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林昌勇

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林 昌勇(イム・チャンヨン)
東京ヤクルトスワローズ #12
ファイル:YS-Lim-Chang-Yong.jpg
2008年6月23日(明治神宮野球場)
基本情報
国籍 大韓民国の旗 韓国
出身地 光州広域市
生年月日 (1976-06-04) 1976年6月4日(48歳)
身長
体重
180 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1995年 地域優先ドラフト
初出場 KBO / 1995年6月18日
NPB / 2008年3月28日
最終出場 KBO / 2007年
年俸 3億6,000万円(2011年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

国際大会
代表チーム 大韓民国の旗大韓民国
五輪 2000年
WBC 2009年
オリンピック
男子 野球
2000 野球
林 昌勇
各種表記
ハングル 임창용
漢字 林 昌勇
発音: イム・チャンヨン
ローマ字 Im Chang-Yong
本人表記: Lim Chang-Yong
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林 昌勇(イム・チャンヨン、1976年6月4日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手投手)。

来歴・人物

韓国時代

光州眞興(ジンフン)高校高校生の時は4番打者で、 光州地域の高校予選では、後でメジャーリーガーとして活躍した徐在応金炳賢から本塁打を打ったことがある。1995年ヘテ・タイガースに入団。ヘテでは中日に移籍した宣銅烈の後を継いで抑えとして起用され、1996年1997年の連覇に貢献。1998年には最優秀救援投手のタイトルを獲得するなど、早くから投手陣の主軸になった。

1998年オフに梁埈赫(ヤン・ジュンヒョク)、黄斗聖、クァク・チェジンとの3対1の交換トレードで三星ライオンズに移籍。移籍1年目の1999年には71試合130イニング以上を投げ、最優秀防御率のタイトルを獲得している。1999年シーズンは、どういう場面でもいざとなればマウンドに呼び出されると言われるほど登板過多気味だった。このため、親会社のサムスン電子製の携帯電話のブランド名でもある「エニ・コール(Any Call)」という別名がついた。

2000年シドニーオリンピックで韓国代表として出場して銅メダルを獲得、兵役で現役服務を免除された。この頃からメジャーのスカウトにも注目されるようになった[要出典]

2001年から3年間は先発に転向。

2002年シーズンには17勝を挙げて韓国シリーズ優勝にも貢献している。このシーズンオフには海外移籍を目論み、ポスティングでの入札を受けたが提示された金額が低く締結しなかった。同年オフ、今度はFA権を行使して日本球界に絞った海外移籍を目指したがこれも失敗し、最後には三星と再契約をした。かねてから海外移籍願望が強い選手だった。2002年オフにはポスティングによるメジャー移籍を要望したものの、入札額が65万ドル[1]であったことに球団側が難色を示し、失敗。2004年には東北楽天ゴールデンイーグルス福岡ソフトバンクホークスに2002年のビデオを送るなどしたものの契約には至らなかった。メジャーとも交渉を行ったものの、これも思ったように進まず、結局三星に2年契約で残留。この際に母親が三星側との契約拒絶とメジャーとの契約を表明するなどして話題になってしまった。2004年はチーム事情で再び抑えに戻された。

翌年から登板過多による疲れの累積で肘を故障、成績が下降線をたどる。この時期は、じん帯故障の他にも球界でも屈指の5億ウォン(約5000万円)の年俸や海外移籍を巡る球団との対立などで、野球に集中できず不本意な成績が続いた。その間、チームは宣銅烈監督の下で呉昇桓(オ・スンファン)が抑えとして定着、強力な投手陣を軸にする投手力のチームに変貌、かつてのような存在感は失われていた。

2005年10月、ついに限界を迎えた右肘にメスを入れることとなった。健康な肘のじん帯の一部を切り取り損傷した肘に移植するトミー・ジョン手術と呼ばれるじん帯再建手術を受けた。そのため、翌2006年シーズンの登板数はわずか1試合のみであった。

日本時代

2007年シーズン終了後、球団に自由契約を要求すると簡単に了承された。2008年東京ヤクルトスワローズと2年契約(3年目以降は球団オプション、推定年俸30万ドル + 出来高、2年目推定50万ドル + 出来高)を結んで入団。背番号は12

