広島抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

広島抗争(ひろしまこうそう)は、1950年頃から1972年にかけて広島で起こった暴力団抗争の総称。警察庁による名称は広島けん銃抗争事件。狭義には映画『仁義なき戦い』のモデルとなった第一次広島抗争1950年頃)、第二次広島抗争1963年4月17日 - 1967年8月25日広島代理戦争とも呼ばれる)を示すことがある。

広島抗争と呼ばれるものには第一次、第二次の他にも第三次広島抗争1970年11月 - 1972年5月)が広く知られるが、新井組粛清、血の粛清と呼ばれる青木組粛清の内部抗争を含めて5次と数える向きもある。

第一次広島抗争[編集]

第一次広島抗争は広島市の抗争と呉市の抗争に分かれる。

本来は別々の抗争であるが、発生時期が共に戦後間もなく争いが萌芽し、呉で勝利した山村組が広島で勝利した岡組を吸収する形でその後の第二広島次抗争へと突入していくこととなるので第一次広島抗争としてひとまとめに語られる事が多い。

呉の抗争は、博徒土岡組山村組の抗争である。呉の覇権を狙って新興の山村組が土岡組に挑んでいった。呉の顔役・海生逸一の思惑や小原組の動きも無視できず、山村組の内紛もあり、複雑さを増している[1]

広島の抗争は戦後広島市の博徒・岡敏夫(岡組組長)の勢力拡大に伴い的屋・村上組との地域覇権争い[2]

終戦直後に広島で岡組が勢力を伸ばす過程で、1950年に岡組舎弟・打越信夫[3]打越組組長)が、対立する葛原一二三を東広島で射殺し岡組内で勢力を伸ばす結果となった。

戦後の混乱期を経て、広島の勢力図は広島市では岡の勢力が拡大し、その中でも舎弟・打越、若衆・網野光三郎服部武などの勢力が台頭した。また呉市では、山村辰雄山村組組長)の勢力が拡大し、若頭・佐々木哲彦、若衆・美能幸三らが台頭していた。

岡組の実力者である打越は1950年から1952年頃にかけて、岡組(広島市)内の網野、服部だけでなく、山村組の若頭・佐々木、美能ら有力者と個々に兄弟盃を交わし縁戚関係を拡大していった。 この打越の縁組は、後に、いわゆる「仁義なき戦い」へと導く一つの要因となった。

岡敏夫の後継問題と山口組の中国地方進出[編集]

1960年頃から岡敏夫の健康問題から跡目問題が噂される。 最有力候補は打越信夫だが、三羽烏と言われた網野光三郎、服部武、原田昭三や、義弟・永田重義も実力は伯仲していた。

そのような折の1961年5月、美空ひばりの広島公演のため三代目山口組の組長・田岡一雄と若衆・山本健一山健組組長)が広島を訪れていた。 実力者の後ろ盾を得て岡組の後継争いを有利に進めようとした打越は、山本と美能幸三の仲介により山口組舎弟・安原政雄安原会会長)と兄弟盃を交わすことに成功した。

広島外部の勢力の進出を快く思わなかった岡はこの盃を嫌い、1962年5月に跡目を呉の山村辰雄に指名した(岡にとって山村は兄貴分にあたり、跡目を格上に譲るのは異例と言えた)。かくして山村率いる山村組は呉から広島に進出し岡組組員百六十人を加えて、総勢二百二十人の大組織となり山陽最大の勢力を持つようになった。

当然この事態は打越側に衝撃を与えた、同年6月には打越の舎弟で山口県宇部市の岩本組組長・岩本政治と山村組幹部樋上実の兄弟分で山口県徳山市の浜部組組長・浜部一郎との間で抗争が起き、その手打ち仲裁の不手際のため打越は窮地に追い込まれる。さらに、義理事で九州を訪れていた美能らは打越が刺客(岩本組)を差し向けたとの噂を耳にする。打越はこれを否定するが、ついには指を詰めさせられ、美能幸三、網野光三郎、原田昭三らとの兄弟盃も解消させられた。 打越はそうした窮状を再三に渡り山口組本家に訴え支援を要請した。

