マイケル・ジャイルズ
| マイケル・ジャイルズ | |
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| 基本情報 | |
| 出生 | 1942年3月1日(70歳) |
| 出身地 | |
| ジャンル | ロック、プログレッシブ・ロック、ジャズ |
| 職業 | ドラマー |
| 担当楽器 | ドラムス |
| 活動期間 | 1968年 - |
| 共同作業者 | キング・クリムゾン マクドナルド&ジャイルズ 他多数 |
マイケル・ジャイルズ(Michael Rex Giles、 1942年3月1日 - )は、イギリス出身のミュージシャン。キング・クリムゾンの創立メンバーの一人であり、初代ドラマーである。
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経歴[編集]
活動開始期の足跡[編集]
10代の頃からドラマーとして活動を始め、1961年11月、ダウランド兄弟をフィーチャーしたダウランド・ブラザーズのバックバンドに、ベーシストである弟のピーター・ジャイルズと共に参加。ここで初のレコーディングを経験すると、1964年にはプロ活動に専念する為、兄弟揃ってトレンドセッターズ・リミテッドに加入し、数枚のシングルを発表。その他にも複数のセッション活動を掛け持ちしていたマイケルは、その早熟なテクニックと斬新な着想によって、多くの場面で音楽面でのリーダーシップを発揮していった。そうした経験に自信を得て、シーンの主流がビートバンドからアートロックに切り替わる1967年春に、ブレイン(トレンドセッターズの改名後の名称)を脱退。同年10月、マイケルはピーターと歌えるオルガン奏者の募集広告を新聞に載せ、応募してきた地元ドーセットのギタリストロバート・フリップが加入し、新バンド・ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ(以下GG&F)を結成する。
GG&Fからキング・クリムゾンへ[編集]
1968年9月、GG&Fのファースト・アルバム『The Cheerful Insanity of Giles, Giles & Fripp』が発売される。このアルバムにおけるマイケルのプレイは、後のキング・クリムゾンでのそれの胚胎を感じさせるものであり、その曲作りにも独自のトラディショナルな志向が反映されている。明らかにこのバンドにおける音楽面のリーダーと言える彼であったが、やがてイアン・マクドナルド、ジュディ・ダイブルら新メンバーの加入、ピーターからグレッグ・レイクへのベーシストの交代などを経てバンドの性質は大きく変貌を遂げ始め、これまでとは全く異なった斬新でダイナミックなサウンドを志向するようになる。音楽面の主導権はロバート・フリップに移行し、やがてマイケルの反対にも関わらず、バンドはキング・クリムゾンと改名。1969年に『クリムゾン・キングの宮殿』(以下『宮殿』)を発表してデビューを飾る。
ここでのマイケルはすでにバンドサウンドのパズルの1ピースとしての役割に徹しているが、単なるリズムキープに止まらないその変幻自在なドラミングは、シンフォニックな音の膨らみを形作るオーケストラの一部であり、真の意味でプログレッシヴと評されるそのサウンドにおいて欠くべからざるものであった。後になってマイケルは、「ジョン・マクラフリンのようなジャズ・ミュージシャンがビートルズと一緒に音楽を作ったらどうなるだろうかと考えた。クラシック音楽の構成法、フリー・ジャズのスポンテイニアスさ。その二つのインスピレーションをロックの語彙の中に当てはめ、どうなるか試してみたいと思っていた。」と述懐している[1]
脱退とその余波[編集]
『宮殿』発表後、クリムゾンは1969年10月からアメリカ・ツアーを開始するが、このツアーの中でマイケルとイアン・マクドナルドはリーダーであるロバートとの溝を深めていく。過酷なツアーの中での心身の疲労に、プライベートな事情も加わり、同年12月には二人はクリムゾンからの脱退を表明。これとは別に、グレッグ・レイクも元ナイスのキース・エマーソンとの新バンド(後のエマーソン・レイク&パーマー)の準備のために脱退し、オリジナルメンバーのクリムゾンはわずかアルバム一枚を残したのみで終焉を迎えることになった。
