「ヒメタタライスズヒメ」の版間の差分

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===神武天皇との結婚===
===神武天皇との結婚===
『日本書紀』などの記述によれば、[[レヒコ]](のちの神武天皇)は、「ヒムカの国{{refnest|group="注"|[[日向国]]([[宮崎県]])に比定する説と、これを否定する説がある。}}」を出て東へ遠征し、数々の戦いを経て[[大和|ヤマト地方]]{{refnest|group="注"|一般的には[[奈良盆地]]を指す。}}に政権を確立するに至った([[神武東征]])。イレヒコは[[畝傍山]]の麓に「[[橿原宮|カシワラの宮]]」([[奈良県]][[橿原市]])を築き、初代天皇「神武天皇{{refnest|group="注"|厳密には、「神武天皇」という呼称は奈良時代に与えられた[[諡号]]である。『日本書紀』では「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とする<ref name="歴代天皇紀-神武"/>。}}」として即位することになる<ref name="ブリタニカ-神武"/>。
『日本書紀』などの記述によれば、イレヒコ(のちの神武天皇)は、「ヒムカの国{{refnest|group="注"|[[日向国]]([[宮崎県]])に比定する説と、これを否定する説がある。}}」を出て東へ遠征し、数々の戦いを経て[[大和|ヤマト地方]]{{refnest|group="注"|一般的には[[奈良盆地]]を指す。}}に政権を確立するに至った([[神武東征]])。イレヒコは[[畝傍山]]の麓に「[[橿原宮|カシワラの宮]]」([[奈良県]][[橿原市]])を築き、初代天皇「神武天皇{{refnest|group="注"|厳密には、「神武天皇」という呼称は奈良時代に与えられた[[諡号]]である。『日本書紀』では「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とする<ref name="歴代天皇紀-神武"/>。}}」として即位することになる<ref name="ブリタニカ-神武"/>。


この即位に先立ち、初代天皇に相応しい正妃を迎えることになり、ヒメタタライスズヒメが妻に迎えられる。『日本書紀』によれば、ヒメタタライスズヒメと神武天皇(正確には天皇としての即位前)との結婚は、即位の前年[[9月24日 (旧暦)|9月24日]](旧暦)だったとされる<ref name="新撰大人名辞典"/><ref name="女性人名辞典"/>{{refnest|group="注"|『日本書紀』では、妃探しを始めたのが即位前年の[[8月16日 (旧暦)|8月16日]](「[[庚申]]年秋[[8月 (旧暦)|八月]][[癸丑]][[朔]][[戊辰]]」)<ref name="読み解き事典"/><ref name="歴代皇后-神武"/>、ヒメタタライスズヒメを妃と決め結婚したのが[[9月24日 (旧暦)|9月24日]](「[[9月 (旧暦)|九月]][[壬午]][[朔]][[乙巳]]」)<ref name="新撰大人名辞典"/><ref name="女性人名辞典"/>である。}}。翌年正月に神武天皇は即位し、ヒメタタライスズヒメはこのときに皇后となった<ref name="新撰大人名辞典"/>{{refnest|group="注"|『日本書紀』では神武天皇の即位年を「[[辛酉]]」の年とする。中国の[[讖緯説]]・[[辛酉革命|辛酉革命説]]を考慮して明治時代に定められた計算方法に従えばこれは[[紀元前660年]]となる。かつてはこれは歴史的事実とされていたが、現代ではふつう史実とは考えられていない<ref name="歴代天皇紀-神武"/>。詳細は[[神武天皇即位紀元]]参照。}}
この即位に先立ち、初代天皇に相応しい正妃を迎えることになり、ヒメタタライスズヒメが妻に迎えられる。『日本書紀』によれば、ヒメタタライスズヒメと神武天皇(正確には天皇としての即位前)との結婚は、即位の前年[[9月24日 (旧暦)|9月24日]](旧暦)だったとされる<ref name="新撰大人名辞典"/><ref name="女性人名辞典"/>{{refnest|group="注"|『日本書紀』では、妃探しを始めたのが即位前年の[[8月16日 (旧暦)|8月16日]](「[[庚申]]年秋[[8月 (旧暦)|八月]][[癸丑]][[朔]][[戊辰]]」)<ref name="読み解き事典"/><ref name="歴代皇后-神武"/>、ヒメタタライスズヒメを妃と決め結婚したのが[[9月24日 (旧暦)|9月24日]](「[[9月 (旧暦)|九月]][[壬午]][[朔]][[乙巳]]」)<ref name="新撰大人名辞典"/><ref name="女性人名辞典"/>である。}}。翌年正月に神武天皇は即位し、ヒメタタライスズヒメはこのときに皇后となった<ref name="新撰大人名辞典"/>{{refnest|group="注"|『日本書紀』では神武天皇の即位年を「[[辛酉]]」の年とする。中国の[[讖緯説]]・[[辛酉革命|辛酉革命説]]を考慮して明治時代に定められた計算方法に従えばこれは[[紀元前660年]]となる。かつてはこれは歴史的事実とされていたが、現代ではふつう史実とは考えられていない<ref name="歴代天皇紀-神武"/>。詳細は[[神武天皇即位紀元]]参照。}}
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==神武天皇の妻問い説話==
==神武天皇の妻問い説話==
神武天皇は即位に先立ち、初代天皇に相応しい正妃を迎えることになった。このとき、ヒムカ国からイレヒコ(神武天皇)に付き従ってきた家臣である[[大久米命]]が、后候補として推挙したのがイスケヨリヒメ(ヒメタタライスズヒメ)だった<ref name="読み解き事典"/><ref name="学研2015"/>。『古事記』では、大久米命がイスケヨリヒメの出生の逸話について神武天皇に説明し、「神の御子」であるイスケヨリヒメこそ正后に値すると説く<ref name="ヒメたち94"/><ref name="学研2015"/>。
神武天皇は即位に先立ち、初代天皇に相応しい正妃を迎えることになった。このとき、ヒムカ国からイレヒコ(神武天皇)に付き従ってきた家臣である[[大久米命]]が、后候補として推挙したのがイスケヨリヒメ(ヒメタタライスズヒメ)だった<ref name="読み解き事典"/><ref name="学研2015"/>。『古事記』では、大久米命がイスケヨリヒメの出生の逸話について神武天皇に説明し、「神の御子」であるイスケヨリヒメこそ正后に値すると説く<ref name="ヒメたち94"/><ref name="学研2015"/>。


