ハリバット (潜水艦)
艦歴 | |
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発注 | 1940年6月28日[1] |
起工 | 1941年5月16日[2] |
進水 | 1941年12月3日[2] |
就役 | 1942年4月10日[2] |
退役 | 1945年7月18日[3] |
除籍 | 1946年5月8日[3] |
その後 | 1947年1月10日にスクラップとして売却[3] |
性能諸元 | |
排水量 | 水上:1,526トン 水中:2,410トン |
全長 | 311 ft 9 in (95.02 m) |
全幅 | 27 ft 3 in (8.31 m) |
吃水 | 17 ft 0 in (5.2 m) |
機関 | フェアバンクス・モース38D-1/8 10気筒ディーゼルエンジン 4基 エリオット・モーター発電機2基 |
最大速 | 水上:20.25 ノット (37 km/h) 水中:8.75 ノット (16 km/h) |
航続距離 | 11,000カイリ(10ノット時) (18.5 km/h 時に 20,000 km) |
試験深度 | 300 ft (90 m) |
乗員 | 士官6名、兵員54名(平時)[4] |
兵装 | (竣工時)3インチ砲1基、50口径機銃2基、30口径機銃2基[4] (1942年11月)3インチ砲1基、20ミリ機銃1基[5] (1943年6月)4インチ砲1基、20ミリ機銃2基、50口径機銃1基[6] (1944年10月)4インチ砲1基、40ミリ機関砲、20ミリ機銃[7] 21インチ魚雷発射管10基 |
ハリバット (USS Halibut, SS-232) は、アメリカ海軍の潜水艦。ガトー級の一隻。艦名はカレイ目最大種のオヒョウ属2種を中心に、広義にはヒラメ・カラスガレイなど1メートルを超える大型種の通称に由来する。同名のアメリカ軍艦(USS Halibut)としては初代。なお、退役から15年後に2代目ハリバット (SSGN-587)が就役している。
艦歴
ハリバットはニューハンプシャー州ポーツマスのポーツマス海軍造船所で起工する。1941年12月3日にP・T・ブラックバーン夫人によって進水し、艦長フィリップ・H・ロス少佐(アナポリス1927年組)の指揮下1942年4月10日に就役する。ハリバットは6月23日に訓練を終え、6月27日に真珠湾に向けて回航され、パナマ運河、バルボアを経て7月23日に到着した[2]。
第1、第2の哨戒 1942年8月 - 10月
8月9日、ハリバットは最初の哨戒でアリューシャン列島方面に向かった。当時同海域の潜水艦隊の主力は旧式のS級潜水艦であったが[8]、日本軍によるアッツ島およびキスカ島占領で脅威にさらされたので、最新鋭のガトー級潜水艦を初めとする比較的新しい潜水艦が何隻か投入された。そのうちのグロウラー (USS Growler, SS-215) やグラニオン (USS Grunion , SS-216) は華々しい戦果を挙げていた。8月23日明け方、ハリバットはアッツ島北方海域で3,000トン級輸送船を発見するが、先制の砲撃を受けたので潜航する[9]。続いて、アッツ島シチャゴフ港を潜航偵察し、友鶴型水雷艇が停泊しているのを発見[10]。しかし、爆雷攻撃の音を聴取したので、その場を離れる事となった[10]。9月23日、ハリバットは45日間の行動を終えてダッチハーバーに帰投した。
10月2日、ハリバットは2回目の哨戒でアリューシャン方面に向かった。10月11日、ハリバットは北緯53度26分 東経175度35分 / 北緯53.433度 東経175.583度の地点で[11]大型輸送船を発見した。大型輸送船が反転してきたので、艦首発射管から魚雷を1本発射する[12]。その時、輸送船から隠してあった武装、砲と魚雷発射管で反撃された[13]。ハリバットは魚雷をもう1本発射するが命中せず、相手はQシップと思われたため、ハリバットは艦尾発射管から魚雷を2本発射したのち罠にかかるまいと脱出した[13]。10月23日、ハリバットは21日間の行動を終えてダッチハーバーに帰投。真珠湾に回航され、10月31日に到着した[5]。