当時は山口組側にも思惑があった。1960年に入り山口組は積極的に中国地方に進出を図り、山陰においては1961年に本多会松山芳太郎を殺害し、鳥取に進出。翌年には その鳥取に進出していた直参の小西音松率いる小西一家が地元勢力と抗争を起こし山陰進出を着々と進めていた。山陽においては山口組若頭・地道行雄地道組組長)が岡山・三宅芳一率いる現金屋の内紛に介入して熊本親(後の熊本組組長、四代目山口組舎弟)を支援し岡山を支配下に組み入れるべく展開中だった。

このように中国地方全域を攻略することを目的として活動していた山口組にとって山陽の重要拠点広島は避けて通れない場所だった[4]

そこで支援を必要としていた打越と思惑が一致した。再三神戸に足を運び、ついに打越は、1962年9月に田岡の61番目の舎弟となり、打越組が山口組の配下に入り、「三代目山口組広島支部打越会」と改称することになった。打越が山口組の舎弟となったことに対抗するため山村は、神戸の本多会会長・本多仁介と兄弟盃を1963年2月に交わした。

山口組の本格的な介入[編集]

この時点で打越会と山村組の広島を巡る地域対立は、山口組本多会という大組織の代理戦争の様相を呈するようになった。山口組は以後、打越会を通じて抗争に本格的に介入するようになった。

まず、山村辰雄と懇意にしているということで、打越会若頭の山口英弘[5]山口(英)組組長)を絶縁とする一方、安原政雄・松本一美が美能ら暗殺の噂の真相究明に乗り出した。打越側にそんな動きが無かった(岩本は打越から縁を切られていた)事などから、現山村組幹部で元岡組の網野光三郎、服部武、原田昭三らと打越信夫との兄弟縁を復縁させた(山村組勢力の取崩しを図った)。山村組内では、呉の顔役である海生逸一が画策した小原光男・美能幸三・山本健一の兄弟盃を不服とし、美能幸三を破門とした。美能は以前から何度も煮え湯を飲まされていた山村との対決姿勢を鮮明にした。

このように広島の勢力図が打越会・美能組・西友会の山口組派と反山口組の山村組派とに分かれる中、1963年4月17日に美能組幹部の亀井貢が山村組系組員に射殺され戦いの火蓋が切られた。

第二次広島抗争の勃発と激化[編集]

亀井貢の密葬後、美能幸三は山本健一と兄弟盃を交わし報復の体制を整えた。その報復を待たずしてさらに追い討ちを掛けるように1963年5月26日には打越会を絶縁された山口英弘の若衆が打越会の組員を殴打する事件が起きた(当時、山口(英)組の縄張りと打越会の縄張りがかぶっていて小競り合いが続いていた)。直後に打越会の報復に先駆けて山口(英)組側が打越会の賭場を急襲、路上で銃撃戦となり抗争が一気に激化した。

打越側の報復は、打越信夫が抗争を嫌い雲隠れした事などから上手く組織が機能せず、当初打越側は一方的にやられっぱなしの状況となった。業を煮やして打越を見限った山口組若頭・地道行雄は美能に亀井の組葬を指示し、葬儀名目で1340人の山口組系組員を広島へ大動員し、山口組の力を見せつけた。しかし広島県警機動隊など大量動員を掛けて抗争の一方の首謀者である美能を7月5日に逮捕した。美能を逮捕された山口組は報復を出来ずに帰らざるを得なかった。1963年9月可部温泉「松福荘」で射殺された打越会系西友会会長・岡友秋の葬儀の席上で「これはあくまで美能組と山村組との親子喧嘩じゃけん」と、報復に消極的な打越に対して山本は激怒し、「よう喧嘩も出来んで、なにが山口組の舎弟じゃ!笑わせるな!自分の喧嘩を買いもせんで人様がなに応援してくれる!そないに喧嘩したないんやったらわれはもう引っ込んどれ! ボケナスのタクシー野郎!」(打越はタクシー会社を経営していた)と面罵し、山口組と広島のパイプを美能組にシフトした。

