東史郎

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東 史郎(あずま しろう、1912年明治45年)4月27日 - 2006年平成18年)1月3日)は、日本の軍人(召集兵)、著述家、社会活動家。京都第16師団福知山第20連隊上等兵として南京攻略戦に参加し、南京大虐殺(南京事件)を著書『わが南京プラトーン』で告発した。中国やアメリカ合衆国などでも謝罪活動を続けた。

日記の記述について元上官と名誉毀損裁判となり、最高裁で東日記の記述は客観的証拠がないと判定され、損害賠償が命じられた[1][2]

経歴[編集]

京都府丹後町間人(たいざ)出身[3]1937年8月に25歳で召集後、陸軍第16師団歩兵第20連隊第1大隊第3中隊上等兵として、華北の戦闘に参加、11月16日に揚子江岸滸浦鎮に上陸し、南京攻略にむかった[4]。1939年11月、郷里に戻る[5]。戦後は工作機械製造業などの仕事をする[6]

1987年7月7日、中国戦線での体験などを記した日記や記録をもとに戦後清書したものを、寿岳章子の市民団体の求めで京都「平和のための戦争展」で公開、増田六助、上羽武一郎の三人が加害証言の記者会見をした[7][8][6]。同年、日記もとにした著書『わが南京プラトーン― 召集兵の体験した南京大虐殺』を青木書店より出版した[1][9]。会見後は電話など匿名の非難を受け、「殴り蹴られて、己の屋敷を侵害された者の立場を想像すれば、 日中戦争の是非は子どもでも理解できるのではないか」と朝日新聞で反論した[6]1987年12月13日、南京50カ年を記念して南京事件調査研究会(洞富雄)が南京市を訪問したのに同行し、加害者として初めて謝罪し、いつまでもひざまづいている東を見て中国人の多くが感動したという[6]。この時期、第3中隊戦友会「中隊会」から除名された[6]

東はアメリカ合衆国司法省から入国拒否された[10]マギーフィルムの第一発見者で、ジョン・ラーベを刊行した ニューヨーク在住の紀念南京大屠殺受難同胞聯合会(Alliance in Memory of the Victims of the Nanking Massacre)[11]会長の邵子平(Shao Tzping)[12]は、東は自ら3人の中国人の非人道的な虐殺を公表したので、入国が拒否されたのだと述べた[10]

2006年1月3日、大腸癌のため死去[1]。93歳。死去に際して中華人民共和国政府[13]および侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館[14]から哀悼の意が示された。

南京事件の証言[編集]

下関での中国人遺体[編集]

証言では、1938年1月23日、南京転出のため立寄った下関と思しき波止場で、なぎさに敵兵の死体が山となって転がっており、毎日トラックで敗残兵で積んできた奴を河の中へ突き落とし射ち殺すのだと、その兵士から聞いた[15]

集団強姦[編集]

隠れている中国人女子を見つけると100%犯した。1人ではなく5人で犯した。その後は殺し、火をつけて燃やした。罪悪感はなかったと集団強姦を告白した[16]

郵便袋殺害[編集]

上官の元陸軍第16師団歩兵第20連隊伍長が「中国人を郵便袋の中に入れ、ガソリンをかけて火をつけ、手榴弾を袋のひもに結びつけて沼の中にほうり込んだ」と証言した[17]

東によれば、1937年12月21日、南京城内の整備を命じられ、馬群鎮を去り、中山通の最高法院の前に一人の中国人男性が引っぱられてきた。歩兵第20連隊伍長は中国人男性を袋の中へ入れ、自動車のガソリンをかけ火をつけよといった[17]

泣き叫ぶ支那人は、郵便袋の中に入れられ、袋の口はしっかり締められた。 彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。袋はフットボールのようにけられ、 野菜のように小便をかけられた。 ぐしゃりとつぶれた自動車の中からガソリンを出した西本(歩兵第20連隊伍長の仮名)は、袋にぶっかけ、 袋に長い紐をつけて引きずり回せるようにした。 (略)西本は火をつけた。ガソリンは一度に燃え上がった。 と思うと、袋の中で言い知れぬ恐怖のわめきがあがって、 こん身の力で袋が飛びあがった。袋はみずから飛びあがり、みずから転げた。 戦友のある者たちは、この残虐な火遊びに打ち興じて面白がった。 袋は地獄の悲鳴をあげ、火玉のようにころげまわった。 袋の紐を持っていた西本は、 「オイ、そんなに熱ければ冷たくしてやろうか」 というと、手榴弾を二発袋の紐に結びつけて沼の中へ放り込んだ。 火が消え袋が沈み、波紋のうねりがしずまろうとしている時、 手榴弾が水中で炸裂した。水がごぼっと盛り上がって静まり、遊びが終わった。こんな事は、戦場では何の罪悪でもない。 ただ西本の残虐性に私たちがあきれただけである。 — 東史郎『わが南京プラトーン― 召集兵の体験した南京大虐殺』青木書店,106-108頁

