美能幸三

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美能 幸三(みのう こうぞう、1926年7月31日 - 2010年3月17日)は、日本ヤクザ実業家広島県呉市美能組初代組長。広島県呉市出身。

広島抗争の中心人物の一人であり、後にそのいきさつを描いた『仁義なき戦い』の原型となる獄中手記を書いた人物である。詳細は広島抗争、『仁義なき戦い』の項を参照。

生涯[編集]

大正15年(1926年7月31日、広島県呉市に生まれる。父親は退役軍人で海軍工場に勤め、母親は小学校の教員だった。中学2年で退学し、毎日ぶらぶらとしていたが、昭和17年(1942年)に大日本帝国海軍に志願し、昭和20年(1945年)11月18日、トラック島より復員した。

呉に帰郷後は遊び人に身を投じ、昭和22年(1947年)5月末、呉駅前で、友人に怪我をさせた旅のヤクザを射殺した。殺人罪での服役中、刑務所で悪魔のキューピーこと大西政寛と出会い、兄弟の杯を交わす。大西に山村組に入ることを薦められ、山村辰夫に保釈金を積んでもらい保釈、すぐに山村組の若衆になった。このときの若頭は、佐々木哲彦である。

商売がうまく、次第に力をつけていった山村は、名門土岡組が目障りに感じるようになる。土岡組の大西を巧みに引き込んだりして、弱体化を図り、昭和24年9月、遂に土岡組長土岡博暗殺を企てて、美能を鉄砲玉に仕立てた。美能は土岡に重傷を負わせたが結局暗殺に失敗した。山村はこの不始末に激怒、美能に再出撃を命じたが美能は実行しなかった。10月に自首し昭和34年まで服役した。

出所後は山村組幹部として力をつけるが、広島抗争では破門され、敵陣営の打越側につく。抗争が激化している昭和38年(1963年)7月5日、広島県警察別件逮捕、仮釈放を取り消され網走刑務所で服役。この間に『仁義なき戦い』の原作となった手記を執筆する。昭和45年(1970年)9月に出所。すぐに暴力団を引退し堅気となる。説得され『週刊サンケイ』(現・『SPA!』)で「仁義なき戦い」連載と映画化を了承する。

平成22年(2010年)3月17日、死去。83歳。

著書[編集]

  • 『極道ひとり旅』サンケイ新聞社出版局
  • 『仁義なき戦いの真実』鈴木義昭

美能幸三関連の作品[編集]

書籍[編集]

映画・オリジナルビデオ[編集]

脚注[編集]


参考文献[編集]