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青木正一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
青木 正一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 栃木県足利郡葉鹿町(現:足利市
生年月日 1917年8月10日
没年月日 (2004-09-09) 2004年9月9日(87歳没)
身長
体重
173 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1937年
初出場 1937年3月26日
最終出場 1939年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

青木 正一(あおき しょういち、1917年8月10日 - 2004年9月9日)は、栃木県足利郡葉鹿町(現:足利市)出身[1]プロ野球選手投手)。

来歴・人物

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群馬県立桐生中学校(現:群馬県立桐生高等学校)では、エースで4番として1936年選抜中等学校野球大会で準優勝[1]。チームメイトに阪神タイガースでもチームメイトになる皆川定之がいた。

中学野球での実績から、タイガースは迅速に獲得交渉を進め、甲子園前の6月に翌年の契約を済ませている。当時は桐生監督の稲川東一郎と阪神の早川渉外の間に血縁関係があったことから交渉は円滑に進み、青木の入団の翌年に皆川もタイガースに入団した[2]

阪神では、リリーフの登板が多かったが、1938年秋には開幕投手を務めた。1939年に自己最多の10試合登板、2勝無敗の成績を挙げるも召集され退団[1]

1937年に打倒沢村栄治に燃えるチームのため、加藤信夫と共に1メートル手前からバッティングピッチャーを務めたというエピソードがある。

戦後は、1946年1947年に全桐生の一塁手として都市対抗野球に出場。その後、同チームのコーチ・監督を務めた。

1950年から、高崎理研に所属。1954年には高崎鉄道管理局の補強選手として都市対抗に出場。その後は全足利クラブの監督を務め、晩年は足利市役所に勤務していた[3]

2004年9月9日死去。享年87。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1937 大阪 3000010----1.000265.0606--0500223.602.40
1937秋 3110001----.0006815.01506--1100763.601.40
1938 4100000--------5413.21304--0210642.631.24
1938秋 4221011----.50010022.218010--17001283.181.24
1939 10410020----1.00014635.127212--112011061.531.10
通算:3年 24841042----.66739491.279238--3271137262.551.28

背番号

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  • 28 (1937年 - 1939年)

脚注

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  1. 1 2 3 プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、3ページ
  2. 松木謙治郎『タイガースの生いたち』恒文社、1977年。
  3. 松尾俊治『選抜高校野球優勝物語 1988年度増補改定版』ベースボール・マガジン社、1988年、87頁。

関連項目

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外部リンク

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