第3、第4の哨戒 1942年11月 - 1943年3月
11月22日、ハリバットは3回目の哨戒で日本近海に向かった。12月9日未明、ハリバットは北緯40度27分 東経142度11分 / 北緯40.450度 東経142.183度の八戸沖で南下する南航第67船団を発見。追跡の上、翌12月10日未明に輸送船宇洋丸(東洋汽船、6,376トン)に対して魚雷を3本発射し、1本が宇洋丸の一番船倉に命中したものの宇洋丸の損害はこれだけに終わった[14][15][16]。続く二度目の攻撃では魚雷を2本発射し、8,000トン級輸送船に2本とも命中して撃破したと判断された[17]。攻撃後は北海道沿岸部に移動し[18]、12月12日深夜には北緯40度37分 東経142度40分 / 北緯40.617度 東経142.667度の地点で輸送船玉山丸(巴組汽船、1,970トン)を発見し、魚雷を3本発射して全て命中させて撃沈した[19]。12月16日午後にも北緯41度21分 東経141度33分 / 北緯41.350度 東経141.550度の尻屋崎沖で北航第67船団を攻撃して魚雷を3本発射し、輸送船神護丸(栗林商船、4,740トン)に魚雷が1本命中させて撃沈[20]。同じごろにすれ違った南航第75船団に加入の輸送船玄山丸(宮地汽船、5,691トン)にも魚雷が1本命中し、玄山丸は白糠海岸に座礁して果てた[21][注釈 1]。ハリバットは神護丸と玄山丸を別々に攻撃したわけではなかった[17]。12月19日夜には北緯41度50分 東経142度22分 / 北緯41.833度 東経142.367度の地点で3,000トン級輸送船を発見し、魚雷を2本発射したが命中しなかった[22]。12月22日朝にも、北緯41度00分 東経141度36分 / 北緯41.000度 東経141.600度の地点で北航第73船団を発見し、輸送船雪川丸(川崎汽船、4,501トン)に命中して損傷を与えた[23][24]。この哨戒での最後の攻撃は12月30日に行われ、北緯41度51分 東経141度47分 / 北緯41.850度 東経141.783度の地点で3,000トン級輸送船に対して魚雷を3本発射したが、命中しなかった[25]。1943年1月15日、ハリバットは54日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
2月8日、ハリバットは4回目の哨戒でカロリン諸島方面に向かった。この哨戒では、日本本土と最前線であるマーシャル諸島の交通路を断つべく行動した。ハリバットは2月18日にウェーク島を偵察した後[26]、2月20日午前に北緯14度33分 東経155度35分 / 北緯14.550度 東経155.583度のポンペイ島沖で特設運送船新国丸(内外汽船、3,991トン)を発見し、夜まで追跡した後、北緯15度09分 東経159度30分 / 北緯15.150度 東経159.500度の地点で魚雷を4本発射して3本を命中させて撃沈した[27]。続いて3月3日には、北緯10度18分 東経146度42分 / 北緯10.300度 東経146.700度のグアム南方で特設運送船日祐丸(日産汽船、6,817トン)を発見、北緯10度22分 東経145度21分 / 北緯10.367度 東経145.350度の地点で魚雷を4本発射し、2本を命中させて撃破した[28]。ハリバットは浮上して止めを刺そうとしたが、反撃を受けて退散した[29][注釈 2]。3月9日には北緯07度58分 東経134度10分 / 北緯7.967度 東経134.167度の地点で病院船朝日丸(日本郵船、9,326トン)を目撃し[30]、3月12日未明には北緯09度00分 東経133度10分 / 北緯9.000度 東経133.167度のパラオ西水道近海で陸軍部隊を乗せた輸送船団を発見して攻撃し、5本の命中を得て5,000トン級輸送船3隻の撃破と判断したが、護衛の駆逐艦三日月に押さえ込まれた[31][32]。3月30日、ハリバットは50日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
