藤原彰子
藤原 彰子 | |
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第66代天皇后 | |
皇后(中宮) | 長保2年2月25日(1000年4月2日) |
皇太后 | 長和元年2月14日(1012年3月9日) |
太皇太后 | 寛仁2年1月7日(1018年1月26日) |
上東門院 | |
院号宣下 | 万寿3年11月9日(1026年12月20日) |
誕生 | 永延2年(988年) |
崩御 |
承保元年10月3日(1074年10月25日) 山城国 京 法成寺阿弥陀堂 |
陵所 | 宇治陵大谷口(京都府宇治市) |
諱 | 彰子 |
別称 |
大女院 東北院 |
氏族 | 藤原氏(北家・御堂流) |
父親 | 藤原道長[1] |
母親 | 源倫子 |
配偶者 | 一条天皇 |
入内 | 長保元年11月1日(999年12月11日) |
子女 |
後一条天皇 後朱雀天皇 |
養子女 | 敦康親王 |
身位 | 女御→皇后(中宮)→皇太后→太皇太后 |
立后前位階 | 従三位 |
宮廷女房 | 紫式部、和泉式部、赤染衛門 |
藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、988年〈永延2年〉- 1074年10月25日〈承保元年10月3日〉)は、日本の第66代天皇・一条天皇の皇后(中宮)。後一条天皇、後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号は上東門院(じょうとうもんいん)。大女院(おおにょいん)とも称された。
女房に『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、紫式部の娘で歌人の越後弁(のちの大弐三位。後冷泉天皇の乳母)、そして「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一首が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成していた。
系譜
藤原道長の長女。母は左大臣源雅信の女・倫子(964-1053)。同母弟妹に関白太政大臣頼通(992-1074)・同教通(996-1075)と、三条天皇中宮妍子(994-1027)・後一条天皇中宮威子(999-1036)・後朱雀天皇妃嬉子(1007-1025)が、また異母弟には右大臣頼宗・権大納言能信・同長家らがいる。
入内
長徳元年(995年)、彰子8歳の時に、父・道長が内覧の宣旨を蒙り政権を掌握し、それ以後、執政者の長女として世人の嘱目のもとに育つ。長保元年(999年)2月9日、裳着と同日に従三位。同年11月1日、8歳年上の従兄一条天皇に入内し、同月7日に女御宣下(同日、中宮定子が第一皇子敦康親王を出産)。翌年2月25日、皇后に冊立され「中宮」を号した。
局は「藤壺(飛香舎)」。『栄花物語』で「かかやく藤壺」と賞される。
8歳年上の一条天皇には女御達も入内しており、ライバルは多かった。
先に入内していた中宮定子が出家したとみなされていため、藤原氏の神事において中宮職を行える三后がおらず、彰子が中宮となり神事を行った。定子が難産で崩御すると、天皇の命により定子所生の敦康親王を彰子の局・飛香舎(藤壺)にて愛情を込めて養育する。天皇も飛香舎(藤壺)に密々渡っている。数年後には、夫・一条は他の女御へ通うのを止め、彰子を一心に寵愛する。彰子は時間をかけて名実共に唯一の后となった。
皆既月食の日の子刻(午前0時)、内裏が火事になり、飛香舎(藤壺)にいた一条天皇と彰子は人出不足で御輿に載ることが出来ず、二人徒歩で避難した。
寛弘5年(1008年)9月11日、土御門殿にて第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産。三十時間以上に及ぶ難産だった。
紫式部は、泣きはらしいつの間にか道長と一緒に座り、お互いに顔を見合わせ茫然とした様子を、生涯忘れなかったという。
道長の喜びぶりは、『紫式部日記』に詳しい。
『紫式部日記』には彰子の肌が透き通るように美しく、髪もふさふさとして見事な様が記されている。
出産後彰子は11月17日に内裏参内予定だったが、一条天皇は「待ちきれないから自分が訪れる」と10月に彰子が滞在する土御門殿に行幸した。
彰子が内裏に戻ると、一条天皇はすぐ彰子の御座所に渡り、夜は彰子が天皇の夜大殿に昇った。
翌年、敦良親王(後朱雀天皇)が誕生。
寛弘8年(1011年)6月13日、死の床にあって一条天皇は皇太子・居貞親王(三条天皇)に譲位、彰子所生の敦成親王の立太子が決定した。一条天皇の真意が定子所生の第一皇子・敦康親王にあったことを察していた上に自身も深い愛情を込めて養育していた彰子は、敦成親王の立太子を後押しした父を怨んだといわれる(『権記』『栄花物語』ほか)[2]。
