営団5000系電車

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営団5000系電車
東西線5000系 アルミ車(左)とステンレス車(右)(深川検車区にて2006年12月3日撮影)
東西線5000系 アルミ車(左)とステンレス車(右)(深川検車区にて2006年12月3日撮影)
編成 3/10
起動加速度 3.5km/h/s
営業最高速度 100km/h
設計最高速度 110km/h
減速度 4.0km/h/s(常用最大)
5.0km/h/s(非常)
車両定員

座席50・立席86(先頭車)/

座席58・立席86(中間車)
全長 20,000mm
全幅 2,870(先頭車)/2,856(中間車)mm
全高 4,145mm
車両質量

37.1t(制御電動車)/

38.0t(電動車)
軌間 1,067mm
電気方式 直流1,500V
モーター出力 100kW
編成出力 3,200kW(MT比8M2Tおよび過去の8M1T)・2,400kW(過去の6M1T・6M2T)・800kW(2M1T)
歯車比 99:16=1:6.19(一部86:15=5.73)
制御装置 抵抗制御界磁添加励磁制御
駆動装置 WN平行カルダン駆動方式
ブレーキ方式 電磁直通ブレーキ・(発電ブレーキ→)回生ブレーキ
保安装置

自動列車制御装置 (WS-ATC) /

自動列車停止装置 (ATS-B→ATS-P)
備考 数値は冷房改造後の値

営団5000系電車(えいだん5000けいでんしゃ)は、1964年昭和39年)に登場した東京地下鉄(旧・帝都高速度交通営団)の通勤形電車

千代田線北綾瀬支線(綾瀬駅北綾瀬駅間)のみで運用されているが、2007年平成19年)3月17日までは東西線でも使用されていた。詳細は以下を参照されたい。

  • 本項では一部説明で西船橋方先頭車の下2桁+50の編成番号を使用している(但しアルミ車編成は下2桁+40の編成番号。この表記を使っている場合は東西線の10両編成化後の編成を表している)。

目次

概要

1964年昭和39年)から1981年(昭和56年)にかけて428両(後述の事故廃車の代替車2両を含む)が製造された。東西線が日本国有鉄道(以下国鉄、現・東日本旅客鉄道〈以下JR東日本〉)中央緩行線との相互直通運転を行う予定であったことから、国鉄車に合わせて営団では初の20m級車体となった。なお、後継車の05系が登場するまでは日本の地下鉄車両の中で最も車両数の多い系列だった。

設計時に編成は最終的に基本7両+付属3両の10両編成とする計画であった。この時に営団は全電動車、国鉄は付随車を連結したMT比6M4Tと編成構成の見解に相違があり、議論の結果8M2T編成にすることとなった。

3000系までとは方針を変更し、経済性を重視して設計することとなった。

  1. 外観は製造コストの低い通勤車とする。
  2. 保守性や消耗部の長寿命化を優先する。
  3. 工場入場日数を短くするため機器を交換しやすい構造とする。
  4. 車内は従来車程度とする。

前作にあたる日比谷線用3000系に続き、骨組みに普通鋼、外板にステンレス鋼が使用されているスキンステンレス車となった。片側に4つの両開き客用扉を持ち、2段式の窓と細長い戸袋窓がそれぞれドア間に2つ、車短部に1つずつ設けられている。側窓の外枠は2次車まで丸みを帯びたもので、3次車から丸みがなくなった。5次車からは新製時より戸袋窓を省略した。側扉は、戸袋への引き込み事故を防ぐ目的で窓が極端に小さなデザインのものが営団で初めて採用された。前面形状は3000系と比べて角張ったものとなり、縦並びに配置されていた前照灯尾灯は横並びに改められた。

車体は無塗装の金属地肌で、窓下にラインカラーの帯(東西線は水色、千代田線は緑色)の帯が巻かれている。4次製造分から前面部分の帯形状が右の写真のようになり、その他の部分もわずかに太くなった。これは1次製造分も同じ仕様に改められている。3000系では階級連想から設置されなかったと言われる帯を設置したのは区別のためである。東西線用車に使用された帯の色はハイライト・ブルーという煙草の包装紙の色である。また千代田線から東西線に転属してしばらくは緑帯のまま東西線で使われた車両も存在していた(一般公開で展示されていた写真による)。

