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{{by|2010年}}は怪我の再発に悩む矢野に代わり、ホークス時代の同僚であった新加入の[[城島健司]]とバッテリーを組む。シーズン6度目の先発となった[[5月13日]](対日ハム戦)では当季最短1回2/3を4失点で敗戦投手となり、翌日には1軍登録を抹消される。同月26日に再登録・即先発(対西武戦)となってからは、試合間隔の緩やかな交流戦の日程にも助けられて再登録後7度の先発全てで5イニング以上を投げぬいていた(この7戦で3勝2敗)。しかし、その7度目(シーズンとしては13度目)となった[[7月16日]](対ヤクルト戦)で6回3失点の敗戦投手となり、翌日に2度目の抹消となる。同月31日に再々登録され、翌日[[8月1日]](対中日戦)に先発登板した。この8月は、7日(対中日戦、敗戦投手)・15日(対ヤクルト戦、勝敗つかず。翌16日には3度目の抹消)・26日(対広島戦、再登録・即先発ながら敗戦投手)の先発いずれも4イニング程度で降板。勝利を挙げた1日のみ5イニングを超えたとはいえ、4戦とも4失点以上を許す不安定さを見せていた。[[9月1日]](対横浜戦)には6回1失点の好投と、復調の兆しを見せたかに思われた。翌日には終盤戦に向けた万全の調整を期待されてか4度目の抹消となり、同月15日(対横浜戦)に再登録・即先発。ところが1回2/3を7失点の敗戦投手という期待外れで、翌日に5度目の1軍登録を外されたままシーズンを終え、7勝8敗の成績しか残せなかった。 |
{{by|2010年}}は怪我の再発に悩む矢野に代わり、ホークス時代の同僚であった新加入の[[城島健司]]とバッテリーを組む。シーズン6度目の先発となった[[5月13日]](対日ハム戦)では当季最短1回2/3を4失点で敗戦投手となり、翌日には1軍登録を抹消される。同月26日に再登録・即先発(対西武戦)となってからは、試合間隔の緩やかな交流戦の日程にも助けられて再登録後7度の先発全てで5イニング以上を投げぬいていた(この7戦で3勝2敗)。しかし、その7度目(シーズンとしては13度目)となった[[7月16日]](対ヤクルト戦)で6回3失点の敗戦投手となり、翌日に2度目の抹消となる。同月31日に再々登録され、翌日[[8月1日]](対中日戦)に先発登板した。この8月は、7日(対中日戦、敗戦投手)・15日(対ヤクルト戦、勝敗つかず。翌16日には3度目の抹消)・26日(対広島戦、再登録・即先発ながら敗戦投手)の先発いずれも4イニング程度で降板。勝利を挙げた1日のみ5イニングを超えたとはいえ、4戦とも4失点以上を許す不安定さを見せていた。[[9月1日]](対横浜戦)には6回1失点の好投と、復調の兆しを見せたかに思われた。翌日には終盤戦に向けた万全の調整を期待されてか4度目の抹消となり、同月15日(対横浜戦)に再登録・即先発。ところが1回2/3を7失点の敗戦投手という期待外れで、翌日に5度目の1軍登録を外されたままシーズンを終え、7勝8敗の成績しか残せなかった。 |
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== プレースタイル == |
== プレースタイル == |
2012年2月1日 (水) 23:50時点における版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 長崎県長崎市 |
生年月日 | 1968年5月16日(55歳) |
身長 体重 |
184 cm 96 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1990年 ドラフト4位 |
初出場 | 1991年8月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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下柳 剛(しもやなぎ つよし、1968年5月16日 - )は、プロ野球選手(投手)。
経歴
プロ入り前
長崎県長崎市出身。瓊浦高等学校から高校野球の指導者を目指して八幡大学(現:九州国際大学)に進学するも、1年で中退。しばらくは仕事をせずバイクを乗り回す生活を続けていたが、恩師の紹介で社会人野球の新日鐵君津に入社し[1]、1988年にはエースとしてチーム初となる第59回都市対抗野球大会出場に貢献。予選全試合を1人で投げ抜き、試合で完投した後でも平然と200球近くの投げ込みを行なうなど、当時からタフネスぶりを見せていた。なお、瓊浦高校には下柳が作った「下柳マウンド」が存在する。
