フランク・ザッパ

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Frank Vincent Zappa
フランク・ヴィンセント・ザッパ
フランク・ザッパ(1977年)}
フランク・ザッパ(1977年)
基本情報
出生名 Frank Vincent Zappa
出生 1940年12月21日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモア
死没 1993年12月4日(満52歳没)
学歴 アンテロープ・ヴァリー短期大学
ジャンル ロック
ポップ
前衛音楽
即興音楽
フリー・ジャズ
現代音楽
ブルース
ジャズ
ハード・ロック
ドゥー・ワップ
ジャズ・ロック
プログレッシブ・ロック
アートロック
サイケデリック・ロック
ディスコ
ニュー・ウェーヴ
レゲエ
ヘヴィ・メタル
ブルース・ロック
エクスペリメンタル・ロック
シリアス・ミュージック(自称)
職業 作曲家
編曲家
作詞家
ミュージシャン
演奏家
指揮者
音楽プロデューサー
担当楽器 ギター
ボーカル
指揮
シンクラヴィア
キーボード
ヴィブラフォーン
ベース
ドラムス
活動期間 1950年代~1993年
レーベル ビザール
ディスクリート
ザッパ
バーキング・パンプキン
ライコディスク
共同作業者 ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション
キャプテン・ビーフハート
その他多数
公式サイト zappa.com
イーゴリ・ストラヴィンスキー
ジョニー"ギター"ワトソン
ハウリン・ウルフ
アントン・ヴェーベルン
エドガー・ヴァレーズ
その他多数

フランク・ヴィンセント・ザッパFrank Vincent Zappa, 1940年12月21日 - 1993年12月4日)は、アメリカ合衆国出身の作曲家、ミュージシャンシンガーソングライターギタリスト)。

フランク・ザッパは生涯を通じて、アメリカ政府・キリスト教右派(キリスト教原理主義者)・検閲・音楽産業・商業主義・拝金主義などの批判をとおして、アメリカという国家の問題点をきびしく指摘し続けたミュージシャンである。52年の人生で非常に旺盛な活動を展開し、多彩なバンド形態でツアーもこなしながら、60枚以上のアルバムを発表した。またその複雑かつポップな音楽性の作曲家としてのみならず、独特なフレージングやスケールを多用するスタイルの”ギタリスト”としても評価を受けている。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第45位、2011年の改訂版では第22位。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第71位。

リトル・フィートローウェル・ジョージジョージ・デュークテリー・ボジオエディ・ジョブソンエイドリアン・ブリューヴィニー・カリウタデュラン・デュランのウォーレン・ククルロ (en:Warren Cuccurullo)、スティーヴ・ヴァイ、マイク・ケネリー (en:Mike Keneally)、チャド・ワッカーマン (en:Chad Wackerman)他を輩出したバンドのリーダー。

妻ゲイルとの間にムーン・ユニット・ザッパ (en:Moon Zappa)、ドゥイージル・ザッパ (en:Dweezil Zappa)、アーメット・エミューカ・ロダン・ザッパ (en:Ahmet Zappa)、ディーヴァ・シン・マフィン・ピジーン・ザッパ (en:Diva Zappa) の二男二女を儲けており、いずれもアーティスト・俳優・ミュージシャン・作家など多彩な活動を行っている。なお、子供たちはザッパ・バンドとの共演経験があり、その中でもドゥイージルは80年代にヴァン・ヘイレンの影響下にあるテクニカルなハード・ロック・ギタリストとしてデビュー、現在は父のレパートリーを再演するプロジェクト「ザッパ・プレイズ・ザッパ」を主宰している。

来歴[編集]

生い立ちと初期の活動[編集]

1940年12月21日、フランク・ヴィンセント・ザッパはメリーランド州ボルチモアで生まれた。彼の祖先はシチリア島イタリアギリシャアラブフランスアイルランド、そしてドイツと様々な土地の混合であった。1951年1月に一家はフランクの喘息療養のためカリフォルニア州サンフランシスコから100マイル南のモンタレーに転居した。一家はその後もポーモーナ、エルカホンと転居を重ね、1950年代初めにサンディエゴに移り住んだ。1955年には再びランカスターに転居した。15歳の時までにフランクは六つの異なる高校に通った。12歳でドラムスを始め、17歳でギターに転向、本人曰くゲイトマウス・ブラウンジョニー"ギター"ワトソンギター・スリムなどに影響を受ける。自らのバンド活動を始めたのもこの頃である。

フランクの父親はシチリア島出身の科学者および数学者で、エドワーズ空軍基地の近くにある連邦政府化学戦研究施設に勤務した。一家はこの空軍基地の近くに暮らしたため、事故に備えて家庭には防毒マスクが常備されていた。

高校を卒業したフランクは、いくつかの会社勤めをしながら地元サン・バナディーノのクラブに出演し、キャリアを積んだ。1959年には、彼の英語教師ドン・セルヴェリスが脚本を書いた西部劇映画「Run Home Slow」の映画音楽を担当し、19歳にして現代音楽作曲家としてのキャリアをスタートさせた。1963年には、ポール・バフが自主設立しながら資金難で手放したパル・レコーディング・スタジオを買い取り、スタジオZと名づけている。なおこの時期に、フランクは地元刑事のおとり捜査にひっかかってポルノ・テープを作成し(実際には女友達と笑いあっているだけの内容だった)、サン・バナディーノ刑務所で10日間の拘留刑に服している。

ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション[編集]

1964年、ザッパはレイ・コリンズがリーダーを務め、既にジミー・カール・ブラックが在籍していたバンド、ザ・ソウル・ジャイアンツに加入する。このバンドが後述するマザーズの前身となった。1965年MGMレコードと契約したバンドはザ・マザーズ・オブ・インヴェンションと名前を変え、翌1966年にデビューアルバム『フリーク・アウト!』をリリースする。当時としては異例の2枚組にして初のコンセプト・アルバムで、現在でもロック史に残る名盤の一枚に数えられている。

マザーズの音楽性はいわゆるルーツ・ミュージック(ブルースやR&B、ジャズドゥー・ワップなど)に現代音楽の要素を加えた今日で言うミクスチャー・ミュージックの先駆的なものといえる。ソウル・ジャイアンツ時代からのトラディショナルな素地を持ったメンバーに、アート・トリップやバンク・ガードナーのようなオーケストラ出身者やドン・プレストンのようなセッションマン、イアン・アンダーウッドのようなジャズやクラシックの素養豊かなインテリと、様々なバックグラウンドのミュージシャンを集めたバンドは、ザッパのワンマンバンドというよりはメンバーそれぞれの特色を生かした音楽性を志向していた。他方『ランピー・グレイヴィ』ではオーケストラと共演し(『フリーク・アウト』でも指揮を行っていた)、『アンクル・ミート』(1969年)では純室内楽的なアプローチを多用、更にはこの時点でスタジオ録音とライヴ録音をテープ編集でミックスする手法を多用するなど、技法の斬新さも特筆すべきものがある。一方では自身のルーツであるドゥー・ワップをベースとしたルーツ・ミュージックの作品を変名で発表しており(ただしコード進行などアレンジにおいて従来のドゥー・ワップとの差別化が図られている)、コンサートのレパートリーに「ルーイ・ルーイ」などのトラディショナルなナンバーを加えていたなど、自身の音楽性の二本槍はきっちりと守られている。同時期のソロ作品においてはバンド形態と別種の方向性を打ち出し、具体音楽とジャズ・ロックにポピュラー音楽的解釈をいち早く導入した。一般に代表作と目される『ホット・ラッツ』はイギリスのヒットチャートで永らく上位を占め、1969年にはメロディ・メイカー誌の「Album Of The Year」においてベスト・アルバム賞に輝いている。

初期マザーズは1969年まで活動を継続し、7枚のアルバムを発表した。さらにザッパはこれと並行して『ランピー・グレイヴィ』(1968年)『ホット・ラッツ』(1969年)の2作のソロを発表するなど、この頃から既にザッパの多作振りは群を抜いていた。

自らの音楽活動に従事するかたわら、ザッパはプロデュース業にも力を注いだ。高校からの友人であるキャプテン・ビーフハート(ドン・ヴァン・ヴリート)のアルバム『トラウト・マスク・レプリカ』(1969年)は、ザッパのプロデュース作の中でも代表作に数えられている。当初ザッパはMGMレーベルに所属していたが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドと同様、充分なプロモーションを受けられず不遇だった。やがて彼は「ストレイト」「ディスクリート」などのインディーズ・レーベルを設立する。これらのレーベルからアルバムを発表したロック・ミュージシャンには、キャプテン・ビーフハート、アリス・クーパーティム・バックリィ、ザ・GTOズ、テッド・ニュージェント&アンボイ・デュークス(彼等のみディスクリート)などがいた。ザッパは後年にも、バーキング・パンプキンやビザールなどのインディーズ・レーベルを立ち上げている。

1970年代[編集]

オリジナルのマザーズ・オブ・インヴェンションは『ホット・ラッツ』後に解散したが(『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』『いたち野郎』は解散後にコンパイルされたもの)、1970年代のザッパはますますジャンルの多様化を加速させ、強烈な独創性に裏打ちされた質の高いアルバムを次々に発表する。

ヴォーカル・オリエンテッドなロック、ジャズ・ロック、ブラック・ミュージック、ジャズ・フュージョン、パンク/ニュー・ウェイヴ、ファンク、レゲエと、70年代の音楽性は幾度も変遷を繰り返した。まず70年代のザッパは『チャンガの復讐』で幕を開ける。オリジナル・マザーズが解散した後、元タートルズ(THE TURTLES)のフロー&エディを加えた新・マザーズは後述の事件まで存続し、60年代よりはややポップな歌ものに傾斜したアプローチを見せている。20分を超える大曲「ビリー・ザ・マウンテン」を収録した『ジャスト・アナザー・バンド・フロム L.A.』(1972年)は、ミュージカル的な掛け合いをサウンドの一部として聴かせており、当時の布陣による一つの音楽的成果と言える。同時期には並行して(実際の)映画音楽に着手、リンゴ・スターがザッパ役をこなした映画のサウンドトラック『200 Motels』(1971年)を発表している。