ただし、この記述について元上官が名誉毀損で提訴し、最高裁で客観的証拠がないと確定した(後述東裁判)[16]

なお、東証言では1938年4月5日に棗荘付近の部落で中国人男性を布団巻きに石油をかけて燃やした事件も記載されているが、裁判では問われなかった[18]


評価[編集]

東は訪中するたびに英雄として各地で熱烈歓迎を受けた[19]

津田道夫は著書『南京大虐殺と日本人の精神構造』社会評論社 (1995、1999年中国語訳刊)で東証言を多くを引用し、東史郎は、「大日本帝国が犯し、 日本国が犯しつづけている罪責を一身で担って、 個の場からの公然たる謝罪を継続しつづけているのである。 一人の東史郎の行為は、 大日本帝国=日本国家の罪業を永遠の曝し台に釘づけにしている」と評価した[20]。また津田道夫によれば、中国側学者の綿密・詳細な検証によって、地方の習慣も事実と一致しており、 十分に信頼しうるものであると評価しているという[21]。津田は、「したがって、わが周辺でささやかれた東「日記」=虚構説は、 中国人学者の努力によっても粉砕された」と述べている[22]

吉田裕は「南京攻略戦の特徴の一つは、軍事的必要性や合理性を欠いた、放逸で嗜虐的な加害行為が、特に戦闘の帰趨が決した掃討戦の段階で頻発した」 で、東日記の「遊び」は、その一例であると指摘した[23][24]

板倉由明によれば、停泊場司令部は12月28日までに港湾の死体処理を終わらせており、史実と東証言は合致しないと批判した[25]。敗残兵の掃蕩も第二次便衣狩りが1月5日に完了している[26]

水谷尚子は東証言に異議を唱えた[27]。中北龍太郎、丹羽雅雄、空野佳弘は水谷を批判した[28]


教科書に記載された東証言[編集]

日本:一橋出版『世界史B』[編集]

1993年笠原十九司は東史郎手記から、兵士の安眠のために部落農民を殺すのだった、と教科書『世界史B』(一橋出版)に引用した[29]

『宿営にあたって・・・農民を殺して寝た。・・・襲撃してくるかもしれないから、殺すのだった。・・・』と日本の一兵士は日記に書きのこしている」 — 笠原十九司,一橋出版『世界史B』(平成5年検定)

上杉千年産経新聞は東日記は詐話(作り話)であり疑わしい資料であるため、教科書での使用は不適であると説いた[30]板倉由明は東裁判で係争中の本からの引用は問題と抗議し、出版社側は中島今朝吾師団長日記と差し替えた[6]

カリフォルニア州公立高校での教材として[編集]

アメリカでは2015年カリフォルニア州の公立高校の世界史の授業で東証言が教材として使用された[16]。教材は、1999年から全米で放映されたケーブルテレビ局ヒストリー・チャンネルの「ザ・センチュリー/アメリカズ・タイム」で、その番組のなかで東は、戦争当時中国人女性を見つけると必ず5人で集団レイプし、レイプ後は火をつけて燃やした、と発言していた[16]

名誉毀損裁判[編集]

東の著書で中国人を郵便袋の中に入れて殺害したと証言された元歩兵第20聯隊第3中隊第1分隊長の上官が1993年4月15日名誉棄損で東史郎、下里正樹青木書店の三者を東京地裁に提訴した[31][6]。裁判は東裁判(あずまさいばん)とも呼ばれる[24][32]

原告は板倉由明とも相談し、原告代理人高池勝彦弁護士事務所に「南京事件の虚構を正す会」が置かれた[6]。板倉はこの訴訟を突破口として、 歩20の残虐行為の虚偽を証明して名誉を回復し、さらに、 いわゆる『南京大虐殺』の虚構を明らかにしたいと述べた[33][6]

