キング・クリムゾン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
キング・クリムゾン
King Crimson, 1982, l-r Robert Fripp, Adrian Belew, Tony Levin, and Bill Bruford
King Crimson, 1982, l-r Robert Fripp, Adrian Belew, Tony Levin, and Bill Bruford
基本情報
出身地 イングランドの旗 イングランド
ジャンル プログレッシヴ・ロック
アヴァンギャルド
実験音楽
シンフォニック・ロック(初期)
ジャズ・ロック(70年代)
フリージャズ(70年代)
ヘヴィ・メタル(72~4年)
ニュー・ウェイヴ(80年代)
(広義の)ヘヴィ・ロック(90年代以降)
ヌーヴォ・メタル(自称)
活動期間 1969年 – 1974年
1981年 – 1984年
1994年 – 現在
レーベル アイランド
EG
アトランティック
ほか
メンバー
ロバート・フリップ
エイドリアン・ブリュー
トニー・レヴィン
パット・マステロット
ギャヴィン・ハリソン英語版
旧メンバー
グレッグ・レイク
イアン・マクドナルド
マイケル・ジャイルズ英語版
ボズ・バレル
ジョン・ウェットン
ビル・ブラッフォード
ゴードン・ハスケル英語版
トレイ・ガン英語版
アンドリュー・マカロック英語版
イアン・ウォーレス英語版
ジェイミー・ミューア英語版
ピート・シンフィールド
リチャード・パーマー・ジェイムス英語版
メル・コリンズ
デヴィッド・クロス英語版

キング・クリムゾン (King Crimson) は、イギリスプログレッシヴ・ロックバンド。一般的には英国プログレッシヴ・ロックの雄として認識されているが、中心人物のロバート・フリップは自身の音楽が「プログレ」とされることを快く思っておらず(「『プログレッシブ・ロック』という名称はキング・クリムゾンが活動を始めた時をさす際のみ妥当な呼称であり、我々はすでにそこからさらに進化している」という考えのため)、実際にその音楽性も実験的要素を保ちつつ、シンフォニック・ロックからジャズ・ロック、フリー・ジャズ、フリー・インプロヴィゼーション、ヘヴィ・メタル、ニュー・ウェイヴ、ヘヴィ・ロック、「ヌーヴォ・メタル」などと多彩に変化を繰り返している。

目次

[編集] 概要

1968年末結成。アルバムクリムゾン・キングの宮殿』で1969年にデビュー。以降、フリップはバンドのメンバーを次々に替えていき、音楽性も多様に変遷を辿った。日本では俗に「クリムゾン」「キンクリ」「KC」などと呼ばれることもあるが、本国ファンにはCrimso(クリムソ)の略称が根強い。

プログレッシヴ・ロック・バンドと呼ばれたバンドの多くは、プログレの形骸化からの脱却や実験の一環、さらにはブーム退潮後のバンド存続の策として、(一時的にせよ恒久的にせよ)コマーシャルな方向性を打ち出していたことがある。一例にフィル・コリンズがヴォーカルを務めるようになってからのジェネシス、「ロンリー・ハート」が全米1位となったイエスなどが挙げられるそうした流れの中、キング・クリムゾンは時代時代のチャートと姿勢・結果の双方でかかわることがなく、その時々において別個の方向性を打ち出しつつ自身の音楽性を追究し続けてきた。そのため叙情的なシンフォニック・ロックからインプロヴィゼーション主体のジャズ・ロック、ヘヴィ・メタル的質感のヘヴィ・ジャズ・ロックという70年代の音楽性を破棄した、80年代のニュー・ウェイヴ的音楽性、90年代のヘヴィ・メタルインダストリアルProjeKctにおけるよりインテンシヴなフリー・ジャズといった旧来のプログレと相容れない音楽との融合を試みるなど、今なお挑戦的な試みを行っている文字通り"progressive"なロック・ミュージシャンであり、プログレッシブ・ロックという特殊な音楽ジャンルの中においてさえも孤高の存在と言える。そうした商業性やヒットと関係を持たない頑固一徹ともいえる音楽スタイルと、メンバーの高い力量から創造されたスリリングな音楽は、いまだにフォロワーを生んでいる。

