ロタール1世

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ロタール1世(フランス国立図書館蔵)

ロタール1世Lothar I,795年 - 855年9月29日)は、西ローマ皇帝(父ルートヴィヒ1世の共同皇帝としての在位:817年 - 840年、単独での皇帝在位:840年 - 855年)。フランク(在位:840年 - 843年)。中フランク(在位:843年 - 855年)。

生涯[編集]

父の帝位継承[編集]

795年カール大帝の息子ルートヴィヒ(のちの皇帝ルートヴィヒ1世)と最初の妻エルマンガルド・ド・エスベイの間の長男として生まれた。即ちカール大帝の孫にあたる。祖父カール大帝は、この5年後にあたる800年ローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の冠を授かった(カールの戴冠)。

フランク族の伝統に従い、祖父カール大帝はその領土を分割相続する手筈を整えた。ところが息子が相次いで没したため、ロタールの父ルートヴィヒが単独相続することになった。祖父カール大帝が没した814年、ロタールは父からバイエルンの支配を任された[1]

父ルートヴィヒ1世は敬虔王の異名を持ち、宮廷内の粛正を図るなど敬虔、厳格な人物であった。その彼は、817年聖木曜日にアーヘンの王宮の一部が崩壊し負傷したことを、死の訪れという神の意志と判断し、同年7月「帝国継承令(帝国整序令、Ordinatio imperii)」を発布し、3人の息子への帝国分割を定めた[2](結局、ルートヴィヒはその後23年間も長生きするのだが)。

兄弟間での確執[編集]

こうした経緯で長男のロタールはアーヘンにて共同皇帝として父ルートヴィヒにより戴冠され[3][4]、父とともに帝位についた。ルートヴィヒの次男ピピンはアキタニア王、三男ルートヴィヒ(のちの東フランク王ルートヴィヒ2世 )はバイエルンを任された(ただし、ルートヴィヒの死後はロタールのものになるとされた[2])。さらに818年、それまでイタリアを支配してきたベルンハルト(イタリア王ピピンの庶子)が前年の継承令に対する不満から反乱を起こして刑死し[5]、ロタールはイタリア王の地位を手に入れた。その後、父ルートヴィヒによる異母弟シャルル(後のシャルル2世)に対する領土分割への不満から、ロタールは単独の帝位を狙って幾度か父ルートヴィヒに反乱を起こすことになる[6]が、838年の次弟ピピンの死を契機に翌839年にヴォルムスで帝国をロタールとシャルルとの間で分割することが決められ、解決が図られた[7]。840年6月20日、父ルートヴィヒ1世はフランクフルト近郊で死去し、単独皇帝となった。

「カールの戴冠」によって復興した「(西)ローマ帝国」は、宗教的権威の中心ローマと、政治的権力の中心アーヘンという、いわば二つの中心を持つ帝国であった。ロタールは、そのローマとアーヘンを結ぶライン川モーゼル川流域などの支配を強化しようとしたが[8]、これが兄弟同士の激しい抗争をもたらす。

当時、父ルートヴィヒの2番目の妻の息子であったシャルルがフランク王国西部で勢力を伸ばしていた。そのシャルルと、バイエルンなどを支配していた三弟のルートヴィヒが、兄のこれ以上の権力強化を懸念して叛旗を翻すことになった。ロタール側には次弟アキタニア王ピピンの子でアキタニアを支配しシャルルと対立していたピピン(2世)がついた[9]。すなわち、シャルルとルートヴィヒ対ロタールという兄弟争いの構図が形成された。

フォントノワの戦い[編集]

841年6月、オーセール近郊のフォントノワで、兄弟同士の熾烈な戦闘が展開され、多くの戦士たちが命を失った[9]。この時のあまりの犠牲が、ノルマン人に対する西欧の抵抗力を弱めたとする指摘すらある。この戦いで勝利したのは、シャルルとルートヴィヒであった。