運転台回転式ツーハンドルで、デッドマン装置付きである。力行は4ノッチ、ブレーキハンドルは取り外し式でノッチが刻まれていない。乗務員室仕切りは中央に乗務員室扉があり、その左右にも窓があるもので、遮光幕は客室側から向かって左側の窓と乗務員室扉窓で使用される。速度計の最大目盛りは120km/hで、黒地のものと白地のものがある。

車両間貫通路は片開き扉(窓は側面のように小さくはない)の付いた狭幅のもので妻窓を設置している。東西線用車は最後まで転落防止幌は設置されなかった。

連結器は密着式で、一時期電気連結器を設置している車両も存在した。

座席は区分柄のないモケット(茶色のものがある)張りで、座席端部の仕切りはパイプで、鉛直方向2本、このうち1本は途中までの高さで水平方向のパイプに接続している形状である。

車種

  • 5000形(アルミ車は5150~と区分)
  • 5200形(アルミ車は5450~と区分)
  • パンタグラフと制御器を搭載する中間電動車。5000形・5600形・5100形のいずれかとユニットを組んで使用される。製造数が100両以上に及んだため、5300~の車両番号が付番された車両も存在していた。
  • 下記編成表ではM1と表記する。
  • 5600形(アルミ車は5750~と区分)
  • MGとCPを搭載する中間電動車。5000形の運転台を省略した構造となっている。2次車以降に製造。5200形とユニットを組んで使用される。
  • 下記編成表ではM2と表記する。
  • 5100形(アルミ車は非存在)
  • 5600形とほぼ同性能の中間電動車。5次車のみの製造。5200形とユニットを組んで使用される。車庫内での移動のため、中野・北綾瀬側の車端に収納式の簡易運転台が設置されている。
  • 下記編成表ではMcと表記する。
  • 5800形(アルミ車は5950~と区分)
  • 5900形(アルミ車は非存在)
  • 付随車。5次車のみの製造。5100形と同様に西船橋・代々木上原・綾瀬側の車端に簡易運転台が設置されている。ちなみに5100形とともに千代田線には1両ずつしか存在しなかった。
  • 下記編成表ではTcと表記する。
※車両需給の関係で5200形3両と5600形4両(うち1両はアルミ車)が電装解除されて5900形相当の付随車となっている。ただし、簡易運転台は設置されていない。

機器

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主電動機は、直流直巻のMB-3088 (100kW/375V・300A)を各電動車に4基ずつ搭載する。3000系のものを車体大型化・付随車連結のために増強した形で、弱め界磁率は同じ30%である。出力こそ100kWだが実用スペックは国鉄MT55に近く、しかも地下鉄用のため低騒音型である。歯車比は3000系の6.53に対して6.19とやや高速向きの設定とした。

制御装置は1C8M方式であり、編成は必ず電動車数が偶数になるように組まれた。3000系と同様の三菱電機製超多段制御器で、起動時に直並列切替を早めに行う点も同じであるが、制御段数は3000系よりも少ない。界磁添加励磁制御車の装置はABFM138-15MRHという名称である。

1・2次車のみは天井にファンデリアを装備。3次車から扇風機に変わり、屋上通風器の形状も異なっていた。 冷房装置(設置車のみ)の形式はC764(1基当たりの冷凍能力24,500kcal/h)で各車に2基搭載する集約分散式である。

パンタグラフは菱形搭載車はPT-43-F、シングルアーム式搭載車はPT-7136-Aである。

変更点

製造途中

本系列は製造期間が長期にわたっているため、車両によって細部の意匠に違いが見られる。帯のデザインについては先述したので、ここでは省略する。

1次製造車はすべて3両編成で製造された。当時は東西線が全線地下区間でかつ他の地下鉄路線と接続がなかったため、九段下竹橋間において隧道上からクレーン車を用いて地下に下ろされた。また、列車検査や月検査などは同線の飯田橋検車区で行った。

1966年製造の2次車は、1次車の7両編成化用中間車および7両編成での新造車(東西線用3・4次車も同様7両編成)である。前面行先表示器の位置が下げられ、運行番号表示器が大型化された。この頃には国鉄三鷹電車区に搬入できるようになったが、1次車(3両編成6本)の千住工場での検査のため、国鉄・東武・日比谷線での自力回送があった。うち4本は同所で7両編成化された。