判決内容[編集]

東京地裁判決[編集]

1996年4月、東京地裁1審判決は日記の記述を虚構と認定し、 東ら三者に50万円の支払いを命じた[34][6]。被告は上告。

1審判決では、南京事件については 「多数の捕虜や非戦闘員である中国人が日本兵によって殺害された」の「概ね否定しがたい事実」であると家永教科書裁判判決を踏襲したが、郵便袋事件については、不自然というべきで、客観的証拠はなく、 事実と認めるに足りない、「実行者に危険で、実行可能性がない」と判決された[6]

原告は法廷で「自分は中国で人を殺したことがない。 強姦もしたことがない。 略奪も死体も見たことがない」と証言した[6]

東弁護団は「東史郎さんの南京裁判を支える会」を結成し、 名誉毀損に当たらないことを立証するために、郵便袋事件が不自然でもないことを南京での手榴弾再現実験や、水中に人を袋に入れて沈む深さを計る実験などを行ったが、これらの実験結果や現地調査も判決で否定された[6][35]

高裁(控訴審)判決[編集]

控訴審第1回公判は1996年9月26日に開始され、1998年12月22日に東京高等裁判所第7民事部(裁判長奥山興悦、裁判官・杉山正己、佐藤陽一)で控訴棄却の判決が下された[36][37]

控訴審では、東が戦前に書いたとされる「日記」の現物が裁判所に提出されたが、南京戦に関する部分は「日記」の現物は提出されなかった[38]。東側は「日記」のその部分は、当時「懐中手帳」に書き、それを二、三年後に書き写したと主張したが、その「懐中手帳」は法廷に提出されなかった[39]。さらに、東は、ある展示会に貸出したところ返却されなかったと主張したが、その主張は展示会の責任者によって否定された[40]

東は、日記は陣中メモ等を後の1940年から1944年3月までに「正確に記録したもの」であると反論した [41]。しかし、判決では、東日記は戦前に書かれたものかどうかも疑問で、 戦後に加筆された可能性もあり、「東の供述は全面的には採用しがたい」 と判定した [42]。また高裁は「1938年(昭和13年)3月以前についての原資料である懐中手帳などは存在しない」と判定し[43]、「控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、 本件行為を目撃していなかった、すなわち、 本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない」と判定した[6]。裁判では、日記の多くの記述も「疑問が生じる」と指摘され、「主要な部分を裏付ける証拠はなく、真実と認めることはできない」とされた[16]

原告側は別人の従軍日記を証拠に、本件残虐事件の起こった場所にいなかったと主張したが、東側はその日記は偽造されたものと反論した[24]

なお、高裁は、当事者双方は「南京事件の真否を問題としてもいるが、 この点を判断することによって本件事件の真否が判明するものでないことは(略)明らかであるから、(略)判断しない」とした[44]

高裁判決後[編集]

原告弁護団の高池勝彦弁護士は、この判決によって東氏の書籍自体の信用性がないことが 明らかになった(略)かねがねマスコミや評論家と称する人たちが旧日本軍の非行を暴く場合、 告発者への一方的な取材だけで、それの真偽も検証せず、 その主張するままを記事にしているが本件もその一例で、 東日記が大々的に宣伝され、 多くの新聞やテレヴィでは訴訟中も原告側に対する取材は殆どなかった、として 公平な両当事者からの取材を要求した[10]

1998年12月22日の高裁判決の報道陣は中国側から北京中央テレビ・江蘇テレビ・南京テレビ・ 香港テレビが取材した[45]。中国のメディアは、 裁判官が13分遅刻して出廷したこと、判決の言い渡しが簡単すぎたこと、原告が記者会見に登場しなかったことに驚愕し憤激を覚えた[10]。さらに、原告側記者会見の際に「南京虐殺捏造裁判勝利」という幕に対して中国報道陣から「この幕は、多くの中国人の心に深い傷をつけるので、取り外してください」「中国人に対しての侮辱だ」と抗議したが、取り外されなかった[10]。会見では南京大虐殺についての質問が相次ぎ、高池勝彦弁護士は「私の個人的見解は捏造だと思いますよ。 戦争ですから日本の兵隊が全く悪いことをしていなかったとは思いません。(略)ただし南京大虐殺はそういうものじゃないでしょ。 例えば殺人3件だったら大虐殺とは言いませんよね」と答えた[46]。 江蘇テレビ局の記者が南京大虐殺を起こしたのは日本だから、日本が証拠を出すべきだと抗議すると、高池は「あったというのなら、 そう主張する方が(証拠を)あげるべき」だと反論した[10]

