタンティノープルの皇帝」「ギリシア人の王」などと呼ぶようになっていた<ref>[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],p.245</ref>


時代が下って[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が政権を握ると、彼らは自らを「'''[[第三帝国]]'''」と呼び慣わしたが、これは神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ第三のドイツ人帝国という意味である。
時代が下って[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が政権を握ると、彼らは自らを「'''[[第三帝国]]'''」と呼び慣わしたが、これは神聖ローマ帝国、[[ドイツ帝国]]に次ぐ第三のドイツ人帝国という意味である<ref>[http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B8%9D%E5%9B%BD&dtype=0&dname=0na&stype=0&pagenum=1&index=13523911157500 だいさん‐ていこく【第三帝国】]-大辞泉</ref>
{{-}}
<!--
[[1871年]]にプロイセン王国が主導してドイツ諸邦を[[国民国家]]として[[ドイツ帝国]]の名の下に統一した。また後に[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]が政権を握ると、[[ナチス]]はヒトラー政権を、最初のドイツ人統一国家である「神聖ローマ帝国」、プロイセンによる第二のドイツ人統一国家「ドイツ帝国(プロイセン王国)」に次ぐ”[[第三帝国]]”と呼び、「神聖ローマ帝国」と同様に一千年帝国と標榜したとされるが、この話に根拠は無い。ナチスの「第三」とは「未来」を意味し、「Das Dritte Reich」は、第三帝国ではなく「未来の国」を意味するのが正しいとするのが最近の論議である。
-->


== 領域 ==
== 領域 ==
<div style="float:right;width:500px;height:450px;overflow:hidden;position:relative;margin-left:15px;font-size:15px">
[[ファイル:HRR 10Jh.jpg|left|thumb|[[1000年]]の帝国領]]
[[File:HRR.gif|thumb|450px|現在の国の輪郭と神聖ローマ帝国の領域の変遷]]
[[ファイル:Imperial Circles-2005-10-15-en.png|left|thumb|[[1512年]]の[[帝国クライス]]]]
<div style="position:absolute;top:22%;left:65%;"><small>[[プロイセン王国|プロイセン]]</small></div>
<div style="position:absolute;top:25%;left:52%;"><small>[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク]]</small></div>
<div style="position:absolute;top:30%;left:52%;"><small>[[ザクセン]]</small></div>
<div style="position:absolute;top:36%;left:43%;"><small>[[プファルツ選帝侯領|プファルツ]]</small></div>
<div style="position:absolute;top:31%;left:30%;"><small>[[ネーデルラント]]</small></div>
<div style="position:absolute;top:39%;left:59%;"><small>[[ボヘミア]]</small></div>
<div style="position:absolute;top:41%;left:48%;"><small>[[バイエルン選帝侯領|バイエルン]]</small></div>
<div style="position:absolute;top:46%;left:62%;"><small>[[オーストリア]]</small></div>
<div style="position:absolute;top:46%;left:45%;"><small>[[シュヴァーベン]]</small></div>
<div style="position:absolute;top:53%;left:54%;"><small>[[シュタイアーマルク]]</small></div>
<div style="position:absolute;top:44%;left:35%;"><small>[[ブルグンド王国|ブルグンド]]</small></div>
<div style="position:absolute;top:51%;left:45%;"><small>[[スイス]]</small></div>
<div style="position:absolute;top:57%;left:48%;"><small>[[ミラノ]]</small></div>
<div style="position:absolute;top:70%;left:56%;"><small>[[ローマ]]</small></div>
</div>
神聖ローマ帝国の領域は今日の[[ドイツ]]([[南シュレスヴィヒ]]{{enlink|Southern Schleswig|en}}を除く)、[[オーストリア]]([[ブルゲンラント州]]を除く)、[[チェコ|チェコ共和国]]、[[スイス]]と[[リヒテンシュタイン]]、[[オランダ]]、[[ベルギー]]、[[ルクセンブルグ]]そして[[スロベニア]]([[プレクムリェ地方]]を除く)に加えて、[[フランス]]東部(主に[[アルトワ]]、[[アルザス]]、[[フランシュ=コンテ地域圏|フランシュ=コンテ]]、[[サヴォワ]]と[[ロレーヌ]])、[[北イタリア]](主に[[ロンバルディア州]]、[[ピエモンテ州]]、[[エミリア=ロマーニャ州]]、[[トスカーナ]]、[[南チロル]])そして[[ポーランド]]西部(主に[[シレジア]]、[[ポメラニア]]、および[[ヌーマーク]]{{enlink|Neumark|en}}
)に及んでいた。


神聖ローマ帝国は当初、[[ドイツ王]]兼[[イタリア王]]が皇帝に戴冠されて成立した。従ってその領域はドイツから北イタリアにまたがっていた。また[[オットー1 (神聖ローマ皇帝)|オットー1]](大帝)は東の[[ボヘミア王国]]に対しても[[宗主権]]を行使しボヘミア帝国が消滅するまで帝国の一部であり続ける。
帝国は当初、[[ドイツ王]]兼[[イタリア王]]が皇帝に戴冠されて成立した。従ってその領域はドイツから北イタリアにまたがっていた。また9紀末から10紀にドイツ王に臣従していた[[ボヘミア]](現在のチェコ共和国)は[[1158年]](まは[[1159年]])に大公から[[ボヘミア王国|王国]]へ昇格し、帝国が消滅するまでの一部であり続ける<ref>[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],pp.61-62</ref><ref>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%9C%E3%83%98%E3%83%9F%E3%82%A2/ ボヘミア(ぼへみあ)]-日本大百科全書(小学館)</ref>


また、[[1032年]]に[[ブルグント王国]]の王家が断絶すると、[[1006年]]にブルグント王[[ルドルフ3世 (ブルグント王)|ルドルフ3世]]とドイツ王(のち皇帝)[[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]の間で結ばれていた取り決めにより、ドイツ王・イタリア王ブルグント王も兼ねることとなった。ブルグント王国は現在のフランス南東部にあった王国であり、これにより神聖ローマ帝国の領域は南東フランスにまで拡大した。
[[1032年]]に[[ブルグント王国]]の王家が断絶すると、[[1006年]]にブルグント王[[ルドルフ3世 (ブルグント王)|ルドルフ3世]]とドイツ王(のち皇帝)[[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]の間で結ばれていた取り決めにより、ハインリヒ2世の後継者[[コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート2世]]がドイツ王・イタリア王に加えてブルグント王も兼ねることとなった<ref>[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],p.54</ref>。ブルグント王国は現在のフランス南東部にあった王国であり、これにより神聖ローマ帝国の領域は南東フランスにまで拡大した。


[[13世紀]]半ば、皇帝不在の[[大空位時代]]を迎えて皇帝権が揺らぐと、ブルグントとイタリアは次第に帝国から分離した。ブルグントには[[カルロ1世 (シチリア王)|シャルル・ダンジュー]]を初めとするフランス勢力が入り込んだ。イタリアの諸都市は実質的に独立を得ていき、のちにはやはりフランスが勢力を伸ばそうとした。皇帝位を世襲するようになったハプスブルク家は北イタリアからフランスの勢力を撃退し、この地域の支配を確立するのであるが、それは北イタリアが再び帝国の一部となったことを意味するのではない。北イタリアが帝国の制度に編入されることはなかった。
[[13世紀]]半ば、皇帝不在の[[大空位時代]]を迎えて皇帝権が揺らぐとイタリアは次第に帝国から分離した<ref name=bsinseir>【神聖ローマ帝国】(ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版)</ref>。ブルグントには[[カルロ1世 (シチリア王)|シャルル・ダンジュー]]を初めとするフランス勢力が入り込んだ。イタリアの諸都市は実質的に独立を得ていき、のちにはやはりフランスが勢力を伸ばそうとした。皇帝位を世襲するようになったハプスブルク家は北イタリアからフランスの勢力を撃退し、この地域の支配を確立するのであるが、それは北イタリアが再び帝国の一部となったことを意味するのではない。北イタリアが帝国の制度に編入されることはなかった<ref group=nb>北イタリア諸邦は帝国クライスに属さず、帝国議会にも出席していない。ただし、近年の研究では帝国と帝国イタリアとの結びつきについて再評価も行われている。[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.105-108</ref>


また、[[1648年]]の[[ヴェストファーレン条約]](ウェストファリア条約)の結果、[[エルザス=ロートリンゲン]](アルザス=ロレーヌ)のいくつかの都市がフランスに割譲され、[[スイス]]と[[オランダ]]が独立した。この三地域は帝国から分離したのであり、北イタリアと同様、もはや帝国の制度外の地域となった。その後もフランスのエルザス=ロートリンゲンへの進出は続き、神聖ローマ帝国が消滅する1806年までにこの地域の全てが帝国から脱落することとなった。
また、[[1648年]]の[[ヴェストファーレン条約]](ウェストファリア条約)の結果、[[エルザス=ロートリンゲン]](アルザス=ロレーヌ)のいくつかの都市がフランスに割譲され、[[スイス]]と[[オランダ]]が独立した。この三地域は帝国から分離したのであり、北イタリアと同様、もはや帝国の制度外の地域となった。その後もフランスのエルザス=ロートリンゲンへの進出は続き、神聖ローマ帝国が消滅する1806年までにこの地域の全てが帝国から脱落することとなった。
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== 皇帝 ==
==歴史==
===前史===
[[ファイル:Traktat verdun jp.svg|400px|right|thumb|[[ヴェルダン条約]]によるフランク王国の分割
{| width="400"
|-
! bgcolor="#f0f0f0" nowrap="nowrap"|[[西フランク王国|西フランク]]王[[シャルル2世_(西フランク王)|シャルル2世]]
| [[アキテーヌ]]|[[ガスコーニュ#バスコニア|ガスコーニュ]]|[[ラングドック]]|[[ブルグント王国|ブルゴーニュ]]|[[スペイン辺境領|イスパニア辺境]]
|-
! bgcolor="#f0f0f0" nowrap="nowrap"|[[中部フランク王国|中フランク]]王[[ロタール1世]]
| [[ロタリンギア|ロレーヌ]]|[[イタリア王国_(中世)|イタリア]]|[[ブルグント王国|ブルゴーニュ]]|[[アルザス]]|[[ロンバルディア]]|[[プロヴァンス]]|[[オランダの歴史#フランク王国|ネーデルランデン]]|[[コルシカ島|コルシカ]]
|-
! bgcolor="#f0f0f0" nowrap="nowrap"|[[東フランク王国|東フランク]]王[[ルートヴィヒ2世_(東フランク王)|ルートヴィヒ2世]]
| [[ザクセン大公|ザクセン]]|[[フランケン大公|フランケン]]|[[テューリンゲン#歴史|テューリンゲン]]|[[バイエルン大公|バイエルン]]|[[ケルンテン公国|ケルンテン]]|[[シュヴァーベン大公|シュヴァーベン]]
|}
]]
[[800年]]に'''ローマ皇帝'''に即位した[[カール大帝]]は[[教皇|ローマ教皇]]によって戴冠される伝統を開くことにより神聖ローマ帝国の先駆けとなった<ref>[[#Pagden(2008)|Pagden(2008)]],p.147</ref><ref name=yshinsei>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD/ 神聖ローマ帝国(しんせいろーまていこく)]-日本大百科全書(小学館)</ref>。教皇による戴冠は[[16世紀]]まで神聖ローマ帝国にとっての重要な制度であり続けた<ref>[[#Bryce(1968)|Bryce(1968)]]</ref>。カール大帝の「ローマ帝国復興」(''renovatio Romanorum imperii'')政策は、帝国が消滅する[[1806年]]まで(少なくとも原理上は)帝国の公的な地位であり続ける。

カール大帝の後継者[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]](敬虔帝)の時代に息子の共同皇帝[[ロタール1世]]とその弟の[[ルートヴィヒ2世 (東フランク王)|ルートヴィヒ2世]](ドイツ人王)、[[シャルル2世 (西フランク王)|シャルル2世]](禿頭王)とが争いを起こし、[[843年]]の[[ヴェルダン条約]]によって[[カロリング帝国]]{{enlink|Carolingian Empire|en}}はシャルル2世の[[西フランク王国]]([[フランス]])、ルートヴィヒ2世の[[東フランク王国]]([[ドイツ]])そしてロタール1世の[[中部フランク王国]]([[イタリア]]、[[ロタリンギア]]、[[プロヴァンス]])に分裂し、ロタール1世の帝位は保たれたものの東西両フランク王国に対する宗主権は失われた。ロタール1世が没すると[[ロドヴィコ2世]]{{enlink|Louis II of Italy|en}}(ルートヴィヒ2世)が帝位を継いだが、[[870年]]の[[メルセン条約]]によって中部フランク王国は分割されプロヴァンスは西フランク領、ロタリンギアは東フランク領になり、皇帝ロドヴィコ2世にはイタリアと西ローマ皇帝の称号のみが保たれ、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型が形づくられた<ref>【メルセン条約】(ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版)</ref>。

[[875年]]に皇帝ロドヴィコ2世が死去すると西フランク王シャルル2世がイタリアに侵攻して帝位に就いた。[[881年]]にシャルル2世が死去するとルートヴィヒ2世の三男のアレマニア=イタリア王[[カール3世 (フランク王)|カール3世]](肥満王)が西ローマ皇帝となり、その後、彼は遺領相続によって東フランク王と西フランク王を兼ねてカロリング帝国の再統一がなされた。しかし、カール3世にはこの時期にヨーロッパへ侵攻していた[[ノルマン人]]、[[イスラム教徒]]そして[[マジャール人]]に対処する力量がなく<ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.28</ref>、[[887年]]にカール3世は東フランク王を廃位されてしまい、翌[[888年]]に彼が死去すると帝国は分裂し、再建されることはなかった。年代記編者[[プリュムのレギーノ]]{{enlink|Regino of Prüm|en}}は各々の領域は自分たちの身内(''bowels'')から小王(''kinglet'')を選出するようになっていたと述べている。東フランク王国では[[フランケン地方|フランケン]]、[[ザクセン]]、[[バイエルン大公|バイエルン]]、[[アレマニア]]{{enlink|Alamannia|en}}([[シュヴァーベン]])、[[ロレーヌ地域圏|ロートリンゲン]]が[[大公国|大公]]として発達し、[[部族大公制]]{{enlink|Stem duchy|en}}と呼ばれる<ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],pp.20-21</ref>。

ルートヴィヒ2世の庶子の子の[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]が東フランク王に選出され(在位:887年 - 899年)、[[896年]]にはイタリアへ侵攻して西ローマ皇帝に即位している(在位:896年 - [[899年]])。カール3世の死後、教皇によって戴冠された皇帝はイタリアのみを統治する状態になり、この形式の最後の西ローマ皇帝が[[ベレンガーリオ1世]](在位:888年 - [[924年]])である。

[[911年]]にアルヌルフの後継者の[[ルートヴィヒ4世 (東フランク王)|ルートヴィヒ4世(幼童王)]](在位:[[899年]] - 911年)が死去すると東フランクのカロリング家は断絶した。ロートリンゲンの貴族たちは西フランク王[[シャルル3世 (西フランク王)|シャルル3世(単純王)]]を擁立するが、西フランクに併合されることを嫌った部族大公たちはフランク族ではあるがカロリング家出身ではないフランケン公[[コンラート1世 (ドイツ王)|コンラート]]を王に選出した(コンラート1世)<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.100-101</ref><ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.29-30</ref>。一般的にはコンラート1世の即位をもってカロリング朝の東フランク王国から、独自のドイツ王国へ転換したとされる<ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.30</ref>。コンラート1世はロートリンゲンを西フランクに奪われて統制勢力を弱め<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.101</ref>、反抗する部族大公との抗争の最中に負傷し、[[918年]]に死去した。
{{-}}

=== 成立 ===
[[ファイル:Otto the Great.jpg|thumb|200px|オットー大帝像、[[マクデブルク]]]]
コンラート1世は敵対していたザクセン公[[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ]]を後継者に指名し、翌[[919年]]に[[フリッツラー]]{{enlink|Fritzlar|en}}の会合でザクセン人とフランケン人によって新国王に選出され(ハインリヒ1世)、ザクセン朝([[オットー朝]]{{enlink|Ottonian dynasty|en}})が開かれた<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.112</ref>。ハインリヒ1世はシュヴァーベンとバイエルンを臣従させると、ロートリンゲンに出兵して西フランク王国と戦い、[[921年]]に和議が結ばれ西フランク王シャルル3世はハインリヒ1世を同格の東フランク王(''Rex Francorum Orientalum'')と認めた([[ボン条約 (921年)|ボン条約]])<ref name=taikei115>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.115</ref><ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.52</ref>。その後、西フランクが混乱状態に陥るとハインリヒ1世はロートリンゲンを奪回し、東方ではマジャール人に対する城塞を整備し、またスラブ諸族を制圧した<ref name=taikei115/><ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.31-32</ref>。[[933年]]にはマジャール人を[[リアデの戦い]]{{enlink|Battle of Riade|en}}で撃破し、解体しかけていた東フランク王国(ドイツ王国)はハインリヒ1世の業績によって再統一がなされた<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.115-116</ref>。ハインリヒ1世は[[929年]]に王令を出して次男の[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー]]を後継者に指名し、その際に王権と王国の単独相続を定め、フランク王国以来の均等相続の原則を否定した<ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.32</ref><ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.116</ref>。

[[936年]]にハインリヒ1世が死去すると[[アーヘン]]においてオットーが国王に選出され即位した(オットー1世)<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.118-119</ref>。即位して程なく発生した異母兄と弟の反乱を平定すると、オットー1世は諸大公領を王族の支配下に置く体制を構築して国内を固めた<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.120-121</ref><ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.35</ref>。また、部族大公を抑え込むためにオットー1世は教会勢力と結びつき、司教や修道院に所領を寄進して特権を与えて世俗権力からの保護するとともに、[[司教]]の任命権を握って聖職者の忠誠を受け、国家行政を聖職者に委ねた({{仮リンク|帝国教会政策|de|Ottonisch-salisches Reichskirchensystem}})<ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.27</ref><ref>[[#阿部(1998)|阿部(1998)]],p.14</ref><ref name=teikokukyoukai>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%95%99%E4%BC%9A%E6%94%BF%E7%AD%96/ 帝国教会政策(ていこくきょうかいせいさく)]-日本大百科全書(小学館)</ref>。[[951年]]、オットー1世はイタリア王[[ロターリオ2世]]の未亡人[[アデライーデ (神聖ローマ皇后)|アデライーデ]]{{enlink|Adelaide of Italy|en}}の要請によりイタリア遠征を敢行して敵対者[[ベレンガーリオ2世]]を駆逐した後にアーデルハイトと結婚し、彼女との婚姻関係に基づきイタリア王となる<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.123-124</ref>。

このイタリア遠征の際に王息ロイドルフとの間に亀裂が起こり、[[953年]]にロートリンゲン公をはじめとする諸侯とともに大反乱を起こし、オットー1世は危機に陥った<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.121</ref>。だが、ロイドルフの了解の元にマジャール人が侵入すると危機感を持った諸侯はオットー1世に臣従し、結束を強めたオットー1世は[[955年]]の[[レヒフェルトの戦い]]でマジャール人に大勝して、その脅威に終止符を打った<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.121-122</ref>。

[[960年]]、ベレンガーリオ2世により[[教皇領]]を侵害された教皇[[ヨハネス12世 (ローマ教皇)|ヨハネス12世]]がオットー1世に救援を要請した。翌[[961年]]にオットー1世はイタリアへ遠征し、[[962年]][[2月2日]]にローマにおいて教皇ヨハネス12世によりローマ皇帝に戴冠した('''オットー大帝''')。以降、皇帝はローマにおいて教皇の手による戴冠を必要とするようになる([[イタリア政策]])。この戴冠が一般的には'''神聖ローマ帝国'''の始まりとされる<ref name=daijirin>[http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD&dtype=0&dname=0ss&stype=0 しんせいローマていこく 【神聖ローマ帝国】],大辞林</ref>。しかしながら、当時は「神聖ローマ帝国」(''Heiliges Römisches Reich'')なる名称は存在せず、オットー1世の戴冠によって新たな国家が誕生した訳でもなく、同時代の意識としてはあくまでもカロリング帝国からの連続としての教会の保護者そして西洋世界の普遍的支配者たる「ローマ皇帝」であった<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.134-136</ref><ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.36-37</ref><ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.29</ref>。

===中世盛期===
==== ザクセン朝とザリエル朝====
[[File:HRR 10Jh.jpg|thumb|250px|left|10-11世紀の神聖ローマ帝国の領域。<br>{{legend-line|red solid 2px|オットー1世時代}}{{legend-line|red dotted 2px|コンラート2世時代}}]]
[[10世紀]]後半から[[11世紀]]初めの時点で、東王国はいわゆる「ドイツ」ではなく、アレマニア、バイエルン、フランケンそしてザクセンといったゲルマン部族大公の連合であった<ref name=yshinsei/>。

[[973年]]にオットー1世が死去すると皇后アーデルハイトとの子の[[オットー2世 (神聖ローマ皇帝)|オットー2世]]が即位した。即位から程なく発生した従兄弟の[[バイエルン大公|バイエルン公]][[ハインリヒ2世 (バイエルン公)|ハインリヒ2世]]の反乱を鎮圧すると続いて西フランク王[[ロテール (西フランク王)|ロテール]]と戦って[[パリ]]へ進撃した。皇帝権の拡大を目指し「至高なるローマ人の皇帝」(''Imeprium Augustu Romanorum'')の称号を用いたオットー2世は[[980年]]にはイタリア遠征を行うが、イスラム教徒に大敗を喫し、東方ではバルト・スラブ人の蜂起が起きた<ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.38</ref><ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.128-130</ref>。オットー2世は局面の打開を図るべく再度のイタリア遠征を企図するが[[983年]]にローマで死去した。
[[File:Meister der Reichenauer Schule 002.jpg|thumb|250px|オットー3世]]
僅か3歳の[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]が後継者となり、母[[テオファヌ]]が摂政となった。テオファヌはその任をよく果たして王国の安定に尽くした<ref name=doitusi38>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.38-39</ref>。[[994年]]に親政を開始したオットー3世はイタリア遠征を敢行し、[[996年]]に従兄を教皇[[グレゴリウス5世 (ローマ教皇)|グレゴリウス5世]]となして皇帝に戴冠した。オットー3世は父以上に「ローマ帝国の再興」に意欲を示し、教皇と結合した世界帝国を目指して活動したが、[[1002年]]に22歳で死去した<ref name=doitusi38/><ref>【オットー3世】(ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版)</ref><ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.132-134</ref>。

オットー3世が未婚のまま死去したため、幾人かの候補者が名のりを上げ、駆け引きの後に唯一の男系のバイエルン公ハインリヒがバイエルン、フランケン、オーバーロートリンゲンによって選出され([[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]])、その後国内を巡行してその他の諸侯の臣従を受けた<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.140-142</ref>。ハインリヒ2世は「フランク王国の復興」を標榜してドイツ支配強化を打ち出し<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.142-143</ref>、諸大公の力を抑制するとともに帝国教会体制を強化させ帝国統治の要となした<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.143-147</ref><ref name=kimura41>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.41-42</ref>。また3度のイタリア遠征を行って[[1014年]]にローマで戴冠して、教会の守護者として教会改革に取り組んでいる<ref name=kimura41/>。

[[1024年]]に[[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]が子を残さずに死去し、ザクセン朝は断絶した。[[オッペンハイム (ドイツ)|オッペンハイム]]に聖俗諸侯が参集してザリエル家のシュパイエル伯コンラート(オットー1世の玄孫)が国王に選出され[[ザリエル朝]]{{enlink|Salian|en}}が開かれた([[コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート2世]])。政治的連合体としての帝国はハインリッヒ1世やオットー1世など国王の個人的な影響力によって保たれており、公的にはゲルマン諸部族の選挙によって選出されるが、実際には彼らは後継者を指名できており、この王朝交代が「選挙」としての国王選出の最初の機会となった<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.153</ref>。コンラート2世の時代に帝国は[[ブルグント王国]]を併呑し、皇帝はドイツ王、イタリア王に加えてブルグント王も兼ねるようになった。また「'''ローマ帝国'''」(''Imperium Romanum'')の国名を公文書で用い始めている<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.62</ref>。

[[1039年]]に後を継いだ[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]は地盤のフランケン公領に加えて、ジュヴァーベン公領とバイエルン公領をも手に入れて王権の基盤を固め、更に[[ボヘミア|ボヘミア公]]を服属させて帝国の威信を高めた<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.66</ref>。当時、聖職売買や私婚が横行するなどローマ教会は乱脈を極めており、教会紀律刷新を主張する[[クリュニー会|クリュニー教会改革運動]]をハインリヒ3世は積極的に支持した<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.69</ref><ref>[[#堀越(2006)|堀越(2006)]],p.170</ref>。ハインリヒ3世はイタリアへ遠征して[[ローマ教皇庁]]に介入し、3人のローマ教皇([[ベネディクトゥス9世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス9世]]、[[シルウェステル3世 (ローマ教皇)|シルウェステル3世]]、[[グレゴリウス6世 (ローマ教皇)|グレゴリウス6世]])を罷免して、教会改革派のドイツ人聖職者[[クレメンス2世 (ローマ教皇)|クレメンス2世]]、[[ダマスス2世 (ローマ教皇)|ダマスス2世]]、[[レオ9世 (ローマ教皇)|レオ9世]]、[[ウィクトル2世 (ローマ教皇)|ウィクトル2世]]を次々と教皇位につけている<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.163-164</ref>。
{{-}}

====叙任権闘争====
{{main|叙任権闘争|カノッサの屈辱|ヴォルムス協約}}
[[ファイル:Schwoiser Heinrich vor Canossa.jpg|thumb|200px|『カノッサの屈辱』<br>エドゥ・シュワイザー画(19世紀)]]
[[1056年]]にハインリヒ3世が死去し、僅か3歳の[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]が即位して母[[ポワトゥーのアグネス|アグネス]]{{enlink|Agnes of Poitou|en}}が摂政となるが王権は弱体化し、幼主は諸侯たちの政争の具となる<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.74-75</ref>。[[1057年]]にドイツ人教皇ウィクトル2世が死去するとクリュニー教会改革派の教皇庁は帝国の関与を排して[[ステファヌス10世 (ローマ教皇)|ステファヌス10世]]を選出した<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.70-71</ref>。次の[[ニコラウス2世 (ローマ教皇)|ニコラウス2世]]は教皇選挙から世俗権力の干渉を排除する[[教皇勅書]]を発して、皇帝支配からの脱却を図った<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.71-72</ref>。そして、[[1073年]]に教皇至上権の確立([[グレゴリウス改革]])を目指す[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]が教皇に選出される。

一方、ドイツでは成人したハインリヒ4世が帝権の強化を企図して諸侯と対立していた<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.75-76</ref>([[ザクセン戦争 (ハインリヒ4世)|ザクセン戦争]])。[[1075年]]、教皇グレゴリウス7世は俗人による聖職者叙任を禁止する教皇勅書を発した。俗権叙任は君主による各地域の教会支配と忠誠獲得の有効な手段であり、ハインリヒ4世はこれを拒否してドイツ司教に教皇廃立を決議させ、「ヒルデブラント(グレゴリウス7世の修道名)は(中略)教皇ではなく偽りの修道士である」と宣言した。これに対して、教皇グレゴリウス7世はハインリヒ4世を[[破門]]となし、その臣下たちの忠誠義務の解除を宣言する。

ドイツ諸侯は諸侯会議を開いて破門赦免が得られなければ国王を廃位すると決議し、ハインリヒ4世は自らに対する政治的支持がほとんどない事に気づかされた<ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.50</ref>。窮地に陥ったハインリヒ4世はドイツを出て、[[1077年]]に北イタリアの[[カノッサ]]でグレゴリウス7世に赦免を乞う屈辱を強いられた([[カノッサの屈辱]])。

しかし、抗争はこれでは終わらず、反国王派ドイツ諸侯は[[ルードルフ (シュヴァーベン公)|シュヴァーベン公ルードルフ]]{{enlink|Rudolf of Rheinfelden|en}}を対立国王に選出し、教皇グレゴリウス7世もこれを支持して[[1080年]]にハインリヒ4世を再度の破門に処した。だが、この破門は効果がなくハインリヒ4世は[[クレメンス3世 (対立教皇)|クレメンス3世]]を対立教皇に立てて対抗し、シュヴァーベン公ルードルフに打ち勝って戦死させると、イタリアへ侵攻した。ローマは開城し、教皇グレゴリウス7世は亡命地の[[サレルノ]]で失意の内に死去した。

教皇庁は[[ウィクトル3世 (ローマ教皇)|ウィクトル3世]]、次いで[[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]を立てて皇帝に対抗した。外交の名手教皇ウルバヌス2世は南ドイツと北イタリア一帯を味方に引き入れ、更にはハインリヒ4世の長男コンラートをも寝返らせた<ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.53</ref>。ハインリヒ4世はコンラートを廃嫡して次男を後継者としてドイツ国王に選出させるが([[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]])、ハインリヒ5世もまた教皇との和解を望み[[1105年]]に父を捕らえて幽閉してしまう<ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.54</ref>。ハインリヒ4世は脱出して息子と戦うが、翌[[1106年]]に死去した。

[[1122年]]にハインリヒ5世と教皇[[カリストゥス2世 (ローマ教皇)|カリストゥス2世]]との間で皇帝は高位聖職者の叙任権を放棄し、授封権のみを留める内容(聖権と俗権の分離)の[[ヴォルムス協約]]が結ばれて叙任権闘争は決着し、抗争は皇帝の敗北で終わった<ref name=horikosi174>[[#堀越(2006)|堀越(2006)]],pp.174-175</ref><ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.81-82</ref>。この結果、教会領は帝国権威の従属物ではなく、帝国政治体制における独立した諸侯と化すことになる<ref>[[#堀越(2006)|堀越(2006)]],pp.176-177</ref>。

==== ホーエンシュタウフェン朝 ====
{{main|ホーエンシュタウフェン朝}}
[[File:Friedrich I. Barbarossa.jpg|thumb|200px|フリードリヒ1世(赤髭王)像。[[カッペンベルク|カッペンベルク城]]{{enlink|Kapfenberg|en}}所蔵。1160年頃。]]
[[1125年]]にハインリヒ5世が子を残さずに死去してザリエル朝は断絶した。生前、ハインリヒ5世は協力的であった[[ホーエンシュタウフェン朝|ホーエンシュタウフェン家]]のシュヴァーベン大公[[フリードリヒ2世 (シュヴァーベン大公)|フリードリヒ2世]]を後継者にと望んだが<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.211</ref>、国王選挙で選出されたのは[[ズップリンブルク家]]のザクセン大公ロタールであった([[ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)|ロタール3世]])。教皇との紛争は皇帝の不利となり、ロタール3世は重要な権利を放棄したと伝えられる<ref group=nb>実際にはロタール3世はヴォルムス協約で認められた権利を行使している。[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.213</ref>。ロタールは教皇に献身的であったが<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.85</ref>、イタリア遠征中の[[1137年]]に死去した。ロタール3世にも子はなく、彼は[[ヴェルフ家]]の[[ハインリヒ10世 (バイエルン公)|ハインリヒ10世]](傲岸公)を後継者に望んだが<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.213</ref>、国王選挙ではホーエンシュタウフェン家のコンラートが選出された([[コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート3世]])。ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家の対立はイタリアへ及び[[教皇派と皇帝派|皇帝派(ギベリン)と教皇派(ゲルフ)]]の抗争が引き起こされ<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.86</ref>、紛争は[[15世紀]]末まで続き、イタリア諸都市を分裂させている。

