西田司
西田 司(にしだ まもる、1928年5月13日 - 2014年5月9日)は、日本の政治家、自由民主党衆議院議員。叙正三位。勲一等旭日大綬章受章。大洲市名誉市民。座右の銘は「人生開拓」。
来歴・人物
愛媛県大洲市長浜町(旧喜多郡長浜町)出身。愛媛県立松山農業学校(現愛媛大学農学部)卒業後、1959年に長浜町議会議長を経て、1963年に県下最年少の町長として長浜町長に就任。以後3期務めた。
1976年、第34回衆議院議員総選挙に高橋英吉の後継者として旧愛媛3区から出馬し初当選。以後当選8回。田中派を経て竹下派→小渕派→橋本派に所属。野中広務の盟友として知られた。1992年の竹下派分裂では同じ中堅議員の村岡兼造・佐藤信二らと共に小渕恵三を支持した。
国土庁政務次官、衆議院地方行政委員長などを経て、1990年12月に第2次海部内閣改造内閣の国土庁長官として初入閣。雲仙普賢岳の噴火災害では3度現地入りし、衆参両院で災害報告演説を行った。大臣の災害報告は伊勢湾台風災害での当時の村上勇建設相以来、32年ぶり。国土庁長官としては史上初であった。1998年7月、小渕内閣の自治大臣兼国家公安委員会委員長に就任したが、翌年の1月、自自連立政権発足に伴い自由党の野田毅に大臣ポストを譲る形で退任。
2000年7月、第2次森内閣で再び自治大臣兼国家公安委員長に就任。2003年のイラク復興支援特別措置法の採決では、記名投票を求めるも当時の小泉純一郎首相に却下された野中、古賀誠らに同調し、投票を棄権して退席した。同年、衆議院比例代表の73歳定年制に従い第43回衆議院議員総選挙に出馬せず、政界を引退した。
愛媛県政では1999年に知事選で現職を破って当選した加戸守行の擁立に中心的役割を果たした。また地域課題として高速道路の南予延伸に取り組んだ。四国がんセンターの移転では当時松山市長だった中村時広と共に国への陳情を行った。
2002年に勲一等旭日大綬章、2005年に県功労賞、2008年に大洲市名誉市民となった。
死去直前の5月7日にはひ孫が誕生して喜ぶなど意識ははっきりしていたという。2014年5月9日午前0時53分、肺炎のために愛媛県大洲市の病院で死去[1]。85歳没。正三位。
2014年7月12日、大洲市主催による「大洲市名誉市民 故西田司氏 大洲市葬」が大洲市民会館で執り行われ、大洲市内外から一般市民や政財界関係者などが多数参列した。
親族
- 父・唯次 - 愛媛県議会議員で、議長も務めた。曾祖父は村長を務めていたという。
- 長男 西田洋一 - 前喜多郡長浜町長(平成の市町村合併により失職)、現愛媛県議会議員。
- 二男 西田弘二 - 株式会社西田興産社長。西田司は同社の大株主である。
当選同期
愛知和男・鳩山邦夫・中村喜四郎・中島衛・池田行彦・堀内光雄・相澤英之・津島雄二・鹿野道彦・塚原俊平・中西啓介・与謝野馨・渡辺秀央・中川秀直・甘利正など
脚注
- ^ 訃報:西田司さん85歳=元自治相・国家公安委員長 毎日新聞 2014年5月9日閲覧
公職 | ||
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先代 上杉光弘 |
自治大臣 第51代 : 1998 - 1999年 |
次代 野田毅 |