キャンプで監督の高田繁は韓国球界での林の実績を認め、スロー調整を認めた。これが功を奏し、オープン戦で150キロの投球を見せ、肘への不安を解消した。シーズン当初セットアッパーの役割を期待されたが、抑えを務める予定だった五十嵐亮太が故障で離脱したため、抑えを務める。五十嵐が復帰し中継ぎの押本健彦松岡健一も安定した投球内容を続け、この年の試合の終盤は五十嵐→松岡→押本→林昌勇というリレーがスワローズの勝利の方程式として確立された。9月4日の対中日戦でシーズン30セーブを記録。日本デビュー初年度に30セーブ以上を挙げたのは、1990年与田剛2000年エディ・ギャラード以来、歴代3人目。しかし、この頃から疲労が蓄積して調子を崩し、9月17日には登録抹消となり、10月まで復帰できなかった。10月8日の対横浜戦で、日韓通算200セーブを達成する。北京オリンピックの出場に前向きだったが、薬物違反が発覚したダニエル・リオスの緊急解雇から、チームの戦力低下を防ぐためにヤクルトは7月に韓国野球委員会に対して五輪出場要請を拒否することを伝えた。

2009年、日本球界での活躍が認められ、第2回ワールド・ベースボール・クラシックに出場し、クローザーを任される。決勝ではイチローに決勝点となる2点適時打を打たれ敗戦投手となったが、準決勝戦までの登板4試合では無失点の好投を見せ、日本戦では2セーブを記録。韓国の決勝進出に大きく貢献した。決勝においてイチローに決勝打を打たれたことについて、韓国では本人がコーチの敬遠のサインを無視し、独断で勝負に挑んだと報道され非難の的になった。真相は韓国投手コーチが監督の敬遠のサインを揉み消し、本人には敬遠の指示は伝わっていなかったことが原因である。しかし日本のテレビ番組から、投手コーチの謝罪のVTRを見せられても「どういう形であれイチローを抑えられなかった自分が悪い」として、コーチを非難しなかった。

シーズン中は前年と同様、前半戦では当時の球団記録となる20試合連続無失点や、神宮球場で160km/hを計測するなどして、好調を持続。韓国メディアからは「佐々木を超える」[2]、「0点台の防御率も可能」[3]などと書き立てられた。しかし、8月に入るとこれまた前年と同様に疲労の蓄積で崩れ始め、9月3日には登録抹消。同月15日には再登録されたものの、オールスター後の防御率は6点弱となった。一方でクライマックスシリーズ進出がかかる10月9日の対阪神戦では先発石川雅規の後を受け8回1死三塁から登板。苦手とする回またぎの登板となったが1回2/3を無失点に抑えチームのCS進出を決めた。クライマックスシリーズでは中日との第1ステージ第1戦に登板し、1点リードの8回1死一・二塁の逆転のピンチを切り抜けクローザーの役割を果たした。

2010年前半戦はチームが貧打で低迷する状況で登板機会がほとんど無く、登板しても調整登板や同点の場面が多くセーブの付かないことが多く、怪我での離脱もあったが、交流戦の終盤辺りから出番が急増し、シーズン終盤でも失速せずにチームのリリーフエースとしてチームを支え、セーブ数と防御率とWHIPは来日以降最高値を記録した。

2008年からの契約がこの年を以って満期となる。その後は本人のメジャー志向や金銭面での折り合いで交渉が難航し、一部スポーツ紙からは退団確実という情報も出ていたが、11月28日にヤクルトと2年契約(選手と球団双方が合意したときのみ3年目まで契約延長ができる相互オプション付き)を結び、ヤクルト残留が決まった。なお、年俸は2年総額で7億5000万円プラス出来高、3年目まで契約延長した場合は総額14億2000万円。(金額は推定)

2011年5月4日の中日戦で、日本での通算100セーブを達成、通算173試合目の登板での記録達成だった[4][5]10月29日クライマックスシリーズでポストシーズン史上初の1球セーブを達成した。

選手としての特徴

母国の韓国では「蛇直球」と呼ばれる「く」の字を思い起こさせる変化をする、平均球速146km/h[6]、最速160km/h[7]のノビのある速球をワインドアップモーションのサイドスローから投げる。変化球は高速スライダーチェンジアップシンカーフォーク[8]があり、まれにスローカーブも投げる。