それでも一向に動こうとしない打越会に業を煮やした西友会は1963年9月19日山村組本拠・キャバレー「パレス」爆破、続いて山村組幹部・原田昭三宅をダイナマイトで爆破、さらに山村組との市街戦を展開するなど攻勢に出た。山村組の服部武は混迷する事態の中、周囲の声に押されて命懸けの特攻隊を組織し、山口組本部の便所をピース缶爆弾で爆破させた(玄関のガラスも割れたが、一階には人がおらずけが人は出なかった)。名乗りは上げなかったがピース缶が広島で使われていた事もあり直後から山村組の仕業と思われていた。山村組側は打越会・山口組勢力に対抗するため山村組を発展的に解消し、1964年5月に政治結社共政会(初代会長・山村辰雄)を結成して組織固めを行った。

警察の介入と抗争終結[編集]

1963年9月、堪り兼ねた警察は山村辰雄、打越信夫を逮捕した。1965年6月9日、山村は引退を声明し、広島県警で長年のヤクザ生活から足を洗うと述べた。同年10月には二代目会長に服部武が就任。理事長には八月に出所した山田久が就いた。打越会との手打ちが成立するのは二年後の1967年8月25日である。海生逸一の斡旋によるもので、翌26日、打越信夫は弁護士とともに広島西警察署を訪れ、打越会を解散し堅気になることを誓った。[6]こうして死者9人、負傷者13人、被逮捕者168人を出し、中国地方最大の抗争となった広島抗争は終結した。山口組は実害が無かった(被害は全て打越会に出た)ものの、結果的に広島進出に失敗し進出の機会が当分閉ざされることとなった。

第三次広島抗争[編集]

第三次抗争は山村組が中心となって旗揚げした連合組織である政治結社共政会」の内紛が発端である。

初代会長・山村辰雄が昭和40年6月に引退、11月に出所して来た理事長・服部武が二代目を襲名する。服部二代目体制に反発したのが幹事長の山口英弘で、彼は引退を表明する。山口(英)組は同会を脱退し、十一会と名称を改めた。

服部は理事長に子飼いの山田久を任命、副会長に旧岡組の原田昭三を加え、「旧岡組・山村組」派閥の発言権を強めた。これに反発したのが、かつて岡組と敵対した同会顧問の村上正明だった。

三代目を視野に入れた山田が連合組織から会長を頂点に一本化へと組織改革を推し進めようとするが、村上は小原組幹部・宮岡輝雄と連携するのである。

そして、昭和44年10月 村上組組員が山田との談判中に突如発砲。山田の配下が報復として宮岡輝雄を射殺する。宮岡組は親分が殺されたのは村上のせいであるとして、村上組との共闘を解消、その後村上組幹部が山田を支援したため、村上正明は失墜する。

昭和45年9月 美能幸三が出所する。同年6月に樋上組組長・樋上実が美能組組員に路上で射殺されていたため、彼の出所は新たな火種になると思われたが、兄弟分・波谷守之の懸命な説得により美能は引退を決意した。二代目美能組組長、さらに三代目小原組が共政会入りし、脱退していた十一会会長・竹野博士が山田から盃をもらう。こうして三代目山田体制は既定路線となって行った。

これに反対する十一会副会長・梶山慧は、共政会三代目襲名式6日前の昭和44年11月18日、大阪へ挨拶回り出向いていた山田久一行の乗った乗用車を、梶山派が襲撃した。山田は胸部に重傷を負った、襲名式は無理と思われたが、医師立会いのもとで式を強行し三代目の座に就いた[7]

山田久襲撃に使われた車が尾道・侠道会のものだった事から侠道会の関与が疑われた。侠道会はこれを否定したが、会長・森田幸吉は梶山の親分の山口英弘と兄弟分であり、その義理から梶山一派を支援した。一方、山田久三代目の後見人を務めていた笠岡の浅野眞一組長は三代目共政会を支援する。

こうして、共政会内紛に端を発した抗争は[共政会・浅野組]VS[十一会梶山一派・侠道会]となって山陽道を揺るがすことになる[8]。泥沼化し、終わりなき抗争とも思われたが、ここでも波谷守之が動き、森田の叔父貴分にあたる清水春日と説得にあたって、昭和45年5月に和解を見た[9]

参考文献[編集]

