動物の権利

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動物の権利(どうぶつのけんり、アニマル・ライツ: Animal rights)とは、動物には人間から搾取されたり残虐な扱いを受けることなく、それぞれの動物の本性に従って生きる権利があるとする考え方である。

概論[編集]

何故権利が人間だけのものであるか、伝統的には考えられてこなかった。人間であること自体が根拠であった。[1]

動物の権利運動は、ピーター・シンガー1975年に出版した『動物の解放』をきっかけに世界中に広まっていった。シンガーはその著書の中で、動物は苦痛を感じる能力に応じて人間と同様の配慮を受けるべき存在であり、種が異なる事を根拠に差別を容認するのは種差別 (speciesism) にあたるとした。功利主義の立場に立つシンガーは平等な配慮という原則を強調し、権利という言葉は使っていない(厳密には「動物の権利」の立場ではない)。[要出典]

それに対し、義務論的な意味で「動物の権利」という概念を前面に打ち出したのが、トム・レーガン (Tom Regan) が1983年に出版した『The Case for Animal Rights』である[2]

動物の権利運動家の多くは、この運動が性差別人種差別に反対する運動の延長線上にあると考えている。[3]人種差別のみ批判し、種差別を批判しないのは、論理一貫していない。[1]動物の権利を支持する者は、商業畜産や動物実験狩猟等、動物を搾取し苦しめる行為を全面的に廃止するべきだと訴え、人々にヴィーガニズム菜食主義の実践を呼びかけている。[要出典]

動物の権利運動から見た従来の動物愛護や動物の福祉 (Animal Welfare) の考え方は、動物になるべく苦しみを与えるべきではないと言う点では共通するものの、人間による動物からの搾取を否定していない点で、動物の権利の考え方とは根本的に異なると見なされている。[要出典]動物の権利論者からは、動物の福祉は動物への搾取は減りつつあるという間違った印象を与え、市民の道徳的不安を和らげる術を与えるとともに、動物からの搾取を正当化しかねないという批判がある。[4]

現代の代表的な倫理学者で動物の問題について発言している人はほぼ例外なく動物が直接の配慮の対象になるべきだという立場である。[5]

「倫理判断は普遍化可能である」「遺伝的差異自体は差別をする理由にはならない」「動物も人間と同じように苦しむ」「認知能力や契約能力等、動物と人間を区別する道徳的に重要な違いとされている違いは人間同士の間にも存在する(すなわち、限界事例の人たちが存在する)」「限界事例の人たちにも人権があり、危害を加えてはならない」、これらの組み合わせから容易に「動物にも「人権」があり、危害を加えてはならない」という結論が導ける。[5]

権利は法律で定められていなくても道徳的に認められる場合があり、この道徳的権利は法的権利に対し指針を与える。[1]

概念の歴史[編集]

今日の動物の権利に関する議論は、最も初期の哲学者たちまでさかのぼることが可能であろう。紀元前6世紀のギリシアの哲学者であり数学者でもあったピュタゴラスは輪廻転生を信じていたため、動物に敬意を払うように主張した。一方、同じアテナイ人であるアリストテレスは紀元前4世紀の著作の中で、動物は理性を持たないため自身の権利はなく人間の利益のためにだけ存在しているとし、存在の偉大なる連鎖 (Great Chain of Being) --あるいは自然の階梯 (scala naturae) --の中で人間よりもはるか下方に位置すると論じた。

17世紀、フランスの哲学者ルネ・デカルト (1596–1650) は『方法序説』(1637) において、動物は精神を持たず考える事も苦痛を感じる事もないため、動物に対してどんなにひどい扱いをしようが間違いであることはあり得ないと主張した。これに対し同じフランス人のジャン=ジャック・ルソー (1712–1778) は、『人間不平等起源論』 (1754) の序文で次の様に論じた:人間は「知性と自立した意思を欠いた存在」でこそないものの、出発点は動物である。さらには動物は感覚を持つ存在であるため、「自然権を持つものに含まれるべきであり、人間は動物に対して責務を負っている」、とりわけ「無益に虐待されることのない権利を有するものである」

ルソーと同時代には、ジョン・オズワルド英語版 (1730?-1793) がいる。『The Cry of Nature or an Appeal to Mercy and Justice on Behalf of the Persecuted Animals』の中で彼は次の様に論じた:人間は生まれつき慈悲と思いやりの心を備えている。もし自分が食べる動物が死ぬのを見なければならないとしたら、ヴェジタリアンになる人は今よりはるかに増えるだろう。しかしながら分業が発達したために、近代の人間は生まれつきの思いやりの心を起こさせることなく肉を食べられるようになる一方で、残忍な行いに慣れていった。

ドイツの哲学者であるイマニュエル・カント (1724–1804) は、人間が動物に対して責務を負うという考えを否定した。カントは、動物は人格ではなく物であり単なる手段として使ってかまわない。ただし、動物を残虐に扱う習慣は、他の人間に対しても冷酷にふるまう行動につながってしまうため慎むべきであるとした。