第5の哨戒 1943年6月 - 7月
6月10日、ハリバットは5回目の哨戒でトラック諸島方面に向かった。6月12日にジョンストン島で補給を行い[6]、6月20日ごろにトラック近海に到着する[33]。到着後間もなく、ハリバットは駆逐艦に護衛された輸送船を発見するが、攻撃圏内に入ってこなかった[33]。3日後の6月23日にも輸送船と駆逐艦と遭遇し、相手は爆雷攻撃を行うそぶりなどを見せ、攻撃を行う隙を見せなかった[34]。7月10日夜、ハリバットは北緯10度37分 東経150度45分 / 北緯10.617度 東経150.750度のトラック北方170海里の地点で空母雲鷹と特設巡洋艦愛国丸(大阪商船、10,437トン)、2隻の駆逐艦を発見した[35]。雲鷹と愛国丸は横須賀を7月6日に出撃してトラックに向かっていたもので、雲鷹は九九式艦上爆撃機27機と零戦45機を輸送中であった[36]。ハリバットは魚雷を6本発射し、うち1本ないし3本が愛国丸に命中して損傷を与えた[36][37]。この哨戒ではこれ以外に攻撃機会は訪れなかった。7月16日にはグアムを偵察し、アプラ港内に2隻の大型輸送船が停泊しているのを確認する[38]。7月28日、ハリバットは49日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。艦長がイグナティス・J・ギャランティン少佐(アナポリス1933年組)に代わった[注釈 3]。
第6の哨戒 1943年8月 - 9月
8月20日、ハリバットは6回目の哨戒でシーレイヴン (USS Searaven, SS-196) 、ポンパーノ (USS Pompano, SS-181) とともに日本近海に向かった。8月29日朝、ハリバットは北緯40度03分 東経142度01分 / 北緯40.050度 東経142.017度の野田湾内に時雨型駆逐艦と思われる艦艇に護衛された輸送船を発見し、駆逐艦に対して魚雷を3本ずつ二度発射するが、逆に察知されて爆雷攻撃を受け、ハリバットは深深度潜航で避退[39]。爆雷は43発投下されてハリバットは8時間もの間じっとせざるを得ず、その後浮上したが目標は去った後だった[40]。翌8月30日、ハリバットは北緯41度53分 東経141度10分 / 北緯41.883度 東経141.167度の恵山岬灯台沖で輸送船大文丸(太洋海運、6,581トン)を発見して魚雷を3本発射し、1本を命中させて撃沈[41]。この時も護衛艦から24発の爆雷を投下されたが、ハリバットは機雷が敷設されているこの海域を難なく切り抜けた[42]。9月5日早朝、ハリバットは北緯41度22分 東経141度30分 / 北緯41.367度 東経141.500度の地点で3隻の輸送船団を探知し、魚雷を3本ずつ二度発射したが、輸送船泰来丸(大連汽船、4,273トン)[43]などに向かった魚雷は全て回避された[44][45]。9月6日早朝には北緯42度13分 東経142度00分 / 北緯42.217度 東経142.000度の門別沖で輸送船正元丸(酒井商店、3,362トン)をレーダーで探知し、まず2本を発射して2本とも命中させ、続いてもう2本発射するが命中はしなかったが、正元丸は間もなく沈没[46][47]。艦首発射管に装備してあった魚雷を全て撃ち尽くしたハリバットは、正元丸を撃沈した後南下する[48]。同日20時26分ごろ、ハリバットは北緯41度40分 東経142度20分 / 北緯41.667度 東経142.333度の地点でレーダーにより高速で航行する目標を探知。