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さらに、[[1937年]]1月場所を11戦全勝、5月場所を13戦全勝で連続全勝優勝し横綱に推挙される<ref>[http://www6.plala.or.jp/ma214/oozeki/ 歴代大関一覧]によると、昭和以降に大関になった力士で大関在位期間が全勝なのは'''双葉山ただ1人'''である。なお[[大正]]時代には栃木山が2場所・19勝1預無敗で横綱に昇進している。</ref>。この推挙後に父親が死去。横綱昇進後、[[1938年]]1月場所と5月場所はいずれも13戦全勝で5場所連続全勝優勝を果たす。5月場所で双葉山の前の記録保持者である[[谷風梶之助 (2代)|谷風]]の63連勝([[引分 (相撲)|分]]・[[預り (相撲)|預]]・休を挟んだ記録)を、約150年ぶりに塗り替えている。 |
さらに、[[1937年]]1月場所を11戦全勝、5月場所を13戦全勝で連続全勝優勝し横綱に推挙される<ref>[http://www6.plala.or.jp/ma214/oozeki/ 歴代大関一覧]によると、昭和以降に大関になった力士で大関在位期間が全勝なのは'''双葉山ただ1人'''である。なお[[大正]]時代には栃木山が2場所・19勝1預無敗で横綱に昇進している。</ref>。この推挙後に父親が死去。横綱昇進後、[[1938年]]1月場所と5月場所はいずれも13戦全勝で5場所連続全勝優勝を果たす。5月場所で双葉山の前の記録保持者である[[谷風梶之助 (2代)|谷風]]の63連勝([[引分 (相撲)|分]]・[[預り (相撲)|預]]・休を挟んだ記録)を、約150年ぶりに塗り替えている。 |
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[[1939年]]1月場所4日目([[1月15日]])、前頭4枚目[[安藝ノ海節男|安藝ノ海]]に敗れるまで69連勝を記録。69連勝は歴代最高記録である。双葉山と同じく昭和の大横綱である[[大鵬幸喜|大鵬]]、[[北の湖敏満|北の湖]]や[[千代の富士貢|千代の富士]](現[[九重 (相撲)|九重]])、それに69連勝達成から70年余り経った2010年1月場所14日目から2010年11月場所初日まで連勝を続けた[[白鵬翔|白鵬]]でさえ届くことの出来なかったこの大記録は、おそらく永久に破られることはない不滅の記録であろうと言われている。双葉山が[[三役]]に上がった頃、一場所の[[取組]]日数は11日だったが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増した為、日数が13日となり(1937年5月場所から)、さらに現在と同じ15日(1939年5月場所から)となった。 |
[[1939年]]1月場所4日目([[1月15日]])、前頭4枚目[[安藝ノ海節男|安藝ノ海]]に敗れるまで69連勝を記録。69連勝は歴代最高記録である。双葉山と同じく昭和の大横綱である[[大鵬幸喜|大鵬]]、[[北の湖敏満|北の湖]]や[[千代の富士貢|千代の富士]](現[[九重 (相撲)|九重]])、それに69連勝達成から70年余り経った2010年1月場所14日目から2010年11月場所初日まで連勝を続けた[[白鵬翔|白鵬]]でさえ63連勝とあと6勝届くことの出来なかったこの大記録は、おそらく永久に破られることはない不滅の記録であろうと言われている。双葉山が[[三役]]に上がった頃、一場所の[[取組]]日数は11日だったが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増した為、日数が13日となり(1937年5月場所から)、さらに現在と同じ15日(1939年5月場所から)となった。 |