この事件については毎日新聞社の『組織暴力の実態』、広島県警の『暴力許すまじ』、中国新聞社の『ある勇気の記録』、美能の手記を編纂した飯干晃一の『仁義なき戦い』がある。また向江璋悦が山口組組長宅ピース缶爆破事件で起訴された山村、服部らを弁護した『無罪の記録』がある。

  • 洋泉社MOOK 実録「仁義なき戦い」外伝 血の抗争の鎮魂歌 洋泉社 2004年 ISBN 4-89691-716-2
  • 洋泉社MOOK 実録「仁義なき戦い」戦場の主役たち これは映画ではない! 洋泉社 1998年 ISBN 4-89691-302-7

脚注[編集]

  1. ^ 山村組組長・山村辰雄が金の力で大西政寛を懐柔し、美能幸三を刺客として土岡組組長・土岡博殺害を計画。美能の銃弾は土岡を捉えたが致命傷に至らずに失敗する。海生祐逸一の思惑で山村組と小原組が連合し、土岡組への攻撃を続けたのち、昭和27年6月に山村組若頭・佐々木哲彦配下の者が土岡を殺害。土岡組は間もなく崩壊するが、昭和29年9月に旧土岡組組員が小原馨を散髪屋にて射殺する。さらに山村組内紛や小原組跡目問題により山村組若頭・佐々木哲彦が小原組門広一派に殺害される昭和34年10月まで続くこととなる。
  2. ^ 岡組は戦後の新興団体であり、客のアゲサゲの修行を積み業界の信用を得た上で「カッチリとテラ銭が上がってくる賭場」を経営する金筋ヤクザではなく、闇市に割拠した三国人と手を組んだ被差別部落出身者を中核とする団体である。地方都市の需要に応じて何でもやるのが商売であり、ここから闇市での利権を巡り的屋村上組と闘争することとなる。昭和21年11月に村上組実子・村上正明が岡組事務所に乗り込んで岡敏夫組長に向かって発砲した事件によって火の手が上がった。その報復で岡組幹部・網野光三郎と原田昭三が村上組組員を殺害。闇市で正明から壮絶なリンチを受けた山上光治が村上組組員3人を射殺するなど、終始岡組優勢で進み、昭和28年に村上三次・正明親子が逮捕されて、翌29年村上組組員がパチンコ店で撃たれ重傷を負った事で抗争にピリオドが打たれた。撃ったのは山田久(のちの共政会三代目)ら二人だった。岡組は勢力を拡大させて広島一の組織となる
  3. ^ 陸軍除隊後、日本機械化義勇団に入団。装甲車やトラックの運転を身に付ける。戦後広島へ戻るとトラック2台を振り出しに運送業を始め、闇物資運搬を主なシノギとした。ほどなく博徒・岡敏夫の舎弟になる。昭和29年実兄のタクシー経営を継いで市中央部の紙屋町に進出する。当初は保有台数3台であったが、同業3社を次々に買収し、昭和34年頃には市内第3位・保有台数32台を誇る会社に成長した。この頃になると組員も八十名を数える規模となり、岡組舎弟の中では一頭地を抜く存在となり、資金面でも岡組を支えていた。
  4. ^ このような意見が、「仁義なき戦い」以降形成されているが、基本的に中国ではなく関西圏、近畿圏を対象としていた山口組が、小領主が割拠している狭く小さい中国筋を力で押していく方針であったかどうかは疑問があり、現在でもなお「神戸から広島に進出したのではなく尾道筋まで勢力圏を伸ばしていた合田一家への対抗策であった」とする声もある。この背景には同一家の総長・合田幸一が山陽道の親分衆から畏敬された存在である点、中国・四国の組のほとんどはその内部に多くの派閥(背景には被差別部落の問題があるとされる)を抱えていたため統制をとるのが困難だった点、が指摘される。