『古事記』には、7人の女性が[[狭井川]]の岸辺にいるところを神武天皇と大久米命が目撃し、その中から后を選んだという逸話が掲載されている<ref name="神道大辞典"/>。この際、神武天皇と大久米命、イスケヨリヒメとのあいだで歌を交わすやりとりは、神武天皇の「妻問い説話」としてよく知られている<ref name="平凡地名-狭井河"/><ref name="ヒメたち98"/>。
『古事記』には、7人の女性が[[狭井川]]の岸辺にいるところを神武天皇と大久米命が目撃し、その中から后を選んだという逸話が掲載されている<ref name="神道大辞典"/>。この際、神武天皇と大久米命、イスケヨリヒメとのあいだで歌を交わすやりとりは、神武天皇の「妻問い説話」としてよく知られている<ref name="平凡地名-狭井河"/><ref name="ヒメたち98"/>。

2019年2月9日 (土) 13:44時点における版

媛蹈鞴五十鈴媛命[1] / 比売多多良伊須気余理比売命[2]

称号 日本の皇后
出生 不詳
死去 不詳
配偶者 神武天皇
  手研耳命
子女 日子八井命
神八井耳命
綏靖天皇
父親 大物主神 事代主神[3]
母親 勢夜陀多良比売 玉櫛媛[4]
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神武天皇と比売多多良伊須気余理比売命までの系譜(『古事記』による)

ヒメタタライスズヒメ媛蹈鞴五十鈴媛[1][注 1])は、『日本書紀』に登場する人物・女神で、初代天皇神武天皇の皇后[13]。『古事記』のヒメタタライスケヨリヒメ[2]比売多多良伊須気余理比売[注 2])に相当する。

伝承ごとに細部の差異はあるものの、母親はヤマト地方の有力者の娘で、父親は神であったと描かれている。神武天皇に嫁いて皇后となり、2代天皇の綏靖天皇を産んだとされている[15][2]

異称

古事記』では、はじめ「富登多多良伊須須岐比売[8]」(ホトタタライススキヒメ[7]、ホトタタライススギヒメ[13][16])という名であったが、のちに「比売多多良伊須気余理比売[8]」(ヒメタタライスケヨリヒメ)に改められたことが示されている。詳細は#古事記にみる出自参照。単に「伊須気余理比売」と書くこともある[2]

また、単に「五十鈴媛命」ということもある[17]。(ただし、妹の五十鈴依媛命との混同に注意。)

記紀による描写

日本書紀・先代旧事本紀のヒメタタライスズヒメ

日本書紀』巻1「神代紀(上)」と『先代旧事本紀』巻4・巻5に「姫蹈鞴五十鈴姫命」[18]、『日本書紀』巻3「神武紀」・巻4「綏靖紀と」『先代旧事本紀』巻7に「媛蹈鞴五十鈴媛命」[19]として登場する[20]

その出自については数通りの記述がある。

書名 登場箇所 備考 出典
『日本書紀』 巻1「神代紀上」
宝剣出現章
  大三輪神 [紀 1]大三輪神は大己貴命大国主)の幸魂とされる。 [18][20][12]
『日本書紀』 三嶋の溝樴姫(みぞくひひめ)
または玉櫛姫
事代主神 [紀 2] [18][20][12]
『日本書紀』 巻3「神武紀」
神武即位前条
三嶋溝樴耳神の娘
玉櫛媛
事代主神 [紀 3] [19][20][12]
『日本書紀』 巻4「綏靖紀」
綏靖即位前条
  事代主神 「事代主の長女」とされる[紀 4] [19][20][12]
『先代旧事本紀』 [注 3] 三嶋溝杙(みぞくひ)の娘
活玉依姫
事代主神 事代主神は大己貴命の子とされる [18]