[編集] 来歴

[編集] 結成まで(第1期)

  • 註:キング・クリムゾンの活動時期の分類については諸説ある。構成メンバーを基準に、“第1期”、“第2期”、...などと分類する点は共通しているが、「デビュー~ファースト・アルバムのリリース当時」のメンバーを“第1期”、サード・アルバム『リザード』のころを“第2期”、4thアルバム『アイランズ』のメンバーを『第3期』、...とする分類や、『リザード』までを“第1期”、『アイランズ』のころを“第2期”、『太陽と戦慄』から1974年解散までを“第3期”、...とする分類などといったように、「アルバム自体や、その時のメンバー単位で分類する方法」と、「デビュー~1974年の解散時まで」を“第1期”、「1980年代再結成からの活動期間」を“第2期”、「1994年からの活動期間」を“第3期”...と、「連続活動期間で分類する方法」などがあり、統一がなされていない。音楽評論家の市川哲史は、『太陽と戦慄』の時期を「再結成」、1980年代の『ディシプリン』から『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』の時期を「再々結成」、1990年代のダブル・トリオの時期を「再々々結成」として、キング・クリムゾンのCDのライナノーツでもその様に記述している。ここでは、前者の分類方式に準じて述べていくが、「デビュー当初の“第1期”」後については、極力、構成メンバーやアルバム・タイトルなどで記述することとする。

1968年の「ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ」から発展し、6月にマルチプレイヤーイアン・マクドナルド、作詞・ライブ時の照明担当のピート・シンフィールド、女性ボーカル、ジュディ・ダイブルが加わったがひと月後の7月ジュディが抜け、12月にベースのピーター・ジャイルズをフリップの古くからの友人であったグレッグ・レイクボーカリストベーシストと入れ替え、第1期のメンバーが揃うこととなった。バンド名は加入前にイアン・マクドナルドピート・シンフィールドが共作した楽曲クリムゾン・キングの宮殿からで、ピート・シンフィールドがメンバーの反対を押し切って付けたとインタビューに答えている。1969年初頭からリハーサルと曲作りが行われ、公開リハーサルの後ライブ活動とアルバム制作が行われていった。

ファースト・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』は、当時からよく雑誌のレコード・レビューなどで、「1969年に、ビートルズの『アビイ・ロード』を1位から転落させたアルバム」といった内容で紹介されることが多かったが、英国音楽誌DISC誌1969年11月8日号デヴィッド・シューズの記事「遂にデビューアルバムがアビーロードをトップから引きずり降ろした。」を紹介したものと言われる。そのことについては、複数の日本の評論家が「デマとまではいえないが、ありえるとしたなら、地方の、あるいは、マイナーなチャートではないのか」といった見解を共通して述べていた。NMEでは5位が最高位。このファースト・アルバム制作当初、プロデュースしたトニー・クラークは自ら手掛けるムーディ・ブルース同様のサウンド作りを要求した為にバンドと決裂し、スレッショルド・レーベルからのリリースは御破算となり、バンドがセルフプロデュースしアイランドからのリリースとなった。

キング・クリムゾンでは、一貫してフリップがリーダーシップを握っていたが、この当時は作曲やアレンジを含めた音楽面では、むしろイアン・マクドナルドの方が優勢であったとする見方をする者も多い。特に、キーボード(メロトロン)や、管楽器(サックス、フルート)といった、当時あまりロックバンドで使われることの多くなかった楽器を導入し、新たな音楽を創造した功績は大きいと言える。この後にマクドナルドとジャイルズは脱退し、共同名義のアルバムをリリースした。そのなかで、1970年リリースのキング・クリムゾンのセカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』の、一部収録曲の「ネタばらし」をした。彼は1976年フォリナーのオリジナル・メンバーとなり、ギターキーボードなどを担当した。

