愛国丸 (特設巡洋艦)

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愛国丸
愛国丸1942年
1942年、シンガポール・セレター軍港での愛国丸
艦歴
艦種 特設巡洋艦
艦級 報国丸級
発注 1937年5月17日[1]
起工 1938年(玉造船所
進水 1940年4月25日[2]
就役 1941年9月5日(海軍籍に編入時。竣工は1941年8月31日)[3]
主な所属 第二十四戦隊/呉鎮守府[3]
最後の軍役 1944年2月17日
除籍 1944年3月31日[3]
性能諸元
排水量 不明(10,437総トン)
全長 160.8m
全幅 20.2m
吃水 8.8m
機関 三井B&Wディーゼル2基 13,000馬力(2軸)
最大速度 20.9ノット[2]
航続距離 不明
乗員 不明/133名(固有船員)[2]
装甲 なし
兵装 15cm砲8門(後に14cm50口径砲8門に換装)、13mm対空機銃連装2基4門(後に25mm連装機銃2基を増備)、53cm魚雷発射管連装2基4門
航空兵力 水上機2機(1機は補用)
潜水艦用補給物資を搭載可能、船主は大阪商船、1943年10月1日以降は特設運送船
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愛国丸(あいこくまる)は大阪商船が南アフリカ航路へ投入するために建造した貨客船の内の1船。日本海軍に徴用され、太平洋戦争では特設巡洋艦としてインド洋を中心に通商破壊を行った。のちに特設運送船に転じたが、1944年(昭和19年)2月17日のトラック島空襲で沈没した。

艦歴[編集]

公試運転中の愛国丸。コントラストの低い画像で分かりにくいが、船体は所謂軍艦色で塗装されている

大阪商船が南アフリカ航路へ投入する初めての新造船として計画、建造された報国丸に続いて建造される。優秀船舶建造助成施設による建造費補助の対象とされた。折からの物資難の時代にもかかわらず、「京都」と命名されたスイートルームなど最高の旅客設備が設けられた[4]。しかし、報国丸とは違って一度も商業航海に就くことなく、竣工の翌日である1941年(昭和16年)9月1日に日本海軍に徴用された[4]。公試運転時、船体は徴用を念頭に所謂グレー系統の軍艦色で塗装されていたが、上部構造と船体には平時塗装と同様の白塗装と白線、煙突も黒と白の平時塗装が施され、この塗装について野間恒は「薄幸の娘に施した餞の化粧」という表現を使っている[5]。9月5日から10月15日にかけて、特設巡洋艦としての艤装が行われた[3]

南太平洋での通商破壊[編集]

10月15日付で報国丸とともに連合艦隊隷下に第二十四戦隊を新たに編成し[6]武田盛治少将(海軍兵学校38期[7])が司令官となった。11月15日夕方、報国丸とともに岩国を出撃し[8]、11月24日にジャルート環礁に到着[8]。休息の後、11月26日に出撃してツアモツ諸島東方に向かった[8][9]。12月8日の開戦を南緯14度52分 西経133度19分 / 南緯14.867度 西経133.317度 / -14.867; -133.317の地点で迎え[9]シドニーパナマ間の大圏航路を捜索する[10]。12月13日、南緯22度38分 西経118度14分 / 南緯22.633度 西経118.233度 / -22.633; -118.233の地点で東航するアメリカ商船セント・ヴィンセントSS Vincent 、6,210トン)[11]を発見し、同船は戦隊に警告を受けたがこれを無視して逃走しようとしたため、砲撃された。砲撃のち雷撃により撃沈して[12]38名の乗員を捕虜としたが[10]SOSを発信して警報が発せられたのを受信[13]。警戒が厳重になる事が予想されたため、ニュージーランド寄りの航路の捜索に転じることとなった[14]。12月21日に漂泊して整備を行い[15]、年明けの1942年(昭和17年)1月1日、水上偵察機を発進させて新たな獲物の捜索に乗り出した[16]。しかし、報国丸の水上偵察機が行方不明となり、その捜索を行っていたところ、翌1月2日にアメリカ商船マラマSS Malama 、3,275トン[16][17]を発見して爆撃を行う[18]。やがて戦隊も追いついてマラマを撃沈し、乗員38名を救助して捕虜とした[18]。マラマはすでにSOSを発信しており、ラロトンガ島の受信局がこれを受信して警報が発せられたのを傍受し、ツアモツ諸島北西海域に移動する[19]。折りしも雨季に差しかかった事や、マーシャル諸島近海にアメリカの機動部隊や潜水艦の出現の兆候が見られたことによりトラックへの帰投に決した[20]。2月4日にトラックに帰投後、次期作戦のため日本本土に回航されるが、2月11日に九州南方でソ連貨物船キム(5,113トン[21])を臨検するも、疑わしい所がなかったため釈放した[22]。2月12日に大分港に到着し、日系人1名を含む[23]捕虜76名を大分航空隊に引き渡した後、2月14日にに帰投[22]。武田少将は連合艦隊参謀長宇垣纏少将(海兵40期)に作戦報告を行い、宇垣少将は戦隊の活動が不調だった事を考慮して海軍省に第二十四戦隊の解隊を意見具申し[24]、その結果、3月10日付で第二十四戦隊は解隊して報国丸とともに連合艦隊付属の身分となった[25]。また、次期作戦までに主兵装が15センチ砲から14センチ砲に改められた[25]