1971年12月モントルーカジノでライブを行っていた際、観客の一人が会場の天井に向けてフレア・ガンを発射して火災事故が起こり、ザッパとマザーズはその機材すべてを失った。レマン湖の対岸でそれを目撃していたディープ・パープルの、代表曲「スモーク・オン・ザ・ウォーター」にこのエピソードが引用されている。

ショーが始まって1時間過ぎた頃に「フレア・ガンを持ったいかれた野郎」(原詩"Some stupid with a flare gun")が天井に向かって銃を発射。天井は竹で出来ていたので火はあっという間に広がり、十数時間以上燃え続けたが、クロード・ノブスClaude Nobs[1]の必死の尽力で負傷者は出なかった。

1971年、モントルーでのライブ時の火災の直後、マザーズのロンドンでの公演中に聴衆の一人がザッパをステージから突き落とすという事件が起こった。全身に複雑骨折を負い、生命すら危ぶまれたザッパだったが、ツアーに出ることもままならないその静養期間中に、ザッパはビッグ・バンドスタイルによるジャズ・ロックのスタジオ録音に没頭する。その成果は、翌年立て続けに発表されたビッグバンド形式のアルバム、『ワカ/ジャワカ』『グランド・ワズー』(ともに1972年)として結実した。ただし、この静養期間中にザッパは当然バンドを維持することが出来ず、マザーズは再び解散の憂き目に会う。これ以降ザッパは自らのソロ名義でアルバムを発表すると共に、ザッパ本人も「(引用者註・自分のヴォーカリスト・演奏者としての力量をさして)この程度のスペックでは自分のオーディションにさえ合格できない」(自伝参照)と述べた程の厳格なオーディションにより、非常に高い演奏技術を持ったミュージシャンを集めるようになり、期せずして「ザッパ・スクール」が形成されることとなった。またこのときの骨折の具合によって自身の声質が変化した(高音域の発声が圧迫され、特徴的なロートーンヴォイスになってしまった)ことも自伝で付記しており、これも含めて、このアクシデントは「怪我の功名」とも言うべき結果を導いている。

その後もアルバムリリースの勢いは衰えを見せず、ジャズロック路線とブラックミュージックへの傾倒をミックスした『オーヴァーナイト・センセーション』(1973年)、『アポストロフィ (')』(1974年。このアルバムは全米ヒットチャートの10位にまで駆けのぼり、シングル曲もヒット、ジャズ・ロック期の代表作として記憶する人も多い)、高度な演奏テクニックに裏打ちされた「インカ・ローズ」などを収録した『ワン・サイズ・フィッツ・オール』(1975年)などのアルバムが続々とリリースされた。

この時期のザッパはジャン=リュック・ポンティ(ヴァイオリン・『オーヴァーナイト・センセイション』『アポストロフィ』二作に参加)、ジョージ・デュークキーボード・『200モーテルズ』、『ワカ/ジャワカ』から『ボンゴ・フューリー』まで在籍)、ラルフ・ハンフリー(en:Ralph Humphrey)(ドラムス・『オーヴァーナイト・センセイション』と『ロキシー&エルスウェア』に参加)、エインズレー・ダンバードラムス・『チャンガの復讐』を最初に『アポストロフィ』まで断続的に参加)、チェスター・トンプソン(en:Chester Thompson)(ドラムス・『ロキシー&エルスウェア』から『ボンゴ・フューリー』まで)、ブルース・ファウラー(en:Bruce Fowler)(トロンボーン)、トム・ファウラー(en:Tom Fowler)(ベース)、ナポレオン・マーフィ・ブロック(en:Napoleon Murphy Brock)(ヴォーカル、テナーサックス、フルート)、ルース・アンダーウッド(en:Ruth Underwood)(パーカッション)などの錚々たる実力派ミュージシャンに支えられた。

上記のメンツは1975〜6年まで続き、盟友キャプテン・ビーフハートとの連名作品『ボンゴ・フューリー』からは、チェスターに変わりテリー・ボジオが参加。この辺りはメンバーの流動が激しく、トム、ブルース、ジョージがザッパのもとを去り、ザッパはボジオとの共同作業にナポレオン、ロイ・エストラーダを含む多数のメンバーを断片的に関与させ『ズート・アリュアーズ』を仕上げる。この頃にトムに変わりパトリック・オハーン(en:Patrick O'Hearn)、キーボーディスト兼ヴァイオリニストのエディ・ジョブソンが参加する。また同年12月には後のメインメンバーの一人レイ・ホワイト(en:Ray White)(ヴォーカル、リズム・ギター)、ブレッカー・ブラザーズをはじめ多勢のホーン隊が参加した『ザッパ・イン・ニューヨーク』のソースとなるニューヨーク・パラディアム・シアターでのコンサートを行っている。

また、多作なザッパに珍しく『ズート~』から『イン・ニューヨーク』まで二年のブランクがあったのは、後述の通り『レザー』(更には『イン・ニューヨーク』一部収録曲)をめぐる紛糾が起こったためである。この騒動の間にエディ、ルース、レイらがバンドを離れ、ザッパはワーナーとの契約消化のために『スタジオ・タン』『スリープ・ダート』『オーケストラル・フェイヴァリッツ』を(ザッパ本人としては不本意な形ながら)発売し、ワーナーと契約を終える。

