田岡一雄
田岡 一雄(たおか かずお、1913年3月28日 - 1981年7月23日)は、日本のヤクザ、実業家。三代目山口組組長。甲陽運輸社長、神戸芸能社社長、ひばりプロダクション副社長、日本プロレス副会長、全国港湾荷役振興協会副会長兼神戸支部長。芸能プロモーター。
経歴
誕生~少年期
大正2年(1913年)3月28日、徳島県三好郡三庄村(後の東みよし町)で農家を営む父・一、母・ナカの5番目の子供として生まれた。1人の兄と3人の姉がいた。父は田岡一雄が生まれる前に死去した。
大正8年(1919年)4月1日、田岡一雄は、三庄村尋常小学校に入学した。
同年8月5日、母・ナカが過労で死去した。
同年、田岡一雄は、叔父の河内和四郎(母の弟。神戸市の兵庫港で、鐘紡専属の荷役現場監督をしていた)に引き取られ、神戸市兵庫区浜山通りに転居した。小学校4年から新聞配達を始めた。
昭和元年(1925年)、田岡一雄は、浜山小学校を卒業し、兵庫尋常高等小学校に進学した。同級生に、二代目山口組・山口登組長の弟・山口秀雄がいた。
昭和2年(1927年)3月、田岡一雄は、兵庫尋常高等小学校を卒業し、川崎造船所に旋盤見習工として入社した。
青年期~山口組へ
昭和4年(1929年)5月、田岡一雄は、川崎造船所を退社した。退社した理由には、2説ある。溝口敦・笠井和弘・ももなり高『実録・山口組武闘史 血と抗争! 菱の男たち1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4や『山口組50の謎を追う』洋泉社、2004年、ISBN 4-89691-796-0では「川崎造船所の上司から仕事上の注意をうけ小突かれたため、その上司を殴ってしまい退社した」とされている。飯干晃一『山口組三代目 1野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9では「川崎造船所が、恐慌のあおりを食らい、多数の工員、見習い工員の首を切ったため」とされている。
その後、田岡一雄は、山口秀雄の紹介で、山口組の沖仲仕部屋に寄宿した。このころ、愚連隊・敷島団の一員となり、旧制第二神戸中学校(後の兵庫県立兵庫高校)の学生・吉川勇次(後の三代目山口組若頭補佐)らと喧嘩を繰り返した。
昭和5年(1930年)3月、田岡一雄は、神戸市新開地の芝居小屋の夜警の仕事に移った。
同年10月、田岡一雄は、新開地本通りの剣劇小屋「湊座」で、料金を支払わずに入場したため、木戸番から咎められた。田岡一雄は、木戸番を殴り倒し、湊座の舞台に上がって暴れた。二代目山口組が湊座の用心棒を務めていた。その後のいきさつには2説ある。溝口敦・笠井和弘・ももなり高『実録・山口組武闘史 血と抗争! 菱の男たち1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4や正延哲士・天龍寺弦・池田鷹一『実録 鬼頭良之助と山口組二代目 激動ヤクザ伝』竹書房、2006年、ISBN 4-8124-6362-9では「田岡一雄は山口組舎弟・古川松太郎(山口登の娘婿)や山口組若衆・山田久一(通称は小トラ。後の三代目山口組初代若頭)に捕まった。田岡一雄は神戸市切戸町の山口組事務所に連行され、暴行を受けたが、根をあげなかった。山口登は田岡一雄を古川松太郎に行儀見習いとして預けた。田岡一雄は古川松太郎の自宅に居候した」となっている。飯干晃一『山口組三代目 1野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9では「数日後、田岡一雄は、山口組組員に捕まり、山口登の舎弟・灘波島之介の自宅に連行された。灘波島之介は、山口組組員が田岡を暴行しようとするのを止めて、田岡一雄の身柄を預かった。田岡一雄は、灘波島之介の家に寄宿した。その後、灘波島之介は、田岡一雄を古川松太郎に預けた。古川松太郎が田岡一雄に行儀を仕込んだ」となっている。
同年、田岡一雄は、神戸の賭場で岡精義(後の三代目山口組七人衆)と知り合った。
昭和7年(1932年)春、古川松太郎の下での見習いが終了した。田岡一雄は、神戸市湊川のアパートに移り住んだ。岡精義が田岡一雄のアパートに転がりこんだ。田岡一雄は、岡精義の紹介で、山口組若衆頭・大長一雄の弟・大長八郎と知り合った。大長八郎の兄・大長政吉(通称は悪漢政。大長一雄の弟)は山口登の若衆だった。
その後、大長八郎は、山口登から盃をもらい、山口登の若衆となった。
同年、もしくは昭和11年(1936年)1月20日[1]、田岡一雄は、山口登から盃を受け、山口登の若衆となった。
同年5月、山口登が後援会長を努める大関・玉錦(後に横綱)が、前頭の宝川と揉めた。田岡一雄は、日本刀を持ち、山田久一や玉錦、山口組舎弟・西田幸一らに連れられて、宝川の元に押しかけた。田岡一雄は、日本刀で、宝川の指を切り落とした。
昭和8年(1933年)8月、田岡一雄は、私立森高等女学校(後の神戸学院大学附属高等学校)2年の深山フミ子(後の三代目山口組姐・田岡文子)と知り合った。深山フミ子は、神戸市新開地の菊水館前の喫茶バー「一二三」の手伝いをしていた。
昭和9年(1934年)8月、海員争議が起こり、山口登が紛争解決の調停役を依頼された。山口登の代理として、山口組舎弟・西田幸一と同組舎弟・田尻春吉が出席した。西田幸一と田尻春吉は、組合と話し合いを持ったが、組合側の右翼や総会屋とこじれて、乱闘となった。西田幸一は殺害され、田尻春吉は意識不明の重体に陥った。田岡一雄と岡精義は、西田幸一死亡の知らせを受け、海員組合争議本部に乗り込んだ。田岡一雄が、日本刀で組合長を斬りつけ、重傷を負わせた[2]。田岡一雄は、傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所に服役した。
昭和10年(1935年)10月、田岡一雄は、神戸刑務所を出所した。
同年、山口登は、藤田仙太郎(元関脇・山錦善治郎。本名は山田善治郎)を若衆とした[3]。
同年、岡精義は、港湾荷役の下請け業となり、東南アジア各地の湊の軍役荷役に従軍した[4]。
同年11月17日、田岡一雄は、深山フミ子の父・深山喜之助に、フミ子との結婚を願い出たが、認められなかった。
昭和11年(1936年)1月、田岡一雄は、深山フミ子と、神戸市湊町1丁目の長屋で、同棲生活を始めた。
同年1月20日、もしくは、昭和7年(1932年)[5]、田岡一雄は、山口登から盃を受け、山口登の若衆となった。
同年7月、田岡一雄は、昼夜2回の浪曲師広沢虎造の花興行を行った。昼席は福原の「大正座」で行い、夜席は兵庫県県会議事堂で行った。昼の興行の利益はすべて、山口組に上納した。
同月、田岡一雄は、山口登に口答えをしたために、山口登の怒りを買った。山口登の怒りが収まるまで、東京の玉錦の元に身を寄せた。
その後、山口登は、大長政吉を破門にした。大長政吉が新開地で酔って大暴れし、堅気の人間3人を傷付けたためだった。
昭和12年(1937年)1月27日、国技館で、チャンピオンのピストン堀口と挑戦者ジョー・イーグルの東洋フェザー級タイトルマッチが行われた[6]。山口組は国技館の警護に当たった。ジョー・イーグルの判定勝ちが決まると、田岡一雄がリングに上がり、審判に詰め寄った。田岡一雄は警官に取り押さえられ、拘留された。
同年2月、田岡一雄は、玉錦のとりなしで、山口登から許しを得て、神戸市に戻った。
同年2月25日]、大長政吉が、神戸市新開地の菊水館で、菊水館の支配人(元は初代山口組・山口春吉組長の舎弟)を殴打し、売上金を勝手に持ち出した。同日、菊水館の用心棒だった山田久一は、田岡一雄とともに、大長政吉を探し、福原遊郭の「大阪楼」にいることを突き止めた。
同日、山田久一と田岡一雄は、大阪楼を急襲した。田岡一雄が、大長政吉を鉄瓶で殴打し、大怪我を負わせた。
同日夜、大長政吉の弟・大長八郎(二代目山口組若衆)が、大長政吉の大怪我に立腹して、山口組事務所に殴り込んできた。田岡一雄は、大長八郎と決闘し、大長八郎を日本刀で斬り殺した。
同日、田岡一雄は警察に自首した。
同年2月27日、田岡一雄は、懲役8年の実刑判決を受けた。田岡一雄は神戸刑務所に服役した。まもなく、山口組若頭・大長一雄は山口組を去った。
昭和15年(1940年)8月2日、山口登は、東京浅草の浪花家金蔵宅で、下関の籠寅組(組長は保良浅之助)幹部ら5人と、吉本興業の代理として広沢虎造の移籍問題の話し合いを持った[7]が、籠寅組5人に襲われて重傷を負った。
昭和17年(1942年)10月4日、山口登は、籠寅組に襲われたときの傷がもとで亡くなった。山口組は三代目を作らず、舎弟会が運営することになった。山口登の死後、山口組若頭の澄田実が山口組から去った。
昭和18年(1943年)7月13日、田岡一雄は「皇紀2600年」の恩典で2年減刑され、高知刑務所を出所した。
同年、岡精義は、帰国して、神戸港運会社を興した。田岡一雄は、岡精義から港湾事業の重要性を説かれた。
昭和20年(1945年)終戦後、田岡一雄は、神戸市で吉川勇次と再会した。
同年、田岡一雄は、神戸市兵庫区下沢通りで田岡組を作った。戦後の混乱で警察力は弱体化していた。田岡一雄は、街や闇市の警備のために、神戸市新開地の「花月劇場を本拠地に「自警団」を結成し、闇市への不良在日外国人の干渉を排除した。
昭和21年(1946年)7月、山口組舎弟会が開かれた。山口登の若衆だった藤田仙太郎が、山口組三代目に、田岡一雄を提案した。舎弟頭・森川盛之助、舎弟・湊芳次ら全員が田岡一雄の山口組三代目就任に賛成した。これにより、田岡一雄は山口組三代目に内定した。
同年10月13日[8]、田岡一雄の山口組三代目襲名式が、神戸市・新開地の食堂「ハナヤ食堂」[9]で行われた。参加者は10人程度だった。
同年10月17日、田岡一雄は神戸市生田区相生町の料亭「三輪」で披露宴を行った。山口組三代目の初代若頭には、山田久一が就任した。このとき、岡精義は田岡一雄の若衆(後に舎弟)となった。田岡一雄からの最初の盃を、吉川勇次が受けた。このとき、組員は、先代の舎弟6人、先代の若衆14人、田岡一雄の直系若衆13人だった。森川盛之助や湊芳次が、田岡の舎弟となった。安原武夫(後の三代目山口組七人衆)、安原政雄(後の三代目山口組若頭)の兄弟は、田岡一雄の若衆となった。田岡一雄は山口組三代目を襲名するに当たって3つの誓いを立てた。1つは、山口組組員に正業を持たせること。1つは、信賞必罰による体制を確立すること。1つは、田岡一雄自身が幡随院長兵衛を手本とし、幡随院長兵衛を目指すことだった[10]。
三代目山口組組長となって
昭和21年(1946年)10月、田岡一雄は、自宅兼山口組事務所を、神戸市生田区(後の中央区)橘通りの神戸地方裁判所前に移した。
同年、田岡一雄は、結縁金を持参した丸三組・陳三郎組長(本名は陳傳鋒。陳伝鋒とも名乗った)に盃を与え、、田岡一雄の舎弟とした。
昭和22年(1947年)2月、田岡一雄は、地道行雄(後の三代目山口組若頭)を若衆とした。
同年8月15日、民間貿易の再開が許可された。田岡一雄は、岡精義の提案を受け、これを機に、港湾事業に積極的に参加していくことを決めた。
同年12月13日、田岡一雄は、新居利治の養子・新居良男に舎弟盃を与えた。新居良男は、二代目小天竜組を襲名した。
昭和23年(1948年)、田岡一雄は、ボードビリアン・川田晴久からの委任を受け、吉本興業から川田晴久の契約を買い取った。神戸市の新開地劇場の支配人と交渉し、ギャラ4万円で川田晴久を新開地劇場に出演させた。
同年2月、田岡一雄は、川田晴久の紹介で、美空ひばり、ひばりの母・加藤喜美枝、ひばりのマネージャー・福島通人と会った。美空ひばりを応援することを、約束した。
同年6月、連合軍司令部経済科学局民間運輸課は、コンファレンス・メモを出した。コンファレンス・メモは、荷役作業の元請け業者のみを認めて、荷役作業の下請けと第二次下請けを禁止した。港湾運送事業の統制会社を解体し、港湾労務の中間搾取を排除する狙いがあった。荷役作業の下請けと第二次下請けの会社は、元請け会社に組み込まれ、元請け会社の「作業部」になった。これにより、田岡一雄の港湾事業は頓挫した。田岡一雄は、岡精義を保阪運送会社の神戸支店作業部長に送り込み、しのぎの確保を目指した。
同年夏、安原政雄と吉川勇次は、大阪市の愚連隊の南道会・藤村唯夫会長(後の三代目山口組七人衆)に、拳銃を突きつけ、自動車で山口組事務所まで拉致した。安原政雄と吉川勇次は、無理やり藤村唯夫に、田岡一雄の盃を受けさせて、田岡一雄の客分とした。
同年10月、田岡一雄は、先代山口登時代の山口組興行部責任者・笠種次に依頼して、神戸市福原の「関西劇場」で、山口登の7回忌追善興行を行った。広沢虎造、天中軒雲月(伊丹秀子)、寿々木米若、梅中軒鶯童らの浪曲師が出演した。
昭和24年(1949年)4月1日、神戸港中突堤のミナト会館に、神戸港の船内荷役業者15業者が集まり、親睦団体「港洞会」が結成された。田岡一雄は、港洞会会長に就任した。
昭和25年(1950年)、田岡一雄は、山田久一を若頭から解任し、安原政雄を若頭に据えた。
同年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。
同年6月28日、北朝鮮は、韓国の首都ソウルを陥落させた。神戸港は、朝鮮半島の米軍への補給基地となった。港湾業務の下請けを禁止したGHQのコンファレンス・メモは有名無実となった。これにより、田岡一雄には、再び神戸市の港湾事業を押さえるチャンスが巡ってきた。
同年9月、山口組と西海組の抗争事件が勃発した。
同年、陳三郎は、尼崎市のめぬき通りに、国際パチンコをオープンさせた。そこは、松本組・笠田隆平組長の縄張りだった。
昭和26年(1951年)1月、美空ひばり、加藤喜美枝、福島通人は、美空ひばりの九州巡業を行なった。小倉市の興行で、興行主と地元のヤクザが揉めた。福島通人は、興行での用心棒を、田岡一雄に依頼した。田岡一雄は、山本健一(通称は山健。後の三代目山口組若頭)を巡業に同行させた。