コンラート3世は[[1152年]]に死去し、彼の甥のシュバーベン公フリードリヒが国王に選出された([[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世赤髭王]])。フリードリヒ1世の政策はイタリアに重点が置かれた。彼はこの地域における帝権の回復を目指しており、6度ものイタリア遠征を行っている。[[1155年]]にフリードリヒ1世は皇帝に戴冠し、以後「'''神聖帝国'''」(''Sacrum Imperium'')の国名を使用するようになった<ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.64</ref>。だが、南イタリアのノルマン人に対する戦役の際に教皇との対立が高まり<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.221</ref>、[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]との関係も悪化した。フリードリヒ1世がイタリアにおける帝国の行政権を強化するために北イタリアの{{仮リンク|ロンカーリャ|it|Roncaglia}}で帝国議会を開催すると、[[ミラノ]]をはじめとする裕福な諸都市からの激しい抵抗に直面した<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.92</ref>。関係は悪化し、北イタリア諸都市は[[ロンバルディア同盟]]を結成してホーエンシュタウフェン家に対抗した。新教皇[[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]の選出は論争を呼び起こし、フリードリヒ1世は承認を拒否した。だが、皇帝軍は[[1167年]]にローマでの疫病で多数の死者を出して撤退を余儀なくされ<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.227-228</ref>、そして[[1176年]]の[[レニャーノの戦い]]{{enlink|Battle of Legnano|en}}で惨敗を喫したことにより、軍事的勝利が望めないと思い知らされた彼は[[1177年]]に教皇との[[ヴェネツィア条約]]{{enlink|Treaty of Venice|en}}を締結した。北イタリア諸都市との和解もなされたが、フリードリヒ1世はもはやイタリアでの計画を実行することは叶わなくなっていた。

フリードリヒ1世は従兄弟にあたるヴェルフ家のザクセン=バイエルン公[[ハインリヒ3世 (ザクセン公)|ハインリヒ]](獅子公)と対立するようになる。ハインリヒ獅子公はロンバルディア遠征への参加を拒否し、フリードリヒ1世は大敗した<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.93-94</ref>。[[1180年]]にハインリヒ獅子公は裁判にかけられてザクセンとバイエルンを没収され、帝国追放に処された。

[[1190年]]、フリードリヒ1世は[[第3回十字軍]]の最中に死去した。彼の次男が[[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]として後を継ぐ。[[1186年]]には既に[[カエサル (称号)|カエサル]]の称号を父から授けられており、事実上の後継者と見なされていた。[[1191年]]に皇帝に戴冠するとハインリヒ6世は南イタリアにある[[ノルマン朝|ノルマン王朝]]の[[シチリア王国]]の併合を企てた。彼はシチリア王[[グリエルモ2世]]の王女[[コスタンツァ (シチリア女王)|コスタンツァ]]と結婚しており、グリエルモ2世が子を残さずに死去したために王位は彼女とハインリヒ6世に回るはずであった<ref name=naruse247>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.247</ref>。ハインリヒ6世は王位継承を主張したが、反ドイツ派が[[タンクレーディ (シチリア王)|タンクレーディ]]を擁立したため失敗した<ref name=naruse247/>。[[1194年]]にハインリヒ6世は南イタリアを制圧して、ハインリヒ6世とコスタンツァがシチリア王となった<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.247</ref>。彼はドイツ王国の国王選挙制度を廃してフランスやシチリアと同様の世襲王国とする世襲帝国計画(''Erbreichsplan'')を提案するが、諸侯の抵抗に遭い失敗に終わった<ref name=naruse249>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p249</ref>。また、彼は十字軍による聖地奪回だけでなく、東方支配をも視野に入れた野心的な地中海政策も構想したが<ref name=naruse249/>、[[1197年]]に32歳で急死してしまい、彼の早世によって帝国に強力な中央集権を確立せんとする最後の試みは頓挫した。
[[File:Busto di Federico II di Svevia.jpg|thumb|left|200px|フリードリヒ2世像。イタリア・[[バルレッタ|バルレッタ城]]所蔵。]]
ハインリヒ6世の息子フリードリヒ2世は[[1196年]]に2歳で既にドイツ王に選出されていたが<ref name=naruse249/>、幼少であった彼の王位は排除されて<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.250</ref>当初はシチリア王とのみとなり、教皇[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]が後見人として摂政となった<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.104</ref>。ドイツでは[[1198年]]の二重選挙によって[[ミュールハウゼン]]でホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン公[[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]、[[ケルン]]ではヴェルフ家の[[オットー4世 (神聖ローマ皇帝)|オットー4世]]の二人の国王が各々選出され対立した。情勢はフィリップに有利に傾いたが、[[1208年]]に暗殺された。教皇インノケンティウス3世の支持を受けたオットー4世が[[1209年]]に皇帝に戴冠したが、シチリア王国に侵攻したため翌[[1209年]]に教皇から破門されてしまう<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.106-107</ref>。ドイツ諸侯はオットー4世の廃位を決議して、教皇インノケンティウス3世が支持するフリードリヒ2世を国王に選出した<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.107</ref>。フリードリヒ2世は[[1220年]]に皇帝に戴冠するが、やがて教皇庁と対立するようになる<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.108-110</ref>。フリードリヒ2世は[[1228年]]の[[第6回十字軍]]の際に教皇[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]の怒りを受けて破門されるが、破門の身でありながら([[アイユーブ朝]]の[[スルタン]]との交渉によって)エルサレムの奪回に成功し、[[エルサレム王国|エルサレム王位]]をも手に入れて多くの人々を驚かせている。

フリードリヒ2世は帝国の勢力を大いに高めたが、その解体の主な契機をももたらしている。彼はシチリアにおいて公共事業や財政その他の改革によって革新的な国家建設に努める一方で、ドイツでは諸侯に大幅な特権を授与して大きな権限を与え、以降、王権がこれを取り戻すことはできなかった。[[1220年]]にドイツ司教との間に「[[聖界諸侯との協約]]」(''[[:en:Confoederatio cum principibus ecclesiasticis|Confoederatio cum principibus ecclesiasticis]]'')を結び、[[1232年]]には嫡男[[ハインリヒ7世 (ドイツ王)|ハインリヒ]]の反乱に際して諸侯を味方につけるために「[[諸侯の利益のための協定]]」(''[[:en:Statutum in favorem principum|Statutum in favorem principum]]'')を発して、関税徴収請求権、貨幣鋳造権そして城塞構築権といった多くの[[レガリア]](大権)を放棄して聖俗諸侯の特権を拡大させた<ref>[[#阿部(1998)|阿部(1998)]],p.65</ref>。これらの協定が中世後期の帝国における領邦国家形成の始まりとなる<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.116</ref>。これらの特権の多くはこれ以前から既成事実化していたが、これによって法的な確認が与えられた<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.272-273</ref>。フリードリヒ2世はアルプス以北のドイツ諸侯は各々の領地の経営を行い、自身はシチリア本国の経営に専念することを望んだ<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.116-117</ref>。

フリードリヒ2世は教皇や北イタリア諸都市と紛争を起こすようになり<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.281</ref>、 教皇はフリードリヒ2世を[[反キリスト]]であると非難した<ref>[[#Weyland(2002)|Weyland(2002)]], p. 146</ref>。最終的にフリードリヒ2世が軍事的に優勢となるが<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.283</ref>、[[1250年]]に死去した。

この時期、東方では[[1226年]]に[[コンラト1世 (マゾフシェ公)|マゾフシェ公コンラト1世]]によって[[プロイセン]]のキリスト教化のために[[ドイツ騎士団]]が招聘された。修道会国家[[ドイツ騎士団国]](''Deutschordensstaat'')は帝国と密接な関係を保っていはいたが、領域に属していたか否かは定かではない<ref>[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],p.56,pp.64-66</ref>。ホーエンシュタウフェン朝の皇帝たちが長期間イタリアに滞在している間にドイツ諸侯の勢力は拡大し、ドイツ農民や商人による東方移住が促された。東方移住やスラブ人地域領主との婚姻によって帝国の影響力は[[ポメラニア]]や[[シレジア]]にまで拡大している。
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====大空位時代====
{{main|大空位時代}}
[[File:Balduineum Wahl Heinrich VII.jpg|thumb|300px|選帝侯(''Kurfürst'')]]
フリードリヒ2世が死去した1250年(またはコンラート4世の死の[[1254年]]あるいはヴィルヘルム・フォン・ホラントの死の[[1256年]])から[[ハプスブルク家]]の[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]が国王に選出された[[1273年]]までの期間を統一国王の存在しない'''大空位時代'''(''Interregnum'')と呼ぶ<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.129,p.131</ref><ref>[[#阿部(1998)|阿部(1998)]],p.64</ref><ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.71</ref>。

フリードリヒ2世の共治王に立てられていた次男の[[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート4世]]が単独王になるが、反皇帝派は[[1246年]]にハインリヒ・ラスペを対立王に立てており、翌年に彼が死ぬと[[ウィレム2世 (ホラント伯)|ヴィルヘルム・フォン・ホラント]]を選出して対抗した。[[1254年]]にコンラート4世が死去してヴィルヘルム・フォン・ホラントが唯一のドイツ王となった。その後、コンラート4世の遺児[[コッラディーノ]]も[[カルロ1世 (シチリア王)|シャルル・ダンジュー]]とシチリア王位を争って殺されており、ホーエンシュタウフェン家は断絶している。1254年にヴィルヘルムは「'''神聖ローマ帝国'''」(''Imperium Romanum Sacrum'')の国名を初めて用いた<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.131</ref>。だが、ヴィルヘルムはその2年後の[[1256年]]の[[フリースラント]]遠征中に戦死してしまう。

[[1257年]]の二重選挙が空位期の長期化をもたらした。この選挙の際に[[マインツ大司教]]、[[ケルン大司教]]、[[トリーア大司教]]、[[ライン宮中伯]](プファルツ)、[[ブランデンブルク辺境伯]]、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン大公]]そして[[ボヘミア王]]といった、後に[[選帝侯]](''Kurfürst'')と呼ばれるグループが現れた<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.285</ref>。

当初、プファルツ、ケルンそしてマインツの3人の選挙人(主に教皇派)はヴィルヘルムの後継国王として[[リチャード (コーンウォール伯)|コーンウォール伯リチャード]]([[イングランド王]][[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]の弟)に投票した。しばらく後に4人目のボヘミアもこの選択に加わった。しかしながら、その数ヵ月後にトリーア、ブランデンブルクそしてザクセン(主に皇帝派)そしてボヘミアが[[カスティーリャ王]][[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]]に投票する。ボヘミアの二重投票によりドイツに二人の国王が並び立つことになった。

アルフォンソ10世はスペインに留まり一度もドイツに入ることなく、リチャードもまたほとんど不在で国王がドイツにいない状態が長期化した<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.286</ref>。この大空位時代に帝国の秩序は乱れ、諸侯は特権獲得と領域形成を強固にして、より一層自立した統治者と化した<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.132-134</ref><ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.286</ref>。また、この時期、ドイツ西部で諸侯の勢力伸張に対して都市の利益を守るためのライン同盟が結成されるといった現象が起こっている<ref>[[#堀越(2006)|堀越(2006)]],pp.265-266</ref><ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.286-289</ref>。
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=== 中世後期 ===
==== 跳躍選挙 ====
{{main|ルクセンブルク家のドイツ・イタリア政策}}
[[File:HRR 14Jh.jpg|250px|thumb|神聖ローマ帝国の領域(1273-1378)と主要王家の領地{{legend|#99CC66|[[ヴィッテルスバッハ家]]}}
{{legend|#ffaa00|[[ハプスブルク家]]}}
{{legend|#BF80FF|[[ルクセンブルク家]]}}]]
1272年にリチャードが死去すると、弱体な君主を望む諸侯の思惑から現在の[[スイス]]北西部と[[ライン川|上ライン]]の小領主に過ぎない[[ハプスブルク家]]の[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]が国王に選出された<ref name=abe71>[[#阿部(1998)|阿部(1998)]],p.71</ref><ref>[[#江村(1990)|江村(1990)]],pp.22-23</ref>。ボヘミア王[[オタカル2世]]がルドルフ1世への臣従を拒否して戦争になり、[[1278年]]の[[マルヒフェルトの戦い]]{{enlink|Battle on the Marchfeld|en}}でルドルフ1世が勝利し、この結果、ハプスブルク家は後に地盤となる[[オーストリア公|オーストリア]]と[[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク]]を獲得している<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.139-141</ref>。

ルドルフ1世の死からカール4世即位までの時期はすべての国王選挙で異なる家門が選出されており、'''跳躍選挙'''(''Springende Wahlen'')と呼ばれている。帝国西部へのフランスの進出によって旧ブルグンド王国への影響力が衰えた<ref>[[#Rovan(1999)|Rovan(1999)]], p. 170</ref>。この影響力の衰退はイタリア(主にロンバルディアや[[トスカーナ州|トスカーナ]])にも及んだ。

[[1291年]]にルドルフ1世が死去するとハプスブルク家の勢力伸長を警戒した諸侯は世襲を認めず、[[ナッサウ家]]の[[アドルフ (神聖ローマ皇帝)|アドルフ]]を国王に選出した<ref>[[#江村(1990)|江村(1990)]],p.30</ref><ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]]pp.139-140</ref><ref name=abe71/>。だが、アドルフは[[1298年]]に廃位されてしまい、再びハプスブルク家の国王が選出されてルドルフ1世の子の[[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]]が即位するが、[[1308年]]に一族の者によって暗殺されている。

代わって[[ルクセンブルク家]]の[[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]が国王に選出された。皇帝権の再建を企図する<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.297</ref>ハインリヒ7世は[[1310年]]から[[1313年]]にかけてイタリア遠征を行い帝国のイタリア政策を再興した。ハインリヒ7世は[[1312年]]にフリードリヒ2世以降初めてローマで皇帝戴冠をなしたが、[[1309年]]に教皇庁はローマの政争から逃れるために南フランスの[[アヴィニョン]]へ動座しており([[アヴィニョン捕囚]])、教皇ではなく枢機卿の手で戴冠されている<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.145</ref>。
[[File:Ludovico il Bavaro.jpeg|thumb|200px|left|ルートヴィヒ4世<br>[[ミュンヘン聖母教会]]{{enlink|Munich Frauenkirche|en}}]]
教皇と帝国の間のキリスト教社会自体の支配を巡る対立は[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]の治世に再燃している<ref>[[#Rapp(2000)|Rapp(2000)]], p.250</ref>。1313年にハインリヒ7世が死去すると諸侯は二つの党派に分裂してハプスブルク家の[[フリードリヒ3世 (ドイツ王)|フリードリヒ]](美王)と[[ヴィッテルスバッハ家]]のバイエルン公ルートヴィヒが選出され、8年の戦争の後にルートヴィヒ4世が勝利したが、進取的で権威主義者の教皇[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]はこの状況を利用すべく、教皇の認可のない「バイエルン人ルートヴィヒ」の国王選出を無効であると宣言した<ref name=naruse299>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.299</ref>。ヨハネス22世は教皇は皇帝が不在の間の帝国のイタリア地方における代理人であると主張し、[[ナポリ王]][[ロベルト (ナポリ王)|ロベルト]]をトスカナの代官に任命する。ルートヴィヒ4世は上訴を行い、国王権力の独立を主張して教皇の異端を告発し、これに対しヨハネス22世は破門で応じた。[[1328年]]、ルートヴィヒ4世はイタリア遠征を敢行してローマを占領し、[[パドヴァのマルシリウス]]の人民主権論『平和の擁護者』を理論根拠に教皇ではなくローマ人民の名で皇帝に戴冠した<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.300</ref>。皇帝と教皇の紛争は[[フランシスコ会]]士[[オッカムのウィリアム]]や同会聖霊派の清貧論争や教皇世俗支配問題と結びつき、神学と政学の論争を引き起こしている<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.299-301,pp.303-306</ref>。

紛争が長期化した[[1338年]]、6人の選帝侯がレンスで会議を開き、選帝侯による選挙によってのみ国王は選出されると議決して、教皇からの承認の必要性を拒否した(レンス判告)<ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.73</ref><ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.301-302</ref>。ルートヴィヒ4世はこれを受けて帝国法「リケット・ユーリス」(''Licet iuris'')と皇帝命令書「フィデム・カトリカム」(''Fidem catholicam'')を発布して、教皇絶対権を否定し、選挙によって国王に選出された者が直ちに「真のローマ王にして皇帝」になると規定した<ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.73-74</ref><ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.302</ref>。

[[1346年]]、[[チロル|チロル伯爵領]]での強引な家門拡大策で教皇から破門を受けたルートヴィヒ4世は廃位され<ref>[[#菊池(2004)|菊池(2004)]],pp.45-46</ref>、ルクセンブルク家の[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]が選出された。カール4世は即位に際して教皇にかなりの譲歩を行い、[[1355年]]にローマで皇帝戴冠を行った<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.152-153</ref>。中世後期の皇帝たちは帝国ドイツ部分の統治に専念するようになり、自らの領地の利害をより重視するようになっており<ref name=yshinsei/>、ボヘミア王でもある[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]はその典型であった<ref>[[#鈴本(1997)|鈴本(1997)]],p.89
</ref>。
[[File:Meister der Wenzel-Werkstatt 002.jpg|thumb|200px|金印勅書]]
[[1356年]]、カール4世は国王選出の際にほとんど必ず発生して帝国の威信を傷つけてきた紛争を避けるために[[金印勅書]](''bulla aurea'')を発布した。帝国初の基本法と見なされるこの勅書によって7人の選帝侯による選挙方式が定められ、国王は過半数の得票で選出されて直ちに皇帝になると見なされ、これによって教皇の介入を排除することができた<ref name=kimura74>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.74-75</ref><ref name=naruse311>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.311</ref>。また、選帝侯領の世襲制と領地不可分が確認され、裁判権や関税権、貨幣鋳造権などの諸特権が認められた<ref name=kimura74/><ref name=naruse311/>。その他、[[国会 (ドイツ)|帝国議会]](''Reichstag'')の成文化、私闘(フェーデ)の禁止や諸侯の利益に反する都市同盟の結成の禁止なども含まれている<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.155-156</ref>。

カール4世の時代にヨーロッパの人口の3分の1が犠牲になったとされる黒死病([[ペスト]])の大流行が発生している<ref>[[#堀越(2006)|堀越(2006)]],pp.380-381</ref>。ドイツでは[[1350年]]に発生し、14世紀末まで断続的に続いた<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.365</ref>。この際にドイツ各地で宗教的集団ヒステリーによる[[ポグロム]](ユダヤ人虐殺)が発生して多数の[[ユダヤ人]]が犠牲となり、カール4世はこれを阻止しえず、却って助長することまでしている<ref>[[#坂井(2003)|坂井(2003)]],pp.53-54</ref><ref>[[#阿部(1998)|阿部(1998)]],pp.74-75</ref>。

この時期、商人ハンザから都市ハンザが成立し([[ハンザ同盟]])<ref>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B6%E5%90%8C%E7%9B%9F/ ハンザ同盟(はんざどうめい)]-日本大百科全書(小学館)</ref>、やがて北ヨーロッパにおける巨大勢力へと成長することになる。[[1241年]]に結成されたこの同盟は[[ハンブルク]]、[[リューベック]]、[[リガ]]そして[[ノヴゴロド]]を含み、[[15世紀]]には200におよぶ都市が加盟していた<ref> [[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.350-351</ref>。当時、ハンザ同盟は主要な政治的アクターとなっており、[[デンマーク王国|デンマーク]]と戦って勝利しバルト海における覇権を認めさせるまでになっていた([[シュトラールズントの和約]])<ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.80</ref>。同時期、シュヴァーベン公に併合されることを恐れた諸都市が[[シュヴァーベン都市同盟]]{{enlink|Swabian League|en}}を結成している。シュヴァーベンはライン川と[[ドナウ川]]が合流し、[[アルプス山脈]]を通って[[ポー川]]流域につながるヨーロッパ全域を結ぶ中心地に位置していた。カール4世は世襲工作の資金調達のために自ら金印勅書に違反してまで、この同盟を許して諸侯を憤慨させている<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.170-171</ref>。

[[1378年]]にカール4世は死去し、息子の[[ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)|ヴェンツェル]]が国王に選出されたが、諸侯と対立して[[1400年]]に選帝侯たちによって廃位されてしまう<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.376</ref>。代わってヴィッテルスバッハ家のプファルツ選帝侯[[ループレヒト (神聖ローマ皇帝)|ループレヒト]]が国王に選出された。効果的な統治を行うには彼の権力基盤は弱体でありすぎ、加えてヴェンツェルは王位を失うことを認めていなかった<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.376</ref>。

[[1410年]]にループレヒトが死去するとルクセンブルク家最後の皇帝となる[[ハンガリー王]][[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]](ヴェンツェルの異母弟)が選出された。当時、[[1378年]]の[[教会大分裂]](シマス)による政教問題が持ち上がっており、ジギスムント即位の時点で3人の教皇が鼎立する異常な状態になっていた。ジギスムントはシマスを解消すべく介入し、[[1414年]]に[[コンスタンツ公会議]](1414年-[[1418年]])を開催させた。公会議によって3人の教皇いずれもが廃位・辞任させられ、新たに[[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]が選出されてシマスは除去された。しかし、この公会議でボヘミアの教会改革派[[ヤン・フス]]を[[異端|異端者]]として火刑に処したことで、[[フス派]]が武装蜂起し[[フス戦争]]([[1419年]]-[[1436年]])を引き起こすことになった。ジギスムント(1419年からボヘミア王を兼ねる)は[[1431年]]まで5回にわたる十字軍を派遣するが連敗を喫した<ref name=iketani>[[#池谷(1994)|池谷(1994)]],pp.108-109</ref>。宗教戦争はフス派の内紛により過激派タボル派が壊滅したことで終結するが<ref name=iketani/>、ジギスムントの地盤であるボヘミアは荒廃し、ルクセンブルク家の手から離れた<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.171-172</ref>。

[[1437年]]にジギスムントが死去するとルクセンブルク家の帝位は終焉した。帝位はハプスブルク家へ渡り、帝国が消滅するまで同家が事実上独占することとなった<ref group=nb name=dokusen>例外は[[オーストリア継承戦争]]中に短期間在位した[[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール7世]](ヴィッテルスバッハ家)のみ。</ref>。

====帝国改造====
[[File:Hans Burgkmair d. Ä. 005.jpg|thumb|200px|フリードリヒ3世]]
ハプスブルク家は[[スイス誓約同盟]]{{enlink|Old Swiss Confederacy|en}}との戦争に敗れて発祥の地は事実上失ったが、東方では家領を増やしてオーストリア公領、シュタイヤーマルク公領、[[ケルンテン公爵|ケルンテン公領]]、[[クライン公爵|クライン公領]]{{enlink|Carniola|en}}、チロル伯領を獲得していた<ref>[[#菊池(2004)|菊池(2004)]],p.51,p.54,p.210</ref>。また、[[ルドルフ4世 (オーストリア公)|ルドルフ4世]](建設公)の時に特許状を偽造して「[[オーストリア大公|大公]]」(''Erzherzog'')を自称し、カール4世に黙認させている<ref group=nb>ルドルフ4世は5通の特許状に添えて証拠として提出した手紙の差出人を[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]と[[ネロ]]とし、偽書であることをあからさまにしてカール4世を暗に恫喝している。[[#菊池(2004)|菊池(2004)]],pp.201-208</ref>。

[[1437年]]、ジギスムントの娘婿でハプスブルク家のオーストリア公[[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]が選出されるが(ボヘミア王とハンガリー王も相続<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.179-178</ref>)、僅か1年ほどで急死してしまう。代わって従兄弟のシュタイヤーマルク公フリードリヒ5世が選出された([[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]])。フリードリヒ3世は「帝国第一の就寝帽」<ref group=nb>ドイツ語では'''Erz'''herzog(オーストリア大公)とSchlafmütze (寝帽/眠たがり屋)を語呂あわせしたReichs'''erz'''schlafmutze。[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.33</ref>と評されるほどの無能な人物だったが<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.179-181</ref><ref>[[#江村(1990)|江村(1990)]],p.36</ref>、歴代最長の53年の治世となり、その長寿と婚姻政策の成功によって結果的にハプスブルク家発展の道を開くことになった<ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.87</ref><ref>[[#江村(1990)|江村(1990)]],pp.36-38</ref><ref>【フリードリヒ3世】(ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版)</ref>。フリードリヒ3世の治世に帝国の領域をドイツに限定する意味で、国名に「'''ドイツ国民の'''」(''Deutscher Nation'')を付け始めている<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.184-185</ref>。

[[1453年]]に[[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノープルが陥落]]して[[オスマン帝国]]の脅威が迫るとフリードリヒ3世は帝国会議を開いて諸侯に戦費調達を要請した。諸侯はこの機会に[[帝国裁判所]]{{enlink|Reichskammergericht}}の設置を要求したが、皇帝に不利な内容だったため彼はこれを拒否している<ref name=kimura88>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.88</ref>。[[1455年]]、フリードリヒ3世はローマで皇帝戴冠をなし、彼がローマで戴冠式を挙行した最後の皇帝となった。
[[File:Albrecht Dürer 084b.jpg|thumb|left|200px|マクシミリアン1世]]
[[1457年]]にオーストリア公、ボヘミア王、ハンガリー王を兼ねるアルブレヒト2世の子の[[ラディスラウス・ポストゥムス]]が死去し、オーストリアはハプスブルク家が確保したが、ボヘミアとハンガリーはその手から離れた。[[1485年]]にはハンガリー王[[マーチャーシュ1世]]がオーストリアへ攻め込み、[[ウィーン]]を占領される事態に陥る。救援を要請したフリードリヒ3世に対して諸侯は嫡男[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ公]]マクシミリアンへのドイツ王譲位を要求し<ref name=kimura88/>、翌[[1486年]]、マクシミリアンはドイツ王(ローマ王)に即位した([[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]])。[[1493年]]にフリードリヒ3世は死去してマクシミリアン1世が単独統治者となる。

マクシミリアン1世は亡妻[[マリー (ブルゴーニュ女公)|ブルゴーニュ女公マリー]]([[1482年]]没)の遺領相続を主張してフランス王[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]と敵対していた。彼は単独統治開始直後の[[1494年]]に[[ミラノ公|ミラノ公女]][[ビアンカ・マリア・スフォルツァ]]と再婚し、[[ミラノ公国]]の支配を巡って当時イタリア半島に侵攻していたフランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]との戦争状態に入った([[イタリア戦争]])。

翌[[1495年]]、マクシミリアン1世は[[ヴォルムス]]で帝国議会を開催して諸邦の代表に対して軍資金だけでなく、帝国税の導入と兵士の提供を求めた。当時、解体しつつある帝国に新体制を構築しようとする動きがあり、この改革の基本的な考えは、主に[[ニコラウス・クザーヌス]]によって提唱された皇帝と[[帝国等族]]{{enlink|Imperial State|en}}との政治的協調論に基づいている。マインツ大司教[[ベルトルト・フォン・ヘンネブルク]]{{enlink|Bertold von Henneberg-Römhild|en}}を中心とした代表たちは一般帝国税(''Gemeiner Pfennig'')の導入には基本的に同意したが、同時に諸改革案を提案し、マクシミリン1世は妥協してこれに同意した<ref name=kimura88/>。その後、[[1500年]]の[[アウクスブルク]]帝国議会、[[1512年]]のケルン帝国議会でも改革が決議された。以下の骨子のこれらの諸改革を一般に'''帝国改造'''(''Reichsreform'')と呼ぶ。
{{-}}
#[[永久ラント平和令]](''Ewiger Landfriede'')の制定 :帝国に単一の法体系を確立して武力行使の合法性を独占(''Gewaltmonopol des Staates'')し、封臣間の政治的争いを解決する手段としての私闘([[フェーデ]])を禁止する。
#[[帝国最高法院]](''Reichskammergericht'')の設置:上記に関連する機関としての帝国全領域における最高裁判所で、帝国行政府の長としての皇帝個人から管轄権を分離していた。マクシミリアン1世はこれと並存する[[帝国宮内法院]]{{enlink|Aulic Council|Reichshofrat}}を1497年に設置して対応した。帝国裁判所は[[フランクフルト・アム・マイン]]に置かれ、[[1523年]]に[[シュパイアー]]へ移転し、最終的に[[1693年]]に[[ヴェッツラー]]に落ち着いた。
#[[帝国統治院]](''Reichsregiment'')の設置:扱いづらく旧態然としており、これまで充分な影響力を持ち得なかった帝国会議(Reichstag)に代わることを意図した帝国行政府。20人の聖俗諸侯と[[帝国自由都市]]の代表からなり、皇帝の財政と外交を司る。当初、マクシミリアン1世は自らの権力の制限を拒否しており、諸邦が[[ランツクネヒト]](傭兵:''Landsknecht'')を彼に提供することに同意した後に開かれた1500年のアウクスブルク帝国会議まで承認しなかった。しかしながら、その僅か2年後の1502年に廃止されている。
#[[帝国クライス]](''Reichskreise'')の設置:[[クライス議会]](''Kreistage'')を有する6管区(1512年以降は10管区)。クライスは元々は1500年から設立された帝国最高法院の選挙区を意味し、1512年に治安維持機能が付与され、各管区は永久ラント平和令の施行や徴税そして軍隊の編成をより効率的に管理運営することを目的とした。

しかしながら。新しい法令が普遍的に受け入れられて新裁判所が機能し始めるのには、なお数十年を必要とした。

[[1508年]]、マクシミリアン1世はローマでの教皇の手による戴冠を受けることなく皇帝を称し、以後、皇帝はローマでの戴冠を必要としなくなる<ref name=Schulze228>[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],p.228</ref>。1512年のケルン帝国議会から「'''ドイツ国民の神聖ローマ帝国'''」(''Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation'')の国名が公文書で用いられ始めた<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.189</ref>。

=== 近世 ===
====カール5世の世界帝国と宗教改革====
{{main|宗教改革|イタリア戦争}}
[[File:Empire-Roman-Emperor-Charles-V.jpg|thumb|300px|カール5世時代のハプスブルク帝国。<br><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">{{legend|#c71585|カスティーリャ|border=1px solid #000}}{{legend|#ff0000|アラゴン|border=1px solid #000}}{{legend|#ffa500|ブルゴーニュ|border=1px solid #000}}</div>{{legend|#ffd700|オーストリア|border=1px solid #000}}{{legend-line|black solid 2px|神聖ローマ帝国の境界}}]]
[[16世紀]]に入ったこの時期、フランス、[[イングランド王国|イングランド]]、[[スペイン]]では中央集権化が進められていたが<ref>[[#木下他(2008)|木下他(2008)]],p.290</ref>、既述の通りにドイツでは逆に諸侯の特権が強化される傾向にあった。

マクシミリアン1世は嫡子ブルゴーニュ公[[フェリペ1世 (カスティーリャ王)|フィリップ]](美公)を[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]=[[アラゴン王国|アラゴン]](以後スペインと記す)王家の王女[[フアナ (カスティーリャ女王)|フアナ]]と結婚させ、[[1500年]]に二人の間に嫡子[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール]]が生まれた。カールは父フィリップの死去([[1506年]])によってブルゴーニュ公(領地はブルゴーニュの一部と[[スペイン領ネーデルラント|ネーデルラント]])を継承し、[[1516年]]には母方の祖父のスペイン王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]の死去により、祖父の有していたスペイン王、ナポリ王、シチリア王等の称号を継承する。母フアナとの共同統治であったが、フアナは精神障害のために政務が執れず<ref> 【フアナ・ラ・ロカ】(ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版)</ref>、実質的にはカールの単独統治となった(スペイン王カルロス1世)<ref>[[#江村(1990)|江村(1990)]],p.72</ref>。

[[1519年]]に父方の祖父である皇帝マクシミリアン1世が死去した。カールはフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]との選挙戦に勝ち、皇帝に選出された(神聖ローマ皇帝カール5世)。[[1526年]]には弟のオーストリア大公[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]がハンガリー=ボヘミア王位を継承しており、こうしてハプスブルク家はスペイン、ドイツ、ネーデルラント、ナポリ=シチリア、[[サルデーニャ]]、オーストリア、ハンガリー=ボヘミアそして広大なスペインの[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|新大陸領土]]を治める「普遍的君主制」<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.36</ref>(''monarchia universalis'')に君臨することになった。だが、ドイツではカール5世の治世に神聖ローマ帝国の解体を決定的にさせる事態が生じる。