当時ギタリストはバンド内に1名でよいとフリップは考えていたため、レイクにはギターの演奏はさせなかった。セカンド・アルバムでピーター・ジャイルズがベースを担当しているのは、単純に新曲をリハ無しですぐに弾けるという事だとフリップは述べている。セカンド・アルバム録音終盤、レイクは正式脱退し、キース・エマーソンカール・パーマーと共にエマーソン・レイク&パーマーを結成し、成功することとなる。レイク自身も69年のツアー中に幾度もエマーソンとの新バンド構想打ち合わせをしていた事をインタビューで述べており、年末のアメリカツアー時に既に脱退が決定的になっていた。

[編集] メンバーチェンジ以降(1970年代)

セカンド・アルバムのリリース以降、サード・アルバム『リザード』、その後の『アイランズ』(意訳「諸島」)や、『太陽と戦慄』(直訳は「毒蛇の中の雲雀の舌」)[1]に至るまで、メンバー・チェンジを繰り返した。1971年オーディションでベースが決まらない為、ボーカリストのボズ・バレルに対し、フリップはベースギターの奏法を教授し担当させ、アルバム『アイランズ』収録前にドイツ等でお披露目ツアーを行っている。作詞と初期4作品のイメージ作りを担当したピート・シンフィールドは71年8月にニュー・ミュージカル・エキスプレス誌に脱退を予告し年末に解雇された。険悪化した関係のシンフィールドをクビにすることで印税を4等分すると約束したフリップだったが、年明け早々のリハーサルでメルの新曲を無視し号泣させ、またもフリップは孤立する。バンドは解散したが、マネージメントはツアー契約を楯に残り3ヶ月のツアー続行を強行した。音質の悪いライヴ・アルバム『アースバウンド』(マスターはミキサー・コンソールに繋がれたカセットテープレコーダーで録音)を廉価版にてリリース。この時のメンバーは72年4月に解散した。

ツアー終了後、フリップのみ英国へ帰国し、残りの3人は共演したアレクシス・コーナーとバンドを組んでツアーをした。その後、ボズはポール・ロジャースのバンドバッド・カンパニーのベーシストとして参加することとなる。ピート・シンフィールドもレイクの呼びかけに応じ、エマーソン・レイク&パーマーに作詞で協力したりソロ・アルバム『スティル』を制作した。フリップはこの時期のバンド解消を「彼らとではアイディア(太陽と戦慄)を具体化できなかったから」と説明している。

[編集] 再結成以降

1972年には、ドラマーのビル・ブラッフォードがプログレッシブ・ロックのバンド、イエスから参加した。また、ロジャー・チャップマンのバンドファミリーのベーシスト兼ボーカリストでフリップの大学時代の友人ジョン・ウェットン(キング・クリムゾン解散後にU.K.エイジアを結成)、クリムゾンへ影響を与えた即興集団デレク・ベイリー主宰カンパニーのパーカッショニスト、ジェイミー・ミューア、そしてデヴィッド・クロスが集結。ここで再びバンドとしてのピークを迎え、『太陽と戦慄』『暗黒の世界』『レッド』の3枚のアルバムを一部メンバー脱退を経ながらもリリースし、ライヴ・ツアーも精力的にこなす。「静と動」「インプロヴィゼーション重視」の姿勢などがサウンドの特色としてみられた。またバンド内に、2人のメロトロン奏者(ロバート・フリップとデヴィッド・クロス)がいるため、「メロトロンをバックにしたギターソロ」「メロトロンをバックにしたヴァイオリンソロ」「2台のメロトロンによるアンサンブル」という多彩な演奏を聴くことも出来る。

この当時のアメリカでのライヴの様子を収録したライヴ・アルバム『USA』が解散後の1975年にリリースされた。元音源にはバイオリン兼キーボード(主にメロトロン)担当のデヴィッド・クロスが参加していたのだが、いくつかが編集段階でフリップによりエディ・ジョブソン(「特記」参照)の演奏に差し替えられた。

1974年制作されたアルバム『レッド』は、ウェットンの呼びかけで数名のOBが参加したが、リリース後フリップは突然解散宣言を出す。その直前には、フリップとウェットン、ブラッフォードの3人となったバンドに『レッド』にも参加したかつてのメンバー、イアン・マクドナルドを再度迎えて、バンド継続計画を発表していたが、フリップに続行の意思は無かった。