『日本書紀』「神代紀」の別説や「神武紀」「綏靖紀」、『先代旧事本紀』では、事代主神が「三嶋」の「ミゾクヒ」(ミゾクイ)の娘のタマクシヒメのもとへ通って生まれたとしている[18][19][21]。また、このとき事代主神は「八尋熊鰐」に姿を変えていたとする[18][21][12]

古事記のヒメタタライスケヨリヒメ

古事記』中巻に「富登多多良伊須須岐比売命」「比売多多良伊須気余理比売命」として登場する[14][22]

書名 登場箇所 備考 出典
『古事記』 中巻
神武記
三嶋湟咋(みぞくひ)の娘
勢夜陀多良比売
大物主神 父は美和之大物主神[記 1] [23][24][10]

勢夜陀多良比売は美女として知られていた。大物主神は丹塗り矢(赤い矢)に姿を変え、勢夜陀多良比売が大便をするところを狙って川の上流から流れていき、勢夜陀多良比売の陰部(ホト)を突いた。驚いた勢夜陀多良比売が矢を取って部屋に戻ると、矢は美男子となった。両者は結婚し、娘が生まれた。娘は「富登多多良伊須須岐比売」(ホトタタライススキヒメ)と名付けられた。しかしのちに娘は「ホト」という名を嫌って「比売多多良伊須気余理比売」(ヒメタタライスケヨリヒメ)に改めた[23][8][25]

神武天皇との結婚

『日本書紀』などの記述によれば、イハレヒコ(のちの神武天皇)は、「ヒムカの国[注 4]」を出て東へ遠征し、数々の戦いを経てヤマト地方[注 5]に政権を確立するに至った(神武東征)。イハレヒコは畝傍山の麓に「カシワラの宮」(奈良県橿原市)を築き、初代天皇「神武天皇[注 6]」として即位することになる[6]

この即位に先立ち、初代天皇に相応しい正妃を迎えることになり、ヒメタタライスズヒメが妻に迎えられる。『日本書紀』によれば、ヒメタタライスズヒメと神武天皇(正確には天皇としての即位前)との結婚は、即位の前年9月24日(旧暦)だったとされる[17][21][注 7]。翌年正月に神武天皇は即位し、ヒメタタライスズヒメはこのときに皇后となった[17][注 8]

『古事記』には正妃選びや結婚にまつわるエピソードが採録されている。(詳細は#神武天皇の妻問い説話参照。)

神武天皇の死後

『日本書紀』によると、神武天皇は127歳で崩御した[15]。細部には相違点があるものの、『日本書紀』や『古事記』には、神武天皇の死後、子供同士の間で起きた後継者争いが描かれている(詳細は手研耳の反逆参照)。

イワレヒコ(神武天皇)は、「ヒムカ国」からの東征に出発する以前に、吾平津媛(阿比良比売)と結婚し、子をもうけていた[13][27][注 9]。しかし神武天皇がヒメタタライスズヒメを正后としたことにより、この子らは庶子の身分となった[15][30]。神武天皇が崩御すると、この庶子であるタギシミミは皇位を自らが継ごうと考えた[31][32][注 10]

『古事記』では、タギシミミは未亡人となったヒメタタライスズヒメを自らの妻とし、神武天皇とヒメタタライスズヒメのあいだに生まれた嫡子である皇子たちを暗殺しようとする[31][32][27]。これを察したヒメタタライスズヒメは、子供たちに身の危険を知らせるために和歌を2首詠んで送ったという[32][33][記 2]

佐韋賀波用さゐかはよ 久毛多知和多理くもたちわたり 宇泥備夜麻うねびやま 許能波佐夜藝奴このはさやげぬ 加是布加牟登須かぜふかむとす
狭韋河よ 雲起ちわたり 畝火山 木の葉さやげぬ 風吹かむとす[33]
(大意)狭井川の我が家の子らよ[注 11]、タギシミミの方からそちらに向かって風が吹こうとしています(危険が迫っています)[33]
宇泥備夜麻うねびやま 比流波久毛登韋ひるはくもとひ 由布佐禮婆ゆふされば 加是布加牟登曾かぜふかむとぞ 許能波佐夜牙流このはさやげる
畝火山 昼は雲と居 夕去れば 風ふかむとぞ 木の葉さやげる
(大意)畝傍山は昼は曇っているが、夕方が過ぎて夜になれば風が吹くだろうと木の葉が騒いでいる

これらの寓意歌によりタギシミミの反逆の意図を知った嫡子たちは、逆に先手を打ってタギシミミを討ち取った。その際に最も活躍した神沼河耳命が皇位を継ぎ、2代天皇(綏靖天皇)として即位した[27][31][32][28]。『日本書紀』にしたがえば、綏靖天皇元年正月8日にヒメタタライスズヒメは「皇太后」を称するようになったという[17]

綏靖天皇は正妃として五十鈴依媛命を迎えた。五十鈴依媛命はヒメタタライスズヒメの実妹であり、綏靖天皇からみると叔母にあたる[27]。ただしこれには異伝があり、綏靖天皇の妃となった人物を河俣毘売とするものや皇后を糸織媛とするものがある。

子供

神武天皇との子は、年長から順に、日子八井命神八井耳命神沼河耳命綏靖天皇)である[21]