まもなく初代西フランク王(フランス王)となるシャルルと、初代東フランク王(ドイツ王)になるルートヴィヒは、ストラスブール(シュトラスブルク)で、互いに協力し合う誓約を交わした。これが、842年の「ストラスブールの宣誓」と称される[9]。20世紀に至るまで、独仏の果てしない争奪戦の舞台になるアルザスのストラスブール、その地で初代の王が手を結ぶのは歴史の皮肉である。

こうして、ロタールは三弟、異母弟との妥協を余儀なくされ、842年6月15日にブルグント(ブルゴーニュ)のマコンで和平が成立した[10]。その後、領土分割などをめぐっての数度の協議を経て、843年にヴェルダンで最終的な承認がなされた(詳細な内容はヴェルダン条約を参照)。

フランク王国の分裂[編集]

ヴェルダン条約では、三人の兄弟それぞれがフランク人の王であることが確認された。これをもって、フランク王国は正式に、西フランク王国(フランス王国)、東フランク王国(ドイツ王国)、中フランク王国へと分裂した。

855年、皇帝ロタール1世は、自らの死が目前であることを悟る。そして、長男ルートヴィヒ2世(ロドヴィコ2世、ロタールの弟である東フランク王のルートヴィヒ2世とは異なるので注意されたい)に皇帝の称号とイタリア、次男のロタール2世にロタリンギアロレーヌ)など、三男のシャルル(カール)にプロヴァンスなどを分割相続した[11][12]。こうして中フランク王国が三分された結果、フランク王国は5つにまで分裂してしまった。ロタール1世はこの決定の数日後の9月29日、プリュム修道院にて死去した。ロタール1世のあと皇帝位を継いだルートヴィヒ2世は、皇帝としての実権を持つことができなかった[13]

子女[編集]

ロタールは821年、トゥール伯ユーグの娘エルメンガルド(? - 851年)と結婚した。

  • ロドヴィコ2世(825年 - 875年) イタリア王、ローマ帝
  • ヒルトルード(826年 - 865年) スポレート公ベレンガーリオと結婚
  • エルメンガルド(イルムガルト)(825年頃 - 849年) マースガウ伯ギセルベルト(レニエ家)と結婚
  • ベルタ(830年頃 - 852年) アヴェネイ女子修道院長
  • ギーゼラ(830年頃 - 856年) ブレシアのサン・サルヴァトーレ女子修道院長
  • ロタール2世(835年 - 869年) ロタリンギア王
  • ロトルード(840年頃 - ?) ナント伯ランベール3世と結婚
  • シャルル(845年 - 863年) プロヴァンス王

庶子が1人いる。

  • カールマン(? - 853年)

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 成瀬他、p.83
  2. ^ a b 成瀬他、p.84
  3. ^ 瀬原、p.40
  4. ^ シュルツェ、p.142
  5. ^ 瀬原、p.41
  6. ^ 瀬原、p.42
  7. ^ 瀬原、p.43
  8. ^ 柴田他、p.165
  9. ^ a b c 成瀬他、p.88
  10. ^ 瀬原、p.44
  11. ^ 成瀬他、p.90
  12. ^ 瀬原、p.45-46
  13. ^ 瀬原、p.46

参考文献[編集]

  • 成瀬治 他 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
  • 柴田三千雄 他 編 『世界歴史大系 フランス史 1』 山川出版社、1995年
  • ハンス・K・シュルツェ 『西欧中世史事典II-皇帝と帝国-』 ミネルヴァ書房、2005年
先代:
ベルナルド
イタリア王
818年 - 855年
共同統治:
ロドヴィコ2世(844年 - 855年)
次代:
ロドヴィコ2世
先代:
ルートヴィヒ1世(ルイ1世)
“敬虔王”
中フランク国王
843年 - 855年
次代:
ロタール2世
ロタリンギア王
次代:
シャルル
(プロヴァンス王)