ハリバットは相手を駆逐艦であると判断しつつ攻撃。艦尾発射管から魚雷4本を発射し、1本が命中したのは確認できたが、別段変化はなかった[49][50]。この相手は大湊から幌筵島に向かっていた重巡洋艦那智であり、魚雷は那智の後部煙突直下と舵付近の艦尾に命中したものの2本とも不発に終わり、船体がへこんだことと若干の浸水が生じたこと以外は何もなかったが、爆発していれば航行不能の可能性もあった[51][注釈 4]。この時点で、残りの魚雷がたった1本になったので[52]、ハリバットは哨戒を切り上げて帰る事とした。帰途の9月8日には北緯40度51分 東経145度38分 / 北緯40.850度 東経145.633度の地点で150トン級サンパンを破壊した[53]。9月16日、ハリバットは28日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
哨戒の合間の修理中の10月5日から8日にかけて、ハリバットはカホオラウェ島近海で魚雷に関する試験に従事した以前から不発や真っ直ぐに走らない魚雷に対する不満が潜水艦艦長から挙がっており、起爆装置などを改良することとなった。ハリバットには改良された魚雷が搭載され実験を実施。その結果は、従来のものより3倍も成績が向上していた。しかし、この試験の最終日にハリバットは潜望鏡深度で護衛駆逐艦と衝突し、潜望鏡を破損した[54]。
第7の哨戒 1943年10月 - 11月
10月10日、ハリバットは7回目の哨戒で日本近海に向かった。10月14日にミッドウェー島に立ち寄った際、SJレーダーに故障があったので修理し、その後出撃[54]。10月25日に沖の島沖の豊後水道に到着後[55]、10月29日朝、ハリバットは北緯32度00分 東経132度40分 / 北緯32.000度 東経132.667度の地点で輸送船と護衛艦を発見し追跡したが、逆に発見されて潜航して避退し、ハリバットは第34号駆潜艇から15発の爆雷を投下された[56][57]。しばらくしてから浮上してみると、目標はどこかに去っていた。2日後の10月31日午後、北緯32度10分 東経132度46分 / 北緯32.167度 東経132.767度の地点で見張り員が数条の煙を発見した[58]。ハリバットはこの煙を追跡し、11月1日になって潜航し観測を続けると、相手は7隻の輸送船と3隻の鴻型水雷艇と考えられた。この船団佐伯を出港してパラオに向かっていたオ112船団であり、12隻の輸送船で構成されていた[59]。11月1日朝、ハリバットは北緯31度23分 東経134度31分 / 北緯31.383度 東経134.517度の地点で7,600トン級輸送船と3,500トン級輸送船に対して魚雷を3本発射し、後者に魚雷が1本命中した事を報告したが[60]、特設運送船千早丸(拿捕船、元オランダ船チサロア、7,087トン)は船尾方向に魚雷を1本回避して、他に自爆らしい振動を2つ観測した[61]。午後には一旦オ112船団との接触が途切れるが、夜に入り再び接触を得る[62]。11月1日夜から11月2日明け方までハリバットが接触を保っていた間に、オ112船団はトリガー (USS Trigger, SS-237) とシーホース (USS Seahorse, SS-304) に攻め立てられて、千早丸を含む4隻が沈没していた[63]。ハリバットはトリガーとシーホースの攻撃が終わった後の11月2日8時41分頃に北緯28度16分 東経134度48分 / 北緯28.267度 東経134.800度の地点で陸軍輸送船愛媛丸(山下汽船、4,654トン)と2隻の小型輸送船に向けて魚雷を3本発射し、うち2本を命中させ愛媛丸を轟沈させた[63][64]。ハリバットはなおもオ112船団に食いつき、愛媛丸他2隻への攻撃から間を置かずに、別の3つの目標に対して魚雷を3本発射したが命中しなかった[65]。