1966年の7両編成1本と1967年の7両編成2本(14両)の計21両は、試験的にアルミ合金で製造された車体を有する。この車体のアルミ合金製構体は同時期に製造された国鉄301系と共通設計であった。車体の素材以外は同時期の一般車(2次車)と同一の形態である。これは1965年に試作が決定したものである。2次車の7両(5950編成・末期の第90編成のうちの7両)には当初クリアラッカーが塗布されていたが、3次車の14両(5951・5952編成)は当初から無塗装で登場した。構体重量はステンレス車の9,500kgに対し、アルミ車はそれより3,550kg軽い5,950kgである。

1967年の3次車からは、屋根上通風器の形状が八角形の板状のものから直方体のものに、つり革が前身の東京地下鉄道時代に投入された1000形以来の「リコ式」と呼ばれるばねによる跳ね上げ式から一般的な吊り下げ式に変更された。3・4次車は越中島経由で搬入された(深川車両基地#位置を参照)。

1968年から製造された4次車からは、つり革を三角形に変更するとともに、前面運転台の反対側に種別表示器(上は黒地で地下鉄、下は赤字で快速)を設置し、未設置車にも追加で設置されたが、後に前面方向幕の交換(種別・行先併記化)により廃止された。なお、東西線では翌1969年より編成の組み換えにより一部編成が8・9両編成化されている(MT比は右上の表を参照)。4次車の中には千代田線本線に投入された車両があり、3両編成10本(30両)を製造させた後に中間車20両を増備させて5両編成となり、計50両となった。東西線投入分とほぼ同じ形態であるが、細部に変更点が見られた。千代田線の10両編成化後は5+5両編成とされたが、北綾瀬支線の営業開始に伴う編成替えで1979年に3両が千代田線に増備(6次車)され、この時に7+3両編成の編成が組まれている。これらのグループは、元々6000系投入までの暫定的な存在であったこと小田急電鉄への乗り入れに支障があったことから、同年の増備車も含めて1981年に北綾瀬支線用の3両編成2本6両を残して東西線に転出し、転出した分は6000系の増備で対応した。

1970年の4次車製造終了から1977年の5次車製造開始までは製造を中断していた。このことから両者では変更点が多く、台車空気バネ台車であることは変わらないものの、ミンデンドイツ式からS形ミンデン式・SU形ミンデン式と形状が変更され、それまであった戸袋窓も廃止された。5次車以降の製造は基本的に中間車のみであるが、1978年に現在の西葛西(事故当時は未開業)~南砂町間の荒川中川橋梁で発生した竜巻による脱線転覆事故で、鉄橋上から原型のまま移動させられず、やむなく車体を寸断された5818号車と5252号車が廃車となり、この復旧新造で先頭車1両のみが製造されている。4次車以前の車両も後に台車がSU形ミンデン式に交換された。

製造後

当初は離線対策で5200形以外に5000形にもパンタグラフが搭載されていたが、1980年代に北綾瀬支線用の2両を除き撤去された。

東西線は1990年6月までに全編成が10両編成となった(1988年11月に最初の編成が落成した05系は当初から10両編成)。本系列の10両編成には先頭車が中間に組み込まれる場合もあり、当初は通り抜けができなかったが、貫通の取り付けが行われた後に自由な行き来が可能になった。

東西線には1988年11月から後継の05系の製造が開始されたが、本系列の数が膨大であること、この時点で5次車が車齢10年程度であったこと(5次車以降で営団で冷房改造されずに廃車になった車両はすべて東葉高速鉄道に譲渡されている)、東西線の完全冷房化を急いでいたことから本系列も4次車以降の車両(主に5次車以降の車両が組み込まれている編成)を対象に冷房化が施工され、継続使用されることとなった。当初の予定では、それ以外の車両を順次廃車させる予定であったが、有楽町線新線開業に伴う車両製造(07系)が優先されたことからさらに2次車を中心に追加の改造が行われ、最終的に10両編成23本と北綾瀬支線の6両の236両が冷房車となった。また、この間に東葉高速鉄道に120両が譲渡されていることから、冷房改造も東葉高速鉄道に譲渡もされずに廃車になった車両は70両であった。なお、東西線開業当時から使用されていた1次車はすべて冷房改造されずに廃車になった。