カール5世が神聖ローマ帝国を統治し始める以前の[[1517年]]に[[マルティン・ルター]]が[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ヴィッテンベルク大学]]で発表した『[[95ヶ条の論題]]』が[[宗教改革]]の発端となった<ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.53</ref>。ローマ・カトリック教会の大きな財源となっていた[[贖宥状]]の効力に疑義を呈するこの論題は[[活版印刷]]の普及もあってドイツ各地に広まって大きな反響を呼び<ref>[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],pp.57-60</ref>、事態を憂慮した教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]はルターにローマ出頭を命じるが、ルターは領主であるザクセン選帝侯[[フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ3世]](賢公)の庇護を受けてこれに応じなかった。ドイツ内のアウクスブルクと[[ライプツィヒ]]で行われた異端審問でルターは教皇庁側と決裂した<ref>[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],pp.60-64</ref>。[[1520年]]にルターは『[[ドイツ貴族に与える書]]』、『[[教会のバビロニア捕囚]]』、『[[キリスト者の自由]]』を発表し(三大宗教改革論)、これに対して教皇庁はルターに破門を通告する[[教皇勅書|勅書]]を送って自説の撤回を迫る。ルターはヴィッテンベルクの公衆の前で、この勅書を燃やして答えた。
[[File:Лютер в Вормсе.jpg|thumb|300px|left|ヴォルムス帝国議会におけるルター]]
[[1520年]]にカール5世は[[ヴォルムス帝国議会 (1521年)|ヴォルムス帝国議会]]を開き、先代マクシミリアン1世から引き継いだフランスとのイタリア戦争のために諸侯に妥協し、帝国統治院の再設置を承認させられた<ref>[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],p.75</ref>。この帝国議会にルターが召喚されて審問を受けたが、彼は断固たる態度で自説の撤回を拒否した<ref>[[#赤井他(1974)|赤井他(1974)]],pp.152-154</ref><ref>[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],p.76</ref>。カール5世は{{仮リンク|ヴォルムス勅令|de|Wormser Edikt}}を発してルターを帝国追放に処して著書を禁圧したが、ルターはフリードリヒ賢公に匿われ、[[ヴァルトブルク城]]で[[ルター聖書|新約聖書のドイツ語翻訳]]を成し遂げた<ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],pp.57-58</ref>。

ヴォルムス帝国議会が終わるとカール5世はスペインへ帰国し<ref>[[#江村(1990)|江村(1990)]],p.90</ref>、以後約10年間もドイツでは皇帝不在となる<ref>[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],p.77</ref>。[[1525年]]の[[パヴィアの戦い]]で皇帝軍はフランス王フランソワ1世を捕虜とする大勝をおさめ、カール5世は北イタリアからフランス勢力を駆逐できた<ref>[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],pp.77-78</ref>。フランソワ1世は不利な内容の[[マドリード条約 (1526年)|マドリード条約]]の締結を余儀なくされたが、解放され帰国するとこの条約を反故にしてしまい<ref>[[#江村(1990)|江村(1990)]],p.95</ref>、戦争はなおも継続し、更にスペインを脅威と感じた新教皇[[クレメンス10世 (ローマ教皇)|クレメンス10世]]がフランスに加担する事態まで生じる<ref>[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],pp.78-79</ref>(第二次イタリア戦争)。この戦争の最中の[[1527年]]に皇帝軍による「[[ローマ略奪|ローマ劫掠]]」が発生し、ヨーロッパ精神世界に大きな衝撃を与えた<ref>[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],pp.80-81</ref><ref>[[#赤井他(1974)|赤井他(1974)]],p.109</ref>。
[[File:Emperor charles v.png|thumb|200px|カール5世<br>[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|チチアン]]画]]
一方、ドイツでは[[1521年]]から[[1524年]]にかけてルターの[[福音主義]]は大きく広がり<ref> [[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.61</ref>、ルターの支持者たちは独自解釈を始めて過激な改革運動が各地で引き起こされた<ref>[[#赤井他(1974)|赤井他(1974)]],pp.154-155</ref>。また、スイスでは[[チューリッヒ|チューリッヒ市]]の[[フルドリッヒ・ツヴィングリ]]が宗教改革運動を主導し、更にはより急進的な[[再洗礼派]]が現れてスイス諸州や南ドイツに波及している<ref>[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],pp.94-101</ref>。[[1522年]]に宗教改革運動に乗じて地位回復を図った[[騎士|騎士階層]]が蜂起して[[騎士戦争]]が起こったが、短期間で諸侯連合軍に敗北した<ref name=morita/>。続いて、[[1524年]]から急進的な宗教改革を唱える[[トマス・ミュンツァー]]らに主導された農民層が各地で蜂起して[[ドイツ農民戦争]]が勃発する。農民たちは[[農奴制]]の廃止や司祭任免権の要求といった「12ヶ条の要求」を掲げた<ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.63</ref><ref>[[#阿部(1998)|阿部(1998)]],pp.107-109</ref>。ルターは当初は農民、諸侯双方を非難したが、やがて諸侯の側に立ち農民反乱軍を激しく非難している<ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],pp.64-65</ref><ref name=abe110>[[#阿部(1998)|阿部(1998)]],pp.110-111</ref><ref name=morita>[[#森田(1994)|森田(1994)]],pp.112-114</ref><ref>,[[#森田(2010)|森田(2010)]],p.20</ref>。統制を欠いた農民反乱軍は短期間で鎮圧され<ref name=morita/>、7~10万人が殺された<ref name=abe110/>。

農民戦争鎮圧を通して諸侯の権力は強まり<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.200</ref>、以降ドイツにおける宗教改革は諸侯に主導される<ref name=morita/>。宗教改革は諸侯にとって教皇庁の支配から逃れられる政治的経済的メリットがあった<ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.65</ref>。[[1528年]]までに[[ドイツ騎士団]]、[[ヘッセン方伯]]、[[ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯]]、[[マンスフェルト伯]]などの諸侯、そして[[ストラスブール]]、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]、[[ニュルンベルク]]といった諸都市がルター派になっていた<ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.65-66</ref>。[[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|ヘッセン方伯フィリップ1世]]や[[ヨハン (ザクセン選帝侯)|ザクセン選帝侯ヨハン]]を中心とするルター派は教会改革を要求し、[[1529年]]の[[シュパイエル]]帝国議会でヴォルムス勅令の実施が重ねて決定されると、ルター派の5人の諸侯と14の帝国都市が「抗議書」(''Protestatio'')を提出し、これにちなんでルター派をはじめとする教会改革派は[[プロテスタント]]と呼ばれるようになった<ref>[[#成瀬(1978)| 成瀬(1978)]],pp.86-88</ref>。

この時期、オスマン帝国の脅威が神聖ローマ帝国へ迫っていた。[[1396年]]の[[ニコポリスの戦い]]でハンガリー王ジギスムント率いる対オスマン十字軍が大敗を喫して以降、オスマン帝国はバルカン半島の支配を固めており<ref>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/ ニコポリスの戦い(にこぽりすのたたかい)]-日本大百科全書 </ref>、1520年に即位した[[スルタン]]・[[スレイマン1世]]はヨーロッパ進攻を開始した。彼はまずハンガリーを攻撃して[[ベオグラード]]を奪取し、1526年の[[モハーチの戦い]]でハンガリー王[[ラヨシュ2世]]を戦死させる決定的勝利をおさめた。その後、カール5世の弟フェルディナントがハンガリー=ボヘミア王を継承したが、ハンガリーは中部の[[オスマン帝国領ハンガリー|オスマン帝国占領地]]、西部のフェルディナントの支配する[[王領ハンガリー|西ハンガリー王国]]そして東部は対立王を立てた現地諸侯にと各々支配され、いわゆる三分割時代となった<ref>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%A2%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%81%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/ モハーチの戦い(もはーちのたたかい)]-日本大百科全書</ref>。[[1529年]]にオスマン軍はウィーンを包囲する([[第一次ウィーン包囲]])。ウィーンは陥落を免れたが、この後もカール5世はオスマン帝国との戦いを強いられ、フランス王フランソワ1世がオスマン帝国と結んだためにより困難なものとなった<ref>[[#井上他(1968)|井上他(1968)]],pp.160-161</ref><ref>[[#赤井他(1974)|赤井他(1974)]],pp.193-194</ref><ref>[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],pp.84-85</ref>。

ローマ劫掠後、フランス王フランソワ1世はイングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]と盟約を結んでナポリへ侵攻したが、[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]が離反したため遠征は失敗に終わった<ref>[[#江村(1992)|江村(1992)]],pp.99-104</ref>。フランスの形勢が悪化すると教皇クレメンス10世はカール5世と講和を結び、イングランド王ヘンリー8世もフランスを見離し始める<ref>[[#江村(1992)|江村(1992)]],p.105</ref>。1529年にカンブレーの和が結ばれ、フランスはイタリアにおける権益を放棄させられた<ref>[[#江村(1992)|江村(1992)]],p.106</ref>。イタリアにおける覇権を確立したカール5世は、[[1530年]]に[[ボローニャ]]において教皇の手による皇帝戴冠式を挙行し、彼が教皇による戴冠を受けた最後の皇帝となった<ref>[[#江村(1992)|江村(1992)]],p.112</ref>。

==== アウクスブルクの和議 ====
{{Main|シュマルカルデン同盟|シュマルカルデン戦争|アウクスブルクの和議}}
[[Image:Augsburger-Reichstag.jpg|250px|left|thumb|アウクスブルク帝国議会([[1530年]])]]
同年、カール5世は約10年ぶりにドイツ入りをし、宗教解決のためのアウクスブルク帝国議会を開催した。ルター派は弁証書として[[フィリップ・メランヒトン]]起草による「[[アウクスブルク信仰告白]]」を提出したが、ツヴィングリやシュトラースブルクなどの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった<ref name=morita27>[[#森田(2010)|森田(2010)]],p.27</ref>。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世はルターを帝国追放刑にしプロテスタントを異端とする[[1521年]]のヴォルムス勅令を暫定的とはいえ厳しく執行するよう命じた<ref name=morita27/>。

翌[[1531年]]に弟フェルディナンドをローマ王に推戴させて後継体制を固めるとカール5世は広大なハプスブルク帝国の統治のためにネーデルラント、ブルゴーニュへと居を移し、またオスマン帝国の脅威にも対処せねばならず、[[1535年]]には[[地中海]]を渡り[[チュニジア|チュニス]]にまで遠征している<ref>[[#江村(1992)|江村(1992)]],pp.124-150</ref>。[[1536年]]にフランス王フランソワ1世が[[ミラノ公国]]継承を主張してイタリアに侵攻し、イタリア戦争が再開した<ref>[[#江村(1992)|江村(1992)]],pp.156-159</ref>。

一方、プロテスタントの帝国諸侯・諸都市はアウクスブルク帝国議会直後にシュマルカルデンに集まり、軍事同盟結成を協議し、翌[[1531年]]2月にヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とする[[シュマルカルデン同盟]]が結成された。宗教戦争が一触即発に迫ったが、カール5世は妥協し[[1532年]]にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された<ref name=morita31>[[#森田(2010)|森田(2010)]],p.31</ref>。この宗教平和を境にプロテスタントは勢力を一気に拡大した<ref name=morita31/>。南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが[[1534年]]に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、[[1539年]]にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派とは異なる改革派信仰が広がっていたが、教義上の問題で妥協し([[ヴィッテンベルク一致信条]])、プロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった<ref name=morita31/>。カトリック諸侯の側もニュルンベルク同盟を結成し、プロテスタントに対抗した<ref>[[#阿部(1998)|阿部(1998)]],p.100</ref>。

この時期、スイスでは新しい動きが起こっていた。[[1536年]]にプロテスタント神学の基礎と評価される<ref> 【キリスト教綱要】(ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版)</ref>『[[キリスト教綱要]]』を著わしたフランスの[[神学者]][[ジャン・カルヴァン]]が亡命生活中に立ち寄った[[ジュネーブ]]で教会改革に参与していた。カルヴァンは教会改革を強力に指導し、教会規則を定めて平信徒も加わる[[長老制]]を創始する<ref>[[#森田(2010)|森田(2010)]],p.71</ref>。彼の30年近くにわたる[[神権政治]]により、ジュネーブは福音主義の牙城となり、[[カルヴァン主義|カルヴァン派]]はやがて一大勢力に成長することになる<ref>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3/ カルバン(かるばん)]-日本大百科全書(小学館)</ref>。
[[Image:Druck Augsburger Reichsfrieden.jpg|200px|right|thumb|アウクスブルク宗教平和令<br/>[[1555年]]に[[マインツ]]で印刷された版本の表紙]]
[[1544年]]にフランスとの[[クレピー条約]]{{enlink|Treaty of Crépy|en}}が締結されるとカール5世は一転ドイツ国内の問題に専心するようになった<ref>[[#森田(2010)|森田(2010)]],p.32</ref>(オスマン帝国とは1547年に講和)。[[1546年]]にはルターが死去し、同年、プロテスタント陣営の盟主[[ヨハン・フリードリヒ (ザクセン選帝侯)|ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ(寛大公)]]の一族である[[モーリッツ (ザクセン選帝侯)|ザクセン公モーリッツ]]が選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた<ref>[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],p.45</ref>。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題からカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた<ref>[[#森田(1994)|森田(1994)]],p.114</ref>。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年[[シュマルカルデン戦争]]をおこし、[[ミュールベルクの戦い]]{{enlink|Battle of Mühlberg|en}}でシュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「[[アウクスブルク仮信条協定]]」が帝国法として発布された。皇帝は西南ドイツの帝国都市の[[ツンフト]](職業団体)が宗教改革の温床であると考えてこれを解散させるなど強硬な政策を実施した<ref>[[#森田(2010)|森田(2010)]],pp.33-36</ref>。カール5世の強硬な政策を見て、徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、嫡男[[フェリペ2世|フェリペ]]にドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した<ref>[[#坂井(2003)|坂井(2003)]],p.86</ref><ref>[[#森田(2010)|森田(2010)]],p.40</ref>。

このような情勢の中、プロテスタントから「マイセンのユダ」と呼ばれたザクセン選帝侯モーリッツが[[1552年]]にフランスと結んで反旗を翻して、インスブルックのカール5世を急襲する<ref>[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],pp.47-48</ref>。カール5世は敗北し、[[パッサウ条約]]によって「仮信条協定」は破棄された。この敗北からカール5世は弟の[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント]]に宗教問題の解決を任せ、[[1555年]]のアウクスブルク帝国議会で、[[アウクスブルクの和議|アウクスブルク宗教平和令]]が議決された。この平和令により「一つの支配あるところ、一つの宗教がある」(''[[:en:cujus regio, ejus religio|cujus regio, ejus religio]]'')という原則のもとに諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制することができるという[[領邦教会制度]]が成立した<ref>[[#坂井(2003)|坂井(2003)]],pp.87-88</ref>。ただしこの時点では[[カルヴァン派]]・ツヴィングリ派・再洗礼派などは異端とされ、信仰の自由から除外された<ref>[[#森田(2010)|森田(2010)]],p.40</ref>。

また、同帝国議会で発布された[[帝国執行令]]({{lang|de|''Reichsexekutionsordnung''}})は帝国クライスの役割の詳細を定め、フリードリヒ3世の時代からの一連の帝国改造運動を完了させた<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.411</ref>。同令によって帝国クライスがラント平和維持を担いクライス台帳に基づき、帝国等族の兵役分担を定めることになった<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.410-411,pp.420-421</ref>。またクライスが帝国最高法院判決の執行を担うことになる<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.88,</ref>。皇帝が自らの責務を果たす能力がないことを示したため、平和維持の名目のもと、今や皇帝の役割は帝国クライスが引きうけることになった<ref>[[#Angermeier(1991)|Angermeier(1991)]],p. 303</ref>。

翌[[1556年]]、カール5世は弟ローマ王フェルディナンドに帝位(皇帝フェルディナント1世)を、嫡男フェリペにはスペイン王位(スペイン王フェリペ2世)をそれぞれ譲位し、ハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルクとスペイン・ハプスブルクとに分かれることになった。カール5世の内政および外交政策は最終的に失敗に終わった<ref>[[#Rovan(1999)|Rovan(1999)]],p. 315</ref>。
{{-}}

==== 宗派対立 ====
[[File:Nicolas Neufchâtel 002.jpg|thumb|200px|マクシミリアン2世]]
この時期、ルター派はザクセン選帝侯とブランデンブルク選帝侯<ref group=nb>1613年にブランデンブルク選帝侯[[ヨーハン・ジギスムント]]はルター派からカルヴァン派に改宗している。[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.48</ref>をはじめとする北ドイツ一帯に広まっており、帝国領域外ではドイツ騎士団も改宗して[[プロイセン公国]]が成立し、[[デンマーク=ノルウェー|デンマーク]]と[[スウェーデン]]もルター派を導入している<ref>[[#坂井(2003)|坂井(2003)]],pp.88-89</ref>。一方、カルヴァン派は西部に浸透し、プファルツ選帝侯が改宗した。諸侯の数では依然としてカトリックが多かったが、人口ではプロテスタントが圧倒していた<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.476,p.503</ref>。

フェルディナント1世はプロテスタント諸侯に対して融和的な施策を取り<ref>【フェルディナント1世】(ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版)</ref>、1560年代前半まで大きな軍事的紛争を起こすことなく帝国を統治した。[[1564年]]にフェルディナント1世が死去すると、彼の息子[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]が皇帝になり、父と同様にプロテスタントの存在と時々の妥協の必要性を受け入れていた<ref group=nb name=naruse474>マクシミリアン2世はルター派に近い信仰を持っていた。[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.474-475</ref>。スペインに対するオランダ人プロテスタントの反乱([[八十年戦争]])では帝国は中立を守っている。だが、この宗教融和は「単なる休戦」に過ぎなかった<ref name="rovan340">[[#Rovan(1999)|Rovan(1999)]], p. 340</ref> 。

1570年代から[[イエズス会]]を尖兵とする[[対抗宗教改革|反宗教改革]]がドイツに浸透し始めており、各地でカトリック勢力によるプロテスタント弾圧が行われた<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.472-473</ref>。これに対して、プロテスタント勢力はルター派と西部ドイツに勢力を広げるカルヴァン派とが対立しており、カトリックに対して統一行動が取れない状態になっていた<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.470-471</ref>。[[1577年]]に選帝侯であるケルン大司教[[ゲープハルト・トゥルホゼス・フォン・ヴァルトブルク]]{{enlink|Gebhard Truchsess von Waldburg|en}}がカルヴァン派の女性と結婚するために改宗を表明し、これに反対して大司教罷免を強行するカトリック諸侯との[[ケルン戦争]]{{enlink|Cologne War|en}}が勃発するが、ルター派の多いプロテスタント諸侯はこれを傍観している<ref>[[#大野他(1961)|大野他(1961)]],p.1</ref><ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.473</ref>。

[[File:Hans von Aachen 003.jpg|thumb|left|200px|ルドルフ2世]]
プロテスタントに寛容な<ref group=nb name=naruse474/>マクシミリアン2世が[[1576年]]に死去すると、頑迷なカトリックである彼の息子[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]<ref>【ルドルフ2世】(ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版)</ref>は父の政策を廃棄して帝国宮内法院と帝国最高法院の判事の過半数にカトリックを任命する<ref>[[#Rovan(1999)|Rovan(1999)]],pp. 339-340</ref><ref name=naruse473>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.473-474</ref>。帝国諸制度は次第に麻痺化し<ref name=naruse473/>、[[1588年]]には既に帝国最高法院が機能しなくなっていた<ref>[[#Albrecht(1998)|Albrecht(1998)]], p. 404</ref>。16世紀初めにはプロテスタント諸邦はもはやカトリックによって独占的に運営される帝国宮内法院を認めなくなり、事態はさらに悪化した。同時期、帝国クライスの選帝侯や諸侯は宗派によって集団を形成するようになっていた。[[1608年]]のレーゲンスブルク帝国議会は閉会宣言なく終了し <ref>[[#Frisch(1993)|Frisch(1993)]], p. 18</ref>、カルヴァン派のプファルツ選帝侯とその他の出席者たちは皇帝が彼らの信仰を認めなかったために退席している。

同年、[[フリードリヒ4世 (プファルツ選帝侯)|プファルツ選帝侯フリードリヒ4世]]を盟主に6人の諸侯が[[プロテスタント同盟]](''Protestantische Union'')を結成した<ref name="rovan340" />。その後、その他の都市や諸侯もこの同盟に加入する。当初、ザクセン選帝侯と北部諸侯は加盟を拒否したが、後にザクセン選帝侯も同意している。これに対して、翌[[1609年]]にカトリック諸侯が[[マクシミリアン1世 (バイエルン選帝侯)|バイエルン公マクシミリアン]]を盟主とする[[カトリック連盟|カトリック連盟]](''Katholische Liga'')を結成した。連盟は帝国におけるカトリックの優位を守ることを目的としていた。帝国諸機関は麻痺状態となり、戦争は不可避となった<ref name="Schillinger112">[[#Schillinger(2002)|Schillinger(2002)]],p. 112</ref>。

一方、皇帝ルドルフ2世は[[プラハ]]に引きこもって神秘諸術に耽る状態で、事態に対処する能力を持たなかった<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.218</ref><ref>[[#江村(1990)|江村(1990)]],pp.134-135</ref>。ルドルフ2世は不満を持った弟・[[マティアス]]と争って1608年にハンガリー王位を奪われ、ボヘミア・プロテスタント等族の支持を得るためにプロテスタントに信仰の自由を与える「勅許状」を出すが、マティアスに軟禁され[[1612年]]に死去した<ref name=naruse486>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.486</ref><ref>[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],p.44</ref><ref group=nb>ルドルフ2世とマティアスの争いは[[グリルパルツァー]]の戯曲「ハプスブルク家の兄弟の諍い」(''Ein Bruderzwist im Hause Habsburg'')に描かれている。</ref> 。

帝位を継いだマティアスは宗教対立の仲裁を試みるが失敗に終わり、ボヘミア王位を一族の[[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク公]][[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント]]に譲らざるえなくなる<ref name=naruse486/>。
{{-}}

====三十年戦争====
{|style="float:right"
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! !! style="background-color:#ddf"|'''三十年戦争関係地図'''
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|style="width:1em"|
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<div style="float:right;width:330px;height:300px;overflow:hidden;position:relative;margin-left:0px;font-size:0px">
{| cellpadding=0 cellspacing=0 style="position:absolute;top:-0px;left:-0px;"
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|[[File:Map Thirty Years War-en.svg|330px]]
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</div>
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| || style="width:22em;border:1px solid #431" " |{{Indent|
{{legend|#f4c1ba|プロテスタント多数派国・領邦|border=1px solid #000}}{{legend|#f1eb76|スペイン・ハプスブルク|border=1px solid #000}}{{legend|#ffa954|オーストリア・ハプスブルク|border=1px solid #000}}
}}
<small>①1620-1623:ボヘミアとプファルツ選帝侯の敗北。<br>②1625-1629:デンマーク王クリスチャン4世の介入。<br>③1630-1632:スウェーデン王グスタフ2世アドルフの介入。<br>④1635-1643:フランスの介入。<br>⑤1645-1648:[[テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ|テュレンヌ将軍]]とスウェーデンのドイツ戦役。</small>
|}
{{Main|三十年戦争|ヴェストファーレン条約}}
[[ファイル:Defenestration-prague-1618.jpg|thumb|left|250px|プラハ窓外投擲事件]]
ボヘミア王となったフェルディナント2世はイエズス会の教育を受けた厳格なカトリックであり、グフタス2世の「勅許状」を反故にしてボヘミアのプロテスタントに迫害を加えた<ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.83</ref>。[[1618年]]、弾圧に反抗するボヘミア貴族がプラハ城に押し掛け、フェルディナントの代官2名と秘書官を城外に投げ落とす事件を起こした([[プラハ窓外投擲事件]])。この事件を契機にボヘミアで大規模な反乱が発生し、[[シレジア]]、[[ラウジッツ]]そして[[モラヴィア]]といったこれ以前からカトリックとプロテスタントに分裂していたボヘミア全土に広がる。[[1619年]]に皇帝マティアスの死去により、フェルディナント2世が皇帝に選出されるとほぼ同時にボヘミア貴族はカルヴァン派の[[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|プファルツ選帝侯フリードリヒ5世]](冬王)を新国王として迎えた<ref>[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],p.45</ref>。

フェルディナント2世はカトリック連盟のバイエルン公[[マクシミリアン1世 (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン1世]]のみならず、カルヴァン派を憎むルター派のザクセン選帝侯[[ヨハン・ゲオルク1世 (ザクセン選帝侯)|ヨハン・ゲオルク1世]]の支持をも受けて反撃に転じた<ref>[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],pp.56-58</ref>。[[1620年]]にプラハ郊外で行われた[[白山の戦い]]でボヘミア反乱軍は[[ティリー伯ヨハン・セルクラエス]]率いる皇帝軍に大敗を喫した。プファルツへはスペイン軍が侵攻し、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世は没落して反乱軍は事実上瓦解した。ボヘミアではプロテスタントに対する徹底的な弾圧が行われ<ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.84</ref>、15世紀の[[フス派]]以降、プロテスタント諸派の勢力が根強かったこの国<ref>[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.45-46</ref>を再びカトリックへ引き戻すことを確実にした<ref group=nb>2001年時点のチェコ共和国の宗教は無宗教(59%)に次いでカトリック(26.8%)が多く、プロテスタント諸派は2.1%と少数派になっている。[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ez.html CIA - The World Factbook]</ref>。

この事態にプロテスタントであるデンマーク国王[[クリスチャン4世 (デンマーク王)|クリスチャン4世]]が戦争への介入を決意する<ref group=nb>クリスチャン4世が参戦した直接的な動機は王子のハルバーシュタット司教職就任を皇帝に拒否されたことである。[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.75-76</ref>。クリスチャン4世は反ハプスブルク政策を取るフランスの宰相[[リシュリュー]]枢機卿の仲介により、プロテスタントの[[グレートブリテン王国|イギリス]]、オランダそしてスウェーデンとの[[対ハプスブルク同盟]](ハーグ同盟)を結んだ<ref>[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],p.74</ref>。デンマーク軍は[[1625年]]に帝国へ侵攻し、フェルディナント2世は窮地に陥る。皇帝を救ったのがボヘミア貴族で資産家でもある[[アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン]]であった。彼は5万の[[傭兵]]軍を集めて皇帝に提供し、皇帝軍総司令官に任命された<ref>[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.88-89</ref>。一方、プロテスタント陣営内では内部不和が生じており、デンマーク軍と別れたプロテスタント諸軍はヴァレンシュタインに各個撃破されてしまう<ref>[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.89-90</ref>。[[1626年]]、クリスチャン4世は[[ルッターの戦い]]でティリー伯に大敗を喫した。以降、デンマーク軍は劣勢に陥り、[[1629年]]にリューベックの和約が締結されてデンマークは戦争から脱落した。

軍事的優位を確保したフェルディナント2世は帝国議会を無視する態度に出るとともに「[[復旧勅令]]」を布告して宗教改革以来、プロテスタントに没収された教会財産の返還を命じた<ref>[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],p.64,93</ref>。復旧勅令の過激さとフェルディナント2世の[[絶対君主]]的な振る舞いはプロテスタント諸侯のみならず、カトリック諸侯からも反発を受ける<ref>[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.93-94</ref><ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.489</ref>。皇帝軍を支えるヴァレンシュタインは強引な軍税徴発によって諸侯から憎まれており、彼らはヴァレンシュタイン罷免を強硬に要求し、フェルディナント2世もこれを受け入れざる得なくなった<ref>[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.95-103</ref>。
[[File:Carl Wahlbom Lützen.JPG|thumb|250px|left|リュッツェンの戦い]]
ポーランドとの戦争に勝利した[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|スウェーデン王グスタフ2世アドルフ]]は[[1630年]]に帝国への介入に乗り出した。グスタフ2世アドルフはフランスからの軍資金援助を受けており<ref>[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.111-112</ref>、軍制改革によって近代的徴兵軍となっていたスウェーデン軍を率いてポンメルンに上陸する<ref>[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],pp.62-65</ref>。当初、ザクセン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯をはじめとするプロテスタント諸侯はスウェーデンへの加担を躊躇っていたが、皇帝軍総司令官ティリー伯による[[マクデブルクの戦い|マクデブルク略奪]]が起こるとスウェーデンとの連合に踏み切った<ref>[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.113-116</ref>。グスタフ2世アドルフは[[ブライテンフェルトの戦い (1631年)|ブライテンフェルトの戦い]]と[[レヒ川の戦い]]で皇帝軍を連破してティリー伯を戦死させた。スウェーデン軍はバイエルンの首都[[ミュンヘン]]を陥れる。

再び窮地に陥ったフェルディナント2世はヴァレンシュタインに皇帝軍最高司令官復帰を要請し、ヴァレンシュタインは皇帝から有利な条件を引き出した上でこれを承諾した<ref>[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.123-124</ref>。グスタフ2世アドルフとヴァレンシュタインとの決戦は[[1632年]]の[[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]]で行われた。戦闘ではスウェーデン軍が勝利したもののグスタフ2世アドルフは戦死しており、事実上の痛み分けで終わった<ref>[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],pp.65-66</ref>。その後もヴァレンシュタインは皇帝軍最高司令官の地位に留まり隠然たる勢力を保っていたが、[[1634年]]にフェルディナント2世から反逆を疑われ、暗殺されている<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp491-492</ref><ref>[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.135-143</ref>。

国王を失ったスウェーデン軍はなおもドイツに留まり戦争を継続したが、[[1634年]]の[[ネルトリンゲンの戦い (1634年)|ネルトリンゲンの戦い]]で皇帝軍に敗れた。この敗戦で打撃を受けたザクセン選帝侯をはじめとするプロテスタント諸侯の大半は翌[[1635年]]に復旧勅令の撤回を条件とする[[プラハ条約 (1635年)|プラハ条約]]を締結して皇帝に帰順した<ref>[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.148-150</ref>。これによって孤立したスウェーデンは窮地に陥るが、プラハ条約発表直前に、これまで間接的な参戦に留まっていたフランスがスペインおよび皇帝に対する本格参戦に踏み切った<ref>[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.151-150</ref>。[[1637年]]にフェルディナント2世は死去して嫡男[[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント3世]]が帝位を継承した。戦争はなお10年以上続き、決定的な戦闘こそなかったものの戦況は次第にフランス、スウェーデン優位に傾き、スペインは国内事情の悪化から介入を続ける余力を失い、帝国諸侯も脱落し始める<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.492-493</ref>。
[[ファイル:Westfaelischer_Friede_in_Muenster_(Gerard_Terborch_1648).jpg|thumb|300px|right|ミュンスターにおけるヴェストファーレン条約締結<br>[[ヘラルト・テル・ボルフ]]画]]
[[1642年]]にリシュリュー枢機卿が死去し、それから5か月後に[[ルイ13世 (フランス王)|フランス王ルイ13世]]も死去しており、僅か4歳の[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が即位して[[ジュール・マザラン|マザラン枢機卿]]が宰相となった。マザラン枢機卿は戦争終結に動き、[[1648年]]にミュンスター講和条約およびオスナブリュック講和条約(総称して[[ヴェストファーレン条約]])が締結されて戦争は終わった。

同条約により、カルヴァン派が公式に容認され、領民は領主と異なる信仰を持つことが認められた(ハプスブルク世襲領は除く)<ref name=naruse494>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.494</ref>。全ての領邦には選帝侯と同等の[[領邦高権]](''Landeshoheit'':[[主権|国家主権]]に近い権利)が与えられ、帝国に敵対する同盟を結ぶことができないなど依然として幾つかの制約はあったが[[外交権]]まで加わっていた<ref name=naruse494/><ref name=kikuti224>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.224</ref><ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.93</ref>。また、ザクセン公が選帝侯に加えられている。一方、皇帝の権限は帝国議会によって大きく制限されることになる<ref name=naruse494/>。

