ジャーニー (バンド)

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ジャーニー
2008年、ミネアポリスで行われたコンサートより。}
2008年、ミネアポリスで行われたコンサートより。
基本情報
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンフランシスコ
ジャンル ハードロック
プログレッシブ・ロック
活動期間 1973年 -
レーベル CBSコロムビア
ソニー・ミュージック
フロンティアーズ・レコード
日本の旗 日本 キングレコード
メンバー
ニール・ショーン(ギター)
ジョナサン・ケイン(キーボード)
ロス・ヴァロリー(ベース)
ディーン・カストロノヴォ(ドラム)
アーネル・ピネダ(ボーカル)
旧メンバー
プレイリー・プリンス(ドラム)
ジョージ・ティックナー(2ndギター)
エインズレー・ダンバー(ドラム)
ロバート・フライシュマン(ボーカル)
グレッグ・ローリー(キーボード)
スティーヴ・ペリー(ボーカル)
スティーヴ・スミス(ドラム)
スティーヴ・オウジェリー(ボーカル)
ジェフ・スコット・ソート(ボーカル)
以下サポートメンバー
ボブ・グラウブ(ベース)
ランディ・ジャクソン(ベース)
ラリー・ロンディン(ドラム)
マイク・ベアード(ドラム)

ジャーニー (Journey) は、アメリカロックバンド1973年サンフランシスコで結成され、メンバー交代や解散、再結成などを経て、音楽性を変えながら結成から40年経つ現在[いつ?]も活動を続けている。

概要[編集]

サンタナ・バンドに参加していたニール・ショーングレッグ・ローリーを中心として、1973年サンフランシスコで結成。数々のプラチナ・ディスクやゴールド・ディスクを獲得した。特に1980年代初頭、ボストンTOTOヴァン・ヘイレンらと並び人気を得た。2005年01月21日に ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに手形と名前を刻んだ。

来歴[編集]

デビュー以前[編集]

1972年の『キャラバンサライ』発表後のサンタナが音楽性の変革やカルロス・サンタナの宗教問題からメンバー離散を起こし、ギタリストのニール・ショーンを当時のサンタナのロード・マネージャーだったハービー・ハーバートがサポートしようと画策。若手のグレッグ・エリコ(ドラム)、ピート・シアーズ(ベース)とのトリオ「ハッピー・バースデー」を結成するも、実質的活動がほぼないまま空中分解。その後「ゴールデン・ゲート・リズム・セクション」などと名乗り、サンフランシスコのクラブでセッションジャズ・ロック的なライブ活動をしていたところに、サンタナ時代の同僚であったグレッグ・ローリー(キーボード / ボーカル)が加わった頃からメンバーが固定化。ほかのメンバーは、ジョージ・ティックナー(ギター)、ロス・ヴァロリー(ベース)、プレイリー・プリンス(ドラム)である。

第1期[編集]

まもなくドラマーがジェフ・ベック・グループフランク・ザッパ&マザーズなどでキャリアを積んだエインズレー・ダンバーに替わり、1974年には当時のCBSコロムビア(のちのソニー・ミュージック)との契約を結んだ。デビューにあたっては、コンサートのフリーパスを懸賞としたバンド名公募が地元のラジオ局によって行われたが、ここではまともなアイディアが得られず、結果的にはスタッフの提案によって「ジャーニー」をバンド名とした。[1]1975年にデビュー作『宇宙への旅立ち』を発表。セカンド・アルバム『未来への招待状』のリリース前にティックナーが脱退し、このアルバムと次作『果てしなき挑戦』ではショーン、ローリー、ヴァロリー、そしてダンバーの4人編成となる。

この当時のジャーニーは「インストゥルメンタル曲主体のプログレッシヴ系ロックバンド」という位置付けにあったが、商業的には振るわず、補強のためロバート・フライシュマンがバンド初の専任ボーカリストとして1977年6月から加入。ニュー・アルバムのための曲作りに参加しつつツアーに臨むも約3か月後のツアー中に解雇され、ほどなく二代目専任ヴォーカリストとしてスティーヴ・ペリーが加入。フライシュマンの解雇とペリーの加入は、当時のマネージャーであったハービー・ハーバート(かつてサンタナにロードクルーとして参加していた彼が「ショーンを中心としたバンドを作ろう」と思い立ったことがジャーニー結成のそもそもの発端であった)の戦略的判断によるものであったと言われている。

スティーヴ・ペリーの加入により、バンドの方向性はそれまでにない劇的な変化を遂げることとなる。

スティーヴ・ペリーの加入後[編集]