1990年のドラフト会議で福岡ダイエーホークスから4位指名を受け入団。
ダイエー時代
制球力に難のある速球派投手だったが、根本陸夫監督や権藤博投手コーチは「毎日打撃投手、毎日中継ぎ登板」という過酷な投げ込みで克服させた。
1993年に50試合、1994年には62試合に登板し、連日のように登板する鉄腕ぶりからアイアン・ホークのニックネームがつき、当時の応援歌の歌詞にも取り入れられた。
1995年4月20日未明に愛車を民家の塀に激突させる交通事故を起こして鼻骨骨折などの怪我を負った。この負傷が原因でシーズンを棒に振った上、年俸の1割の推定610万円が罰金として科された。同年オフに武田一浩・松田慎司との交換トレードで、安田秀之と共に日本ハムファイターズに移籍。
日本ハム時代
1997年には216打席連続無三振を続けていたイチローを三振に打ち取って「イチローキラー」と話題になり、1試合に先発した以外は全てリリーフ登板で規定投球回に達した。同年から1999年まで3年連続60試合登板を記録するなど中継ぎ投手として活躍。
2000年以降はチーム事情や本人の希望から先発投手に転向し、2000年8月26日の対ダイエー戦でプロ10年目にして初完封勝利を挙げた[2]。同年オフの契約更改では日本人選手として初めて代理人交渉を行った。
2001年頃から勤続疲労の影響かたびたび故障で戦線離脱し、成績も低迷した。
2003年に山田勝彦・伊達昌司との複数トレードで中村豊と共に阪神タイガースに移籍[3]。
阪神時代
優れた制球力で相手打者を「のらりくらり」とかわす技巧派の投球で10勝を挙げ、リーグ優勝に貢献した。同年オフ、FA宣言。阪神が残留要請を行ったほか、横浜ベイスターズも獲得に名乗りを上げたが、阪神若手投手陣を中心に「残留コール」を受けたこともあって阪神に残留。
2005年、8月25日の対広島東洋カープ戦で通算1000奪三振を達成した。同年は自己最多、黒田博樹と並んでリーグトップの15勝を挙げ、初タイトルとなる最多勝利を獲得。37歳での獲得は若林忠志の36歳を更新するプロ野球史上最年長記録であり、規定投球回未満での獲得は1988年の伊東昭光以来史上2人目だった。
2006年4月5日の対広島戦で通算500試合登板を達成。前年に引き続いて安定した成績を残した。9月24日、後にチームメイトとなる日本ハム時代の後輩である金村曉がトレイ・ヒルマン監督の采配を批判して出場停止となった夜、同じく日本ハムから阪神に移籍した片岡篤史と共に金村へ電話をかけ、「俺はお前にそんな事を教えたか! 目を覚まさせてやる! 今から来い!」と怒鳴り、都内の飲食店に呼び出した。金村は殴られるものと覚悟していたが、二人は「こういう経験がないと大きくなれない。良い勉強と思って前向いてやれ。成長するステップと思って頑張れ」と励ました。詳細は舌禍事件を参照。11月23日には長崎県の「ブランド大使」に任命された。
2007年は先発ローテーション候補の福原忍や安藤優也らが出遅れたこともあって、1リーグ制時代を含めても球団史上2位、2リーグ制になってからは球団史上最年長となる38歳10か月での開幕投手となり、6回2失点で敗戦投手となったものの黒田からチーム初安打を放つなど投打に渡り執念を見せた。7月6日通算100勝目を達成した。最終的には規定投球回数に到達せず防御率も4点台ながら、先発投手陣が崩壊したチームの中で唯一シーズン通して先発ローテーションを守り、チーム最多の10勝を挙げた。オフの11月7日に契約交渉を行ったが決裂し、翌日2度目のFA権行使をする意向を表明、11月13日付で公示された。メジャー数球団からもオファーがあったが、結局2008年1月22日に正式に阪神と契約合意に達し、前回のFA宣言時と同じく阪神に残留した。
2008年8月21日の対広島戦においてプロ野球史上5人目、41歳で15勝を挙げた若林以来球団史上59年ぶりとなる40代での2桁勝利を記録するなど同年もシーズンを通して先発ローテーションを守り、規定投球回に達した投手の中ではリーグ5位、チームトップで自己最高成績となる防御率2.99を記録し、11勝を挙げた。
2009年は6月から8月にかけての自身6連敗に見られるようにシーズン中盤から調子を落とし、8勝8敗と5年連続2桁勝利を逃した。7月20日には怪我から復帰した矢野輝弘と日本プロ野球史上初の40代バッテリーを組んだ[4]。