夜に入って北緯28度01分 東経133度53分 / 北緯28.017度 東経133.883度の地点でオ112船団から脱落したと思しき小型輸送船と護衛艦に対して魚雷を3本発射したが、これも命中しなかった[66]。11月3日朝にも、北緯27度30分 東経133度52分 / 北緯27.500度 東経133.867度の地点で2隻の小型輸送船と護衛艦に対して魚雷を3本発射したが、これまた命中しなかった[67]。11月5日早朝、ハリバットは司令部からのウルトラ情報に基づき、北緯32度06分 東経133度29分 / 北緯32.100度 東経133.483度[58]の豊後水道で艦隊(丁三号輸送部隊)を迎え撃った。ハリバットはレーダーで観測しつつ、北緯32度19分 東経132度58分 / 北緯32.317度 東経132.967度の地点で「長門型戦艦」と「翔鶴型航空母艦」に向けて魚雷を艦首から6本、艦尾から2本の計8本発射[68]。魚雷は空母隼鷹の艦尾に一本命中し、隼鷹は操舵不能に陥った[69]。残りの魚雷は後ろを航行していた戦艦山城をかすめ去った[70]。隼鷹は山城や重巡洋艦利根の曳航により、なんとか呉にたどり着くことができた。ハリバットは13発の爆雷を投下されたが逃げ切った[71]。11月17日、ハリバットは37日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
第8の哨戒 1943年12月 - 1944年2月
12月14日、ハリバットはハダック (USS Haddock, SS-231) 、タリビー (USS Tullibee, SS-284) とウルフパックを構成しマリアナ諸島方面に向かった。12月31日に北緯20度09分 東経143度52分 / 北緯20.150度 東経143.867度の地点で病院船高砂丸(大阪商船、9,347トン)を確認した後[72]、1944年1月2日には北緯21度26分 東経145度21分 / 北緯21.433度 東経145.350度の地点で日本潜水艦、1月7日には北緯20度13分 東経147度10分 / 北緯20.217度 東経147.167度の地点で2隻の高雄型重巡洋艦と護衛の駆逐艦2隻を発見し、1月11日には北緯11度36分 東経145度09分 / 北緯11.600度 東経145.150度の地点で、トラックから日本本土へ向かう戦艦大和と護衛の駆逐艦の藤波および朝雲[73]をそれぞれ発見したが、いずれも追いつけなかった[74]。大和発見時には、自艦が追いつけないので他の潜水艦に迎撃してもらうよう司令部に通報した[73]。1月14日午後、ハリバットは北緯05度28分 東経142度39分 / 北緯5.467度 東経142.650度の地点で単独で航行中の駆逐艦に対して魚雷を4本発射するが、命中しなかった[75]。グアムアプラ港を偵察していた1月19日[76]、僚艦ハダックが空母雲鷹と瑞鳳を発見し、雲鷹に魚雷を2本命中させて撃破。雲鷹は微速航行でサイパン島に向かい、同地で応急修理が行われる事になったが、環礁に囲まれたタナパグ湾には入れず修理作業は環礁外で行われた[77]。ハリバットがタナパグ湾外に現れたのは、1月21日のことであったが、香取型練習巡洋艦と思しき大型艦と駆逐艦、2隻の輸送船しか見なかった[78]。ところが、2日後の1月23日にタナパグ湾を再び偵察したところ、雲鷹の姿を見ることが出来た[79]。しかし、上空に航空機の警戒が厳しく、また爆雷攻撃の音も聴取されたため攻撃する機会がなかった[80]。結局この哨戒では戦果はなかった。2月2日、ハリバットは50日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投[81]。次回の哨戒に備えて係留中、嵐によりバラストタンクを損傷し、真珠湾で修理した[82]。
第9の哨戒 1944年3月 - 5月