同時期、ザッパは自身のレーベルを設立し『シーク・ヤブーティ』『ジョーのガレージ』を発表。エイドリアン・ブリュー、ピーター・ウルフ(en:Peter Wolf)、アイク・ウィリス(en:Ike Willis)をはじめ、ヴィニー・カリウタ、ウォーレン・ククルロ、アーサー・バロウ(en:Arthur Barrow)がこの時期続々と参加している。

リリース当時勃興していたパンクニュー・ウェイヴに近い音楽性を示した『シーク・ヤブーティ』、「バイオニック・ファンク」と本人が述べたファンキーな側面を打ち出しつつレゲエ的短調や変拍子・ポリリズムをふんだんに多用した近未来的ロック・オペラ『ジョーのガレージ』は、ザッパの80年代以降の音楽性を予期させるものであり、今日ではザッパの代表作(の一つ)の感もある。
だがバンドを巡るいざこざは再び起こり、ザッパの新作は再び二年空いた'81年の『ティンゼル・タウン・リベリオン』まで待たねばならない。

1980年代[編集]

1981年にリリースされた『ティンゼル・タウン・リベリオン』は、ザッパが同年設立したレーベル「Barking Pumpkin Records」からの最初のリリースとなった。それまでは採譜係だったスティーヴ・ヴァイが成人となったのを機に、実質的なライヴ・デビューを果たした作としても知られる。これ以降、ザッパは毎年のツアー録音を中心とした膨大な量の音源を再編集して作品化する手法にさらに磨きをかけ、年平均2〜3作という旺盛なアルバムリリースを継続していった。

同年、ライヴ演奏からギターソロのみ(ほぼ全編インプロヴィゼーションである)を集めたShut Up 'N Play Yer Guitarが生み出された。本作は多彩な時代の音源をソースとするギターソロ・アルバムであるが、実質的にはヴィニーとザッパの二人が生み出す超絶的なポリリズムを鑑賞するための作品と言ってよいだろう。ちなみにスティーヴ・ヴァイは、本作で聴かれるギターソロを正確に採譜するという拷問に近い仕事を任されたのち(エフェクターやノイズまでを採譜しきったこの難業は、最終的にThe Frank Zappa Guitar Book として出版された)、正式にザッパ・バンドのギタリストとして迎えられる。

82年リリースの『たどり着くのが遅すぎて溺れる魔女を救えなかった船』から正式にチャド・ワッカーマン(en:Chad Wackerman)が加入、同時にスコット・チュニス(en:Scott Thunes)が参加する(正式加入は翌年の『ザ・マン・フロム・ユートピア』より)。この二人はザッパのキャリアの終点近くまで、彼のバンドのボトムを支えることとなった。

83年〜84年にはザッパのキャリア上重要な転換点となる2つの作品がリリースされる。「London Symphony Orchestra Vol. I」(1983)および「The Perfect Stranger」(1984)である。前者はザッパにとって初のフル・オーケストラによる自作録音であり、かつ本格的なデジタル・レコーディングを駆使した作品であった(これについては録音後の常であるザッパによる編集作業の利便性も関係している)。指揮者としてケント・ナガノを迎えていることも興味深い。後者に至ってはピエール・ブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポラン演奏と言う組合せで、ザッパと現代音楽の接点の中でも最大のものと言える。ただし、本作においてはむしろ「初めてシンクラヴィアによる演奏が収録されたアルバム」であるという意義が大きく(アルバム中では、Barking Pumpkin Digital Gratification Consortによる演奏と表記されている)、収録曲の半数以上がシンクラヴィアによるものである。

ザッパのアルバムは、これ以降ツアーの録音編集(オーバーダブなし)とシンクラヴィア演奏のハイブリッドと言う形態をとることが多くなる。そのハイライトが、ギターソロ曲「St.Ethienne」を除く全曲がシンクラヴィアによるアルバム『ジャズ・フロム・ヘル』(1986)である。その革新性から、本作はグラミー賞のベスト・インストゥルメンタル・パフォーマンス部門を受賞した(ザッパ自身は「笑っちまったよ、グラミー賞なんてインチキだと思ってるから」「ま、功労賞みたいなもんだな」と、いかにも彼らしいコメントを残している)。

公聴会で証言するザッパ

1985年8月、アメリカ上院議会に於いて開かれたPMRC(en:Parents Music Resource Center)は、後にアメリカ合衆国副大統領になるアル・ゴア夫人のティッパー・ゴアが、プリンスの「ダーリン・ニッキ」(マスタベーションをすすめる曲)を自身の子どもが聴いているのを目撃して、ショックを受けたのをきっかけにつくられた検閲委員会である。この委員会は、「性表現や暴力・ドラッグを美化したような描写の強い」と思い込まれたレコード・CDに"Parental Advisory: Explicit Lyrics"と表示するよう、アメリカ国内のレコード会社に要請したことで知られる)の意見公聴会にザッパが反対側の参考人として招かれ、委員の前で導入前の制度を批判した(なお、同公聴会には、カントリー・ミュージシャンのジョン・デンバーと、ヘヴィメタルバンドトゥイステッド・シスターヴォーカリストであるディー・スナイダーも招かれ、意見を述べた)。このときザッパはティッパー・ゴア(グレイトフル・デッドのファン)を、「文化テロリスト」と非難している。のちにザッパは、この公聴会のやり取りの音声記録をサンプリングした"Porn Wars (ポルノの戦争)" を作曲し、これを収録したアルバム『Meets The Mothers Of Prevention』を緊急発表することで、この問題をより幅広く世間に問うた。このアルバムのジャケットは、"Parental Advisory: Explicit Lyrics"ステッカーのパロディーになっている。