改造は、改造後の使用期間が10年程度とされたことから極力簡素化とコスト削減を意識したものとなった。室外機は車体の負担を減らすために重量が分散する1両あたり2基搭載の集約分散式(営団の他の架線集電路線の車両は1両あたり1基搭載の集中式)で、冷房用電源は電動発電機の増強ではなく、静止形インバータ(SIV、容量190kVAで自車を含めて5両に給電)が編成中の付随車2両に増設されるというJR東日本の簡易改造と似た方式で、室外機の外観も類似している。この室外機の重量増から起動加速度が登場当時の3.5km/h/sから3.3km/h/sに落ちている。

冷房改造時に通風器は撤去されたが、室内の扇風機は冷房使用時の補助送風機として存置された。一部の車両は延命工事が同時施工され、枕木方向の手摺りの増設やつり革の丸型タイプへの統一、風雨の進入防止のための戸袋窓の閉鎖などが行われた。ちなみに、すべて戸袋窓なしの車両で組成された編成が存在したことはない。また、アルミ車に対してはドアの窓枠がやや角ばったスタイルのものに交換されたものの、戸袋窓の閉鎖は行われていない。

トンネル内の温度上昇を抑制する目的で、東西線用車については冷房改造時に主回路方式が発熱量の多いバーニヤ抵抗制御(直列17段、並列24段、弱め界磁10段)から弱め界磁が無段階制御となる界磁添加励磁制御に変更し、発電ブレーキを発熱量の少ない回生ブレーキに変更しているが、北綾瀬支線用車(当時)は地上区間でしか運用されないため、抵抗制御のままであった。

内装は柄のない濃いクリーム色であったが、更新工事(B修繕)によって暖色の模様付きの白色系のものに交換された車両も存在する。

1990年代後期から、先頭車の前面左窓の左下に編成番号札が設置された。

2004年4月1日の東京メトロ発足に伴い、車体に貼付されているシンボルマークが同社のものに変更された。側面窓上のものは他系列より小型で横長のものである。しかし、東西線用車については乗務員室扉後部には設置されていなかった。

現状

スキンステンレス車は、他社局のそれと同様に骨組みの経年劣化が激しく、また05系の増備が進んだことから、冷房改造がなされた車両も6000系以降の車両のような大規模な更新を施工させずに、当初の予定通り更新から10年程度で順次廃車されている。2005年4月までに4次製造車中心の編成をすべて除籍させ、2007年1月時点では更新済み編成のみが残存していた。これらは同年度に実施予定のCS-ATC導入への対応を行わずに、有楽町線への10000系投入によって同線から転属した07系との交代で同年3月17日を最後にすべて運行終了した。

廃車された車両は基本的に解体され、産業廃棄物処理業者を経て金属屑として売却されているが、アルミ車のうち10両編成化で余剰となった1両 (5453) は1994年の廃車後にリサイクルされ、当時新造された05系第24編成の吊り手支持金具などの部品として再利用されている。この時に営団がアルミ車体が熱や荷重によってどの程度痛んでいるのかを測定したところ、25年程度の使用では補修の必要はないとの結果が出た。なお、鉄道車両のリサイクルは当時日本で初めての試みだった。

この測定結果から、2002年3月23日の北綾瀬支線のワンマン運転開始に際しては、同線で使用されていたスキンステンレス車2本が東西線で使用されていたアルミ車に置き換えられた。転用に際して3両編成2本(6両)に組替えた上、千代田線仕様のCS-ATCATO車上装置などの搭載、5000形へのパンタグラフ再設置、パンタグラフ形状のシングルアーム化などの改造がなされている。組換えで余った残りのアルミ中間車4両と旧北綾瀬支線車6両はその後廃車となった。この時にアルミ車は鉄屑価格の高騰から営団では特に何もせずに解体されて売却されている。

2005年末から東京メトロのほとんどの車両に対して優先席付近のつり革を白色からオレンジ色に交換したが、東西線用では全編成が交換されずに運行終了まで白色のままとなっていた。

2006年10月に公開された映画地下鉄(メトロ)に乗って』の撮影のため、当時東西線に残っていたアルミ編成が300形をイメージしたラッピングに変更された。撮影終了後は元に戻されている。