[編集] 再々結成(1980年代)

1981年に至って、かつてのメンバーであるビル・ブラッフォードを加えて、「ディシプリン」というバンド名でフリップはライブ活動を始めた。前年にリリースされたジョン・レノンの『ダブル・ファンタジー』などにも参加したことのあるアメリカ人ベーシスト、トニー・レヴィンが加入(フリップとはピーター・ガブリエルのレコーディングで競演したことがある)。また、2人目のギタリスト(兼ボーカリスト)にエイドリアン・ブリュー(アメリカ人)が参加した。ブリューはフランク・ザッパトーキング・ヘッズにも参加していた経験がある。この4人からなるバンド「ディシプリン」が改名してキング・クリムゾンとなるのだった。このような形での再結成には批判が高まり、「キング・クリムゾンがトーキング・ヘッズ化した」という批判も一部から出た。ジョン・ウェットンも英国人以外が参加しているこのラインナップをクリムゾンとして認めていない旨の発言をしている。当初のバンド名をタイトルとしたアルバム『ディシプリン』リリース後の81年12月、遂に初来日し、渋谷公会堂浅草国際劇場を始めとする全国ツアーで完璧な演奏を聴かせた。その後、『ビート』『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』の2枚のアルバムとライヴ・ビデオ2作品をリリースし、1980年代半ばに解散した。

この頃はシンセサイザーが台頭していたが、この時期のキング・クリムゾンは、2本のギターによる複雑なアルペジオの絡みがバンドの音楽を特徴的なものにしている。これは、ギターサウンドが主流だった1960年代にキーボードを導入したデビュー作とは対照的である。更には、スティックを弾くレヴィンの音が2本のギターに絡み、独特の複雑なアンサンブルを展開していた。

後にフリップは、「(レコード)レーベル会社との契約上、1枚のアルバムを出したいがために、結局3枚のアルバムを出さざるをえなくなってしまった」と、インタビューで述べている。1970年代までの楽曲のうち、このラインナップで演奏されたのは、「太陽と戦慄 パート2」(この頃に「パート3」が作られ、以降、「太陽と戦慄」の続編が作られることとなる)と「レッド」のみであった。

[編集] 再々々結成(1990年代)

1994年の再々々結成においては、前回の1980年代のキング・クリムゾンのメンバーにさらにメンバーを追加し、6人編成となり、「2つのトリオ編成」(通称ダブルトリオ)となった。このラインナップでも「ヴルーム」「スラック」の2作を発表し、ライヴ・ツアーを行った。このメンバーによるライヴで演奏された1970年代以前の曲目は、前段落で演奏された2曲と「トーキング・ドラム(70年代当時と同じく「パート2」とメドレー形式で演奏)」、「21世紀のスキッツォイド・マン」であった。スラック・ツアーを終え休息後に集合したバンドはリハ段階で内紛になり、6人編成を棚上げにしてプロジェクト単位の活動に一時シフトした。

この頃、グレッグら4人が打ち合わせたオリジナルクリムゾンでの再結成と、もう一つのマクドナルド、ウェットン、ジャイルズにフリップの4人での活動は、共に計画段階で頓挫している。

[編集] キング・クリムゾン事件

1995年にTOKYO FM出版は書籍『キング・クリムゾン』〈地球音楽ライブラリー〉を発行したが[2]、キング・クリムゾンのメンバーに無断で発行したため、ロバート・フリップパブリシティ権を侵害されたとして出版元のTOKYO FM出版を訴えた。これを「キング・クリムゾン事件」という[3]。第1審ではフリップの勝訴となったが[4]、控訴審ではTOKYO FM出版が逆転勝訴し[5]、以後記載内容の多くのミスが修正されないまま2007年にも再版されている[6]