18世紀後期、近代功利主義の創始者でイギリスの哲学者、ジェレミ・ベンサム (1748–1832) は動物の苦痛は人間の苦痛と同じくらい確かで類似したものであるとし、「人間以外の動物が専制政治の手によってしか奪うことの出来ない様な権利を手にする日がいつか来ることであろう」と述べた。彼は、理性があるかどうかではなく、苦しむかどうかということこそが、我々が人間以外の存在を扱う際の基準であるべきだと主張し、もし理性的能力が基準となるのであれば、赤ん坊や障害者などを含む多くの人間が物の様に扱われることにならなければならないと論じ以下の有名な一節を残している。

感覚を持つ生き物を同じ悲運に追いやる理由として、脚の本数や、皮膚の毛の密度や、仙骨の末端(尾のあるなし)のどれもが十分な理由とはならないと認められる時代が来るであろう。しかし他に何が超えられない一線となるのだろうか? 理性的な能力、あるいはもしかして議論をする能力だろうか? だが成長した馬や犬などの我々がよく知っている動物は、生後一日か一週間、あるいは一ヶ月の赤ん坊よりもはるかに理性的である。とは言え、もしそうではなかったとしても、そのことに何の意味があるだろう? 問題は、理性があるか、話す事ができるか、ということではなく、苦痛を感じるということである。なぜ法律はいかなる感覚を持つ生き物をも保護の対象としないのだろうか? いつの日か人類社会はその庇護のマントを、呼吸をする存在すべての上にまで広げることになるだろう。『道徳および立法の諸原理序説』(1789年)

19世紀にアルトゥル・ショーペンハウアー (1788-1860) は、動物は理性的能力が欠けているにもかかわらず、人間と同じ本質を有すると述べた。彼は菜食主義を必要以上のものと見なしたが、動物に道徳的配慮がなされるべきだと論じ、動物実験に反対した。彼が著したカントの倫理的価値観に対する評論においては、カントの道徳体系から動物が除外されていることを批判した、長くてしばしば激烈な議論が見られる。その中には以下の有名な一節も含まれる:「太陽を見るすべての目の完全な調和を見ようとしない道徳など呪うべきものである」

イギリスの社会改革者、ヘンリー・ソルト英語版 (1851–1939) が1892年に出版した大きな影響力を持った著書『Animals' Rights: Considered in Relation to Social Progress』の中では動物の権利の概念が主題として扱われている。彼はこの本を出版する前年にスポーツとしての狩猟を禁止することを目的とした、人道主義同盟 (Humanitarian League) を設立している。

ナチス・ドイツにおける新政権が最初に立法化した法律のひとつは動物の権利に関する法律である。しかし、ロベルタ・カレチョフスキー (Roberta Kalechofsky) などの作家はナチスが動物実験の存続を許していたと反論している。カレチョフスキーはナチスの反動物実験法を検証した『The Lancet』の記事を引用し、この法律は動物実験を規制はするものの廃止はしなかった、1875年に制定されたイギリスの法律と何ら変わりはないと結論づけた。

注)当項目は en:Animal rights 16:41, 2 October 2006 の翻訳に基づく。

2013年、西部邁(元東京大学教授)は哺乳類の動物の意識について次のように述べた。

「動植物の命を山ほど食いちらかすばかりか、獣以上に欲動に駆られて生きているくせに、自分の命が大事とは聞いて呆れる」と皮肉を述べたいのではない。「自然によって生かされていると殊勝気にいっているが、“俺を食いな、お前を生かしてやる”と自然は本当にいったのか」と反論したいのでもない。ただ、物言わぬ動物の物言いたげな様子のことを思うと、とくにそれが死を間近にしたものであるとき、我知らず情愛がこみ上げてきて、心を動かされるのである。

[中略]

少なくとも哺乳類の動物は、自分の命が途絶えると直感するとき本能のレヴェルで哀しいと幾許かは感じるのではないか。その可能性を私は否定することができない。いや、本能といってはならないだろう。彼らにとて幾分かの意識があるに違いなく、自分に迫りくる死を僅かにせよ意識するところから哀しみが生じるのではないか。あの犬やあの猫の目は単なる生命力の衰えではなく、自分の衰えをかすかに意識するものの哀しみを漂わせていた、と考えられてならない。

— 西部邁 「死に逝く動物たち」『生と死、その非凡なる平凡』 新潮社、2015年、151-153頁。

現代の運動の歴史[編集]

現代の動物の権利運動の始まりは1970年代初期にさかのぼることができる。この社会運動は哲学者によって生み出され、現在もなお最前線で続いているものとして、珍しい例の一つとなっている。