スティーヴ・ペリーはジャーニーに加入する直前まではエイリアン・プロジェクトというバンドに参加していたが、メジャー・デビューのための契約を間近に控えた1977年の夏にベーシストを交通事故で失い、エイリアン・プロジェクトとしてのメジャー・デビューの話は白紙となった(ペリー曰く「バンドは急いで彼の代わりを捜したんだけど、僕にとっては彼無しではもう以前と同じようなバンド活動は続けられなくなってしまった」)。エイリアン・プロジェクトとしての活動が停止した後、ペリーは故郷に戻ってしばらく農場で働いていたが、実はその間にエイリアン・プロジェクトのデモ・テープが業界関係者を通じてハービー・ハーバートのもとに届いていた。それを聴いたハーバートは、その可能性を高く評価しペリーをジャーニーへ加入させた(加入当初のペリーはハーバートの計らいからか、「ツアースタッフの親戚」という触れ込みでツアースタッフも兼務していたとされる)。

1978年、4作目のアルバム『インフィニティ』では前作までのプログレッシヴ系ロックバンドとしての作風も維持しつつ、それと伸びの良いヴォーカル・パートを生かした躍動感ある楽曲との和合が特色となり、その後のバンドの方向性を明確に示す。このアルバムは全米21位のヒットとなり、初のシングル・ヒット曲を獲得(「ホィール・イン・ザ・スカイ」)すると共にプラチナ・ディスクを初めて獲得した。

しかしダンバーはそれ以上のポップ化を図るバンド/マネジメントとそりが合わなくなり、脱退してジェファーソン・スターシップに移籍、新たなドラマーとしてスティーヴ・スミスが参加。ジャズの流れを汲む彼の演奏はハードロック的でポップな作風へとシフトしつつあったバンドの志向と合致し、1979年作の『エヴォリューション』アルバムでは全米チャート20位、続く1980年作の『ディパーチャー』では8位と更に勢いを増し、その中で歴代の代表曲となる「ラヴィン・タッチン・スクィーズィン」や「お気に召すまま」などのシングル・ヒットも記録。バンドはそれまで通りライヴ・ツアー主体の活動を続けつつ、より広範な聴衆と人気を獲得してゆくこととなる。また、前述『ディパーチャー』アルバムと同年に高田賢三が監督を務めた映画「夢、夢のあと」のオリジナルサウンドトラックも手がけた。

その後、結成メンバーの一人であったグレッグ・ローリーが心労などの理由から脱退し、オリジナルメンバーはショーンとヴァロリーの2人だけとなる。ローリーは後任のキーボーディストとして当時ジャーニーの前座を務めていたベイビーズのジョナサン・ケインを推薦した。ケイン自身はこの時すでにベイビーズの主要メンバーであった自らの責任とジャーニーでの可能性との狭間で苦悩したが、最終的にジャーニーを選んだ。シンセサイザー世代であるケインはメロディックな曲を書くソングライターとしての素質も持っており、ジャーニーの楽曲に幅広いレパートリーを与えた。また演奏面でもブルージーで官能的なグレッグとは全く異なる爽快なサウンドをジャーニーの楽曲に加味した。ギターも演奏できたケインはショーンの手ほどきでギタリストとしても才能を現し、ライヴにおいては時としてショーンをサポートする「もうひとりのギタリスト」として演奏するなど斬新な印象をバンドの作風に盛り込んだ。[2]

決定打[編集]

ニール・ショーン(ギター)、スティーヴ・ペリー(ボーカル)、ロス・ヴァロリー(ベース)、スティーヴ・スミス(ドラム)、ジョナサン・ケイン(キーボード)の5人体制となった。ヒット作となるアルバムがリリースされたのもこの時期である。1981年に発表されたアルバム『エスケイプ』は、全米1位を獲得。ライブ・ステージの音響担当からレコーディング・エンジニアに昇格したケヴィン・エルソン(このアルバムの前作である『ライブ・エナジー(原題:Caputured)』ではプロデュースを担当)とコンビを組んだ後に名プロデューサーと讚されるようになるマイク・ストーンクイーンのプロデュースで一躍名を馳せたロイ・トーマス・ベイカーの愛弟子で、自らもクイーンの多くのアルバムでレコーディング・エンジニアを担当していた)、この2人の「生で演奏している音の雰囲気を殺さず音盤にする」力量が、レコード(当時)にはなかなか収め切れなかったライブ・バンドだったジャーニーの魅力を遺漏無く封じ込めることに成功したのも、彼らの出世を大きく後押ししたことは特記しておく必要があると思われる。なお、後にマイク・ストーンは、ジャーニーとの仕事で培ったレコーディングのノウハウをより洗練させエイジアの成功に大きく貢献した。金銭的に余裕が出来たからか、ニール・ショーンがヤン・ハマーとのものを皮切りに独自のプロジェクトを立ち上げる。

ちなみに、バンドの作品中日本で最も有名なバラードの一つである「オープン・アームズ」もこのアルバムに収録されているが、この曲はジョナサンがベイビーズ時代に書き起こしたものの、当時のバンドのボーカリストであるジョン・ウェイトの反対に遭い陽の目を見ることのなかったものだ。シングルでジャーニー最高位の全米2位、そしてのちにマライア・キャリーの手になるカヴァーのリバイバル・ヒットと、記録的な一曲になった。

ひとつの区切り[編集]