聡明で優しく、ライバルとされる中関白家にも贈物など礼儀や援助をかかさず生涯面倒を見た。
栄華を極めながら思慮深く『賢后』と賞された(小右記)。
一条天皇とは最期まで一緒におり、一条の辞世の句は彰子の傍らで読まれ、彰子が書き留めた。
国母へ
長和元年(1012年)2月14日に皇太后、寛仁2年(1018年)正月7日に太皇太后となる。この間、長和5年(1016年)正月29日には敦成親王が即位し(後一条天皇)、道長は念願の摂政に就任した。翌年、道長は摂政・氏長者をともに嫡子・頼通にゆずり、出家して政界から身を引いた。なお、道長の摂政就任と退任の上表は幼少の天皇ではなく彼女宛に出され、退任後の太政大臣補任も彼女の令旨によって行われている。これは天皇の一種の分身的存在である摂政(およびその退任者)の人事が、天皇や摂政自身によって行われることは一種の矛盾(自己戴冠の問題)を抱えていたからだと考えられている。道長の出家後、彰子は指導力に乏しい弟たちに代えて一門を統率し、頼通らと協力して摂関政治を支えた。しかしこの後摂関家一族の姫は、入内すれども男児には恵まれないという不運が続いていく。
万寿3年(1026年)正月19日、落飾し法名を清浄覚とする。同日、一条天皇母后で、彼女にとっては伯母で、義母でもあった東三条院詮子の先例にならって女院号を賜り、上東門院を称した。後年、父道長が建立した法成寺の内に東北院を建てて、晩年ここを在所としたため、別称を東北院ともいう。
晩年
長元9年(1036年)4月17日に後一条天皇、寛徳2年(1045年)正月18日に後朱雀天皇が崩御し、十年の間に二人の子を失った。その後は孫の後冷泉天皇が即位したが、その代に息子師実へ関白職を譲りたい旨を頼通から聞かされたとき、女官に髪を梳かせていた彰子はにわかに機嫌を悪くし、内裏へ「父道長の遺令に背くのでお許しにならぬように」との旨を奏上させ、ために頼通は弟教通へ譲らざるをえなかったというエピソードがある。永承7年(1052年)には重篤な病に陥るが、弟頼通・教通らは国母の病気平癒の願いを込めて大赦を奏請し、これにより前年から始まっていた前九年の役が一時停戦となっている。その後体調は回復したが、後冷泉天皇のみならず、父が全盛を築いた摂関政治を終焉に導く[3]こととなった後三条天皇と、二人の孫にまで先立たれた。彼女は比較的多くの和歌を残したが、なかでも後一条天皇の死後に詠んだ「ひと声も君に告げなんほととぎす この五月雨は闇にまどふと」等、肉親の死を悼んだ歌が多い。
曾孫・白河天皇の代、承保元年(1074年)10月3日、法成寺阿弥陀堂内にて、87歳で崩御した(『扶桑略記』『百練抄』など)。同年2月2日に死去した長弟頼通に遅れること8か月であった。翌年には次弟教通も薨じ、院政開始への道が敷かれた。
墓所
東山鳥辺野の北辺にある大谷口にて荼毘に付され、遺骨は宇治木幡の地にある藤原北家累代の墓所のうち、宇治陵に埋葬された。葬送の日、弟の関白教通は御禊を目前に控えながら白河天皇の制止を振り切り、霊柩の後を歩行して扈従したという(『栄花物語』布引の滝)。
評価
母・倫子が四十四歳で嬉子を出産した際、第七夜産養を彰子が主催し織物衣と産着を贈った。そのことを「未だ家から立たれた皇后が、母の為にこのようなことをなさったことはない。百年来、聞いたことがない。」と道長は『御堂関白記』で喜びを記している。
二代の国母として摂関政治の全盛に貢献し、後世、あやかるべき吉例として長く景仰された[4]。
藤原彰子が登場する作品
脚注
- ^ “藤原彰子 朧谷寿著”. 日本経済新聞 (2018年8月11日). 2020年12月23日閲覧。
- ^ 後世の『古事談』『愚管抄』には、一条天皇の死後、彰子が道長と共に天皇の遺品を整理していた際、「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し(天皇が正しい政を欲するのに、道長一族の専横によって国は乱れている)」と記された天皇の手記を見つけ、道長がこれを焼き捨てたという記述が見える。
- ^ 樋口健太郎は藤原道長の摂政就任と辞任、更に太政大臣任命の決定が幼少の天皇や摂政(道長)本人ではなく、母后である上東門院(藤原彰子)が決定していることを注目し、摂関政治に致命的な打撃を与えたとされる白河法皇による摂政・関白に対する人事権行使は上東門院(藤原彰子)の先例に由来するとみている(樋口「院政の確立と摂関家-上東門院と白河院の連続性に注目して-」『中世摂関家の家と権力』校倉書院、2011年)。
- ^ 『中右記』『古事談』など