[編集] 2000年以降

2000年以降、ビル・ブラッフォードは自らのバンド、アースワークスの活動に専念、トニー・レヴィンピーター・ガブリエルシールとのセッションがあったため脱退のアナウンスはなかったものの実質的にはクリムゾンのメンバーとしての活動はなかった(待機状態)。フリップはキング・クリムゾンの活動以外にも、断続的にソロ活動や様々なプロジェクト、他のミュージシャンのプロデュースなどを手がけていた。2003年の終わり頃、1990年代の「ダブル・トリオ」編成のメンバーだったトレイ・ガンが正式な脱退を表明。またトニー・レヴィンはスケジュールの都合で2000年以降不参加であったが、約束どおり2004年復帰しトレイ・ガンと入れ替わってリハーサルに参加した。

2008年4月、新ラインナップにて今後の活動計画を話し合う会合とリハーサルが再開。更に新メンバーとしてポーキュパイン・トゥリーのドラマー、ギャヴィン・ハリソンの加入が明らかになった。

同年8月にアメリカ・ツアーが行われ、その後、さらなるツアーが予定されていたが、エイドリアン・ブリューが自身のソロツアーとダブルブッキングしてしまったことでフリップが機嫌を損ね、以降のツアーは白紙になった。今後の活動が期待されているが、現在のところクリムゾン名義での活動は、前述のツアー以降行われていない。

2009年、アルバム「レッド」「クリムゾン・キングの宮殿」「リザード」の40周年記念エディションが発売が発表、これは最新リマスターCDにDVD-Audio音源を付属させたもので、このDVDにはマスターから作成した5.1chリミックスが収録されている。

[編集] 特記

(「キング・クリムゾン」までに発展しなかったもの中心)

  • EGの事務所主体でフリップが知らぬ内にボーカリストのオーディションが企画され、エルトン・ジョンブライアン・フェリーが参加した。エルトンは落選、ブライアンは「キング・クリムゾンのボーカリストとしてはマッチしないが、惜しい人材」とフリップに評価され、当時のレコード関係者に紹介され、後にロキシー・ミュージック結成の大きなきっかけとなる。
  • 1970年に一時的にクリムゾンが活動停止していた時、イエスを脱退したピーター・バンクスの後任としてロバート・フリップはイエスへの参加を要請されたが、事務所の問題で実現しなかった。この時に交流ができた縁で、イエスジョン・アンダーソンがクリムゾンのサード・アルバム『リザード』の「ルーパート王子のめざめ」にボーカルでゲスト参加している。
  • 1976年にクリムゾン再起動に失敗し、リック・ウェイクマンとのトリオ結成を断念したジョン・ウェットンとビル・ブルッフォードは、ギタリストのアラン・ホールズワースやバイオリニスト兼キーボード奏者のエディー・ジョブソンU.K.を結成する。ジョンのインタビューによると、「フリップがバンドを解散したので、残ったリズム隊の2人がキング・クリムゾンのリズムのコンビネーションを維持し展開するために結成した」といった主旨のことを述べていた。
  • 1990年代のキング・クリムゾンの正式結成直前に、ロバート・フリップは元ジャパンデヴィッド・シルヴィアンとプロジェクト「シルヴィアン・アンド・フリップ」を組み、アルバムをリリースし、来日公演も行っている(この際、マイケル・ブルックと共にトレイ・ガンとパット・マステロットが参加している)。インタビューでは否定していたが、当初「デヴィッドが新しいクリムゾンのボーカリストとして参加する」と噂された。シルヴィアンはフリップに勧誘されたが拒否したとインタビューで述べている。
  • これとほぼ前後して、オリジナル・メンバーで再結成されたエマーソン・レイク・アンド・パーマーCDボックスセットに、同メンバーの演奏による「21世紀のスキッツォイド・マン」の独自のバージョンが収録されていた(この曲は、1980年代初頭に、グレッグ・レイクがゲイリー・ムーアと共に行ったライヴ・ツアーでも、「クリムゾン・キングの宮殿」と共に演奏された。この2曲のオリジナルは、キング・クリムゾンのファースト・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』に収録)。
  • 1996年、元ジェネシスのギタリスト、スティーヴ・ハケットが来日した際のメンバーとしてイアン・マクドナルド、ジョン・ウェットンが参加しており、第1期の曲から「クリムゾン・キングの宮殿」と「風に語りて」(共にファーストアルバム収録の曲)を演奏した。この様子は、『Tokyo Tapes』としてCD、ビデオなどで正式発売されており、その後DVD化もされている。
  • 2001年トゥールの前座としてツアーを行う。このツアーの最終日、「レッド」の演奏に、トゥールのドラマーであるダニー・ケアリーがゲスト参加した。
  • 2002年、イアン・マクドナルドとマイケル・ジャイルズピーター・ジャイルズ兄弟が新バンド結成のために再集結、さらにメル・コリンズ、ジャッコ・ジャクスジク(元レベル42ロング・ハロー)を加え、21stセンチュリー・スキッツォイド・バンドが結成された。フリップにも公認され、初期のクリムゾン・ナンバーを演奏してのライヴ・ツアーをこなす。同年及び翌2003年の2回の来日公演も実現した。同バンドはクリムゾンのアルバムの1作目から4作目までの曲をレパートリーの中心としていた。マイケル・ジャイルズは結成後1年足らずで脱退、代わってイアン・ウォーレスが参加し2006年まで活動した。しかし、2007年2月のウォーレス病死で活動再開のめどはたっていない。
  • 2006年9月、スペインの自宅アパートでリハーサル中に心臓発作で急逝したボズ・バレル[7]は、生前クリムゾン時代を語る事を拒否し続けたと言われているがOB達との交友はあり、1980年にはピート・シンフィールドのテレビ出演の際にマイケル・ジャイルズメル・コリンズゲイリー・ブルッカーらと共に演奏している。
  • 2011年、キング・クリムゾン・プロジェクト(King Crimson ProjeKct)としてアルバム「A Scarcity of Miracles」をリリース。フリップ自らが参加しているのが大きな特徴であり、他にメル・コリンズとジャッコ・ジャクスジクが正式メンバーとして、またトニー・レヴィンらがサポートで参加している。