続く1983年の『フロンティアーズ』も全米9週連続2位のメガヒットに輝く。『フロンティアーズ』は『エスケイプ』の幻想的な作風からバラードのヒット曲路線を継承しつつも、よりハードロック志向の強い曲も収録し、バンドの強い個性が出ている1枚だ。ちなみに当時の1位は前後37週にわたって居座ったマイケル・ジャクソンの『スリラー』である。

この後、スティーヴ・ペリーは自身初のソロアルバムを発表し、さらにUSAフォー・アフリカにソロ・ミュージシャンとして参加。そしてニール・ショーンもまたソロ・プロジェクトの一環としてヤン・ハマーとの合作によるアルバムを発表。メンバー同士の不仲説が囁かれる中、再びジャーニーとしての活動に戻って次のアルバム『Raised On Radio〜時を駆けて』の制作が始まった時、ロス・ヴァロリーは参加せず、スティーヴ・スミスも一部の楽曲のみの参加であった。スミスは『エスケイプ』発表当時から自身のフュージョン・プロジェクト "Vital Information" を開始しており、ジャーニーでの成功によって金銭面の心配が無くなったのも手伝い、いわく「本腰を入れて取り組みたかった」というジャズに没頭すべくジャーニーを脱退したと言われている(この当時子供が出来たためツアーに出たくなくなったのも脱退の理由だとスミスが後年語っている)。

そして1986年にリリースされたニュー・アルバム『Raised On Radio〜時を駆けて』ではスティーヴ・ペリー、ニール・ショーン、そしてジョナサン・ケインの3人だけが正式メンバーとしてクレジットされており、アルバム制作およびライヴ・ツアーにおいてはオーディション等を経て起用された臨時メンバー(詳細は後述「サポート・メンバー」の項を参照)が参加していた。このアルバムは過去最多となる5曲のヒット・シングルを生んだ。後年のライヴでも代表曲のひとつとして演奏されることが多い「トゥ・ユアセルフ(Be good to yourself)」はこのアルバムが初出である。その他、ラジオによって育まれたというメンバーそれぞれの音楽心をアルバムのテーマとしていたことから、従来にない試みとしてサックスを導入した楽曲(2曲目の『ポジティヴ・タッチ』)[3]なども含まれていた。『Raised On Radio』アルバムは最終的には全米チャートの4位まで浮上するが、この年のライヴ・ツアーはスティーヴ・ペリーが心労を理由にリタイアを申し出たことにより約4か月で終了し、バンドとしての活動もまた休止状態に陥ってしまう。

不死鳥の復活[編集]

前作『Raised On Radio〜時を駆けて』のリリースから10年後の1996年、スティーヴ・ペリー、ニール・ショーン、ジョナサン・ケインの3人にロス・ヴァロリーとスティーヴ・スミスの2人を再び迎えた1983年当時のバンド・ラインナップによって、ジャーニーは新たなアルバム『トライアル・バイ・ファイアー』を発表。オリジナル・アルバム10作目にあたるこの作品は、最高3位の実績を残した。

復活の代償[編集]

『トライアル・バイ・ファイアー』は全米アルバムチャートで3位に達するヒット作となったが、スティーヴ・ペリーが体調の不備を理由にツアーに出ることを渋ったことから再結成メンバーによるツアーは行われなかった。1998年にはライヴ盤『グレイテスト・ヒッツ・ライヴ』を出すも、同時にスティーヴ・ペリーの正式脱退が伝えられた(経緯については後述「過去在籍したメンバー」の項を参照)。その後、再びジャズ・ミュージックに専念したいという理由によってスティーヴ・スミスもまたバンドを離れることとなり、ジャーニーは新メンバーとしてスティーヴ・オージェリー(ボーカル)とディーン・カストロノヴォ(ドラム)を加え再スタートを切る。

再始動後[編集]

新たなるメンバーを擁したジャーニーは2000年秋にアルバム『アライヴァル』を発表。1980年代初頭におけるいわゆる「黄金時代」を彷彿させる幾多の楽曲が収められたこのアルバムは当初日本で先行リリースされ、次いで本国アメリカでも翌2001年春に発売されたが、ビルボード・アルバムチャートでは56位と伸び悩んだ。売り上げが伸びなかった原因の一つとしてファイル共有ソフトによる楽曲流出がある。

2002年春、ジャーニーはデビュー以来その関係を保っていたソニー・ミュージックとの契約を解消し、80年代風ロックアーティスト専門のインディーズ・レーベルであるイタリアの【フロンティアーズ・レコード】に移籍してオンライン・マーケットでの作品流通を開始した(これに伴い、日本におけるジャーニーのアルバムの発売元はキングレコードとなっている)。