全米を中心としたツアーは毎年行われていたが、1984年ザッパは「ライブでやれることはすべてやりつくした」ことを理由にツアーからの引退を表明し、1986年からは旧作のデジタル・リマスタリングに着手した。そのほかに、Old Masters BoxやYou Can't Do That On Stage Anymoreシリーズなどの旧作発掘・編集音源リリースもスタートされている。 この時期にはThing FishやFrancesco Zappaなど、物議を醸すような実験作がリリースされている。前者は三枚組ロック・オペラだが既発曲をも強引にアレンジして収録され、『ジョーのガレージ』以上にしゃべりに力点が置かれたものであり(少なくともマルチリンガルでない非英語圏の人間にはより難解であろう)、後者は18世紀の作曲家フランチェスコ・ザッパ(en:Francesco Zappa)の作品をシンクラヴィア演奏したものである(一部ではシンクラヴィアのための習作をユーモアに包む形で発表したものという憶測がなされた)。

1988年、民主党支持者であったザッパは大統領選立候補を検討するがこれは最終的に叶わず、選挙活動の代替案として大規模なワールド・ツアーを企画する。このツアーでは総勢13名のミュージシャンが動員された。84年時点のメンバーを中心に、ブルース・ファウラーなどのかつてのメンツの再加入も果たされた。全くの無名だったマイク・ケネリーはこのバンド結成時のオーディションで見いだされ(「あなたの曲はすべてギターとキーボードで弾ける」とザッパにアピールしたとの逸話がある)、スティーヴ・ヴァイの後継となるStunt Guitaristとしてツアー全日程に同行した。

このツアーは6ヶ月間で企画され、全米ののちヨーロッパから日本にまで来ることが決定されていたが、ツアー中にメンバー間の確執が表面化し、途中で打ち切られた。なお、このツアーでザッパが大々的に行った選挙登録キャンペーンは、のちに多くのアーティストが模倣・導入することとなった。

このころに、ザッパの死因となった前立腺癌の存在が知られ始めるようになった。ザッパの癌は10年ほど前から進行しており、発見された時点ではほぼ手遅れの状態であった。

1990年代以降[編集]

1991年、ザッパは88年ツアーを収録したアルバム群の最後を飾る『Make A Jazz Noise Here』を発表。翌年には「You Can't Do That On Stage Anymore」シリーズ最終作であるVol.6と、さらにはマザーズ期のライヴ・ドキュメンタリーアルバムである「Playground Phychotics」「Ahead Of Their Time」二作をリリースした。

フランク・ザッパ最晩年の活動である、アンサンブル・モデルンとの共演はことに重要である。LSOやブーレーズとの共演でも決して満足しなかったザッパは、自分の音楽に情熱的に取り組むアンサンブル・モデルンの姿勢にいたく感銘を受け、自らに残された寿命を十分に認識しつつ、全精力をこのプロジェクトに傾けた。

1992年9月のライブ録音は「The Yellow Shark」として結実する。本作はまぎれもなく最晩年の最高傑作であり、同時にザッパの遺作となった。なお、主にリハーサル・テイクを収録した「Everything Is Healing Nicely」がのちの1999年リリースされた。

1993年12月4日、フランク・ザッパ、前立腺癌のため52歳で死去。

没後[編集]

フランク・ザッパの没後、未亡人のゲイル・ザッパは夫が生前に手がけた作品を世に公式に送り出し始め、まず死の翌年末に生前最後に手がけたとされるオリジナルアルバム「Civilization Phaze III」を発表する。95年に、フランクはロックの殿堂入りを果たし、式には愛娘ムーン・ユニット・ザッパ(en:Moon Unit Zappa)、ルー・リードが出席。プレゼンターを務めたリードはヴェルヴェット・アンダーグラウンドとザッパの音楽を対比させて、ザッパを音楽的に高く評価し、その功績を讃えるスピーチをした。96年にはザッパが十代のころからマザーズのレコードデビュー前後までのテイクをメインに精選した「The Lost Episodes」、そして生前ついに未発表のまま終わった『レザー』が、CD3枚組の完全版、かつラジオでの全曲発信の時のザッパの声明までも収めた体裁で発表され、幻の超大作の全容がほぼ20年にわたる時を超えて遂にファンの前に明らかになった。

以降もザッパ一家の全面監修で未発表音源がリリースされ続けており、(公式ホームページのOFFICIAL DISCOGRAPHYに記載されていない作品も含めると)現在ではその作品数は百枚を超えている。

