後藤忠政
ごとう ただまさ 後藤 忠政 | |
|---|---|
| 生誕 |
1942年9月16日(76歳) |
| 国籍 |
|
| 別名 | 得度名:忠叡 |
| 肩書き |
後藤組組長 四代目山口組直参 五代目山口組直参 五代目山口組若頭補佐 六代目山口組舎弟 |
| 補足 | |
|
| |
後藤 忠政(ごとう ただまさ、本名: 後藤 忠正=読み同じ、1942年9月16日[1] - )は、日本の元暴力団員。20世紀から21世紀の初頭に掛けて活動したヤクザ。
暴力団・川内組若頭補佐兼静岡支部長を経て、暴力団・後藤組を結成、後に伊堂組舎弟となった。指定暴力団・山口組の幹部構成員として、五代目山口組若頭補佐、六代目山口組舎弟などを歴任したが、2008年をもって引退した。日本航空(JAL)の個人筆頭株主でもあった[2]。
人物[編集]
1942年(昭和17年)、東京府東京市荏原区に4人兄弟の末っ子として出生[3]。祖父は富士川発電や伊豆箱根鉄道を興した実業家の後藤幸正であった。戦争の激化により、2歳の時に父の実家がある静岡県富士宮市に疎開して以降、同地で育った[3]。
経歴[編集]
暴力団・川内組の組員だった1969年、富士宮市に暴力団・後藤組を結成して組長となった。川内組組長・川内弘は、菅谷組組長であり三代目山口組若頭補佐であった菅谷政雄の舎弟であった。後藤組はその後、静岡県における山口組勢力拡大の嚆矢となったが、1977年、川内の破門・殺害によって川内組が事実上消滅したため、浜松市を拠点とする山口組系伊堂組(組長・伊堂敏雄)に舎弟として移籍した。1984年7月、竹中正久を組長とする四代目山口組が発足すると伊堂は引退、後藤は山口組直参に昇格した。
後藤は武闘派として、同年に勃発した一和会との山一抗争で積極的に働いた他、渡辺芳則を組長とする五代目山口組の東京進出に際しては、その先駆けとなって勢力の拡大に寄与した。1992年には後藤組組員5人が、暴力団を描いた映画『ミンボーの女』の監督伊丹十三を襲撃した[4]。
2002年7月、山口組若頭補佐に就任した。2005年8月、六代目山口組の発足に伴い、同組舎弟に直った。
2008年10月、山口組から除籍処分を受けた。山口組の会合への欠席などが問題視されたためと見られている。これを機に引退した[5]。
アメリカでの肝臓移植[編集]
2001年4月、肝臓が悪化したため、アメリカで肝臓移植を受けさせてもらうかわりに、連邦捜査局に山口組内部情報を米当局に教えると約束をし、弘道会の幹部らのリストや山口組の米国でのご用達の金融機関などを教えた[6][2]。2001年7月にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)付属病院で肝臓移植手術を受け、その際同病院へ10万ドルを寄付。病院側が謝意を表明したプレートを院内に掲示したため、問題となり直後に撤去された。2003年11月ごろ、アメリカの捜査当局は、後藤からの情報を元に、五菱会の実質No.2だった梶山進の資金200万ドル(約2億円)を発見し、警察庁に連絡した。この資金は全額没収された[7]。アメリカの捜査当局がスイスの捜査当局とも情報交換し、さらに50億円を没収した。山口組の損失が54億円。後藤組の損失は0であった。
真珠宮ビル事件[編集]
2006年5月8日、東京都渋谷区のビル所有権を菱和ライフクリエイト(現:クレアスライフ)社長西岡進らと共謀し不正変更した、電磁的公正証書原本不実記録の容疑で、組関係者などとともに警視庁に逮捕、勾留された[8]。容疑は否認した。翌2007年6月14日、病気を理由に弁護人が勾留の執行停止を申し立て、保釈金7000万円を払い保釈されたが、2012年2月13日に懲役2年執行猶予4年の有罪判決が確定した[9]。
警視庁からの捜査情報漏出[編集]
2007年6月12日までに警視庁北沢署巡査長のパソコンから情報が流出し、警察がグラビアアイドル出身の女優、レースクイーン出身のタレント、声優で歌手の女性の3人を、捜査・監視の対象である後藤の愛人として把握していることが発覚した[10][11]。
引退[編集]
2008年10月、前月の後藤の誕生日を祝って開いたゴルフコンペに細川たかし、小林旭、角川博、松原のぶえ、中条きよし、須之内美帆子、益子梨恵らが参加していたことが報じられた[12]。これを受けNHKが細川、小林、角川、松原、中条の5人について、数カ月間番組への出演を見合わせた。事態を重く見た山口組執行部は、病気を理由に本部の定例会を欠席しながらゴルフコンペを開いたとして、後藤を山口組から除籍し引退させた[13]。
引退後[編集]
2009年4月8日、神奈川県伊勢原市の天台宗の寺院・無常山浄発願寺で得度、法名・忠叡を名乗る[14]。