同年8月、移行後初のアルバム『レッド13』を発表。

2004年、日本映画『海猿』の主題歌として「オープン・アームズ」が採用されたことを受け、ソニー・ミュージックは既出のアルバム「Greatest Hits」をリニューアルした。そして同年秋、ジャーニーは3年ぶりに日本でのライヴ・ツアーを行った。この年の来日ツアーにおいて、ジャーニーは往年のヒット曲のみならず長年ライヴ向けにプレイし続けてきたナンバーもステージ・セットに多数取り入れ、かつメンバー全員がそれぞれリード・ボーカルを受け持ちつつ演奏を繰り広げるという、従来の慣習にとらわれないライヴ・パフォーマンスを披露した。

2005年1月にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームへの殿堂入りを果たした。その際に開かれたイベントには歴代メンバーのほとんどが出席した。

同年8月、前作『レッド13』から5年ぶりにニュー・アルバム『ジェネレーションズ』を発表。このアルバムには2004年の日本公演さながらにメンバー全員がそれぞれリード・ヴォーカルを担当する「持ち曲」が設けられていた。特定のフロントマンに依存せずメンバー全員で楽曲そのものをアピールしてゆくという、これまでバンドが培ってきた特性と人気を継承しつつも「往年の人気バンド」という位置に留まるまいとする姿勢が見受けられる。しかしながら、セールス的にも全米170位と振るわなかった。一方、日本では「ADLIBアウォード」や「山野楽器ミュージックアワード」など各賞の洋楽ロック部門を受賞した。

2006年のツアー中に、喉の感染症を治療するためにスティーヴ・オウジェリーがバンドを離れることとなり、代理のリード・ボーカリストとしてジェフ・スコット・ソートが参加。同年末、ジェフは脱退したオウジェリーに代わって正式メンバーへ昇格したことが発表されるも、翌2007年6月に脱退。ジャーニーは、公式ウェブサイトを通じて年内の活動休止をアナウンスする。

新たなる旅路[編集]

2007年12月5日、ジャーニーはフィリピン人シンガーのアーネル・ピネダ(Arnel Pineda)をリード・ボーカリストに迎えたことを公式ウェブサイトで発表し、このラインナップですぐさまアルバム『Revelation』のレコーディングを行った。 プロデュースとエンジニアリング、ミキシングを再結成後2枚のアルバム(『Trial By Fire』と『Arrival』)を手がけたケヴィン・シャーリーが再び担当したこの新アルバムは、新曲10曲に加えて前作『Generations』に収録されていた「フェイス・イン・ザ・ハートランド」をピネダを迎えて再演したテイクを含むディスク1と、スティーヴ・ペリー在籍時代のヒット曲・人気曲11曲の現メンバーによる再録で構成されたディスク2との2枚組となった(US盤にはさらに最新ライヴDVD1枚が付属する3枚組構成)。2008年6月3日にネット予約先行、同4日に米ウォルマート店舗、同9日に欧州および全米で発売された。セールス的には発売1週間で世界計10万4000枚(バンド発表)を売り上げる久々のヒットとなり、Billboard Top 200でも初登場5位、同Top Internet Album2位、同Top Independent Album1位 [4]などを獲得した。日本でも6月にオリコン週間洋楽チャートにて輸入盤のみながら28位を記録したのを皮切りに、日本盤の正式発表以前から一部外資系レコード店にて輸入盤が好調な売れ行きを示した。また、10月8日に発売された日本盤ではUS版ボーナストラック"Let it take you back"に代わって「ザ・プレイス・イン・ユア・ハート」(『Generations』収録曲)の再演版が収録されている。12月18日には『Trial By Fire』以降初となるゴールドディスク&プラチナムディスク(2枚組のため50万枚×2=100万枚)に認定された(RIAA)。バンドはハートチープ・トリックとともに全米各都市を精力的にツアーを終え(ケヴィン・シャーリー公式ウェブサイト(英語)、2009年3月9日から東京、名古屋(11日)、大阪(12日)を回る日本ツアーを開始。3月9日の東京国際フォーラム・ホールAをソールドアウトさせた。

2011年5月24日スタジオアルバムとしては14作目にあたる『Eclipse (ECL1P53)』をリリースしBillboard Top 200において初登場13位を記録した。

メンバー[編集]

1973年結成当時のメンバーには横にUを、アルバム『エスケイプ』発表当時のメンバーにはEをつけた。また、数字は在籍した期間を表す。

2014年現在のメンバー(2008年~)[編集]