同年5月、運輸省は、コンファレンス・メモに代わって、港湾運送事業法を制定した。この法律で、港湾業務が一般港湾運送(元請け)、船内荷役、はしけ運送、沿岸運送に分けられ、それぞれが基準に沿った登録制となった。これを機に、田岡一雄は再び港湾事業に進出した。
同年、田岡一雄は、岡精義に三友運輸株式会社(昭和27年(1952年)、「三友企業」と改称)を設立させた。
同年、田岡一雄は、舎弟・白石幸吉(本名は金文泰[11])に、船内荷役業の上栄運輸を設立させ、白石幸吉を社長に据えた。山本広(通称は山広。後の三代目山口組組長代行、一和会会長)が上栄運輸の監査役となった。その後、田岡一雄は、船内荷役業の会社・藤海運、吉川運輸、商栄運輸、高砂運輸を設立させた。
同年、田岡一雄は、山沖一雄を山口組興行部の番頭に据えた。
同年、山沖一雄は、「歌のホームラン」という興行を打った。山沖一雄は、キングレコードから三橋美智也を引っ張ってきて、興行を打った。
同年5月26日、福島通人が設立した「新芸プロダクション」が、田岡一雄とともに、大阪球場で、新芸プロダクション船出興行を行なった。
昭和27年(1952年)1月17日、田岡一雄は、港洞会を改組して「港湾荷役協議会」を設立し、港湾荷役協議会会長に就任した。
同年、田岡一雄は、船内荷役業の会社・昌栄運輸と岡村運輸を設立させた。こうして、田岡一雄は港湾事業のしのぎを一気に拡大させ、山口組のしのぎを安定的なものとした。
同年、田岡一雄は、田端義夫を山口組興行部(後の神戸芸能社)の専属とした。
同年、陳三郎は、尼崎市神田中通一帯のパチンコ店、キャバレー、バーなどの用心棒を請け負い、松本組の縄張りに進出した。
昭和28年(1953年)1月、田岡一雄は、甲陽運輸株式会社を設立し、甲陽運輸株式会社社長に就任した。
同年1月4日午後5時、田岡一雄は、山口組若衆・梶原清晴(後の三代目山口組若頭)と山口組興行部の番頭・西本一三を、神戸市生田区橘通り2丁目の山口組事務所に呼び、鶴田浩二への襲撃を命じた。
同年(1953年)12月ごろ、山口組若衆・石井一郎(通称は別府のジャギ。本名は山川一郎。後の三代目山口組直参)が、別府市に石井組を起こした。田岡一雄にとっては、初めての九州の拠点となった。
昭和29年(1954年)4月、山口組丸三組組員が、尼崎市の松本組山本組(組長は山本長次)組員・南風利一を刺身包丁で、刺殺した。陳伝鋒は、田岡一雄に応援を求めた。しかし、田岡一雄は即座に応援部隊を送れなかった。陳伝鋒は、笠田隆平と山本長次に詫びを入れた。
同年9月、田岡一雄は、青井照日出に住井運輸を設立させ、青井照日出を社長に据えた。
同年9月3日、山口組と谷崎組の抗争事件が勃発した。
昭和30年(1955年)2月、田岡一雄は、安原武夫(後の三代目山口組七人衆。安原政雄の兄)に安原運輸を設立させ、安原武夫を社長に据えた。このころ、田岡一雄の港湾事業は磐石なものとなり、山口組興行部のしのぎとともに、山口組が全国展開できるような経済力を持てるようになった。
同年、田岡一雄は、安原政雄に代えて、地道行雄を山口組若頭とした。安原政雄は、田岡一雄の舎弟に直った。
同年、日本民間放送連盟(略称は民放連)に加盟した放送局が、「十大歌手による民放祭」を企画した。出場歌手10人は、ファン投票で選ぶことになった。山口組興行部所属の三橋美智也は落選した。田岡一雄は、東京両国の日大講堂で、「十大歌手による民放祭」が行われる日に、「十大歌手競演歌謡ショー」を行うことを決めた。民放連は、田岡一雄に「十大歌手競演歌謡ショー」の中止を要請したが、田岡一雄は民放連に、ファン投票のやり直しか、もしくは民放祭の中止かを迫った。民放連と田岡一雄は、山口組興行部と民放連の合同で、「二十大歌手による民放祭」を行うことで合意した。田岡一雄は合意書に署名するときに、「山口組興行部」ではなく、「神戸芸能社」の名称を用いた。
昭和31年(1956年94月、田岡一雄は第二次下請けの労務者を集めて「神戸港港湾労働組合連合会」を結成した。発足時は山口組系企業に加えて、15の単一組合と440人の労務者が母体となった。神戸港には、もとから日本労働組合総評議会(略称は総評)系の「全港湾労働組合神戸支部」があったが、「全港湾労組神戸支部」は第一次下請けの労務者のみによって結成されていた。
同年7月12日、小松島抗争が勃発した。
同年8月29日、港湾荷役協議会が解散し、全国規模の「全国港湾荷役振興協会」(略称は全港振)が設立された。設立メンバーは、藤木企業・藤木幸太郎社長、笹田組・笹田照一組長、東海荷役・鶴岡政次郎社長、田岡一雄だった。全国港湾荷役振興協会は、全国の船内荷役の第二次下請けが集まった団体であった。田岡一雄は副会長兼神戸支部長に就任した。田岡一雄は岡精義を常任理事に据えた。全国港湾荷役振興協会会長には、藤木幸太郎が就任した。それにより、田岡一雄は藤木幸太郎の知遇を得た。
同年、田岡一雄は、山本広を若衆とした。
昭和32年(1957年)1月13日、浅草国際劇場の舞台で、美空ひばりが、公演中に、少女から硫酸をかけられた。田岡一雄は、警備係だった山本健一らを叱責した。
同年、田岡一雄は、山本健一を若衆とした。
同年、田岡一雄は、山本広を若頭補佐に据えた[12]。
同年3月27日、別府抗争が勃発した。
同年7月、山口組南道会(会長は藤村唯夫)会員が、愚連隊の明友会(会長は甲山五郎。本名は姜昌興)会員に暴行された。翌日、大阪ミナミ法善寺横丁の入り口で、南道会会員・福井英夫(後に三代目山口組直参)は、10数人の南道会会員を連れて、甲山五郎を襲い、日本刀で甲山五郎の背中や右手首など13箇所を斬った[13]。
同年10月、田中禄春(本名は韓禄春)は、大阪市淀川区十三の山口組中川組・中川猪三郎組長の紹介で、持参金を持って田岡一雄の盃を受け、田岡一雄の若衆となった。その後、田中禄春は、大野組組員だった桂木正夫(後の四代目山口組若頭補佐、五代目山口組舎弟頭補佐)を若衆とした。それから、田中禄春は、富士会を結成し、富士会会長となった。
同年11月17日、新居良男が、田岡一雄に、小松島抗争の応援を頼んできたことから、田岡一雄は、山口組若頭・地道行雄に小松島抗争への介入を指示した。小松島抗争は、田岡一雄にとって、初めての県外での抗争であった。
同年冬、東京で、田岡一雄は、、加藤喜美枝から「新芸プロダクション社長・福島通人を辞任させ、同社専務の児玉博を社長に据えたい。田岡一雄に、同社会長を頼みたい」との相談を受けた。山沖一雄は、加藤喜美枝の依頼を受けるように、田岡一雄を説得した。
同年12月、田岡一雄は、アクメビルを福島通人に明け渡すことを条件に、福島通人を新芸プロダクション社長から辞任させた。
昭和33年(1958年)4月1日、田岡一雄は正式に「神戸芸能社」の看板を掲げた。美空ひばりが神戸芸能社の専属となった。
同年6月、加藤喜美枝は、児玉博が大川橋蔵を新芸プロダクションの柱に据えていることに不満を持ち、児玉博と対立した。加藤喜美枝は、新芸プロダクションから独立することを決断した。
同月、美空ひばりと加藤喜美枝が「ひばりプロダクション」を設立した。田岡一雄は、ひばりプロダクションの副社長に就任した。
同年、田岡一雄は、高知市市議会議員の中井組・中井啓一組長(後の一和会最高顧問)を舎弟とした。
昭和34年(1959年)4月、陳伝鋒は、暴力行為で有罪判決を受けて、服役した。田岡一雄は、大平組・大平一雄(本名は松浦一雄)組長を派遣して、丸三組を統括させた。
同年5月、柳川組・柳川次郎組長(通称はマテンの黒シャツ。本名は梁元錫)がテキヤ北三沢組・藤本与治組長とキタの露天で提携した。すぐに柳川組と北三沢組は、大野会・大野鶴吉会長の舎弟双葉会・丹羽峯夫組長と小競り合いとなった。最初は中川猪三郎がこの仲裁に、当たった。結局は、この仲裁は失敗し、別の者の仲裁で解決した。地道行雄は、柳川次郎に注目した。田岡一雄は、地道行雄から柳川次郎を推挙され、快諾した。
同年6月、柳川次郎は、中川猪三郎の仲介で、地道行雄と盃を交わして、地道行雄の舎弟となった。柳川組の福田留吉、園幸義、黒沢明(後の三代目山口組若中)らは、地道組(組長は地道行雄)の若衆に直った。
同年11月、田岡一雄は、山口組・井志繁雄(井志繁雅とも名乗った)の紹介で、元国際ギャング団の首領だった菅谷政雄(後の山口組若頭補佐)を若衆とした。
昭和35年(1960年)3月1日、山口組と松本組の抗争事件が勃発した。
同年7月15日、田岡一雄は、今治市の矢嶋組・矢嶋長次組長に盃を与えた。矢嶋長次は、山口組直参となった。
同年8月9日、明友会事件が勃発した。
同年、田岡一雄は、山本広を若頭補佐から解任した[14]。
同年12月13日、山口組「御事始」が行われ、柳川次郎と石井一郎の直系昇格が決定した。「御事始」終了後に、山口組本部事務所で、結縁の盃事が執り行われた。取持ち人は、倭奈良組舎弟の水谷奈良太郎だった。田岡一雄は、柳川次郎と石井一郎を山口組直参とした。
同年、柳川組は、大阪に進出してきた他の山口組系列団体と紛争を起こした。田岡一雄は、各組の利害調整のために、藤村唯夫を、大阪地区の総責任者としたが、柳川組の膨張に歯止めはかからなかった。地道行雄は、山口組幹部たちに、柳川組を他府県に進出させることを提案し、田岡一雄が最終的に了承した。柳川次郎は、他府県進出の指揮官に谷川康太郎(本名は康東華。後の二代目柳川組組長、三代目山口組若中)を任命した。
昭和36年(1961年)2月21日、池田勇人首相は、「暴力犯罪防止対策要綱」を閣議決定した。昭和39年(1964年)10月10日から東京オリンピックの開催を控えており、治安強化を図る必要に迫られていたためだった。
同年、田岡一雄は、福岡県福岡市東中洲の伊豆組・伊豆健児組長に盃を与え、田岡一雄の若衆とした。
同年、鳥取県米子市の山陰柳川組(組長は柳川甲録。本名は柳甲録。地道行雄の舎弟)が鳥取県鳥取市に進出した。鳥取市の菅原組・松山芳太郎組長は、田岡一雄に対抗するために、本多会若頭・平田勝市から盃を貰い、菅原組を平田会鳥取支部と改称した。
同年3月8日夜、都島区都島本通のバー「千舟」で、柳川組組員・李万実らと淡熊会系寺田組組員らが喧嘩となった。寺田組組員8人は、報復として李万実の自宅を襲ったが、李万実は不在だった。柳川組組員が、柳川組系都会会長宅で、寺田組への報復の準備をしているところ、全員が警察に凶器準備集合罪で検挙された。
同年4月1日深夜、梅田で、柳川組組員・野沢義太郎(後の五代目山口組舎弟)、森安直樹、前川秋英、浜田荘郎と神戸市・松浦組7人との喧嘩が起こった。前川秋英は刺殺され、森安直樹も重傷を負った。松浦組組員3人も怪我を負った。
同年4月8日、柳川組は、奈良県下のヤクザ組織に、「貴下を大義同志会支部長に命ず」と書いた封書を送った。これを切っ掛けに喜多久一刺殺事件が発生した。
同年10月4日、山陰柳川組組員3人が、山陰本線鳥取発米子行きの夜行列車内で、松山芳太郎を、日本刀で刺殺した。田岡一雄は、地道行雄の推薦を受け、柳川甲録と小塚組・小塚斉組長(地道行雄の舎弟)を若衆とした。その後、柳川甲録と小塚斉を、山口県から京都府までの日本海側の地区の責任者に任命した。
同年10月、平尾国人(通称は夜桜銀次)は、伊豆健児の預かりとなり、博多に移った。平尾国人は、知り合いだった福岡県嘉穂郡の炭鉱経営者・松岡福利から金をせびり始めた。
同年10月20日、平尾国人は、博多の宮本組の賭場で、宮本組・宮本勝組長を殴打し、2丁拳銃で威嚇射撃をしながら、賭場から去った。
同年12月、田岡一雄は、菅谷政雄に、神奈川県横浜市で、菅谷興業横浜支部を作らせた。そこは、錦政会(後の稲川会。会長は稲川裕芳で、後の稲川聖城)の縄張りだった。
同年12月13日、田岡一雄は、地道行雄が推薦した竹中正久(後の四代目山口組組長)に盃を与え、田岡一雄の若衆とした。細田組・細田利光組長(後の若頭補佐・細田利明の父)、小野組・小野新次組長、中村組・中村憲逸組長、前本組・前本重作組長らの田岡一雄の若衆や、湊芳治らの田岡一雄の舎弟が見届け人となった。その後、「神戸観光ホテル」で山口組「御事始(事始)」が催された。
昭和37年(1962年)1月16日、夜桜銀次事件が勃発した。
同年1月8日午前1時ごろ、近鉄布施駅前で、柳川組組員が、神戸市諏訪組系坂本組組員に、代紋のバッチを奪われ、踏みつけられた。柳川組組員5人が、布施市足代の坂本組組長宅に殴りこみをかけ、坂本組組長を刺殺した。大阪府警は、柳川次郎をはじめ、谷川康太郎、加藤武義(本名は蘇武源)、石田章六(本名は朴泰俊。後の六代目山口組顧問)、藤原定太郎(後の三代目山口組若中)ら29人の柳川組組員を検挙した。
同年1月、柳川組は京都に進出した。しかし、中島会・図越利一会長(後の三代目会津小鉄会長)は、武力で柳川組に対抗すると同時に、本多会・本多仁介会長を通じて、山口組に働きかけてきた。これにより、柳川組は京都進出を中止した。
同年、柳川組若頭・谷川康太郎が石川県の中沢組分家・福島三郎(後の四代目山口組若中)を舎弟にして、石川県に進出した。柳川次郎は、柳川組北陸支部を作り、北陸支部長に福島三郎を据えた。
同年2月、田岡一雄は、井志組・井志繁雄組長に、神奈川県横浜市中区山下町の南京街で、井志組横浜支部を作らせた。
同年春、柳川組が、松葉会と中島会との抗争の仲裁人となった。谷川康太郎が、柳川次郎の名代として、加藤武義と金田三俊(後の四代目山口組舎弟)の舎弟を連れて、片山津温泉の「矢田旅館」で行われた手打ち式に出席した。同日、中島会が松葉会を襲撃して、手打ち破りを行った。谷川康太郎は加藤義武と金田三俊の舎弟とともに、中島会が滞在していた「矢田旅館」に行き、手打ち式での中島会代表者と地元の中島会系組長を拉致した。谷川康太郎は、地元の中島会系組長に組を解散させ、その縄張りを柳川組北陸支部長・福島三郎らに譲った。さらに、谷川康太郎はこの地元の中島会系組長を北陸から追放した。この追放された組長は、広島市の岡組・岡敏夫組長の元に行った。山口組若頭補佐・菅谷政雄が、この元組長を舎弟とし、北陸に復帰させようとした。菅谷政雄と谷川康太郎は、田岡一雄に裁断を仰いだ。田岡一雄は、この元組長を北陸に復帰させ、縄張りを元に戻すことにした。