かねてからの念願だった映画作りで、地元で起こった事件だったために気にかけていた袴田事件を題材として企画した2010年公開の映画『BOX 袴田事件 命とは』に私費3億円を投じ、救援活動に取り組んだ[14][15]。
同年に自らの半生を語り下ろした自叙伝『憚りながら』(宝島社)を出版、後藤組と創価学会の関係について明らかにしたことなどが話題を呼び、ベストセラーになった[16][17]。本書の印税は、2010年10月20日に「アンコール障害者協会」(Angkor Association for the Disabled=AAD')ならびにミャンマーのチャイカロット・パリヤティセンター&モゴック・ビパサーナ僧院に全額寄付された。2011年には新章「東日本大震災と日本人」を加えて文庫化。この文庫版の印税でボランティア組織を設立し、福島第一原子力発電所事故で陸の孤島と化した地域へ支援物質を運搬した[18]。この支援活動には村井秀夫刺殺事件の実行犯だった徐裕行が副代表として参加している[19]。
その後、2011年頃よりカンボジアに移住し、プノンペンの高級マンションに居住[20]。カンボジアでは養鶏場経営などの実業を手掛けるとともに学校建設などボランティア活動も行っており、2012年末にはカンボジア国籍を取得し、伯爵に相当する『オンニャー』の称号を授与されオンニャー忠叡を名乗る。カンボジア政府高官に人脈を築いて、国会議員を目指すことも考えているという[21][22]。2016年3月下旬には検査入院のため日本に一時帰国したと報じられている[23]。
著書[編集]
- 憚りながら(宝島社、2010)ISBN 9784796675475
- 憚りながら(宝島社、2011)ISBN 9784796681346
脚注[編集]
- ^ 『六代目山口組完全データBOOK 2008年版』 : 『後藤組長除籍の余波と直参大量処分の真相とは?:後藤忠政 後藤組組長(静岡)』 (p.137-138) 2009年2月 メディアックス ISBN 978-4-86201-358-3
- ^ a b FBI、米国で日本の暴力団幹部の移植手術を幇助 インデペンデント 2008年5月31日
- ^ a b 後藤忠政 『憚りながら』 2010年5月29日、宝島社、ISBN 978-4-7966-7547-5、17頁
- ^ 『憚りながら』
- ^ 『憚りながら』、266-268頁
- ^ ワシントンポスト 2008年5月11日、ロサンゼルスタイムズ 2008年5月11日、12日、29日
- ^ 『別冊宝島Real 76 平成日本タブー大全2008』 宝島社
- ^ 「後藤組不正登記のビル 権利移転20回、暴力団むらがる」 朝日新聞 2006年5月8日
- ^ 後藤元組長の有罪確定へ ビル不正登記事件で最高裁
- ^ 捜査資料に暴力団員「愛人」? 女優ブログが「炎上」 J-CASTニュース 2007年6月15日
- ^ 警視庁流出資料にあった暴力団と芸能プロの名前 サイゾー 2007年8月号
- ^ 「大物『暴力団組長』誕生日コンペ&パーティーに『細川たかし』『小林旭』『角川博』『松原のぶえ』」『週刊新潮』2008年10月9日号
- ^ 溝口敦「切っても切れない『暴力団と芸能界』裏面史」『週刊新潮』2011年9月8日号
- ^ a b 「伝説の武闘派ヤクザ・元後藤組組長独占ロングインタビュー『しょせん俺はチンピラだった』」『宝島』2010年7月号、pp.65-68
- ^ 伊藤博敏、山根浩二「『最強武闘派』後藤忠政初激白 『ヤクザと政財界の闇』」『サンデー毎日』2010年6月6日号、pp.30-31
- ^ 林操「ベストセラー通りすがり」『週刊ダイヤモンド』2010年6月5日号、p.84
- ^ 山内宏泰「ベストセラーウォッチング」『新潮45』2010年8月号、p.219
- ^ 鈴木智彦「大ベストセラー『憚りながら』の著者特別インタビュー&レポート 後藤忠政氏、福島第一原発30キロ圏内の被災地を支援する」『宝島』2011年7月号、oo,106-107
- ^ 『週刊金曜日』2011年9月16日号、p.27
- ^ 「飲ませ食わせ抱かせ…カンボジアに進出した暴力団の現場ルポ」『SAPIO』2012年9月19日号
- ^ 「事情通」『週刊現代』2013年2月16日・23日合併号、p.83
- ^ 伊藤博敏「山口組系後藤組元組長『憚りながら』の後藤忠政氏は カンボジア人となって来賓席に座っていた!」 現代ビジネス 2013年9月26日
- ^ “「伝説の組長」緊急帰国でヤクザ100人が集結の一触即発”. 週刊FLASH 2016年4月19日号 2016年4月6日閲覧。
参考文献[編集]
- 木村勝美 『さらば山口組 後藤組・後藤忠政組長の半生』 メディアックス 2010年5月26日