副島種臣
副島 種臣 そえじま たねおみ | |
---|---|
| |
生年月日 |
1828年10月17日 (文政11年9月9日) |
出生地 | 肥前国佐賀 |
没年月日 | 1905年1月31日(76歳没) |
出身校 | 弘道館 |
所属政党 | 愛国公党 |
称号 |
勲一等旭日桐花大綬章 伯爵 |
親族 |
副島道正(貴族院議員) 周布兼道(貴族院議員) 周布公平(貴族院議員) |
第3代外務卿 | |
在任期間 | 1871年12月15日(明治4年11月4日) - 1873年10月28日 |
第7代内務大臣 | |
内閣 | 第1次松方内閣 |
在任期間 | 1892年3月11日 - 1892年6月8日 |
副島 種臣(そえじま たねおみ、1828年10月17日(文政11年9月9日) - 1905年(明治38年)1月31日)は日本の武士・佐賀藩士、官僚、政治家である。勲等は勲一等。爵位は伯爵。初名は竜種、後に種臣と改める。通称は次郎。号は蒼海、一々学人。書家としても優れた作品を残している。
経歴
佐賀藩士・枝吉南濠(忠左衛門、種彰、30石)の二男に生まれる。父は藩校である弘道館の教授を努める国学者で、兄は同じく国学者の枝吉神陽。母は木原宣審の娘喜勢。安政6年には父の南濠が死去し、同年3月には同藩士の副島利忠の養子となる。
父・兄の影響により、早くから尊王攘夷思想に目覚める。弘道館で学び、この間江藤新平や大木喬任と交わる。
1850年(嘉永3年)、兄神陽が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。
1852年(嘉永5年)、京都に遊学、漢学・国学などを学ぶ。この間に矢野玄道らと交わる。さらに、兄神陽の命を受け大原重徳に将軍廃止と天皇政権による統一を進言する意見書を提出して青蓮院宮朝彦親王から藩兵上洛を求められるが、藩主鍋島直正に退けられたうえ、藩校での国学教諭を命じられた。1864年(元治元年)、長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。1867年(慶応3年)、大隈重信と脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。
明治維新後は1868年(慶応4年)、新政府の参与・制度取調局判事となり、福岡孝悌と『政体書』起草に携わる。1869年(明治2年)に参議、1871年(明治4年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件において活躍する。
1873年(明治6年)2月には前々年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件(台湾出兵も参照)の処理交渉の特命全権公使兼外務大臣として清の首都北京へ派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈および交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。
1873年(明治6年10月)、征韓論争に敗れて下野し、1874年(明治7年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加、同年には民撰議院設立建白書を提出したものの、自由民権運動には参加しなかった。西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在している。
1879年(明治12年)、宮内省一等待講。1884年(明治17年)、伯爵。1887年(明治20年)に宮中顧問官、1888年(明治21年)に枢密顧問官、1891年(明治24年)に枢密院副議長になり、1892年(明治25年)には第1次松方内閣において内務大臣を務める。
書家としての副島種臣
書家としての業績は『蒼海 副島種臣書』(石川九楊編集 二玄社 2003年(平成15年))に詳しいが絶版。主要な作品は『書の宇宙24-書の近代の可能性 明治前後』(石川九楊編集 二玄社 2000年(平成12年))や、『近代書史』(石川九楊著 名古屋大学出版会 2009年(平成21年))でも紹介されている。2005年(平成17年)にNHK番組『新日曜美術館』で、書家としての側面をクローズアップした特集が石川が解説し放映された。「芸術新潮」(新潮社)の1999年9月号に掲載された「明治維新を筆跡でよむ 志士たちの書」にも紹介され、また『蒼海先生篆書帖』(西東書房 1972年(昭和47年))もある。
草森紳一が、文芸雑誌「すばる」(集英社)に「詩人副島種臣の生涯」(1991年(平成3年)7月号 - 1996年(平成8年)12月号、65回)と「文學界」(文藝春秋)に「薔薇香処 副島種臣の中国漫遊」を(2000年(平成12年)2月号 - 2003年(平成15年)5月号、40回)書き続けたが未刊行である。2007年(平成19年)から「表現」(京都精華大学表現研究機構)で「捕鼠 明治十一年の文人政治家副島種臣の行方」が始まっていたが創刊号と第2号のみで、絶筆となった。亡くなる少し前に、全体の4分の1にも達していないと語っている[1]。
2006年(平成18年)に佐賀県立美術館で、2007年(平成19年)に五島美術館で没後百年記念特別展「蒼海 副島種臣-全心の書-展」が催された。石川九楊、草森紳一、島善高が寄稿した図録が佐賀新聞社で製作された。改訂版が郷土出版である出門堂で刊行された。佐賀新聞の題字は副島の書いたものである。
代表作は「帰雲飛雨」「紅葉館」(佐賀県立美術館所蔵)。「神非守人 人実守神」「春日其四句」など多数。
栄典
- 1881年(明治14年) 勲一等旭日大綬章受章
- 1905年(明治38年) 勲一等旭日桐花大綬章受章
脚注
参考文献
『副島種臣全集』(3巻、島善高編、慧文社)が、2004年から2007年にかけ刊行し、伝記に丸山幹治『副島種臣伯』(著者は丸山眞男の父、みすず書房で復刻、現在はオンデマンド版)、また近年刊の『副島種臣と明治国家』(齋藤洋子、慧文社、2010年(平成22年))は、明治10年代における副島の言動に言及している。
- 副島種臣 著、島善高編 編『副島種臣全集 1 著述篇』慧文社、2004年12月。ISBN 4-905849-07-1。
- 副島種臣 著、島善高編 編『副島種臣全集 2 著述篇』慧文社、2004年12月。ISBN 4-905849-08-X。
- 副島種臣 著、島善高編 編『副島種臣全集 3 著述篇』慧文社、2007年10月。ISBN 978-4-905849-09-4。
- 大橋昭夫『副島種臣』新人物往来社、1990年7月。ISBN 4-404-01739-1。
- 齋藤洋子『副島種臣と明治国家』慧文社、2010年10月。ISBN 978-4-86330-044-6。
- 副島種臣(筆) 著、石川九楊編 編『蒼海副島種臣書』二玄社、2003年10月。ISBN 4-544-01382-8。
- 『副島種臣先生小伝』副島種臣先生顕彰会、1936年。
- 『蒼海副島種臣先生講話』川崎又次郎、1941年。
- 丸山幹治『副島種臣伯』大日社、1936年。
- 丸山幹治『副島種臣伯』みすず書房〈Misuzu reprints 2〉、1987年4月。ISBN 4-622-02672-4。
- 丸山幹治『副島種臣伯』(オンデマンド版)みすず書房〈Misuzu reprints 2〉、2005年9月。ISBN 4-622-06162-7 。
関連項目
- 江藤新平 - 種臣は江藤のことを、一番の友人であると言い、藩主鍋島直正からも2人は重んじられた。
- 西郷隆盛 - 互いに尊敬していた友人。死の際、大橋昭夫『副島種臣』によると「副島に期待する」と言った
- 福本日南 - 言論人で種臣を激賞
- 佐賀の七賢人
- 本田親徳 - 神道者
- 尾崎三良 - 自叙伝で内務大臣としての種臣を酷評
- 大江卓 - 土佐藩出身
- ハリー・パークス - 明治初期のイギリス外交官
- 副島道正 - 種臣の三男
- 周布兼道 - 種臣の四女の配偶者
- 周布公平 - 周布兼道の父
- 日本の書家一覧
- 日本の書道史
- 東邦協会
外部リンク
|
|
|
|
|
|