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=== 70連勝ならずの一番 === |
=== 70連勝ならずの一番 === |
2010年11月29日 (月) 12:15時点における版
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双葉山 | ||||
基礎情報 | ||||
四股名 | 双葉山 定次 | |||
本名 | 龝吉 定次 | |||
愛称 |
不世出の横綱 相撲の神様 昭和の角聖 | |||
生年月日 | 1912年2月9日 | |||
没年月日 | 1968年12月16日(56歳没) | |||
出身 | 大分県宇佐郡天津村布津部 | |||
身長 | 179cm | |||
体重 | 128kg | |||
所属部屋 | 立浪部屋→双葉山相撲道場 | |||
得意技 | 右四つ、寄り、上手投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 第35代横綱 | |||
生涯戦歴 | 348勝116敗1分33休 | |||
幕内戦歴 | 276勝68敗1分33休(31場所) | |||
優勝 | 幕内優勝12回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1927年3月場所 | |||
入幕 | 1932年2月場所 | |||
引退 | 1945年11月場所 | |||
引退後 | 日本相撲協会第3代理事長 | |||
備考 | ||||
金星1個(武藏山) 紫綬褒章 従四位勲三等旭日中綬章 | ||||
2008年9月9日現在 |
双[1]葉山 定次(ふたばやま さだじ、本名:龝吉 定次(あきよし さだじ)、1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大相撲の第35代横綱。大分県宇佐郡天津村布津部(現在の宇佐市下庄)出身。身長179cm、体重128kg。)血液型はA型。
人物・来歴
少年時代の負傷が元で右目が半失明状態(5歳の時吹矢が右目に当たったという)だったことや、右手の小指が不自由(事故で2度も右手の小指に重傷を負いその後遺症による)といったハンデを抱えながら、「木鷄」(もっけい=『荘子』にでてくる鍛えられた闘鶏が木彫りの鶏のように静かであるさま)を目標に相撲道に精進し、昭和屈指の大力士となった。
本場所での通算69連勝、優勝12回、全勝8回などを記録。年2場所の時代の力士であるがその数々の大記録は未だに破られていないものも多い。
日中戦争の泥沼化、太平洋戦争が間近に迫る時局もあり、国民的英雄となった。「双葉の前に双葉無し、双葉の後に双葉無し」という言葉の示す通り、まさに不世出の大横綱であり、「角聖」の異名で知られた明治の常陸山谷右エ門と並ぶ偉大な力士として「相撲の神様」「昭和の角聖」と呼ばれることも多い。
大相撲入門
少年時代は成績優秀で普通に出世を目指していた。そのため、相撲は元々はそれほど気持ちを入れていたわけではなかった様である。だが、父親の事業(海運業)が失敗したり、次男だが兄は早世し妹と母親も早くに亡くしている事情から、父の手伝いをしながら逞しく育つ事になる。浪曲研究家の芝清之が作成した浪曲「双葉山物語」では、この海運業の手伝いをしているときに錨の巻上げ作業で小指に重傷を負ったとしている。
1927年、才能を見出した県警の双川喜一部長(のち明治大学専務理事)の世話で立浪部屋に入門する。同年3月場所初土俵。四股名の双葉山は「栴檀は双葉より芳し」からつけた。さらに入門の際に世話になった双川氏の1字も含まれる。