加えて、事実上の独立状態にあったスイス連邦と[[オランダ|北ネーデルラント]](オランダ)が帝国から離脱した<ref name=kikuti224/>。フランスはエルザス=ロートリンゲン([[アルザス=ロレーヌ]])を獲得、スウェーデンは[[ポメラニア公国|西ポメラニア]]をはじめとする北ドイツの領土を獲得して戦後における大国の地位を確保した([[バルト帝国]])。

これらによって、皇帝の有名無実化と帝国の解体が決定的になったとして同条約は一般に「'''帝国の死亡証明書'''」といわれる<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.226</ref><ref>[[#大野他(1961)|大野他(1961)]],p.26</ref>。しかしながら、近年のドイツ史学では統一された国民国家を到達点とする従来の歴史観から離れ、ヴェストファーレン条約によりドイツにおいては平和的な仲裁により宗派対立を解決する体制が確立されたとする研究もある<ref name=wilson45>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.45-46</ref>。

この戦争によって引き起こされた破壊の規模は歴史家の間で長い間論議されてきた<ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],pp.94-98</ref>。従来はドイツ人口が30-40%減少し、経済水準が回復するまでに200年を必要としたとされてきたが、この見積もりについては現在では疑問視されている<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.500-502</ref><ref>[[#坂井(2003)|坂井(2003)]],pp.95-96</ref>。
{{-}}

===近代===
====オーストリアとプロイセン====
{{See|ハプスブルク君主国|プロイセン王国}}
[[File:Holy Roman Empire 1648.svg|thumb|right|300px|ヴェストファーレン条約後の神聖ローマ帝国
{{legend|#e6e6e6|プファルツ選帝侯領}}
{{legend|#b3de69|バイエルン選帝侯領}}
{{legend|#fdb462|ブランデンブルク選帝侯領}}
{{legend|#ccebc5|オーストリア・ハプスブルク領}}
{{legend|#ffed6f|スペイン・ハプスブルク領}}]]
ヴェストファーレン条約によって帝国は300以上の[[領邦|領邦国家]]と帝国自由都市の集合体となり<ref>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%A0%98%E9%82%A6%E5%9B%BD%E5%AE%B6/ 領邦国家(りょうほうこっか)] -日本大百科全書(小学館)</ref>、その中には極めて小規模な領邦も存在していた。一方、ハプスブルク家はオーストリアその他の世襲公領とボヘミア王国、[[王領ハンガリー|西ハンガリー王国]]との[[同君連合]]を統治し、この[[ハプスブルク君主国]]における絶対主義国家形成へと向かう(オーストリア絶対主義)<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.14-17</ref>。
[[File:Kaiser-Leopold1.jpg|thumb|left|180px|レオポルト1世]]
[[1657年]]にフェルディナント3世が死去するが、皇位継承者だった[[フェルディナント4世 (ローマ王)|ローマ王フェルディナント4世]]は父に先立って既に死去していた。皇帝選挙ではマザラン枢機卿がハプスブルク家を排除してフランス王ルイ14世を将来の皇帝とすべく、中継ぎとして[[フェルディナント・マリア (バイエルン選帝侯)|バイエルン選帝侯フェルディナント・マリア]]を推す動きもあったが、結局、フェルディナント3世の次男[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]が選出された<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.6</ref><ref>[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],pp.70-72</ref>。しかしながら、この為にレオポルト1世は選挙協約で諸侯に対するより一層の譲歩を余儀なくされている<ref>[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],p.72</ref>。

[[1663年]]にレーゲンスブルク帝国議会が開催されたが、この帝国議会は以降、議決も散会もされずに帝国が消滅するまで継続して「永続的帝国議会」(''Immerwahrender Reichstag'')と呼ばれるようになり、諸侯の使節会議と化してしまった<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.8</ref><ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.104</ref>。

レオポルト1世の治世、帝国は度重なるルイ14世の領土的野心とオスマン帝国の脅威に直面している。[[1667年]]に始まった一連の[[ネーデルラント継承戦争]](帰属戦争、オランダ侵略戦争)でフランスはスペイン、ネーデルラントそして神聖ローマ帝国に戦いを仕掛け、[[ナイメーヘンの和約]]でスペインから[[フランシュ=コンテ]]、帝国からは[[フライブルク]]その他の領土を獲得し、その後、ルイ14世は東部国境地帯の「再統合」を推し進め、[[1681年]]にはシュトラースブルク([[ストラスブール]])を占領した<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.11</ref>。

[[1683年]]、ルイ14世からの中立の約束を得たオスマン帝国が軍事行動を起こし、20万の兵力をもってウィーンを包囲した([[第二次ウィーン包囲]])<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.17</ref>。オーストリア軍は包囲戦を耐え抜き、到着した[[ポーランド王]][[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世]]やドイツ諸邦の援軍がオスマン帝国軍を決定的に打ち破った。その後もオスマン帝国との戦争は16年に渡り続くが、[[1697年]]に[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]率いる帝国軍が[[ゼンタの戦い]]で大勝して勝敗は決した<ref>[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],p.74</ref>。[[1699年]]に[[カルロヴィッツ条約]]が結ばれてオスマン帝国はヨーロッパ領土の割譲を余儀なくされ、オーストリアは[[オスマン帝国領ハンガリー]]と[[トランシルヴァニア]]、[[スロヴェニア]]、[[クロアチア]]を獲得した<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.18</ref>。
[[File:Louis XIV 1666 Charles le Brun.jpg|thumb|right|200px|ルイ14世]]
一方、ルイ14世はオーストリアとオスマン帝国との戦いに乗じて[[1688年]]にプファルツ選帝侯領へ侵攻して多大な被害をもたらした([[大同盟戦争|プファルツ継承戦争]])<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.12-13</ref>。だが、フランスはオーストリア、ドイツ諸侯、スペイン、オランダそしてイギリスを敵とすることになり、戦争は長期化して1697年に終結したが、フランスはプファルツのみならず、以前の戦争で獲得した領土の大半を放棄せざる得なくなった<ref>【ライスワイク条約】(ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版)
</ref>。

この時期のスペイン王[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]は生来病弱の上に子がなく、スペイン・ハプスブルク家は断絶しようとしていた<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.20</ref>。レオポルト1世のオーストリア・ハプスブルク家、そしてルイ14世の[[ブルボン家]]ともに有力な王位継承権を有しており<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.20-21</ref>、スペイン王位継承を巡る対立が高まる中、カルロス2世はルイ14世の孫[[フェリペ5世 (スペイン王)|アンジュー公フィリップ]]を後継者に指名した。[[1700年]]にカルロス2世が死去するとルイ14世はアンジュー公フィリップのスペイン王継承に同意するが(スペイン王フェリペ5世)、オーストリア、イギリスを初めとする諸国がこれに反対して[[スペイン継承戦争]]が勃発する。この戦争では帝国諸侯のほとんどが皇帝軍に加わったが、[[ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルン|ケルン大司教ヨーゼフ・クレメンス]]{{enlink|Joseph Clemens of Bavaria|en}}と[[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエル]]がフランスに味方して皇帝軍と戦っている<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.20</ref>。[[ブレンハイムの戦い]]でオーストリア=イギリス軍はフランス=バイエルン軍に勝利するものの、戦争は膠着状態に陥り、[[1713年]]と[[1714年]]にそれぞれ[[ユトレヒト条約]]と[[ラシュタット条約]]が締結され、各国がフェリペ5世の王位を承認する見返りにスペインが多くの領土を割譲することで終わっている<ref>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%A6%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%92%E3%83%88%E6%9D%A1%E7%B4%84/ ユトレヒト条約(ゆとれひとじょうやく)]&[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%88%E6%9D%A1%E7%B4%84/ ラスタット条約(らすたっとじょうやく)] ―日本大百科全書(小学館)</ref>。オーストリアはスペイン領ネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルデーニャを獲得した。レオポルト1世は戦争中の[[1705年]]に死去しており、ルイ14世も戦争終結から程ない[[1715年]]に死去した。

この時代、聖俗諸侯領では絶対主義化が進行していた<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.27-31</ref><ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.103</ref>。フランスやオスマン帝国の脅威を受けていた中小領邦はその存立を守護する存在としての帝国国制を必要としていた<ref name=naruseb31/>。特に西南ドイツでは帝国クライスが地域自治機関として機能しており、クライス議会が活発に活動し、クライス軍制はその防衛機能をある程度だが果たしている<ref name=naruseb31>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.9,pp.31-32</ref>。
{{-}}
[[ファイル:Acprussiamap2.gif|thumb|left|300px|ブランデンブルク=プロイセンの拡大(1600-1795)
{{legend|#f6e1b9|ブランデンブルク選帝侯領(1600年)|border=1px solid #000}}
{{legend|#627d0f|プロシア公領(1600年)|border=1px solid #000}}
{{legend|#ef9421|1772年までに獲得した領土|border=1px solid #000}}
{{legend|#fff3a2|ポーランド分割(1772-1795)で獲得した領土|border=1px solid #000}}
]]
ハプスブルク家のオーストリアがフランスやオスマン帝国との戦争を行いつつ大国としての地位を固めている間に、帝国内では[[ブランデンブルク=プロイセン]]が台頭し始めていた。[[1618年]]に[[プロシア公領]]とブランデンブルク辺境伯領との同君連合が成立した[[ホーエンツォレルン家]]のブランデンブルク=プロイセンは[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]](大選帝侯)の治世にヴェストファーレン条約によって東ポメラニアを獲得し、戦後は[[ポーランド王国]]の影響力を排除するとともに等族との対決に打ち勝って絶対主義に基づく統治体制を構築していた<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.49-52</ref>。そして、[[1701年]]、[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]はスペイン継承戦争でオーストリアに味方する見返りに帝国領域外での戴冠の承認を受け「[[プロイセンの王]]」(''König '''in''' Preußen'')を名乗る<ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],pp.112-113</ref>。次代の[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]](兵隊王)は軍制改革を実施してプロイセン王国を軍事国家となさしめた<ref>[[#長谷川&大久保&土肥(2009)|長谷川&大久保&土肥(2009)]],pp.506-509</ref>。

この時期、プロイセン=ブランデンブルク以外にもザクセン選帝侯[[アウグスト2世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト1世]]が[[ポーランド・リトアニア共和国]]の王位(アウグスト2世)を[[ハノーファー選帝侯]][[ジョージ1世 (イギリス王)|ゲオルク1世ルートヴィヒ]]がイギリス王位(ジョージ1世)をそれぞれ帝国領域外で獲得している。

スペイン継承戦争と並行して東方では[[大北方戦争]](1700年 - 1721年)が行われており、スウェーデンと北方同盟諸国([[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]、ザクセン=ポーランド=リトアニア、[[デンマーク=ノルウェー]]:後にプロイセン、ハノファー=イギリスが加わる)とが戦い、ザクセン選帝侯領やスウェーデン領ポメラニアなど帝国領域も戦場になった。戦争はスウェーデンの敗北に終わり、勝利したロシアのツアーリ・[[ピョートル1世]]は[[1721年]]に皇帝([[インペラトル]])を名乗り、[[ロシア帝国]]が成立した。[[ロシア皇帝]]は東ローマ皇帝の後継者を主張しており<ref name=Ykoutei>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%9A%87%E5%B8%9D/ 皇帝(こうてい)]-日本大百科全書(小学館)</ref>、1453年に東ローマ帝国が滅亡して以来、約300年ぶりにキリスト教世界に二人の皇帝が並び立つこととなった。

[[ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ1世]]の短い在位を経て[[1711年]]に即位した[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]は対外戦争によってハプスブルク家の領土を拡大したが、唯一の男子が夭逝して女子しか子がなく、この為、カール6世は皇女[[マリア・テレジア]]を後継者とすべく[[国事詔書]](''Pragmatische Sanktion'')を出し、諸国にこれを認めさせるために多くの外交的・領土的な譲歩をしている<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.25-26</ref>。

{| border="0" cellpadding="1" cellspacing="2" style="margin:5px; width:20%; border:solid 1px #bbb; float:right;"
|-
| [[File:Kaiserin Maria Theresia (HRR).jpg|150px]]|| [[File:Friedrich1763o.jpg|150px]]
|-
| colspan="2" style="text-align: left;" |<small>マリア・テレジア(左)とプロイセン王フリードリヒ2世(右)</small>
|}
だが、[[1740年]]にカール6世が死去すると[[ルイ15世 (フランス王)|フランス王ルイ15世]]、[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|プロイセン王フリードリヒ2世]](大王)を初めとする諸国がマリア・テレジアのハプスブルク家世襲領継承に異議を唱え[[オーストリア継承戦争]]が勃発した。また、帝国法は女子の皇帝を認めておらず、このためハプスブルク家はマリア・テレジアの夫[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ・シュテファン]]の皇帝選出を目論んでいたが、選出されたのはフランスと結んだバイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(ヴィッテルスバッハ家)であった<ref name=kikuti95>[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],p.95</ref>。[[1742年]]にカール・アルブレヒトは[[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|神聖ローマ皇帝カール7世]]として即位し、彼が1437年に即位したアルブレヒト2世以降、唯一のハプスブルク家以外の皇帝である。だが、即位の直後にバイエルンの首都ミュンヘンをオーストリアに占領され、カール7世はフランスの支援が十分に得られないまま各地を転戦するうちに僅か3年の在位で[[1745年]]に死去した<ref name=kikuti95/>。オーストリアとバイエルンとの和議が成立して次の皇帝にはマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンが選出された(神聖ローマ皇帝フランツ1世)。[[1748年]]に[[アーヘンの和約 (1748年)|アーヘンの和約]]が成立してマリア・テレジアはハプスブルク家世襲領継承を承認させることに成功したが、[[シレジア|シュレジエン]]をプロイセンに割譲せねばならなかった。

英明な君主であったマリア・テレジアはオーストリアの内政改革を進める一方<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.109-110</ref>、シュレジエンを奪回するべく外交を展開してロシア、ザクセンそして長年の宿敵だったフランスとの同盟を成立させ対プロイセン包囲網を構築した([[外交革命]])<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.110-111</ref>。[[1756年]]に勃発した[[七年戦争]]でイギリスと同盟したフリードリヒ2世は圧倒的な国力の差にもかかわらず幾つかの戦いで勝利して持ちこたえるが、[[1761年]]にはイギリスの援助が打ち切られ苦境に陥った<ref>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%B8%83%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89/ 七年戦争(しちねんせんそう)]-日本大百科全書(小学館)</ref>。だが、[[1762年]]にフリードリヒ2世の信奉者だった[[ピョートル3世]]がロシア皇帝に即位するとロシアは戦線を離脱し、フリードリヒ2世は危機を脱した<ref name=narusetan113>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.113</ref>。オーストリア、プロイセンそしてザクセンとの間で[[1763年]]に締結された[[フベルトゥスブルク条約]]により、プロイセンはシュレジエンを確保してヨーロッパの列強にのし上がる。これがドイツの覇権をめぐるオーストリアとプロイセンの対立の始まりとなった([[ドイツ二元主義]])<ref name=narusetan113/>。

フランツ1世は[[1765年]]に死去し、後を継いで皇帝に即位した嫡男[[ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ2世]]は母マリア・テレジアとハプスブルク君主国の共同統治に入った。マリア・テレジアとヨーゼフ2世は啓蒙的諸政策を実施して、オーストリアにおける「[[啓蒙専制君主|啓蒙専制主義]]」を確立した<ref>[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%A2/ マリア・テレジア(まりあてれじあ)]、[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2/%E6%AD%B4%E5%8F%B2/ オーストリア - 歴史] - 日本大百科全書(小学館)</ref>。

[[1780年]]にマリア・テレジアが死去して単独統治に入ったヨーゼフ2世は宗教寛容令や修道院の廃止、死刑制度の廃止といった急進的な啓蒙諸改革([[ヨーゼフ主義]])を実施するも、反発を受け治世の晩年にはその大部分の撤回を余儀なくされている<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.119-121</ref>。

オーストリアとプロイセンは[[1772年]]にポーランド分割を行って領土を拡張させており、ヨーゼフ2世は更にバイエルン選帝侯領獲得を企て、[[1777年]]に[[バイエルン継承戦争]]を起こすが、プロイセンの干渉によって一部の領土を獲得したに留まった<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.126-127</ref>。ヨーゼフ2世は尚もバイエルン獲得を諦めなかったが、プロイセン、ザクセン、ハノーファーに諸小邦が加わって「帝国国制の維持」を掲げる「[[君侯同盟]]」(''Fürstenbund'')を結成し、ヨーゼフ2世の企てを挫折させた<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.127-128</ref>。ヨーゼフ2世は[[1790年]]に死去し、弟の[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]が帝位を継承した。
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====フランス革命と帝国消滅====
{{main|フランス革命戦争|帝国代表者会議主要決議}}
[[File:HRR 1789 EN.png|thumb|250px|1789年時点の神聖ローマ帝国。[[ハプスブルク君主国]](茶色)とプロイセン王国(青)が過半を占め、その他の中小領邦国家を取りまいている。]]
[[1789年]]に[[フランス革命]]が勃発した。当初、諸外国は武力干渉を控えていたが、[[1791年]]に[[ルイ16世 (フランス王)|フランス王ルイ16世]]と[[マリー・アントワネット]]の国外逃亡失敗事件([[ヴァレンヌ事件]])が起こると、皇帝レオポルト2世と[[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王)|プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世]]はフランスにおける王権復旧を要求する宣言([[ピルニッツ宣言]])を発し、これに対してフランス革命政府は宣戦布告で応じた([[フランス革命戦争]])<ref group=nb>ピルニッツ宣言の時点では諸国はフランスへの武力干渉に否定的で、文面的には直接行動断念を表明したものだったが、フランス革命政府はこれに過剰に反応した。[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.133</ref>。レオポルト2世は開戦直前に死去しており、[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]が皇帝に選出された。

オーストリア=プロイセン軍はフランス軍に進撃を阻まれて反攻を受け、[[1795年]]までにフランス軍はオーストリア領ネーデルラントとライン川西岸を制圧し、プロイセンは戦争から脱落した<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.131-132</ref>。オーストリアは戦争を継続したが、イタリアで[[ナポレオン・ボナパルト]]に敗れ([[イタリア戦役 (1796-1797年)|イタリア戦役]])、[[1797年]]に[[カンポ・フォルミオ条約]]の締結を余儀なくされた。同条約により、オーストリアは[[ヴェネチア共和国|ヴェネチア]]を獲得したものの、ミラノの放棄とオーストリア領ネーデルラントの喪失を承認させられた。
[[ファイル:Napoleon4.jpg|thumb|left|200px|『アルプス越えのナポレオン』<br>[[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ダヴィッド]]画]]
[[1799年]]に[[第二次対仏大同盟]]が結ばれて戦争が再開したが、[[ブリュメールのクーデター]]で権力を掌握したナポレオンがアルプス越えを敢行して[[マレンゴの戦い]]でオーストリア軍を撃破し、戦争は[[1802年]]の[[リュネヴィルの和約]]により終結し、フランツ2世はフランスによるライン川西岸地域の併合を承認させられた。

リュネヴィルの和約でナポレオンはフランス併合地域の代替地をプロイセンその他の諸侯に提供するよう要求し、これを受けて帝国は[[1803年]]にレーゲンスブルク帝国議会の代表者会議を開催して帝国諸邦の再編成を決議した([[帝国代表者会議主要決議]]:''Reichsdeputationshauptschluss'')。これによってマインツ大司教以外のすべての聖界諸侯領の俗界諸侯領への併合(世俗化{{enlink|Secularization|en}})および小規模領邦国家と帝国都市の廃止と大諸侯領への編入(陪臣化{{enlink|mediatisation|en}})が進められ、西南ドイツに新たな幾つかの中規模国家が成立した<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.137-138</ref>。また、プロイセンは北西ドイツの領土を獲得している。

[[1804年]][[5月18日]]、フランス共和国政府は元老院令を発して共和国を世襲皇帝に委ねると宣言し、ナポレオンは[[フランス第一帝政|フランス皇帝]](''Empereur des Français'')を称した<ref>[[#桑原他(1975)|桑原他(1975)]],pp.381-382</ref>(戴冠式は[[12月2日]])。フランス皇帝は神聖ローマ皇帝やロシア皇帝と異なり、もはや古代ローマ帝国との理念・歴史的関連性を持たない皇帝である<ref name=Ykoutei/>。これに対して、フランツ2世はハプスブルク家世襲領と皇帝の称号を守るべく、[[8月11日]]に神聖ローマ皇帝とは別の[[オーストリア皇帝]](''Kaiser von Österreich'')を称した(オーストリア皇帝フランツ1世)<ref>[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],pp.103-104</ref>。

[[1805年]]に[[第三次対仏大同盟|第三次対仏大同盟戦争]]が始まった。オーストリア主力軍は[[ウルムの戦い|ウルム]]でナポレオンの罠に陥って降伏し、フランス軍はウィーンを占領した。フランス軍は追撃を行い、[[アウステルリッツ]]でフランツ2世とロシア皇帝[[アレクサンドル1世]]の率いるオーストリア=ロシア連合軍と会戦して勝利した([[アウステルリッツの戦い|三帝会戦]])。[[プレスブルクの和約]]でオーストリアはヴェネチア、チロルの割譲と[[バイエルン王国|バイエルン]]、[[ヴュルテンベルク王国|ヴュルテンベルク]]の王国、[[バーデン (領邦)|バーデン]]の大公国への昇格を認めさせられる。

{| border="0" cellpadding="1" cellspacing="2" style="margin:5px; width:20%; border:solid 1px #bbb; float:right;"
|-
| [[File:Franz I (II) half-length portrait in Austrian uniform.jpg|150px]]||[[File:Niederlegung Reichskrone Seite 1.jpg|115px]]
|-
| colspan="2" style="text-align: left;" |<small>最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(左)と退位宣言書(右)</small>
|}
中小帝国領邦はナポレオンを「守護者」とすることを決め、[[1806年]]7月にバイエルン、ヴュルテンベルクを初めとする帝国16領邦が[[カール・テオドール・フォン・ダールベルク|マインツ大司教ダールベルク]]を首座大司教侯とする[[ライン同盟]]を結成して帝国脱退を宣言した。

ここに至り、フランツ2世は[[8月6日]]にドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝)退位と帝国の解散を宣言する。

{{Quotation|朕はライン同盟の結成によって皇帝の権威と責務は消滅したものと確信するに至った。それ故に朕は帝国に対する全ての義務から解放されたと見なし、これにより、朕とドイツ帝国との関係は解消するものであるとここに宣言する。

これに伴い、朕は帝国の法的指導者として選帝侯、諸侯そして等族その他全ての帝国の構成員、すなわち帝国最高法院そしてその他の帝国官吏の帝国法によって定められた義務を解除する。
|[[:de:s:Erklärung Franz II. zur Niederlegung der Krone des Heiligen Römischen Reiches|フランツ2世のドイツ皇帝退位宣言―1806年8月6日]]<small>(全文は左記リンク)</small>}}

{{-}}
ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の消滅後もオーストリア皇帝、ハンガリー王として[[オーストリア=ハンガリー帝国]]を[[第一次世界大戦]]の敗北により、瓦解するまで統治し続けた

ナポレオンの敗北により始まった[[ウィーン体制]]により、[[1815年]]にオーストリア、プロイセンを含むドイツ諸邦39カ国によって構成される[[ドイツ連邦]]が成立した。[[ドイツ統一]]を巡るオーストリアとプロイセンの対立は[[19世紀]]後半まで続いたが、[[1866年]]の[[普墺戦争]]でのプロイセンの勝利によってドイツ連邦は解体され、翌[[1867年]]に新たにオーストリアと南ドイツ4カ国を除いた[[北ドイツ連邦]]が成立した。

オーストリアを除くドイツ諸邦が統一されるのは、[[普仏戦争]]でプロイセンと南北ドイツ諸邦が[[フランス第二帝政|フランス帝国]]に勝利し、プロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]が[[ヴェルサイユ宮殿]]で皇帝に即位して[[ドイツ帝国]](''Deutsches Kaiserreich'')が成立する[[1871年]][[1月18日]]のことである。
{{-}}

==国制==
神聖ローマ帝国は今日の国々のような高度に中央集権化された国家ではなく、[[帝国等族|等族]]と呼ばれる[[国王|王]]<ref group=nb>帝国内で「国王」の称号を許された諸侯はボヘミア王のみである。その他の国王の称号を有する諸侯は帝国領域外の王国の統治者である。</ref>、[[公爵]]、[[伯爵]]、[[司教]]、[[修道院長]]及びその他の統治者に支配される数十の(最終的には千以上の<ref name=naruseb26/>)領邦に分かれていた。また、皇帝に直接支配される地域もあった。皇帝が単純に法令を発布して、帝国全域を自律的に統治しえた時代は存在しなかった。皇帝の権限は様々な地方領主たちによって厳しく制限されていた。

中世盛期以降、神聖ローマ帝国は帝権を排除しようと抵抗する地方諸侯との不安定な共存政策に特徴づけられる。フランスやイングランドなどの中世の諸王国と比較して、皇帝は自らの統治する領土を十分に支配する力を獲得し得なかった。反対に、皇帝たちは廃位を避けるために聖俗領主たちにより一層の権限を授与することを強いられた。このプロセスは11世紀の叙任権闘争に始まり、1648年のヴェストファーレン条約でおおよそ完了している。幾人かの皇帝たちはこの自らの権力の弱体化を食い止めようと試みたが、教皇や諸侯によって妨げられた。

===皇帝===
{{Main|神聖ローマ皇帝|神聖ローマ皇帝一覧|ローマ王}}
[[ファイル:Holy Roman Empire crown dsc02909.jpg|thumb|[[ウィーン]]王宮宝物館にある神聖ローマ帝国の王冠(10世紀頃)]]
[[ファイル:Holy Roman Empire crown dsc02909.jpg|thumb|[[ウィーン]]王宮宝物館にある神聖ローマ帝国の王冠(10世紀頃)]]
皇帝は[[ドイツ王国]]<ref group=nb>当初は東フランク王国の政体を踏襲し、一般にはフランク王国やドイツ王国、正式にはローマ帝国と呼ばれていた。「[[ドイツ人]]の[[国家]]」という概念は後年に生まれた。</ref>、[[イタリア王国 (中世)|イタリア王国]]、[[ブルグント王国]]([[1032年]]以降)の3つの[[王国]]の統治者であった。これは[[カロリング朝]]フランク王の正式な称号が「[[フランク人]]、[[ランゴバルト人]]、[[ローマ人]]の保護者」であった伝統を引き継いでいる。皇帝となるためには、その人物はまず3つの国王としての戴冠式をそれぞれ別の場所で行い、その上で、教皇により「ローマ皇帝」に戴冠された。
[[神聖ローマ皇帝|神聖ローマ帝国の皇帝]]は、

* [[ドイツ王国]]<ref>当初は東フランク王国の政体を踏襲し、一般にはフランク王国やドイツ王国、正式にはローマ帝国と呼ばれていた。「[[ドイツ人]]の[[国家]]」という概念は後年に生まれた。</ref>
帝国の重要な特徴は[[選挙王制]]である<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.57</ref>。9世紀以降、ドイツ王は国王選挙によって選ばれており、この時期、彼らは最も有力な部族([[サリ=フランク族|サリ=フランク]]{{enlink|Salian Franks|en}}、[[ロートリンゲン公|ロートリンゲン]]、[[リプアリ族|リプアリ]]{{enlink|Ripuarian Franks|en}}、[[フランケン大公|フランケン]]、[[ザクセン]]、[[バイエルン]]そして[[シュヴァーベン]])の5人の指導者たちによって選出されていた。ただし、中世盛期の三王朝時代([[ザクセン朝]]、[[ザリエル朝]]、[[ホーエンシュタウフェン朝]])では事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.48-49</ref>。ハインリヒ3世は皇帝戴冠式を挙行するまでの7年間、[[ローマ王]](羅: ''Rex romanorum''; 独: ''römischer König'')を称しており、以降、皇帝予定者はまずローマ王を称するようになった<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.64-66</ref>。また、皇帝の存命中に後継者をローマ王に選出させることもあった<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.57</ref>。
* [[イタリア王国 (中世)|イタリア王国]]

* [[ブルグント王国]]([[1032年]]以降)
大空位時代以降においては選挙原理が働くようになり、ドイツ王国内の主要な公爵や司教たちがローマ王を選出している。1356年にカール4世は金印勅書を発布して7人の選帝侯を定めた。皇帝候補者たちは票固めのために選帝侯たちと[[選挙協約]](''[[:de:Wahlkapitulation|Wahlkapitulation]]'')を結んで特権面での譲歩を約束させられた<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.59-60</ref><ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p160</ref>。
の3つの[[王国]]の統治者であった。これは[[カロリング朝]]フランク王の正式な称号が「[[フランク人]]、[[ランゴバルト人]]、[[ローマ人]]の保護者」であった伝統を引き継いでいる。


神聖ローマ皇帝となめには、その人物はまず3つの国王としての戴冠それぞれ別の場所で行い上で、[[ローマ教皇]]により「ローマ皇帝」に戴冠された。ただし[[1508年]]に[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]が教皇から戴冠されることなく「皇帝」を称してからは、ドイツ王=ローマ王に選出された時点で皇帝を名乗るのが慣例化した。なお、ドイツ王=ローマ王になったからといって常になれるとは限らなかった。ローマに遠征を行って戴冠式を行えるか国王の実力にかかっていた
選出されたローマ王は名目上は教皇による戴冠を受けねば「皇帝」を名乗るこができかっ。多く場合、国王たちは他責務に時間を取られて皇帝戴冠には数年要しておりしばしば、彼らはまずは北イタリア反乱や教皇本人との不和を解決せねばならなかった。[[1508年]]に[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]が教皇から戴冠されることなく「皇帝」を称してからは、後期の皇帝たちは「ローマ皇帝に選ばれし者」(''Erwählter Römischer Kaiser'')の体裁を取り、教皇による戴冠を省略してドイツ王=ローマ王に選出された時点で皇帝を名乗るのが慣例化した<ref name=Schulze228/><ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.65</ref>皇にって戴冠された最後の皇帝1530年カール5世である
{{-}}
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=== 皇帝=ドイツ王の権力所在地 ===
== 変遷 ==
[[File:GoslarMaltermeister.jpg|thumb|250px|ゴスラーの歴史都市([[世界遺産]])]]
[[ファイル:Balduineum Wahl Heinrich VII.jpg|thumb|神聖ローマ皇帝の選帝侯たち]]
帝国は特定の首都を持たず、中世初期から中世盛期の皇帝=ドイツ王は王国を巡り、その時々の皇帝の所在地で宮廷会議や教会会議そして法廷の開催や授封といった行政を執り行う、「旅する王権」(''Reisekönigtum'')の統治方式を取っていた<ref>[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],pp.71-72</ref><ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.149-151</ref>。
[[ファイル:Europa 1600 en kairyou.JPG|thumb|[[1600年]]のヨーロッパ]]
[[ファイル:Holyromanempire.png|thumb|現在の国の輪郭と[[1630年]]の神聖ローマ帝国]]
[[ファイル:HRR 1789 EN.png|thumb|[[1789年]]の神聖ローマ帝国]]
[[962年]]、オットー1世が[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネス12世 (ローマ教皇)|ヨハネス12世]]により、古代[[ローマ帝国]]の継承者として[[皇帝]]に戴冠したときから始まる。もっとも、神聖ローマ皇帝の初代はゲルマン部族国家の王で最初にローマ教皇権と結託してローマ皇帝の帝冠を頂いた[[カール大帝]]であるという思想・理念もある。