1970年代初頭、オックスフォード大学の哲学者のグループが、人間以外の動物の道徳的地位は、必然的に人間の道徳的地位に劣るものであるのかどうかを検討しはじめた。このグループの中の一人に、1970年種差別という言葉を作り出した、心理学者リチャード・ライダー (Richard D. Ryder) がいた。彼はこの言葉を、個人的に印刷したパンフレットの中で、ある特定の種(人類)であることを根拠に、自分たちの利益を他の動物の利益に優先させる態度を説明するため、初めて使用した。

ライダーは、ロズリンド&スタンリー・ゴドロヴィッチとジョン・ハリスが編集し、1972年に出版された重要な本、『Animals, Men and Morals: An Inquiry into the Maltreatment of Non-humans』(「動物・人間と道徳、人間以外のものに対する虐待の研究」)の寄稿者となった。現在、プリンストン大学Human Valuesセンターの生命倫理学教授であるピーター・シンガーNew York Review of Books でこの本を批評し、功利主義を土台にして基本的な議論をおしすすめた。その延長としてシンガーにより1975年『動物の解放』が書かれた[6]。この本はしばしば動物の権利運動におけるバイブルとして取り上げられる。

1980年代1990年代になると運動には、神学者法律家医師心理学者精神科医獣医師病理学者、そしてかつて動物実験にたずさわっていた人など多様な学者や専門家の人々も加わるようになっていった。

現在、欧米の大学の哲学応用倫理学の課程で動物の権利が取り上げられることは、普通のこととなった。2011年時点で、アメリカカナダの135のロー・スクールにおいて、動物の権利や保護に関する法律 (animal law) が教えられている。トロント在住の法律家である、クレイトン・ルビー (Clayton Ruby) は、2008年に「動物の権利運動は25年前に同性愛者の権利運動がいた段階にまで到達した」と述べている[7]。アメリカのハーバード大で心理学を教えているスティーブン・ピンカーは「動物の権利の承認は、動物に代わって物申す人間が共感と理性と他の権利革命からの刺激に突き動かされて進めてきた。」と述べている[8]

その他の運動の草分けとなったとされる本には以下のものがあげられる:

  • トム・レーガン『The Case for Animal Rights』 (1983)
  • ジェイムズ・レイチェル『Created from Animals: The Moral Implications of Darwinism』 (1990)
  • ゲイリー・フランシオン『Rain Without Thunder: The Ideology of the Animal Rights Movement』 (1996)
  • スティーヴン・M・ワイズ『Rattling the Cage: Toward Legal Rights for Animals』 (2000)
  • ジュリアン・H・フランクリン『Animal Rights and Moral Philosophy』 (2005)

注)当項目の初期稿は en:Animal rights 00:28, 15 October 2006 より翻訳。

過激派の出現[編集]

1970年代になると動物の権利を侵害している人間・企業に対して非合法な抗議・妨害活動を行う過激派エコテロリスト)が出現した。その攻撃対象は当初狩猟家及び関連産業(毛皮販売店)などであったが、次第にサーカス・動物園、精肉・鮮魚店、農場、屠殺場などへと拡大した。合法的な抗議活動(街頭デモ等)も行われたが、従業員への脅迫などもあった。

1990年代に入ると、活動家たちは動物実験を行う・実験用動物を販売する企業を攻撃対象の中心とした。攻撃対象となった企業は警備を強化するなどの対策をとったが、活動家達は攻撃を行う対象を直接の企業ではなく取引のある企業に対する抗議活動を行う手法を採用した。

狙撃や爆弾の送付により、当事者の殺害が行われることもあった。また、活動には無関係な一般人も巻き込まれるケースもあり、爆弾の設置など先鋭化した運動に関してFBIを始めとする捜査機関ではテロ行為として捜査を行っている(エコファシズムも参照)[9]

動物の権利を支持する人々の間では、非合法な活動を市民的不服従として容認すべきかどうか議論が分かれている。ただし暴力行為までをも容認する人はほとんどおらず、先鋭化した過激派は、動物の権利の支持者からも孤立した状態になっている。

功利主義と権利論[編集]

動物の権利に関する哲学的根拠としては、基本的に二つの考え方がある。ピーター・シンガーに代表される功利主義とトム・レーガンに代表される権利論である。シンガーは一般には現代における動物の権利運動の創始者にして代表的な論者とみなされているが、彼自身は自己の主張において権利という言葉や考え方を使っているわけではない。レーガンらの動物の権利論と、シンガーらの功利主義的アプローチを区別する場合、後者を動物の解放論と呼ぶ場合もある。

シンガーの主張は、最大幸福や平等な配慮という功利主義の原則は動物に対してもあてはまるというものである。人間ではないという理由でそうした原則が適用されないという見解は、「種差別」にあたるとしてしりぞけられる。ある生き物が配慮の対象になる基準は、功利主義者のベンサムが、「問題は、理性があるか、話す事ができるか、ということではなく、苦痛を感じるということである」と述べているように、痛みや苦しみを感じる存在 (sentient being) であるかどうかという点になる。どこまでがそうした配慮の対象となるかについてシンガーは、『動物の解放』の中で (食べるものに関して)「ひとつの境界線にすべての人が賛成するわけではないことは認めよう」と言いつつ「もし線引きをするとすれば、小えびとカキのあいだのどこかで線をひくのが一番妥当であろう」と述べている。