ヒメタタライスズヒメと神武天皇の子
『日本書紀』 『古事記』 備考
日子八井命 『日本書紀』には記載がない。
神八井命 神八井耳命 多氏の祖となる。
神渟名川耳尊 神沼河耳命 綏靖天皇として即位、2代天皇となる。

兄妹

ヒメタタライスズヒメの母である玉櫛媛(勢夜陀多良比売)は、ほかに2人の子を産んだとされている。

出自に関する諸説

日本書紀』と『古事記』では、説話の細部が異なるものの、ヒメタタライスズヒメは「在地の有力者の娘」を母とし、「神」を父として描かれている[34]。初代天皇である神武天皇が正妻を迎えるにあたり、「神の娘」を娶ることが、神武天皇の政権の正当性を裏打ちするものとして利用されたのだろうと解釈されている[34]

母親は、母方が摂津(大阪府)のミシマ(三嶋、三島)、父方がヤマト(奈良県)のミワ(美和、三輪、三輪山)のものとして描かれている。これらは、近畿地方の複数の豪族の協力を示唆しており[注 12]、この結婚は「ヒムカ」(日向国)からやってきた他国者であるイワレヒコ(神武天皇)を、凡河内国(大和国と摂津国)の有力者[注 13]たちが支えたことを示すものだろうと、解釈される[34][32]。また、イワレヒコが単に武力制圧するだけでなく、在地の勢力との融和策によって支配基盤を固めようとする政治的方法を示すものだとも解釈される[33]。後述するように、神武天皇の勢力が製鉄技術を確保したことを示すものだとの解釈もある[35]

祖父:ミシマのミゾクヒ

『日本書紀』では、多少の表現の差異はあるが、母親は「三嶋(三島)」の「ミゾクヒ」の娘とされる。「ミゾクヒ」には、「溝樴」「溝樴耳神」「溝杙」などの表記がある。『古事記』では「湟咋(ミゾクヒ)」とあり、このほか「溝杭」(『新撰姓氏録』)、「溝咋(ミゾクヒ)」などの字が当てられることもある[36][12][13]。「-耳神」を付す史料があることから、神性をもつ存在として信仰の対象であったことも示唆される[36]

「三島」という地名は摂津国三島郡(現在の大阪府北部)にあたると考えられている。『延喜式神名帳』(927年成立)には三島鴨神社高槻市三島江)や溝咋神社茨木市)が掲載されており、「ミシマのミゾクヒ」はこのあたりで信仰されていたと推測される[13][36][注 14]

江戸時代の国学者本居宣長は、この「ミゾ(溝)」は水流の上に作られたを指すと解釈し、これが通説となっている[36]三谷栄一などはこの説を採り、厠は出産儀礼とも関連が強いとする説もある[36]肥後和男東京教育大学名誉教授)はこれとは違い、「ミゾ」は水田の溝を意味するとした[36]次田真幸はこの説を発展させ、三島郡は稲作の適地であり「ミシマのミゾクヒ」は農耕神であるとした[36]

母:玉櫛媛と勢夜陀多良比売

母親の名は『日本書紀』では「玉櫛媛(タマクシヒメ)[13]」、『古事記』では「勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)[8][25]」とされている。いずれも、美女として知られていたと伝える[8][25][21][紀 5][記 3]

本居宣長は、セヤ(勢夜)を大和国平群郡勢野村(奈良県生駒郡三郷町)に比定している[25]

異類婚による誕生

『日本書紀』『古事記』のいずれも、ヒメタタライスズヒメの誕生には異類婚が係わっている。父である神は、『日本書紀』では「八尋和邇」、『古事記』では「丹塗りの矢」に姿を変え、女性のもとを訪れている。このようにヒメタタライスズヒメは日本神話における異類婚による子の代表例として知られる[37][注 15]

古事記にみる誕生時の逸話

古事記』では大物主神の娘とされている[10][注 16]。出身地は「美和[10]ないし大和地方三輪山[8][32]

原文 美和之大物主神見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登。
大意 美和の大物主神(大物主)は、美しい勢夜陀多良比売を見初めた。大物主は赤い矢(丹塗りの矢)に姿を変え、勢夜陀多良比売が大便しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、ほと(陰所)を突いた[8][25]
原文 爾其美人驚而、立走伊須須岐伎、乃將來其矢、置於床邊、忽成麗壯夫、卽娶其美人生子
大意 驚いた勢夜陀多良比売が、立ち上がって、その矢を自分の部屋に持ち帰り、床に置くと、たちまち美男子の姿になった。そして(二人は結ばれ)勢夜陀多良比売は子を産んだ[8][25]

この子は「富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ)」と名付けられた。これは「ホトを突かれてびっくりして生まれた子」の意とされる[8]。。母親に似て美女であったともいう[2]

しかし本人は、「ホト」を嫌って「比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)」に名を改めた[8]

名前に関する諸説

当初の名前である「ホトタタラ」は、母の勢夜陀多良比売が陰部を矢で突かれたという説話に由来し、「陰元立(ほとたたら)」の意など、「立つ」の派生形とみる解釈がある[7][8]。あとから、この「ホト」を嫌って「ヒメ」へ改めたという[7]。これとは別に、「タタラ」は母の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)から名の一部を受け継いだものとする説などもある。また「イススキ」は「驚いて立ち去る」の意だとされ、これを言い換えたのが「イスケ」とされる[7]