しかしながら、帝国統治の中心は全土に隈なく所在する訳でもなく、ザクセン朝、ザリエル朝の諸王は[[ハルツ山地]]周辺のプファルツに王宮を造営して国王支配領域を形成しており、[[ランメルスベルク鉱山およびゴスラーの歴史都市|ゴスラーの歴史都市]]はそのひとつである<ref>[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],pp.73-74</ref>。また、[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]以降は帝国内の司教管区も一時的な政庁として活用するようになっている<ref>[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.151</ref>。ホーエンシュタウフェン朝は権力基盤のシュヴァーベンに加えて、ザーレ・ウンストルート川流域やライン・マイン川流域、ライン川上流域に国王支配領域を形成した<ref>[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],p.75</ref>。
もともとザクセン部族大公権を権力の母体としてその歴史を開始しており、[[サクソン人|ザクセン人]]の伝統はフランク人と違って非常時以外には王を戴かぬ[[選挙王制]]だったため、当初から帝権は弱体で、封建領主の連合体という側面が強かった。その上、歴代の皇帝は「ローマ帝国」という名目のために[[イタリア]]の支配権を唱え、度々侵攻した([[イタリア政策]])。このためドイツでの帝権強化にまで手が回らず、他国に比べ[[中央集権]]化が遅れた。


大空位時代以降は諸侯の自立性の高まりにより、国王支配領域を形成することはできなくなり、皇帝たちは各々の家門の領地から帝国の統治を行っている<ref>[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],p.76</ref>。フェルディナント2世(在位:1619年-1637年)以降はハプスブルク家所領の[[ウィーン]]が恒常的な宮廷所在地となった<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.15</ref>。
[[1254年]]に[[ホーエンシュタウフェン朝]]が断絶すると、20年近くも皇帝が選ばれない[[大空位時代]]となり、「帝国」としての実体をまったく成さない状態となった。[[14世紀]]の[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]による[[金印勅書]]以降、皇帝は有力な7人の封建領主([[選帝侯]])による選挙で選ばれるようになり、さらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権、独自の外交権等の強大な自治権が与えられた。
{{-}}


=== 封建制 ===
これに対し、[[1495年]]から[[帝国改造]]が皇帝[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]と[[マインツ大司教]][[ベルトルト・フォン・ヘンネブルク]]の主導で行われた。その結果、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなる。この帝国改造の流れに終止符を打ったのが[[1648年]]の[[ヴェストファーレン条約]]であった。これにより、各諸侯に大幅な自治が認められる一方、平和的な紛争解決手段が整えられ、諸侯の協力による帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立することとなった。しかしながら、その後[[プロイセン王国|プロイセン]]が台頭したことにより、諸侯のバランスは崩壊、帝国はやがて機能不全に陥った。
[[File:Lehnseid.png|thumb|200px|国王に対する誠実宣誓。<br>1512年製作の木版画。]]
{{main|レーエン}}
初期のドイツ王は[[部族大公]](''Stammesherzog'')によって選出されていた。部族大公は[[フランク王国]]によって征服統合されたゲルマン諸族で、フランク王から大公(''duces'')の官職を任命された者たちである。フランク王国の部族大公は8世紀頃に解体されたが、カロリング朝末期に復活し、[[ザクセン大公]]、[[フランケン大公]]、[[バイエルン大公]]、[[シュヴァーベン大公]]そして[[ロートリンゲン大公]]が確立した<ref>[[#シュルツェ(1997)|シュルツェ(1997)]],p.17</ref>。部族大公は12世紀末まで帝国における主要な役割を果たしている<ref>[[#シュルツェ(1997)|シュルツェ(1997)]],p.18</ref>。


オットー1世に始まる[[帝国教会政策]]により、三王朝時代の皇帝たちは大司教、司教、修道院長を任命して所領を寄進し、特権を与えるなど彼らとの[[レーエン]](知行制・封建制)的な絆を結び、教会を帝国の制度基盤となした<ref name=teikokukyoukai/><ref>[[#シュルツェ(1997)|シュルツェ(1997)]],p.48</ref>。ザクセン朝とザリエル朝の皇帝たちは大公領、辺境伯領、伯領はレーエン的なものではなく官職として扱おうとしていたが、ロタール3世(在位:1106年 - 1137年)の時代に帝国の封建化は発展し、12世紀から13世紀のホーエンシュタウフェン朝の時代にレーエン化が進められて部族大公領が解体され、国王を最高封主とする帝国国制の封建化が完了した<ref>[[#シュルツェ(1997)|シュルツェ(1997)]],pp.48-49</ref>。
[[19世紀]]初頭にはフランス皇帝[[ナポレオン・ボナパルト]]の侵攻を受け、フランスの[[従属国]]的な[[ライン同盟]]に再編された。帝国内の全諸侯が帝国からの脱退を宣言すると、既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ皇帝[[フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ2世]]は退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。


12世紀末の時点で聖界諸侯の他に以下の20の世俗諸侯がいた<ref>[[#シュルツェ(1997)|シュルツェ(1997)]],p.49</ref>。
== 評価 ==
*'''大公''':[[バイエルン公|バイエルン]]、[[ザクセン公|ザクセン]]、[[シュヴァーベン公|シュヴァーベン]]、[[ロートリンゲン公|ロートリンゲン]]、[[ブラバント公|ブラバント]]、[[オーストリア公|オーストリア]]、[[ケルンテン公|ケルンテン]]、[[シュタイアーマルク公|シュタイアーマルク]]、[[ボヘミア王国|ボヘミア]]
大空位時代以降に関しては、[[18世紀]][[フランス]]の思想家[[ヴォルテール]]の「[[q:神聖ローマ帝国|神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない]]」という言葉を引用して、もはや国家としての実体を伴っていないという評価がされてきた。ヴェストファーレン条約もこの文脈においては「帝国の死亡証明書」と評価される。
*'''辺境伯''':[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク]]、[[マイセン辺境伯|マイセン]]、[[ラウジッツ辺境伯|ラウジッツ]]
*'''方伯''':[[テューリンゲン方伯|テューリンゲン]]
*[[ライン宮中伯]]、[[アンハルト伯]]

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===帝国等族===
[[File:Ordines Sacri Romani Imperii.jpg|thumb|250px|"Ordines Sacri Romani Imperii"(神聖ローマ帝国の序列)。1606年作]]
{{main|領邦|選帝侯}}
帝国領邦の数は相当数に及び、18世紀末の時点で領邦高権を有する領邦314、自立権力を有するその他の帝国騎士領は1475家に上った<ref name=naruseb26>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.26</ref>。これら小邦(''[[:en:Kleinstaaterei|Kleinstaaten]]'')の幾つかは飛び地を含む数平方マイルの規模しかなく、そのため帝国はしばしば「パッチワーク」(''Flickenteppich'')と呼ばれた<ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.43</ref>。皇帝と直接的な封建関係を結んで[[レーエン|帝国封]](''Reichslehen'')を授封された者は[[帝国等族]](''[[:en:Imperial State|Reichsstände]]'')と見なされた<ref name=wilson16>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.16</ref><ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.16-17</ref>。帝国等族は以下のものである。

*選帝侯。金印勅書によって定められた[[マインツ大司教]]、[[ケルン大司教]]、[[トリーア大司教]]、[[ライン宮中伯]](プファルツ)、[[ブランデンブルク辺境伯]]、[[ザクセン選帝侯|ザクセン公]]そして[[ボヘミア王]]。三十年戦争後に[[バイエルン選帝侯|バイエルン]](1648年)と[[ハノーファー選帝侯|ハノーファー]](1692年)が加わっている。1777年にライン宮中伯とバイエルンが統合され、帝国最末期の1803年の再編でケルン大司教とトリーア大司教が除かれ、[[ザルツブルク]]、[[ヴュルテンベルク]]、[[ヘッセン=カッセル]]、[[バーデン]]が選帝侯に加えられた<ref name=wilson69>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.69</ref>。
*大公、公爵、伯爵または[[帝国騎士]](''[[:en:Imperial Knight|Reichsritter]]'')といった世襲貴族に統治されている領地<ref name=wilson16/>(俗界領邦)。
*大司教、司教または修道院長といった高位聖職者に統治されている領地(聖界領邦)<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.60</ref>。一般的に[[司教領]]では、この一時的な領地はしばしばより広い[[教区]]と重なっており、司教に聖俗両方の権力を与えた。[[マインツ大司教|マインツ大司教領]]、[[ケルン大司教|ケルン大司教領]]、[[トリーア大司教|トリーア大司教領]]がその事例である。
*皇帝直轄の[[帝国自由都市]](''Freie Reichsstadt'')。

1495年ヴォルムス帝国議会の時点では選帝侯7、聖界諸侯(大司教4、司教46、修道院長86)、俗界諸侯(公爵24、伯爵その他の領主145)、帝国自由都市83となっている<ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p51</ref>。

===帝国議会===
{{Main|国会 (ドイツ)}}
[[File:Kurien des reichstages des Hieiligen Römischen Reiches.jpg|thumb|left|200px|1675年帝国議会]]
[[国会 (ドイツ)|帝国議会]](''Reichstag''/''Reichsversammlung'')は神聖ローマ帝国の立法機関であり、その起源は皇帝が諸侯に重要事項を諮問する宮廷顧問会議(''Hofrat'')や大空位時代の選挙人集会であり、1356年の[[金印勅書]]によって成文化された<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.68</ref><ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.174</ref>。帝国議会は三つの部会に分かれている。

第一部会である'''選帝侯部会'''(''Kurfürstenrat'')は1273年に現れ、ローマ王選挙権を有する選帝侯によって構成される<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.68-69</ref>。


第二部会の'''諸侯部会'''(''Fürstenrat'')は1480年に成立したもので、その他の諸侯や帝国伯によって構成される<ref name=wilson69/>。諸侯部会は二つの「議席」に分かたれており、一つが世俗諸侯、もう一つが聖界諸侯である。高位諸侯は個人票を持ち、その他の伯や高位聖職者は地域別に分けられた集合票になっている。各々の集合票は1票扱いである。18世紀半ばの時点で個人票は100票(俗界諸侯65、聖界諸侯35)、集合票は高位聖職者2票、伯4票となっている<ref name=wilson70>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.70</ref>
しかしながら[[第二次世界大戦]]後、神聖ローマ帝国の再評価が行われている。従来のような評価では、ヴェストファーレン条約以降まったくドイツで[[宗教戦争]]が起こることなく新旧両派が共存できたのはなぜか、あるいは小国に分裂したのであればなぜその小国群のほとんどが帝国崩壊まで命脈を保つことが出来たのか、といった疑問に答えることが難しいためである。


第三部会が帝国自由都市の代表によって構成される'''都市部会'''(''Städtetag'')であり、シュヴァーベンと[[ライン川|ライン]]の二つの集合票に別けられる。各々の集合票は1票扱いである。帝国議会への自由都市代表の出席は中世後期から一般的になっていたが、彼らの出席が公式に確認されたのは1648年のヴェストファーレン条約以降のことである<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.71</ref>。都市部会は他の部会と対等ではなく、この部会がキャステングボードを握ることを防ぐべく、他の二部会の決定が下された後に意見を求められる形式になっていた<ref name=wilson70/>。1521年には87都市が出席権を有していたが、都市の衰退などの事情により1803年の時点では3都市に激減している<ref name=wilson70/>。
<!---この観点から重視されているのが、--->これには、マクシミリアン1世に始まる帝国改造を指摘する者もいる。帝国改造によって皇帝権力から独立した司法制度と、[[帝国クライス]]を単位とする軍隊制度が創設されたため、宗教対立などの紛争は裁判所において解決が図られ、対外戦争に対しては一致して対応することも可能になったという主張である。いわば、現代の[[ヨーロッパ連合]](EU)との近似性に着目する流れ{{要出典|date=2009年5月}}である。<!---日本においても、研究書レベルでは帝国改造論を踏まえた議論がなされている<ref>概説書としては、成瀬治、山田欣吾、木村靖二編『世界歴史大系 ドイツ史1』(山川出版社、1997年)や、ピーター H. ウィルスン『神聖ローマ帝国 1495–1806』(山本文彦訳、岩波書店、2005年)などが詳しい。</ref>が、教科書レベルではまだ「死亡証明書」といった評価が一般的である。--->
{{-}}
{{-}}


===帝国裁判所===
== 脚註 ==
[[File:Audienz Reichskammergericht.jpg|thumb|200px|18世紀の帝国最高法院]]
{{reflist}}
帝国の司法機関としては皇帝が主催する宮廷裁判所(''Hofgericht'')が存在していたが、15世紀の帝国改造運動の一環として司法改革が求められた。フリードリヒ3世は司法は皇帝の[[レガリア]](大権)であるとして改革に抵抗していたが<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.77-78</ref>、マクシミリアン1世は諸侯、等族の要求に妥協をし、1495年に[[永久ラント平和令]]を施行させる機関として専門の法律家による[[帝国最高法院]](''[[:en:Imperial Chamber Court|Reichskammergericht]]'')が開設された<ref>[[#木村(2001)|木村(2001)]],p.89</ref><ref>[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],pp.51-52</ref>。だが、マクシミリアン1世はこれに対抗すべく国王/皇帝の裁判所である[[帝国宮内法院]](''[[:en:Aulic Council|Reichshofrat]]'')をウィーンに開設しており、帝国には2つの最高法廷が存在することになった。

帝国最高法院はフランクフルトに開設され、その後、ヴォルムス、アウクスブルク、[[ニュルンベルク]]、[[レーゲンスブルク]]、[[シュパイヤー]]、[[エスリンゲン]]{{enlink|Esslingen am Neckar|en}}、再びシュパイヤーへと移転した。[[大同盟戦争|アウクスブルク同盟戦争]]の際にシュパイヤーが破壊されたため、裁判所は[[ヴェッツラー]]へ移転し、1689年から帝国が消滅する1806年までここに所在している。

両裁判所は通常の刑事、民事訴訟は扱わない上訴の最上級法廷である<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.80</ref>。帝国裁判所は諸侯間や諸侯と帝国等族との係争を私的な武力行使([[フェーデ]])ではなく法的手続きによって解決することを目的としており<ref>[[#坂井(2003)|坂井(2003)]],pp.68-69</ref>、制度は1670年代頃に定着して帝国の平和維持や宗教対立の緩和に一定の役割を果たしている<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.79-82</ref>。
{{-}}

===帝国クライス===
[[File:Map of the Imperial Circles (1560)-EN.svg|thumb|300px|1560年時点の帝国クライス地図]]
{{main|帝国クライス}}
帝国改造の一環として、1500年に6管区の[[帝国クライス]]が設置され、更に4管区が1512年に設置されている。クライスは帝国最高法院陪席判事の選出、平和維持と防衛の分担調整、貨幣制度の監督、そして公共平和の維持を目的とした帝国内諸邦のほとんどを含む地域行政単位である<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.94-95</ref>。各々のクライスは[[クライス会議]](''Kreistag'')の名で知られる独自の議会とクライス内の問題を調停する1~3人のクライス公示事項担当諸侯(''Kreis Ausschreibender Fürst'')を有していた<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.95-96</ref>。

<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;">
*{{legend|#55ddff|バイエルン・クライス|border=1px solid #000}}
*{{legend|#ffcc00|シュヴァーベン・クライス|border=1px solid #000}}
*{{legend|#71c837|オーバーライン・クライス|border=1px solid #000}}
*{{legend|#d38d5f|ヴェストファーレン・クライス|border=1px solid #000}}
*{{legend|#d40000|フランケン・クライス|border=1px solid #000}}
</div>
*{{legend|#8080ff|ニーダーザクセン・クライス|border=1px solid #000}}
*{{legend|#c83737|ブルグント・クライス|border=1px solid #000}}
*{{legend|#ff7f2a|オーストリア・クライス|border=1px solid #000}}
*{{legend|#ffaacc|オーバーザクセン・クライス|border=1px solid #000}}
*{{legend|#d35fbc|クールライン・クライス|border=1px solid #000}}
</div>

全ての領域が帝国クライスに含まれている訳ではなく、ボヘミア王の領土{{enlink|Lands of the Bohemian Crown|en}}、帝国騎士領や帝国内のドイツ騎士団領地などの小邦<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.98-99</ref>、そして、スイス、北イタリアの帝国諸侯は除外されている。

{{-}}

== 評価 ==
18世紀フランスの思想家[[ヴォルテール]]による「[[q:神聖ローマ帝国|神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない]]」との神聖ローマ帝国評は特に有名であるが<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.1</ref>、17世紀の法学者[[ザミュエル・フォン・プーフェンドルフ|プーフェンドルフ]]も帝国を国家論の規則に外れた「妖怪に似たもの」と評した<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.41-42</ref>。また、帝国解散の新聞記事を読んだ日の[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の素っ気ない日記も当時の人々の帝国に対する無関心ぶりを示す例として知られる<ref>[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.14</ref>。一方で、18世紀後半のドイツ法学者[[ヨハン・シュテファン・ ピュッター|ピュッター]]{{enlink|Johann Stephan Pütter|en}}は帝国の法維持機能を積極的に評価し、その国家性を強調している<ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.41</ref>。

ドイツ帝国が成立した19世紀中盤以降のドイツ歴史学界は権力国家志向であり、中央集権化に失敗してナポレオンに敗れて消滅した神聖ローマ帝国を民族を分裂させドイツの利益を守りえなかった政治的無能と断じ、これに対して権力国家を構築してドイツ統一を成し遂げたプロイセンを擁護するプロイセン中心主義的解釈を取って来た<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.2,p.6-9</ref>。[[ナチス・ドイツ]]の経験と[[第二次世界大戦]]の敗戦によって、権力国家概念は信用を失ったが、神聖ローマ帝国が近代国家への転換に失敗した体制であるとの解釈は続いた<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.9</ref>。

[[1960年代]]から[[西ドイツ]]の歴史学界で従来の集権的な国民国家を唯一の歴史的選択肢とはしない神聖ローマ帝国に対する修正主義的なアプローチが出始めた。[[1980年代]]以降、この修正主義的解釈は活発化し、その主な論旨は帝国の構造を皇帝と諸侯とに二元主義的に理解せず、帝国議会、帝国裁判所、帝国クライスなどの多様な構成員からなる帝国諸制度の相互作用や法共同体としての側面を考察することである<ref>[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.12-13</ref><ref>[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.32</ref>。

この修正主義的再評価から、帝国がヴェストファーレン条約以降まったくドイツで[[宗教戦争]]が起こることなく新旧両派が共存できたのはなぜか、あるいは小国に分裂したのであればなぜその小国群のほとんどが帝国崩壊まで命脈を保つことが出来たのか、といった疑問に答えるためにマクシミリアン1世に始まる帝国改造を指摘する者もいる<ref group=nb name=teikokukaizou>概説書としては、[[#成瀬他(1997a)|成瀬治、山田欣吾、木村靖二編『世界歴史大系 ドイツ史1』]]や、[[#ウィルスン(2005)|ピーター H. ウィルスン『神聖ローマ帝国 1495–1806』]]などが詳しい。</ref>。帝国改造によって皇帝権力から独立した司法制度と、[[帝国クライス]]を単位とする軍隊制度が創設されたため、宗教対立などの紛争は裁判所において解決が図られ、対外戦争に対しては一致して対応することも可能になったという主張である<ref group=nb name=teikokukaizou/><ref group=nb>ただし、この帝国改造運動は結局、成果はなかったと解説されることも少なくはない。【帝国改造運動】(ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版)や【神聖ローマ帝国】(世界大百科事典巻14,平凡社,1988年)</ref>。

また、ヴェストファーレン条約についても否定的側面のみでは捉えず、以後150年に渡り領邦の独自性を維持しつつドイツの完全な分解を防ぐ法共同体を構築した役割、更には今日に続くドイツ連邦制の基礎になったと評価する見方もある<ref>[[#坂井(2003)|坂井(2003)]],p.92</ref><ref>[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.114-115</ref>。

==脚注==
=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2|group="nb"}}
=== 出典 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|4}}

==参考文献==
*{{Cite book|和書|editor= [[井上幸治 (西洋史学者)|井上幸治]](編集)|translator=|year=1968|title=フランス史|series=世界各国史|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634414303|ref=井上他(1968)}}
*{{Cite book|和書|editor=[[大野真弓]](編集)||author=|translator=|year=1961|title=世界の歴史 8 絶対君主と人民|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4124005783|ref=大野他(1961)}}
*{{Cite book|和書|editor=木下康彦,吉田寅,[[木村靖二]](編集)|translator=|year=2008|title=詳説世界史研究|publisher=山川出版社|isbn=978-4634030275 |ref=木下他(2008)}}
*{{Cite book|和書|editor= 木村靖二(編集)|translator=|year=2001|title=ドイツ史|series=新版 世界各国史|publisher=山川出版社|isbn=978-4634414303|ref=木村他(2001)}}
*{{Cite book|和書|editor=[[桑原武夫]](編集)||author=|translator=|year=1975|title=世界の歴史10 フランス革命とナポレオン|publisher=中央公論新社|isbn=978-4122001992|ref=桑原他(1975)}}
*{{Cite book|和書|editor= [[成瀬治]], 山田欣吾, 木村靖二(編集)|translator=|year=1997年a|title=ドイツ史〈1〉先史~1648年|series=世界歴史大系|publisher=山川出版社|isbn=978-4634461208|ref=成瀬他(1997a)}}
*{{Cite book|和書|editor= 成瀬治, 山田欣吾, 木村靖二(編集)|translator=|year=1997年b|title=ドイツ史〈2〉―1648年~1890年|series=世界歴史大系|publisher=山川出版社|isbn=978-4634461307|ref=成瀬他(1997b)}}
*{{Cite book|和書|author=ピーター・H. ウィルスン|translator=山本文彦|year=2005|title=神聖ローマ帝国 1495‐1806|series=ヨーロッパ史入門|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000270977|ref=ウィルスン(2005)}}
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== 関連図書 ==
*Karl Otmar Freiherr von Aretin, ''Das Alte Reich 1648–1806''. 4 vols. Stuttgart, 1993–2000
*Peter Claus Hartmann, ''Kulturgeschichte des Heiligen Römischen Reiches 1648 bis 1806''. Wien, 2001
*Georg Schmidt, ''Geschichte des Alten Reiches''. München, 1999
*[[:en:James Bryce, 1st Viscount Bryce|James Bryce]], ''The Holy Roman Empire''. ISBN 0-333-03609-3
*Jonathan W. Zophy (ed.), ''The Holy Roman Empire: A Dictionary Handbook''. Greenwood Press, 1980
*George Donaldson, ''Germany: A Complete History''. Gotham Books, New York 1985
*[http://www.historischekommission-muenchen.de/seiten/projekte.html Deutsche Reichstagsakten]


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[神聖ローマ皇帝一覧]]
* [[神聖ローマ皇帝一覧]]
* [[帝国クライス]]
* [[帝国クライス]]

== 参考文献 ==
* ピーター・H・ウィルスン『神聖ローマ帝国 1495–1806』山本文彦訳、[[岩波書店]]〈ヨーロッパ史入門〉、2005年
* [[成瀬治]]・山田欣吾・[[木村靖二]]編『世界歴史大系 ドイツ史1』[[山川出版社]]、1997年
* 成瀬治・山田欣吾・木村靖二編『世界歴史大系 ドイツ史2』山川出版社、1997年
* 菊池良生『神聖ローマ帝国』[[講談社]]〈[[講談社現代新書]]〉、2003年


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
177行目: 684行目:
* [http://www.heraldica.org/topics/national/hre.htm The Holy Roman Empire]
* [http://www.heraldica.org/topics/national/hre.htm The Holy Roman Empire]


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2010年12月14日 (火) 02:20時点における版

神聖ローマ帝国
東フランク王国 962年 - 1806年 オーストリア帝国
プロイセン王国
ライン同盟
ドイツ帝国の国旗 ドイツ帝国の国章
(国旗) 国章
公用語 ドイツ語ラテン語
首都 なし
皇帝
962年 - 973年 オットー1世(初代)
1355年 - 1378年カール4世(第16代)
1452年 - 1493年フリードリヒ3世(第18代)
1519年 - 1530年カール5世(第20代)
1792年 - 1806年フランツ2世(最後)
変遷
成立 962年
金印勅書1356年
ヴェストファーレン条約1648年
滅亡1806年
ドイツの歴史
ドイツの国章
東フランク王国
神聖ローマ帝国
プロイセン王国 ライン同盟諸国
ドイツ連邦
北ドイツ連邦 南部諸国
ドイツ帝国
ヴァイマル共和政
ナチス・ドイツ
連合軍軍政期
ドイツ民主共和国
(東ドイツ)
ドイツ連邦共和国
(西ドイツ)
ドイツ連邦共和国

神聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、ドイツ語Heiliges Römisches Reich, ラテン語Sacrum Romanum Imperium,イタリア語Sacro Romano Impero , 800年 - 1806年)は、現在のドイツオーストリアチェコイタリア北部を中心に存在していた国家[1][2]。帝国の体制は皇帝の権力が諸侯によって弱められることにより、中世から近世にかけて変化した。最後の数世紀にはその体制は諸領域の連合体に近いものになっている。

日本では通俗的に、962年ドイツ王オットー1世ローマ教皇ヨハネス12世により、カロリング的ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠したときから始まるとされ、高等学校における世界史教育もこの見方を継承している[nb 1]。しかし、ドイツの歴史学界ではこの帝国をカール大帝から始めるのが一般的で、その名称の変化とともに3つの時期に分ける。すなわち、カール大帝の皇帝戴冠から東フランクにおけるカロリング朝断絶に至る「ローマ帝国」期(800年-911年)・オットー大帝の戴冠からシュタウフェン朝の断絶に至る「帝国」期(963年-1254年)・中世後期から1806年にいたる「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」期である[3]。これは帝国国制の大規模な変化にも対応している。

帝国はゲルマン王国の伝統に基づいた選挙王制の形式を取っていたが、中世盛期の三王朝時代(ザクセン朝ザリエル朝ホーエンシュタウフェン朝)では事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった[4][1]。皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた(帝国教会政策[5]。また、歴代の皇帝は「ローマ帝国」という名目のためにイタリアの支配権を唱え、度々侵攻した(イタリア政策)。当初、皇帝権は教皇権に対して優勢であり、皇帝たちは度々教皇庁に介入していた。だが、教会改革運動が進展すると皇帝と教皇との対立が引き起こされ、11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争は皇帝側の敗北に終わった[6]。この間に諸侯の特権が拡大して領邦支配が確立されている[1]

1254年ホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、20年近くも王権の影響力が空洞化する大空位時代となり、諸侯への分権化がより一層進んだ[7]14世紀カール4世による金印勅書以降、皇帝は有力な7人の封建領主(選帝侯)による選挙で選ばれるようになり、さらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権等の大幅な自治権が与えられた。この間、異なる家門の皇帝が続く、跳躍選挙の時代が続いたが、1438年に即位したアルブレヒト2世以降はハプスブルク家が帝位をほぼ独占するようになった[nb 2]マクシミリアン1世治世の1495年から帝国改造が行われ、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなる[8]

16世紀カール5世の治世に始まった宗教改革によって帝国はカトリックプロテスタントに分裂し、宗教紛争は最終的に皇帝側の敗北に終わり、アウクスブルクの和議によりプロテスタント信仰が容認されるとともに領邦の独立性が更に強化されることになった。宗教対立は収まらず、1618年三十年戦争が勃発してドイツ各地が甚大な被害を受けた。1648年ヴェストファーレン条約が締結されて戦争は終結し、全諸侯に独自の外交権を含む大幅な領邦高権(主権)が認められる一方、平和的な紛争解決手段が整えられ、諸侯の協力による帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立することとなった[9]。しかしながら、その後プロイセンが台頭したことにより、諸侯のバランスは崩壊し、帝国はやがて機能不全に陥った[10]

19世紀初頭にはフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、フランスに従属するライン同盟に再編された。帝国内の全諸侯が帝国からの脱退を宣言すると、既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。

名称

古代ローマ帝国の後継を称し、その名称は時代とともに幾度も変化した。

Römisches Reich
Imperium Romanum
羅:Sacrum Imperium
独:Heiliges Römisches Reich
羅:Sacrum Romanum Imperium
  • 1512年 - ドイツ国民の神聖ローマ帝国
独:Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation
羅:Sacrum Romanum Imperium Nationis Germanicae

「神聖」(Sacrum)の形容詞は、1157年フリードリヒ1世がドイツの諸侯に発布した召喚状に初めて現れる[11]

神聖ローマ帝国旗(1200–1350)

元々、古代ローマ帝国カール大帝フランク王国の後継帝国を自称していた。フランク王国は西ローマ帝国の後継国家を自認しており、必然的に「神聖ローマ帝国」は、(西)ローマ帝国からフランク王国へと受け継がれた帝権を継承した帝国である、ということを標榜していた。そして帝位にふさわしいと評価を得た者がローマ教皇によりローマで戴冠し、ローマ皇帝に即位したのである。しかしこの帝国は、「神聖」の定義や根拠が曖昧で、「ローマ帝国」と称してはいるが、現在のドイツからイタリアまでを領土としているもののローマは含んでおらず、さらに「帝国」を名乗りつつも皇帝の力が実質的に及ぶ領土が判然としない国であった。

また、古代ローマ帝国の正統な後継国家としては、15世紀中期まではコンスタンティノポリスを首都とする東ローマ帝国中世ローマ帝国)が存続していた。当然のことながら、東ローマ帝国側は神聖ローマ帝国が「ローマ帝国」であることを認めず、その君主が「ローマ皇帝」であることも承認しなかった(二帝問題)[12]。一方、神聖ローマ帝国側でも、東ローマ皇帝のことを「コンスタンティノープルの皇帝」「ギリシア人の王」などと呼ぶようになっていた[13]

時代が下ってナチスが政権を握ると、彼らは自らを「第三帝国」と呼び慣わしたが、これは神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ第三のドイツ人帝国という意味である[14]

領域

神聖ローマ帝国の領域は今日のドイツ南シュレスヴィヒ (enを除く)、オーストリアブルゲンラント州を除く)、チェコ共和国スイスリヒテンシュタインオランダベルギールクセンブルグそしてスロベニアプレクムリェ地方を除く)に加えて、フランス東部(主にアルトワアルザスフランシュ=コンテサヴォワロレーヌ)、北イタリア(主にロンバルディア州ピエモンテ州エミリア=ロマーニャ州トスカーナ南チロル)そしてポーランド西部(主にシレジアポメラニア、およびヌーマーク (en )に及んでいた。

帝国は当初、ドイツ王イタリア王が皇帝に戴冠されて成立した。従ってその領域はドイツから北イタリアにまたがっていた。また9世紀末から10世紀にドイツ王に臣従していたボヘミア(現在のチェコ共和国)は1158年(または1159年)に大公から王国へ昇格し、帝国が消滅するまでその一部であり続ける[15][16]

1032年ブルグント王国の王家が断絶すると、1006年にブルグント王ルドルフ3世とドイツ王(のち皇帝)ハインリヒ2世の間で結ばれていた取り決めにより、ハインリヒ2世の後継者コンラート2世がドイツ王・イタリア王に加えてブルグント王も兼ねることとなった[17]。ブルグント王国は現在のフランス南東部にあった王国であり、これにより神聖ローマ帝国の領域は南東フランスにまで拡大した。

13世紀半ば、皇帝不在の大空位時代を迎えて皇帝権が揺らぐとイタリアは次第に帝国から分離した[8]。ブルグントにはシャルル・ダンジューを初めとするフランス勢力が入り込んだ。イタリアの諸都市は実質的に独立を得ていき、のちにはやはりフランスが勢力を伸ばそうとした。皇帝位を世襲するようになったハプスブルク家は北イタリアからフランスの勢力を撃退し、この地域の支配を確立するのであるが、それは北イタリアが再び帝国の一部となったことを意味するのではない。北イタリアが帝国の制度に編入されることはなかった[nb 4]

また、1648年ヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)の結果、エルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)のいくつかの都市がフランスに割譲され、スイスオランダが独立した。この三地域は帝国から分離したのであり、北イタリアと同様、もはや帝国の制度外の地域となった。その後もフランスのエルザス=ロートリンゲンへの進出は続き、神聖ローマ帝国が消滅する1806年までにこの地域の全てが帝国から脱落することとなった。

歴史

前史

ヴェルダン条約によるフランク王国の分割
西フランクシャルル2世 アキテーヌガスコーニュラングドックブルゴーニュイスパニア辺境
中フランクロタール1世 ロレーヌイタリアブルゴーニュアルザスロンバルディアプロヴァンスネーデルランデンコルシカ
東フランクルートヴィヒ2世 ザクセンフランケンテューリンゲンバイエルンケルンテンシュヴァーベン