2007年1月27日深川車両基地で開催された「さようなら東西線5000系車両撮影会&工場見学会」では、同日時点で在籍していた第59(ステンレス)・90(アルミ)編成が05系第2・43編成(新旧1編成ずつ)や東西線転入直後の07系第3編成とともに展示された。なお、第59編成については途中から「さよなら東西線5000系」と表記された特製ヘッドマークを先頭車前面に装着し、前述の通り同月29日から3月17日の最終営業日まで営業運転に使われた。また、イベント終了後に廃車が決定していた第90編成は車内に開通式や車両の思い出を中心に東西線の昔の写真を展示した後、決定通りに廃車された。さらに、このイベントを記念して特製の一日乗車券も発売された。

2007年12月15日綾瀬車両基地で開催された「綾瀬車両基地見学会&車両撮影会」では、5152Fが地下鉄開業80周年記念ステッカーを先頭車前面の車両番号プレートの下部に貼付し、洗浄機体験に使用された。

廃車後の利用

アルミ車のリサイクル、転属については先述したので、ここでは省略する。

1991年にトップナンバーである5001号車が廃車される際、1000形の1001号車と300形の301号車の2両がそうであったように地下鉄博物館静態保存される計画があったが、実現せずに行徳検車区で解体された。なお、3000系3001号車も同じく静態保存のために2007年に長野電鉄から東京メトロに返却されている。

1990年代前半に廃車された車両の解体時に発生した機器が大井川鐵道京阪電気鉄道3000系の譲受改造に使用)や長野電鉄(3500系・3600系の改造に使用)に売却されている。

1996年4月27日の東葉高速鉄道開業に際して、3次車を中心に10両編成12本120両が非冷房のまま同社に譲渡された。これらについては東葉高速鉄道1000系電車の項目を参照。

1995年頃に東西線で廃車となった後3両に短縮(旧1・9・10号車)された5811以下の編成が新木場CRで車両の自動入換実験に使用された(すべて解体済み)。

2001年に廃車された先頭車のうち、5833号車は後部から車両中程までがカットされ、南砂町駅の3番出口前にある新砂あゆみ公園に静態保存されている。しかし、2007年現在では悪戯によって盗難や破損が進んでいて、外装や内部の破損や欠損が激しくなって来ている。この模様はテレビ東京系列の深夜番組モヤモヤさまぁ〜ず2』第54回で取り上げられた。

旧北綾瀬支線車の5846以下の3両は、廃車となった後新木場CRで作業車として使用されたが、2005年に解体された。同年にはやはり廃車後短縮された5847以下の3両が深川・行徳両検車区の教習用車両に転用されて使用されていたが、2007年に解体された。2008年現在は5950以下の3両が教習用車両として使用されている。

冷房改造車の廃車が始まる頃にはしなの鉄道との間に譲渡計画が存在したが、同社側の計画変更により実現しなかった。しかし、置き換え末期の2006年になってからインドネシアの鉄道会社であるPT. Kereta Apiとの間で売却交渉が成立し、当時の東西線の在籍車はジャカルタ近郊輸送用として輸出されることが決定した。5817以下の10両(第67編成)は同年10月15日に、5816以下の10両(第66編成)は12月17日川崎市営埠頭へ運び込まれ、輸出された。翌2007年には4月22日には5809以下10両(第59編成)も輸出された。また、東葉高速鉄道に譲渡された元5822以下の10両(第72編成)と元5836以下の10両(第86編成)もジャカルタへ輸出された(輸出日は不明)。

編成表

  • この書体:戸袋窓閉鎖車(5次車以降は新造時から・少なくとも●編成については書体の車両のみ
  • この書体:アルミ車
  • ◇:西船橋方に菱形パンタグラフを搭載
  • △:綾瀬方にシングルアーム式パンタグラフを搭載
  • CM:制御電動車=5000形
  • CT:制御車=5800形
  • M1:パンタグラフと制御器を搭載する中間電動車=5200形
  • M2:MGとCPを搭載する中間電動車=5600形
  • Mc:簡易運転台付き電動車(性能はM1)=5100形
  • Tc:簡易運転台付き付随車=5900形
  • T:中間付随車(性能はTc)=5200形・5600形電装解除車
  • 茶色文字:1次車(1964年製造)
  • 黒文字:2次車(1966年製造)
  • 青文字:3次車(1967年製造)
  • 緑文字:4次車(1968年1970年製造)
  • 水色文字:5次車(1977年製造)
  • 黄緑色文字:6次車(1978年1979年製造)
  • 紫文字:7次車(1981年製造)
  • ●:民営化時点で在籍(2004年4月1日
  • ▲:非冷房で除籍