1970年5月にクリムゾンはセカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』を発表。マイケルはここではゲスト扱いでプレイしている。次いでイアンとのプロジェクトである「マクドナルド&ジャイルズ」を結成。そのデビューアルバムは、プログレッシヴ・ロックの構築美と、クリムゾンとは異なる穏やかで牧歌的なテクスチュアを両立させたサウンドを聞かせ、一部評論家からは高い評価を得た。
セッションドラマーとして[編集]
しかしマクドナルド&ジャイルズは、その音楽面における評価に反し、商業的成功を得ることはできなかった。マイケルはキング・クリムゾン時のアメリカ・ツアーにおいてアメリカ人の音楽に対する柔軟性に触れ、自らの創作活動に迷いを感じるようになっていた。またイアンの方は、レコーディングに多大な時間と費用をかけ過ぎたためラフミックスの状態で出さざるえなかったと後に述べており、作品自体への不満からこのプロジェクトへのモチベーションを失いつつあった。さらに彼は、恋人シャーロット・ベイツ(同作品のジャケットで共に写っている女性)との関係終焉後セラピーのため渡米することになり[2]、結局マクドナルド&ジャイルズもアルバム一枚を残したのみで消滅することとなった。
以後のマイケルはパーマネントなバンド形態での活動を一旦中断し、セッション・ミュージシャンとしての性格を強めていく。ドラマー不在であったジャクソン・ハイツの一連の作品、ケヴィン・エアーズの『コンフェッションズ・オヴ・ドクター・ドリーム』、元ファミリーのロジャー・チャップマンとチャーリー・ホイットニーによる『ストリートウォーカーズ』などの他、ロジャー・グローヴァー、アンソニー・フィリップス、グラハム・ボネット、レオ・セイヤー、ペンギン・カフェ・オーケストラ、ブライアン・フェリー、グレッグ・レイクらの作品に参加している。ジャズや映画音楽の分野でも活動し、1983年にはデヴィッド・カニンガム、ジェイミー・ミューアらとともに、ケン・マクマラン監督の映画のサウンドトラック・『Ghostdance』を制作している(CDとしての発売は1995年)。
旧友との交流とソロ活動[編集]
1999年には旧友イアン・マクドナルドの初ソロ作『ドライヴァーズ・アイズ』にも参加。2002年には、イアン、弟ピーター、メル・コリンズ、ジャッコ・ジャンクスジック(元レベル42、ロング・ハロー。マイケルには女婿)といったメンバーからなる「21stセンチュリー・スキッツォイド・バンド」を結成し、かつてのクリムゾン・サウンドを回顧するかのごとき演奏活動も行っている(その後マイケルは2003年に脱退し、ドラマーはイアン・ウォーレスに交代)。また唯一のソロ作品『プログレス』を2002年にリリースしているが、これは1978年において録音済みであったものが25年ぶりに日の目を見たものである。2008年には新たに「マイケル・ジャイルズ・マッド・バンド」を結成。こちらは過去のクリムゾンサウンドとは一線を画するアヴァンギャルドな作風であり、2011年までにスタジオ作品とライヴ作品の各一枚ずつをリリースしている。
脚注[編集]
- ^ 2002年、『レコード・コレクターズ』誌による電話インタビューより
- ^ 『クリムゾン・キングの宮殿 ~風に語りて~』(ストレンジ・デイズ)より
参考文献[編集]
- 『キング・クリムゾン』北村昌士著 シンコー・ミュージック
- 『レコード・コレクターズ』1989年3月号、ミュージック・マガジン社
- 『レコード・コレクターズ』2000年1月号、ミュージック・マガジン社
- 『レコード・コレクターズ』2002年3月号、ミュージック・マガジン社
- 『クリムゾン・キングの宮殿 ~風に語りて~』シド・スミス著 ストレンジ・デイズ
- en:Michael Giles(UTC: 19:14, 20 February 2012)
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