レーガンの権利論はカントによる義務論の延長線上にあるもので、功利主義を含む帰結主義とは哲学上、対立する立場にある。レーガンはカントが唱えた「人格の尊重の義務」という原理を修正し、「人格」に変わって「生の主体 (subject of life)」という概念を打ち出した。カントがいう「人格」である条件は、道徳行為ができることであったが、レーガンは道徳行為ができる者 (moral agents) と道徳行為を受ける者 (moral patients) を分け、配慮の対象となる条件は道徳行為ができるかどうかということではないとした。幼児や極端な精神障害者などは、道徳行為ができる者ではないが、道徳的配慮を受けるべき存在である。同様に動物についても生の主体であれば道徳的配慮を受けるべきであり、権利を持つ存在であるということになる。生の主体となる基準は固有の価値 (inherent value) を持つかによって決まり、レーガンは少なくとも1歳以上の正常な哺乳類であれば条件を満たすであろうと述べているが、権利論そのものから具体的な判断を導きだすのは困難であり、その基準は必ずしも明確なものであるとは言えない。

帰結主義のひとつである功利主義においては、行為の結果が重要視されるのに対し、権利論(義務論)においては結果は問題とならない。動物実験の例で言うと、権利論においては動物が生の主体と認められる限り実験に使用することは(実験の有用性を問題にしないので)一切、認められない。一方、功利主義では動物がこうむる苦痛の総和と、人間が受ける恩恵の総和の比較において、動物実験が正当化される場合がある可能性を否定しない。しかし、現実の動物実験に対しては正当化される条件を満たす場合は極めてまれであるとし、事実上の全廃に近い要請をしている[10]。肉食を廃止すべきであるという点でも、両者はほぼ一致している。動物の権利(解放)論としての功利主義と権利論は、道徳理論という点では大きく異なるが、目指すものという点だけを見れば、大きな違いは見いだせない。

シンガーをはじめとし、R.M.ヘアジョン・ロールズロバート・ノージックゲイリー・フランシオン、ジェームズ・レイチェルズ、マーサ・ヌスバウム、クリスティン・コースガード、ロザリンド・ハートハウス、ネル・ノディングズなど、現代の代表的な倫理学者は理論的方向性は異なるものの、動物が直接の配慮の対象となるべきであるという点では一致している[5]

フランシオンの廃止論[編集]

法律学者のゲイリー・フランシオン (Gary L. Francione) は、動物の権利哲学における廃止論的アプローチ (Abolitionism (animal rights)) のパイオニアであり、動物が人間の「所有物」であるという考え方をやめることによってでしか、動物の利用(毛皮、実験、畜産その他)や虐待はなくならない、と主張する[11]。動物実験や畜産における動物たちの状況を改善するための動物福祉路線の法規制に関しては、動物を利用することに対して口実を与え、現状を長引かさせるだけのものであるとして批判的立場をとり、人間の奴隷制度の例になぞらえて、「囚われている動物の状態を"よくする"動物の福祉の運動では動物の解放はありえない」と主張する。また、個人的なレベルで実行することができるとの理由で、動物を利用することを生活から排除する「倫理的ヴィーガニズム」思想の教育が重要だとする。すなわち、ヴィーガニズムとは動物を商品として扱うことの拒絶であり、それによって動物の固有の価値を認めることが「動物の権利」の実現につながるとの立場である。

フランシオンの廃止論は、権利論に含まれるものとも考えられるが「人間の『所有物』とならないことこそが『動物の権利』である」と、権利の意味を限定したところが、トム・レーガンらの権利論とは異なる。レーガンはこうした廃止論者たちの主張を「彼らが望んでいるのは『今より大きな檻』ではなく『空っぽの檻』である」と表現している。

今いる家畜化された種を根絶させるべきだという考えは、廃止・根絶論的立場の特徴である。[4]

平等の原理[編集]

平等の原理とは、人間と動物を全く同じように扱うべきだと述べているわけではなく、同じだけ個性を尊重すべきという意味であり、人間と動物が同じものを必要とした時に、どちらのニーズも平等に尊重されるべきだというもの。教育の質などに差を出す人種差別は人種間でも同じニーズがあることを認めておらず、平等の原理に反し、性別によって教育や仕事を分ける性差別も女性のニーズを認めておらず、平等の原理に反し、種によって生存欲求や悲しみたくないといったニーズを無視する種差別も平等の原理に反する。[12]

動物の権利と人権[編集]