筋肉が硬くなってしまうことを理由にウエイトトレーニングを極力避け、走り込みで体を作り上げる。50mを5秒7で走る[要出典]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1995 ヘテ 14 2 0 0 -- 0 2 0 0 .000 126 29.1 37 0 5 0 3 16 1 0 19 19 5.83 1.43
1996 49 7 0 0 -- 7 7 0 0 .500 469 114.2 91 8 38 1 6 78 4 0 48 41 3.22 1.12
1997 64 0 0 0 -- 14 8 26 0 .636 526 135.0 93 6 36 7 6 120 1 0 44 35 2.33 0.96
1998 59 0 0 0 -- 8 7 34 0 .533 524 133.2 90 4 30 8 12 141 2 0 35 28 1.89 0.90
1999 三星 71 0 0 0 -- 13 4 38 0 .765 535 138.2 91 10 29 3 7 141 3 0 33 33 2.14 0.87
2000 52 0 0 0 -- 5 4 30 0 .556 345 88.2 58 2 22 2 9 95 3 1 19 15 1.52 0.90
2001 30 29 1 1 -- 14 6 1 0 .700 791 184.2 169 25 62 7 17 136 2 1 88 80 3.90 1.25
2002 36 29 0 0 -- 17 6 2 0 .739 841 204.1 188 24 34 4 24 160 2 0 82 70 3.08 1.09
2003 28 26 1 1 -- 13 3 1 0 .812 618 147.0 141 15 44 1 15 85 1 0 63 58 3.55 1.26
2004 61 0 0 0 -- 2 4 36 0 .333 271 67.0 51 4 22 1 4 67 0 0 19 15 2.01 1.09
2005 29 14 0 0 -- 5 8 0 3 .385 427 91.1 110 11 36 1 15 70 3 1 67 66 6.50 1.60
2006 1 0 0 0 -- 1 0 0 0 1.000 9 2.0 3 0 1 0 0 0 0 0 1 1 4.50 2.00
2007 40 21 0 0 0 5 7 0 3 .417 536 119.1 138 9 44 1 10 62 0 0 68 65 4.90 1.53
2008 ヤクルト 54 0 0 0 0 1 5 33 3 .167 214 51.0 55 6 9 3 2 50 1 0 18 17 3.00 1.25
2009 57 0 0 0 0 5 4 28 5 .556 229 57.0 40 4 19 4 2 52 2 0 15 13 2.05 1.04
2010 53 0 0 0 0 1 2 35 6 .333 214 55.2 32 3 16 1 2 53 1 0 9 9 1.46 0.86
2011 65 0 0 0 0 4 2 32 4 .667 247 62.1 40 2 22 3 3 69 3 0 15 15 2.17 1.00
KBO:13年 534 128 2 2 0 104 66 168 6 .612 6018 1455.2 1260 118 403 36 128 1171 22 3 586 526 3.25 1.14
NPB:4年 229 0 0 0 0 11 13 128 18 .458 904 226.0 167 15 66 11 9 224 7 0 57 54 2.15 1.03
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

KBO
  • 最優秀救援投手:2回(1998、2004年)
  • 最優秀防御率:1回(1999年)

記録

NPB

背番号

  • 37 (1995年 - 1998年、2002年 - 2005年)
  • 39 (1999年 - 2001年)
  • 35 (2006年 - 2007年)
  • 12 (2008年 - )

参考資料

  • ベースボールマガジン社『週刊ベースボール』2008年10月6日号 「本当の自信 林昌勇」35-39ページ

脚注

  1. ^ ベースボールマガジン社『週刊ベースボール』2008年10月6日号 「本当の自信 林昌勇」では50万ドルとなっている。
  2. ^ http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=118915&servcode=600&sectcode=620
  3. ^ http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=118831&servcode=600&sectcode=620
  4. ^ 林昌勇 通算100セーブ「日韓で300セーブを」 スポーツニッポン 2011年5月4日付記事
  5. ^ ヤクルト・林、目標は日韓で300セーブ サンケイスポーツ 2011年5月4日付記事
  6. ^ 『週刊プロ野球データファイル』43号、ベースボール・マガジン社、雑誌27743-2/15、8頁。
  7. ^ 燕の守護神・林昌勇が160キロをマーク!
  8. ^ 2009年7月26日放送サンデースポーツより

関連項目

外部リンク