入幕以前は目立った力士ではなかったが、成績は4勝2敗が多く(当時幕下以下は1場所6番)大きく勝ち越すことがない一方で負け越しもなく(3勝3敗は何度かあった)、年寄・春日野(元横綱栃木山)から、「誰とやってもちょっとだけ強い」と評されたという。1931年5月場所には19歳3ヶ月で新十両に昇進した。
1932年2月場所、春秋園事件での関取の大量脱退により繰り上げ入幕となるが、相撲が正攻法すぎて上位を脅かすまでには至らなかった。ただ足腰は非常に強い(本人の回想によると舟に乗っているうちに自然と鍛えられたらしい)ため攻め込まれても簡単には土俵を割らず土俵際で逆転することが多く「うっちゃり双葉」と皮肉られていた。1933年5月場所などは4勝(7敗)中3勝がうっちゃりによるものだった。この時期の双葉山を時の第一人者横綱玉錦だけが、「双葉の相撲はあれで良いのだ、今に力がついてくれば欠点が欠点でなくなる」と評価したという。
1935年1月場所には小結に昇進するが4勝6敗1分と負け越して前頭筆頭に落ち5月場所も4勝7敗と負け越した。この頃までは苦労の連続だった。
69連勝
69連勝…1936年(昭和11年)1月場所7日目~1939年(昭和14年)1月場所3日目。同場所4日目に前頭4枚目安藝ノ海に敗れる。
1935年蓄膿症の手術を機に体重が増え、それまでの取り口が一変した。立合い、「後の先をとる」を地で行き相手より一瞬遅れて立つように見えながら先手を取り、右四つに組みとめた後、吊り寄り、乃至必殺の左上手投げで相手を下すようになった。1936年1月場所6日目、横綱玉錦に敗れるが、翌7日目前頭4枚目瓊ノ浦(のち両國)を下すと残りを連勝して9勝2敗。この場所中に祖母が死去している。
新関脇で迎えた同年5月場所では9日目に玉錦を初めて破って11戦全勝で初優勝し大関昇進。このとき以来双葉は玉錦に本場所では負けることがなかった[2]。玉錦は前々場所(1935年1月場所)4日目から双葉山に敗れるまで27連勝しており[3]、その連勝の1勝目が他ならぬ双葉山だった。玉錦最後の優勝と双葉山初優勝をまたいで二度以上優勝した力士は一人もなく、明確な覇者交代の一番として現在まで語り継がれている。
さらに、1937年1月場所を11戦全勝、5月場所を13戦全勝で連続全勝優勝し横綱に推挙される[4]。この推挙後に父親が死去。横綱昇進後、1938年1月場所と5月場所はいずれも13戦全勝で5場所連続全勝優勝を果たす。5月場所で双葉山の前の記録保持者である谷風の63連勝(分・預・休を挟んだ記録)を、約150年ぶりに塗り替えている。
1939年1月場所4日目(1月15日)、前頭4枚目安藝ノ海に敗れるまで69連勝を記録。69連勝は歴代最高記録である。双葉山と同じく昭和の大横綱である大鵬、北の湖や千代の富士(現九重)、それに69連勝達成から70年余り経った2010年1月場所14日目から2010年11月場所初日まで連勝を続けた白鵬でさえ63連勝とあと6勝届くことの出来なかったこの大記録は、おそらく永久に破られることはない不滅の記録であろうと言われている。双葉山が三役に上がった頃、一場所の取組日数は11日だったが、双葉山人気が凄まじく、1月場所でも徹夜で入場券を求めるファンが急増した為、日数が13日となり(1937年5月場所から)、さらに現在と同じ15日(1939年5月場所から)となった。
70連勝ならずの一番
1939年1月場所、前年の満州巡業でアメーバ赤痢に感染して体重が激減、体調も最悪だったので、双葉山は当初、休場を考えていた。しかし、力士会長の横綱玉錦が虫垂炎を悪化させて急死した(双葉山が2代目会長になった)為、責任感の強い双葉山は強行出場した。この場所、前頭3枚目安藝ノ海に敗れて連勝が止まると5日目同4枚目両國、6日目同3枚目鹿嶌洋と3連敗し9日目には玉錦の跡を継いだ小結玉ノ海に敗れ4敗を喫した。