3月21日、ハリバットは9回目の哨戒で南西諸島方面へ向かった。4月12日未明、ハリバットは北緯28度08分 東経128度57分 / 北緯28.133度 東経128.950度の奄美大島と徳之島を結ぶ海域で護衛艦3隻と貨客船および輸送船からなる、鹿児島から那覇に向かっていた鹿004船団を発見した。ハリバットは魚雷を3本発射し、やがて閃光が望見された[83]。魚雷は貨客船台中丸(大阪商船、3,213トン)に命中してこれを撃沈した[84][85]。3隻の護衛艦が18発の爆雷を投下し、気泡の噴出を見て「撃沈確実」と判断したが、実際にはハリバットに被害はなかった[84]。4月27日未明には、沖縄島北北東の海域で門司に向かっていた沖609船団を発見し、3時に至り北緯27度03分 東経128度06分 / 北緯27.050度 東経128.100度の伊平屋島東沖で2つの目標に対して魚雷を3本ずつ計6本発射し、やがて魚雷命中の閃光が見えた[86]。最初の攻撃を受け、敷設艇鴎は反撃の爆雷攻撃を開始する[87]。約1時間後、船団から遅れていた輸送船玄武丸(日本郵船、1,872トン)に対して魚雷を3本発射し、うち2本命中させて撃沈した[88]。9時過ぎには三度目の攻撃で魚雷を4本発射し、うち2本が鴎に命中して鴎を撃沈した[87][89]。やがて航空機が飛来し、潜航中のハリバットを攻撃してきたので、ハリバットは深深度に避退していった。航空機と2隻の護衛艦から実に90発もの爆雷を投下されたものの、ハリバットはその場を難なく立ち去った。4月29日夕刻には久米島沖に浮上して、久米島の陸上施設に対し4インチ砲による艦砲射撃を行い、倉庫や建物を破壊した[90][91]。5月3日午後には、北緯27度30分 東経128度45分 / 北緯27.500度 東経128.750度の地点で「18隻の貨物サンパンの艦隊」[92]、実際には南方行きの機帆船団[93]に遭遇。2隻の250トン級のサンパンを炎上させたり破壊したが、攻撃中にハリバットの乗組員3名が負傷した[94]。この攻撃により機帆船第五昇運丸が沈没した[93]。5月11日にミッドウェー島に寄港し、負傷者はオークランドの海軍病院に搬送されていった。5月15日、ハリバットは58日間の行動を終えて真珠湾に帰投。サンフランシスコに回航され、ベスレヘム・スチールでオーバーホールに入った[7]。オーバーホールが終わったハリバットは9月20日に真珠湾に戻り、マーク18型電池魚雷を搭載した。
第10の哨戒 1944年10月 - 11月
10月8日、ハリバットはハダック、ツナ (USS Tuna, SS-203) とウルフパックを構成しルソン島東方海面に向かった。この哨戒では艦船攻撃のほかに、第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)のパイロット救助の任務も与えられた。10月19日にサイパン島に立ち寄った後、2日後の10月21日に発ち、担当海域に急行した。レイテ沖海戦は10月20日から始まっており、3隻は10月25日になって担当海域に到着した。司令部から指示された配備点に関しては、北緯20度30分 東経125度30分 / 北緯20.500度 東経125.500度から東経129度までの線上であり、ハリバット以下、この海域に配備された各潜水艦は15海里から20海里の間隔で配備するよう指示されていたが、この時点では3隻とも小沢治三郎中将率いる機動部隊を確認できなかった[95]。ハリバットは浮上して哨戒していたが、夕方17時になり搭乗員同士の交信を多数受信した。この頃、小沢中将の機動部隊は最後の航空攻撃を受けており、主目標は退却しつつある伊勢型航空戦艦あるいは扶桑型戦艦と目される戦艦を中心とする残存艦だった。そして、それらの残党連中は思いがけず、ハリバットがいる海域に向かいつつあった。