種差別をしないで人間のみに権利を認めるためには、人間のみに存在する性質を指摘しなければならないが、これは限界事例の問題もあり、種差別を擁護する人間の性質はことごとく動物にも共有されていた。権利の前提は、生存権であり、権利の条件は「心があること」であるという指摘がある。[1]

人権を守るために非暴力的な抗議行動を行ったことで歴史上有名なマハトマ・ガンディーは次のようにのべている。「国家の偉大さや道徳的な進化の度合いはその国が動物をどのように扱っているかで判断できる」、「私の心の内では子羊の命の貴重さは人間の命の貴重さにいささかも劣るものではない」[13]

実際、人々が動物を食べない食事に切り替える理由のひとつは、本来なら他の人たちのために使うことのできる資源を家畜が消費してしまうからというものである。たとえば、まるまると太った牛を育てるために穀物を育てるかわりにその穀物を第三世界の子供たちに送ることができる。[13]また、権利を人間だけに限定しようとすることは、動物と同様に多くの人が権利を剥奪されることにつながるため、人権を弱め不安定にさせるという指摘がある。[14]人と動物を差別するほど移民の方の人間性を奪う傾向があり、種差別をなくしていくことは人間同士の平等を深化させるのに役立つという指摘がある。[14]

環境問題に関する著作を持つロバート・ビディノットは1992年のNortheastern Association of Fish and Wildlife Agenciesでのスピーチにおいて次の様に述べた:「動物の権利を厳格に尊重するなら、野生の捕食動物から人間の利害を守ろうとする行為も禁止される。人間の損害は許容可能なものであるが、動物の受ける損害は許容できるものではない。したがって必然的に、ビーバーは川の流れを変えても良いが人間はそうしてはいけない。蝉は何百マイルもの樹木をなくしても良いが人間にそれは許されない。ピューマは羊や鶏を食べても良いが人間には許されない」[13]

もし救命ボートが転覆して人間の赤ん坊と犬のどちらか一方しか助けられないとしたらどうするかと聞かれて、PETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)のアウトリーチ・コーディネーター、スーザン・リッチは「はっきりとは分からない…赤ん坊を助けるかもしれないし犬の方を助けるかもしれない」と答えた。動物の権利哲学者のトム・レーガンは、たとえ犠牲になる犬の数が何匹であろうが、赤ん坊の方を助けるべきだと述べた。これはカント以来の伝統的な義務論の延長上に権利論を展開した、レーガンの立場を示すものと言える。一方で、廃止論的動物の権利の法律学者ゲイリー・フランシオンは、仮に赤ん坊を助けたとしてその犬の方を置き去りにしたとしても、人間以外の動物の搾取や虐待は正当化されるものではないとした。同様に、動物の権利活動家のラリー・カイザーは「私たちが直面しているのは、そうした緊急事態ではない。私たちは赤ん坊と犬の両方を助けることができる」とし、こうした設問自体が意味のあるものではないと述べている。[13]

救命ボートの問題に対して、ロールズが「正義の情況」と呼んでいるような、一定の情況下でしか正義は適用されないという指摘がある。この状況は、自分の危険をさらさずに互いの権利を尊重するのが可能な時だけ、正義の義務を負うというものである。救命ボートの問題は正義の情況での尊重すべき権利について何も示唆しないというのである。今の社会では正義の情況が成立することがほとんどであり、極限状況を誇張すべきではない。動物が襲ってくる等、正当防衛が成り立つような正義の情況でない状況は、減らすべきである。[14]

人間の尊厳から人権だけを尊重するのは、自画自賛で意味がないという批判がある。人間の尊厳の源泉についてロルフ・ギンタースは、「動物と違ってすべての人間は道義的である」としており、ロバート・シュペーマンは「人間の尊厳は、客観的で公正な正義にまで自分を高められること」としているが、これらの論に対し利己的な人間には尊厳がないことになるという批判がある。ギュンター・パツィヒは「わたしのニーズが実現するのにふさわしいと思うなら、自分と同様のニーズを持つすべての人もそうであると認めることが、理性の原理で定められた定義である。またその際に、わたしの行動はすべての生物に平等でなければならないため、人間だけに制限するのは正当ではない。」と述べた。[12]人間に特権を与える根拠として人格性を持ち出す試みがあるが、大型類人猿、イルカ、ゾウ等が道徳を持っていると主張する者が多くいる上に、限界事例からの議論もある。[14]不可侵な人格の理由を、能力に関わらず単に人であるからとすることが最後の防衛線になっているが、これは種差別そのものであり、動物に関係なく「主体」(主観的な経験)が存在すれば彼らの権利を尊重すべきである、という指摘がある。[14]種であることを権利の根拠にすれば種差別となるため、種差別を避けるためには、個体で判断する、道徳的個体主義を受け入れる必要があるという指摘がある。[1]

道徳的に生きる人にとって、動物に対してだけ不道徳になる理由はないため、やがて種差別は解消されるという指摘がある。[12]一般的に、差別がなぜ悪いのかといえば、合理性がないからである。[1]また、この30年間、種差別を支持する筋の通った理論が生み出せずにいることは、そういった理論はないことを高確率で示しているという指摘がある。[14]