800年ローマ皇帝に即位したカール大帝ローマ教皇によって戴冠される伝統を開くことにより神聖ローマ帝国の先駆けとなった[18][1]。教皇による戴冠は16世紀まで神聖ローマ帝国にとっての重要な制度であり続けた[19]。カール大帝の「ローマ帝国復興」(renovatio Romanorum imperii)政策は、帝国が消滅する1806年まで(少なくとも原理上は)帝国の公的な地位であり続ける。

カール大帝の後継者ルートヴィヒ1世(敬虔帝)の時代に息子の共同皇帝ロタール1世とその弟のルートヴィヒ2世(ドイツ人王)、シャルル2世(禿頭王)とが争いを起こし、843年ヴェルダン条約によってカロリング帝国 (enはシャルル2世の西フランク王国フランス)、ルートヴィヒ2世の東フランク王国ドイツ)そしてロタール1世の中部フランク王国イタリアロタリンギアプロヴァンス)に分裂し、ロタール1世の帝位は保たれたものの東西両フランク王国に対する宗主権は失われた。ロタール1世が没するとロドヴィコ2世 (en(ルートヴィヒ2世)が帝位を継いだが、870年メルセン条約によって中部フランク王国は分割されプロヴァンスは西フランク領、ロタリンギアは東フランク領になり、皇帝ロドヴィコ2世にはイタリアと西ローマ皇帝の称号のみが保たれ、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型が形づくられた[20]

875年に皇帝ロドヴィコ2世が死去すると西フランク王シャルル2世がイタリアに侵攻して帝位に就いた。881年にシャルル2世が死去するとルートヴィヒ2世の三男のアレマニア=イタリア王カール3世(肥満王)が西ローマ皇帝となり、その後、彼は遺領相続によって東フランク王と西フランク王を兼ねてカロリング帝国の再統一がなされた。しかし、カール3世にはこの時期にヨーロッパへ侵攻していたノルマン人イスラム教徒そしてマジャール人に対処する力量がなく[21]887年にカール3世は東フランク王を廃位されてしまい、翌888年に彼が死去すると帝国は分裂し、再建されることはなかった。年代記編者プリュムのレギーノ (enは各々の領域は自分たちの身内(bowels)から小王(kinglet)を選出するようになっていたと述べている。東フランク王国ではフランケンザクセンバイエルンアレマニア (enシュヴァーベン)、ロートリンゲン大公として発達し、部族大公制 (enと呼ばれる[22]

ルートヴィヒ2世の庶子の子のアルヌルフが東フランク王に選出され(在位:887年 - 899年)、896年にはイタリアへ侵攻して西ローマ皇帝に即位している(在位:896年 - 899年)。カール3世の死後、教皇によって戴冠された皇帝はイタリアのみを統治する状態になり、この形式の最後の西ローマ皇帝がベレンガーリオ1世(在位:888年 - 924年)である。

911年にアルヌルフの後継者のルートヴィヒ4世(幼童王)(在位:899年 - 911年)が死去すると東フランクのカロリング家は断絶した。ロートリンゲンの貴族たちは西フランク王シャルル3世(単純王)を擁立するが、西フランクに併合されることを嫌った部族大公たちはフランク族ではあるがカロリング家出身ではないフランケン公コンラートを王に選出した(コンラート1世)[23][24]。一般的にはコンラート1世の即位をもってカロリング朝の東フランク王国から、独自のドイツ王国へ転換したとされる[25]。コンラート1世はロートリンゲンを西フランクに奪われて統制勢力を弱め[26]、反抗する部族大公との抗争の最中に負傷し、918年に死去した。

成立

オットー大帝像、マクデブルク

コンラート1世は敵対していたザクセン公ハインリヒを後継者に指名し、翌919年フリッツラー (enの会合でザクセン人とフランケン人によって新国王に選出され(ハインリヒ1世)、ザクセン朝(オットー朝 (en)が開かれた[27]。ハインリヒ1世はシュヴァーベンとバイエルンを臣従させると、ロートリンゲンに出兵して西フランク王国と戦い、921年に和議が結ばれ西フランク王シャルル3世はハインリヒ1世を同格の東フランク王(Rex Francorum Orientalum)と認めた(ボン条約[28][29]。その後、西フランクが混乱状態に陥るとハインリヒ1世はロートリンゲンを奪回し、東方ではマジャール人に対する城塞を整備し、またスラブ諸族を制圧した[28][30]933年にはマジャール人をリアデの戦い (enで撃破し、解体しかけていた東フランク王国(ドイツ王国)はハインリヒ1世の業績によって再統一がなされた[31]。ハインリヒ1世は929年に王令を出して次男のオットーを後継者に指名し、その際に王権と王国の単独相続を定め、フランク王国以来の均等相続の原則を否定した[32][33]

936年にハインリヒ1世が死去するとアーヘンにおいてオットーが国王に選出され即位した(オットー1世)[34]。即位して程なく発生した異母兄と弟の反乱を平定すると、オットー1世は諸大公領を王族の支配下に置く体制を構築して国内を固めた[35][36]。また、部族大公を抑え込むためにオットー1世は教会勢力と結びつき、司教や修道院に所領を寄進して特権を与えて世俗権力からの保護するとともに、司教の任命権を握って聖職者の忠誠を受け、国家行政を聖職者に委ねた(帝国教会政策[37][38][5]951年、オットー1世はイタリア王ロターリオ2世の未亡人アデライーデ (enの要請によりイタリア遠征を敢行して敵対者ベレンガーリオ2世を駆逐した後にアーデルハイトと結婚し、彼女との婚姻関係に基づきイタリア王となる[39]

このイタリア遠征の際に王息ロイドルフとの間に亀裂が起こり、953年にロートリンゲン公をはじめとする諸侯とともに大反乱を起こし、オットー1世は危機に陥った[40]。だが、ロイドルフの了解の元にマジャール人が侵入すると危機感を持った諸侯はオットー1世に臣従し、結束を強めたオットー1世は955年レヒフェルトの戦いでマジャール人に大勝して、その脅威に終止符を打った[41]

960年、ベレンガーリオ2世により教皇領を侵害された教皇ヨハネス12世がオットー1世に救援を要請した。翌961年にオットー1世はイタリアへ遠征し、962年2月2日にローマにおいて教皇ヨハネス12世によりローマ皇帝に戴冠した(オットー大帝)。以降、皇帝はローマにおいて教皇の手による戴冠を必要とするようになる(イタリア政策)。この戴冠が一般的には神聖ローマ帝国の始まりとされる[2]。しかしながら、当時は「神聖ローマ帝国」(Heiliges Römisches Reich)なる名称は存在せず、オットー1世の戴冠によって新たな国家が誕生した訳でもなく、同時代の意識としてはあくまでもカロリング帝国からの連続としての教会の保護者そして西洋世界の普遍的支配者たる「ローマ皇帝」であった[42][43][44]

中世盛期

ザクセン朝とザリエル朝

10-11世紀の神聖ローマ帝国の領域。
  オットー1世時代
  コンラート2世時代

10世紀後半から11世紀初めの時点で、東王国はいわゆる「ドイツ」ではなく、アレマニア、バイエルン、フランケンそしてザクセンといったゲルマン部族大公の連合であった[1]

973年にオットー1世が死去すると皇后アーデルハイトとの子のオットー2世が即位した。即位から程なく発生した従兄弟のバイエルン公ハインリヒ2世の反乱を鎮圧すると続いて西フランク王ロテールと戦ってパリへ進撃した。皇帝権の拡大を目指し「至高なるローマ人の皇帝」(Imeprium Augustu Romanorum)の称号を用いたオットー2世は980年にはイタリア遠征を行うが、イスラム教徒に大敗を喫し、東方ではバルト・スラブ人の蜂起が起きた[45][46]。オットー2世は局面の打開を図るべく再度のイタリア遠征を企図するが983年にローマで死去した。

オットー3世

僅か3歳のオットー3世が後継者となり、母テオファヌが摂政となった。テオファヌはその任をよく果たして王国の安定に尽くした[47]994年に親政を開始したオットー3世はイタリア遠征を敢行し、996年に従兄を教皇グレゴリウス5世となして皇帝に戴冠した。オットー3世は父以上に「ローマ帝国の再興」に意欲を示し、教皇と結合した世界帝国を目指して活動したが、1002年に22歳で死去した[47][48][49]

オットー3世が未婚のまま死去したため、幾人かの候補者が名のりを上げ、駆け引きの後に唯一の男系のバイエルン公ハインリヒがバイエルン、フランケン、オーバーロートリンゲンによって選出され(ハインリヒ2世)、その後国内を巡行してその他の諸侯の臣従を受けた[50]。ハインリヒ2世は「フランク王国の復興」を標榜してドイツ支配強化を打ち出し[51]、諸大公の力を抑制するとともに帝国教会体制を強化させ帝国統治の要となした[52][53]。また3度のイタリア遠征を行って1014年にローマで戴冠して、教会の守護者として教会改革に取り組んでいる[53]

1024年ハインリヒ2世が子を残さずに死去し、ザクセン朝は断絶した。オッペンハイムに聖俗諸侯が参集してザリエル家のシュパイエル伯コンラート(オットー1世の玄孫)が国王に選出されザリエル朝 (enが開かれた(コンラート2世)。政治的連合体としての帝国はハインリッヒ1世やオットー1世など国王の個人的な影響力によって保たれており、公的にはゲルマン諸部族の選挙によって選出されるが、実際には彼らは後継者を指名できており、この王朝交代が「選挙」としての国王選出の最初の機会となった[54]。コンラート2世の時代に帝国はブルグント王国を併呑し、皇帝はドイツ王、イタリア王に加えてブルグント王も兼ねるようになった。また「ローマ帝国」(Imperium Romanum)の国名を公文書で用い始めている[55]

1039年に後を継いだハインリヒ3世は地盤のフランケン公領に加えて、ジュヴァーベン公領とバイエルン公領をも手に入れて王権の基盤を固め、更にボヘミア公を服属させて帝国の威信を高めた[56]。当時、聖職売買や私婚が横行するなどローマ教会は乱脈を極めており、教会紀律刷新を主張するクリュニー教会改革運動をハインリヒ3世は積極的に支持した[57][58]。ハインリヒ3世はイタリアへ遠征してローマ教皇庁に介入し、3人のローマ教皇(ベネディクトゥス9世シルウェステル3世グレゴリウス6世)を罷免して、教会改革派のドイツ人聖職者クレメンス2世ダマスス2世レオ9世ウィクトル2世を次々と教皇位につけている[59]

叙任権闘争

『カノッサの屈辱』
エドゥ・シュワイザー画(19世紀)

1056年にハインリヒ3世が死去し、僅か3歳のハインリヒ4世が即位して母アグネス (enが摂政となるが王権は弱体化し、幼主は諸侯たちの政争の具となる[60]1057年にドイツ人教皇ウィクトル2世が死去するとクリュニー教会改革派の教皇庁は帝国の関与を排してステファヌス10世を選出した[61]。次のニコラウス2世は教皇選挙から世俗権力の干渉を排除する教皇勅書を発して、皇帝支配からの脱却を図った[62]。そして、1073年に教皇至上権の確立(グレゴリウス改革)を目指すグレゴリウス7世が教皇に選出される。

一方、ドイツでは成人したハインリヒ4世が帝権の強化を企図して諸侯と対立していた[63]ザクセン戦争)。1075年、教皇グレゴリウス7世は俗人による聖職者叙任を禁止する教皇勅書を発した。俗権叙任は君主による各地域の教会支配と忠誠獲得の有効な手段であり、ハインリヒ4世はこれを拒否してドイツ司教に教皇廃立を決議させ、「ヒルデブラント(グレゴリウス7世の修道名)は(中略)教皇ではなく偽りの修道士である」と宣言した。これに対して、教皇グレゴリウス7世はハインリヒ4世を破門となし、その臣下たちの忠誠義務の解除を宣言する。

ドイツ諸侯は諸侯会議を開いて破門赦免が得られなければ国王を廃位すると決議し、ハインリヒ4世は自らに対する政治的支持がほとんどない事に気づかされた[64]。窮地に陥ったハインリヒ4世はドイツを出て、1077年に北イタリアのカノッサでグレゴリウス7世に赦免を乞う屈辱を強いられた(カノッサの屈辱)。

しかし、抗争はこれでは終わらず、反国王派ドイツ諸侯はシュヴァーベン公ルードルフ (enを対立国王に選出し、教皇グレゴリウス7世もこれを支持して1080年にハインリヒ4世を再度の破門に処した。だが、この破門は効果がなくハインリヒ4世はクレメンス3世を対立教皇に立てて対抗し、シュヴァーベン公ルードルフに打ち勝って戦死させると、イタリアへ侵攻した。ローマは開城し、教皇グレゴリウス7世は亡命地のサレルノで失意の内に死去した。

教皇庁はウィクトル3世、次いでウルバヌス2世を立てて皇帝に対抗した。外交の名手教皇ウルバヌス2世は南ドイツと北イタリア一帯を味方に引き入れ、更にはハインリヒ4世の長男コンラートをも寝返らせた[65]。ハインリヒ4世はコンラートを廃嫡して次男を後継者としてドイツ国王に選出させるが(ハインリヒ5世)、ハインリヒ5世もまた教皇との和解を望み1105年に父を捕らえて幽閉してしまう[66]。ハインリヒ4世は脱出して息子と戦うが、翌1106年に死去した。

1122年にハインリヒ5世と教皇カリストゥス2世との間で皇帝は高位聖職者の叙任権を放棄し、授封権のみを留める内容(聖権と俗権の分離)のヴォルムス協約が結ばれて叙任権闘争は決着し、抗争は皇帝の敗北で終わった[6][67]。この結果、教会領は帝国権威の従属物ではなく、帝国政治体制における独立した諸侯と化すことになる[68]

ホーエンシュタウフェン朝

フリードリヒ1世(赤髭王)像。カッペンベルク城 (en所蔵。1160年頃。

1125年にハインリヒ5世が子を残さずに死去してザリエル朝は断絶した。生前、ハインリヒ5世は協力的であったホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世を後継者にと望んだが[69]、国王選挙で選出されたのはズップリンブルク家のザクセン大公ロタールであった(ロタール3世)。教皇との紛争は皇帝の不利となり、ロタール3世は重要な権利を放棄したと伝えられる[nb 5]。ロタールは教皇に献身的であったが[70]、イタリア遠征中の1137年に死去した。ロタール3世にも子はなく、彼はヴェルフ家ハインリヒ10世(傲岸公)を後継者に望んだが[71]、国王選挙ではホーエンシュタウフェン家のコンラートが選出された(コンラート3世)。ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家の対立はイタリアへ及び皇帝派(ギベリン)と教皇派(ゲルフ)の抗争が引き起こされ[72]、紛争は15世紀末まで続き、イタリア諸都市を分裂させている。

コンラート3世は1152年に死去し、彼の甥のシュバーベン公フリードリヒが国王に選出された(フリードリヒ1世赤髭王)。フリードリヒ1世の政策はイタリアに重点が置かれた。彼はこの地域における帝権の回復を目指しており、6度ものイタリア遠征を行っている。1155年にフリードリヒ1世は皇帝に戴冠し、以後「神聖帝国」(Sacrum Imperium)の国名を使用するようになった[73]。だが、南イタリアのノルマン人に対する戦役の際に教皇との対立が高まり[74]ビザンツ帝国との関係も悪化した。フリードリヒ1世がイタリアにおける帝国の行政権を強化するために北イタリアのロンカーリャイタリア語版で帝国議会を開催すると、ミラノをはじめとする裕福な諸都市からの激しい抵抗に直面した[75]。関係は悪化し、北イタリア諸都市はロンバルディア同盟を結成してホーエンシュタウフェン家に対抗した。新教皇アレクサンデル3世の選出は論争を呼び起こし、フリードリヒ1世は承認を拒否した。だが、皇帝軍は1167年にローマでの疫病で多数の死者を出して撤退を余儀なくされ[76]、そして1176年レニャーノの戦い (enで惨敗を喫したことにより、軍事的勝利が望めないと思い知らされた彼は1177年に教皇とのヴェネツィア条約 (enを締結した。北イタリア諸都市との和解もなされたが、フリードリヒ1世はもはやイタリアでの計画を実行することは叶わなくなっていた。

フリードリヒ1世は従兄弟にあたるヴェルフ家のザクセン=バイエルン公ハインリヒ(獅子公)と対立するようになる。ハインリヒ獅子公はロンバルディア遠征への参加を拒否し、フリードリヒ1世は大敗した[77]1180年にハインリヒ獅子公は裁判にかけられてザクセンとバイエルンを没収され、帝国追放に処された。

1190年、フリードリヒ1世は第3回十字軍の最中に死去した。彼の次男がハインリヒ6世として後を継ぐ。1186年には既にカエサルの称号を父から授けられており、事実上の後継者と見なされていた。1191年に皇帝に戴冠するとハインリヒ6世は南イタリアにあるノルマン王朝シチリア王国の併合を企てた。彼はシチリア王グリエルモ2世の王女コスタンツァと結婚しており、グリエルモ2世が子を残さずに死去したために王位は彼女とハインリヒ6世に回るはずであった[78]。ハインリヒ6世は王位継承を主張したが、反ドイツ派がタンクレーディを擁立したため失敗した[78]1194年にハインリヒ6世は南イタリアを制圧して、ハインリヒ6世とコスタンツァがシチリア王となった[79]。彼はドイツ王国の国王選挙制度を廃してフランスやシチリアと同様の世襲王国とする世襲帝国計画(Erbreichsplan)を提案するが、諸侯の抵抗に遭い失敗に終わった[80]。また、彼は十字軍による聖地奪回だけでなく、東方支配をも視野に入れた野心的な地中海政策も構想したが[80]1197年に32歳で急死してしまい、彼の早世によって帝国に強力な中央集権を確立せんとする最後の試みは頓挫した。

フリードリヒ2世像。イタリア・バルレッタ城所蔵。

ハインリヒ6世の息子フリードリヒ2世は1196年に2歳で既にドイツ王に選出されていたが[80]、幼少であった彼の王位は排除されて[81]当初はシチリア王とのみとなり、教皇インノケンティウス3世が後見人として摂政となった[82]。ドイツでは1198年の二重選挙によってミュールハウゼンでホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン公フィリップケルンではヴェルフ家のオットー4世の二人の国王が各々選出され対立した。情勢はフィリップに有利に傾いたが、1208年に暗殺された。教皇インノケンティウス3世の支持を受けたオットー4世が1209年に皇帝に戴冠したが、シチリア王国に侵攻したため翌1209年に教皇から破門されてしまう[83]。ドイツ諸侯はオットー4世の廃位を決議して、教皇インノケンティウス3世が支持するフリードリヒ2世を国王に選出した[84]。フリードリヒ2世は1220年に皇帝に戴冠するが、やがて教皇庁と対立するようになる[85]。フリードリヒ2世は1228年第6回十字軍の際に教皇グレゴリウス9世の怒りを受けて破門されるが、破門の身でありながら(アイユーブ朝スルタンとの交渉によって)エルサレムの奪回に成功し、エルサレム王位をも手に入れて多くの人々を驚かせている。

フリードリヒ2世は帝国の勢力を大いに高めたが、その解体の主な契機をももたらしている。彼はシチリアにおいて公共事業や財政その他の改革によって革新的な国家建設に努める一方で、ドイツでは諸侯に大幅な特権を授与して大きな権限を与え、以降、王権がこれを取り戻すことはできなかった。1220年にドイツ司教との間に「聖界諸侯との協約」(Confoederatio cum principibus ecclesiasticis)を結び、1232年には嫡男ハインリヒの反乱に際して諸侯を味方につけるために「諸侯の利益のための協定」(Statutum in favorem principum)を発して、関税徴収請求権、貨幣鋳造権そして城塞構築権といった多くのレガリア(大権)を放棄して聖俗諸侯の特権を拡大させた[86]。これらの協定が中世後期の帝国における領邦国家形成の始まりとなる[87]。これらの特権の多くはこれ以前から既成事実化していたが、これによって法的な確認が与えられた[88]。フリードリヒ2世はアルプス以北のドイツ諸侯は各々の領地の経営を行い、自身はシチリア本国の経営に専念することを望んだ[89]

フリードリヒ2世は教皇や北イタリア諸都市と紛争を起こすようになり[90]、 教皇はフリードリヒ2世を反キリストであると非難した[91]。最終的にフリードリヒ2世が軍事的に優勢となるが[92]1250年に死去した。

この時期、東方では1226年マゾフシェ公コンラト1世によってプロイセンのキリスト教化のためにドイツ騎士団が招聘された。修道会国家ドイツ騎士団国Deutschordensstaat)は帝国と密接な関係を保っていはいたが、領域に属していたか否かは定かではない[93]。ホーエンシュタウフェン朝の皇帝たちが長期間イタリアに滞在している間にドイツ諸侯の勢力は拡大し、ドイツ農民や商人による東方移住が促された。東方移住やスラブ人地域領主との婚姻によって帝国の影響力はポメラニアシレジアにまで拡大している。

大空位時代

選帝侯(Kurfürst

フリードリヒ2世が死去した1250年(またはコンラート4世の死の1254年あるいはヴィルヘルム・フォン・ホラントの死の1256年)からハプスブルク家ルドルフ1世が国王に選出された1273年までの期間を統一国王の存在しない大空位時代Interregnum)と呼ぶ[94][95][96]

フリードリヒ2世の共治王に立てられていた次男のコンラート4世が単独王になるが、反皇帝派は1246年にハインリヒ・ラスペを対立王に立てており、翌年に彼が死ぬとヴィルヘルム・フォン・ホラントを選出して対抗した。1254年にコンラート4世が死去してヴィルヘルム・フォン・ホラントが唯一のドイツ王となった。その後、コンラート4世の遺児コッラディーノシャルル・ダンジューとシチリア王位を争って殺されており、ホーエンシュタウフェン家は断絶している。1254年にヴィルヘルムは「神聖ローマ帝国」(Imperium Romanum Sacrum)の国名を初めて用いた[97]。だが、ヴィルヘルムはその2年後の1256年フリースラント遠征中に戦死してしまう。

1257年の二重選挙が空位期の長期化をもたらした。この選挙の際にマインツ大司教ケルン大司教トリーア大司教ライン宮中伯(プファルツ)、ブランデンブルク辺境伯ザクセン大公そしてボヘミア王といった、後に選帝侯Kurfürst)と呼ばれるグループが現れた[98]

当初、プファルツ、ケルンそしてマインツの3人の選挙人(主に教皇派)はヴィルヘルムの後継国王としてコーンウォール伯リチャードイングランド王ヘンリー3世の弟)に投票した。しばらく後に4人目のボヘミアもこの選択に加わった。しかしながら、その数ヵ月後にトリーア、ブランデンブルクそしてザクセン(主に皇帝派)そしてボヘミアがカスティーリャ王アルフォンソ10世に投票する。ボヘミアの二重投票によりドイツに二人の国王が並び立つことになった。

アルフォンソ10世はスペインに留まり一度もドイツに入ることなく、リチャードもまたほとんど不在で国王がドイツにいない状態が長期化した[99]。この大空位時代に帝国の秩序は乱れ、諸侯は特権獲得と領域形成を強固にして、より一層自立した統治者と化した[100][101]。また、この時期、ドイツ西部で諸侯の勢力伸張に対して都市の利益を守るためのライン同盟が結成されるといった現象が起こっている[102][103]

中世後期

跳躍選挙

神聖ローマ帝国の領域(1273-1378)と主要王家の領地

1272年にリチャードが死去すると、弱体な君主を望む諸侯の思惑から現在のスイス北西部と上ラインの小領主に過ぎないハプスブルク家ルドルフ1世が国王に選出された[104][105]。ボヘミア王オタカル2世がルドルフ1世への臣従を拒否して戦争になり、1278年マルヒフェルトの戦い (enでルドルフ1世が勝利し、この結果、ハプスブルク家は後に地盤となるオーストリアシュタイアーマルクを獲得している[106]

ルドルフ1世の死からカール4世即位までの時期はすべての国王選挙で異なる家門が選出されており、跳躍選挙Springende Wahlen)と呼ばれている。帝国西部へのフランスの進出によって旧ブルグンド王国への影響力が衰えた[107]。この影響力の衰退はイタリア(主にロンバルディアやトスカーナ)にも及んだ。

1291年にルドルフ1世が死去するとハプスブルク家の勢力伸長を警戒した諸侯は世襲を認めず、ナッサウ家アドルフを国王に選出した[108][109][104]。だが、アドルフは1298年に廃位されてしまい、再びハプスブルク家の国王が選出されてルドルフ1世の子のアルブレヒト1世が即位するが、1308年に一族の者によって暗殺されている。

代わってルクセンブルク家ハインリヒ7世が国王に選出された。皇帝権の再建を企図する[110]ハインリヒ7世は1310年から1313年にかけてイタリア遠征を行い帝国のイタリア政策を再興した。ハインリヒ7世は1312年にフリードリヒ2世以降初めてローマで皇帝戴冠をなしたが、1309年に教皇庁はローマの政争から逃れるために南フランスのアヴィニョンへ動座しており(アヴィニョン捕囚)、教皇ではなく枢機卿の手で戴冠されている[111]

ルートヴィヒ4世
ミュンヘン聖母教会 (en

教皇と帝国の間のキリスト教社会自体の支配を巡る対立はルートヴィヒ4世の治世に再燃している[112]。1313年にハインリヒ7世が死去すると諸侯は二つの党派に分裂してハプスブルク家のフリードリヒ(美王)とヴィッテルスバッハ家のバイエルン公ルートヴィヒが選出され、8年の戦争の後にルートヴィヒ4世が勝利したが、進取的で権威主義者の教皇ヨハネス22世はこの状況を利用すべく、教皇の認可のない「バイエルン人ルートヴィヒ」の国王選出を無効であると宣言した[113]。ヨハネス22世は教皇は皇帝が不在の間の帝国のイタリア地方における代理人であると主張し、ナポリ王ロベルトをトスカナの代官に任命する。ルートヴィヒ4世は上訴を行い、国王権力の独立を主張して教皇の異端を告発し、これに対しヨハネス22世は破門で応じた。1328年、ルートヴィヒ4世はイタリア遠征を敢行してローマを占領し、パドヴァのマルシリウスの人民主権論『平和の擁護者』を理論根拠に教皇ではなくローマ人民の名で皇帝に戴冠した[114]。皇帝と教皇の紛争はフランシスコ会オッカムのウィリアムや同会聖霊派の清貧論争や教皇世俗支配問題と結びつき、神学と政学の論争を引き起こしている[115]

紛争が長期化した1338年、6人の選帝侯がレンスで会議を開き、選帝侯による選挙によってのみ国王は選出されると議決して、教皇からの承認の必要性を拒否した(レンス判告)[116][117]。ルートヴィヒ4世はこれを受けて帝国法「リケット・ユーリス」(Licet iuris)と皇帝命令書「フィデム・カトリカム」(Fidem catholicam)を発布して、教皇絶対権を否定し、選挙によって国王に選出された者が直ちに「真のローマ王にして皇帝」になると規定した[118][119]

1346年チロル伯爵領での強引な家門拡大策で教皇から破門を受けたルートヴィヒ4世は廃位され[120]、ルクセンブルク家のカール4世が選出された。カール4世は即位に際して教皇にかなりの譲歩を行い、1355年にローマで皇帝戴冠を行った[121]。中世後期の皇帝たちは帝国ドイツ部分の統治に専念するようになり、自らの領地の利害をより重視するようになっており[1]、ボヘミア王でもあるカール4世はその典型であった[122]

金印勅書

1356年、カール4世は国王選出の際にほとんど必ず発生して帝国の威信を傷つけてきた紛争を避けるために金印勅書bulla aurea)を発布した。帝国初の基本法と見なされるこの勅書によって7人の選帝侯による選挙方式が定められ、国王は過半数の得票で選出されて直ちに皇帝になると見なされ、これによって教皇の介入を排除することができた[123][124]。また、選帝侯領の世襲制と領地不可分が確認され、裁判権や関税権、貨幣鋳造権などの諸特権が認められた[123][124]。その他、帝国議会Reichstag)の成文化、私闘(フェーデ)の禁止や諸侯の利益に反する都市同盟の結成の禁止なども含まれている[125]

カール4世の時代にヨーロッパの人口の3分の1が犠牲になったとされる黒死病(ペスト)の大流行が発生している[126]。ドイツでは1350年に発生し、14世紀末まで断続的に続いた[127]。この際にドイツ各地で宗教的集団ヒステリーによるポグロム(ユダヤ人虐殺)が発生して多数のユダヤ人が犠牲となり、カール4世はこれを阻止しえず、却って助長することまでしている[128][129]

この時期、商人ハンザから都市ハンザが成立し(ハンザ同盟[130]、やがて北ヨーロッパにおける巨大勢力へと成長することになる。1241年に結成されたこの同盟はハンブルクリューベックリガそしてノヴゴロドを含み、15世紀には200におよぶ都市が加盟していた[131]。当時、ハンザ同盟は主要な政治的アクターとなっており、デンマークと戦って勝利しバルト海における覇権を認めさせるまでになっていた(シュトラールズントの和約[132]。同時期、シュヴァーベン公に併合されることを恐れた諸都市がシュヴァーベン都市同盟 (enを結成している。シュヴァーベンはライン川とドナウ川が合流し、アルプス山脈を通ってポー川流域につながるヨーロッパ全域を結ぶ中心地に位置していた。カール4世は世襲工作の資金調達のために自ら金印勅書に違反してまで、この同盟を許して諸侯を憤慨させている[133]

1378年にカール4世は死去し、息子のヴェンツェルが国王に選出されたが、諸侯と対立して1400年に選帝侯たちによって廃位されてしまう[134]。代わってヴィッテルスバッハ家のプファルツ選帝侯ループレヒトが国王に選出された。効果的な統治を行うには彼の権力基盤は弱体でありすぎ、加えてヴェンツェルは王位を失うことを認めていなかった[135]

1410年にループレヒトが死去するとルクセンブルク家最後の皇帝となるハンガリー王ジギスムント(ヴェンツェルの異母弟)が選出された。当時、1378年教会大分裂(シマス)による政教問題が持ち上がっており、ジギスムント即位の時点で3人の教皇が鼎立する異常な状態になっていた。ジギスムントはシマスを解消すべく介入し、1414年コンスタンツ公会議(1414年-1418年)を開催させた。公会議によって3人の教皇いずれもが廃位・辞任させられ、新たにマルティヌス5世が選出されてシマスは除去された。しかし、この公会議でボヘミアの教会改革派ヤン・フス異端者として火刑に処したことで、フス派が武装蜂起しフス戦争1419年-1436年)を引き起こすことになった。ジギスムント(1419年からボヘミア王を兼ねる)は1431年まで5回にわたる十字軍を派遣するが連敗を喫した[136]。宗教戦争はフス派の内紛により過激派タボル派が壊滅したことで終結するが[136]、ジギスムントの地盤であるボヘミアは荒廃し、ルクセンブルク家の手から離れた[137]

1437年にジギスムントが死去するとルクセンブルク家の帝位は終焉した。帝位はハプスブルク家へ渡り、帝国が消滅するまで同家が事実上独占することとなった[nb 2]

帝国改造

フリードリヒ3世

ハプスブルク家はスイス誓約同盟 (enとの戦争に敗れて発祥の地は事実上失ったが、東方では家領を増やしてオーストリア公領、シュタイヤーマルク公領、ケルンテン公領クライン公領 (en、チロル伯領を獲得していた[138]。また、ルドルフ4世(建設公)の時に特許状を偽造して「大公」(Erzherzog)を自称し、カール4世に黙認させている[nb 6]