2010年は怪我の再発に悩む矢野に代わり、ホークス時代の同僚であった新加入の城島健司とバッテリーを組む。シーズン6度目の先発となった5月13日(対日ハム戦)では当季最短1回2/3を4失点で敗戦投手となり、翌日には1軍登録を抹消される。同月26日に再登録・即先発(対西武戦)となってからは、試合間隔の緩やかな交流戦の日程にも助けられて再登録後7度の先発全てで5イニング以上を投げぬいていた(この7戦で3勝2敗)。しかし、その7度目(シーズンとしては13度目)となった7月16日(対ヤクルト戦)で6回3失点の敗戦投手となり、翌日に2度目の抹消となる。同月31日に再々登録され、翌日8月1日(対中日戦)に先発登板した。この8月は、7日(対中日戦、敗戦投手)・15日(対ヤクルト戦、勝敗つかず。翌16日には3度目の抹消)・26日(対広島戦、再登録・即先発ながら敗戦投手)の先発いずれも4イニング程度で降板。勝利を挙げた1日のみ5イニングを超えたとはいえ、4戦とも4失点以上を許す不安定さを見せていた。9月1日(対横浜戦)には6回1失点の好投と、復調の兆しを見せたかに思われた。翌日には終盤戦に向けた万全の調整を期待されてか4度目の抹消となり、同月15日(対横浜戦)に再登録・即先発。ところが1回2/3を7失点の敗戦投手という期待外れで、翌日に5度目の1軍登録を外されたままシーズンを終え、7勝8敗の成績しか残せなかった。
2011年は開幕から先発ローテーションの一角を担うようになったが、6試合に登板し0勝2敗、防御率3.54という不本意な成績で6月7日に登録抹消された。その後はファームで調整を続け、9月2日に再登録されたが登板予定の試合が雨天中止になったためそのまま抹消された。その後も一軍に昇格することは無く、9月23日のウエスタン・リーグ、対オリックス戦(鳴尾浜)が最後の登板となった。この試合には、二軍では異例の1300人の観衆が集まった[5]。チームの若返りの方針により10月9日に戦力外通告を受けた[6]。12月2日、自由契約公示された。
2012年は、東北楽天ゴールデンイーグルスの春季キャンプに参加し、入団テストを受ける[7]。
プレースタイル
若手時代は力で押す速球派投手だったが、阪神移籍後は130 km/h台の速球にスライダー、シュート、フォークボールなどを交えて丹念にコーナーを突き、「のらりくらり投法」とも呼ばれる緩急で打たせて取る技巧派にモデルチェンジした。
阪神移籍後は先発ローテーションへ定着したが完投は滅多になく、6回前後を投げて後はリリーフに託すのがパターン化されているが、最多勝を獲得した2005年のシーズン最終戦で先発した際は、自ら続投を志願して延長10回完投勝利を挙げた。
フィールディングは機敏かつ柔軟でチーム内でもトップクラス[要出典]、クイックモーション、牽制球、一塁へのベースカバーなどの技術は高い。
インタビューなどに対してはシャイだがグラウンドでは激情家で、味方の失策などには怒号を飛ばしたりグラブを叩きつけたりしている(失策した選手には試合後に謝っている)。また、自身が降板した後はリードして降板した場合のみならずノックアウトされた時でもベンチに残り、率先して声を出しナインを鼓舞する姿がよく見られる。
人物
この選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。(2011年11月) |
愛犬家で、東京の自宅ではラガー(黒のラブラドール・レトリーバー)とルビーという名前の犬を飼っている。FA宣言した際、阪神と横浜の間では自分に対する待遇の話はほとんどなく、ラガーの待遇(遠征の際の世話など)条件の出し合いばかりだったため、「契約交渉というよりラガー君争奪戦だった」と、『ジャンクSPORTS』に出演した際に明かした。ラガー以外にも多くの犬を飼っており、ラガーの子どものバド、ミラー、コロナ、ギネス、ヒナノ、レオ、オリオン、チンタオ、ホープといる。飼い犬たちの名前は、ラガーを含め、全てビールの種類や銘柄が名前の由来となっている。
好物は芋焼酎のお湯割りで、特に臭いの強いものが好みだという。[8]。
シャイな性格でヒーローインタビューを受けるのを拒否することが多く、自分が呼ばれそうなのを察知すると、「今日は何もない、お疲れっ!」とだけ記者にコメント[要出典]したり、金本に「ファンの皆さんによろしくお伝え下さい」と伝言を残し、早々とロッカールームに引き揚げてしまうことが多い。それを阻止するため、矢野がベンチ裏で待ち伏せして、無理矢理お立ち台に連れて行ったこともある。本人曰く「人見知りする性格」で「古い友人でも半年位会ってないと、会ったときに何を話していいかわからなくなってしまう」ため、どうしても寡黙になってしまうのだという[9]。