高裁判決の翌日1998年12月23日人民日報は「歴史の歪曲者が勝訴、過ちを悔いた告白者が敗訴。 東京高等裁判所が史実を顧みない不当な判決」と報じ、この裁判は「歴史の真実を後世に伝えるのを妨害するもの」によって起こされたと断じた[47]

東と弁護団は、控訴審判決は「歴史の事実」を根本から踏みにじったとし 、「裁判所が『まぼろし派』に加担し、きわめて政治的な判断をした」と批判し[48]12月25日上告。

弁護団の中北龍太郎弁護士は、原告側を支えているのは「南京事件まぼろし派」で、虐殺は中国軍の犯行と主張し、その延長線上で東日記を虚偽と決めつけたが、東日記は戦場の真実を描写した貴重な記録であり、元上官らによる訴訟は「真実の公表を妨害するための邪悪な企み」で、裁判所はこの企みに加担したと批判した[24]。 また、高裁は「遊びは終わった」という日記の表現にこだわって、「遊び」として身の危険を全く冒さないで実行できなければ無意味と決めつけ実行不可能と判断したが、「遊び」の意味について平時の日常用語と同じものととらえるという致命的な誤解を犯し歴史認識が欠落している、また判決では火傷の危険があるとされたが、弁護団が中国で行った手榴弾の水中爆発実験では火傷や被弾の危険がないことが確認されており、判決は事実認定の誤りを犯し、上官の当時の行動や矛盾に満ちた法廷供述を分析しなかった、判決は「歴史の無知から加害行為を無かったことにする」もので、南京大虐殺の証言や資料は無意味になり、それが原告の「まぼろし派」の狙いである、と批判した[24]

「ノーモア南京の会」の芹沢明男は控訴審判決は「国際的には全く受け入れられることのない不当な判決」であり、日本の司法とマスコミは権力から独立していない、諸外国で「ナチのホロコーストは無かった」 と発言すれば、その者は大抗議を受けて出版社は倒産するのに対して、日本のマスコミは、この判決によって「国際的にどのような反撃が生ずるかも分からず」記事を平気で載せていると批判した[49]。また、中国側の主張する南京大虐殺犠牲者数30万人を超える署名を世界各国から集め、その力で、日本の南京大虐殺を「まぼろし化」しようとする勢力に打撃を与えよると宣言した[50]

津田道夫は高裁判決日の12月22日は東京裁判でのA級戦犯死刑執行日であり、判決は「極めて政治的な判断にもとづくもの」とし、また日中戦争について、レーニンは日本を「日本帝国主義」としたことによって、日本側がすすめたのは不正義の侵略戦争であり、 中国側の抗日戦争は正義の戦争であったという評価がされなければいけないと主張した[51]。津田はこの発言を1999年中国江蘇テレビの「地球村」番組ですると、拍手で迎えられた[52]

東史郎は「62年前に戦場で書いた日記が、 62年後に最高裁判所まで裁判を続けねばならなくなるとは想像もしなかった」、高裁判決が12月22日だったのは東条英機たちが絞首刑になった日を選んだためで、「私を戦犯として見ているのか」という気がした、「日本軍が中国に攻めていったのであって、 中国軍が日本に攻めてきて東京を占領したのではない」と述べた[53]

 最高裁判決[編集]

2000年1月21日最高裁は二審判決を支持し上告棄却、東の敗訴が確定し、記述に客観的証拠がないとして損害賠償を命じられた[1][1][54]。上官がやったという郵便袋による殺害は物理的に不可能であり、日記も数年後に書いたものと最高裁で判定された[16][55]

判決への反応[編集]