インド洋での通商破壊[編集]

3月20日付で報国丸とともに第六艦隊小松輝久中将(海兵37期))の指揮下に入り[26]、4月12日に瀬戸内海を出撃してペナンに向かい、4月25日に到着した[27]。4月30日、報国丸およびインド洋で通商破壊を行う第八潜水戦隊とともにペナンを出撃[28]。5月9日、マダガスカル島の東方海上で報国丸がオランダのタンカーであるヘノタを発見して威嚇射撃を行い、停船させた後ボートを降ろしてヘノタに臨検隊を送り込み、捕獲した[29]。ヘノタは後に日本海軍籍に編入され、特務艦大瀬となる。6月5日にはイギリス客船エリシア(6,757トン)を発見し、報国丸の魚雷で撃沈。6月17日、第八潜水戦隊との会合点に到着し、燃料と食料の補給を行った。補給を受けた艦のうち、伊16伊20は5月29日にディエゴ・スアレス攻撃を終えた後であり、伊30遣独潜水艦作戦第一艦としてロリアンに向かった。7月12日、南緯17度36分 東経80度27分 / 南緯17.600度 東経80.450度 / -17.600; 80.450の地点でニュージーランドの貨物船ハウラキ(Hauraki[30] 7,113トン)を発見[31]軍艦旗を翻し、報国丸の威嚇射撃で停船させた後に拿捕し、ペナンに回航させた[32]。ハウラキは後に伯耆丸と改名され、三井船舶の手により運航される[31]。また、ハウラキの船内の積荷の中にはレーダーがあったものの問題にされず、積荷の中ではむしろ、ウイスキーブランデーなどアルコール類が喜ばれた[32]。さらに、押収した新聞により、シドニー港攻撃の詳細と乗員が手厚く葬られた事を知った[32]。通商破壊戦の他にココス島攻撃も計画されていたが、イギリス海軍がハウラキ奪還を豪語して警戒が厳しくなるのを察知し、作戦は中止となった[33]。作戦終了後は7月26日にペナンに帰投し、昭南に回航されて整備を行った。

整備後、報国丸および特設巡洋艦清澄丸(国際汽船、8,613トン)とともに、ガダルカナル島の戦いに投入される第三十八師団佐野忠義中将)をメダンからラバウルへ輸送した[34]。輸送任務を終えた後は昭南に戻り、11月1日に昭南を出撃してインド洋に向かった[35]。11月11日、ココス島近海で報国丸がオランダのタンカーであるオンディナ(Ondina[35] 6,341トン)と護衛の王室インド海軍英語版掃海艇ベンガル (HMIS Bengal, J243) と交戦するが、オンディナの船尾にある10センチ砲の不意撃ちを受けて炎上し、沈没する[36]。この小海戦に30キロ彼方[37]から駆けつけ、砲撃でオンディナの船橋を破壊し、さらに魚雷を一本命中させてオンディナを炎上させた[38]。「オンディナは暫時沈没する」と判断して報国丸乗員の救助に向かったが、当のオンディナは、一度は退船し小海戦が終わってからオンディナに戻った乗員の手によって復旧に成功し、フリーマントルに引き返していった[39]。この小海戦は、日本海軍の特設巡洋艦による通商破壊戦にピリオドを打つものとなった[40]