飄々とした淡白な性格で、新人時代の選手名鑑には「思い出」の項目に「あまり嬉しい思い出も悔しい思い出もない」と書いている。
風呂には数日入らなくても平気で、ダイエー時代の同僚だった潔癖症の内山智之とは仲が悪かった。これは「投手の肩は消耗品」が口癖であった権藤コーチから「あいつはいくら放っても壊れないから」ということで毎日のようにロングリリーフをさせられ、家に帰ったら疲れ果てて何もする気がなくなったことが由来である。髭もめったに剃らないが、これは髭を剃るとカミソリ負けを起こすからである[10]。吉井理人はその風貌を「変わった奴っちゃな」とテレビ解説の席で評している。
上述のように下柳が先発する試合は大抵リリーフ投手も登板するため、藤川球児からは「仕事をくれるから」という理由で「社長」と呼ばれている[要出典]。
プロレスラーの高山善廣や総合格闘家の桜庭和志は親友であり、年明けの自主トレでは桜庭らとともに総合格闘技式のトレーニングに励む。かつては兄が所属していた縁で自衛隊でもトレーニングをしていた。また加圧トレーニングの指導資格も所持しており、金本に加圧トレーニングの指導もしている[11]。2003年・2005年の優勝時のビール掛けではオープンフィンガーグローブを装着して藤本敦士ら後輩に腕ひしぎ十字固めを仕掛けていた。2006年12月31日に催された「Fields K-1 Premium2006 Dynamite!!」ではオレンジ色の胴衣を纏ってタイガーマスクを被り、桜庭と共に登場。2人とも右脚から踏み出すというパフォーマンスを見せて試合では桜庭のセコンドに付いた。翌2007年の大晦日も前年同様にタイガーマスクを被って桜庭と共に登場し、セコンドに付いた。
オフには活発にテレビ出演をしている。ひょうきんな一面もあり、飲み会では伊良部秀輝や広澤克実とトリオ漫談をすることもあったという。カラオケも得意としており、金村義明曰く「Mr.Childrenを歌わせたら絶品」。本人も「(カラオケでは)マイクを離さないタイプ」と語っている[9]。
長らく独身であったが、2010年6月4日に一般人の女性と結婚したことを同14日に自身の公式サイト上で発表した[12]。島田紳助によると、島崎和歌子とお見合いをしたことがあったが「島崎が出来上がってしまった」ため破談となったらしい。また2005年正月放送の特番『プロ野球場外乱闘4』に出演した際、「彼女と別れた」と暴露されるなど身辺はにぎやかであった。バレンタインデーに女性ファンからもらうチョコレートの数もチーム1、2を争う。
日本ハム時代からダンカンや松村邦洋らがいる中野猛虎会の会員だった。
背番号「42」は「死に番」として日本人選手には敬遠される場合が多いが、ダンカンによると背番号「24」に対して強いこだわりがあるらしく、阪神移籍時には桧山進次郎が24番を背負っていたため数字を逆にした42にしているという噂もある。ダイエー時代には背番号が24であることから、JR九州が発売していた「二十四茶」のCMにも出演していた。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991 | ダイエー | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 7 | 0.2 | 1 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | 54.00 | 7.50 |
1993 | 50 | 10 | 1 | 0 | 0 | 4 | 8 | 5 | -- | .333 | 423 | 98.0 | 92 | 10 | 55 | 3 | 1 | 69 | 5 | 1 | 49 | 45 | 4.13 | 1.50 | |
1994 | 62 | 1 | 0 | 0 | 0 | 11 | 5 | 4 | -- | .688 | 473 | 105.2 | 111 | 5 | 53 | 0 | 2 | 89 | 7 | 0 | 54 | 53 | 4.51 | 1.55 | |
1995 | 24 | 5 | 1 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | -- | .400 | 202 | 46.2 | 47 | 2 | 18 | 0 | 2 | 26 | 4 | 1 | 24 | 21 | 4.05 | 1.39 | |
1996 | 日本ハム | 23 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 2 | -- | .333 | 181 | 43.0 | 32 | 3 | 20 | 3 | 0 | 39 | 0 | 0 | 19 | 18 | 3.77 | 1.21 |