17時42分、ブリッジで自ら見張っていたギャランティン艦長は、戦艦のマストのようなものを発見[96][97]。ハダックとツナにこのことを報告した後17時45分に潜望鏡深度に潜航した。ギャランティン艦長は伊勢型あるいは扶桑型を目標に観測を続けた。しかし、どうしても距離が縮められず、目標までの距離は最低でも3,000メートルぐらいあると思われた。18時43分、ハリバットは少し距離が遠かったが伊勢型あるいは扶桑型に向けて魚雷を6本発射した[97][98]。周囲には駆逐艦が何隻かいたが、それらに対する艦尾発射管からの攻撃は行われなかった。やがて5つの命中音を聴取し、3分後に観測してみると、転覆した艦艇の残骸と思しき物以外は発見できなかった。周囲の艦隊はどこかに消えていた。その後ウルフパックは、残党をレーダーで追跡した後、ルソン海峡の西側に向かった。
戦後、JANACによって「ハリバットはこの時、防空駆逐艦秋月を撃沈した」と認定された。アメリカ側資料やそれに準拠した書物には、これに基づいて「ハリバットが秋月を撃沈した」という記述を記すようになった[注釈 5]。しかし、第38任務部隊機の空襲により沈没した秋月の沈没時刻は朝の8時57分であり[99][100]、その時刻にハリバットは何らアクションを起こしていない[95]。ギャランティン艦長自身は、最初は「戦艦を撃沈した」と報告し[101]、後に相手はおそらく初月であろうとした。ハリバットが実際に雷撃目標としたのは伊勢、日向のどちらなのか、特定はされていない。また日本側、特に伊勢および日向の第四航空戦隊(松田千秋少将)ではこの雷撃に気づいた様子はない[102]。11月9日、ハリバットは病院船氷川丸(日本郵船、11,622トン)を目撃した[103]。11月13日になると、航空機の哨戒が厳しくなっていることが感じられた。
11月14日正午ごろ、ハリバットは北緯21度02分 東経121度36分 / 北緯21.033度 東経121.600度のルソン海峡で、北向きの針路をとる護衛艦と4隻の大型輸送船からなる輸送船団を発見[104]。ハリバットは潜航し、北緯20度56分 東経121度33分 / 北緯20.933度 東経121.550度の地点で[105]、目標に向けて距離2,800メートルで魚雷を4本発射した[106]。2つの命中音を聴取の後[107]、ハリバットが反撃を避けるため深深度潜航に移りつつあったその時、磁気探知機を搭載しルソン海峡の哨戒に当たっていた第九〇一海軍航空隊の陸上攻撃機1機が潜水艦を探知し、爆撃を行った[108]。5回の爆発に続いて不快な騒音を聞いた。続いて2隻の護衛艦からの反響音を探知し、それから間もなく至近距離で爆雷の爆発が起こり、ハリバットは水深99メートルの位置に吹き飛ばされた[106]。攻撃はなお収まらず、ハリバットは攻撃を受け続けた結果、浮力タンクが損傷し安全深度を超える130メートルの位置にまで沈下した[106]。安全深度を超えていたので船体のあちこちに異常が出始めていた。船体そのものが大幅に歪み、前部発射管室とメインタンクには重大なダメージが生じ、蓄電池も亀裂が走りおびただしい硫酸が流れ出ていた[108]。さらに、船体のダメージは航行上の重要区画にも影響を及ぼし、推進器軸は船体の歪みで絶えずきしみ音を出す始末であった[108]。音響兵器や水測兵器も全部破壊し、辛うじて艦の心臓部たるメインエンジンと機関、舵だけが無事という有様であった[108]。16時45分頃には攻撃が終わり、ハリバットはゆっくりと水深91メートルの位置に浮上し、次いで19時10分、ハリバットは浮上[109]。浮上してから調査した結果、普通では壊れない備砲の尾栓が破壊されていた[110]。レーダーは修理されたが、他の主要部分や外殻のダメージは応急修理すらままならないほど大きく、ハリバットは首の皮一枚繋がっている感じだった。ハリバットに致命的な損害を与えた相手の艦は判明していない[注釈 6]。