輸送任務[編集]

12月2日、清澄丸および竣工したばかりの同型船護国丸(大阪商船、10,438トン)などとともに第五師団山本務中将)の一部をラバウルへ輸送するため昭南を出港した[41]。12月12日にラバウルに到着するも、輸送した部隊もろともマダンウェワク攻略の「ム号作戦」にそのまま転用される[42]。12月13日付で第八艦隊三川軍一中将(海兵38期))の指揮下に入り[43]、12月16日にラバウルを出撃[44]。12月18日に空襲を受けて護国丸が損傷し[45]、さらに軽巡洋艦天龍をアメリカ潜水艦アルバコア (USS Albacore, SS-218) の雷撃で失うものの、部隊をマダンに上陸させる事に成功して12月20日にラバウルに戻った後[46]、清澄丸とともに12月29日に呉に帰投した[47]

1943年(昭和18年)に入って早々、新たな輸送作戦を行う。ニューギニアの戦いに投入される第二十師団青木重誠中将)を輸送する丙一号輸送において、第二〇九飛行場大隊と第十四野戦航空修理廠を釜山からラバウルまで急送する[48]。1月14日にラバウルに到着後、青島に向かう[49]。1月25日に青島に到着後、丙三号輸送のため1月29日に出港してパラオに向かう[50]。2月2日にセブに寄港の後[51]、パラオに到着。ここで輸送部隊の編成替えが行われ、護国丸とともに第二輸送隊に加わる[52]。2月19日、第二輸送隊はパラオを出港してウェワクに向かうが、環礁外に出たところでアメリカ潜水艦ランナー (USS Runner, SS-275) の攻撃を受けるも[53]、水上偵察機の対潜攻撃によりランナーを損傷させて事なきを得た[54]。第二輸送隊は2月22日にウェワクに到着し、物件を陸揚げして任務を完了した[55]

その後も輸送任務に従事し、空母雲鷹とともに航行中の7月10日には、アメリカ潜水艦ハリバット (USS Halibut, SS-232) の雷撃により魚雷1本が命中して損傷する[56]。10月1日付で特設巡洋艦の任を解かれて特設運送船となり、10月6日から12月31日までの間、特設運送船としての艤装工事を行った[57]

沈没、その後[編集]

昭和19年1月24日、エニウェトク環礁へ進出する予定の第六十八警備隊(青山英夫海軍中佐)の兵員と軍需品を乗せて横須賀を出港し、2月1日にトラックに到着する[58]。しかし、トラックに到着後にクェゼリン環礁玉砕の報を受けて、行き先はウォレアイ環礁に変更された[59]。2月17日早朝、水上機母艦秋津洲に横付けして荷役作業を行っていたところ[59]第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)の艦載機によるトラックへの波状攻撃を受ける。第一波の攻撃により爆弾が命中して甲板を貫通し、烹炊所で爆発[60]。やがて空襲警報が解除されて応急修理に取り掛かるも、間もなく第二波の攻撃が始まる[61]。急降下爆撃により船体前部に直撃弾を受け、別の1機は船橋に接触して爆発[60]。被弾により火災が起き、やがて搭載してあった魚雷や弾薬、ダイナマイトが大爆発を起こして前方に傾斜し、3分で沈没していった[60]。乗員のうち12名が戦死し、第六十八警備隊の兵員も青山中佐(同日、海軍少将に特進)以下425名が戦死した[59]。ともに行動した事がある清澄丸、かつて拿捕したハウラキ改め伯耆丸もこの空襲により沈没した[62]