同年6月、益田組・益田芳夫組長は、横浜市で、「山三食品」を開店した。
同年6月3日夜、山口組加茂田組・加茂田重政組長は、根津組と乱闘事件を引き起こして、逮捕され、懲役4年の実刑判決を受けた。執行を猶予されていた明友会事件の7年を加算されて、加茂田重政の懲役は11年となった。
同年、ブルースカイ事件が勃発した。
同年夏ごろから、右翼活動家の児玉誉士夫は、「一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の防波堤となる強固な組織を作る」という「東亜同友会」の構想を掲げ、錦政会・稲川裕芳(後の稲川聖城)会長、北星会・岡村吾一会長、東声会・町井久之会長、松葉会・藤田卯一郎会長らに根回しを始め、同意を取り付けた。
同年8月 、田岡一雄は、広島の打越会・打越信夫会長を舎弟とした。これにより、第二次広島抗争に介入していくことになった。
同年、田岡一雄は、竹中正久をボディガード役に据えた。
同年、柳川組若頭・谷川康太郎の説得により、本多会系米山組副会長・紺谷久雄(後の四代目山口組若中)と曾山修が柳川組に寝返った。
同年9月1日、片山津温泉で、米山組組員と柳川組組員が喧嘩となった。
同年9月3日午後5時ごろ、米山組組員12人が、紺谷組事務所を襲撃し、紺谷久雄に拳銃で二発の銃弾を命中させて、重傷を負わせた。続いて、米山組組員は曾山組(組長は曾山修)事務所を襲ったが、柳川組は米山組組員・中田勲を殺害し、他1人に重傷を負わせた。
同年11月、藤村唯夫は南道会を解散し、白神英雄(白神一朝とも名乗った。後の一和会常任顧問)、中西一男(後の五代目山口組最高顧問)、福井英夫、加藤次男、宇田輝夫、東井儀一、松尾三郎、福井三則を独立させた。藤村唯夫は、新たに藤村組を結成した。
同月、田岡一雄は、白神英雄、中西一男、福井英夫、加藤次男、宇田輝夫、東井儀一、松尾三郎、福井三則に盃を与え、山口組直系若衆とした。
同年暮れ、田岡一雄は、山口組綱領を作成し、山口組組員全員に示した。綱領では、「内を固むるに和親合一を最も尊ぶ」「外に接するに愛念を持し信義を重んず」「長幼の序をわきまえ礼によって終始す」「世に処する己の節を守り誹りを招かず」「先人の経験を聞き人格の向上をはかる」の5つの体現を謳った。全港振専務理事・紀野実が、田岡一雄の命を受けて、綱領を作製した。
同年暮れ、北海道同志会・長岡宗一会長と同会会員・石間春夫と同会会員・谷内二三男は、柳川次郎の舎弟となった。北海道同志会は、柳川組北海道支部の看板を掲げた。北海道支部長には長岡宗一が就いた。長岡宗一の自宅兼事務所が、柳川組北海道支部の事務所となった。田岡一雄は、初めて北海道に拠点を持った。
同年12月、柳川組は、福井県の倉島組(組長は倉島官司)を傘下に収め、柳川組福井支部の看板を掲げた。
同年12月13日、田岡一雄は、「御事始」(または、「正月事始」。通称「事始め」)の席で、企業を持った幹部が若衆を持つことを禁じた。
昭和38年(1963年)、田岡一雄は、児玉誉士夫の取り持ちで、東声会・町井久之会長を弟とする兄弟盃を交わすことを決めた。東声会と山口組との結縁には、当初関東の諸組織が反発した。しかし、児玉誉士夫が関東の諸組織を説得した。
同年2月10日[15]、神戸市須磨区の料亭「寿楼」で、田岡一雄と町井久之との結縁式が行われた。結縁式には、阿部重作・住吉会名誉顧問、稲川裕芳・錦政会会長、関根賢・関根建設社長(松葉会顧問で、元関根組組長)、磧上義光・住吉一家四代目総長兼港会会長、波木量次郎・並木一家三代目総長が出席した。田岡一雄は組員1000人を神戸と須磨の会場に配置し、竹中正久に児玉誉士夫や稲川角二、関根賢らの世話を任せた。
同年、国鉄三宮駅前に、地下街「さんちかタウン」が建設されることが決まった。山本健一が、さんちかタウンの工事の用心棒を請け負うことになった。まもなく、山本健一は逮捕され、収監された。吉川勇次と地道行雄が、さんちかタウンの用心棒を、山口組直轄で行うようにした。地道行雄は、岡精義を通じて、さんちかタウンの建設を請け負った建設会社から、用心棒代を出させた。これが、後に田岡一雄に対する第一次頂上作戦の突破口となった。
同年2月11日、京都市の「都ホテル」に、稲川裕芳、岡村吾一、町井久之、田岡一雄、藤田卯一郎ら全国の主だった組長が集まり、児玉誉士夫の「東亜同友会」構想が披露された。関東の組長は稲川裕芳が、関西・中国・四国の組長を田岡一雄が、九州の組長を児玉誉士夫がまとめて、意思統一を図った。
同年3月、田岡一雄は、全国港湾荷役振興協会事務所で、全国港湾荷役振興協会会長・藤木幸太郎から右翼活動家の田中清玄を紹介された。
同年3月1日から、柳川次郎は、昭和34年(1959年)に起こした債権取立てに絡んだ恐喝容疑の裁判で、懲役1年が確定したことを受けて、大阪刑務所に服役した。地道行雄が三代目山口組若中・清水光重(後の三代目山口組若頭補佐)を柳川組の目付役とした。
同年3月13日午後10時30分ごろ、大垣市高島町のバー「夕暮」で、山口組柳川組西原組(組長は韓吉洙)組員と本多会系河合組組員と喧嘩になった。
同年3月14日午前0時30分、河合組組員と河合組の友誼団体木原組組員17人が、西原組組員10人の宿泊先だった大垣市高橋町の旅館「みその」を襲撃した。1人が死亡した。本多会若頭・平田勝市は、自身の平田会を率いて、大垣市に入った。田岡一雄は、地道行雄を大垣市に派遣した。山口組は本多会を破ったが、岐阜は地道組の直轄となった。
同年3月、グランドパレス事件が勃発した。結果的に、田岡一雄は稲川裕芳と対立し、児玉誉士夫が推し進めていた東亜同友会構想は頓挫した。
同年4月、田岡一雄は、田中清玄、麻薬審議会・菅原通済会長、参議院議員の市川房枝、作家の山岡荘八、評論家・劇作家の福田恆存らと、麻薬追放国土浄化同盟(後の全国国土浄化同盟)[16]を結成し、横浜市で結成大会を開いた[17]。
同月、警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会(会長は平田勝市)、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会の5団体を広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた。
同年5月、地道行雄は、北九州市若松区の梶原組(組長は梶原国弘)、安藤組(組長は安藤春男)を傘下に収めた。これを切っ掛けに、紫川事件が勃発した。
同年8月、田岡一雄は協議機関「七人衆」を設置した。若頭・地道行雄、舎弟頭・松本一美(松本組組長)、藤村唯夫、十九組・松本国松組長、安原運輸社長・安原武夫、三友企業社長・岡精義、神戸芸能社社長・三木好美が七人衆となった。
同年9月27日昼、都島区で池田組組員が柳川組都会会員に殴られた。これに対し、池田組は都会事務所に殴り込みをかけ、都会会員・山本道男を日本刀で刺殺し、小林菊松を負傷させた。柳川組は報復を開始した。同年10月30日までに計4回池田組事務所に殴り込みをかけ、ダイナマイトで池田組事務所を爆破した。
同年11月9日午後6時9分ごろ、田中清玄銃撃事件が勃発した。
同年11月16日夜、富山県射水郡大門町で、源清田一家の組員が柳川組米山組組員と喧嘩になり、米山組組員を負傷させた。これに対し、米山組組員12人が、源清田一家五代目総長を襲い、総長代紋と現金3万円を奪った。柳川組富山支部は源清田一家を応援し、柳川組組員15人が、日本刀で米山組組員6人を斬った。
同年12月3日、田岡一雄は、竹中正久(後の四代目山口組組長)に盃を与え、直若とした。
同年12月13日[18] 、 田岡一雄は、山口組「御事始」の席で若頭補佐を新設した。吉川勇次、山本健一、菅谷政雄、梶原清晴が若頭補佐に任命された。
同年12月、田岡一雄は、神戸市灘区篠原本町に自宅を新築し、移転した。それまで住んでいた神戸市生田区(後の中央区)橘通りの家には、山本健一が入居し、山本健一の自宅兼山口組事務所兼山健組(組長は山本健一)事務所となった。
昭和39年(1964年)1月 、「暴力取締対策要綱」が設置された。
同年1月14日、柳川次郎は獄中で引退声明を出し、それを引き換えに仮出所を許された[19]。
第一次頂上作戦から大阪戦争勃発まで
同年2月、警視庁が「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦」)を開始した。
同年2月、田岡一雄は、熊本組・熊本親組長に盃を与え、山口組直参とした。
同年、田岡一雄は、小田秀組・小田秀臣組長に盃を与え、山口組直参とした。
同年、田岡一雄は、山広組・山本広組長、中山組・中山美一組長、白神組・白神英雄組長を若頭補佐に加えた。
同年3月、名古屋市の「春日荘別館」で、日本国粋会・森田政治会長と地道行雄が五分の兄弟盃を交わした。
同年3月5日、柳川次郎は大阪市北区中之島の回生病院に入院した。柳川次郎は長期の服役を余儀なくされたので、柳川組の跡目を決定する必要に迫られた。柳川次郎は、柳川組若頭・谷川康太郎を考えた。この案に、野沢義太郎、加藤武義、金田三俊らが難色を示した。地道行雄は柳川組二代目に清水光重を推薦した。このため、柳川組幹部一同は、谷川康太郎を柳川組二代目に推挙することでまとまった。
同年3月8日、谷川康太郎の二代目襲名の盃事が、有馬温泉中の坊の「グランドホテル」で行われた。見届け人は、大野会・芝生健副会長、誠会・川口義昌会長、谷政組・谷口政雄組長、橋本組・橋本正男組長だった。取持人は、大野会若頭・津村和麿。後見人は、柳川次郎だった。
同年3月26日、警察庁は改めて広域10大暴力団を指定した。10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会(会長は磧上義光)、東京・日本国粋会、東京・東声会、川崎・日本義人党(党首は高橋義人)、東京・北星会だった。
同年6月6日、第1次松山抗争が起こった。
同年7月10日、福岡市旧柳町の料亭「新三浦」で、地道行雄と谷川康太郎の兄弟盃が行われた。谷川康太郎は、地道行雄の舎弟となった。これは、田岡一雄が、菅谷政雄などに配慮してのことだった。
同年7月25日 、田岡一雄が、山口組本家で谷川康太郎に若中の盃を与えた。二代目柳川組は山口組直参となった。
同年7月26日、谷川康太郎の柳川組二代目襲名披露式が、兵庫県有馬温泉のホテル池の坊「満月城」で執り行われた。
同年、山口組は、424団体、組員数9450人となった。
昭和40年(1965年)、山口組に対する第1次頂上作戦が本格化した。結果的に、田岡一雄は、港湾事業のしのぎを失った。
同年4月、 田岡一雄は、二代目細田組・細田利明組長に盃を与え直参若衆とした。
同年4月7日、山陰柳川組が解散した[20]。
同日、田岡一雄は、山陰柳川組・柳川甲録組長を破門にした[21]。
同年5月、田岡一雄は、秘書役の織田組・織田譲二組長(本名は伊藤豊彦)を連れて、太宰府天満宮を参詣した。田尾一雄は、その帰りに、心臓発作に襲われた。織田譲二は、残りの旅行予定を全てキャンセルし、田岡一雄とともに神戸市に戻った[22]。
同年5月10日、田岡一雄は、関西労災病院で診察を受けた。医者の判断は、心臓病だった[23]。
同年5月21日、田岡一雄は、東京芝高輪のプリンスホテルで行われた「全国港湾荷役振興協会」の会議に出席した。同日夜、赤坂のちゃんこ屋で、高倉健・江利チエミ夫婦、清川虹子、宮城千賀子らと会食した。
同日12時ごろ、田岡一雄は、竹中正久にめまいと胃痛と肩こりを訴えた。
同年5月23日、田岡一雄は、清川虹子の勧めで、渋谷のセントラル病院に入院した。狭心症だった。
同年8月4日、田岡一雄は、東京女子医科大学病院に転院した。
同年9月9日、田岡一雄は、夜行寝台「銀河」で大阪駅に向かった。
同年9月10日午前10時、田岡一雄は、関西労災病院新館5階517号室に転院した。田岡一雄担当医師の中山英男は、兵庫県警本部の要請に応じて、田岡一雄の診断証明書を、兵庫県警本部に提出した。田岡一雄の診断証明書はマスコミに漏れたため、中山英男は兵庫県警刑事部長に釈明を求めた。その後、鈴木組(組長は鈴木光義。中森光義とも名乗った)若頭・弘田武志が、司忍(後の六代目山口組組長)を連れて、関西労災病院に入院中の田岡一雄を見舞った。
同年9月24日、兵庫県警刑事部・山本昇一捜査課長が、文書で中山英男に謝罪した。
同年、田岡一雄は、小田秀臣、小田芳組・小田芳一組長(小田吉一とも名乗った)を若頭補佐に加えた。
同年12月13日、田岡一雄は、舎弟の村上組・村上義一組長(本名は沢田義一)、舎弟の現金屋・三宅芳一組長(本名は三宅一巳)、舎弟の白谷定雄、舎弟の石井組(組長は石井一郎)顧問・佐藤茂(佐藤建設社長)を破門とした[24]。
昭和41年(1966年)2月23日、山口組渋谷組・渋谷文男組長が死亡した[25]。
同年5月、弘田武志が鈴木組を引き継ぎ、弘田組を結成した。田岡一雄は、弘田武志を、山口組直参にした。
同年12月5日、藤村唯夫は、国立大阪病院で、肝臓疾患により死亡した。
昭和43年(1968年)1月11日、田岡一雄は、吉本興業社長・林正之助と共にレコード会社乗っ取り容疑で兵庫県警に逮捕された。
同年2月7日、田岡一雄は、地道行雄を若頭から解任した。後任の若頭に、梶原清晴を据えた。若頭補佐には、山本健一、山本広、中山美一、白神英雄、小田秀臣、小田芳一が任命された。
同年、田岡一雄は、中山美一と白神英雄を若頭補佐から解任し、代わりに菅谷政雄と中西組・中西一男組長を若頭補佐にした。
同年11月、田岡一雄は、心腹会・尾崎彰春会長に盃を与え、山口組直参とした)[26]
昭和44年(1969年)8月、田岡一雄は、柳川次郎と谷川康太郎を絶縁とした。
