藤原能信

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藤原能信
時代 平安時代中期
生誕 長徳元年(995年
死没 康平8年2月9日1065年3月18日
別名 閑院東宮大夫
官位 正二位権大納言
正一位太政大臣
氏族 藤原北家御堂流
父母 父:藤原道長、母:源明子源高明の娘)
兄弟 彰子頼通頼宗妍子顕信
能信教通威子寛子長家
嬉子尊子長信盛子
正室:藤原祉子藤原実成の娘)
有家
養子:能長茂子
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藤原 能信(ふじわら の よしのぶ)は、平安時代中期の公卿摂政太政大臣藤原道長の四男。

経歴[編集]

寛弘3年(1006年従五位上直叙され、侍従に任ぜられる。右兵衛佐五位蔵人を経て、寛弘8年(1011年従四位下長和2年(1013年蔵人頭左近衛権中将に叙任される。

父・道長に似て勝気な性格だったらしく、寛弘6年(1009年)には敦良親王(のちの後朱雀天皇誕生を祝う儀式中に、同席した左近衛少将藤原伊成を罵倒した挙句、加勢した能信の従者によって一方的に暴行を受けた伊成が憤慨して出家してしまうとの事件を起こしている[1]。また、長和2年(1013年)の石清水八幡宮臨時祭の際、前大和守藤原景斉、前加賀守源兼澄祭主大中臣輔親、前加賀守・藤原為盛高階成順蔵人所雑色・源懐信らが牛車の中で奉幣勅使を見物していたところに、能信が後から現れる。そこで、景斉らが能信に対して近くで見物を行うことの許しを請うたところ、まず輔親と懐信を従者の手で牛車から引きずり出すと、次に景斉と兼澄の乗る牛車に対して従者にを投げつけさせ、遂には景斉も牛車の外へ引きずり出して一方的に暴行させている[2]

道長には頼通・教通を生んだ源倫子左大臣源雅信の娘)と能信の母・明子という、主な夫人が2人いた。だが、倫子は道長の最初の妻であると同時に当時の現職大臣の娘で道長の出世への助けになったのに対し、明子の父であった源高明はすでに故人で、しかも安和の変流罪になった人物であった。そのため、倫子所生の子供たちは嫡子扱いを受けて目覚ましい昇進を遂げたのに対して、明子所生の子息(頼宗顕信・能信・長家)は昇進面で差を付けられていた。既に長和2年(1013年)の時点で、明子所生の子息で議政官に達した者はいない中、頼通は内大臣、教通も権中納言官職にあった。この状況の中で明子所生の兄弟は頼通と協調して自己の昇進を図ろうとしたのに対して、能信はそれを拒絶。公然と頼通と口論して父の怒りを買うことすらあったという。

長和3年(1014年従三位に叙せられて公卿に列すと、長和4年(1015年正三位、長和5年(1016年従二位に叙せられ、寛仁元年(1017年)には参議を経ずに権中納言に任ぜられるなど、執政・藤原道長の子息として、急速に昇進を果たす。寛仁2年(1018年正二位

この間の長和3年(1014年近江国にて強姦を企てた右近衛将監・藤原頼行の要請を受けて、一人の従者を加勢に派遣する。しかし、二人が山科で落ち合うと間もなく口論を始めて遂には「合戦」に及び、頼行により従者は射殺されてしまった。さらに長和5年(1016年)には、故右京進・藤原致行の妻(観峯女)を我が物にしようと女の家に押し入るが逆に身柄を拘束されてしまった大学助・大江至孝からの要請を受けて、従者を加勢に向かわせる。従者たちは至孝を助け出すが、混乱の中で従者の一人が刺殺されてしまう。これを受けて、さらに多くの能信の従者が観峯女の家に殺到、略奪を尽くした上、女を拉致して能信の邸宅に連れ込もうとしたが、結局何らかの理由により解放している[3]。この事件に対する道長の怒りは激しく、事件の翌日に弁解のために訪れた能信を追い払ってしまったという[4]

治安元年(1021年)異母弟の教通が内大臣に昇進するのと同時に、同母兄・頼宗とともに能信は権大納言に昇進する。翌治安2年(1022年土地所有権に関する争いに関連して、能信が教通の従者の厩舎人長を拉致監禁して暴行を加えると、今度は教通から能信の従者の家を破壊されるという報復を受けている[5]