音楽性[編集]

ロック・ミュージック、ポピュラー音楽の表現しうる領域の拡大に関して功績があり、現代音楽ミュジック・コンクレート(電子音楽の一種)、ジャズ・ロッククロスオーバー、(「テクノ・ポップ」ではない)構築的な電子音楽、などのジャンルのポピュラー音楽的翻案に先鞭をつけ、グラミー賞受賞という評価も受けた。なおかつR&Bドゥーワップブルースサイケデリック・ロック(本人は生涯を通してアンチ・ドラッグの姿勢を貫いたが)、ハード・ロックプログレッシヴ・ロックブルース・ロックフリー・ジャズパンクニュー・ウェイヴレゲエオペラディスコなどの多彩な音楽の意匠を取り入れた「ミクスチャー」な作風を示しており、自作曲の再演やリアレンジ・Xenochronieと自称するところの編集作業・フレーズやオスティナートの再登場や自己引用などによる重複も多いものの、生涯にわたって非常に旺盛な創作を続けた(その一方で同一曲にも時期ごとに多彩なヴァリアントが存在し、そのほとんどはブートレッグでしか聴くことは出来ない)。その活動の活発さゆえ未発表テイクやライヴ音源も膨大に残されており、現在もザッパの遺族によって年に数作ほど「新作」が発表されるほどである。

その音楽性のルーツは、現代音楽ブラック・ミュージックの二本柱であると言ってよい。彼がエドガー・ヴァレーズの作品集を初めて購入し舐めるように聴いていたのは14歳のころであり、同時期にイゴール・ストラヴィンスキーアントン・ウェーベルンのレコードもよく聴いていた。それらと並行して、膨大な量のR&Bのレコードを聴き漁っていたことを自伝で記している。そのためキャリアの初めはヴァレーズのパーカッシヴな楽曲を受けてかドラムスであり、マザーズの前身はソウルバンドであった。しかし活動を続けていくうちにそうしたジャンルを越え、多彩な要素を盛り込んだ音楽を創造していくことになる。

楽曲面においては変拍子・連符・ポリリズムなどを駆使し執拗に変化する複雑なリズム、転調・移調の多用と独特のハーモニー、多彩なヴォーカルと分厚いコーラス、長尺のギター・ソロに代表される豊かな即興、大胆な他作品の引用などが特徴であるが、それらをあくまでポピュラー・ミュージックの埒内で構成する姿勢がザッパの持ち味である。初期のR&Bに立脚した音楽性をオリジナル・マザーズ解散期に清算してからは、フロー&エディに始まる複数のヴォーカリストの起用もメインとなり、ジャズ・ロック期以降には二、三人はざらなリズム・ギターやキーボード、時にブラスセクションを加えた大所帯のアンサンブルが目立つようになる。なお、時代によって音楽性が異なるザッパであるが、過去のレパートリーを埋もれさせることもなく、88年のラスト・ツアーにおいてもオリジナル・マザーズのレパートリーを演奏したりもしていた。その際には事前の綿密なリハーサルによって複数パターンのアレンジを練り直し、ザッパの出す指示によってどのパターンも瞬時に演奏できるようメンバーにその要諦を徹底的に叩き込んだといわれる。

歌詞においては、非常に辛辣かつユニークなユーモアによって、政治批判(PMRCなどの検閲政策や、共和党らアメリカ右派、さらにそれらの勢力の精神的支柱であるキリスト教原理主義に強く反対し、自身の作品やコンサートで投票者登録を強く訴えていた)、社会風刺(時代時代のロックシーンにおけるファナティックな流行や、若年層の性的紊乱やドラッグ問題、市井の人間の攻撃的な行状などを揶揄した)、現代風俗(実在の地名や人名、国名や人種名、商標名などの固有名詞が頻出する)、性風俗(ゲイやSMといった過激な題材を―しばしば批判的に―取り上げることもあった)などが主な題材として扱われる。また、言葉遊びによる造語や異国語の混入、スラングやメタファーの多用された独特の言い回しも多い。実在のバンド・ミュージシャンに茶化しのために言及したり、ツアーによっては時事的な話題を盛り込んで歌詞を改作することもままあった(政治家ではリチャード・ニクソン/スピロ・アグニューやPMRC絡みのアル・ゴア/ティッパー・ゴア夫婦、TV宣教師では当時少女買春のスキャンダルが明るみに出たジミー・スワッガート(en:Jimmy Swaggart)などが明確にこきおろされている)。

ザッパは正規の音楽教育を受けたことはない(音大に潜り込んでいたことはある)が、独学でかなりの研鑽を積んだとみられる。ブーレーズの「ル・マルトー・サン・メートル」の本人指揮によるレコードをスコアを見ながら聴いて、演奏の不正確さに気付き、後にそれを本人に指摘した(自伝参照)というエピソードから、相当な読譜力を持っていたことが分かる。ただし、セリー(十二音音楽)やトーン・クラスターと言った、現代音楽の代表的な手法をザッパが使うことは多くはなく、自らの作曲に関してことさらに理論的な裏付けを示すようなことも行わなかった。現代音楽でもミニマル・ミュージックに対しては明確な嫌悪感を示している。こうした事実も含めてザッパの作曲法は多分に手癖なども含めた経験主義的なものであると見られ、そのためか「現代音楽界」においてザッパの名前が取りざたされることはほとんどない。