東西線

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1964年に製造された1次車を表記している。なお、編成番号は営業運転開始時は付与されていなかった。

  ←高田馬場 九段下→
編成番号 CM M1◇ CT 
51▲ 5001 5201 5801
52▲ 5002 5202 5802
53▲ 5003 5203 5803
54▲ 5004 5204 5804
55▲ 5005 5205 5805
56▲ 5006 5206 5806
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1966年に製造された2次車を黒字で表記している。なお、編成番号は営業運転開始時は付与されていなかった。

  ←高田馬場 九段下→
編成番号 CM M1◇ M2  M1◇ M2 M1◇ CT
51▲ 5001 5201 5604 5211 5603 5210 5801
52▲ 5002 5202 5606 5213 5605 5212 5802
53▲ 5003 5203 5608 5215 5607 5214 5803
54▲ 5004 5204 5804
55▲ 5005 5205 5805
56▲ 5006 5206 5806
57 5007 5209 5602 5208 5601 5207 5807
90 5150 5452 5751 5451 5750 5450 5950

10両編成化後の編成を民営化時点で在籍していた編成の他、一部のみを表記している。東葉高速鉄道に譲渡された車両については別項を参照。特記以外は2005年までに廃車(解体車以外の詳細は前述部を参照)。

  ←中野                      西船橋→  
編成番号 CM M1◇ M2 M1◇ Tc/T Mc/M M1◇ M2 M1◇ CT  
51▲ 5001 5201 5604 5211 5217 5610 5218 5603 5210 5801 1991年廃車
57● 5007 5209 5606 5213 5233 5615 5223 5601 5207 5807 2004年12月廃車
下線は第52編成から移動。それまで組み込まれていた5602・5208・5609・5611・5219は1991年廃車。
58● 5008 5328 5680 5318 5608 5681 5319 5679 5317 5808 2004年12月廃車
下線は第53編成から移動。それまで組み込まれていた5453は1993年廃車。
59● 5009 5326 5676 5313 5215 5607 5314 5675 5312 5809 2007年4月インドネシアのPT Kereta Apiへ譲渡
下線は第53編成から移動
62 5012 5232 5620 5231 5901 5101 5335 5619 5230 5812 2002年3月廃車
63● 5013 5235 5622 5234 5902 5689 5364 5621 5225 5813 2005年2月廃車
66● 5016 5247 5631 5246 5905 5688 5363 5630 5245 5816 2006年度PT Kereta Apiへ譲渡
67● 5017 5251 5634 5250 5927 5127 5359 5632 5248 5817 2006年度PT Kereta Api社へ譲渡
68 5018 5254 5636 5253 5911 5668 5301 5635 5252 5818 2003年12月廃車。
下線部は代替車。それまで組み込まれていた元同番号車は竜巻事故による脱線で
1978年廃車。
83 5033 5299 5666 5298 5923 5123 5355 5665 5297 5833 2001年廃車
5833号のみ新砂あゆみ公園で保存
90● 5150 5452 5751 5451 5752 5753 5454 5750 5450 5950 2007年2月廃車。保留のピンク地以外解体。
91 5151 5455 5755 5457 5952 5152 5458 5754 5456 5951 2000年千代田線へ転属
97● 5048 5334 5104* 5338* 5922 5122 5354 5685 5323 5847 2005年4月~2007年4月廃車
下線は第61編成から移動。*印は第65編成から移動。

千代田線

千代田線支線用車両
千代田線北綾瀬支線で運用されているアルミ車 (綾瀬車両基地にて2007年撮影)
千代田線北綾瀬支線で運用されているアルミ車 (綾瀬車両基地にて2007年撮影)

2007年現在運行中の編成を示している。

編成 ←綾瀬 北綾瀬→  
CT △M1 △CM
5951 5455 5151 2編成ともそれぞれ東西線時代は7両で運転。1990年に5752,5753,5454が90Fへ移動、5453が58Fへ移動。その後この2編成を連結し、2000年に5754,5755,5456,5457が廃車、千代田線転属と同時に1編成3両ずつに分かれて運行。
5952 5458 5152