1437年、ジギスムントの娘婿でハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒト2世が選出されるが(ボヘミア王とハンガリー王も相続[139])、僅か1年ほどで急死してしまう。代わって従兄弟のシュタイヤーマルク公フリードリヒ5世が選出された(フリードリヒ3世)。フリードリヒ3世は「帝国第一の就寝帽」[nb 7]と評されるほどの無能な人物だったが[140][141]、歴代最長の53年の治世となり、その長寿と婚姻政策の成功によって結果的にハプスブルク家発展の道を開くことになった[142][143][144]。フリードリヒ3世の治世に帝国の領域をドイツに限定する意味で、国名に「ドイツ国民の」(Deutscher Nation)を付け始めている[145]

1453年コンスタンティノープルが陥落してオスマン帝国の脅威が迫るとフリードリヒ3世は帝国会議を開いて諸侯に戦費調達を要請した。諸侯はこの機会に帝国裁判所 (Reichskammergerichtの設置を要求したが、皇帝に不利な内容だったため彼はこれを拒否している[146]1455年、フリードリヒ3世はローマで皇帝戴冠をなし、彼がローマで戴冠式を挙行した最後の皇帝となった。

マクシミリアン1世

1457年にオーストリア公、ボヘミア王、ハンガリー王を兼ねるアルブレヒト2世の子のラディスラウス・ポストゥムスが死去し、オーストリアはハプスブルク家が確保したが、ボヘミアとハンガリーはその手から離れた。1485年にはハンガリー王マーチャーシュ1世がオーストリアへ攻め込み、ウィーンを占領される事態に陥る。救援を要請したフリードリヒ3世に対して諸侯は嫡男ブルゴーニュ公マクシミリアンへのドイツ王譲位を要求し[146]、翌1486年、マクシミリアンはドイツ王(ローマ王)に即位した(マクシミリアン1世)。1493年にフリードリヒ3世は死去してマクシミリアン1世が単独統治者となる。

マクシミリアン1世は亡妻ブルゴーニュ女公マリー1482年没)の遺領相続を主張してフランス王ルイ11世と敵対していた。彼は単独統治開始直後の1494年ミラノ公女ビアンカ・マリア・スフォルツァと再婚し、ミラノ公国の支配を巡って当時イタリア半島に侵攻していたフランス王シャルル8世との戦争状態に入った(イタリア戦争)。

1495年、マクシミリアン1世はヴォルムスで帝国議会を開催して諸邦の代表に対して軍資金だけでなく、帝国税の導入と兵士の提供を求めた。当時、解体しつつある帝国に新体制を構築しようとする動きがあり、この改革の基本的な考えは、主にニコラウス・クザーヌスによって提唱された皇帝と帝国等族 (enとの政治的協調論に基づいている。マインツ大司教ベルトルト・フォン・ヘンネブルク (enを中心とした代表たちは一般帝国税(Gemeiner Pfennig)の導入には基本的に同意したが、同時に諸改革案を提案し、マクシミリン1世は妥協してこれに同意した[146]。その後、1500年アウクスブルク帝国議会、1512年のケルン帝国議会でも改革が決議された。以下の骨子のこれらの諸改革を一般に帝国改造Reichsreform)と呼ぶ。

  1. 永久ラント平和令(Ewiger Landfriede)の制定 :帝国に単一の法体系を確立して武力行使の合法性を独占(Gewaltmonopol des Staates)し、封臣間の政治的争いを解決する手段としての私闘(フェーデ)を禁止する。
  2. 帝国最高法院Reichskammergericht)の設置:上記に関連する機関としての帝国全領域における最高裁判所で、帝国行政府の長としての皇帝個人から管轄権を分離していた。マクシミリアン1世はこれと並存する帝国宮内法院 (Reichshofratを1497年に設置して対応した。帝国裁判所はフランクフルト・アム・マインに置かれ、1523年シュパイアーへ移転し、最終的に1693年ヴェッツラーに落ち着いた。
  3. 帝国統治院Reichsregiment)の設置:扱いづらく旧態然としており、これまで充分な影響力を持ち得なかった帝国会議(Reichstag)に代わることを意図した帝国行政府。20人の聖俗諸侯と帝国自由都市の代表からなり、皇帝の財政と外交を司る。当初、マクシミリアン1世は自らの権力の制限を拒否しており、諸邦がランツクネヒト(傭兵:Landsknecht)を彼に提供することに同意した後に開かれた1500年のアウクスブルク帝国会議まで承認しなかった。しかしながら、その僅か2年後の1502年に廃止されている。
  4. 帝国クライスReichskreise)の設置:クライス議会Kreistage)を有する6管区(1512年以降は10管区)。クライスは元々は1500年から設立された帝国最高法院の選挙区を意味し、1512年に治安維持機能が付与され、各管区は永久ラント平和令の施行や徴税そして軍隊の編成をより効率的に管理運営することを目的とした。

しかしながら。新しい法令が普遍的に受け入れられて新裁判所が機能し始めるのには、なお数十年を必要とした。

1508年、マクシミリアン1世はローマでの教皇の手による戴冠を受けることなく皇帝を称し、以後、皇帝はローマでの戴冠を必要としなくなる[147]。1512年のケルン帝国議会から「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)の国名が公文書で用いられ始めた[148]

近世

カール5世の世界帝国と宗教改革

カール5世時代のハプスブルク帝国。
  カスティーリャ
  アラゴン
  ブルゴーニュ
  オーストリア
  神聖ローマ帝国の境界

16世紀に入ったこの時期、フランス、イングランドスペインでは中央集権化が進められていたが[149]、既述の通りにドイツでは逆に諸侯の特権が強化される傾向にあった。

マクシミリアン1世は嫡子ブルゴーニュ公フィリップ(美公)をカスティーリャアラゴン(以後スペインと記す)王家の王女フアナと結婚させ、1500年に二人の間に嫡子カールが生まれた。カールは父フィリップの死去(1506年)によってブルゴーニュ公(領地はブルゴーニュの一部とネーデルラント)を継承し、1516年には母方の祖父のスペイン王フェルナンド2世の死去により、祖父の有していたスペイン王、ナポリ王、シチリア王等の称号を継承する。母フアナとの共同統治であったが、フアナは精神障害のために政務が執れず[150]、実質的にはカールの単独統治となった(スペイン王カルロス1世)[151]

1519年に父方の祖父である皇帝マクシミリアン1世が死去した。カールはフランス王フランソワ1世との選挙戦に勝ち、皇帝に選出された(神聖ローマ皇帝カール5世)。1526年には弟のオーストリア大公フェルディナント1世がハンガリー=ボヘミア王位を継承しており、こうしてハプスブルク家はスペイン、ドイツ、ネーデルラント、ナポリ=シチリア、サルデーニャ、オーストリア、ハンガリー=ボヘミアそして広大なスペインの新大陸領土を治める「普遍的君主制」[152]monarchia universalis)に君臨することになった。だが、ドイツではカール5世の治世に神聖ローマ帝国の解体を決定的にさせる事態が生じる。

カール5世が神聖ローマ帝国を統治し始める以前の1517年マルティン・ルターヴィッテンベルク大学で発表した『95ヶ条の論題』が宗教改革の発端となった[153]。ローマ・カトリック教会の大きな財源となっていた贖宥状の効力に疑義を呈するこの論題は活版印刷の普及もあってドイツ各地に広まって大きな反響を呼び[154]、事態を憂慮した教皇レオ10世はルターにローマ出頭を命じるが、ルターは領主であるザクセン選帝侯フリードリヒ3世(賢公)の庇護を受けてこれに応じなかった。ドイツ内のアウクスブルクとライプツィヒで行われた異端審問でルターは教皇庁側と決裂した[155]1520年にルターは『ドイツ貴族に与える書』、『教会のバビロニア捕囚』、『キリスト者の自由』を発表し(三大宗教改革論)、これに対して教皇庁はルターに破門を通告する勅書を送って自説の撤回を迫る。ルターはヴィッテンベルクの公衆の前で、この勅書を燃やして答えた。

ヴォルムス帝国議会におけるルター

1520年にカール5世はヴォルムス帝国議会を開き、先代マクシミリアン1世から引き継いだフランスとのイタリア戦争のために諸侯に妥協し、帝国統治院の再設置を承認させられた[156]。この帝国議会にルターが召喚されて審問を受けたが、彼は断固たる態度で自説の撤回を拒否した[157][158]。カール5世はヴォルムス勅令ドイツ語版を発してルターを帝国追放に処して著書を禁圧したが、ルターはフリードリヒ賢公に匿われ、ヴァルトブルク城新約聖書のドイツ語翻訳を成し遂げた[159]

ヴォルムス帝国議会が終わるとカール5世はスペインへ帰国し[160]、以後約10年間もドイツでは皇帝不在となる[161]1525年パヴィアの戦いで皇帝軍はフランス王フランソワ1世を捕虜とする大勝をおさめ、カール5世は北イタリアからフランス勢力を駆逐できた[162]。フランソワ1世は不利な内容のマドリード条約の締結を余儀なくされたが、解放され帰国するとこの条約を反故にしてしまい[163]、戦争はなおも継続し、更にスペインを脅威と感じた新教皇クレメンス10世がフランスに加担する事態まで生じる[164](第二次イタリア戦争)。この戦争の最中の1527年に皇帝軍による「ローマ劫掠」が発生し、ヨーロッパ精神世界に大きな衝撃を与えた[165][166]

カール5世
チチアン

一方、ドイツでは1521年から1524年にかけてルターの福音主義は大きく広がり[167]、ルターの支持者たちは独自解釈を始めて過激な改革運動が各地で引き起こされた[168]。また、スイスではチューリッヒ市フルドリッヒ・ツヴィングリが宗教改革運動を主導し、更にはより急進的な再洗礼派が現れてスイス諸州や南ドイツに波及している[169]1522年に宗教改革運動に乗じて地位回復を図った騎士階層が蜂起して騎士戦争が起こったが、短期間で諸侯連合軍に敗北した[170]。続いて、1524年から急進的な宗教改革を唱えるトマス・ミュンツァーらに主導された農民層が各地で蜂起してドイツ農民戦争が勃発する。農民たちは農奴制の廃止や司祭任免権の要求といった「12ヶ条の要求」を掲げた[171][172]。ルターは当初は農民、諸侯双方を非難したが、やがて諸侯の側に立ち農民反乱軍を激しく非難している[173][174][170][175]。統制を欠いた農民反乱軍は短期間で鎮圧され[170]、7~10万人が殺された[174]

農民戦争鎮圧を通して諸侯の権力は強まり[176]、以降ドイツにおける宗教改革は諸侯に主導される[170]。宗教改革は諸侯にとって教皇庁の支配から逃れられる政治的経済的メリットがあった[177]1528年までにドイツ騎士団ヘッセン方伯ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯マンスフェルト伯などの諸侯、そしてストラスブールフランクフルトニュルンベルクといった諸都市がルター派になっていた[178]ヘッセン方伯フィリップ1世ザクセン選帝侯ヨハンを中心とするルター派は教会改革を要求し、1529年シュパイエル帝国議会でヴォルムス勅令の実施が重ねて決定されると、ルター派の5人の諸侯と14の帝国都市が「抗議書」(Protestatio)を提出し、これにちなんでルター派をはじめとする教会改革派はプロテスタントと呼ばれるようになった[179]

この時期、オスマン帝国の脅威が神聖ローマ帝国へ迫っていた。1396年ニコポリスの戦いでハンガリー王ジギスムント率いる対オスマン十字軍が大敗を喫して以降、オスマン帝国はバルカン半島の支配を固めており[180]、1520年に即位したスルタンスレイマン1世はヨーロッパ進攻を開始した。彼はまずハンガリーを攻撃してベオグラードを奪取し、1526年のモハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世を戦死させる決定的勝利をおさめた。その後、カール5世の弟フェルディナントがハンガリー=ボヘミア王を継承したが、ハンガリーは中部のオスマン帝国占領地、西部のフェルディナントの支配する西ハンガリー王国そして東部は対立王を立てた現地諸侯にと各々支配され、いわゆる三分割時代となった[181]1529年にオスマン軍はウィーンを包囲する(第一次ウィーン包囲)。ウィーンは陥落を免れたが、この後もカール5世はオスマン帝国との戦いを強いられ、フランス王フランソワ1世がオスマン帝国と結んだためにより困難なものとなった[182][183][184]

ローマ劫掠後、フランス王フランソワ1世はイングランド王ヘンリー8世と盟約を結んでナポリへ侵攻したが、ジェノヴァが離反したため遠征は失敗に終わった[185]。フランスの形勢が悪化すると教皇クレメンス10世はカール5世と講和を結び、イングランド王ヘンリー8世もフランスを見離し始める[186]。1529年にカンブレーの和が結ばれ、フランスはイタリアにおける権益を放棄させられた[187]。イタリアにおける覇権を確立したカール5世は、1530年ボローニャにおいて教皇の手による皇帝戴冠式を挙行し、彼が教皇による戴冠を受けた最後の皇帝となった[188]

アウクスブルクの和議

アウクスブルク帝国議会(1530年

同年、カール5世は約10年ぶりにドイツ入りをし、宗教解決のためのアウクスブルク帝国議会を開催した。ルター派は弁証書としてフィリップ・メランヒトン起草による「アウクスブルク信仰告白」を提出したが、ツヴィングリやシュトラースブルクなどの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった[189]。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世はルターを帝国追放刑にしプロテスタントを異端とする1521年のヴォルムス勅令を暫定的とはいえ厳しく執行するよう命じた[189]

1531年に弟フェルディナンドをローマ王に推戴させて後継体制を固めるとカール5世は広大なハプスブルク帝国の統治のためにネーデルラント、ブルゴーニュへと居を移し、またオスマン帝国の脅威にも対処せねばならず、1535年には地中海を渡りチュニスにまで遠征している[190]1536年にフランス王フランソワ1世がミラノ公国継承を主張してイタリアに侵攻し、イタリア戦争が再開した[191]

一方、プロテスタントの帝国諸侯・諸都市はアウクスブルク帝国議会直後にシュマルカルデンに集まり、軍事同盟結成を協議し、翌1531年2月にヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とするシュマルカルデン同盟が結成された。宗教戦争が一触即発に迫ったが、カール5世は妥協し1532年にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された[192]。この宗教平和を境にプロテスタントは勢力を一気に拡大した[192]。南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが1534年に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、1539年にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派とは異なる改革派信仰が広がっていたが、教義上の問題で妥協し(ヴィッテンベルク一致信条)、プロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった[192]。カトリック諸侯の側もニュルンベルク同盟を結成し、プロテスタントに対抗した[193]

この時期、スイスでは新しい動きが起こっていた。1536年にプロテスタント神学の基礎と評価される[194]キリスト教綱要』を著わしたフランスの神学者ジャン・カルヴァンが亡命生活中に立ち寄ったジュネーブで教会改革に参与していた。カルヴァンは教会改革を強力に指導し、教会規則を定めて平信徒も加わる長老制を創始する[195]。彼の30年近くにわたる神権政治により、ジュネーブは福音主義の牙城となり、カルヴァン派はやがて一大勢力に成長することになる[196]

アウクスブルク宗教平和令
1555年マインツで印刷された版本の表紙

1544年にフランスとのクレピー条約 (enが締結されるとカール5世は一転ドイツ国内の問題に専心するようになった[197](オスマン帝国とは1547年に講和)。1546年にはルターが死去し、同年、プロテスタント陣営の盟主ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ(寛大公)の一族であるザクセン公モーリッツが選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた[198]。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題からカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた[199]。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年シュマルカルデン戦争をおこし、ミュールベルクの戦い (enでシュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「アウクスブルク仮信条協定」が帝国法として発布された。皇帝は西南ドイツの帝国都市のツンフト(職業団体)が宗教改革の温床であると考えてこれを解散させるなど強硬な政策を実施した[200]。カール5世の強硬な政策を見て、徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、嫡男フェリペにドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した[201][202]

このような情勢の中、プロテスタントから「マイセンのユダ」と呼ばれたザクセン選帝侯モーリッツが1552年にフランスと結んで反旗を翻して、インスブルックのカール5世を急襲する[203]。カール5世は敗北し、パッサウ条約によって「仮信条協定」は破棄された。この敗北からカール5世は弟のフェルディナントに宗教問題の解決を任せ、1555年のアウクスブルク帝国議会で、アウクスブルク宗教平和令が議決された。この平和令により「一つの支配あるところ、一つの宗教がある」(cujus regio, ejus religio)という原則のもとに諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制することができるという領邦教会制度が成立した[204]。ただしこの時点ではカルヴァン派・ツヴィングリ派・再洗礼派などは異端とされ、信仰の自由から除外された[205]

また、同帝国議会で発布された帝国執行令Reichsexekutionsordnung)は帝国クライスの役割の詳細を定め、フリードリヒ3世の時代からの一連の帝国改造運動を完了させた[206]。同令によって帝国クライスがラント平和維持を担いクライス台帳に基づき、帝国等族の兵役分担を定めることになった[207]。またクライスが帝国最高法院判決の執行を担うことになる[208]。皇帝が自らの責務を果たす能力がないことを示したため、平和維持の名目のもと、今や皇帝の役割は帝国クライスが引きうけることになった[209]

1556年、カール5世は弟ローマ王フェルディナンドに帝位(皇帝フェルディナント1世)を、嫡男フェリペにはスペイン王位(スペイン王フェリペ2世)をそれぞれ譲位し、ハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルクとスペイン・ハプスブルクとに分かれることになった。カール5世の内政および外交政策は最終的に失敗に終わった[210]

宗派対立

マクシミリアン2世

この時期、ルター派はザクセン選帝侯とブランデンブルク選帝侯[nb 8]をはじめとする北ドイツ一帯に広まっており、帝国領域外ではドイツ騎士団も改宗してプロイセン公国が成立し、デンマークスウェーデンもルター派を導入している[211]。一方、カルヴァン派は西部に浸透し、プファルツ選帝侯が改宗した。諸侯の数では依然としてカトリックが多かったが、人口ではプロテスタントが圧倒していた[212]

フェルディナント1世はプロテスタント諸侯に対して融和的な施策を取り[213]、1560年代前半まで大きな軍事的紛争を起こすことなく帝国を統治した。1564年にフェルディナント1世が死去すると、彼の息子マクシミリアン2世が皇帝になり、父と同様にプロテスタントの存在と時々の妥協の必要性を受け入れていた[nb 9]。スペインに対するオランダ人プロテスタントの反乱(八十年戦争)では帝国は中立を守っている。だが、この宗教融和は「単なる休戦」に過ぎなかった[214]

1570年代からイエズス会を尖兵とする反宗教改革がドイツに浸透し始めており、各地でカトリック勢力によるプロテスタント弾圧が行われた[215]。これに対して、プロテスタント勢力はルター派と西部ドイツに勢力を広げるカルヴァン派とが対立しており、カトリックに対して統一行動が取れない状態になっていた[216]1577年に選帝侯であるケルン大司教ゲープハルト・トゥルホゼス・フォン・ヴァルトブルク (enがカルヴァン派の女性と結婚するために改宗を表明し、これに反対して大司教罷免を強行するカトリック諸侯とのケルン戦争 (enが勃発するが、ルター派の多いプロテスタント諸侯はこれを傍観している[217][218]

ルドルフ2世

プロテスタントに寛容な[nb 9]マクシミリアン2世が1576年に死去すると、頑迷なカトリックである彼の息子ルドルフ2世[219]は父の政策を廃棄して帝国宮内法院と帝国最高法院の判事の過半数にカトリックを任命する[220][221]。帝国諸制度は次第に麻痺化し[221]1588年には既に帝国最高法院が機能しなくなっていた[222]。16世紀初めにはプロテスタント諸邦はもはやカトリックによって独占的に運営される帝国宮内法院を認めなくなり、事態はさらに悪化した。同時期、帝国クライスの選帝侯や諸侯は宗派によって集団を形成するようになっていた。1608年のレーゲンスブルク帝国議会は閉会宣言なく終了し [223]、カルヴァン派のプファルツ選帝侯とその他の出席者たちは皇帝が彼らの信仰を認めなかったために退席している。

同年、プファルツ選帝侯フリードリヒ4世を盟主に6人の諸侯がプロテスタント同盟Protestantische Union)を結成した[214]。その後、その他の都市や諸侯もこの同盟に加入する。当初、ザクセン選帝侯と北部諸侯は加盟を拒否したが、後にザクセン選帝侯も同意している。これに対して、翌1609年にカトリック諸侯がバイエルン公マクシミリアンを盟主とするカトリック連盟Katholische Liga)を結成した。連盟は帝国におけるカトリックの優位を守ることを目的としていた。帝国諸機関は麻痺状態となり、戦争は不可避となった[224]

一方、皇帝ルドルフ2世はプラハに引きこもって神秘諸術に耽る状態で、事態に対処する能力を持たなかった[225][226]。ルドルフ2世は不満を持った弟・マティアスと争って1608年にハンガリー王位を奪われ、ボヘミア・プロテスタント等族の支持を得るためにプロテスタントに信仰の自由を与える「勅許状」を出すが、マティアスに軟禁され1612年に死去した[227][228][nb 10]

帝位を継いだマティアスは宗教対立の仲裁を試みるが失敗に終わり、ボヘミア王位を一族のシュタイアーマルク公フェルディナントに譲らざるえなくなる[227]

三十年戦争

  三十年戦争関係地図
  プロテスタント多数派国・領邦
  スペイン・ハプスブルク
  オーストリア・ハプスブルク

①1620-1623:ボヘミアとプファルツ選帝侯の敗北。
②1625-1629:デンマーク王クリスチャン4世の介入。
③1630-1632:スウェーデン王グスタフ2世アドルフの介入。
④1635-1643:フランスの介入。
⑤1645-1648:テュレンヌ将軍とスウェーデンのドイツ戦役。

プラハ窓外投擲事件

ボヘミア王となったフェルディナント2世はイエズス会の教育を受けた厳格なカトリックであり、グフタス2世の「勅許状」を反故にしてボヘミアのプロテスタントに迫害を加えた[229]1618年、弾圧に反抗するボヘミア貴族がプラハ城に押し掛け、フェルディナントの代官2名と秘書官を城外に投げ落とす事件を起こした(プラハ窓外投擲事件)。この事件を契機にボヘミアで大規模な反乱が発生し、シレジアラウジッツそしてモラヴィアといったこれ以前からカトリックとプロテスタントに分裂していたボヘミア全土に広がる。1619年に皇帝マティアスの死去により、フェルディナント2世が皇帝に選出されるとほぼ同時にボヘミア貴族はカルヴァン派のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世(冬王)を新国王として迎えた[230]

フェルディナント2世はカトリック連盟のバイエルン公マクシミリアン1世のみならず、カルヴァン派を憎むルター派のザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の支持をも受けて反撃に転じた[231]1620年にプラハ郊外で行われた白山の戦いでボヘミア反乱軍はティリー伯ヨハン・セルクラエス率いる皇帝軍に大敗を喫した。プファルツへはスペイン軍が侵攻し、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世は没落して反乱軍は事実上瓦解した。ボヘミアではプロテスタントに対する徹底的な弾圧が行われ[232]、15世紀のフス派以降、プロテスタント諸派の勢力が根強かったこの国[233]を再びカトリックへ引き戻すことを確実にした[nb 11]

この事態にプロテスタントであるデンマーク国王クリスチャン4世が戦争への介入を決意する[nb 12]。クリスチャン4世は反ハプスブルク政策を取るフランスの宰相リシュリュー枢機卿の仲介により、プロテスタントのイギリス、オランダそしてスウェーデンとの対ハプスブルク同盟(ハーグ同盟)を結んだ[234]。デンマーク軍は1625年に帝国へ侵攻し、フェルディナント2世は窮地に陥る。皇帝を救ったのがボヘミア貴族で資産家でもあるアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインであった。彼は5万の傭兵軍を集めて皇帝に提供し、皇帝軍総司令官に任命された[235]。一方、プロテスタント陣営内では内部不和が生じており、デンマーク軍と別れたプロテスタント諸軍はヴァレンシュタインに各個撃破されてしまう[236]1626年、クリスチャン4世はルッターの戦いでティリー伯に大敗を喫した。以降、デンマーク軍は劣勢に陥り、1629年にリューベックの和約が締結されてデンマークは戦争から脱落した。

軍事的優位を確保したフェルディナント2世は帝国議会を無視する態度に出るとともに「復旧勅令」を布告して宗教改革以来、プロテスタントに没収された教会財産の返還を命じた[237]。復旧勅令の過激さとフェルディナント2世の絶対君主的な振る舞いはプロテスタント諸侯のみならず、カトリック諸侯からも反発を受ける[238][239]。皇帝軍を支えるヴァレンシュタインは強引な軍税徴発によって諸侯から憎まれており、彼らはヴァレンシュタイン罷免を強硬に要求し、フェルディナント2世もこれを受け入れざる得なくなった[240]

リュッツェンの戦い

ポーランドとの戦争に勝利したスウェーデン王グスタフ2世アドルフ1630年に帝国への介入に乗り出した。グスタフ2世アドルフはフランスからの軍資金援助を受けており[241]、軍制改革によって近代的徴兵軍となっていたスウェーデン軍を率いてポンメルンに上陸する[242]。当初、ザクセン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯をはじめとするプロテスタント諸侯はスウェーデンへの加担を躊躇っていたが、皇帝軍総司令官ティリー伯によるマクデブルク略奪が起こるとスウェーデンとの連合に踏み切った[243]。グスタフ2世アドルフはブライテンフェルトの戦いレヒ川の戦いで皇帝軍を連破してティリー伯を戦死させた。スウェーデン軍はバイエルンの首都ミュンヘンを陥れる。

再び窮地に陥ったフェルディナント2世はヴァレンシュタインに皇帝軍最高司令官復帰を要請し、ヴァレンシュタインは皇帝から有利な条件を引き出した上でこれを承諾した[244]。グスタフ2世アドルフとヴァレンシュタインとの決戦は1632年リュッツェンの戦いで行われた。戦闘ではスウェーデン軍が勝利したもののグスタフ2世アドルフは戦死しており、事実上の痛み分けで終わった[245]。その後もヴァレンシュタインは皇帝軍最高司令官の地位に留まり隠然たる勢力を保っていたが、1634年にフェルディナント2世から反逆を疑われ、暗殺されている[246][247]

国王を失ったスウェーデン軍はなおもドイツに留まり戦争を継続したが、1634年ネルトリンゲンの戦いで皇帝軍に敗れた。この敗戦で打撃を受けたザクセン選帝侯をはじめとするプロテスタント諸侯の大半は翌1635年に復旧勅令の撤回を条件とするプラハ条約を締結して皇帝に帰順した[248]。これによって孤立したスウェーデンは窮地に陥るが、プラハ条約発表直前に、これまで間接的な参戦に留まっていたフランスがスペインおよび皇帝に対する本格参戦に踏み切った[249]1637年にフェルディナント2世は死去して嫡男フェルディナント3世が帝位を継承した。戦争はなお10年以上続き、決定的な戦闘こそなかったものの戦況は次第にフランス、スウェーデン優位に傾き、スペインは国内事情の悪化から介入を続ける余力を失い、帝国諸侯も脱落し始める[250]

ミュンスターにおけるヴェストファーレン条約締結
ヘラルト・テル・ボルフ

1642年にリシュリュー枢機卿が死去し、それから5か月後にフランス王ルイ13世も死去しており、僅か4歳のルイ14世が即位してマザラン枢機卿が宰相となった。マザラン枢機卿は戦争終結に動き、1648年にミュンスター講和条約およびオスナブリュック講和条約(総称してヴェストファーレン条約)が締結されて戦争は終わった。

同条約により、カルヴァン派が公式に容認され、領民は領主と異なる信仰を持つことが認められた(ハプスブルク世襲領は除く)[251]。全ての領邦には選帝侯と同等の領邦高権Landeshoheit国家主権に近い権利)が与えられ、帝国に敵対する同盟を結ぶことができないなど依然として幾つかの制約はあったが外交権まで加わっていた[251][252][253]。また、ザクセン公が選帝侯に加えられている。一方、皇帝の権限は帝国議会によって大きく制限されることになる[251]

加えて、事実上の独立状態にあったスイス連邦と北ネーデルラント(オランダ)が帝国から離脱した[252]。フランスはエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)を獲得、スウェーデンは西ポメラニアをはじめとする北ドイツの領土を獲得して戦後における大国の地位を確保した(バルト帝国)。

これらによって、皇帝の有名無実化と帝国の解体が決定的になったとして同条約は一般に「帝国の死亡証明書」といわれる[254][255]。しかしながら、近年のドイツ史学では統一された国民国家を到達点とする従来の歴史観から離れ、ヴェストファーレン条約によりドイツにおいては平和的な仲裁により宗派対立を解決する体制が確立されたとする研究もある[9]

この戦争によって引き起こされた破壊の規模は歴史家の間で長い間論議されてきた[256]。従来はドイツ人口が30-40%減少し、経済水準が回復するまでに200年を必要としたとされてきたが、この見積もりについては現在では疑問視されている[257][258]

近代

オーストリアとプロイセン

ヴェストファーレン条約後の神聖ローマ帝国
  プファルツ選帝侯領
  バイエルン選帝侯領
  ブランデンブルク選帝侯領
  オーストリア・ハプスブルク領
  スペイン・ハプスブルク領

ヴェストファーレン条約によって帝国は300以上の領邦国家と帝国自由都市の集合体となり[259]、その中には極めて小規模な領邦も存在していた。一方、ハプスブルク家はオーストリアその他の世襲公領とボヘミア王国、西ハンガリー王国との同君連合を統治し、このハプスブルク君主国における絶対主義国家形成へと向かう(オーストリア絶対主義)[260]

レオポルト1世

1657年にフェルディナント3世が死去するが、皇位継承者だったローマ王フェルディナント4世は父に先立って既に死去していた。皇帝選挙ではマザラン枢機卿がハプスブルク家を排除してフランス王ルイ14世を将来の皇帝とすべく、中継ぎとしてバイエルン選帝侯フェルディナント・マリアを推す動きもあったが、結局、フェルディナント3世の次男レオポルト1世が選出された[261][262]。しかしながら、この為にレオポルト1世は選挙協約で諸侯に対するより一層の譲歩を余儀なくされている[263]

1663年にレーゲンスブルク帝国議会が開催されたが、この帝国議会は以降、議決も散会もされずに帝国が消滅するまで継続して「永続的帝国議会」(Immerwahrender Reichstag)と呼ばれるようになり、諸侯の使節会議と化してしまった[264][265]

レオポルト1世の治世、帝国は度重なるルイ14世の領土的野心とオスマン帝国の脅威に直面している。1667年に始まった一連のネーデルラント継承戦争(帰属戦争、オランダ侵略戦争)でフランスはスペイン、ネーデルラントそして神聖ローマ帝国に戦いを仕掛け、ナイメーヘンの和約でスペインからフランシュ=コンテ、帝国からはフライブルクその他の領土を獲得し、その後、ルイ14世は東部国境地帯の「再統合」を推し進め、1681年にはシュトラースブルク(ストラスブール)を占領した[266]

1683年、ルイ14世からの中立の約束を得たオスマン帝国が軍事行動を起こし、20万の兵力をもってウィーンを包囲した(第二次ウィーン包囲[267]。オーストリア軍は包囲戦を耐え抜き、到着したポーランド王ヤン3世やドイツ諸邦の援軍がオスマン帝国軍を決定的に打ち破った。その後もオスマン帝国との戦争は16年に渡り続くが、1697年プリンツ・オイゲン率いる帝国軍がゼンタの戦いで大勝して勝敗は決した[268]1699年カルロヴィッツ条約が結ばれてオスマン帝国はヨーロッパ領土の割譲を余儀なくされ、オーストリアはオスマン帝国領ハンガリートランシルヴァニアスロヴェニアクロアチアを獲得した[269]

ルイ14世

一方、ルイ14世はオーストリアとオスマン帝国との戦いに乗じて1688年にプファルツ選帝侯領へ侵攻して多大な被害をもたらした(プファルツ継承戦争[270]。だが、フランスはオーストリア、ドイツ諸侯、スペイン、オランダそしてイギリスを敵とすることになり、戦争は長期化して1697年に終結したが、フランスはプファルツのみならず、以前の戦争で獲得した領土の大半を放棄せざる得なくなった[271]