下って1984年(昭和59年)、『トラック大空襲』の著者吉村朝之と、トラックにあるダイビングショップの創始者であるキミオ・アイセックの尽力により、デュブロン島沖の最大80メートルの海底で船体が発見された[59][63]。船体は敵機が船橋に激突して爆発したことと、1番・2番・3番船倉に搭載してあった魚雷や弾薬、ダイナマイトが大爆発を起こしたため、煙突部分より前が亡失しているが、後部は原型をとどめている。2007年(平成19年)には「現地のガイドが愛国丸の船体内に残留する遺骨を見世物にしてチップを稼いでいる」などと産経新聞が報じたが[64]、水中カメラマンの "satoagg" (ハンドルネーム)氏は、船体の沈没地点がダイバーが活動するには水深が深すぎるため、「危険な大深度のダイビングのガイドをやってくれたお礼」なのかもしれません」「様々な事情(情報)を知らずして現地を非難して欲しくない」などと反論している[63]

艦長等[編集]

トラック島空襲で大爆発を起こした愛国丸。
艦長
  • 大石保 海軍中佐:1942年8月15日 - 1943年4月5日[65]
  • 水崎正次郎 予備海軍大佐:1943年4月5日 - 1943年9月17日[66]
指揮官
  • 中円尾義三 予備海軍大佐:1943年10月20日 - 1944年2月17日戦死 ※同日、海軍少将へ特進。[67]

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 野間, 63ページ
  2. ^ a b c 『日本汽船名簿』
  3. ^ a b c d 「特設艦船原簿」93ページ
  4. ^ a b 野間, 203ページ
  5. ^ 野間, 203、204ページ
  6. ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.8
  7. ^ 木俣『日本軽巡戦史』205ページ
  8. ^ a b c 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.9
  9. ^ a b 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.7
  10. ^ a b 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.8
  11. ^ 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.8,41,42,50
  12. ^ 木俣『日本軽巡戦史』207ページ
  13. ^ 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.8
  14. ^ 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.8,9
  15. ^ 『第二十四戦隊司令部戦時日誌』C08030766500, pp.45
  16. ^ a b 木俣『日本軽巡戦史』208ページ
  17. ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766900, pp.43
  18. ^ a b 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.11
  19. ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.11,12
  20. ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.12
  21. ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766900, pp.4
  22. ^ a b 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.13
  23. ^ 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766900, pp.2
  24. ^ 木俣『日本軽巡戦史』210ページ
  25. ^ a b 『通商破壊隊戦闘詳報第一号』C08030766700, pp.10
  26. ^ 『第六艦隊戦時日誌』C08030020600, pp.43,54
  27. ^ 『第六艦隊戦時日誌』C08030020700, pp.3,23
  28. ^ 木俣『日本軽巡戦史』240ページ
  29. ^ 木俣『日本軽巡戦史』240、241ページ
  30. ^ 野間, 214ページ
  31. ^ a b 野間, 213ページ
  32. ^ a b c 木俣『日本軽巡戦史』243ページ
  33. ^ 『仮装巡洋艦 報国丸行動抜萃』pp.19
  34. ^ 木俣『日本軽巡戦史』245ページ、野間, 207、208ページ
  35. ^ a b 野間, 65ページ
  36. ^ 木俣『日本軽巡戦史』247ページ
  37. ^ 木俣『日本軽巡戦史』245ページ
  38. ^ 木俣『日本軽巡戦史』247、248ページ
  39. ^ 木俣『日本軽巡戦史』248ページ
  40. ^ 木俣『日本軽巡戦史』248ページ、野間, 66ページ
  41. ^ 木俣『日本軽巡戦史』310ページ、野間, 422ページ
  42. ^ 木俣『日本軽巡戦史』350、351ページ
  43. ^ 『第八艦隊戦時日誌』pp,46
  44. ^ 木俣『日本軽巡戦史』351ページ
  45. ^ 木俣『日本軽巡戦史』351、352ページ、野間, 422ページ
  46. ^ 木俣『日本軽巡戦史』353ページ
  47. ^ 『呉防備戦隊戦時日誌』pp.48
  48. ^ 『丙号輸送部隊戦闘詳報』pp.8
  49. ^ 『丙号輸送部隊戦闘詳報』pp.31
  50. ^ 『丙号輸送部隊戦闘詳報』pp.36,46
  51. ^ 『丙号輸送部隊戦闘詳報』pp.37
  52. ^ 『丙号輸送部隊戦闘詳報』pp.39
  53. ^ 『丙号輸送部隊戦闘詳報』pp.40,41 、木俣『日本軽巡戦史』362ページ
  54. ^ 木俣『日本軽巡戦史』362ページ
  55. ^ 木俣『日本軽巡戦史』362、363ページ
  56. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II、木俣『日本空母戦史』498ページ
  57. ^ 『呉鎮守府戦時日誌』pp.23 、「特設艦船原簿」93ページ
  58. ^ 木俣『日本軽巡戦史』512ページ、野間, 204ページ
  59. ^ a b c d 木俣『日本軽巡戦史』513ページ
  60. ^ a b c 野間, 204、205ページ
  61. ^ 野間, 205ページ
  62. ^ 野間, 207、208、213、214ページ
  63. ^ a b 外部リンク「愛国丸とキミオさん」参照
  64. ^ 外部リンク「トラック諸島に沈む日本の艦船と遺骨について」参照
  65. ^ 『日本海軍史』第9巻、731頁。
  66. ^ 『日本海軍史』第10巻、473頁。
  67. ^ 『日本海軍史』第10巻、288頁。

