白井一幸

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白井 一幸
北海道日本ハムファイターズ コーチ #90
DeNAコーチ時代
(2012年3月20日、横浜スタジアム)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 香川県大川郡志度町(現:さぬき市
生年月日 (1961-06-07) 1961年6月7日(62歳)
身長
体重
177 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 二塁手
プロ入り 1983年 ドラフト1位
初出場 1984年3月31日
最終出場 1996年5月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

白井 一幸(しらい かずゆき、1961年6月7日 - )は、香川県大川郡志度町(現:さぬき市)出身の元プロ野球選手内野手)、プロ野球コーチ野球解説者

来歴・人物

志度東中学・志度商業高校駒澤大学のすべてで主将を務めた。志度商では1979年夏の甲子園県予選準々決勝に進出するが、丸亀商に完封負け。駒大に進学し、東都大学リーグでは1983年に、同期の鍋島博(NTT東京)、1年下の河野博文の両エースを擁し春秋季連続優勝。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で近大を降し優勝、明治神宮野球大会では東海大に敗れ準優勝。リーグ通算73試合出場、270打数89安打打率.330、3本塁打、26打点。首位打者1回(1982年春季)。5季連続5度のベストナインに選ばれた。1982年、1983年には日米大学野球選手権大会日本代表に選出される。

1983年のドラフト日本ハムファイターズから1位指名され入団。即戦力として期待され、1年目の1984年の開幕戦ではパ・リーグ新人選手では唯一の先発出場、初打席初安打の快挙。1年目から93試合に出場したが、当初は代走守備固めでの出場が多かった。また、入団時は右打ちだったが、2年目頃から俊足を活かすため左打ちにも取り組んでいた。

当時、日本プロ野球界ではタブー視されていたウエイトトレーニングをいち早く取り入れ、長打力が増した入団4年目の1987年に全試合出場を果たし、15本塁打、21盗塁の成績を残した。7月8日の対近鉄戦で左右両打席本塁打も記録している(3回に佐々木修、7回に石本貴昭から)。しかし、翌1988年に足を骨折(阪急ダラス・ウィリアムズのラフプレーによる)、1990年に肩を手術。この2年はそれぞれ40試合、20試合の出場にとどまったが1989年に自身最多の38盗塁。1991年には自身最高でリーグ3位の打率.311を記録。また最高出塁率(.428)とカムバック賞を受賞した。好成績とケガによる低迷を繰り返していたため、「1年おきの選手」と揶揄されたりもした。

以後、持病のヒザ痛の悪化や若手の台頭もあって出場機会が減少。1995年の秋季キャンプ中に突然、戦力外通知をされ、再起を賭けてオリックス・ブルーウェーブへ移籍した。翌1996年は13試合の出場に終わり、この年限りで引退したが、この一年で中西太イチローと出会い、学んだものは大きかったという。

1997年から日本ハムの球団職員となり、米大リーグニューヨーク・ヤンキースでのコーチ研修へ。この頃、後に日本ハムの監督となるトレイ・ヒルマンと知り合う。
2000年二軍総合コーチ、2001年に二軍監督を経てヒルマンが一軍監督に就任した2003年からヘッドコーチとなる。2005年7月にはヒルマン監督が実母死去のために一時帰国した際、監督代行を務めた。2006年から内野守備コーチを兼任。

ヒルマン監督とは旧知の仲であり、また英語が話せるため、コーチとして非常に信頼を置かれていた。ヒルマン監督の退団に伴い、球団からファームディレクター就任を要請されていたが固辞、「野球を外から見る事になる」とコメントしていたが、2008年カンザスシティ・ロイヤルズの特別コーチ兼スカウトアドバイザーに就任することが決定し、ロイヤルズの監督となったヒルマンと引き続き仕事を行う一方、国内ではSTVテレビSTVラジオ(2008年より)・北海道テレビ放送(2008年のみ)解説者、日刊スポーツ評論家に就任。2008年いっぱいでロイヤルズの職務を退任し、2009年から2010年は評論、講演活動に専念。
2011年横浜ベイスターズ二軍監督に就任し[1]、駒大の先輩である中畑清が一軍監督に就任した2012年に一軍内野守備走塁コーチに配置転換された。同年に退団[1]
2013年10月28日に日本ハムの内野守備走塁コーチ兼作戦担当に就任した事が発表[2]

自身の経験からメンタルが野球に及ぼす影響や、選手に前向きな気持ちを持たせる指導の大切さを唱えており、自らの指導法にも活かしているほか、自著「メンタルコーチング」も出版している。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1984 日本ハム 93 152 130 18 27 4 0 1 34 9 5 1 14 0 7 0 1 13 4 .208 .254 .262 .516
1985 108 245 200 27 38 4 0 3 51 21 7 1 19 1 24 0 1 32 2 .190 .279 .255 .534
1986 129 491 433 55 100 20 6 6 150 35 15 4 15 2 38 0 3 71 3 .231 .296 .346 .642
1987 130 573 499 77 132 18 1 15 197 63 21 5 30 1 41 0 2 78 6 .265 .322 .395 .717
1988 40 159 120 17 25 2 1 2 35 10 4 4 14 1 23 0 1 19 2 .208 .338 .292 .630
1989 129 504 422 50 102 14 2 5 135 42 38 12 29 5 47 1 1 59 8 .242 .316 .320 .636
1990 20 66 53 11 15 6 2 0 25 7 7 1 5 1 7 0 0 10 0 .283 .361 .472 .833
1991 105 411 328 50 102 14 4 4 136 32 15 15 14 1 64 0 4 37 4 .311 .428 .415 .843
1992 128 495 410 33 88 14 2 4 118 30 11 7 24 2 54 0 5 57 5 .215 .312 .288 .600
1993 130 587 497 67 134 20 2 7 179 54 27 14 17 4 67 0 2 93 4 .270 .356 .360 .716
1994 130 532 436 51 110 14 2 2 134 28 14 9 24 4 68 1 0 58 11 .252 .350 .307 .657
1995 32 80 62 9 15 2 1 0 19 2 4 0 3 1 14 0 0 11 2 .242 .377 .306 .683
1996 オリックス 13 26 25 1 1 1 0 0 2 1 0 0 0 0 1 0 0 3 0 .040 .077 .080 .157
通算:13年 1187 4321 3615 466 889 133 23 49 1215 334 168 73 208 23 455 2 20 541 51 .246 .332 .336 .668
  • 各年度の太字はリーグ最高

通算監督成績

  • 6試合 2勝4敗0分 勝率 .333 (2005年、日本ハム・ヒルマン監督欠場に伴い監督代行)

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1993年9月18日、対近鉄バファローズ24回戦(藤井寺球場)、2番・二塁手で先発出場 ※史上315人目
  • 200犠打:1994年8月7日、対千葉ロッテマリーンズ19回戦(千葉マリンスタジアム)、8回表に服部文夫から ※史上15人目
その他の記録
  • オールスターゲーム出場:2回 (1987年、1991年)
  • 545回守備機会連続無失策:1994年5月11日から9月29日までの記録で、二塁手としてのパ・リーグ記録。

背番号

  • 3 (1984年 - 1995年)
  • 10 (1996年)
  • 90 (2000年 - 2007年、2014年 - )
  • 96 (2011年 - 2012年)

関連情報

著書

出演番組

脚注

  1. ^ 来季のコーチ契約について 横浜DeNAベイスターズ 2012年10月10日
  2. ^ 白井コーチが就任会見日本ハム球団公式サイト2013年10月28日配信

関連項目

外部リンク