  • ロス・ヴァロリー (Ross Lamont Valory) :(U、E)(1973-1984,1996-)B(ベース)、バッキングボーカル
    1949年2月2日サンフランシスコ生まれ。ショーンの旧友で、ショーンと共に結成時のメンバー。16歳でのちのサイケデリック・バンド"フラミアス・バンダースナッチ"の前身、"ミスティークス(Mystiques)"を立ち上げ、ほかにスティーヴ・ミラー・バンドにも在籍した。彼はマルチ・プレイヤーとして知られ、歌、ピアノ、ギター、ドラム、そしてクラリネットが演奏できる。結成以来ベーシストとしてのプレイおよびリズムギター、バックボーカルに専念していたが、2005年発表のアルバム『ジェネレーションズ』では初のリード・ヴォーカル曲「ゴーン・クレイジー」を披露した。トッド・ラングレンのアルバム『セカンド・ウインド』にも参加している。
    彼は変顔が大好きで、ライヴ中いつもおどけた表情をする。
    ロス・ヴァロリー公式ウェブサイト(英語)
  • ジョナサン・ケイン (Jonathan Leonard Cain) :(E)(1980-)key(キーボード)Vo(ボーカル)、バッキング・ボーカル
    1950年2月26日イリノイ州シカゴ生まれ。8歳からアコーディオンのレッスンを始め、クラブやパーティーでアコーディオンピアノを演奏していた。ジャーニー以前にはイギリスのベイビーズというバンドに参加していたが、バンドがジャーニーの全米ツアーの前座を務めたのをきっかけにメンバーに一目置かれ抜擢。このバンドはケインの脱退後、解散してしまうが、元ヴォーカルのジョン・ウェイトとはバッド・イングリッシュで再共演(これにはニールも当初参加。また後にジャーニーのメンバーになるディーン・カストロノヴォも参加しており、現ジャーニーに繋がる伏線として重要)。「オープン・アームズ」をアダルト・コンテンポラリー風にアレンジしたセルフ・カバーなどソロでも活動。また"エスケイプ・メンバー"ではショーンと共にジャーニー加入以来一度も脱退せずに今日まで至る。作曲活動にも積極的に参加し、アルバム『ジェネレーションズ』ではタイトル曲「エブリー・ジェネレーション」と日本版ボーナス・トラック「プライド・オブ・ザ・ファミリー」の2曲を歌唱。他にもジャーニー参加当時からニールに習い始めこの当時にはかなりの腕前になっていたギター、ハーモニカを演奏している。ちなみにギターは1981年のエスケイプツアーでも一部の曲で披露していて、ジョナサンがリズムギターを弾く間スティーヴ・ペリーがピアノを叩くなどのパフォーマンスもみられた。サミー・ヘイガーとも共演している。
    ジョナサン・ケイン公式ウェブサイト(英語)
  • ディーン・カストロノヴォ (Deen Castronovo) :(2000-)Ds(ドラムス)、バッキング・ボーカル
    1965年8月17日生まれ。正規メンバーとしては4代目のドラマー。元々スラッシュメタルバンドからプロのキャリアをスタートさせていることもあり攻撃的な演奏が特徴。5歳の頃からドラムの探求を始め、13歳でジャーニーの『インフィニティ』の曲をすべてコピーした。ディーンは最も影響を受けたアーティストとしてスティーブ・スミス、ニール・パート、およびテリー・ボジオの名を挙げる。「ハイ・パフォーマンス・ドラム」というドラムの教則ビデオもリリースしている。ニール・ショーンとジョナサン・ケインらが1987年に結成した"バッド・イングリッシュ"と、その後ショーンが結成した"ハードライン"の両バンドに参加しており、バンドの主要メンバーとは加入前から既知の間柄であった。また、彼のボーカリストとしての才能はドラムの技能と同様に印象的で(声質もスティーヴ・ペリーと非常に似ている)、過去のヒット曲の一部を自らリード・ボーカルとしてドラムを叩きながらライヴで披露している他、アルバム『ジェネレーションズ』でも2つの新曲で歌っている(3曲目の「ベター・ライフ」、そしてラスト・トラックの「ネヴァー・トゥー・レイト」)。ジャーニー以外のバンドでは、オジー・オズボーンポール・ロジャースとも組んだことがある(ポール・ロジャースとの演奏においてはニール・ショーンも参加し、来日公演を行ったこともある)。ちなみに、バッド・イングリッシュやオジー・オズボーン在籍当時は名前のカナ表記が「ディーン・カストロノヴ」となっていた。
  • アーネル・ピネダ (Arnel Pineda):(2007-)Vo(ボーカル)1967年9月4日生まれ
    フィリピンマニラ出身。フィリピンでプロミュージシャンとして活動。15歳からバンド活動をはじめ、1999年にソロアルバム「Arnel Pineda」、2007年にはロックバンド『The Zoo』名義で『Zoology』をリリースしている。YouTubeに投稿されたThe Zooによるジャーニーのカヴァーをニール・ショーンが偶然視聴したことがきっかけとなり加入に至る。1988年に「WORLD BAND EXPLOSION世界大会」出場のため来日している。

過去在籍したメンバー[編集]