[編集] ディスコグラフィー

[編集] 主要ラインナップ(主な担当パート)

        
        
        
        
  • Lineup #6『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』~『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ』
    • エイドリアン・ブリュー - Vocals & Guitars
    • トレイ・ガン - Warr Guitars(2007年エディー・ジョブソンやその他のミュージシャンとともにUKZを結成)
    • パット・マステロット - Drums & Percussions


[編集] 関連項目

[編集] 脚注

[ヘルプ]
  1. ^ オリジナル日本盤LPライナーノート。ちなみに、"aspic"は、"asp=毒蛇"の詩的表現。
  2. ^ キング・クリムゾン」、『ディジタルアーカイブ 詳細情報』、国立国会図書館、2010年10月13日(水)閲覧。
  3. ^ 「一覧」『肖像の保護に関する過去の判例・事例(参考資料 1)経済産業省。2010年10月14日(木)閲覧。
  4. ^ 東京地方裁判所 平成10年(1998年)1月21日 判決。
  5. ^ 東京高等裁判所 平成11年(1999年)2月24日 判決。
  6. ^ 「登録情報」『地球音楽ライブラリー キングクリムゾンAmazon.co.jp。2010年10月13日(水)閲覧。
  7. ^ Eder, Bruce. “Boz Burrell: Information for Answers.com” (en). Answers.com. 2010年2月5日閲覧。 “...in fact White was present at Burrell's apartment in Spain when, during rehearsals, Boz suddenly died of a heart attack on September 21, 2006.”

[編集] 関連文献

  • 『キング・クリムゾン』 TOKYO FM出版〈地球音楽ライブラリー〉、1995年10月、2007年1月。ISBN 978-4924880535
  • 三浦正広「《判例研究》パブリシティの権利における「顧客吸引力」--キング・クリムゾン事件(東京地裁判決平成10.1.21/判例時報1644号141頁/平成8年(ワ)第11327号/損害賠償等請求事件)」、『岡山商大論叢』35(1)  1999年5月、岡山商科大学学会、 pp. 167-181頁。- 国立国会図書館 蔵。

[編集] 外部リンク



個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語