一方、名に含まれる「タタラ」は製鉄との繋がりを示唆するという解釈があり、神武天皇がヒメタタライスズヒメを嫁としたことは、政権が当時の重要技術である製鉄技術を押さえたことの象徴であるとする説がある[41]。詳細は#たたら製鉄との関連参照。

「イスズ(五十鈴)」は鈴を意味し、たくさんの鈴で手足を飾っているものを指すという説や[32]、金属加工との関連を示唆するものとみるむきもある。これらとは異なり、元の名の「イススキ」が「イスズ」に転訛したと考える説もある[7]

「ヨリ」は「ヨロシ(宜)」とする説や[7]ユリの花に通じ、ヒメタタライスズヒメ(イスケヨリヒメ)の実家である三輪山の麓の狭井川川岸に咲くササユリを指すとの解釈もある[33]

神武天皇の妻問い説話

神武天皇は即位に先立ち、初代天皇に相応しい正妃を迎えることになった。このとき、ヒムカ国からイハレヒコ(神武天皇)に付き従ってきた家臣である大久米命が、后候補として推挙したのがイスケヨリヒメ(ヒメタタライスズヒメ)だった[13][32]。『古事記』では、大久米命がイスケヨリヒメの出生の逸話について神武天皇に説明し、「神の御子」であるイスケヨリヒメこそ正后に値すると説く[34][32]

『古事記』には、7人の女性が狭井川の岸辺にいるところを神武天皇と大久米命が目撃し、その中から后を選んだという逸話が掲載されている[7]。この際、神武天皇と大久米命、イスケヨリヒメとのあいだで歌を交わすやりとりは、神武天皇の「妻問い説話」としてよく知られている[42][33]

夜麻登能やまとの 多加佐士怒袁たかさじぬを 那那由久ななゆく 袁登賣杼母をとめども 多禮袁志摩加牟たれをしまかむ
の高佐士野(たかさじぬ)を七行く媛女ども誰をしまかむ[33]
(大意)大和国の川の畔の高台をゆく7人の乙女のうち誰を妻とするか[33]

「高佐士野」は、狭井川沿いの台地を指している[33]。狭井川は三輪山を源とする小川で、大神神社境内ちかくを流れる[43]大和川(初瀬川)に合流する手前では天井川となって川岸が高くなっている[43]

加都賀都母かつがつも 伊夜佐岐陀弖流いやさきだてる 延袁斯麻加牟えをしまかむ
かつがつも いや先立てる 兄をしまかむ[33]
(大意)先頭をいく年長者(イスケヨリヒメ)にしよう[33]

この神武天皇の意を受けて、大久米命はイスケヨリヒメに会いに行く。するとイスケヨリヒメは、見慣れない風貌の大久米命に驚きこう答える[44]。  

阿米都都あめつつ 知杼理麻斯登登ちどりましとと 那杼佐祁流斗米などさけるとめ
天地 千鳥真鵐 などける利目
(大意)あなたはなぜ、いろいろな鳥のように目のまわりに入れ墨をして、鋭い目つきをしているのですか。[44]

これに対し大久米命は次のように返す。

袁登賣爾をとめに 多陀爾阿波牟登ただにあはむと 和加佐祁流斗米わがさけるとめ
媛女に 直に逢わんと 我がける利目
(大意)あなたのことを直接よくみるために、鋭い目つきをしているのです。[44]

このあと、イスケヨリヒメは嫁入りを承諾する。神武天皇は「佐韋河(狭井川)の上」にあるイスケヨリヒメの家に行って一泊する。このときの様子は次のように詠まれている[44]

阿斯波良能あしはらの 志祁志岐袁夜邇しねしきをやに 須賀多多美すかたたみ 伊夜佐夜斯岐弖いやさやしきて 和賀布多理泥斯わかふたりねし
葦原の 穢しき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝し[33]
(大意)河原の草むらにあるむさ苦しい小屋にスゲの畳をきれいに敷いて、二人で寝た[33][44]

この部分には、狭井川の地名の由来に関する注釈がある。この辺りには「山由里草」(ヤマユリ、実際にはササユリのこと)が多く、ヤマユリの異称を「佐韋」というので、この川を「佐韋河(狭井川)」と呼ぶとある[42][43]。現代の狭井川の右岸には「神武天皇聖蹟狭井河顕彰碑」が設置されている[43]

たたら製鉄との関連

ヒメタタライスズヒメ(ヒメタタライスケヨリヒメ)の名前のうち「タタラ」の部分を、たたら製鉄と結びつけて解釈し、古代日本における製鉄を示すものとする説がある[35][41][32][注 17][注 18][注 19]

小路田泰直奈良女子大学)によれば、タタラはたたら炉のことであり、「ホト」は陰部を指すとともに火床のことでもある[41][注 20]。すなわち、神武天皇がヒメタタライスズヒメ(=ヒメタタライスケヨリヒメ=ホトタタライススキヒメ)を妻に迎えたというのは、王家が製鉄産業を牛耳ったことを示すものと解釈される[41]。吉野裕(日本文学協会)は、「ホトタタライスケヨリヒメ」という名は溶鉱の神・溶鉱炉に仕える巫女を指すとしている[46]