  • スティーヴ・ペリー (Steve Perry): リードボーカル、1977–86, 1996–98
    歴代メンバーの中でもひときわ存在感あふれるボーカリストであり、ジャーニー史上最高のボーカルだったことはバンドメンバーの誰もが認める。その常に安定した音程と極めて幅の広い声域、そしてその印象に残る歌声とメッセージを伝えて余りある熱唱には、多くの音楽関係者や批評家が「百万人に一人の声」「黄金の声」「ザ・ヴォイス」などと称賛を惜しまなかった。在籍中は作詞・作曲のほとんどに参加し、文字通り彼の才能ひとつでバンドの軌道を修正してジャーニーを黄金時代へと導いた。在籍約10年の後、1986年に発表したアルバム『レイズド・オン・レイディオ』のライヴツアーの途中で、ペリーは心労を理由に突然ジャーニーを脱退する。母子家庭に育ったペリーは母と深い絆で結ばれており、その母を失ったことが非常に大きなショックだったという。それからまた10年、1996年にリリースした再結成アルバム『トライアル・バイ・ファイアー』でペリーは一時ジャーニーに復帰する。このアルバムは大成功となり、カムバックツアーも組まれて、再結成ジャーニーの前途は洋々に見えたが、ペリーはほどなく健康上の理由からツアーの中断と延期を申し出る。ペリーはオフ中ハワイハイキングをしていた際に股関節を負傷、これが歩くこともままならないほどに悪化しており、検査の結果彼は退行性骨関節疾患を患っていることが判明。ペリーは人工股関節置換手術 (en) の必要に迫られたが、なかなかその決断ができず、かといってその体ではツアーを再開してもステージに立つことすらおぼつかないというジレンマのなかで時間だけが浪費されていった。一方ジャーニーの他のメンバーたちは、カムバックツアーがいよいよ調子に乗り始めていた矢先にバンドの「顔」が引き蘢ってしまうという異常事態に業を煮やしていた。ツアーの度重なる延期を1年半にもわたって訴え続けたペリーに対し、結局他のメンバーたちは、早急に手術を受けて体を直すか、さもなければ代替ボーカルを探すことに同意するか、という最後通牒同然の二者択一を迫った。「俺は今後の人生を左右しかねない重大な健康問題に直面して苦悩しているというのに、他のメンバーたちにとってはそんなことよりもバンドの興行収入を確保することを優先するのか」というペリーの怒りと落胆が、彼にジャーニーとの決別を決意させる決定的な理由になった。そして、脱退後は実に7年間の長きにわたって公の場には一切姿を見せず、ほとんど失踪に近い状態にあったことからも、当時の彼の失望と挫折がいかに深い心の傷となったのかが窺える。なおペリーはジャーニーを脱退した後になってやっと人工股関節置換手術に臨んだ。手術は成功し、こちらの傷の方は順調に癒え、ほどなく何の障害もなく歩行やジョギングができるまでに回復している[5]
  • グレッグ・ローリー (Greg Rolie): キーボード・ハーモニカ・ボーカル、1973–81
    ショーンと同じくサンタナ出身のメンバー。サンタナからはショーンの一足先に脱退してレストランを経営していたが、ジャーニー結成にあたって再度合流した第1期メンバーの中核。サンタナ在籍時のパートとほぼ同様、ジャーニーでもキーボードに加えてロック・オルガンと、そして一部の曲ではリード・ヴォーカルも担当していた。スティーヴ・ペリー加入後は、各アルバムで1〜2曲ずつペリーとのデュエット形式でヴォーカルを担当していた。なお、ジャーニー脱退後にロス・ヴァロリーとスティーヴ・スミスと組み、ザ・ストームというバンドを結成したこともある。
  • スティーヴ・スミス (Steve Smith): ドラムス・パーカッション、1979–84, 1996–99
    「鉄壁の職人ドラマー」(当時「Steve Machine-gun Smith」とライブではよく紹介されていた)と呼ばれ、『エヴォリューション』以降のバンドの絶頂期に活躍。再結成時『トライアル・バイ・ファイアー』のジャケット裏面写真でメンバー中唯一スキンヘッドにしていたことでも話題を浴びた(黄金期のジャーニーで活動していた頃はロング・ヘアであった)。他のバンドでの活動履歴も多い。ジャーニー脱退前から活動を始めていたヴァイタル・インフォメーションの活動、ジェフ・バーリンのバンド、マイク・スターンのバンドなどにも参加。他に多くのジャズ・セッションにもクレジットされている。マライア・キャリージョシュ・グローバンなど、ポップス・シンガーの曲にもセッション・ミュージシャンとして数多く参加している。
  • ロバート・フライシュマン (Robert Fleischman): リードボーカル、1977
    今日知られるヒット曲のひとつ「ホイール・イン・ザ・スカイ」で作曲に参加。上述の通り初代専任ボーカリストとして約3か月ほど公演したが、実質的にはゲスト・ボーカリストという見方もある。86年には元キッスのギタリストヴィニー・ヴィンセントのバンドVinnie Vincent Invasion に参加。ハイトーンボーカルを聴かせている。
  • ジョージ・ティックナー (George Tickner): リズムギター、1973–75
    ファーストアルバムとそのツアーに参加後、セカンドアルバム制作前に脱退(疲労、そして進学のためとの説がある)。なお、サード・アルバム『ネクスト』では作曲者として参加。
  • プレイリー・プリンス (Prarie Prince): ドラムス・パーカッション、1973–74
    結成時のメンバーだが、レコード・デビュー以前に脱退している『レイズド・オン・レイディオ』にジャケット画(カバー・イラスト)担当として参加。ジェファーソン・スターシップの再結成にも参加、トッド・ラングレンのレコーディング、ツアーにも参加している。
  • スティーヴ・オウジェリー (Steve Augeri): リードボーカル、1998–2006
    1959年1月30日、ニューヨーク市ブルックリン生まれ。元タイケット、元トール・ストーリーズ。メンバーによるオーディションで選ばれた。ジャーニー参加直前は一時音楽活動を停止し、ニューヨークのGAPの店員として働いていたという。前任のスティーヴ・ペリーに似ているという評判の声質で黄金時代のファンも取り込みバンドの長寿化を促す一翼を担ったが、上述の通り2006年のツアー中に疾病のため離脱し、そのまま脱退した。その後はしばらく療養に専念し、近年[いつ?]トール・ストーリーズを再結成している。