1997 | 65 | 1 | 0 | 0 | 0 | 9 | 4 | 0 | -- | .692 | 630 | 147.0 | 140 | 13 | 62 | 10 | 6 | 136 | 7 | 0 | 61 | 57 | 3.49 | 1.37 | |
1998 | 66 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 5 | -- | .400 | 400 | 93.2 | 74 | 8 | 47 | 4 | 3 | 71 | 3 | 0 | 37 | 32 | 3.07 | 1.29 | |
1999 | 62 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 6 | -- | .200 | 332 | 77.1 | 62 | 9 | 47 | 2 | 2 | 79 | 4 | 0 | 31 | 31 | 3.61 | 1.41 | |
2000 | 36 | 11 | 3 | 1 | 0 | 8 | 4 | 0 | -- | .667 | 403 | 93.2 | 79 | 11 | 49 | 1 | 2 | 82 | 4 | 0 | 50 | 47 | 4.52 | 1.37 | |
2001 | 21 | 21 | 3 | 1 | 0 | 9 | 8 | 0 | -- | .529 | 529 | 121.0 | 114 | 24 | 50 | 1 | 9 | 89 | 1 | 0 | 73 | 68 | 5.06 | 1.36 | |
2002 | 17 | 9 | 0 | 0 | 0 | 2 | 7 | 0 | -- | .222 | 228 | 51.2 | 49 | 10 | 25 | 0 | 4 | 44 | 2 | 0 | 34 | 33 | 5.75 | 1.43 | |
2003 | 阪神 | 26 | 24 | 3 | 1 | 0 | 10 | 5 | 0 | -- | .667 | 573 | 137.2 | 138 | 20 | 25 | 0 | 7 | 135 | 3 | 1 | 63 | 57 | 3.73 | 1.18 |
2004 | 22 | 21 | 0 | 0 | 0 | 7 | 5 | 0 | -- | .583 | 513 | 116.0 | 143 | 13 | 28 | 0 | 10 | 76 | 1 | 0 | 68 | 66 | 5.12 | 1.47 | |
2005 | 24 | 24 | 1 | 0 | 0 | 15 | 3 | 0 | 0 | .833 | 531 | 132.1 | 125 | 11 | 25 | 1 | 6 | 90 | 0 | 0 | 44 | 44 | 2.99 | 1.13 | |
2006 | 25 | 25 | 1 | 0 | 0 | 12 | 11 | 0 | 0 | .522 | 642 | 150.1 | 154 | 11 | 55 | 1 | 9 | 86 | 3 | 0 | 61 | 53 | 3.17 | 1.39 | |
2007 | 25 | 25 | 0 | 0 | 0 | 10 | 8 | 0 | 0 | .556 | 582 | 129.1 | 145 | 11 | 52 | 4 | 3 | 74 | 5 | 0 | 68 | 59 | 4.11 | 1.52 | |
2008 | 27 | 27 | 1 | 0 | 1 | 11 | 6 | 0 | 0 | .647 | 668 | 162.1 | 154 | 9 | 41 | 1 | 9 | 89 | 2 | 0 | 60 | 54 | 2.99 | 1.20 | |
2009 | 22 | 22 | 1 | 1 | 0 | 8 | 8 | 0 | 0 | .500 | 524 | 119.1 | 127 | 10 | 42 | 1 | 8 | 64 | 2 | 0 | 57 | 48 | 3.62 | 1.42 | |
2010 | 19 | 19 | 0 | 0 | 0 | 7 | 8 | 0 | 0 | .467 | 441 | 100.0 | 110 | 13 | 33 | 3 | 6 | 58 | 3 | 1 | 54 | 48 | 4.32 | 1.43 | |