動物の権利とホロコースト[編集]

2003年にPETAは「あなたの皿の上のホロコースト」と題した巡業展示会を行った。この展示では強制収容所におけるユダヤ人のイメージと、殺され虐待される動物たちのイメージを重ね合わせている。この展示ではPETAの会長であるイングリッド・ニューカーク (Ingrid Newkirk) の次のような言葉が紹介されている。「強制収容所では600万人ものユダヤ人が死にました。しかし、今年60億羽のブロイラーが屠殺場で死んでいきます」[13]

アメリカ、ウイスコンシン州の動物の権利運動家の企画「The National Primate Research Exhibition Hall」においては、その企画自体をアウシュビッツのホロコースト記念館になぞらえ、展示の中でホロコーストとの比喩を行っている。2001年には動物の権利のサイトのmeat.org で「ホロコーストの犠牲者たち」と紹介した動物の写真により構成された「動物のホロコースト」と題したセクションを設けた。シアトルの「The Northwest Animal Rights Network」は、ホロコーストの犠牲者の裸の死体が列んでいる写真と一緒に死んだ牛の写真を列べ、中央に大きな鉤十字を配した広告を配布した。[13]

名誉毀損防止同盟 (ADL) は、動物の権利の運動にホロコーストの比喩を使うのは「600万人のユダヤ人の殺害を矮小化するもの」であるとして批判した。PETAの会長、イングリッド・ニューカークはこの運動がある人々を傷つける事になってしまったとして謝罪の意を表明した:「これは決して我々が意図したことではないが、大変申し訳なく思う」と。[13]

ユダヤ人のノーベル賞受賞者アイザック・バシェヴィス・シンガーは「動物にとって、毎日はトレブリンカだ」と述べた。[15]

なお、ナチスによるホロコーストと動物の虐殺を同一視する歴史家やホロコースト研究家には、チャールズ・パターソンがいる[16]

アニマル・ライツ運動に関する出来事[編集]

問題点[編集]

FBIによると、動物解放戦線 (ALF: Animal Liberation Front) 及び地球解放戦線 (ELF: Earth Liberation Front) による暴力行為によるアメリカ合衆国内の被害数及び損害額は、1996年以来600件以上、合計43,000,000ドル以上に上る。

  • AMP (Americans for Medical Progress) ホームページ掲載資料「アニマルライツの暴力」より

これにより、FBIは上記2団体をテロリストと認定し、動物の権利活動家の不法行為を「内なるテロ」と呼んでいる。

日本の近世(明治以降)における動物愛護の流れについて伊勢田哲治は、特に欧米から移入された動物観が日本国内の動物観のバックボーンとなったと指摘している[17]

欧米圏外の研究者の間では、これらを研究を遂行する上での障害であり、「弾力的な運用」として軽視することこそが利に適うことであると主張する向きもある[18][19]。またイスラーム圏においての動物観は、いわゆる西洋の動物愛護思想とは異なることも指摘されている[20]

さらに、西洋において動物を扱う際の責任と虐待に対する否定的な見方は、キリスト教的価値観。すなわち造物主という絶対的存在の下で人間が活動を行っているとの文化的バックボーンによって成立しており、これにはユダヤ人の屠殺行為の蔑視と否定が含まれているとの指摘もある[21]

日本での問題点[編集]

1980年12月、日本の壱岐(長崎県)では「グリーンピース財団」(米国ハワイ)の活動家が、駆除の為に捕獲したイルカを逃がした威力業務妨害で有罪となったが、裁判で活動家は「イルカのほうが、壱岐の漁民よりも、ブリを餌とする権利がある」と主張し、ブリ猟師の生活権よりもイルカの先住権を優先した。前述の通り動物の権利とは動物に人間と同等の権利を訴えるものであり、この事件を取材した川端裕人は漁業者が同意できるかは兎も角、動物の権利擁護の範疇では極めて正論であると評価している[22]。なお、この事件は国際的な注目を集め、以後、日本の捕鯨・イルカ漁批判の端緒になった。

大型類人猿[編集]

大型類人猿オランウータンゴリラチンパンジーボノボ)については、人間に近い精神構造、複雑なコミュニケーション技術や社会構成、そして、人の言語を理解しうる能力があることが証明されてきたという背景などから、特に積極的に権利を与えようという動きが活発化した。

1994年、大型類人猿に対し、具体的な法的権利を保証することを目的とし、霊長類学者、人類学者、倫理学者などから構成される国際組織、グレート・エイプ・プロジェクト (Great Ape Project-GAP) が設立された。

1999年10月7日、ニュージーランドの国会で大型類人猿の法的権利を認める法案が成立した。これにより「その種自身にとって利益がある」と認められない限り、大型類人猿を研究、実験、教育の場で使用することはできなくなった[23]。これは動物の権利が実際に立法化された例であると言える。