同年7月、田岡一雄は、旧柳川組だった石田組(後の章友会)・石田章六組長(後の六代目山口組顧問)、野沢組(後の一会)野沢義太郎組長[27]、金田組・金田三俊組長、藤原組・藤原定太郎組長を山口組直参にした。
同年9月、田岡一雄の息子・田岡満が、ジャパン・トレード株式会社を設立した。
同年11月、田岡一雄は、信原勇に盃を与え、山口組直参とした。その後、信原勇は信原組を結成した。
同年4月27日、地道行雄が、自宅で吐血した。地道行雄の妻は、110番通報で、パトカーを地道邸に呼んだ。地道行雄は、パトカーで病院に搬送されたが、5つの病院が診療を拒否した。地道行雄の妻は、田岡一雄の妻・フミ子に電話をし「関西労災病院に地道行雄を受け入れてくれるようにして欲しい」と頼んだ。地道行雄は、関西労災病院に入院した。地道行雄は末期癌だった。
同日、梶原清晴が、恐喝容疑で兵庫県警に逮捕された。
同年5月15日、地道行雄は、関西労災病院で、死亡した。
同年5月18日、田岡一雄は、関西労災病院の医師から、地道行雄の死を聞いた。田岡一雄は、二代目地道組を認めなかった。地道組若頭・佐々木道雄(佐々木将城とも名乗った。後の一和会幹事長)を山口組直系とした。
同年6月、石井一郎は、石井組を再結成した。石井一郎は、石井組の本拠を別府市から大分市泉町に移した。田岡一雄は再び大分県に拠点を持った。
同年、小西一家・小西音松総長の舎弟・神里恵男は、親琉会(組長は神里恵男)沖縄支部・国琉会を作り、沖縄支部長に国仲寛一を据えた。田岡一雄にとっては、初めての沖縄県の拠点だった。まもなく、国琉会は、琉球警察の手入れによって、解散した。
昭和45年(1970年)4月、菅谷政雄は、傷害及び賭博開帳図利により、服役した。
同年6月、田岡一雄は、大石組・大石誉夫組長(後の六代目山口組顧問)に盃を与え、山口組直参とした[28]。
同年10月17日、菅谷政雄が出所した。
昭和46年(1971年)5月、山口組は、傘下組織478団体、組員10508人となった。
同年6月、山口組菅谷組佐々木組(組長は丸井清)が、山形県酒田市の地元ヤクザに盃を与えて、山口組菅谷組山形県支部結成式を開催した。田岡一雄にとって、初めての山形県の拠点だった。
同年7月5日、山口組の機関紙である季刊誌『山口組時報』が創刊された。発行人は梶原清晴、編集人は小田秀臣だった。
同年7月25日、梶原清晴は、鹿児島県硫黄島で、磯釣りの最中に、高波にさらわれて、溺死した。
同年7月26日、田岡一雄は、入院中の関西労災病院で、梶原清晴の溺死を知った。山本健一、山本広、菅谷政雄、小田秀臣、小田芳一、中西一男の若頭補佐は、若頭補佐全員の互選によって、若頭を選ぶことを決定した。田岡一雄も若頭補佐全員による互選を了承した。
山本広は、菅谷政雄に自分への票集めの根回しを依頼した。菅谷政雄は、山本広の依頼を了承し、他の若頭補佐に、山本広を若頭に推すように、根回しをした。
同年8月、6人の若頭補佐(山本健一、山本広、菅谷政雄、小田秀臣、中西一男、小田芳一)は、後任の若頭を決めるために、互選の会議を開らいた。結果は、山本広4票、山本健一2票だった。山本広が後任の若頭に内定した。
山本健一は、関西労災病院で、田岡一雄に、「山本広が若頭になるならば、自分は若頭補佐を辞任する」と云う意向を伝えた。田岡一雄は、妻・フミ子を遣わして、山本広に、若頭から降りるように説得した。山本広は、いったん若頭辞退を承諾した。後日、山本広は、関西労災病院を訪ねて、田岡一雄に若頭辞退撤回の意向を伝えた。田岡一雄は菅谷政雄を呼び、菅谷政雄に、山本広に若頭を辞退させるように頼んだ。菅谷政雄は、いったんは山本広説得を拒んだが、最終的に了解した。その後、山本広は、菅谷政雄からの説得を受けて、若頭就任を辞退した。
同年8月、山口組長谷組・長谷一雄組長の兄弟分・西本寅太郎は、埼玉県所沢市で、「西本金融」を設立した。
同月、「西本金融」の事務所と、西本寅太郎の愛人が経営するスナックが、住吉連合会組員に襲われ、破損させられた。その後、西本寅太郎の義弟は、住吉連合会の車にはねられて、全治2週間の怪我を負った。所沢警察署は、西本寅太郎を、3年前に起こした傷害容疑で逮捕した。西本寅太郎は、留置場で、「西本金融」の解散を発表した。
同年9月5日、山本健一は、三代目山口組若頭に就任した。まもなく、小田芳一が、山本健一の若頭就任に反対して、菅谷政雄に若頭補佐を降りたいと云った。菅谷政雄は、田岡一雄に相談した。田岡一雄は、小田芳一を若頭補佐から解任した。若頭補佐には、山本広、菅谷政雄、清水組・清水光重組長、小田秀臣、中西一男、大平組・大平一雄(本名は松浦一雄)組長、竹中組・竹中正久組長の7人が任命された。
同年10月、田岡満が、ジャパン・トレードで芸能プロダクション業務を開始した。
同年、長谷川工務店は、ニューキョート・ホテルの建設請負仮契約を解約した。佐々木道雄が経営する「新日本政経研究所」は、「政経新法」で、長谷川工務店への非難記事を書いた。佐々木道雄は、長谷川工務店株50500株を購入した。佐々木道雄は、名義書き換え停止前日に、長谷川工務店50000株を自分の名義に、500株を佐々木組組員50人の名義に変更するように、長谷川工務店に迫った。佐々木道雄は、長谷川工務店の幹事証券会社・大和証券本社広報部長(当時)を、長谷川工務店社長に送って、脅迫をした。佐々木道雄は、長谷川工務店に、自分の長谷川工務店株50000株ほどを買い取らせて、さらに現金2000万円を脅し取った。
昭和47年(1972年)、田岡一雄は益田佳於を若頭補佐に任命した。
同年、田岡一雄の病状はやや回復し、下呂温泉に二泊三日の旅行に出かけた。
同年、田岡一雄は、高知県高知市の豪友会・中山勝正会長(山口組中井組(組長は中井啓一)若頭。後の四代目山口組若頭)に盃を与え、山口組直参にした。
同年10月24日、田岡一雄の自宅で、山本健一と稲川会・石井進(後の石井隆匡。後の稲川会二代目会長)理事長の兄弟盃が交わされた。さらに、益田佳於と稲川会・趙春樹専務理事の兄弟盃も交わされた。田岡一雄は、山本健一と石井進の兄弟盃で、自分の後継者が山本健一であることを示した[29]。
同年10月、山口組若頭・山本健一、山口組舎弟頭・松本一美、山口組若衆・桜井隆之、稲川会・石井進理事長、稲川会・松岡良次郎常任理事、秋山組・徐在鎮組長、白龍会・山田忠一会長、一力会・鍋島力夫会長らは、姫路市の竹中組事務所3階の16畳の大広間で、賭博を行った。胴元は竹中正久だった。賭博は5、6日間続き、総額50億円が動き、テラ銭は1億円以上になった。
同年、佐々木組・佐々木道雄組長は、神戸市東灘区に3階建ての自宅を建築した。佐々木道雄は新築祝いに、大手企業100社に、1個1万円ほどの置時計を贈った。読売新聞大阪社会部は、これを「山口組"総会屋に変身"」と報道した。
同年12月12日、佐々木組組員3人は、読売新聞大阪本社に乗り込み、「山口組"総会屋に変身"」の記事に対して激しく抗議した。
昭和48年(1973年)1月、美空ひばりの弟・かとう哲也が益田組舎弟頭であることが発覚した。日本縦断興行の「美空ひばりショー」開催が、各地のコンサート会場から拒否された。
同年、小田秀臣と織田譲二は、東亜友愛事業組合と交渉し、東亜友愛事業組合沖縄支部(支部長は、宣保俊夫)を、山口組直系とした。
同年5月3日、田岡一雄は、週刊誌『週刊アサヒ芸能』に、「田岡一雄自伝」の執筆を開始した。
同年5月、姫路防犯協連合会は、東映映画『山口組三代目』(企画は日下部五朗、武久芳三、田岡満)を上映拒否を決議した。
同年7月、加茂田重政が、千葉刑務所から出所した。
同年9月、兵庫県警は、昭和47年(1972年)に竹中組事務所3階で賭博が行なわれた事実を掴んだ。
同年9月28日朝、兵庫県警捜査4課は、竹中正久ら17人の逮捕状を取り、機動隊1個中隊を含む300人の警察官を使って、関連組事務所や各容疑者の自宅など25箇所を捜索したが、17人全員が逃亡していた。警察は竹中正久ら17人を指名手配した。その後、兵庫県警は、竹中正久らを逮捕したが、賭博開帳日を特定できなかった。
同年12月、田岡一雄は、中山組(組長は中山一美)舎弟頭・岸本才三(後の六代目山口組最高顧問)に盃を与え、山口組直参とした[30]。
同年12月、田岡一雄は、西脇組・西脇和美組長(後の六代目山口組顧問)に盃を与え、山口組直参とした[31]。
昭和49年(1974年)3月、昭和47年(1972年)竹中組事務所3階で行われた賭博に関して、容疑者30人全員が起訴猶予となった。その後、竹中正久は、稲川会・稲川聖城会長を訪ね、賭博捜査で稲川会の人間を巻き込んだことを詫びた。
同年、田岡一雄は、小西音松を若頭補佐に据えた。
同年、田岡一雄は、岸本才三を組長秘書にした[32]。
同年、静岡県富士宮市で、山口組菅谷組川内組(組長は、川内弘。北陸の帝王と呼ばれた)系後藤組(組長は後藤忠政。後の五代目山口組若頭補佐)と山口組菅谷組一心会(組長は、丸井清)富士宮支部が内部抗争を起こした。菅谷政雄は、丸井清に有利な、川内弘に不利な裁定を下した。川内弘は、菅谷政雄の裁定への不満を、山口組本部に訴えた。
同年5月、田岡満が、田中清玄の媒酌で、東映女優の中村英子と結婚した。
同年8月、東映映画『三代目襲名』(企画は日下部五朗、今川行雄、田岡満)が封切られた。
同年10月1日、神戸地方法務局は、神戸芸能社を休眠会社に指定した。
同年11月15日、菅谷政雄が出資法違反で逮捕された。
同年11月27日、東映は、『山口組三代目・激突篇』の製作を中止した。
昭和50年(1975年)1月15日、最終号となった『山口組時報』第11号が出された。
同年2月11日、田岡満が、兵庫県警捜査4課に、公正証書原本不実記載容疑で逮捕された。
同年3月30日、田岡満の妻・中村英子がガス自殺をした。
大阪戦争以降
同年7月26日深夜、大阪戦争が勃発した。
同年9月9日、警視庁は、大阪戦争を契機に、第3次頂上作戦を開始した。
同年10月、山口組定例幹部会で、菅谷政雄の謹慎処分が決定した。
昭和51年(1976年)2月初め、山本健一、大平一雄、竹中正久、小西音松、益田佳於、細田利明、加茂田重政、京都市の山崎組・山崎正組長、西宮市の桜井組・桜井隆之組長らが、葬式の帰りに山口組本部に寄り、チンチロリン賭博を行なった。
同年3月、兵庫県警は「田岡一雄は、廃業状態の神戸芸能社から田岡に月給10万円支払っているように届け出て健康保険を出し、その保険を使って不正医療給付を受けた」として、田岡一雄が入院する関西労災病院や自宅を捜査した。
同日、兵庫県警は、田岡一雄の妻・フミ子を呼び、取調べを行った。
同月初旬、山本健一、大平一雄、竹中正久、小西音松、益田佳於、細田利明、加茂田重政、山崎正、桜井隆之らが再び山口組本部で、本引き賭博を行なった。細田利明が胴元を務め、テラ銭1500万円を得た。このうち、450万円が大平一雄に渡り、そのうちの225万円が山本健一に渡った。
同月3月20日、山本健一、大平一雄、竹中正久、小西音松、益田佳於、細田利明、加茂田重政、山崎正、桜井隆之らが再び山口組本部で、本引き賭博を行なった。竹中正久が胴元を務めた。加茂田重政の負けが通算3500万円になった。田岡一雄は、山口組本部で賭博が行なわれていることを知り、山本健一、竹中正久、大平一雄、小西音松を関西労災病院に呼び、厳重注意した。
このころ、川内弘は、菅谷政雄に山口組本部直轄若衆(直若)への推薦を希望したが、菅谷政雄は、川内弘を直若に推薦しなかった。
同年4月、山本健一、小田秀臣ら山口組幹部8人は資本金6千万でビル管理を主業務とする「東洋信用実業」を設立し、役員となった。東洋信用実業は、「山口組会館」(後の四代目山口組本部)を建設した。また、それまで山口組幹部が田岡一雄の名代として使う慶弔の費用は、田岡一雄から出ていたが、上納金(山口組会費)から出すようにした[33]。また、山口組若頭補佐が山口組幹部名で出す慶弔の費用も、上納金から出すようにした。
同月、田岡一雄は、竹中正久と湊芳治から、菅谷政雄の謹慎解除を提案された。
同月、田岡一雄は、菅谷政雄の謹慎を解くことを、山本健一に指示した。菅谷政雄は、若頭補佐を解任され、筆頭若衆に降格となった。
同年6月28日、姫路警察署・藤田忠夫署長が、元丸三組組長・陳三郎からの収賄容疑で逮捕された。
同年7月、田岡一雄は、関西労災病院から退院し、自宅療養に入った。
同年12月、上原勇吉は、山口組若頭補佐・大平一雄から盃をもらい、山口組に参加した。これにより、山口組は沖縄戦争(第4次沖縄抗争)に参加することになった。
昭和52年(1977年)1月24日、菅谷政雄は、川内弘を破門とした。これを切っ掛けに、三国事件が勃発した。
同年4月15日、三国事件を受け、山口組本部[34]は、菅谷政雄を絶縁とした。
同年5月、田岡一雄は、二代目吉川組・野上哲男(後の六代目山口組最高顧問)に盃を与え、山口組直参とした[35]。
同年6月1日、町井久之の東亜相互企業が倒産した。
同年8月25日、長崎市の山口組山健組松本組・松本敏久組長の実弟が、地元暴力団に射殺された。
同年9月12日、松山市の山口組加茂田組木村組(組長は木村阪喜)が、兵藤会などの地元暴力団と抗争を起こした。田岡一雄は、松山市に山口組組員数100人を集結させた。
同年9月25日、山口組組員が、ダンプカーで、松山市の兵藤会本部に突入した。
同年9月27日、警察庁長官・浅沼清太郎は、山口組壊滅作戦を指示した。
同年10月6日、松山市の料亭で、山口組と兵藤会などの松山市の暴力団が手打ちをした。
同年12月、田岡一雄は、加茂田重政、細田利明、正路組・正路正雄組長、中山勝正を若頭補佐に据えた。
同年12月、田岡一雄は、平松組(組長は平松資夫)舎弟頭・石川尚に盃を与え、山口組直参とした[36]。
昭和53年(1978年)4月、田岡一雄は、玉地組・玉地健治組長(後の六代目山口組舎弟)に盃を与えて、山口組直参とした[37]。
同年6月、田岡一雄は、堀内組・堀内伊佐美組長に盃を与え、山口組直参とした[38]。
