藤原頼宗
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 正暦4年(993年) |
死没 | 康平8年2月3日(1065年3月12日) |
改名 | 巖(幼名) → 頼宗 |
別名 | 堀河右大臣 |
官位 | 従一位、右大臣 |
主君 | 一条天皇 → 三条天皇 → 後一条天皇 → 後朱雀天皇 → 後冷泉天皇 |
氏族 | 藤原北家御堂流中御門流 |
父母 | 父:藤原道長、母:高松殿 |
兄弟 | 彰子、頼通、頼宗、妍子、顕信、能信、教通、寛子、威子、尊子、長家、嬉子、長信 |
妻 |
正室:藤原伊周の娘 源公子(源高雅の娘)、藤原親時の娘 |
子 | 院の上、兼頼、延子、俊家、基貞、能長、能季、頼観、昭子、源師房室 |
特記 事項 | 中御門流の始祖。 |
藤原 頼宗(ふじわら の よりむね)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道長の次男。官位は従一位・右大臣。堀河右大臣と号す。
経歴[編集]
幼名は巖。寛弘元年(1004年)元服と同時に従五位上に叙せられる。
道長の正室とされたのは頼宗らの母の源明子ではなく、源倫子であったため、倫子腹の異母兄弟である頼通・教通に比べ、頼宗の昇進は遅れた。長和3年(1014年)に権中納言、治安元年(1021年)に権大納言に至る。
春宮大夫・右近衛大将などを兼任し、永承2年(1047年)内大臣、康平3年(1060年)に右大臣に昇任した。康平8年(1065年)1月に病の為出家し、同年2月3日に73歳で薨去。
正室は、父・道長のライバルであった藤原伊周の長女であり、その間の孫娘・藤原全子が頼通の孫藤原師通(妹藤原尊子の孫でもある)に嫁いで嫡男・忠実を生んだ。そのため女系ながらも、伊周や頼宗の血筋は五摂家に繋がっている。頼宗の子孫は中御門流として続き藤原伊通は太政大臣に至り、鎌倉時代以降は羽林家の家格を有した。
人物[編集]
和歌に優れ、『後拾遺和歌集』(18首)以下の勅撰和歌集に41首が入集[1]。家集に『堀河右大臣集(入道右大臣集)』がある。歌人として紀貫之・平兼盛と並び称されることがあった一方[2]、「この右府ののしる歌は、みな凡俗の境にのぞめり」(『八雲御抄』[3])との評価もある。藤原俊成の師藤原基俊は孫となる。また、大弐三位・小式部内侍らの女流歌人を愛人にしていたという。 極度の近眼で内裏を歩く時につまづく事もあり嘲笑されていたと伝えられている。
官歴[編集]
- 寛弘元年(1004年) 12月:従五位上
- 寛弘2年(1005年) 2月:侍従、6月:右兵衛権佐
- 寛弘3年(1006年) 3月:正五位下
- 寛弘4年(1007年) 正月:右少将、5月:従四位下・左少将兼美作権介
- 寛弘6年(1009年) 3月:右近衛権中将、12月:従四位上
- 寛弘7年(1010年) 11月:正四位下
- 寛弘8年(1011年) 8月:従三位
- 寛弘9年(1012年) 4月:正三位
- 長和2年(1013年) 正月:兼備中権守、9月:従二位
- 長和3年(1014年) 3月:備中守、権中納言
- 長和5年(1016年) 4月:兼右衛門督、7月:検非違使別当
- 寛仁元年(1017年) 4月:左衛門督、8月:兼皇太后宮権大夫
- 寛仁2年(1018年) 10月:太皇太后宮権大夫・正二位
- 寛仁4年(1020年) 4月:検非違使別当を辞任
- 治安元年(1021年) 7月:権大納言、8月:兼春宮大夫
- 万寿5年(1028年) 2月:兼按察使
- 寛徳2年(1045年) 11月:兼右大将
- 永承2年(1047年) 8月:内大臣
- 天喜6年(1058年) 正月:従一位
- 康平3年(1060年) 7月:右大臣