闘牛[編集]

スペインでの闘牛は2000年代に入り、動物愛護団体からの強い批判にもさらされ、衰退する傾向にある。2007年8月に国営放送が闘牛の生放送を中止し、2011年にはスペイン全土で闘牛のテレビ中継が終了した。1991年にカナリア諸島で初の「闘牛禁止法」が成立。2010年7月28日にはスペイン本土のカタルーニャ州で本土としては初の闘牛禁止法が成立し、2012年から州内での闘牛が禁止されることになった。これを受けて、州都バルセロナで2011年9月25日に行われた興行がカタルーニャ州では最後の闘牛となった[24]。ただし、カタルーニャでの闘牛禁止の背景には単なる動物愛護だけではなく、独自の文化や言語を持つカタルーニャの地域主義の要素が大きいとの見方もある[25]

化粧品のための動物実験の規制[編集]

欧州連合 (EU) は2004年、化粧品の完成品を使った動物実験を禁止。2009年には原料の動物実験と、動物実験をした商品や原料の輸入、販売も禁止した。

畜産[編集]

海外では畜産に反対するデモが開かれ、日本でもアニマルライツセンターが畜産に反対する運動や主張を行っている。[26]

動物の権利と医療[編集]

動物の権利運動家に対する批判の一つに、動物実験等で動物の犠牲を伴う医療を動物の権利運動家は利用すべきではないというものがある。この批判に対し、肉食や装飾品等とは違い医療には代替がなく、また、健康になって動物実験のいらない医学を推進するためにも、動物の権利運動家が医療を利用するのは矛盾していないという指摘がある。[15]

また、人体実験については、医学的知見は倫理に適った範囲内で進歩するべきであると認識されており、なされるはずだった科学的進歩について、懸念することはい。動物実験も数十年後には、人体実験と同じように認識されるだろう、という指摘がある。これは、人権と動物の権利の不可侵性を示している。[14]

動物の権利と文化[編集]

動物の権利の普遍化は、西洋文化の押しつけではないかという指摘がある。これは、人権、特に女性の権利も、社会的な生活様式や宗教上の理由で国際的な人権規範に調印する段階で多くの国が保留しており、類似性がある。人権をある社会が認めるかどうかは、彼らの多様な道徳的な考えのうちでどれが説得的であるかの判断によって決められ、共有された価値を強制でない合意へと導くことなのであり、動物の権利にもこれがあてはまる。

人間の文化の多くは動物を殺すことを悲劇的だとみなしていることはあらゆる証拠から認められる。多くの地中海文明では生贄以外の肉を消費することはタブーであり、神が生贄を要求したとして罪悪感を減らし、生贄の肉の一部を消費した。この罪の転嫁と軽減の実行は伝統的な狩猟社会で今も実行されている。

往々にして支配階級は、動物や女性、子供への暴力等から守ることを権力の正当化に利用してきた。人間同士の不正義を正当化するために持ち出されたもので、これらの正当化に騙されないようにするためには、動物の権利の普遍性を明確にし、首尾一貫性と透明性を保障することである。

このように、動物の権利の考えはすべての社会にとって道徳的資源からアクセス可能である。[14]

捕鯨[編集]

動物の権利の団体(厳密には動物福祉団体)である国際人道協会 (HSI: Humane Society International) が、日本が南極海近くのオーストラリア領海で毎年続けている、ミンククジラの調査捕鯨について、日本の捕鯨会社による違法な捕鯨であり、禁止するようにオーストラリアの連邦裁判所に訴えていた問題で、2006年7月14日、同裁判所は全員一致で受理した。

ユネスコとの関連性について[編集]

幾つかの大学によると、ユネスコと記銘される1978年の「世界動物権宣言」(「動物の権利の世界宣言」等)について、国際機関の「国際連合教育科学文化機関 (UNESCO)」に該当する文書が無いとしている。

また、別のサイトでは、「1978年10月15日、ユネスコ本部ビル(パリ)に自然保護の活動家たちが集まって「動物権利世界宣言」Déclaration universelle des droits de l'animal を採択した。」と表現されている[27]

これらのことから、「タイトルからしてユネスコの宣言のような印象を与えるが、実際はそうではないようだ」と結論している動物実験関係者らがいるが[28]、青木人志氏の著作[29]によれば、ユネスコに公式に付託され、会議場内で読まれたことに間違いはない。