エピソード[編集]

  • 『フランク・ザッパ自伝 (The Real Frank Zappa Book) 』によると、彼は長らく自分の名前は「フランシス」だと思い込んでおり、どうしても好きになれない名前なので愛称の「フランク」を名乗っていたという。海外ツアーに向けてパスポートを取得するために出生証明書を取り寄せてみたところ、そこに記されていた名前は実際に「フランク」であったので、そのことを知る前にリリースした『ランピー・グレイヴィ』ら初期のアルバムに「フランシス・ヴィンセント・ザッパ」の名を使ってしまったことをかなり後年まで悔やんでいた[2](後の再発版では修正されている)。現在でも、「アルバムジャケットにそう書かれているから」という理由で彼の名を「フランシス」であると誤って主張する者は多い。
  • ザッパは、政治宗教・社会構成などに対してユニークな思想と主義を持っており、それらの事柄に関して独自の意見を述べることでも有名であった。彼は、自由な商取引や軽い税金という右派的な信条の支持者であった一方で、現存の教育制度と組織化された宗教または宗教団体を痛烈に批判した。一方で、共和党のニクソンやレーガンに激しい嫌悪感を示すなど、とことん反権力の人物でもあった。ザッパの政治的な活動で最も知られるのは、言論の自由を守ることの重要さを大々的に訴え、検閲に反対する姿勢を貫いたことであろう。
  • 生前、「宇宙には普遍的なものが2つある。水素と愚かさである」という言葉を残していた(出典:マーフィーの法則)。
  • エキセントリックな側面が誇張して語られがちであるが、音楽への取り組みはきわめて真摯であり、古い作品をCD化する際にアナログマスターをそのままデジタル・マスタリングするミュージシャンが大半であった中、彼は過去の作品全てを自らリミックスリマスタリング、時にはオーヴァーダブや編集も施している。さらには亡くなる直前の1993年に一部のアルバムのリマスタリングを行い、暫定的な決定版とした。この1993年盤は本人が数あるマスターから最終的なOKを選んだ「承認マスター」と呼ばれ、1995年以降の再発CDではこのマスターが使用されている(1998年に一部オリジナルLPマスターに再度差し替えられたものがある)。つまり同一タイトルにおいて「オリジナル・ミックスのアナログ盤」、「80年代のオリジナルCD」、「1990年UMRKリミックスCD」、「1993年マスターCD」、「1998年マスターCD」の他、LPボックス「THE OLD MASTERS BOX」等、複数のミックス・ヴァージョンが存在する勘定になる。コアなザッパ・フリークの間では複数所有する者も少なからずおり、そのミックスの差異について評価が分かれるほど手直されている。そうした真面目が故に海賊盤に対して非常に批判的だった。1991年にはマニアの間で評判の高い海賊盤を8作品選び、同じタイトル、ジャケットデザイン、更にリマスターを施してライノ・エンタテインメントより"Beat the Boots"シリーズとして発売した。翌年にはさらに別種の7作品を選別、"Beat the Boots II"として発売した。現在iTune Storeにおいて"Beat the Boots III"が発売されている。
  • 手元に何の楽器も持たず、空港でも五線紙を持って作曲を続けた(チャド・ワッカーマン談)ほどの作曲の鬼であった。
  • 生前の多作もさることながら、逝去後も毎年コンスタントに新譜がリリースされているミュージシャンでもある。彼の家の地下室には、未発表曲が収められた膨大な量のマスターテープがあると言われ、未亡人のゲイル・ザッパを中心とした遺族によって管理されている他、未だに根強いファンは勿論研究者が存在する(日本国内では八木康夫、茂木健、大山甲日などが著名)。
  • CD化以降はMSI, ビデオアーツにより国内盤が発売されたが、アナログ時代は日本での認知度が低かった事もあり、国内販売されなかった作品も多い。名作の誉れ高い「ホット・ラッツ」もアナログ国内盤が発売されなかった作品の一つだった。それが「来日公演以来ファン同士のネットワークが形成され」、「それまでの奇人変人といった評価から、正統的な音楽性が評価されはじめ」[3]たことで、国内盤の発売が増えたという。アナログ時代の国内レーベル日本グラモフォンビクターワーナーパイオニアCBSソニー東芝EMI各社である。
  • 現在はほとんどが修正されているが、かつてはアルバムタイトルや楽曲の大半にきわどい邦題が付けられていた。(基の歌詞が既に辛辣なものなので)直訳もそれなりに多いのだが、以前から日本のレコード会社がイメージ戦略的に用いていたような飛躍した超訳も多い。ひと口に邦題といえどことの仔細は多種多様であり、中には秀逸なものもあるが、ザッパ=俗悪・キワモノというやや誤った(というと語弊があるが一人歩きしたには違いない)イメージを助長した側面は否定できない。
  • アルバム「レザー」は、レコーディング自体は1970年代に済ませており、あとはリリースするだけという段階にあったのだが、レコード会社側の一方的なクレーム・要求に憤りを感じたザッパが、リリース寸前にこのアルバムに収録した曲を全曲ラジオで放送するという強硬策に打って出た。「レザー」収録予定曲を契約上の都合でバラバラのアルバムとして発表した「スタジオ・タン」「スリープ・ダート」「オーケストラル・フェイヴァリッツ」の三作や、「ザッパ・イン・ニューヨーク」「シーク・ヤブーティ」「ジョーのガレージ」など、収録予定曲の含まれたアルバムは発売されたものの、1996年にCD化されるまでは長らくお蔵入りとなっていた。90年代のCD化にあたって当該三作の大胆なアレンジが行われた(インストゥルメンタルにヴォーカルがオーヴァーダブされるなど)のは、「レザー」発売のための布石であったと思われる。なお、「レザー」収録曲の中で既発の曲はすべてヴァージョン違いである。
  • 最後のワールドツアーは1988年に行われたが、その際のレパートリーは数百曲、しかも演奏中にザッパの指示で変奏できるよう一曲につき複数種のアレンジを用意していたという。同一ツアー中はほとんど同じ曲を演奏するミュージシャンが一般的だが、ザッパのツアーでは毎日演奏される曲が異なり、新たに書き下ろされた楽曲や未発表曲も多かった。バンドメンバーはリハーサルに半年をかけ、その間のギャラも支払ったため、このツアーの収支は大赤字だったらしい。なお、このツアーはベースのスコット・チュニスと他のメンバーとの間の確執により、途中でキャンセルとなってしまった。このツアーの模様は『ブロードウェイ・ザ・ハードウェイ』『ザ・ベスト・バンド』『メイク・ア・ジャズ・ノイズ』など同ツアーをソースとする五枚のライヴ・アルバムで聞くことができる。
  • ジミ・ヘンドリックスがマイアミ・ポップ・フェスティバルで燃やしたフェンダー・ストラトキャスターを所有している。輸送の途中で破損した部位(殊に折られていたネック)を含めたパーツを交換してはいるが、逸話の通りの焼け焦げた跡は生々しく残っている。生前エイドリアン・ブリューがレコーディングで借りた他、子息のドゥイージル・ザッパが使用していた。
  • テレビ番組で特別番組を制作し、ウォーレン・ククルロの家に突然押しかけてホームパーティーを中継するという企画をやってのけた事がある。
  • 親日家でもあった。生前には1976年に来日ツアーで4公演を行っただけであった。京都大学西部講堂での公演時に「雑葉」という印章を贈られており、その後アルバムジャケットにもこの印章が使われた事がある。東京タワービル2階にある観光名所の蝋人形館には、等身大のフランク・ザッパの蝋人形が展示されている。特設の売店には、CDから書籍まで揃っているという充実ぶりである。『シーク・ヤブーティ』収録のDancing Foolのアウトロには日本語で「キニシナーイ」というコーラスが入っているほか、『ジョーのガレージ』収録のLittle Green Rosettaには日本人のコーラス(ザッパが発音をからかうやりとりと共に)が収められている。
  • 『ライブ中、ステージに客が上がり込み「フランクザッパなんかより俺の方がよっぽど下品だ!」と叫びステージ上で大便をしたが、ザッパはその大便を食べた』というエピソードが有名であるが、まったくのデマである。しかし、ザッパ自身がこのエピソードを「よくできてる」と放任したため、瞬く間に事実のように広まった。