同年7月28日、田岡一雄は、岐阜市の瀬古安会・安璋煥会長と菊田組・菊田吉彦組長を除籍処分とした。
同年8月8日、瀬古安会と菊田組傘下だった9人の組長が、山心会(組長は足立哲雄)を結成した。
同年、山本健一は、田岡一雄の了解を得て、清水光重に断指を命じ、若頭補佐を解任した。
同年、田岡一雄は、山本健一の推薦を受け、福井組若頭・宅見勝(宅見組組長)に盃を与え、田岡一雄の若衆にした[39]。
その後、田岡一雄は、若頭代行を新設し、山本健一を療養させようと考えた。田岡一雄は、細田利明を呼び、山本健一が若頭代行新設に賛成かどうかを、確認して来るように命じた。
同年11月14日、細田利明と宅見勝は、東京白山の山本健一のマンションを訪ねた。山本健一のマンションには、豪友会・中山勝正組長、尼崎市の真鍋組・真鍋展朗組長、角定一家・木村茂夫総長がいた。山本健一は、若頭代行新設案への返事を保留した。
同日、大阪高等裁判所は山本健一の保釈取り消しを決定した。同日、山本健一は、東京・白山のマンションで、大阪府警の捜査員に「住居制限違反」で拘束され、収監された。
同年11月22日、兵庫県警は、昭和51年(1978年)の山口組本部での賭博で、山本健一、竹中正久、大平一雄や細田利明ら14人を指名手配または逮捕した。竹中正久は、神戸刑務所から灘警察署に移管されて取り調べられた。山口組本部長だった大平一雄が、全ての責任を引き受けた。大平一雄は執行猶予付きの懲役刑となり、他の者は罰金刑となった。
昭和54年(1979年)2月、田岡一雄は、大平一雄[40]、小西音松、細田利明[41]、正路正雄を、若頭補佐から解任した。
同年2月、田岡一雄は、溝橋組・溝橋正夫組長(後の三代目山口組若頭補佐)を若頭補佐に据えた[42]。
同年4月16日、田岡一雄は、自宅で、三代目共政会・山田久会長、侠道会・森田幸吉会長、浅野組・浅野眞一組長、共政会・門広相談役と会った。この席で、山口組と、それぞれ関西二十日会に所属していた共政会、侠道会、浅野組との共存共栄路線が確認された。
同年6月、田岡一雄は、溝橋組・溝橋正夫組長を若頭補佐にした。
同年6月9日、清水光重が死亡した。
同年7月、田岡一雄は、白浜温泉で遊べるまでに、健康が回復した。
同年8月5日、田岡一雄は、山心会・足立哲雄組長、伊原組・伊原金一組長(本名は尹炯騏)、川合組・川合康光組長(後の六代目山口組舎弟)[43]ら9人を、山口組直系組長とした。山口組の直系組長は102人になった。
同年12月6日、田岡一雄は、谷口政雄の酒梅組五代目襲名披露宴に出席した。
昭和55年(1980年)1月10日、姫路事件が発生した。田岡一雄は、関西二十日会との和平交渉を妨げた竹中正久の行動を支持した。
同年4月21日、北見市の奥州金子一家小林四代目・花田章は、奥州金子一家四代目の座を同門の者に譲り、加茂田重政の舎弟となった。これを切っ掛けにして、山口組と北海道同行会の抗争事件が勃発した。
昭和56年(1981年)3月6日、神戸地方検察庁は、第1次頂上作戦での神戸市さんちかタウン建設をめぐる恐喝で、田岡一雄に懲役4年を求刑した。
同年、山口組は593団体、構成員1万2893人となった[44]。
同年3月、田岡一雄は、溝橋組若頭・勝野重信(勝野組組長)に盃を与え、山口組直参とした[45]。
同年5月、菅谷政雄が府中刑務所から出所した。菅谷政雄は、すぐに心臓病で神戸市の病院に入院した。菅谷組舎弟頭・浅野二郎や菅谷組生島組・生島久治組長(通称はサージ)が、竹中正久、加茂田重政、中山勝正と会い、「菅谷政雄を説得して、引退させる」と伝えた。
同年6月12日、神戸市の料亭で、田岡一雄は、竹中正久、加茂田重政とともに菅谷政雄と会った。菅谷政雄自身の口から、菅谷政雄がすでに堅気になった旨を聞き、菅谷政雄からの詫びを受け入れた。山口組が、解散後の菅谷組を吸収することになった。
同年7月23日午後7時31分、田岡一雄は、入院先の関西労災病院で、急性心不全により死去した。享年68。
同年10月25日午後1時50分、神戸市灘区篠原本町の田岡邸で、山口組組葬が行なわれた。喪主は、妻の田岡文子。葬儀執行委員長は、稲川会・稲川聖城会長だった。服役中の山本健一が、副葬儀委員長だった。組葬には、ソビエト連邦のテレビ・ラジオやアメリカのボルチモア・サンなどの報道陣約300人が詰めかけた。機動隊約340人が、田岡邸を包囲し、警戒に当たった。参列者数は、兵庫県警の要請により、約1500人に絞られた。
山口組の運営は、山本健一の出所まで、山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、益田芳夫、加茂田重政、中山勝正、溝橋正夫と、田岡文子で行なわれることになった。
人物・エピソード
- 神戸港の船内荷役業や神戸芸能社などの正業を持っていたため、直系組長からの上納金は毎月数千円だった(六代目山口組の直系組長の上納金は毎月80万円~120万円)。このため、若衆を1人も持たない山老会(古参の舎弟グループ)でも、直参であり得た。[46]
- 強い暴力信奉者であり、「山口組は他の暴力団よりも強くなければならない」という信念を持っていた。暴力団抗争では、逮捕者の弁護士代、服役者の留守家族の生活費の面倒、抗争用の武器の調達費用など多額の経費がかかる。このため、経済的に見れば、暴力団抗争は割に合わない。しかし、田岡一雄は、暴力団抗争を繰り返すことにより、山口組を強い暴力団組織だと印象付けた。これにより、結果的にシノギが、他の暴力団組織よりも有利に働いていった。[47]
- 「山口組は親の手に負えない極道者をまとめて面倒を見ている。もし、山口組が解散したのならば、いったい誰が、これら極道者の面倒を見てくれるのか?」という持論を持っていた[48]。
- 興行師としての強引な手口も少なくなく、鶴田浩二襲撃事件以降、山口組の機嫌を損ねるとひどい目にあうという恐怖を芸能界興行界に定着させることになった。
- それまでばくちで生きていくのが一般的だったやくざの世界で、組員に賭け事の寺銭ではなく「正業」を持つことをすすめ、合法事業を営ませたことが発展の大きな理由である。中でも、組内の組織改革は、大きな改革であった。警察の取り締まりや景気の動向に左右されやすいヤクザ社会において、資金源の確立を絶対とした。このため、舎弟や組員の一部を「堅気」の法人団体の長として、一切の組員を持たせず渡世との交渉をさせなかった。こうして組の計画性と安定をもたらした点は その後の活動に大きな布石となった。その結果、1950年代から60年代にかけて傘下の団体が全国へ進出、各地で抗争事件を引き起こすなど、世間の恐怖と批判を招いた。
- 昭和40年(1965年)ころから、山口組では、不法な事業に一層手を染める者がますます増えていった。
- 神戸水上警察署の一日署長をした経験もあり、自伝によると警察との蜜月時代もあったとされる。青田昇の著書によれば田岡はプロ野球ファンであり戦後の混乱期は地回りの興行組織の機嫌を伺わなければ、試合が開催できずに嫌がらせを受けていたが、山口組の全国進出以後は野球は国民的娯楽だからとそのような慣習なしでも開催できるよう取り計らいをしたという。
- イギリス製の高級背広を着て、常にボディーガードの護衛を受けて、毎月3回理髪店に通った。
- 700万円の防弾ガラス付きの黒いキャデラックを愛用した。
- 昭和57年(1982年)2月5日、神戸灘税務署は、田岡一雄の相続申告書を公表した。遺産総額は1億5340万円だった。
- ピラミッド型と呼ばれる山口組の組織を作った。田岡一雄は、直系の子分全員を、2次団体の組長として独立させた。さらに、2次団体の組長には、2次団体組長の子分を組長として、3次団体を持たせた。末端組織を取り込むには、都合の良い構造になっている[49]。
田岡一雄の七人衆[50]
- 松本一美(舎弟頭。松本組組長。大映トルコ社長。大正7年(1918年)2月18日生まれ)
- 岡精義(舎弟。三友企業社長。神戸生コン運輸社長。全国港湾荷役振興協会理事兼神戸副支部長。昭和41年(1966年)5月5日に山口組から脱退。明治36年(1903年)12月24日生まれ)
- 安原武夫(舎弟。安原運輸社長。昭和41年(1966年)5月5日に山口組から脱退。明治39年(1916年)6月27日生まれ)
- 松本国松(舎弟。十九組組長。料亭旅館5軒経営。スタンドバー経営。氷卸商。白タク経営。金融業神崎殖産経営。昭和41年(1966年)10月18日解散。大正1年(1912年)12月27日生まれ)
- 藤村唯夫(舎弟。藤村組組長。昭和41年(1966年)12月5日死亡。明治44年(1911年)1月8日生まれ)
- 三木好美(舎弟。不動産金融業・南栄商事経営。大正4年(1915年)7月26日生まれ)
- 地道行雄(若頭。地道組組長。神光工業取締役。第一工業相談役。喫茶店「扉」経営。麻雀店「萬山荘」経営。白タク経営。昭和44年(1969年)5月15日死亡。大正11年(1922年)1月22日生まれ)
田岡一雄の舎弟[51]
- 陳三郎[52](本名は陳傳鋒。丸三組組長。国際パチンコ経営。大正14年(1925年)11月9日生まれ)
- 中川猪三郎(中川組組長。大正1年(1912年)12月4日生まれ)
- 町井久之(本名は鄭建永。東声会会長。東亜相互企業社長。昭和41年(1966年)9月8日解散。大正12年(1923年)7月20日生まれ)
- 安原政雄(安原会会長。昭和42年(1967年)12月15日解散。明治43年(1910年)10月13日生まれ)
- 打越信夫(打越会会長。紙屋町タクシー社長。昭和42年(1968年)8月26日解散。大正8年(1919年)1月5日生まれ)
- 田中禄春(本名は韓禄春。一心会顧問。富士観光社長。昭和41年(1966年)8月23日解散)
- 藤田仙太郎(元関脇・山錦善治郎。本名は山田善次郎)
- 細田利光(初代細田組組長。細田建材経営。昭和40年(1965年)12月31日死亡。大正7年(1918年3月10日生まれ)
- 本多末春(本多組組長。大正2年(1913年)4月24日生まれ)
- 新居良男(小天竜組組長。大正15年(1926年)2月11日生まれ)
- 鈴木光義(本名は中森光義。鈴木組組長。和光荷役社長。昭和41年(1966年)5月5日山口組から脱退。明治38年(1905年)9月6日生まれ)
- 杉村卯之助(杉村組組長。明治41年(1908年)1月1日生まれ)
- 広田敬次(全国港湾荷役振興協会理事兼大阪支部長。大阪港湾作業社長。昭和41年(1966年)5月5日に山口組から脱退。明治40年(1907年)3月20日生まれ)
- 青井照日出(住井運輸社長。大正2年(1913年)1月26日生まれ)
- 坂口敬三(坂口組組長。昭和41年(1966年)10月28日解散。明治41年(1908年)3月5日生まれ)
- 白石幸吉(本名は金文泰。上栄運輸社長。昭和41年(1966年)5月5日山口組から脱退。明治35年(1902年)10月17日生まれ)
- 針金留吉(針金組組長。明治28年(1895年)2月19日生まれ)
- 大楠正道(昭和運輸社長。昭和会顧問。昭和41年(1966年)5月5日に山口組から脱退。明治35年(1902年)10月1日生まれ)
- 中坂文八(神戸溶工取締役。明治24年(1891年)6月25日生まれ)
- 林達三郎(林組組長。明治33年(1900年)8月7日生まれ)
- 日笠寿明(金本運輸社長。昭和41年(1966年)5月5日に山口組から脱退。大正1年(1912年)8月24日生まれ)
- 栗田達之助(富栄運輸専務取締役。昭和41年(1966年)5月5日に山口組から脱退。明治44年(1911年)12月25日生まれ)
- 池田菊太郎(池田組組長。明治35年(1902年)12月5日生まれ)
- 村井政雄(明治39年(1906年)12月5日生まれ)
- 中井啓一(中井組組長。高知市市議会議員。中井興行社長。大正13年(1924年)5月15日生まれ)
- 小寺豊吉(明治40年(1907年3月15日生まれ)
- 増永光男(第一工業社長。第一交通社長。神光工業社長。シーライト工業代表取締役。昭和41年(1966年)5月5日に山口組から脱退。大正12年(1923年)9月23日生まれ)
- 森健治(明治34年(1901年)9月10日生まれ)
- 村上義一(本名は沢田義一。村上組組長。昭和40年(1965年)12月13日に破門。大正1年(1912年)12月20日生まれ)
- 三宅一巳(現金屋組長。昭和40年(1965年)8月1日解散。昭和40年(1965年)12月13日破門。大正2年(1913年)2月19日生まれ)
- 菅安次郎(昭和42年(1967年)1月に山口組から脱退。明治34年(1901年)11月24日生まれ)
- 大盛三平(大森組組長。明治33年(1900年)6月20日生まれ)
- 白谷定雄(昭和40年(1965年)12月13日破門。明治38年(1905年)10月15日生まれ)
- 灘波島之助(明治33年(1900年)8月14日生まれ)
- 国木田竹治(明治27年(1894年)7月25日生まれ)
- 佐藤茂(石井組顧問。佐藤建設社長。昭和40年(1965年)12月13日に破門。明治40年(1907年)7月10日生まれ)
- 湊芳治(湊組組長。ミナト製氷社長。明治41年(1908年)9月24日生まれ)
田岡一雄の若衆[53]
- 梶原清晴(若頭。梶原組組長。第一工業取締役。大正14年(1925年)10月5日生まれ)
- 山本健一(若頭。山健組組長。山健重機社長。大正14年(1925年)3月5日生まれ)
- 山本広(若頭補佐。山広組組長。大正14年(1925年)2月15日生まれ)
- 中山美一(若頭補佐。中山組組長。昭和2年(1927年)5月9日生まれ)
- 白神英雄(本名は白神一朝。若頭補佐。白神組組長。大正12年(1923年)3月16日生まれ)
- 小田秀臣(若頭補佐。小田秀組組長。小田マンション経営。昭和5年(1930年)10月4日生まれ)
