朝鮮民主主義人民共和国の歴史

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朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 朝鮮の旧石器時代朝鮮語版
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説 檀君朝鮮
古朝鮮 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
高句麗
新羅
南北国
新羅 (統一新羅)
676-892
渤海
698
-926
後三国 新羅 (後期)
892-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
(渤海の遺民)
統一
王朝
高麗 918-1392
遼陽行省
1259-1356

李氏朝鮮 1392-1897
近代 大韓帝国 1897-1910
日本領朝鮮 1910-1945
現代 朝鮮人民共和国 1945
連合軍軍政期 1945-1948
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮
金正日

朝鮮民主主義人民共和国の歴史(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこくのれきし)は、1948年9月9日独立・建国された北朝鮮の歴史である。ソビエト連邦(ソ連)による朝鮮占領期に、国家の基盤が形成された。建国当初は北緯38度線以北の朝鮮を領土としていたが、朝鮮戦争休戦以降は軍事境界線以北の朝鮮を領土としている。

建国直前

第二次世界大戦末期に日本宣戦布告をしたソ連は、朝鮮北東部から朝鮮半島を徐々に制圧して行き、日本の降伏後には、最終的に北緯38度線以北の朝鮮(朝鮮北部)全域に進駐した。朝鮮総督府統治が終焉した時点(1945年8月15日)で、朝鮮には朝鮮人による独自の共産党組織があった。しかしソ連は、東ヨーロッパ衛星国に対して採った方針を踏襲し、第二次世界大戦期をソ連で過ごした朝鮮人共産党員に、好んで権力を与える方針を持っていた。そのため、1946年2月ソ連軍赤軍)は、ソ連に亡命し、そこで朝鮮人共産党員の指導的役割を担っていた金日成を、朝鮮北部の行政機関である北朝鮮臨時人民委員会の委員長に任命した。金日成は、朝鮮の共産主義者の中では少数派に過ぎなかった。しかし、帰国直前にモスクワで行なわれたスターリンとの会談で、ソ連が樹立を考えていた朝鮮の共産党政権の指導者として認定されたと言われている。北朝鮮臨時人民委員会は、同年11月3日の総選挙で朝鮮北部の政府として成立した。1947年2月に「北朝鮮人民会議」が設置されて北朝鮮臨時人民委員会は「北朝鮮人民委員会」に再編成された。金日成はその後、朝鮮共産党北朝鮮分局を結成し、徐々に反対派を追放していった。

建国後

建国当初~1950年代 朝鮮戦争と共産化

朝鮮民主主義人民共和国は、ソ連の朝鮮占領軍が監督する中で、1948年9月9日に独立を宣言した。

建国当初の北朝鮮は、まだ金日成への権力集中が果たされておらず、満洲(中国東北部)でパルチザン闘争を行っていたとされる金日成の満州派の他、朝鮮北部甲山郡を根拠地に満州派と共に東北抗日聯軍を構成し普天堡の戦いを共に戦った縁で当初関係良好・準同盟関係だった甲山派(領袖は甲山工作委員会朝鮮民族解放同盟を結成した朴金喆)、日本統治時代に朝鮮地域内で抵抗運動を続け戦後は南朝鮮労働党を結成していたいわゆる南労党派(領袖は朴憲永)、中国共産党と共闘していたいわゆる延安派、ソ連に渡りソ連国籍をもっているソ連派などの勢力に分かれていた。北朝鮮の韓国侵攻(南進)によって1950年に勃発した朝鮮戦争は、武力統一こそ実現しなかったものの、この際に軍事委員会委員長となった金日成の権力を強化させ、甲山派・延安派・ソ連派と連携協力して最初の政敵とされた南労党派の打倒へと向かわせた。

しかし、1956年のソ連共産党第20回大会におけるスターリン批判個人崇拝も批判の対象となった)は、金日成の個人崇拝を進めようとする北朝鮮にも影響を与え、これ以降、国内の延安派、ソ連派が金日成の批判を強めた。こうした事態に対して金日成は甲山派と共同で、強権的に政敵を逮捕・除名(8月宗派事件)することで乗り切り、1950年代末までにはほぼ当初の政敵派閥を駆逐した(最後に残り、後に対立する甲山派の粛清・駆逐は1967年に行われた)。この間、農業の集団化、産業の国有化が進められ、1956年より「千里馬運動」が始められた。1950年代末までに社会主義経済体制が構築されたといえる。

1960年代 主体思想

1960年代になると、隣国の中華人民共和国(中国)とソ連間で対立が深まった(中ソ対立)。北朝鮮は当初は両国の顔色をうかがったものの、キューバ危機の頃より親中に傾いた。これに対してソ連は経済援助を打ち切る措置をとったことは、北朝鮮経済に深刻な打撃となった。その後、文化大革命の時期より中国との関係が悪化したことで、石油の入手などを図って今度はソ連に接近した。こうした政策をとるなかで、1950年代までの時期と比べ経済援助の受入額が激減し、計画経済の行き詰まりと相まって経済危機が深刻になった。

一方で、1960年代の韓国は、朴正熙による軍事独裁のもとでアメリカ合衆国日本との関係を深め、多額の資本を受け入れながら急速に工業化を進めていた(開発独裁)。そのため、中ソの資金援助を当てにできない状況下で、北朝鮮は一国社会主義体制を形成して韓国に対抗する必要に迫られた。こうした中、1960年代半ばより北朝鮮は「主体思想」を示し、「思想における主体、政治における自主、経済における自立、国防における自衛」の重要性を唱え、民族主義的・個人崇拝的な国家運営へと傾いていった。この頃、韓国に対して強硬策をとり、1968年にはゲリラ部隊にソウル大統領官邸を襲撃させようとする事件(青瓦台襲撃未遂事件)まで起こっている。しかしながら、こうして対立姿勢を打ち出すためには多額の軍事費が必要とされ、民衆には厳しい負担が課されることになった。

1970年代 1972年憲法と金正日の台頭

1972年、北朝鮮は新たな憲法を制定した。この憲法は「社会主義憲法」と称され、「主体思想」が記された。独立時の憲法では首都はソウルとされたが、この憲法では平壌となった。また、新たに朝鮮民主主義人民共和国主席の地位が定められ、これまで首相だった金日成がその地位についた。

この新体制のもとで息子の金正日が思想・技術・文化の「三大革命」を担い、1974年には正式に後継者として指名された。指導原理としては「マルクス・レーニン主義」を継承しつつ北朝鮮の独自性を加えた「主体思想(金日成主義)」が示され、国家の指導原理となっていった。この「主体思想(金日成主義)」の解釈権は金日成・金正日が独占しているため、その権力は理念において絶対的に保障されることになった。また、金一族による世襲支配の方針が明確に示される中でその血統が神格化され、様々な革命神話を通じて一族支配の正統化・絶対化が進められた。

文化面でも、金日成が構想したとされる原作にそった『血の海』『花を売る乙女』が歌劇として上演され、映画に関心のある金正日の指導下でこれらが映画化された。1960年代末より朝鮮中央テレビが開局したこともあり、テレビ・映画などのメディアを利用して民衆の価値観を統一することも可能になった。

1990年代の飢餓

1994年7月8日に金日成が死去し、金正日が後継者となった。ソ連の崩壊により経済的援助がなくなり、非科学的な主体農法によって農業が打撃を受け、自然災害もあって、「苦難の行軍」と言われる大きな経済的危機に直面し、正確な人数は不明だが、飢餓により22万人から350万人が死亡したといわれる。

21世紀

2011年~

金正日が死去したことから、金正恩が後継者になった。

脚注