  5. ^ 昭和38年3月1日付けで打越は突然、山口を絶縁した。山口英弘に裏切り行為があったという理由である。山口は三十人もの子分を引き連れて一派を形成した。山口の兄弟分に、後の尾道侠導会会長・森田幸吉がいる。森田は絶縁理由に不信を抱き打越の所へ質しに行った。「自分のところではどうにもならん」と打越は、神戸山口組の意向であることを伝えた。森田は山口の窮状を助けたかった。つてを頼って三代目山口組若頭・地道行雄に面会を求めた。地道に会った森田は具体的な事実をあげて山口英弘の裏切りというのは事実ではないと説明した。森田の説明に偽りがあれば無事では帰れない、命がけの掛け合いであった。地道は森田の義侠心に感心し、「三か月ほど時間をくれ」と絶縁問題解決を約束した。
  6. ^ 昭和42年7月 打越は詐欺罪で逮捕される。従業員用共同住宅を建てるという名目で年金福祉事業団から受けた融資4000万円を、自室や応接室、車庫の増築に流用したという容疑である。これをきっかけに税務当局が動き、さらに陸運局が特別監査を行い、十五項目に及ぶ規則違反を指摘、警察と連動して「ヤクザと取るか、事業を取るか」と迫ったのである。打越には事業を捨ててまでヤクザを続ける性根はもちろん無かった。翌8月19日に神戸・田岡邸を訪れ組の解散の了解を求め、承諾された。
  7. ^ 大阪市西成区に本拠を置く二代目松田組組長・樫忠義に挨拶に行った帰り道に事件は起こる。白昼、踏切で電車の通過待ちをしていた浅野眞一組長運転の白いベンツに梶山一派が襲いかかった。後部座席中央に山田久が座り左右に副会長の原田昭三・竹野博士が座っていた。合計8発発射された45口径の銃弾は原田昭三をその場で射殺、山田久の胸部を貫通した。山田は胸部を包帯で固めて襲名披露に臨んだ。
  8. ^ 昭和48年8月浅野組組員が侠道会理事長を射殺、翌9月には侠道会が尾道で公判傍聴へ向かう浅野組組員31人を待ち伏せて銃を乱射、4人に重軽傷を負わせている。
  9. ^ 竹野博士は前の親分・山口英弘と現在の親分である山田久の間に挟まれ心労が続いていた。「御大が乗り出して、何とか収めてつかあさい」と波谷に頼んだ。ある日清水春日が「森田と兄弟になってくれんか」と言い出した。波谷は「山田を敵に回す事は出来ません」と断った。「そんなら三人が兄弟になれんか」と清水が言う、その言葉がヒントになった。波谷はまず、下関の合田幸一に力添えを頼み、広島刑務所に山田を訪ねた、山田も容易には承知しなかったが波谷の熱意に押され「わしは撃たれた方じゃが、尾道の森田さんには恨みは無いけん。和議のことは波谷さんに任せます。しかし、笠岡(浅野組)の顔は立てて貰いたい」と山田は度量の太い所を見せた。波谷は広島県警本部を訪れ「広島、尾道の喧嘩を和解させますけん。話が煮詰まって来たら山田を期限付きで保釈させて貰えませんか」と頼みに行っている。それから波谷と清水は尾道を訪れた。森田幸吉は清水の顔を立てて合いには来てくれたが、和解話には取り付く島が無かった。波谷は森田の心が融けるのを辛抱強く待った。その間、浅野眞一のところへは、松田組の樫忠義に行ってもらったり、東奔西走している。森田と波谷が四度目の面会の時「波谷さん、何度も足を運ばせてすみませんのう」「いや、わしのほうはどうということはありません。山田の期限保釈の内に、纏まるものならそうしてもらいたいと真剣に思いよるんです」「わしの方は、死ぬ気でやりよりましたきに、手打ちなど思いもしませんでしたが、ここで清水の叔父貴や波谷さんの熱意に応えにゃ、尾道の街も目茶滅茶になるじゃろうと考えるようになりました。尾道を平和な町にしたいいうんは、先代高橋親分の気持ちですろう」森田はそう言った。「ただ、平和会(大日本平和会)の平田勝市さんが最初に和解の話をもって来られ、断った経緯があるきに手打ちのことは平田さんの顔が立つようにしてもらいたい」「わかりました。私は表に出なくて結構です。広島のやくざが平穏に過ごしてくれるようになるのが願いですけん」と波谷は森田の手を握った。会場の警備には大日本平和会の組員が当たり、有馬温泉の『月光荘』で手打ちの儀式は古式に従って滞りなく行われた。

関連項目[編集]