ディスコグラフィ[編集]

Beat the Bootsシリーズ (Official Bootleg)[編集]

Beat the Boots[編集]

  • As an Am (雑派大魔神ボストンで立腹)  (1991年)
  • The Ark  (雑派大魔神ニューヨークで憤激)  (1991年)
  • Freaks & Mother*#@%! (雑派大魔神フィルモアで逆襲)  (1991年)
  • Unmitigated Audacity (雑派大魔神ノートルダムで激怒)  (1991年)
  • Any Way the Wind Blows (雑派大魔神パリで逆鱗)  (1991年)
  • 'Tis the Season to Be Jelly (雑派大魔神スウェーデンで逆上)  (1991年)
  • Saarbrücken 1978 (雑派大魔神ザールブルュッケンで激昂)  (1991年)
  • Piquantique (雑派大魔神ストックホルムで激憤+シドニーで憤慨)  (1991年)

Beat the Boots II[編集]

Beat the Boots III[編集]

7枚組・Amazon、iTune Store、Napstarのダウンロード販売のみ

日本公演[編集]

 2月1日 東京 浅草国際劇場   2月3日 大阪 厚生年金会館  2月4日 京都 京大西部講堂  2月5日 東京 日本青年館

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ モントルー・ジャズ・フェスティバルの創始者。ワーナー・ブラザーズの連絡係も務めていた。
  2. ^ ザッパ, フランク; オチオグロッソ, ピーター (2004). 『フランク・ザッパ自伝』. 河出書房新社. pp. p. 320. ISBN 4-309-26719-X. 
  3. ^ 『シーク・ヤブーティ』95年版ライナーノーツ(岸野雄一述)より

外部リンク[編集]