この時期のスペイン王カルロス2世は生来病弱の上に子がなく、スペイン・ハプスブルク家は断絶しようとしていた[272]。レオポルト1世のオーストリア・ハプスブルク家、そしてルイ14世のブルボン家ともに有力な王位継承権を有しており[273]、スペイン王位継承を巡る対立が高まる中、カルロス2世はルイ14世の孫アンジュー公フィリップを後継者に指名した。1700年にカルロス2世が死去するとルイ14世はアンジュー公フィリップのスペイン王継承に同意するが(スペイン王フェリペ5世)、オーストリア、イギリスを初めとする諸国がこれに反対してスペイン継承戦争が勃発する。この戦争では帝国諸侯のほとんどが皇帝軍に加わったが、ケルン大司教ヨーゼフ・クレメンス (enバイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルがフランスに味方して皇帝軍と戦っている[274]ブレンハイムの戦いでオーストリア=イギリス軍はフランス=バイエルン軍に勝利するものの、戦争は膠着状態に陥り、1713年1714年にそれぞれユトレヒト条約ラシュタット条約が締結され、各国がフェリペ5世の王位を承認する見返りにスペインが多くの領土を割譲することで終わっている[275]。オーストリアはスペイン領ネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルデーニャを獲得した。レオポルト1世は戦争中の1705年に死去しており、ルイ14世も戦争終結から程ない1715年に死去した。

この時代、聖俗諸侯領では絶対主義化が進行していた[276][277]。フランスやオスマン帝国の脅威を受けていた中小領邦はその存立を守護する存在としての帝国国制を必要としていた[278]。特に西南ドイツでは帝国クライスが地域自治機関として機能しており、クライス議会が活発に活動し、クライス軍制はその防衛機能をある程度だが果たしている[278]

ブランデンブルク=プロイセンの拡大(1600-1795)
  ブランデンブルク選帝侯領(1600年)
  プロシア公領(1600年)
  1772年までに獲得した領土
  ポーランド分割(1772-1795)で獲得した領土

ハプスブルク家のオーストリアがフランスやオスマン帝国との戦争を行いつつ大国としての地位を固めている間に、帝国内ではブランデンブルク=プロイセンが台頭し始めていた。1618年プロシア公領とブランデンブルク辺境伯領との同君連合が成立したホーエンツォレルン家のブランデンブルク=プロイセンはフリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)の治世にヴェストファーレン条約によって東ポメラニアを獲得し、戦後はポーランド王国の影響力を排除するとともに等族との対決に打ち勝って絶対主義に基づく統治体制を構築していた[279]。そして、1701年フリードリヒ1世はスペイン継承戦争でオーストリアに味方する見返りに帝国領域外での戴冠の承認を受け「プロイセンの王」(König in Preußen)を名乗る[280]。次代のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(兵隊王)は軍制改革を実施してプロイセン王国を軍事国家となさしめた[281]

この時期、プロイセン=ブランデンブルク以外にもザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世ポーランド・リトアニア共和国の王位(アウグスト2世)をハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒがイギリス王位(ジョージ1世)をそれぞれ帝国領域外で獲得している。

スペイン継承戦争と並行して東方では大北方戦争(1700年 - 1721年)が行われており、スウェーデンと北方同盟諸国(ロシア、ザクセン=ポーランド=リトアニア、デンマーク=ノルウェー:後にプロイセン、ハノファー=イギリスが加わる)とが戦い、ザクセン選帝侯領やスウェーデン領ポメラニアなど帝国領域も戦場になった。戦争はスウェーデンの敗北に終わり、勝利したロシアのツアーリ・ピョートル1世1721年に皇帝(インペラトル)を名乗り、ロシア帝国が成立した。ロシア皇帝は東ローマ皇帝の後継者を主張しており[282]、1453年に東ローマ帝国が滅亡して以来、約300年ぶりにキリスト教世界に二人の皇帝が並び立つこととなった。

ヨーゼフ1世の短い在位を経て1711年に即位したカール6世は対外戦争によってハプスブルク家の領土を拡大したが、唯一の男子が夭逝して女子しか子がなく、この為、カール6世は皇女マリア・テレジアを後継者とすべく国事詔書Pragmatische Sanktion)を出し、諸国にこれを認めさせるために多くの外交的・領土的な譲歩をしている[283]

マリア・テレジア(左)とプロイセン王フリードリヒ2世(右)

だが、1740年にカール6世が死去するとフランス王ルイ15世プロイセン王フリードリヒ2世(大王)を初めとする諸国がマリア・テレジアのハプスブルク家世襲領継承に異議を唱えオーストリア継承戦争が勃発した。また、帝国法は女子の皇帝を認めておらず、このためハプスブルク家はマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンの皇帝選出を目論んでいたが、選出されたのはフランスと結んだバイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(ヴィッテルスバッハ家)であった[284]1742年にカール・アルブレヒトは神聖ローマ皇帝カール7世として即位し、彼が1437年に即位したアルブレヒト2世以降、唯一のハプスブルク家以外の皇帝である。だが、即位の直後にバイエルンの首都ミュンヘンをオーストリアに占領され、カール7世はフランスの支援が十分に得られないまま各地を転戦するうちに僅か3年の在位で1745年に死去した[284]。オーストリアとバイエルンとの和議が成立して次の皇帝にはマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンが選出された(神聖ローマ皇帝フランツ1世)。1748年アーヘンの和約が成立してマリア・テレジアはハプスブルク家世襲領継承を承認させることに成功したが、シュレジエンをプロイセンに割譲せねばならなかった。

英明な君主であったマリア・テレジアはオーストリアの内政改革を進める一方[285]、シュレジエンを奪回するべく外交を展開してロシア、ザクセンそして長年の宿敵だったフランスとの同盟を成立させ対プロイセン包囲網を構築した(外交革命[286]1756年に勃発した七年戦争でイギリスと同盟したフリードリヒ2世は圧倒的な国力の差にもかかわらず幾つかの戦いで勝利して持ちこたえるが、1761年にはイギリスの援助が打ち切られ苦境に陥った[287]。だが、1762年にフリードリヒ2世の信奉者だったピョートル3世がロシア皇帝に即位するとロシアは戦線を離脱し、フリードリヒ2世は危機を脱した[288]。オーストリア、プロイセンそしてザクセンとの間で1763年に締結されたフベルトゥスブルク条約により、プロイセンはシュレジエンを確保してヨーロッパの列強にのし上がる。これがドイツの覇権をめぐるオーストリアとプロイセンの対立の始まりとなった(ドイツ二元主義[288]

フランツ1世は1765年に死去し、後を継いで皇帝に即位した嫡男ヨーゼフ2世は母マリア・テレジアとハプスブルク君主国の共同統治に入った。マリア・テレジアとヨーゼフ2世は啓蒙的諸政策を実施して、オーストリアにおける「啓蒙専制主義」を確立した[289]

1780年にマリア・テレジアが死去して単独統治に入ったヨーゼフ2世は宗教寛容令や修道院の廃止、死刑制度の廃止といった急進的な啓蒙諸改革(ヨーゼフ主義)を実施するも、反発を受け治世の晩年にはその大部分の撤回を余儀なくされている[290]

オーストリアとプロイセンは1772年にポーランド分割を行って領土を拡張させており、ヨーゼフ2世は更にバイエルン選帝侯領獲得を企て、1777年バイエルン継承戦争を起こすが、プロイセンの干渉によって一部の領土を獲得したに留まった[291]。ヨーゼフ2世は尚もバイエルン獲得を諦めなかったが、プロイセン、ザクセン、ハノーファーに諸小邦が加わって「帝国国制の維持」を掲げる「君侯同盟」(Fürstenbund)を結成し、ヨーゼフ2世の企てを挫折させた[292]。ヨーゼフ2世は1790年に死去し、弟のレオポルト2世が帝位を継承した。

フランス革命と帝国消滅

1789年時点の神聖ローマ帝国。ハプスブルク君主国(茶色)とプロイセン王国(青)が過半を占め、その他の中小領邦国家を取りまいている。

1789年フランス革命が勃発した。当初、諸外国は武力干渉を控えていたが、1791年フランス王ルイ16世マリー・アントワネットの国外逃亡失敗事件(ヴァレンヌ事件)が起こると、皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世はフランスにおける王権復旧を要求する宣言(ピルニッツ宣言)を発し、これに対してフランス革命政府は宣戦布告で応じた(フランス革命戦争[nb 13]。レオポルト2世は開戦直前に死去しており、フランツ2世が皇帝に選出された。

オーストリア=プロイセン軍はフランス軍に進撃を阻まれて反攻を受け、1795年までにフランス軍はオーストリア領ネーデルラントとライン川西岸を制圧し、プロイセンは戦争から脱落した[293]。オーストリアは戦争を継続したが、イタリアでナポレオン・ボナパルトに敗れ(イタリア戦役)、1797年カンポ・フォルミオ条約の締結を余儀なくされた。同条約により、オーストリアはヴェネチアを獲得したものの、ミラノの放棄とオーストリア領ネーデルラントの喪失を承認させられた。

『アルプス越えのナポレオン』
ダヴィッド

1799年第二次対仏大同盟が結ばれて戦争が再開したが、ブリュメールのクーデターで権力を掌握したナポレオンがアルプス越えを敢行してマレンゴの戦いでオーストリア軍を撃破し、戦争は1802年リュネヴィルの和約により終結し、フランツ2世はフランスによるライン川西岸地域の併合を承認させられた。

リュネヴィルの和約でナポレオンはフランス併合地域の代替地をプロイセンその他の諸侯に提供するよう要求し、これを受けて帝国は1803年にレーゲンスブルク帝国議会の代表者会議を開催して帝国諸邦の再編成を決議した(帝国代表者会議主要決議Reichsdeputationshauptschluss)。これによってマインツ大司教以外のすべての聖界諸侯領の俗界諸侯領への併合(世俗化 (en)および小規模領邦国家と帝国都市の廃止と大諸侯領への編入(陪臣化 (en)が進められ、西南ドイツに新たな幾つかの中規模国家が成立した[294]。また、プロイセンは北西ドイツの領土を獲得している。

1804年5月18日、フランス共和国政府は元老院令を発して共和国を世襲皇帝に委ねると宣言し、ナポレオンはフランス皇帝Empereur des Français)を称した[295](戴冠式は12月2日)。フランス皇帝は神聖ローマ皇帝やロシア皇帝と異なり、もはや古代ローマ帝国との理念・歴史的関連性を持たない皇帝である[282]。これに対して、フランツ2世はハプスブルク家世襲領と皇帝の称号を守るべく、8月11日に神聖ローマ皇帝とは別のオーストリア皇帝Kaiser von Österreich)を称した(オーストリア皇帝フランツ1世)[296]

1805年第三次対仏大同盟戦争が始まった。オーストリア主力軍はウルムでナポレオンの罠に陥って降伏し、フランス軍はウィーンを占領した。フランス軍は追撃を行い、アウステルリッツでフランツ2世とロシア皇帝アレクサンドル1世の率いるオーストリア=ロシア連合軍と会戦して勝利した(三帝会戦)。プレスブルクの和約でオーストリアはヴェネチア、チロルの割譲とバイエルンヴュルテンベルクの王国、バーデンの大公国への昇格を認めさせられる。

最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世(左)と退位宣言書(右)

中小帝国領邦はナポレオンを「守護者」とすることを決め、1806年7月にバイエルン、ヴュルテンベルクを初めとする帝国16領邦がマインツ大司教ダールベルクを首座大司教侯とするライン同盟を結成して帝国脱退を宣言した。

ここに至り、フランツ2世は8月6日にドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝)退位と帝国の解散を宣言する。

朕はライン同盟の結成によって皇帝の権威と責務は消滅したものと確信するに至った。それ故に朕は帝国に対する全ての義務から解放されたと見なし、これにより、朕とドイツ帝国との関係は解消するものであるとここに宣言する。

これに伴い、朕は帝国の法的指導者として選帝侯、諸侯そして等族その他全ての帝国の構成員、すなわち帝国最高法院そしてその他の帝国官吏の帝国法によって定められた義務を解除する。

— フランツ2世のドイツ皇帝退位宣言―1806年8月6日(全文は左記リンク)

ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の消滅後もオーストリア皇帝、ハンガリー王としてオーストリア=ハンガリー帝国第一次世界大戦の敗北により、瓦解するまで統治し続けた

ナポレオンの敗北により始まったウィーン体制により、1815年にオーストリア、プロイセンを含むドイツ諸邦39カ国によって構成されるドイツ連邦が成立した。ドイツ統一を巡るオーストリアとプロイセンの対立は19世紀後半まで続いたが、1866年普墺戦争でのプロイセンの勝利によってドイツ連邦は解体され、翌1867年に新たにオーストリアと南ドイツ4カ国を除いた北ドイツ連邦が成立した。

オーストリアを除くドイツ諸邦が統一されるのは、普仏戦争でプロイセンと南北ドイツ諸邦がフランス帝国に勝利し、プロイセン王ヴィルヘルム1世ヴェルサイユ宮殿で皇帝に即位してドイツ帝国Deutsches Kaiserreich)が成立する1871年1月18日のことである。

国制

神聖ローマ帝国は今日の国々のような高度に中央集権化された国家ではなく、等族と呼ばれる[nb 14]公爵伯爵司教修道院長及びその他の統治者に支配される数十の(最終的には千以上の[297])領邦に分かれていた。また、皇帝に直接支配される地域もあった。皇帝が単純に法令を発布して、帝国全域を自律的に統治しえた時代は存在しなかった。皇帝の権限は様々な地方領主たちによって厳しく制限されていた。

中世盛期以降、神聖ローマ帝国は帝権を排除しようと抵抗する地方諸侯との不安定な共存政策に特徴づけられる。フランスやイングランドなどの中世の諸王国と比較して、皇帝は自らの統治する領土を十分に支配する力を獲得し得なかった。反対に、皇帝たちは廃位を避けるために聖俗領主たちにより一層の権限を授与することを強いられた。このプロセスは11世紀の叙任権闘争に始まり、1648年のヴェストファーレン条約でおおよそ完了している。幾人かの皇帝たちはこの自らの権力の弱体化を食い止めようと試みたが、教皇や諸侯によって妨げられた。

皇帝

ウィーン王宮宝物館にある神聖ローマ帝国の王冠(10世紀頃)

皇帝はドイツ王国[nb 15]イタリア王国ブルグント王国1032年以降)の3つの王国の統治者であった。これはカロリング朝フランク王の正式な称号が「フランク人ランゴバルト人ローマ人の保護者」であった伝統を引き継いでいる。皇帝となるためには、その人物はまず3つの国王としての戴冠式をそれぞれ別の場所で行い、その上で、教皇により「ローマ皇帝」に戴冠された。

帝国の重要な特徴は選挙王制である[298]。9世紀以降、ドイツ王は国王選挙によって選ばれており、この時期、彼らは最も有力な部族(サリ=フランク (enロートリンゲンリプアリ (enフランケンザクセンバイエルンそしてシュヴァーベン)の5人の指導者たちによって選出されていた。ただし、中世盛期の三王朝時代(ザクセン朝ザリエル朝ホーエンシュタウフェン朝)では事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった[299]。ハインリヒ3世は皇帝戴冠式を挙行するまでの7年間、ローマ王(羅: Rex romanorum; 独: römischer König)を称しており、以降、皇帝予定者はまずローマ王を称するようになった[300]。また、皇帝の存命中に後継者をローマ王に選出させることもあった[301]

大空位時代以降においては選挙原理が働くようになり、ドイツ王国内の主要な公爵や司教たちがローマ王を選出している。1356年にカール4世は金印勅書を発布して7人の選帝侯を定めた。皇帝候補者たちは票固めのために選帝侯たちと選挙協約Wahlkapitulation)を結んで特権面での譲歩を約束させられた[302][303]

選出されたローマ王は名目上は教皇による戴冠を受けねば「皇帝」を名乗ることができなかった。多くの場合、国王たちは他の責務に時間を取られて皇帝戴冠には数年を要しており、しばしば、彼らはまずは北イタリアの反乱や教皇本人との不和を解決せねばならなかった。1508年マクシミリアン1世が教皇から戴冠されることなく「皇帝」を称してからは、後期の皇帝たちは「ローマ皇帝に選ばれし者」(Erwählter Römischer Kaiser)の体裁を取り、教皇による戴冠を省略してドイツ王=ローマ王に選出された時点で皇帝を名乗るのが慣例化した[147][304]。教皇によって戴冠された最後の皇帝は1530年のカール5世である。

皇帝=ドイツ王の権力所在地

ゴスラーの歴史都市(世界遺産

帝国は特定の首都を持たず、中世初期から中世盛期の皇帝=ドイツ王は王国を巡り、その時々の皇帝の所在地で宮廷会議や教会会議そして法廷の開催や授封といった行政を執り行う、「旅する王権」(Reisekönigtum)の統治方式を取っていた[305][306]

しかしながら、帝国統治の中心は全土に隈なく所在する訳でもなく、ザクセン朝、ザリエル朝の諸王はハルツ山地周辺のプファルツに王宮を造営して国王支配領域を形成しており、ゴスラーの歴史都市はそのひとつである[307]。また、オットー3世以降は帝国内の司教管区も一時的な政庁として活用するようになっている[308]。ホーエンシュタウフェン朝は権力基盤のシュヴァーベンに加えて、ザーレ・ウンストルート川流域やライン・マイン川流域、ライン川上流域に国王支配領域を形成した[309]

大空位時代以降は諸侯の自立性の高まりにより、国王支配領域を形成することはできなくなり、皇帝たちは各々の家門の領地から帝国の統治を行っている[310]。フェルディナント2世(在位:1619年-1637年)以降はハプスブルク家所領のウィーンが恒常的な宮廷所在地となった[311]

封建制

国王に対する誠実宣誓。
1512年製作の木版画。

初期のドイツ王は部族大公Stammesherzog)によって選出されていた。部族大公はフランク王国によって征服統合されたゲルマン諸族で、フランク王から大公(duces)の官職を任命された者たちである。フランク王国の部族大公は8世紀頃に解体されたが、カロリング朝末期に復活し、ザクセン大公フランケン大公バイエルン大公シュヴァーベン大公そしてロートリンゲン大公が確立した[312]。部族大公は12世紀末まで帝国における主要な役割を果たしている[313]

オットー1世に始まる帝国教会政策により、三王朝時代の皇帝たちは大司教、司教、修道院長を任命して所領を寄進し、特権を与えるなど彼らとのレーエン(知行制・封建制)的な絆を結び、教会を帝国の制度基盤となした[5][314]。ザクセン朝とザリエル朝の皇帝たちは大公領、辺境伯領、伯領はレーエン的なものではなく官職として扱おうとしていたが、ロタール3世(在位:1106年 - 1137年)の時代に帝国の封建化は発展し、12世紀から13世紀のホーエンシュタウフェン朝の時代にレーエン化が進められて部族大公領が解体され、国王を最高封主とする帝国国制の封建化が完了した[315]

12世紀末の時点で聖界諸侯の他に以下の20の世俗諸侯がいた[316]

帝国等族

"Ordines Sacri Romani Imperii"(神聖ローマ帝国の序列)。1606年作

帝国領邦の数は相当数に及び、18世紀末の時点で領邦高権を有する領邦314、自立権力を有するその他の帝国騎士領は1475家に上った[297]。これら小邦(Kleinstaaten)の幾つかは飛び地を含む数平方マイルの規模しかなく、そのため帝国はしばしば「パッチワーク」(Flickenteppich)と呼ばれた[317]。皇帝と直接的な封建関係を結んで帝国封Reichslehen)を授封された者は帝国等族Reichsstände)と見なされた[318][319]。帝国等族は以下のものである。

1495年ヴォルムス帝国議会の時点では選帝侯7、聖界諸侯(大司教4、司教46、修道院長86)、俗界諸侯(公爵24、伯爵その他の領主145)、帝国自由都市83となっている[322]

帝国議会

1675年帝国議会

帝国議会Reichstag/Reichsversammlung)は神聖ローマ帝国の立法機関であり、その起源は皇帝が諸侯に重要事項を諮問する宮廷顧問会議(Hofrat)や大空位時代の選挙人集会であり、1356年の金印勅書によって成文化された[323][324]。帝国議会は三つの部会に分かれている。

第一部会である選帝侯部会Kurfürstenrat)は1273年に現れ、ローマ王選挙権を有する選帝侯によって構成される[325]

第二部会の諸侯部会Fürstenrat)は1480年に成立したもので、その他の諸侯や帝国伯によって構成される[320]。諸侯部会は二つの「議席」に分かたれており、一つが世俗諸侯、もう一つが聖界諸侯である。高位諸侯は個人票を持ち、その他の伯や高位聖職者は地域別に分けられた集合票になっている。各々の集合票は1票扱いである。18世紀半ばの時点で個人票は100票(俗界諸侯65、聖界諸侯35)、集合票は高位聖職者2票、伯4票となっている[326]

第三部会が帝国自由都市の代表によって構成される都市部会Städtetag)であり、シュヴァーベンとラインの二つの集合票に別けられる。各々の集合票は1票扱いである。帝国議会への自由都市代表の出席は中世後期から一般的になっていたが、彼らの出席が公式に確認されたのは1648年のヴェストファーレン条約以降のことである[327]。都市部会は他の部会と対等ではなく、この部会がキャステングボードを握ることを防ぐべく、他の二部会の決定が下された後に意見を求められる形式になっていた[326]。1521年には87都市が出席権を有していたが、都市の衰退などの事情により1803年の時点では3都市に激減している[326]

帝国裁判所

18世紀の帝国最高法院

帝国の司法機関としては皇帝が主催する宮廷裁判所(Hofgericht)が存在していたが、15世紀の帝国改造運動の一環として司法改革が求められた。フリードリヒ3世は司法は皇帝のレガリア(大権)であるとして改革に抵抗していたが[328]、マクシミリアン1世は諸侯、等族の要求に妥協をし、1495年に永久ラント平和令を施行させる機関として専門の法律家による帝国最高法院Reichskammergericht)が開設された[329][330]。だが、マクシミリアン1世はこれに対抗すべく国王/皇帝の裁判所である帝国宮内法院Reichshofrat)をウィーンに開設しており、帝国には2つの最高法廷が存在することになった。

帝国最高法院はフランクフルトに開設され、その後、ヴォルムス、アウクスブルク、ニュルンベルクレーゲンスブルクシュパイヤーエスリンゲン (en、再びシュパイヤーへと移転した。アウクスブルク同盟戦争の際にシュパイヤーが破壊されたため、裁判所はヴェッツラーへ移転し、1689年から帝国が消滅する1806年までここに所在している。

両裁判所は通常の刑事、民事訴訟は扱わない上訴の最上級法廷である[331]。帝国裁判所は諸侯間や諸侯と帝国等族との係争を私的な武力行使(フェーデ)ではなく法的手続きによって解決することを目的としており[332]、制度は1670年代頃に定着して帝国の平和維持や宗教対立の緩和に一定の役割を果たしている[333]

帝国クライス

1560年時点の帝国クライス地図

帝国改造の一環として、1500年に6管区の帝国クライスが設置され、更に4管区が1512年に設置されている。クライスは帝国最高法院陪席判事の選出、平和維持と防衛の分担調整、貨幣制度の監督、そして公共平和の維持を目的とした帝国内諸邦のほとんどを含む地域行政単位である[334]。各々のクライスはクライス会議Kreistag)の名で知られる独自の議会とクライス内の問題を調停する1~3人のクライス公示事項担当諸侯(Kreis Ausschreibender Fürst)を有していた[335]

  •   バイエルン・クライス
  •   シュヴァーベン・クライス
  •   オーバーライン・クライス
  •   ヴェストファーレン・クライス
  •   フランケン・クライス
  •   ニーダーザクセン・クライス
  •   ブルグント・クライス
  •   オーストリア・クライス
  •   オーバーザクセン・クライス
  •   クールライン・クライス

全ての領域が帝国クライスに含まれている訳ではなく、ボヘミア王の領土 (en、帝国騎士領や帝国内のドイツ騎士団領地などの小邦[336]、そして、スイス、北イタリアの帝国諸侯は除外されている。

評価

18世紀フランスの思想家ヴォルテールによる「神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない」との神聖ローマ帝国評は特に有名であるが[337]、17世紀の法学者プーフェンドルフも帝国を国家論の規則に外れた「妖怪に似たもの」と評した[338]。また、帝国解散の新聞記事を読んだ日のゲーテの素っ気ない日記も当時の人々の帝国に対する無関心ぶりを示す例として知られる[339]。一方で、18世紀後半のドイツ法学者ピュッター (enは帝国の法維持機能を積極的に評価し、その国家性を強調している[340]

ドイツ帝国が成立した19世紀中盤以降のドイツ歴史学界は権力国家志向であり、中央集権化に失敗してナポレオンに敗れて消滅した神聖ローマ帝国を民族を分裂させドイツの利益を守りえなかった政治的無能と断じ、これに対して権力国家を構築してドイツ統一を成し遂げたプロイセンを擁護するプロイセン中心主義的解釈を取って来た[341]ナチス・ドイツの経験と第二次世界大戦の敗戦によって、権力国家概念は信用を失ったが、神聖ローマ帝国が近代国家への転換に失敗した体制であるとの解釈は続いた[342]

1960年代から西ドイツの歴史学界で従来の集権的な国民国家を唯一の歴史的選択肢とはしない神聖ローマ帝国に対する修正主義的なアプローチが出始めた。1980年代以降、この修正主義的解釈は活発化し、その主な論旨は帝国の構造を皇帝と諸侯とに二元主義的に理解せず、帝国議会、帝国裁判所、帝国クライスなどの多様な構成員からなる帝国諸制度の相互作用や法共同体としての側面を考察することである[343][344]

この修正主義的再評価から、帝国がヴェストファーレン条約以降まったくドイツで宗教戦争が起こることなく新旧両派が共存できたのはなぜか、あるいは小国に分裂したのであればなぜその小国群のほとんどが帝国崩壊まで命脈を保つことが出来たのか、といった疑問に答えるためにマクシミリアン1世に始まる帝国改造を指摘する者もいる[nb 16]。帝国改造によって皇帝権力から独立した司法制度と、帝国クライスを単位とする軍隊制度が創設されたため、宗教対立などの紛争は裁判所において解決が図られ、対外戦争に対しては一致して対応することも可能になったという主張である[nb 16][nb 17]

また、ヴェストファーレン条約についても否定的側面のみでは捉えず、以後150年に渡り領邦の独自性を維持しつつドイツの完全な分解を防ぐ法共同体を構築した役割、更には今日に続くドイツ連邦制の基礎になったと評価する見方もある[345][346]

脚注

注釈

  1. ^ たとえば、山川出版社の受験参考書である『詳説 世界史研究』はカール大帝の帝権を「西ローマ帝国の復活」、オットー大帝の帝権以降を「神聖ローマ帝国」とし、両者の断絶を想定している。しかしながら、おなじ山川出版社による専門的な概説書『世界歴史大系 ドイツ史』では、オットーの帝権はカール大帝のフランク・ローマ的な帝権を継承したものであることが強調されており、オットーの帝権がカロリング的支配者の伝統に位置づけられている。
  2. ^ a b 例外はオーストリア継承戦争中に短期間在位したカール7世(ヴィッテルスバッハ家)のみ。
  3. ^ ドイツ語の Reich は「帝国」を意味し、ラテン語の imperium に対応する概念である。
  4. ^ 北イタリア諸邦は帝国クライスに属さず、帝国議会にも出席していない。ただし、近年の研究では帝国と帝国イタリアとの結びつきについて再評価も行われている。ウィルスン(2005),p.105-108
  5. ^ 実際にはロタール3世はヴォルムス協約で認められた権利を行使している。成瀬他(1997a),p.213
  6. ^ ルドルフ4世は5通の特許状に添えて証拠として提出した手紙の差出人をカエサルネロとし、偽書であることをあからさまにしてカール4世を暗に恫喝している。菊池(2004),pp.201-208
  7. ^ ドイツ語ではErzherzog(オーストリア大公)とSchlafmütze (寝帽/眠たがり屋)を語呂あわせしたReichserzschlafmutze。ウィルスン(2005),p.33
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  15. ^ 当初は東フランク王国の政体を踏襲し、一般にはフランク王国やドイツ王国、正式にはローマ帝国と呼ばれていた。「ドイツ人国家」という概念は後年に生まれた。
  16. ^ a b 概説書としては、成瀬治、山田欣吾、木村靖二編『世界歴史大系 ドイツ史1』や、ピーター H. ウィルスン『神聖ローマ帝国 1495–1806』などが詳しい。
  17. ^ ただし、この帝国改造運動は結局、成果はなかったと解説されることも少なくはない。【帝国改造運動】(ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版)や【神聖ローマ帝国】(世界大百科事典巻14,平凡社,1988年)

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  • ハンス・クルト・シュルツェ 著、五十嵐修、小倉欣一、浅野啓子、佐久間弘展 訳『西欧中世史事典〈2〉皇帝と帝国』ミネルヴァ書房〈MINERVA西洋史ライブラリー〉、2005年。ISBN 978-4623039302 
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  • 赤井彰、山上正太郎『世界の歴史 7 文芸復興の時代』社会思想社、1974年。ISBN 978-4390108270 
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  • 池谷文夫 著、(『世界の戦争・革命・反乱総解説』収録) 編『フス戦争』自由國民社、1994年。 
  • 江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年。ISBN 978-4061490178 
  • 江村洋『カール5世―中世ヨーロッパ最後の栄光』東京書籍、1992年。ISBN 978-4487753796 
  • 菊池良生『戦うハプスブルク家』講談社、1995年。ISBN 978-4061492820 
  • 菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年。ISBN 978-4061496736 
  • 菊池良生『ハプスブルクをつくった男』講談社、2004年。ISBN 978-4061497320 
  • 菊池良夫『図説 神聖ローマ帝国』河出書房新社、2009年。ISBN 978-4309761275 
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  • 成瀬治『世界の歴史〈15〉近代ヨーロッパへの道』講談社、1978年。 
  • 長谷川輝夫、土肥恒之大久保桂子『世界の歴史〈17〉ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年。ISBN 978-4122051157 
  • 堀越孝一『中世ヨーロッパの歴史』講談社、2006年。ISBN 978-4061597631 
  • 森田安一 著、(『世界の戦争・革命・反乱総解説』収録) 編『ドイツ宗教改革の戦い』自由國民社、1994年。 
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  • Albrecht, Dieter (1998). Maximilian I. Von Bayern 1573-1651. Munich 
  • Angermeier, Heinz (1991). Das Alte Reich in der deutschen Geschichte. Studien über Kontinuitäten und Zäsuren 
  • Bryce, James (1968). The Holy Roman Empire. Macmilan 
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  • Pagden, percy (2008). World's at War: The 2,500-Year Struggle Between East and West (First ed.). Random House 
  • Rapp, Francis (2000). Le Saint-Empire romain germanique. D'Otton le Grand à Charles Quint. Paris 
  • Rovan, Joseph (1999). Histoire de l'Allemagne des origines à nos jours. Paris 
  • Schillinger, Jean (2002). Le Saint-Empire. Paris 
  • Weyland, Uli (2002). Strafsache Vatikan. Jesus klagt an. Weisse Pferd Verlag 

関連図書

  • Karl Otmar Freiherr von Aretin, Das Alte Reich 1648–1806. 4 vols. Stuttgart, 1993–2000
  • Peter Claus Hartmann, Kulturgeschichte des Heiligen Römischen Reiches 1648 bis 1806. Wien, 2001
  • Georg Schmidt, Geschichte des Alten Reiches. München, 1999
  • James Bryce, The Holy Roman Empire. ISBN 0-333-03609-3
  • Jonathan W. Zophy (ed.), The Holy Roman Empire: A Dictionary Handbook. Greenwood Press, 1980
  • George Donaldson, Germany: A Complete History. Gotham Books, New York 1985
  • Deutsche Reichstagsakten

関連項目

外部リンク

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