本居宣長をはじめとする近世の国学者らは、ヒメタタライスズヒメ(ヒメタタライスケヨリヒメ)の「タタラ」をふいごの意味とは解釈しなかった[46]。彼らの考えによれば、「タタラ」という語は鍛冶師が使う俗語であり、高貴な皇妃の名に用いるような語としてふさわしくないものとして製鉄との結びつきを退けられるという[46]。「タタラ」は「立つ」の派生形とみて、「(陰部に矢を当てられ驚いて)立ち上がった」や「(陰部に)矢を立てられた」の意とする解釈もある[7][8]

信仰の対象

明治天皇が1890年(明治23年)に創建した橿原神宮では、主祭神として神武天皇とヒメタタライスズヒメが祀られている[7][2]

また、ヒメタタライスズヒメは、子供を救ったことから「子守明神」として崇められるようになり、率川神社(奈良県奈良市本子守町)では主神として祀られている[33][注 21]。率川神社では例年6月に「三枝祭」(通称:ゆり祭り)があり、三輪山で栽培されたササユリを供えてヒメタタライスズヒメを祀る[33]

ヒメタタライスズヒメの実家があったという狭井川の上流部には狭井神社がある。ここでは大神荒魂神を主祭神としつつ、ヒメタタライスズヒメや大物主神(『古事記』によるヒメタタライスケヨリヒメの父)、勢夜陀多良比売(『古事記』によるヒメタタライスケヨリヒメの母)、事代主神(『日本書紀』によるヒメタタライスズヒメの父)を祀っている[48]

このほか、津森神宮(熊本県上益城郡益城町)、甲佐神社(熊本県上益城郡甲佐町)で祀られている[20]

脚注

『日本書紀』原文

  1. ^ 『日本書紀』「大三輪之神也。此神之子、卽甘茂君等・大三輪君等・又姫蹈鞴五十鈴姫命」
  2. ^ 『日本書紀』「事代主神化爲八尋熊鰐 通三嶋溝樴姫 或云 玉櫛姫 而生兒 姫蹈鞴五十鈴姫命 是爲神日本磐余彦火火出見天皇之后也」
  3. ^ 『日本書紀』「事代主神、共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛、所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命」
  4. ^ 『日本書紀』「母曰媛蹈韛五十鈴媛命、事代主神之大女也」
  5. ^ 『日本書紀』「是国色之秀者」。

『古事記』原文

  1. ^ 『古事記』「此間有媛女、是謂神御子。其所以謂神御子者、三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比売、其容姿麗美。故、美和之大物主神見感而(以下略)」
  2. ^ 『古事記』「天皇崩後、其庶兄當藝志美美命、娶其嫡后伊須気持余理比売之時、將殺其三弟而謀之間、其御祖伊須気持余理比売之患苦而、以歌令知其御子等」
  3. ^ 『古事記』「其容姿麗美」。