2011 | 6 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | .000 | 122 | 28.0 | 29 | 1 | 12 | 0 | 1 | 18 | 1 | 0 | 13 | 11 | 3.54 | 1.46 | |
通算:20年 | 623 | 254 | 15 | 4 | 1 | 129 | 104 | 22 | 0 | .554 | 8404 | 1953.2 | 1926 | 194 | 743 | 35 | 90 | 1414 | 57 | 4 | 924 | 849 | 3.91 | 1.37 |
- 2011年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最多勝:1回 (2005年)
表彰
- 月間MVP:2回 (2000年8月、2005年9月)
記録
- 初記録
- 初登板:1991年8月9日、対近鉄バファローズ16回戦(西京極球場)、4回裏に2番手で救援登板、1/3回4失点
- 初奪三振:1993年4月23日、対オリックス・ブルーウェーブ1回戦(グリーンスタジアム神戸)、7回裏にケルビン・トーベから
- 初セーブ:1993年5月1日、対近鉄バファローズ3回戦(藤井寺球場)、7回裏2死に2番手で救援登板・完了、2回1/3を無失点
- 初勝利:1993年5月6日、対オリックス・ブルーウェーブ6回戦(福岡ドーム)、7回表に2番手で救援登板・完了、3回無失点
- 初先発:1993年6月12日、対千葉ロッテマリーンズ10回戦(福岡ドーム)、5回2/3を5失点で敗戦投手
- 初先発勝利:1993年6月22日、対西武ライオンズ10回戦(西武ライオンズ球場)、7回0/3を2失点
- 初完投勝利:1993年9月29日、対日本ハムファイターズ25回戦(東京ドーム)、9回1失点
- 初完封勝利:2000年8月26日、対福岡ダイエーホークス22回戦(東京ドーム)
- 初安打・初打点:2003年4月13日、対読売ジャイアンツ3回戦(東京ドーム)、4回表に上原浩治から
- 節目の記録
- 1000投球回数:2003年9月4日、対広島東洋カープ22回戦(広島市民球場)、5回裏に野村謙二郎から空振り三振で2死目を奪い達成 ※史上294人目
- 1000奪三振:2005年8月25日、対広島東洋カープ16回戦(広島市民球場)、2回裏にマイク・ロマノから ※史上116人目
- 500試合登板:2006年4月4日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、先発登板で6回無失点・勝利投手 ※史上116人目
- 100勝:2007年7月6日、対中日ドラゴンズ7回戦(ナゴヤドーム)、先発登板で6回3安打無失点 ※史上122人目
- 1500投球回数:2007年8月1日、対東京ヤクルトスワローズ13回戦(阪神甲子園球場)、2回表にセス・グライシンガーを投手ゴロに打ち取り達成 ※史上158人目
- 600試合登板:2010年4月4日、対中日ドラゴンズ3回戦(ナゴヤドーム)、先発登板で7回1失点 ※史上35人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:5回 (1994年、1997年、2001年、2005年、2008年)
背番号
- 24 (1991年 - 1995年、1997年 - 2002年)
- 11 (1996年)
- 42 (2003年 - 2011年)
脚注
- ^ 勤務先は協力会社の太平工業だった(かずさ市民応援団会報の記事より)。
- ^ ベースボールマガジン社 『2001 ベースボール・レコード・ブック』102頁 2000年度主要記録集「10年目で初の完封勝利」より
- ^ 同時期に発表された坪井智哉と野口寿浩のトレードとは別。
- ^ 史上初40代バッテリーも惑ってシモた… デイリースポーツ、2009年7月21日。
- ^ “阪神・下柳、最後のマウンドで虎党に別れ”. サンケイスポーツ (2011年9月24日). 2011年10月10日閲覧。
- ^ 戦力外通告:阪神、下柳・桜井ら8選手 毎日新聞、2011年10月9日。
- ^ “下柳が50球でアピール!楽天入団テスト”. デイリースポーツ (2012年2月2日). 2012年2月2日閲覧。
- ^ 週刊ベースボール誌の記事より。
- ^ a b 『ガンバレ日本プロ野球!?』(J SPORTS)2011 - 2012シーズン・第6回
- ^ 下柳が小学校でぶっちゃけトーク
- ^ リハビリ中でも本塁打!金本の陰に意外な“介助人”
- ^ 42歳下柳が20代女性と結婚!!! 日刊スポーツ、2010年6月15日。