参考文献[編集]

  • 第二十四戦隊司令部『自昭和十六年十二月一日至同年十二月三十一日 第二十四戦隊司令部戦時日誌』(昭和16年12月 第24戦隊司令部戦時日誌(1)(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030766500、C08030766600
  • 第二十四戦隊司令部『自昭和十六年十二月八日至昭和十七年二月十四日 通商破壊隊戦闘詳報第一号 (第二十四戦隊戦闘詳報第一号)』(昭和16年12月 第24戦隊司令部戦時日誌(3)(4)(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030766700、C08030766800、C08030766900
  • 第六艦隊司令部『自昭和十七年三月一日至昭和十七年三月三十一日 第六艦隊戦時日誌』(昭和17年1月1日~昭和17年5月31日 第6艦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030020600
  • 第六艦隊司令部『自昭和十七年四月一日至昭和十七年四月三十日 第六艦隊戦時日誌』(昭和17年1月1日~昭和17年5月31日 第6艦隊戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030020700
  • 元海軍中尉谷岡貞範『仮装巡洋艦 報国丸行動抜萃』(昭和16年10月~昭和17年6月 仮装巡洋艦 報国丸行動抜粋) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030760700
  • 第八艦隊司令部『自昭和十七年十二月一日至昭和十七年十二月三十一日 第八艦隊戦時日誌』(昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030022700
  • 呉防備戦隊司令部『自昭和十七年十二月至昭和十七年十二月三十一日 呉防備戦隊戦時日誌』(昭和17年12月1日~昭和18年5月31日 呉防備戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030367100
  • 第九戦隊司令部『丙号輸送部隊戦闘詳報 第九戦隊戦闘詳報第三号』(昭和16年12月1日~昭和18年3月15日 第9戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030049600
  • 呉鎮守府司令部『自昭和十八年十月一日至昭和十八年十月三十一日 呉鎮守府戦時日誌』(昭和18年9月1日~昭和18年12月31日 呉鎮守府戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030328300
  • 運輸通信省海運総局『昭和十八年版 日本汽船名簿 内地 其一』(昭和18年版 日本汽船名簿 其の1(上)(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08050083000
  • 財団法人海上労働協会編『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、1962年/2007年、ISBN 978-4-425-30336-6
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
  • 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
  • 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』私家版、2004年
  • 林寛司・戦前船舶研究会「特設艦船原簿」「日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶 第104号』戦前船舶研究会、2004年
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]