- 小田芳一(本名は小田吉一。若頭補佐。小田組組長。山波建設興業社長。昭和4年(1929年)8月2日生まれ)
- 吉川勇次(若頭補佐。日栄運輸会長。吉川組組長。大正4年(1915年)1月20日生まれ)
- 清水光重(若頭補佐。清水組組長。大正14年(1925年)2月12日生まれ)
- 尾崎完次(明治40年(1907年)1月9日生まれ)
- 菅谷政雄(若頭補佐。菅谷組組長。金融会社経営。クラブ「花谷」経営。バー経営。ヌード・スタジオ経営。大正3年(1914年)2月25日生まれ)
- 大川覚 (大川組組長。昭和5年(1930年)8月14日生まれ)
- 三原悦二(神戸タンク化工社長。明治43年(1910年)3月20日生まれ)
- 北山悟(北山組組長。昭和4年(1929年)3月31日生まれ)
- 井志繁雄(井志組組長。昭和41年(1966年)5月10日解散。大正5年(1916年)10月10日生まれ)
- 渋谷文男(渋谷組組長。昭和41年(1966年)6月23日解散。昭和41年(1966年)2月23日死亡。明治42年(1909年)3月31日生まれ)
- 杉重夫(杉重組組長。大正11年(1922年)3月7日生まれ)
- 江口実(神戸東映専務。明治36年(1903年)11月20日生まれ)
- 永井文男(永井組組長。喫茶店経営。大正11年(1922年)7月20日生まれ)
- 林林之助(林組組長。明治41年(1908年)3月13日生まれ)
- 須原義男(須原組組長。喫茶店経営。大正15年(1926年)10月21日生まれ)
- 加島正夫(鹿島組組長。旅館・ソープランド経営。昭和41年(1966年)10月24日解散。大正1年(1912年)11月26日生まれ)
- 益田佳於(本名は益田芳夫。益田(佳)組組長。昭和5年(1930年)10月22日生まれ)
- 西岡勇(昭和40年(1965年)5月解散。西岡勇のみ山口組に残留。明治45年(1912年)3月10日生まれ)
- 竹中正久(若頭補佐。竹中組組長。金融業。昭和8年(1933年)11月20日生まれ)
- 前本重作(前本組組長。小料理店経営。明治43年(1910年)12月13日生まれ)
- 山内誠次郎(日栄運輸取締役。昭和41年(1966年)5月5日に山口組から脱退。明治43年(1910年)9月25日生まれ)
- 川井梅松(川井組組長。明治43年(1910年)12月10日生まれ)
- 松本広文(松広組組長。大正14年(1925年)3月1日生まれ)
- 岡村徳造(岡村運輸社長。昭和41年(1966年)5月5日に山口組から脱退。明治44年(1911年)5月6日生まれ)
- 山本博(山博組組長。不二船舶工業相談役。昭和41年(1966年)9月17日解散。大正3年(1914年)7月28日生まれ)
- 益田啓助(本名は益田敬介。益田(啓)組組長。バー経営。昭和2年(1927年)8月25日生まれ)
- 平松資夫(平松組組長。阪神興業社経営。大正10年(1921年)4月7日生まれ)
- 坂井奈良芳(坂井組組長。大正15年(1926年)8月1日生まれ)
- 溝橋正夫(若頭補佐。溝橋組組長。大正15年(1926年)4月1日生まれ)
- 小西音松(若頭補佐。小西一家総長。小西興行経営。大正4年(1915年)9月7日生まれ)
- 本仲正一(本仲組組長。南海建設社長。大正3年(1914年)5月8日生まれ)
- 山本次郎(山次組組長。昭和6年(1931年)9月5日生まれ)
- 織田譲二(本名は伊藤豊彦。織田組組長。港企業経営。昭和2年(1927年)8月10日生まれ)
- 石井一郎(本名は山川一郎。石井組組長。石井建材会長。石井建設会長。別府建材工業会長。昭和41年(1966年)11月7日解散。大正14年(1925年)3月15日生まれ)
- 柳川次郎(本名は梁元錫。初代柳川組組長。柳川総業会長。昭和39年(1964年)1月14日、引退。昭和44年(1969年)8月1日、絶縁。大正12年(1923年)5月生まれ)
- 尾崎彰春(本名は尾崎昭治。心腹会会長。昭和5年(1930年)6月6日生まれ)
- 加茂田重政(若頭補佐。加茂田組組長。昭和5年(1930年)7月6日生まれ)
- 高砂嘉之(双和運輸社長。昭和41年(1966年)5月5日に山口組から脱退。昭和2年(1927年)6月30日生まれ)
- 乾安雄(乾建設実権者。大正13年(1924年)5月30日生まれ)
- 田中晋治(扇港海運作業取締役。昭和41年(1966年)5月5日に山口組から脱退。昭和7年(1932年)3月7日生まれ)
- 蟹谷勲(山一運輸社長。住井運輸取締役。全国港湾荷役振興協会神戸支部理事。昭和41年(1966年)5月5日に山口組から脱退。大正6年(1917年)3月25日生まれ)
- 吉川明(日栄運輸社長。昭和41年(1966年)5月5日に山口組から脱退。大正13年(1924年)6月6日生まれ)
- 石井基弘(藤海運社長。石井商会社長。昭和41年(1966年)5月5日に山口組から脱退。大正13年(1924年)10月24日生まれ)
- 矢嶋長次(矢嶋組組長。昭和11年(1936年)1月8日生まれ)
- 白石敏夫(上栄運輸取締役。昭和41年(1966年)5月5日に山口組から脱退。昭和4年(1929年)11月20日生まれ)
- 伊豆健児(伊豆組組長。伊豆興行社長。昭和2年(1927年)2月8日生まれ)
- 堀川弘一(山の内運輸常務取締役。昭和41年(1966年)5月5日に山口組から脱退。昭和3年(1928年)1月4日生まれ)
- 田中敏男(田中組組長。バー経営。喫茶店経営。貸し店舗業。昭和39年(1964年)3月解散。昭和3年(1928年)2月11日生まれ)
- 泉本一男(泉本組組長。麻雀店経営。明治41年(1908年)2月12日生まれ)
- 小塚斉(小塚組組長。第一商事社長。日本海芸能社社長。興和重機建設社長。昭和42年(1967年)4月5日解散。大正12年(1923年)11月29日生まれ)
- 狩谷貞裕(狩谷組組長。料亭経営。グランドサロン経営。洋酒喫茶経営。麻雀屋経営。アパート経営。昭和8年(1933年)11月2日生まれ)
- 長谷一雄(長谷組組長。昭和倉庫運輸取締役。昭和41年(1966年)6月13日解散。大正15年(1926年)4月25日生まれ)
- 柳川甲録(本名は柳甲録。山陰柳川組組長。昭和40年(1965年)4月7日、解散、破門。大正12年(1923年)5月6日生まれ)
- 宇野加次(宇野組組長。明治24年(1891年)4月30日生まれ)
- 野口正(徳田組組長。栄神運輸社長。昭和6年(1931年)4月25日生まれ)
- 中西一男(若頭補佐。中西組組長。大正11年(1922年)12月25日生まれ)
- 福井英夫(福井組組長。南海建設工業経営。バー経営。大阪芸能協会経営。大正14年(1925年)5月15日生まれ)
- 加藤次男(加藤組組長。OS宣伝社経営。大正10年(1921年)12月13日生まれ)
- 宇田輝夫(宇田組組長。大正15年(1926年)5月8日生まれ)
- 東井儀一(梅木組組長。大正15年(1926年)5月20日生まれ)
- 松尾三郎(松尾組組長。大正13年(1924年)8月21日生まれ)
- 大盛三治(大森組組長。昭和5年(1930年)10月17日)
- 福井三則(柳木組組長。明晃興業社長。大正12年(1923年)1月26日生まれ)
- 二保茂丸(二保組組長。土建業二保組代表。昭和4年(1929年)3月6日生まれ)
- 姜在文(原田組組長。キャバレー経営。大正11年(1922年)9月23日生まれ)
- 若林璋(若林組組長。大正14年(1925年)9月7日生まれ)
- 熊本親(熊本組組長。大親港湾清掃役員。大正8年(1919年)3月11日生まれ)
- 中村憲逸(中村組組長。大正12年(1923年)7月20日生まれ)
- 大石宮次郎(大石組組長。大正13年(1924年)8月15日生まれ)
- 田崎勝次(大正4年(1915年)3月5日生まれ)
- 大平一雄(本名は松浦一雄。若頭補佐兼本部長。大平組組長。金融業経営。大正9年(1920年)3月26日生まれ)
- 宇野正三(宇野組組長代行。昭和8年(1933年)3月11日生まれ)
- 谷川康太郎(本名は康東華。柳川組組長。昭和44年(1969年)4月9日解散。昭和44年(1969年)8月1日絶縁。昭和3年(1928年)10月22日生まれ)
- 細田利明(若頭補佐。細田組組長。昭和15年(1940年)11月30日生まれ)
- 正路政雄(若頭補佐。正路組組長)
- 中山勝正(若頭補佐。豪友会会長。昭和12年(1937年)10月25日生まれ)
- 大石誉夫(大石組組長。昭和8年(1933年)2月20日生まれ)[54]
- 野上哲男(二代目吉川組組長。昭和4年(1929年)5月2日生まれ)[55]
- 安璋煥(瀬古安会会長。昭和53年(1978年)7月28日除籍)
- 菊田吉彦(菊田組組長。昭和53年(1978年)7月28日除籍)
- 佐々木将城(本名は佐々木道雄。佐々木組組長)[56]
- 野沢義太郎(野沢組組長。昭和5年(1930年)5月23日生まれ)[57]
- 石田章六(石田組組長。昭和7年(1932年)10月30日生まれ)[58]
- 西脇和美(西脇組組長。昭和10年(1935年)3月17日生まれ)[59]
- 岸本才三(岸本組組長。昭和3年(1928年5月15日生まれ)[60]
- 石川尚(名神会会。昭和9年(1933年7月2日生まれ)[61]
- 堀内伊佐美(堀内組組長。昭和12年(1937年)8月26日生まれ))[62]
- 玉地健治(玉地組組長。昭和14年(1939年)9月3日生まれ)[63]
- 川合康光(川合組組長。昭和12年(1937年)9月6日生まれ)[64]
- 足立哲雄(山心会組長)
- 宅見勝(宅見組組長。昭和11年(1936年)5月22日生まれ)[65]
- 伊原金一組長(本名は尹炯騏。伊原組組長)
- 勝野重信(勝野組組長。昭和12年(1937年)6月1日生まれ)[66]
脚注
- ^ 飯干晃一『山口組三代目 1野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9では「昭和7年(1932年)」としており、溝口敦・笠井和弘・ももなり高『実録・山口組武闘史 血と抗争! 菱の男たち1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4では「昭和11年(1936年)1月20日」としている
- ^ 溝口敦・笠井和弘・ももなり高『実録・山口組武闘史 血と抗争! 菱の男たち1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4では、当時はまだ正式な若衆ではなかったことになり、飯干晃一『山口組三代目 1野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9によれば、当時すでに山口登の若衆だったことになる
- ^ 出典は、飯干晃一『山口組三代目 野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9のP.71
- ^ 出典は、飯干晃一『山口組三代目 野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9のP.76
- ^ 飯干晃一『山口組三代目 1野望篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9では「昭和7年(1932年)」としており、溝口敦・笠井和弘・ももなり高『実録・山口組武闘史 血と抗争! 菱の男たち1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4では「昭和11年(1936年)1月20日」としている
- ^ 昭和11年(1936年)2月、山口登は、不二拳倶楽部主催者・岡本不二夫から、国技館で、チャンピオン・ピストン堀口と挑戦者・ジョー・イーグルの東洋フェザー級タイトルマッチ開催の依頼を受けた。
岡本不二夫は、日本拳闘倶楽部の協力を得て、国技館に、東洋フェザー級タイトルマッチ開催を打診した。
国技館は「西洋のスポーツであるボクシングの試合を開催させることはできない」として、岡本不二夫の要望をはねつけていた。
山口登は、岡本の依頼を引き受けた。
同日、嘉納健治(通称はピス健。嘉納治五郎の弟。大日拳創立者)に会い、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。
その後、山口登は、上京して、相撲協会と会談し、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催の了承を得た。
翌日、右翼団体40、50人が、山口登の宿に押しかけ、国技館での東洋フェザー級タイトルマッチ開催に抗議した。
山口登は、頭山満と会い、右翼団体を抑えてくれるように依頼した。頭山満は、山口登の依頼を快諾した - ^ 話合いを持った経緯は次の通り。
昭和9年(1934年)9月3日、山口登は、庄村吉之助や笠種次と伴って、法善寺横町近くの料亭で、吉本興業社長・吉本せいと会い、吉本興業の東京進出に尽力することを約束した。
同年10月13日から、吉本せいは、東京新橋演舞場で、大阪漫才公演を開催した。山口登は、この東京興行の応援にかけつけた。翌日、山口登は、吉本せいから「自分が東京にいる間は、浪曲師・広沢虎造を吉本興業の専属にしたい」と云う相談を受け、快諾した。その日の公演が終わった後に、吉本せいとともに、東京・浅草の浪花家金蔵宅を訪ねた。浪花家金蔵との話し合いの結果、広沢虎造を吉本興業の専属にすることと、虎造のマネージャーを引き続き浪花家金蔵が行うことがを取り決められた。