注釈

  1. ^ 日本書紀』では媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト[5][6][7])、媛蹈鞴五十鈴媛などと表記される。このほか「媛蹈鞴五十鈴媛(命)」には様々な表記ゆれがみられる。「媛」と「姫(姬)」、「蹈」と「踏」、「韛」と「鞴」、「命」と「尊」など。「姫踏鞴五十鈴媛命[8]」や「媛蹈韜五十鈴姬尊[9]」、「媛蹈韛五十鈴媛命[10]」、「姫蹈韛五十鈴姫命[11][12]」・「姫踏鞴五十鈴姫命[7]」など、「姫・媛」の使い分けも様々見られる[1]
  2. ^ 古事記』では比売多多良伊須気余理比売命[1](ヒメタタライスケヨリヒメノミコト[13][14])、比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ[2])、伊須気余理比売などと表記される。資料により「売」と「賣」、「気」と「氣」、「余」と「餘」などの表記ゆれが見られる。
  3. ^ 先代旧事本紀』巻4地祇本紀に「都味歯八重事代主神 化八尋熊鰐 通三島溝杭活玉依姫 生一男一女(中略)妹 踏韛五十鈴姬命 此命 橿原原朝立為皇后 誕生二兒 即 神渟名耳天皇 綏靖 次產 八井耳命是也」とある。
  4. ^ 日向国宮崎県)に比定する説と、これを否定する説がある。
  5. ^ 一般的には奈良盆地を指す。
  6. ^ 厳密には、「神武天皇」という呼称は奈良時代に与えられた諡号である。『日本書紀』では「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とする[15]
  7. ^ 『日本書紀』では、妃探しを始めたのが即位前年の8月16日(「庚申年秋八月癸丑戊辰」)[13][26]、ヒメタタライスズヒメを妃と決め結婚したのが9月24日(「九月壬午乙巳」)[17][21]である。
  8. ^ 『日本書紀』では神武天皇の即位年を「辛酉」の年とする。中国の讖緯説辛酉革命説を考慮して明治時代に定められた計算方法に従えばこれは紀元前660年となる。かつてはこれは歴史的事実とされていたが、現代ではふつう史実とは考えられていない[15]。詳細は神武天皇即位紀元参照。
  9. ^ 『古事記』には2人の子の名が記録されている。多芸志美美命(タギシミミノミコト[28])と岐須美美命(キスミミノミコト[29])である[30][27]。一方『日本書紀』には手研耳命(タギシミミノミコト)の名前だけがあり、岐須美美命に相当する人物の名は記されていない[30]
  10. ^ 『日本書紀』などによれば、タギシミミは長いあいだ神武天皇のもとで政務に就いていたという。しかしその性格には難があり「仁義に背く」性質があった、と描かれている[27]。こうした描写は、必ずしも史実をそのまま伝えるものではないと考えられている。神武天皇から綏靖天皇への代替わりにあたっては末子相続が行われており、古代の日本ではそれが一般的であったのだろうと考えられている。しかしのちには長子相続が一般的となったために、長子相続を正当と考える読者のために、「兄が悪人だったために排除された」とする説明が必要になったのだろうと解釈するものもある[27]
  11. ^ 『古事記』には神武天皇がヒメタタライスズヒメの家を訪れて泊まる様子が描かれている。研究者のなかには、当時は夫が妻の家へ通う通い婚が行われていたと考える者もいる。とりわけ神武天皇とヒメタタライスズヒメの場合のように、よそ者が土着の有力者の娘を娶るような場合には、結婚後も妻は実家にとどまるのが普通だったという。そして生まれた子供たちも、妻の実家で育てられたという。したがってこの事変が起きた当時も、神武天皇の嫡出子たちは実家である狭井川(狭韋河)にいたとされる。(研究者たちも、これらの記述が真正の史実であるとは認めていないが、当時の習俗を反映した物語であろうとしている。)[27]
  12. ^ 『日本書紀』が説くようにヒメタタライスズヒメの父が事代主神あるいは大国主とするならば、ヒメタタライスズヒメは近畿地方の豪族に加えて出雲地方にもルーツがあるということになる[34]
  13. ^ 厳密には大和国や摂津国といった令制国が確立するのは古代のことであり、
  14. ^ 溝咋神社では三島溝咋(三島溝杭)を神社の祖とし[13]、三島氏は古代河内地方の有力豪族だっただろうとしている[34]
  15. ^ 神武天皇の父ウガヤフキアエズも、母のトヨタマヒメの正体は八尋和邇である。父のホオリはそのことを知らず、出産の様子をのぞき見してトヨタマヒメの真の姿を目撃してしまう。そのためトヨタマヒメは生まれた赤子を置き去りにして海へ帰ってしまう。この赤子が神武天皇の父である[37]
  16. ^ 大物主神(大物主)は本来、三輪氏氏神である[38]。一方、大物主は大国主スサノオの子孫)の別名とする場合もあり、『日本書紀』では、大物主は大国主の和魂とする[38]。両者は元来は別の神と考えられている[39][40]
  17. ^ 『日本書紀』での名前表記に用いられている「鞴」の字は製鉄で用いるふいごを指す[41]
  18. ^ 近代日本(第二次世界大戦集結以前)には、日本における製鉄の起源は神代の時代にさかのぼるとされてきた[35]。『日本書紀』や『古事記』には、天照大神天岩戸に隠れた際に、「天香山(日本書紀)」ないし「天金山(古事記)」の鉄を用いて金属加工が行われたとのエピソードがある[35][45]。現代では、製鉄技術は中国大陸から稲作とともに伝来したとみるのが一般的とされているものの[45]、考古学的な証拠研究は十分ではなく[45]、その起源や年代についての定説は確立されていない[35]。文献史料的には、8世紀の『出雲国風土記』に製鉄が具体的に詳述されており、この時期にはすでに定着していただろうと考えられている[35]
  19. ^ 鈴本禎一(日本化学会)は、5世紀初め頃のものという巨大な仁徳天皇陵は、鉄製の道具の確立によって建設可能となったものだろうとして、当時の大和朝廷たたら製鉄の技術を確保していたのだろうとしている[35]東奈良遺跡大阪府茨木市)からはフイゴが出土しており、これと大和朝廷の製鉄と結びつける者もいる[46]。この東奈良遺跡(1971年発見)では銅鐸やその鋳型などが出土しており、銅鐸が作られていたことは確実視されている[47]
  20. ^ 「ホト」は「溶鉱炉」を指すとも[46]
  21. ^ 率川神社は、ヒメタタライスズヒメの故郷の地とされる三輪山・大神神社の摂社となっている[33]