歴史

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  • 1964年昭和39年)(1964年度)- 1次車製造(東西線用18両)。
  • 1964年(昭和39年)12月23日- 東西線開業と同時に3両編成で営業運転開始。
  • 1966年(昭和41年)(1965年度)- 2次車製造(東西線用115両)。アルミ車製造開始。
  • 1966年(昭和41年)3月16日 - 東西線編成がすべて7両編成化される。
  • 1967年(昭和42年)度 - 3次車製造(東西線用63両)。アルミ車の製造終了。
  • 1968年(昭和43年)度 - 4次車製造(東西線用51両)。
  • 1969年(昭和44年)8月25日- 東西線で8・9両編成の運行開始。これに伴い先頭車が編成中間に組み込まれる例が発生する。
  • 1969年(昭和44年)~1970年(昭和45年)度 - 4次車製造(千代田線用50両)。
  • 1969年(昭和44年)12月20日 - 千代田線開業と同時に3両編成で営業運転開始。
  • 1970年(昭和45年)12月14日 - 千代田線で5両編成の運行開始。
  • 1971年(昭和46年)4月20日 - 千代田線編成が2編成連結により10両編成となる。
  • 1977年(昭和52年)度 - 5次車製造(東西線用51両)。
  • 1977年(昭和52年)10月1日 - 東西線で10両編成の運行開始。8・9両編成消滅。
  • 1978年(昭和53年)2月28日 - 竜巻により68Fの2両が脱線。翌3月29日に初の廃車が発生し、同年12月21日に代替車両が竣工した。
  • 1979年(昭和54年)度 - 6次車製造(全26両/東西線用23両・千代田線用3両)。
  • 1981年(昭和56年)度 - 7次車製造(東西線用12両)。5000系製造終了。
  • 1981年(昭和56年)10月5日 - 北綾瀬支線以外の千代田線での営業運転終了。北綾瀬支線用の3両編成2本を除き東西線に転属。
  • 1989年平成元年)- 冷房改造開始。
  • 1990年(平成2年)6月 - 東西線編成がすべて10両編成化される。
  • 1991年(平成3年)~1994年(平成6年)度 - 非冷房車(189両)の本格廃車・残存車の冷房改造・一部廃車編成の東葉高速鉄道への譲渡を実施。
  • 1999年(平成11年)11月 - 北綾瀬支線車両が東西線から転属のアルミ車に置き換え(後述)。編成中間に組み込まれる先頭車が消滅。
  • 2001年(平成13年) - 冷房車の廃車開始。2004年度までに160両を廃車。
  • 2005年(平成17年)1月22日 - 東西線開通40周年および妙典駅開業5周年を記念して、ステンレス車でメモリアルトレインが運転されるとともに深川検車区で開業当時の装飾の再現を含む撮影会(詳細は別項)が開催された。
  • 2006年(平成18年)- 廃車車両をインドネシアの鉄道公社(PT Kereta Api)への売却開始。
  • 2007年(平成19年)1月27日 - 東西線からの撤退が近づいたことに伴うイベントが開催される。
  • 2007年(平成19年)1月29日 - 東西線最後のステンレス車(第59編成)が前面に「さようなら東西線5000系」ヘッドマークを装着して営業運転を開始。
  • 2007年(平成19年)2月 - 東西線のアルミ車が廃車により消滅。
  • 2007年(平成19年)3月17日 - 東西線での営業運転終了。
  • 2007年(平成19年)4月22日 - 第59編成の売却でPT Kereta Apiへの売却終了。
  • 2007年(平成19年)5月9日 - PT Kereta Apiでの営業運転開始。ジャカルタ首都圏の通勤電車で使用される。

参考文献

  • 鉄道ピクトリアル2005年3月臨時増刊号・東京地下鉄特集 特にP169~の「5000系の系譜」(齋藤和夫著)、P107~の「営団地下鉄の車両設計にたずさわって」(里田啓著)(電気車研究会)
  • 営団地下鉄写真集(交通新聞社
  • 私鉄車両編成表88年版 P26(ジェー・アール・アール

関連項目

参考サイト

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