なお、「世界動物権宣言」の原著は「“The Universal Declaration of Animal Rights – Comments and Intentions” Edited by Georges Chapouthier and Jean-Claude Nouёt Published by Ligue Francaise des Droits de l’Animal, Paris 1998」とされている。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f 田上孝一. 権利の哲学入門. 社会評論社. p. 307. 
  2. ^ Regan, Tom (2004) [1983]. The Case for Animal Rights: Updated with a New Preface (Revised ed.). Richmond: University of California Press. ISBN 9780520243866. 
  3. ^ 京都大学新聞社/Kyoto University Press » 伊勢田哲治 文学研究科准教授 「社会運動としての動物の権利」(2010.07.01)” (日本語). www.kyoto-up.org. 2018年6月24日閲覧。
  4. ^ a b スー・ドナルドソン/ウィル・キムリッカ. 人と動物の政治共同体. 尚学社. p. 111. 
  5. ^ a b c 伊勢田哲治 『動物からの倫理学入門』 名古屋大学出版会、2008年ISBN 9784815805999
  6. ^ *Singer, Peter (1990) [1975]. Animal Liberation (Revised ed.). New York: Random House. ISBN 9780394400969.  (=『動物の解放』 戸田清訳、人文書院、2011年、改訂版。ISBN 9784409030783)
  7. ^ "The new legal hot topic: animal law", The Globe and Mail, July 15, 2008. Archived 2012年1月4日, at the Wayback Machine.
  8. ^ スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』青土社、2015年。ISBN 4791768477
  9. ^ 梅崎義人 『動物保護運動の虚像-その源流と真の狙い』 成山堂書店、1999年5月8日ISBN 9784425980918アメリカでの医学部教授の狙撃による殺害や、爆弾魔ユナボマーと環境保護団体の関与などが書かれる。
  10. ^ シンガーは『動物の解放』の中で、(正当化され得る実験は)「現在動物に対して行われている実験の1%の10分の1以下であろう」と述べている。
  11. ^ Francione, Gary L. (1996). Rain Without Thunder: The Ideology of the Animal Rights Movement. Philadelphia: Temple University Press. ISBN 9781566394611. 
  12. ^ a b c ヘルムート・F・カプラン. 死体の晩餐. 同時代社. 
  13. ^ a b c d e f g Animal rights”. 2006年10月2日閲覧。
  14. ^ a b c d e f g h スー・ドナルドソン/ウィル・キムリッカ. 人と動物の政治共同体. 尚学社. p. 71. 
  15. ^ a b ヘルムート・F・カプラン. 死体の晩餐. 同時代社. 
  16. ^ Patterson, Charles (2002). Eternal Treblinka: Our Treatment of Animals and the Holocaust. New York: Lantern Books. ISBN 9781930051997.  (=『永遠の絶滅収容所-動物虐待とホロコースト』 戸田清訳、緑風出版、2007年ISBN 9784846107062)
  17. ^ 伊勢田哲治. “日本における動物愛護の倫理観”. 名古屋大学情報科学研究科. 2013年5月1日閲覧。
  18. ^ 松田幸久. “動物とヒトとのかかわり-特に医学において動物実験が果たした役割-(1)”. 秋田大学医学部附属動物実験施設. 2013年5月1日閲覧。
  19. ^ 松田幸久. “動物とヒトとのかかわり-特に医学において動物実験が果たした役割-(2)”. 秋田大学医学部附属動物実験施設. 2013年5月1日閲覧。
  20. ^ 中田考. “イスラームと生命倫理”. 同志社大学神学研究科. 2013年5月1日閲覧。
  21. ^ 山内進西村幸次郎森村進. “青木人志『動物の比較法文化-動物保護法の日欧比較』審査報告 (PDF)”. 一橋大学大学院法学研究科. 2005年5月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月1日閲覧。
  22. ^ 「イルカと泳ぎ、イルカを食べる」川端裕人 ISBN 9784480427441、90-91頁
  23. ^ ALIVE海外ニュース (1999年10月). “大型類人猿の法的権利を認める”. ALIVE. 2008年10月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月1日閲覧。
  24. ^ バルセロナで最後の闘牛、来年1月から禁止AFPBB News 2011年9月26日
  25. ^ カタルーニャ自治州、闘牛禁止へ スペイン本土では初AFPBB News 2010年7月29日
  26. ^ “動物はごはんじゃないデモ行進2016レポート” (日本語). 畜産動物のためのサイト:動物はあなたのごはんじゃない. (2016年6月14日). http://www.hopeforanimals.org/event/shutdonwallslughterhouses2016/ 2018年5月25日閲覧。 
  27. ^ Delphyne (2000年12月). “権利宣言”. Delphyne. 2008年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月1日閲覧。
  28. ^ 塩見雅志・伊藤隆・宮下信泉・鳥居 隆三「動物実験における動物の福祉,権利と法規制 (PDF) 」 、『アニテックス』第18巻第2号、研成社、2006年、 46-57頁、 ISSN 09153667
  29. ^ 青木人志「動物の比較法文化」、有斐閣、2002年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

関連資料(論文その他)

  • 世界動物権宣言(1989年)(環境省「諸外国における動物の愛護管理制度の概要」)
    • ここにもユネスコと表記されているが、国際機関のUNESCOと関係あるかは疑問視する立場もある。