最高裁判決の翌日2000年1月22日侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館は最高裁判所に対し、「歴史の事実と公正な道理と正義を無視し、 公然と侵略と加害者の立場を頑固に堅持する日本の旧軍人を庇護し続けた、 白を黒と言いくるめる、物事の是非を混同する恥を知らないこの判決」であり、「世界司法史上、 永遠に拭い去ることのないぶざまな一頁として記憶されるだろう」として「最大の憤怒と強烈な譴責」を表明した[6]

1月26日中華人民共和国政府は谷野作太郎日本大使に「右翼勢力による反中国集会に先立ち、 日本の最高裁判所はまた南京大虐殺の事実と真相を暴き出した 東史郎などの敗訴判決を理不尽にも下した。 中国政府と全中国人民は、日本の右翼勢力の時流に逆行する行動や、 日本の最高裁判所が司法の形式を用いて、正義を抑え、 公然と右翼分子の手先となったことについて、強烈な憤りを表すものである。」と反発した[6]

日本政府は「単なる民事訴訟にすぎない」と対応した[6]

竹本忠雄大原康男は、昭和13年3月以前に関する原資料がないとすれば、東の主張自体を根底から窺わしいとするのは当然のことであると評した[56]阿羅健一や産経新聞は判決を好意的に受け取った[57] [58]

著書[編集]

  • 『わが南京プラトーン―一召集兵の体験した南京大虐殺』 青木書店、1987年12月。ISBN 978-4250870545 1937年8月26日-1938年9月9日日記。手紙など。
  • 井口和起, 木坂順一郎, 下里正樹『南京事件・京都師団関係資料集』青木書店 (1989)に日記全文を収録。
  • 『東史郎日記』 熊本出版文化会館、2001年6月。ISBN 978-4915252563(『南京事件京都師団関係資料集』に収録されていたものを刊行)

雑誌論文[編集]

  • 「戦争の真実を語る(上)南京総攻撃の一兵士として」労働運動研究340号,1998年2月。

翻訳[編集]

  • 中国語訳:『東史郎日記』江蘇教育出版社、1999年。
  • 英訳:キンバーリー・ヒューズ(Kimberly Hughes)訳,The diary of Azuma Shiro,Jiangsu Education Publishing House(南京)2006年