安藝ノ海に敗れた一番、安藝ノ海は双葉山の右掬い投げに対して左外掛けを掛けたが、一度堪えた後、安藝ノ海の身体を担ぎあげるようにして外掛けをはずし、再度右から掬い投げにいったので、安藝ノ海の身体は右側に傾きながら双葉山と共に倒れた。これが遠目には安藝ノ海が右外掛けを掛けたかのように見えたため、翌日の各新聞は「安藝ノ海の右外掛け」と誤って報じた。当時ベテラン記者の彦山光三が「カメラとて正確とは限らん」と言ったとも伝わる。
この日の大相撲ラジオ中継で、アナウンサー・和田信賢は、「不世出の名力士双葉、今日まで69連勝。果たして70連勝なるか?70は古希、古来稀なり」とのアナウンスで放送を開始したと言う。もちろん、この日に連勝が途切れるなどとは和田も予想しておらず、双葉山が外掛けに倒れた時に、控えのアナウンサーに「双葉負けたね!確かに負けたね!」と確認してから「双葉山敗れる!」とのアナウンスをした。しかし、万一双葉山が敗れた場合に備えて用意していた言葉は霧散し、ただマイクに向かって何度も「双葉山敗れる!」を繰り返したと自著に記している。
双葉山は約3年ぶりに黒星を喫し、69連勝で止められたにもかかわらず、普段通り一礼をし、まったく表情も変えずに東の花道を引き揚げていった。同じ東方の支度部屋を使っていて、この一番の後の取組のため土俵下に控えていた横綱男女ノ川は、取組後に「あの男は勝っても負けてもまったく変わらないな」と語っている。
その日の夜、双葉山は師と仰ぐ安岡正篤に「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電した。これには双葉山の言葉を友人が取り次いだものという説もある。同夜、双葉山は以前から約束されていた大分県人会主催の激励会に出席しており、後者の説を採るなら、同会で発せられた言葉であったことになる。70連勝ならずのその夜のことになってしまったため、急遽敗戦をなぐさめる会の雰囲気になったが、いつもと変わらず現れた双葉山の態度に列席者は感銘を受けたという。なお双葉山自身は著書の中で、友人に宛てて打電したもので、友人が共通の師である安岡に取り次いだものと見える、と述べている。
双葉山の70連勝を阻止した安藝ノ海がこれを師匠出羽海(元小結両國)に報告した際、出羽海は「勝って褒められる力士になるより、負けて騒がれる力士になれ」と言ったという。藤島(元横綱常ノ花)の言葉だったという説もある(安藝ノ海は当時入院中の藤島の許も訪れ、報告した写真も残されている)。28代庄之助は当時出羽海部屋の豆行司で、出羽海の付き人をしていてこの時の言葉を聞いたと証言しており、後者の藤島発言説を否定している。
出羽海一門は打倒双葉を期して、笠置山を参謀に日々打倒双葉の戦略・戦術を練った。その中で「双葉の右足を狙え」の合い言葉が生まれ、新鋭で双葉とは一度も顔合わせをしていなかった安藝ノ海が殊勲を挙げた。安藝ノ海はその後、1943年に横綱に昇進した(→「安藝ノ海節男」「笠置山勝一」の項参照)。
なお、28代庄之助は世紀の一番は付き人の仕事の最中で直接には見ることは出来なかったが、NHKの特別番組で「津波が押し寄せてくるような、地鳴りのような轟音がした」「庄之助親方も伊之助親方も厳しい表情で黙ったまま支度部屋に戻ってきた。それで『あ、双葉関が負けたんだ』と思った」と回想している。
69連勝以降
横綱免許を獲得した頃、双葉山は「双葉山と言うのは若い力士の四股名だから横綱昇進を契機として、“3代目梅ヶ谷”を襲名しないか」と話を持ちかけられたが、本人はこれを断わり最後まで双葉山で通した。現在では双葉山の四股名は止め名になっている。