昭和15年(1940年)7月、広沢虎造は九州巡業を行った。巡業後、広沢虎造は、下関の籠寅組・保良浅之助組長を訪ねた。保良浅之助は、下関の料亭「春帆楼」で広沢虎造を接待し、当時売り出し中だった女剣劇・不二洋子一座・大江美智子一座との映画競演を持ちかけた。広沢虎造は即決し、吉本興業に無断で、籠寅組の企画による映画出演の誓約書を書いた。これに、吉本せいは立腹し、山口登に調停を依頼した。山口登は、下関で保良浅之助と交渉し、映画出演を白紙に戻させた。
同年7月28日、浅草の浪花家金蔵は籠寅組幹部・山村周平の訪問を受け、「籠寅組で映画を作りたいのだが、広沢虎造を出演させたい」という申し出を受けた。同年7月29日、浪花家金蔵は神戸に行き、山口登に相談した。山口登は「8月2日に、浪花家金蔵宅で、籠寅組と話し合いをしたい」と云う旨の電報を保良浅之助に打った。 - ^ 飯干晃一『山口組三代目 1 《野望篇》』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9では、「昭和21年(1946年)10月13日に田岡一雄の山口組三代目襲名式が行われた」としているが、溝口敦笠井和弘ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4では、「山口組三代目襲名式が行われたのは、昭和21年8月」としている
- ^ 飯干晃一『山口組三代目 1 《野望篇》』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9では「山口組三代目襲名式が行われた場所は、食堂『ハナヤ食堂』」としているがでは、溝口敦笠井和弘ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4では「山口組三代目襲名式が行われたのは、神戸市須磨の割烹料亭『延命軒』」となっている
- ^ 出典は、猪野健治、天龍寺弦、高橋晴雅『実録 覇道ヤクザ伝 山口組三代目田岡一雄 三代目襲名編』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6399-4
- ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9のP.77
- ^ 『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0のP.70や溝口敦笠井和弘ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4のP.165では、「昭和38年(1963年)に若頭補佐が新設された」ことが明記されているが、『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0のP.113には「彼(=山本広)は昭和三十一年に田岡の舎弟となり、三十二年には若頭補佐の要職についているが、その時点で子分を持っていなかった」と記述されている
- ^ 出典は、『愚連隊伝説』 洋泉社 1999年ISBN 4-89691-408-2のP.149
- ^ 『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0のP.70や溝口敦笠井和弘ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4のP.165では、「昭和38年(1963年)に若頭補佐が新設された」ことが明記されているが、『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0のP.113には「彼(=山本広)は昭和三十一年に田岡の舎弟となり、三十二年には若頭補佐の要職についているが、その時点で子分を持っていなかった」と記述されている
- ^ 出典は、飯干晃一『山口組三代目 2 怒涛篇』徳間書店<徳間文庫>、1982年、ISBN 4-19-597345-7のP.114
- ^ 出典は、実話時代編集部『山口組若頭』洋泉社、2007年、ISBN 978-4-86248-108-5のP.209
- ^ 出典は、実話時代編集部『山口組若頭』洋泉社、2007年、ISBN 978-4-86248-108-5のP.95
- ^ 『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0のP.70や溝口敦笠井和弘ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4のP.165では、「昭和38年(1963年)に若頭補佐が新設された」ことが明記されているが、『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0のP.113には「彼は昭和三十一年に田岡の舎弟となり、三十二年には若頭補佐の要職についているが、その時点で子分を持っていなかった」と記述(つまり、昭和32年の段階で若頭補佐のポストが既に存在していたことになる)されている
- ^ 柳川次郎は、昭和32年(1957年)4月に大阪駅で起こしたプー屋恐喝事件、昭和33年(1958年)2月10日に起こした鬼頭組との乱闘事件、他2件の併合審理事件を上告していたが、昭和39年(1964年)1月16日に棄却されることが確実となり、懲役7年の刑が決定的となっていた
- ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9のP.295
- ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9のP.295
- ^ 出典は、猪野健治、天龍寺弦、高橋晴雅『実録 覇王ヤクザ伝 山口組三代目 田岡一雄 山口組壊滅作戦編』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6621-6
- ^ 出典は、猪野健治、天龍寺弦、高橋晴雅『実録 覇王ヤクザ伝 山口組三代目 田岡一雄 山口組壊滅作戦編』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6621-6
- ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9のP.291
- ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9のP.292
- ^ 『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.4
- ^ 出典は、飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<角川文庫>1990年、ISBN 4-04-146425-0のP.178と溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、ISBN 4-380-90223-4の「五代目山口組本家組織図」
- ^ 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.4
- ^ 田岡一雄は、後継者を明確に宣言したわけではなかった。しかし、これで山本健一の山口組四代目就任が既定路線となった
- ^ 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.154
- ^ 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.6
- ^ 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.155
- ^ 田岡一雄と山口組若頭は、上納金(山口組会費)を免除されていた
- ^ 絶縁状の差出人は、「田岡一雄」ではなく「三代目山口組幹部一同」となっていた。しかし、田岡一雄は、山本健一から菅谷組による川内弘射殺を聞き、山本健一に絶縁を示唆していた
- ^ 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.40
- ^ 出典は、『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.24~P.25
- ^ 『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.4
- ^ 『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.57
- ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.158
- ^ 大平一雄が若頭補佐から解任されたのは、山口組本部長でありながら、昭和51年(1976年)に山口組本部で賭博を行なったからだった
- ^ 細田利明が若頭補佐を解任されたのは、昭和53年(1978年)7月11日、細田利明が田岡一雄をボディガードしていたにも関わらず、田岡一雄が松田組村田組大日本正義団組員・鳴海清に銃撃されたからである
- ^ 『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.35
- ^ 『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.4
- ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6]のP.27
- ^ 『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.34
- ^ 出典は溝口敦・笠井和弘・ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 2』竹書房、2003年、ISBN 4-8124-5764-5の後書き「経済やくざの変貌」
- ^ 出典は溝口敦、笠井和弘、ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4の後書き「田岡一雄 菱の代紋を恐怖色に染めた男」
- ^ 出典は溝口敦・笠井和弘・ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4の後書き「田岡一雄 菱の代紋を恐怖色に染めた男」
- ^ 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6]のP.27~P.28
- ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9
- ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9
- ^ 出典は、溝口敦、笠井和弘、ももなり高『実録・山口組武闘史 血と抗争! 菱の男たち 第7巻』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6202-9の特別寄稿『「殺しの次郎」が見た田岡一雄』
- ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房、1985年、ISBN 4-380-85236-9
- ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、4-380-90223-4の「五代目山口組本家組織図」
- ^ 『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.40
- ^ 出典は、溝口敦、笠井和弘、ももなり高『実録山口組四代目・竹中正久 荒らぶる獅子 第6巻』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6086-7
- ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、ISBN 4-380-90223-4の「五代目山口組本家組織図」
- ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、ISBN 4-380-90223-4の「五代目山口組本家組織図」
- ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、4-380-90223-4の「五代目山口組本家組織図」
- ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、4-380-90223-4の「五代目山口組本家組織図」
- ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、4-380-90223-4の「五代目山口組本家組織図」
- ^ 『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.57
- ^ 『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.4と溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、4-380-90223-4の「五代目山口組本家組織図」
- ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、4-380-90223-4の「五代目山口組本家組織図」
- ^ 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、4-380-90223-4の「五代目山口組本家組織図」
- ^ 『六代目山口組 完全データBOOK』メディアックス、2008年、ISBN 978-4-86201-328-6のP.34
田岡一雄の著書