サポート・メンバー[編集]

スティーヴ・ペリー(リード・ボーカル)、ニール・ショーン(ギター、ボーカル)、そしてジョナサン・ケイン(キーボード、ボーカル)という3人編成で発表した『Raised on Radio/ レイズド・オン・レイディオ 〜時を超えて〜』(1986年)ではベースに2人、ドラムに1人、さらに同アルバムに伴うツアーでドラムが1人サポート・メンバーとなっている。またメンバーの体調などの問題で参加するケースもある。

  • ランディ・ジャクソン (Randy Jackson) :B
    同アルバム中8曲とツアーでプレイした。プロデューサーとしても活躍するサンフランシスコ・ベイエリアの音楽シーンの重鎮。後にUSAソニーコロムビアレコードのA&Rとなり、現在[いつ?]は米フォックス・チャンネルの人気番組で、ミュージシャン発掘を目的とした番組である『アメリカン・アイドル』の審査員としても有名である。元サム&デイヴのサム・ムーアの2006年のアルバムのプロデュースも務めた。
  • ラリー・ロンディン (Larry Londin) :Ds
    アルバムのレコーディングでプレイしたが、ツアーには参加せず。基本的にはカントリー畑のドラマーで、チェット・アトキンスエルヴィス・プレスリーなどとのセッションでも活躍したベテラン。1992年に死去(48歳)。

メンバーの変遷[編集]

メインボーカル ギター ベース キーボード ドラムス
1973(デビュー前) グレッグ・ローリー ニール・ショーン
ジョージ・ティックナー
ロス・ヴァロリー グレッグ・ローリー プレイリー・プリンス
1973 - 1975 エインズレー・ダンバー
1975 - 1977 ニール・ショーン
1977 ロバート・フライシュマン
1977 - 1979 スティーヴ・ペリー
1979 - 1981 スティーヴ・スミス
1981 - 1984 ジョナサン・ケイン
1984 - 1986
1986 - 1996 活動停止
1996 - 1998 スティーヴ・ペリー ニール・ショーン ロス・ヴァロリー ジョナサン・ケイン スティーヴ・スミス
1998 - 2006 スティーヴ・オージェリー ディーン・カストロノヴォ
2006 - 2007 ジェフ・スコット・ソート
2007 - アーネル・ピネダ

タイムライン[編集]

来日公演[編集]

ディスコグラフィ[編集]

2005年8月現在までに発表されたオリジナル・アルバムは12作。 代表曲に「オープン・アームズ」、「ドント・ストップ・ビリーヴィン」(いずれも『エスケイプ』に収録されており、また日産・エルグランドのCMで起用された)、「セパレイト・ウェイズ」(フロンティアーズ)、「ホイール・イン・ザ・スカイ」「ライツ」(インフィニティ)などがある。 これらを含む『グレイテスト・ヒッツ〜永遠の旅〜 - JOURNEY GREATEST HITS』(1989年発売)は、今も全世界で売れ続け、2008年4月にRIAAダイヤモンドディスク1600万枚に認定され全世界では2500万枚以上売り上げた。08年6月現在ビルボードのトップポップカタログチャート(発売後2年経ったアルバムのチャート)で761週在位して、何度目かの1位に返り咲くという超ロングセラーになっている。

オリジナル・アルバム[編集]

  1. 1975 宇宙への旅立ち - JOURNEY (全米ビルボード・チャート最高位138位)
  2. 1976 未来への招待状 - LOOK INTO THE FUTURE (同100位)
  3. 1977 ネクスト - NEXT (同85位)
  4. 1978 インフィニティ - INFINITY (同21位)、3Xプラチナム獲得
  5. 1979 エヴォリューション - EVOLUTION (同20位)、3Xプラチナム獲得
  6. 1980 ディパーチャー - DEPARTURE (同8位)、3Xプラチナム獲得
  7. 1981 エスケイプ - ESCAPE (同1位)、9Xプラチナム獲得
  8. 1983 フロンティアーズ - FRONTIERS (同2位)、6Xプラチナム獲得
  9. 1986 Raised On Radio〜時を駆けて - RAISED ON RADIO (同4位)、2Xプラチナム獲得
  10. 1996 トライアル・バイ・ファイアー - TRIAL BY FIRE (同3位)、プラチナム獲得
  11. 2000 アライヴァル - ARRIVAL (同58位)
  12. 2005 ジェネレーションズ - GENERATIONS (同170位)
  13. 2008 レヴェレイション - REVELATION (同5位)、プラチナム獲得
  14. 2011 エクリプス - Eclipse (同13位)