安藝ノ海によって69連勝のストップした場所では結果的に4敗し、続く1939年5月場所も危ぶまれたが、初めて15日制で行われた本場所で全勝と復活。その後、1940年5月場所11日目までに4敗を喫し、「信念の歯車が狂った」といって突如引退を表明し世間を騒がせた。協会や周囲の必死の説得に引退を翻意、途中休場し滝[5]に27日間(24日間とも)うたれるような、求道者的態度で相撲道にはげみ、第一人者の座を守った。
一方で、関取は師匠をはじめとした一門の親方の縁者や花柳界の者を妻にするのが一般的だった時代(現在でも年寄名跡継承等の点から親方の娘との結婚が見られる)に師匠直々に「おまえに部屋を継承させたい」と自らの娘を紹介されながら断り(その娘は羽黒山と結婚)一般人女性と結婚したり、立浪部屋を離れて自ら道場(引退後を参照)を開くなど、師匠・立浪との関係は必ずしも良好ではなかった。大派閥である出羽海一門に激しい対抗心をもやす師匠と、力士会会長としての立場との間で、多くの葛藤があったとされている。
1942年から1944年にかけても4連覇、36連勝を記録している。69連勝序盤の頃はまだ双葉山も体が出来上がっておらず、うっちゃりに頼る相撲も何番かは見受けられた。しかしこの頃には右四つ寄り、上手投げの型の安定性は正に磐石であったという事から、むしろこの時代こそが双葉山の全盛期と見る向きが多い。
引退
1944年11月場所6日目、幕下の頃から目をかけていた関脇東冨士に敗れたのが、引退を決意した時であったという。翌日は小結増位山に不戦勝を与えて休場したが、協会や関係者に慰留されてこの時は撤回した。翌1945年6月場所初日、小結相模川を下したがその後休場、このときは休場届提出後に割が組まれたために不戦敗はつかず成績は1勝6休、結果的にこの取組が取り納めとなった。
引退の直接の動機として、16尺土俵の問題があったといわれている。相撲協会はGHQに取り入るため、相撲をより面白くしようとそれまでの15尺土俵から16尺へ広げようとしていた。双葉山はこれに反対だったといわれている。
1945年9月、相撲協会は土俵を4.84m(16尺)と決定し、同年11月場所が行われた。番付には名を残してはいたが、場所には出場せず、結果的に最終場所。その引退は太平洋戦争での敗戦と重なり、東冨士との対戦が結果として最後の土俵上での黒星である。
自ら引退を発表した時の映像(ニュース映画)が現在も残っている。
尚、土俵は結局その11月の1場所だけで、力士会の反対で元の15尺に戻された。
引退後
現役中からその実績を評価され二枚鑑札同様の形で現役力士のまま弟子の育成を許されたため、1941年(昭和16年)5月に立浪部屋から独立して福岡県太宰府市に「双葉山相撲道場」を開いていたが、引退後に年寄・時津風を襲名し、道場を時津風部屋に改称する。
先代の時津風は元大坂相撲の小九紋竜であり現役時代から悪評が高かった為、当時周囲は『そんな悪い名跡を継承することはない、雷(いかづち)の名跡こそ大横綱の双葉山にふさわしい』と進言したが、当の本人は「年寄名跡はどれも同じだ」と言って(一説には「悪い名跡なら私が良くします」と言ったとも)そのまま時津風を襲名した。
1946年(昭和21年)11月6日から11月18日にかけてメモリアルホール(両国国技館)で行なわれた本場所は不入りだったが、千秋楽の翌日双葉山の引退相撲が行われこの日だけは超満員だった。現在では断髪式の時に力士は土俵上に用意した椅子に座るが、双葉山断髪式の写真を見ると土俵上で正座している。