長元5年(1032年)教通の子の信長元服に際して加冠役を務める。それまでも妍子威子と倫子腹の異母姉妹の中宮中宮権亮・中宮権大夫として仕えていたが、長元10年(1037年後朱雀天皇中宮三条天皇の皇女・禎子内親王(のち陽明門院)が決まると、中宮大夫に任じられてこれに仕える。既に頼通の養女・嫄子が天皇の新しい中宮として入内することが確定しているにもかかわらず、あえてその対立陣営に立った。加えて禎子内親王所生の尊仁親王(のち後三条天皇)の後見人も引き受けることになった。寛徳2年(1045年)に後朱雀天皇が重態に陥ると、能信は天皇に懇願して、尊仁親王を親仁親王(のち後冷泉天皇)の皇太弟にするよう遺詔を得たとされる[6]

だが、世間では頼通・教通兄弟がそれぞれ娘を後冷泉天皇の妃にしており、男子が生まれれば皇太子は変更されるだろうと噂され、春宮・尊仁親王やその春宮大夫となった能信への眼は冷たいものがあり、親王が成人しても娘を入内させる公卿はなかった。やむを得ず自分の養女(妻祉子の兄である藤原公成の娘)である茂子を立太子に際し添臥として入内させ、「実父の官位が低すぎる」という糾弾を能信が引き受けることで皇太子妃不在という事態を回避した。

教通の関白職を獲得するまでの忍従、特に頼通に対して従順であることは、ほとんど卑屈の域に達するものであり、頼通が太政大臣に昇進したことの祝賀に際して、左大臣教通は頼通にひざまづいて礼をしたという。これを聞きつけた能信は「大臣ともあろう者がひざまづいて礼をするなど聞いたこともない」と批判した。これに対し教通は「自分は道長から「頼通を父と思え」と言われたのだ。父に対する礼儀としてひざまづいて礼をするのは当たり前のことだ。能信は道長からそんなことを言われたことはないだろう」と、死ぬまで権大納言どまりで関白など望むべくもなかった能信を逆に皮肉ったという。

以後、20年にわたり春宮大夫として尊仁親王の唯一の支援者であり続けた能信は、尊仁親王の即位を見ることなく、康平8年(1065年)2月9日薨去。同母兄の右大臣・藤原頼宗の急死で大臣への道が開かれたそのわずか6日後のことであった。享年71。最終官位は権大納言兼春宮大夫正二位。

その3年後の治暦4年(1068年)後冷泉天皇が男子を遺さずに崩御すると、尊仁親王が即位(後三条天皇)する。続いて、延久4年12月(1073年1月)に茂子所生の皇子である白河天皇が即位した。翌延久5年(1073年)5月の後三条天皇崩御直前には能信は正一位太政大臣官位を贈られている。白河天皇は能信のことを必ず大夫殿と尊称したとされる。

なお、後三条・白河両天皇による親政とその後の院政の開始は、摂関家による摂関政治を終焉に導く事となった。

人物[編集]

長和4年(1015年)道長五十賀の屏風歌を詠む、あるいは長元3年(1030年章子内親王著袴の後宴和歌の序を書き和歌を詠むなど、若い頃から歌人として多数の足跡が見られる[7]。勅撰歌人として、『後拾遺和歌集』『続後拾遺和歌集』『新千載和歌集』に計3首の和歌作品が入集している[8]。また、漢詩作品が『新撰朗詠集』に採録されている[7]

なお、少数説であるが、道長とその一族の歴史を鋭い視点で描いた『大鏡』の作者を能信とする説もある。尾張兼時に師事していた。

系譜[編集]

尊卑分脈』による。

官歴[編集]

公卿補任』による。

脚注[編集]

  1. ^ 『古事談』第一王道后宮,「伊成出家の事」。『権記』寛弘6年11月29日条,12月1日条
  2. ^ 『小右記』長和2年3月30日条
  3. ^ 『小右記』長和5年5月25日条。『左経記』長和5年5月25日条
  4. ^ 『御堂関白記』長和5年5月26日条
  5. ^ 『小右記』治安2年3月23日条
  6. ^ 今鏡
  7. ^ a b 竹鼻[1984: 521]
  8. ^ 『勅撰作者部類』
  9. ^ 御堂関白記』寛仁2年10月22日条

参考文献[編集]

能信を題材とした作品[編集]