ライブ・アルバム、ベスト・アルバム等[編集]

  1. 1979 ビギニング - IN THE BEGINNING 『JOURNEY』から『NEXT』までのアルバムに収録された楽曲によるコンピレーション。
  2. 1980 夢、夢のあと - DREAM, AFTER DREAM 高田賢三監督の同名映画のオリジナル・サウンドトラック
  3. 1981 ライヴ・エナジー - CAPTURED 初のライヴ盤(同9位)。『INFINITY』から『DEPARTURE』までのアルバムに収録された楽曲を中心に構成されている。
  4. 1989 グレイテスト・ヒッツ〜永遠の旅 - JOURNEY GREATEST HITS(10位。全世界2500万枚、全米1500万枚以上)
  5. 1992 タイム3 - TIME 3 アルバム未収録曲、シングル盤B面収録曲、およびデモ・テイク等も含めた3枚組ボックスセット。
  6. 1998 グレイテスト・ヒッツ・ライヴ - GRATEST HITS LIVE ライヴ盤第2作(同79位)。『ESCAPE』リリース後のライヴで演奏された楽曲が中心。
  7. 1991 ジャーニー・ザ・バラード - JOURNEY THE BALLADS 日本で企画されたバラード集。
  8. 2003 エッセンシャル・ジャーニー - THE ESSENTIAL JOURNEY
  9. 2004 オープン・アームズ〜グレイテスト・ヒッツ - JOURNEY GREATEST HITS (89年発売のグレイテスト・ヒッツに「ラヴ・ア・ウーマン」を追加し曲順を変更したもの)
  10. 2011 グレイテスト・ヒッツvol.2 - JOURNEY GREATEST HITS vol.2 1989年に発売されたvol.1はシングル中心の選曲だったのに対し、本作はアルバム、ライブでの人気曲中心。

シングル[編集]

1975年

  • Of A Lifetime
  • In My Lonely Feeling
  • Mystery Mountain

1976年

  • Midnight Dreamer
  • On A Saturday Nite
  • I'm Gonna Leave You
  • Anyway

1977年

  • Look Into The Future
  • Spaceman
  • People
  • Nickel And Dime
  • I Would Find You

1978年

  • Wheel In The Sky (全米57位)
  • Anytime (全米83位)
  • Lights (全米68位)

1979年

  • Just The Same Way (全米58位)
  • Lovin' Touchin' Squeezin' (全米16位)
  • Lovin' You Is Easy

1980年

  • Too Late (全米70位)
  • Any Way You Want It (全米23位)
  • Walks Like A Lady (全米32位)
  • Good Morning Girl / Stay Awhile (全米55位)

1981年

1982年

  • Open Arms (全米2位)
  • Still They Ride (全米19位)

1983年

  • Separate Ways (Worlds Apart) (全米8位)
  • Faithfully (全米12位)
  • Send Her My Love (全米23位)
  • After The Fall (全米23位)

1984年

  • Chain Reaction

1985年

  • Only The Young (全米9位)

1986年

  • Be Good To Yourself (全米9位)
  • Suzanne (全米17位)
  • Girl Can't Help It (全米17位)

1987年

  • I'll Be Alright Without You (全米14位)
  • Why Can't This Night Go On Forever (全米60位)

1993年

  • Lights [Live] (全米74位)

1996年

  • When You Love A Woman (全米12位)
  • Message Of Love
  • Can't Tame The Lion
  • If He Should Break Your Heart

2001年

  • Higher Place
  • All The Way
  • With Your Love

2005年

  • The Place In The Your Heart

2008年

  • After All These Years (USAC 9位)
  • Never Walk Away
  • Where Did I Lose Your Love (USAC 19位)

脚注[編集]

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  1. ^ ボックスセット「Time3」解説書より。なお、和田誠の著書「ジャーニー/永遠の旅」(ISBN4-401-61161-6)によると、コンサートへのフリーパスについては架空の当選者を設けて事を取り繕った模様。
  2. ^ 「Time3」の解説書によると、グレッグ・ローリーはジョナサン・ケインを後任に推薦した理由として、彼がギターを弾けること、そしてニール・ショーンがギターも弾けるキーボーディストを欲しがっていたことを挙げている。
  3. ^ サキソフォンの演奏はダン・ハルによるもの。
  4. ^ Billboard誌の分類基準となる米国での配給元は Nomota という独立(インディペンデント)レーベルである。
  5. ^ ニール・ショーン曰く、 「スティーヴの才能は認めるが、必ずしも彼である必要はない」との事。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]