- 『山口組三代目 田岡一雄自伝<電撃篇>』 徳間文庫 徳間書店 1982年6月 ISBN 4-19-597322-8
- 『山口組三代目 田岡一雄自伝<迅雷篇>』 徳間文庫 徳間書店 1982年7月 ISBN 4-19-597334-1
- 『山口組三代目 田岡一雄自伝<仁義篇>』 徳間文庫 徳間書店 1982年7月 ISBN 4-19-597335-X
- 『山口組三代目 田岡一雄自伝』 徳間書店 2006年10月 ISBN 4-19-862238-8 (『週刊アサヒ芸能』創刊50周年特別企画)
田岡一雄関連の映画、オリジナルビデオ
- 『山口組三代目』(1973年、東映)、田岡一雄役は、高倉健
- 『仁義なき戦い 代理戦争』(1973年、東映)、明石辰男のモデルは、田岡一雄。明石辰男役は、丹波哲郎
- 『仁義なき戦い 頂上作戦』(1974年、東映)、明石辰男のモデルは、田岡一雄。明石辰男役は、丹波哲郎で、写真のみの登場。
- 『三代目襲名』(1974年、東映)、田岡一雄役は、高倉健
- 『実録外伝 大阪電撃作戦』(1976年、東映)、川田利明のモデルは、田岡一雄。川田利明役は、丹波哲郎
- 『やくざ戦争 日本の首領』(1977年、東映)、佐倉一誠のモデルは、田岡一雄。佐倉一誠役は、佐分利信
- 『日本の首領 野望篇』(1977年、東映)、佐倉一誠のモデルは、田岡一雄。佐倉一誠役は、佐分利信
- 『日本の首領 完結篇』(1978年、東映)、佐倉一誠のモデルは、田岡一雄。佐倉一誠役は、佐分利信
- 『総長の首』(1979年、東映)、田岡のモデル・緒方千之助役は、俊藤浩滋
- 『制覇』(1982年、東映)、田所政雄のモデルは、田岡一雄。田所政雄役は、三船敏郎
- 『最後の博徒』(1985年、東映)、田城一正のモデルは田岡一雄。田城一正役は、丹波哲郎
- 『実録・大阪やくざ戦争 報復』(2002年、GPミュージアムソフト)、竜造寺誠道のモデルは、田岡一雄。竜造寺誠道役は、梅宮辰夫
- 『修羅の群れ 第2部 風雲編』(2002年、GPミュージアム)、田城正雄のモデルは、田岡一雄。田城正雄役は、中井貴一
- 『修羅の群れ 第3部 完結編 大抗争列島』(2002年、GPミュージアム)、田城正雄のモデルは、田岡一雄。田城正雄役は、中井貴一
- 『実録・竹中正久の生涯 荒らぶる獅子』(2003年、GPミュージアムソフト)、田城正雄のモデルは、田岡一雄。田城正雄役は、高松英郎
- 『実録・絶縁』、『実録・絶縁 完結編』(どちらも2004年、GPミュージアムソフト)、竜造寺誠道のモデルは、田岡一雄。竜造寺誠道役は、梅宮辰夫
- 『実録・絶縁状』(2007年、GPミュージアムソフト)、竜造寺誠道のモデルは田岡一雄。竜造寺誠道役は、川地民夫
田岡一雄関連の書籍
- 飯干晃一『山口組三代目・〈1,野望篇〉』 角川書店 <文庫>1989年9月 ISBN 4-146421-8
- 飯干晃一『山口組三代目・〈2,怒涛篇〉』 角川書店 <文庫>1989年9月 ISBN 4-146422-6
- 田岡由伎『お父さんの石けん箱』 ベストセラーズ 1991年3月 ISBN 4-584-00751-9
- 田岡由伎『お父さんの石けん箱 -- 愛される事を忘れている人へ』角川書店 <文庫> 2003年3月 ISBN 4-04-369501-2
- 『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0
- 猪野健治『三代目山口組―田岡一雄ノート』筑摩書房<ちくま文庫>、2000年、ISBN 4-480-03600-8
- 西木正明『一場の夢』集英社、2005年、ISBN 4-08-774776-X
- 実話時代編集部『山口組大解剖 PART1』三和出版、2002年、ISBN 9784883568789
- 実話時代編集部『山口組大解剖 PART2』三和出版、2002年、ISBN 4883569020
- 実話時代編集部『山口組大解剖 PART3』三和出版、2002年、ISBN 488356911X
- 実話時代編集部『山口組三代目 制覇の野望』大和書房<だいわ文庫>、2007年、ISBN 9784479300717
- 実話時代編集部『山口組血風録』洋泉社、2005年、ISBN 9784896919615
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 2』竹書房、2003年、ISBN 4-8124-5764-5
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 3』竹書房、2003年、ISBN 4-8124-5852-8
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 4』竹書房、2003年、ISBN 4-8124-5906-0
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 5』竹書房、2004年、ISBN 4-8124-5975-3
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 6』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6094-8
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 7』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6202-9
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 8』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6400-5
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 9』竹書房、2006年、ISBN 4-8124-6543-5
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 10』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6731-2
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 11』竹書房、2008年、ISBN 978-4-8124-6809-8
- 猪野健治、天龍寺弦、高橋晴雅『実録 覇道ヤクザ伝 山口組三代目田岡一雄 三代目襲名編』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6399-4
- 猪野健治、天龍寺弦、高橋晴雅『実録 覇道ヤクザ伝 山口組三代目田岡一雄 山口組壊滅作戦編』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6621-6
- 猪野健治、天龍寺弦、高橋晴雅『実録 覇道ヤクザ伝 山口組三代目田岡一雄 巨星の最期編』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6648-3
- 西木正明、田丸ようすけ『美空ひばりと田岡一雄 焦土のめぐりあい編』竹書房、2006年、ISBN 4-8124-6378-5
- 西木正明、田丸ようすけ『美空ひばりと田岡一雄 銀幕と抗争編』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6615-5
- 西木正明、田丸ようすけ『美空ひばりと田岡一雄 首領とお嬢編』竹書房、2008年、ISBN 978-4-8124-6656-8
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『荒らぶる獅子 第5巻』竹書房、2004年、ISBN 4-8124-5905-2
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『荒らぶる獅子 第6巻』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6086-7
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『荒らぶる獅子 第7巻』竹書房、2005年、ISBN 4-8134-6224-X
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『荒らぶる獅子 第8巻』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6555-4
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『荒らぶる獅子 第9巻』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6737-4
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『荒らぶる獅子 第10巻』竹書房、2008年、ISBN 978-4-8124-6845-6
- 田上憲治、大道智史『漫画山口組完全デ-タbook三代目組長田岡一雄物語 カリスマへの道 第1章』メディアックス、2008年、ISBN 4862013449
参考文献
- 実話時代編集部『山口組若頭』洋泉社、2007年、ISBN 978-4-86248-108-5
- 飯干晃一 『山口組三代目・〈1,野望篇〉』 角川書店 <文庫>1989年9月 ISBN 4-146421-8
- 『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0
- 山平重樹『ヤクザ大全』幻冬舎<文庫>1999年 ISBN 4-87728-826-0
- 山平重樹『一徹ヤクザ伝 高橋岩太郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2004年、ISBN 4-344-40596-X
- 飯干晃一『柳川組の戦闘』角川書店<文庫>、1990年、ISBN 4-04-146425-0
- 溝口敦・笠井和弘・ももなり高『荒らぶる獅子 第4巻』竹書房、2004年、ISBN 4-8124-5811-0
- 溝口敦・笠井和弘・ももなり高『荒らぶる獅子 第5巻』竹書房、2004年、ISBN 4-8124-5905-2
- 溝口敦・笠井和弘・ももなり高『荒らぶる獅子 第6巻』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6086-7
- 溝口敦・笠井和弘・ももなり高『荒らぶる獅子 第7巻』竹書房、2005年、ISBN 4-8134-6224-X
- 「国会会議録・第046回国会予算委員会第4分科会第2号」
- 「第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」
- 「国会会議録・第046回国会 地方行政委員会 第54号」
- 「国会会議録・第046回国会 地方行政委員会 第55号」
- 正延哲士『瀬戸内遊侠伝 博徒・森川鹿次の生涯』洋泉社、2000年、ISBN 4-89691-458-9
- 飯干晃一『山口組三代目 1 《野望篇》』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9
- 溝口敦・笠井和弘・ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 1』竹書房、2002年、ISBN 4-8124-5658-4
- 溝口敦・笠井和弘・ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 2』竹書房、2003年、ISBN 4-8124-5764-5
- 大分の歴史と自然 大分ヤクザの系譜
- 芹沢耕二・北村永吾・天龍寺弦『突破ヤクザ伝 夜桜銀次 平尾国人』竹書房、2006年、ISBN 4-8124-6311-4
- 山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2
- 溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社<+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9
- 正延哲士・芹沢耕二・赤名修『武闘王ボンノ 第3巻』竹書房、2001年、ISBN 4-8124-5514-6
- 正延哲士・芹沢耕二・赤名修『武闘王ボンノ 第4巻』竹書房、2001年、ISBN 4-8124-5515-4
- 正延哲士『伝説のやくざ ボンノ』幻冬舎(幻冬舎アウトロー文庫)、1998年12月、ISBN 4-87728-676-4
- 溝口敦、笠井和弘、ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 第9巻』竹書房、2007年1月、ISBN 4-8124-6543-5
- 溝口敦『荒らぶる獅子 山口組四代目竹中正久の生涯』徳間書店、1988年、ISBN 4-19-123603-2
- 芹沢耕二、鴨林源史『実録王道ヤクザ伝 山口組六代目司忍』竹書房、2007年、ISBN 978-4-8124-6604-9
- 東史郎、二ツ木哲郎『実録王道ヤクザ伝 真説 山口組六代目司忍 飛翔編』竹書房、2008年、ISBN 978-4-8124-6672-8
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