1947年(昭和22年)1月21日、金沢で新宗教、璽宇の教祖の璽光尊こと長岡良子とともに石川県警察に逮捕されるという騒動を起こす(璽光尊事件)。双葉山は蓄膿症の手術をしたころから熱心な日蓮宗の信者であったというが、このときなぜ璽宇に帰依していたのかについては謎も多く、日本の敗戦による虚脱感から、璽光尊の奸計にはまったから、などの説があるが、いずにれせよ双葉山の求道的な性格が裏目に出たものと言われている。若き日からの友人であった新聞記者の説得が功を奏して双葉山は我を取り戻すと、その後は璽光尊に双葉山奪回を命じられ訪ねてきた呉清源の言葉には耳も貸さなかった。
当時の新聞は双葉山の得意が右四つだったのにかけて、事件を「悲劇の左四つ」の見出しで報じたという。釈放後道場に戻る。
日本相撲協会理事長として
1957年5月に出羽海理事長自殺未遂事件の後に相撲協会理事長に就任し、相撲協会構成員(年寄、行司等)65歳定年制の実施や、部屋別総当り制の実施、相撲茶屋の再編と法人化などの改革に尽力した。協会内では秀ノ山・武蔵川らを腹心として重用し、外部有識者としては若き時代からの盟友玉の海梅吉の意見によく耳を傾けた。
年寄時津風として1横綱(鏡里)、3大関(大内山、北葉山、豊山)等数多くの名力士を育成した。弟子の青ノ里の話では1953年にはまだ自ら弟子に稽古をつけていたという。
ちなみに現在でも時津風部屋は、「双葉山相撲道場」の看板を正式な部屋名とともに掲げている。北葉山が入門した時、「時津風部屋はどこですか?」と聞いても誰も知らず、「“道場”ならそこだよ」と教えられたという。
1960年に相撲協会の財団法人化35周年式典が行なわれた際に理事長として挨拶状を読み上げることになったが当日挨拶状を渡す係だった秀ノ山が挨拶状を忘れてしまい、慌てて取りに戻った。時津風は秀ノ山が戻るまでの間土俵上で直立不動、当初失笑が洩れていた館内はやがて静まり、そして拍手の渦となった。中には涙をこぼす者もあったという。
1968年12月16日、劇症肝炎にて逝去。享年57(満56歳没)。死の直前に東大病院に入院する際、死に装束を模した白のスーツで向かったという。戒名は霊山院殿法篤日定大居士。
取り口、強さなど
右手と右目にハンデがあった事もあるが、左上手投げの強さは常識を超えており、相手を軽々と放り投げた。引退後5年経って小結若瀬川と花相撲で対戦したときも上手投げで勝った。全盛期の形は右四つから左上手を取るという完成された形であった。斉藤茂太が随筆に記しているところでは、双葉山の場合は左上手からの締めつけが凄まじく強烈な為、ほとんどの相手力士が利き手である右下手の力をその上からかぶさる左上手に完全に殺されてしまい、何もできなくなって最後には上手投げを食らうという。
双葉山は立合いに相手を良く見るが、攻撃はほとんど相手に先行する。武道のやり方としては「後の先」と言われる作法である。なお、「打っ棄り双葉」と呼ばれていた頃も右四つからの上手投げなどの正攻法の相撲を仕掛けていたのだが、当時は通用せず結果的にそのようになってしまっていた。稽古場での強さも群を抜いており、大関以下を相次いで相手にし相当の番数をこなしてもなお、息が上がることがなかったという。
非力と称されることもあったが蔵間竜也によると、亡くなる直前ですら座ったまま軽々と銅の火鉢を持ち上げたという。
また、戦時中の国家主義的な雰囲気を背景に敢闘精神が強調された風潮のなか、不敗を続ける双葉は神国日本の象徴として絶賛を受け続け、双葉山の活躍により春秋園事件で落ちた相撲人気が再び盛り返した。
どんな相手に対しても同じような態度で臨んだ。力水は一回しかつけず、自ら待ったをかけることはなく、相手力士がかけ声を発すれば制限時間前であっても、1回目の仕切でさえ受けて立った(1度目で立った相撲でも見事に勝っている)。後述のように双葉自身が無駄な動作を嫌い土俵上の短時間に極限まで集中を高めたためであるが、こうした土俵態度も今日まで力士の模範とされている。