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e “訃報:東史郎さん93歳=元兵士、南京大虐殺を著書で告発”. 毎日新聞. (2006年1月4日) 
  2. ^ 竹本忠雄、大原康男 2000
  3. ^ 津田道夫 1999
  4. ^ 津田道夫 1999
  5. ^ 津田道夫 1999
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 山内小夜子「歴史を尊重するものは歴史から尊重される」人権と教育32号、2000年5月
  7. ^ 寿岳章子「真実をみつめて」,『わが南京プラトーン』収録。
  8. ^ 芹沢明男 1999
  9. ^ 芹沢明男 1999
  10. ^ a b c d e f 暘暘(ヤン・ヤン)「中国人留学生がみた東史郎=南京事件裁判」人権と教育31号,1999年pp116-127.
  11. ^ 江崎道朗「アイリス・チャンと反日国際包囲網 」『祖国と青年』平成10年9月号
  12. ^ 永田喜嗣「ジョン・ラーベ『南京の真実』試論」人間社会学研究集録7(2011). 2012.大阪府立大学、p222
  13. ^ “中国、東史郎氏の逝去に哀悼の意を表明”. 人民網. (2006年1月6日). http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2006-01/06/content_2214929.htm 2012年7月17日閲覧。 
  14. ^ “元日本軍兵士の東史郎氏が病気で死去”. 人民網. (2006年1月4日). http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2006-01/04/content_2214654.htm 2012年7月17日閲覧。 
  15. ^ 『わが南京プラトーン』『東史郎日記』
  16. ^ a b c d e f 南京事件で「虚偽」の残虐行為を証言した元日本兵のビデオ 米高校が教材に使用」産経新聞2015.6.20.web魚拓
  17. ^ a b 『わが南京プラトーン― 召集兵の体験した南京大虐殺』青木書店,106-108頁
  18. ^ 芹沢明男 1999
  19. ^ 秦郁彦 2007, p. 306
  20. ^ 津田道夫「東史郎私観 中国紀行印象記5」人権と教育310号(1999)。
  21. ^ 津田道夫 1999
  22. ^ 津田道夫 1999
  23. ^ 東裁判最高裁宛意見書
  24. ^ a b c d e 中北龍太郎(東裁判弁護団)「東史郎裁判と南京大虐殺」週刊金曜日290号、1999年11月5日、特集「南京大虐殺をめぐる日・中・米・独の現在」。雑誌「世界」1999年10月号
  25. ^ 板倉由明『本当はこうだった南京事件』、429頁
  26. ^ 秦郁彦『南京事件』中公新書、166頁。
  27. ^ 水谷尚子「私はなぜ東史郎氏に異議を唱えるのか--日中間に横たわる歴史認識の溝」『世界』1999年8月号
  28. ^ 「『東裁判』の真実を訴える-八月号水谷論文批判」世界666号1999年10月号
  29. ^ 板倉由明 1999, p. 363
  30. ^ 「赤旗連載・東日記の詐話に泣く元兵士」『自由』平成5年6月号、「拝啓、一橋出版社殿、高校教科書の記述が間違っていますよ」『ゼンボウ』平成6年1月号 「疑わしい資料を使う一橋出版『世界史B』」産経新聞1993・12・20 
  31. ^ 芹沢明男 1999
  32. ^ 芹沢明男 1999
  33. ^ 板倉由明「南京虐殺の虚構に挑戦 橋本訴訟の経緯とその意義」月曜評論1993年5月17号
  34. ^ 芹沢明男 1999
  35. ^ 芹沢明男 1999
  36. ^ 芹沢明男 1999
  37. ^ 1998年12月23日に朝日、産経、共同、毎日各紙が報道
  38. ^ 竹本忠雄、大原康男 2000
  39. ^ 竹本忠雄、大原康男 2000
  40. ^ 竹本忠雄、大原康男 2000
  41. ^ 芹沢明男 1999
  42. ^ 芹沢明男 1999
  43. ^ 竹本忠雄、大原康男 2000
  44. ^ 芹沢明男 1999
  45. ^ 芹沢明男 1999
  46. ^ 芹沢明男 1999
  47. ^ 芹沢明男 1999
  48. ^ 芹沢明男 1999
  49. ^ 芹沢明男 1999
  50. ^ 芹沢明男 1999
  51. ^ 津田道夫 1999
  52. ^ 津田道夫「東史郎私観 中国紀行印象記5」人権と教育310号1999年
  53. ^ 東史郎「司法の最高責任を放棄した最高裁「決定」」ノーモア南京の会 最終更新2000年4月27日。2016年10月4日閲覧。
  54. ^ 竹本忠雄、大原康男 2000
  55. ^ 竹本忠雄、大原康男 2000
  56. ^ 竹本忠雄、大原康男 2000
  57. ^ 阿羅健一「高裁も退けた「南京大虐殺」のウソ」正論1999年3月号
  58. ^ 1999年6月2日産経新聞

参考文献[編集]

  • 『わが南京プラトーン―一召集兵の体験した南京大虐殺』 青木書店、1987年12月。ISBN 978-4250870545
  • 『東史郎日記』 熊本出版文化会館、2001年6月。ISBN 978-4915252563
  • 井口和起, 木坂順一郎, 下里正樹『南京事件・京都師団関係資料集』青木書店 (1989)
  • 板倉由明 『本当はこうだった南京事件』 日本図書刊行会1999年12月ISBN 978-4823105043
  • 上杉千年「赤旗連載・東日記の詐話に泣く元兵士」『自由』平成5年6月号
  • 上杉千年「拝啓、一橋出版社殿、高校教科書の記述が間違っていますよ」『ゼンボウ』平成6年1月号
  • 下里正樹「隠された連隊史」平和のための京都の戦争展実行委員会、1989年
  • 芹沢明男「政治裁判としての東史郎=南京・戦争裁判」、『人権と教育』第30巻、1999年5月、 106頁。
  • 津田道夫「南京アトロシティを心に刻む旅から」、『人権と教育』第30巻、1999年5月、 124頁。
  • 日本会議国際広報委員会大原康男竹本忠雄 『再審「南京大虐殺」―世界に訴える日本の冤罪』 明成社2000年12月ISBN 978-4944219056
  • 水谷尚子「私はなぜ東史郎氏に異議を唱えるのか--日中間に横たわる歴史認識の溝」『世界』1999年8月号
  • 暘暘「中国人留学生がみた東史郎=南京事件裁判」人権と教育31号,1999年pp116-127.
新聞

外部リンク[編集]

関連項目[編集]