21時30分、ハリバットは隣の哨戒海域にいたピンタド (USS Pintado, SS-387) 、ジャラオ (USS Jallao, SS-368) およびアトゥル (USS Atule, SS-403) のウルフパックに助けを求めた[109][111]。ピンタドは損傷著しいハリバットに代わって損害の程度を司令部に打電。その結果、ピンタドが哨戒を中止してハリバットをサイパン島まで護衛することになった[112]。11月17日に確認のために、生涯最後となる潜航を30分弱にわたって実施[113]。11月19日、ハリバットは49日間の行動を終えてサイパン島に帰投した。
その後
ハリバットは真珠湾に向かい、12月1日に到着[114]。真珠湾での調査で、ハリバットの損傷は想像以上に大きすぎて、本格的な修理は断念すると結論付けられた[110]。万が一修理をしても、もはや戦争の行方は明らかだった。ハリバットはニューロンドンで練習艦となることが内定し、12月5日に出港。12月12日にサンフランシスコに到着した後、1945年2月16日にポーツマス海軍造船所に到着した。ハリバットは1945年7月18日に退役し、1947年1月10日にニュージャージー州カムデンのクエーカー・シップヤード・アンド・マシーナリー社へスクラップとして23,123ドルの値で売却された。
ハリバットは第二次世界大戦の戦功で7個の従軍星章を受章した。戦闘哨戒は第3回から第7回、第9回と第10回での戦果が記録された。
ハリバットのバトル・フラッグは、乗組員の写真やその他の記念品と共に、真珠湾のアリゾナ記念館に隣り合うボーフィン潜水艦博物館に展示されている。
脚注
注釈
- ^ 玄山丸はこの後、1943年1月19日にポラック (USS Pollack, SS-180) の、2月25日にパーミット (USS Permit, SS-178) の雷撃を受けている。
- ^ 日祐丸は1944年6月12日にグアムで第58任務部隊機の空襲により沈没(“The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II Chapter VI: 1944” (英語). HyperWar. 2012年2月4日閲覧。)。#Roscoep.539 では撃沈扱いとしてカウントされている。
- ^ ギャランティン艦長は第二次世界大戦時のアメリカ海軍潜水艦長の中で海軍大将に昇進した3人のうちの1人であり、他はガンネル (USS Gunnel, SS-253) やデンテューダ (USS Dentuda, SS-335) の艦長を務めたジョン・S・マケイン・ジュニア(アナポリス1931年組)、ピンタド (USS Pintado, SS-387) の艦長を務めたバーナード・A・クラーレイ(アナポリス1934年組)の2人がいる(#Blairp.890)。
- ^ 艦艇研究家の田村俊夫は、「艦船被害記録」等の記述から「「那智」が攻撃された位置はどの資料でも北緯四〇度七分、東経一四二度二〇分とされているが(中略)仮にこれが北緯四一度で北方に一度違っていれば何とかつじつまが合うのだが…」と記しているが(#田村pp.97-98)、#大警1809p.31 および#SS-232, USS HALIBUTp.142,145 での緯度は、ともに北緯41度40分である。
- ^ #Roscoep.398ページ、#Blairp.761 など
- ^ #木俣敵潜1989p.153 では第6号海防艦と第3号海防艦を候補としてあげているが、後者に関しては鞍埼の項および#第三号海防艦を参照。前者は11月3日に「タマ31C 船団、護衛バタン島に向」かって以降の行動が不明で(#海防艦戦記p.707)、#一護1911pp.24-26 も第6号海防艦の行動記録が収められていない。第一海上護衛隊の記録では、11月14日に対潜攻撃を行った艦艇はモマ07船団を護衛中の第54号海防艦で、攻撃地点は北緯30度56分 東経122度50分 / 北緯30.933度 東経122.833度である(#一護1911p.48,54)。
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