相撲態度に関しては文句が無かった一方で、土俵入りに関しては男女ノ川同様に腕を廻して柏手を行ったため酷評された事もある。また、後にはそういうことは無くなったが、当初は土俵入りの際の力みも目立った。
幕内通算成績は、31場所で276勝68敗1分33休、勝率8割2厘。繰上げ入幕のため、通算での勝率では他の大横綱に一歩譲ることになったが、横綱昇進後は17場所・180勝24敗22休で勝率8割8分2厘(取り直し制度導入以降の最高(ただし第69代横綱白鵬翔は、2007年7月場所から2010年9月場所現在までの横綱在位20場所で273勝27敗(勝率9割1分)で、双葉山の勝率を現在のところ上回っている))、優勝12回(年2場所制での最多)、全勝8回(現在に至るまで最多、年6場所制となってから大鵬と白鵬がタイ記録樹立)、5場所連続全勝(年2場所制で最多)、関脇1場所、大関2場所は全て全勝で通過(明治以降唯一)、69連勝(記録に残っている1757年以降最高)など、不滅の足跡を残した。
その他
- 年2場所制であった戦前の大相撲では、大阪や名古屋で「準場所」と呼ばれる場所を開催していた。準場所での成績を含めた場合、1937年6月の大阪関目国技館場所の5日目から、1938年6月に西宮球場で行われた準場所3日目に九州山に敗れるまで、87連勝を記録している。勿論、公式記録ではないものの、双葉山の強さを物語る記録である。
- 「二葉山」を名乗った時期があるように書かれることもあるが、これは下位力士だった時代に番付上に誤記されたものである[6]。
- 現在の大相撲で、力士は力水を最初に一度しかつけないが、これは双葉山から始まっている。彼以前の時代には、仕切りなおしのたびに力水をつける者も珍しくなかった。新弟子の頃、「力水は武士にとっての水盃だ」と兄弟子から教えられ、死を覚悟しての水盃なら、一度つければ十分だと考えた――という話が広く流布しているが、双葉山自身はこれを否定、「ただ土俵上であまり無駄なことはするまいと思っただけ」と語っている。
- 右目の状態は、入門から入幕の頃にかけては、かすんだり物が二重に見えたりしていたが、やがてほとんど見えなくなったという。なまじ見えるよりその方が都合が良かったと、当人は後に語っている。対戦力士の側にも、「あの人は目の前の相手と違うものを見て相撲を取っている」といった証言が多く残る。実際双葉山の右目はやや白濁しており、右目に白い星があった。そのことから相手は神眼だといって恐れたという。ちなみに、横綱昇進後に喫した23敗は、安藝ノ海に69連勝を止められた一番を含め、大半が右側から攻められてのものである。右目が見えないことは公表されていなかったが、櫻錦に敗戦したとき、飛び違いという決まり手であったことから、双葉山は目が悪いのではないかという噂が広がった。なお、小坂秀二の著書に引かれた笠置山の談話によると「我々は皆双葉山の右目のことを知っており、当然そこを狙って作戦を立てていた」という。
- 国民的人気を集めた双葉山だったが花柳界においても例外ではなく、新橋や柳橋の芸者連は“双葉関の貞操を守ろう”と「さわらぬ連盟」なるものを作り互いに牽制し合っていたといわれる。横綱昇進時まだ独身であったことや、その童顔もあって、「童貞横綱」などとも呼ばれたが、栃錦が新弟子の頃、師匠春日野(元栃木山)のつかいで料亭に双葉山を訪ねたところ、「この世にこんなきれいな人がいるのかと思った」ほどの美女をはべらせていたと証言している。
- 1958年に初代若乃花が横綱に昇進した際、二所ノ関一門としては玉錦以来の新横綱誕生であり、かつ二所ノ関一門関係者には玉錦の現役当時のことを詳しく知っている者がいなかった為、双葉山の時津風自らが若乃花に横綱土俵入りの指導を行った。また明治神宮での初代若乃花の横綱推挙式に附随して行う奉納土俵入りに際しては双葉山が自ら現役時代に使用して、唯一残っていた三つ揃いの化粧回しを花籠部屋に貸し出して間に合わせたという。
