矢山有作
表示
矢山 有作 ややま ゆうさく | |
---|---|
生年月日 | 1924年1月1日 |
出生地 | 岡山県津山市 |
没年月日 | 2017年3月27日(93歳没) |
出身校 | 中央大学法学部 |
前職 | 国家公務員 (会計検査院) |
所属政党 | 日本社会党 |
選挙区 | 旧岡山1区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1976年12月5日 - 1986年6月2日 |
選挙区 | 岡山県選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1962年7月8日 - 1974年7月7日 |
矢山 有作(ややま ゆうさく、1924年1月1日 -2017年3月27日[1])は、日本の政治家。元衆議院議員・参議院議員。日本社会党中央執行委員教宣局長、衆議院石炭政策特別委員長、参議院社会労働委員長を務めた。
来歴
[編集]岡山県津山市小桁に生まれる。津山商業学校(現岡山県立津山商業高等学校)を経て、1949年中央大学法学部卒業。会計検査院事務官となる。1951年に退職後、津山市議1期、岡山県議を2期経て[2]、1962年の第6回参議院議員通常選挙で岡山県選挙区に出馬し、トップ当選。参議院社会労働委員長などを歴任し、2期務めた[3]。その後1976年の第34回衆議院議員総選挙に黒田寿男の後継として出馬し、当選した。3年後の第35回選挙では次点で落選したが、翌年のハプニング解散による第36回選挙で復帰、3期務めた。その後1986年の第38回選挙に落選し、1988年春政界を引退。日本社会党中央執行委員・教宣局長、衆議院石炭対策特別委員長、なども歴任。社会党広報委員長在任中では、党の親しみやすいイメージづくりの一環として薔薇🌹のマークを発表。
その後は市民運動家としてライフワークでもある日本原駐屯地問題をはじめ、国鉄労働問題や苫田ダム反対運動、平和問題、などに取り組み、9条を守る活動など護憲派として活躍。過去には平和・民主・革新の日本をめざす全国の会(全国革新懇)代表世話人等も務めていた。
人物
[編集]津山市議会議員の金田稔久は双従兄にあたり、親族会代表も務めていた。
新東京国際空港(現・成田国際空港)の一坪共有地の名義人の1人であった[4]。
脚注
[編集]- ^ “元社会党衆院議員の矢山有作さん死去”. 朝日新聞. (2017年4月25日) 2017年4月25日閲覧。
- ^ ここまでの経歴は、『昭和37年版 参議院要覧(丙)』(参議院事務局)P227の記載内容に基づく。
- ^ a b 日本経済新聞朝刊 2017年4月26日
- ^ “第065回国会 予算委員会 第7号”. 国会会議録検索システム. 国立国会図書館. 2019年2月4日閲覧。
議会 | ||
---|---|---|
先代 中村英男 |
参議院社会労働委員長 1972年 - 1973年 |
次代 大橋和孝 |
先代 小川省吾 |
衆議院石炭対策特別委員長 1985年- 1986年 |
次代 竹内黎一 |