出典

  1. ^ a b c d 日本大百科全書(ニッポニカ)』,小学館,1984-1994,「神武天皇」コトバンク版 2018年7月30日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 『日本神名辞典』p320「比売多多良伊須気余理比売」
  3. ^ 日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 庚申年八月戊辰条
  4. ^ 日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 庚申年八月戊辰条, 古事記 中巻 神武天皇段
  5. ^ 『日本史人名よみかた辞典』p925
  6. ^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』,2014,「神武天皇」コトバンク版 2018年7月30日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k 『神道大辞典(縮刷版)』p1227「ヒメタタライスズヒメノミコト」
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m 『朝日日本歴史人物事典』,朝日新聞社,1994,「姫踏鞴五十鈴媛命」コトバンク版 2018年7月30日閲覧。
  9. ^ 『系図纂要』新版 第1冊上 神皇(1),p61-63
  10. ^ a b c d 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』,講談社,2015,「媛蹈韛五十鈴媛命」コトバンク版 2018年7月30日閲覧。
  11. ^ 『日本神名辞典』p320「姫蹈韛五十鈴姫命」
  12. ^ a b c d e f g 『日本古代氏族人名辞典 普及版』p504
  13. ^ a b c d e f g h i j 『日本の神様読み解き事典』p199-200「富登多多良伊須須岐比売命/比売多多良伊須気余理比売命/媛蹈鞴五十鈴媛命」
  14. ^ a b 『日本の神仏の辞典』p1094「ひめたたらいすけよりひめのみこと」
  15. ^ a b c d e 『図説 歴代天皇紀』p37-41「神武天皇」
  16. ^ 『日本神名辞典』p335「富登多多良伊須須岐比売命」
  17. ^ a b c d e 『日本人名大事典(新撰大人名辞典)』p262「ヒメタタライスズヒメノミコト」
  18. ^ a b c d e f 『日本古代神祇事典』p702「ひめたたらすずひめのみこと(姫蹈韛五十鈴姫命)」
  19. ^ a b c d 『日本古代神祇事典』p702-703「ひめたたらいすけよりひめ(媛蹈韛五十鈴媛命)」
  20. ^ a b c d e f 『日本の神仏の辞典』p1094「ひめたたらいすずひめのみこと」
  21. ^ a b c d e f 『日本女性人名辞典 普及版』p876「媛蹈鞴五十鈴媛命」
  22. ^ 『日本の神仏の辞典』p1164「ほとたたらいすすきひめのみこと」
  23. ^ a b 『日本古代神祇事典』p702「ひめたたらいすけよりひめ(比売多多良伊須気餘理比売)」
  24. ^ 『日本古代神祇事典』p730「ほとたたらいすすきひめのみこと(富登多多良伊須須岐比売命)」
  25. ^ a b c d e f 『神道大辞典(縮刷版)』p861「セヤダタラヒメ」
  26. ^ 『歴代皇后人物系譜総覧』,p26-27「初代 神武天皇 皇后 媛蹈韛五十鈴媛命」
  27. ^ a b c d e f g h i 『図説 歴代天皇紀』p42-43「綏靖天皇」
  28. ^ a b 『日本神名辞典』p235「多芸志美美命」
  29. ^ 『日本神名辞典』p151「岐須美美命」
  30. ^ a b c 『日本の神様読み解き事典』p40-41「阿比良比売/吾平津媛」
  31. ^ a b c 『日本の神様読み解き事典』p152-153「多芸志美美命/手研耳命」
  32. ^ a b c d e f g h i j 『古事記と日本の神々がわかる本』p90-91「イスケヨリヒメの物語」
  33. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『神話の中のヒメたち もうひとつの古事記』p98-101「歌で御子救った初代皇后」」
  34. ^ a b c d e f g h 『神話の中のヒメたち もうひとつの古事記』p94-97「初代皇后は「神の御子」」
  35. ^ a b c d e f g 鈴本禎一(日本化学会日立金属取締役),「たたら製鉄と和鋼記念館」 (PDF) ,1979年(『化学教育』1979年27巻1号 24-27), 2018年7月30日閲覧。
  36. ^ a b c d e f g 山﨑かおり(國學院大学日本文学協会),「伊須気余理比売命の誕生 ―神武記丹塗矢伝承の背景―」 (PDF) ,2013年(『日本文学』2013年62巻2号 p1-11), 2018年7月30日閲覧。
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  38. ^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ)』,小学館,1984-1994,「大物主神」コトバンク版 2018年7月30日閲覧。
  39. ^ 大辞林 第三版』,三省堂,「大物主神」コトバンク版 2018年7月30日閲覧。
  40. ^ 『朝日日本歴史人物事典』,朝日新聞社,1994,「大物主神」コトバンク版 2018年7月30日閲覧。
  41. ^ a b c d e 小路田泰直奈良女子大学・歴史学),「「古事記」「日本書紀」の語る日本国家形成史 : 火と鉄の視点から」 (PDF) ,2005年(『日本史の方法』第2号pp.145-168), 2018年7月30日閲覧。
  42. ^ a b 『日本歴史地名大系30奈良県の地名』p436「狭井河」
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  44. ^ a b c d e 奈良県庁 地域振興部 文化資源活用課,第7話「狭井河の出会い」,2018年8月2日閲覧。
  45. ^ a b c 進藤義彦(亜細亜大学アジア研究所),「古代日本の鉄器文化の源流に関する一考察」 (PDF) ,1975年(『亜細亜大学教養部紀要』12, 99-118), 2018年7月30日閲覧。
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  47. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』,2014,「東奈良遺跡」コトバンク版 2018年7月30日閲覧。
  48. ^ 『日本歴史地名大系30奈良県の地名』p435-436「狭井神社」

書誌情報

関連項目