- 妻の澄子(2005年没)は双葉山について自分に対するインタビューを拒否し続けた。そのため双葉山に関する本や番組で澄子の証言は一切ない。
- 子は息子と娘がいたが、娘は10代半ばで病死。息子は成人し日蓮宗の住職になったが、44歳の若さで死去した。
- 孫娘(次女)は現在舞台女優の穐吉美羽。
- 孫娘(長女)は元宝塚歌劇団77期生・双葉美樹(2001年退団)
双葉山の名言
- 「稽古は本場所のごとく、本場所は稽古のごとく」
- 「相撲ぐらい怪我をしないスポーツはない」
- 「相撲は体で覚えて心で悟れ」
- 「われ未だ木鶏たりえず」
- 「勝負師は寡黙であれ」
- 「一日に十分間だけ精神を集中させることは誰にでも出来るはずだ」
年譜
- 1912年2月9日 - 大分県宇佐郡天津村布津部(現:大分県宇佐市大字下庄)にて廻漕業を営む、龝吉義広の次男として生まれる。
- 1927年
- 1931年5月 - 新十両、初めて負け越す。
- 1932年2月 - 春秋園事件のため繰上げで新入幕。
- 1936年1月 - 連勝始まる。
- 1937年11月 - 吉田司家から横綱免許状を授与される。
- 1939年
- 1月 - 安藝ノ海に負け69連勝で止まる。
- 4月 - 小柴澄子と結婚。
- 1941年5月 - 双葉山相撲道場を開設。
- 1943年10月 - 九州大宰府に双葉山相撲練成道場を開設。
- 1944年6月 - 長男・経治誕生。
- 1945年11月 - 引退表明。
- 1946年11月 - 両国国技館で引退相撲を挙行、年寄時津風を襲名。
- 1947年10月 - 日本相撲協会の理事に就任。
- 1957年5月 - 日本相撲協会理事長に就任。
- 1962年12月 - 紫綬褒章を受章。
- 1968年12月16日 - 劇症肝炎のため死去。56歳。法号(戒名)は「霊山院殿法篤日定大居士」。
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
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1927年 (昭和2年) |
x | (前相撲) | (前相撲) | x | x | 東序ノ口27枚目 4–2 |
1928年 (昭和3年) |
東序ノ口9枚目 5–1 |
西序二段34枚目 3–3 |
東序二段16枚目 3–3 |
x | x | 東序二段16枚目 4–2 |
1929年 (昭和4年) |
東三段目33枚目 3–3 |
東三段目33枚目 5–1 |
西三段目7枚目 4–2 |
x | 西三段目7枚目 3–3 |
x |
1930年 (昭和5年) |
西幕下24枚目 4–2 |
西幕下24枚目 3–3 |
東幕下4枚目 4–2 |
x | x | 東幕下4枚目 3–3 |
1931年 (昭和6年) |
西幕下3枚目 6–1 |
西幕下3枚目 5–2 |
西十両5枚目 3–8 |
x | x | 西十両5枚目 7–4 |
1932年 (昭和7年) |
西前頭4枚目 5–3 |
西前頭4枚目 8–2 |
東前頭2枚目 6–5 |
x | x | 東前頭2枚目 0–0–11 |
1933年 (昭和8年) |
東前頭5枚目 9–2 |
x | 東前頭2枚目 4–7 |
x | x | x |
1934年 (昭和9年) |
西前頭4枚目 6–5 |
x | 西前頭筆頭 6–5 |
x | x | x |
1935年 (昭和10年) |
東小結 4–6[7] |
x | 東前頭筆頭 4–7 |
x | x | x |
1936年 (昭和11年) |
東前頭3枚目 9–2 ★ |
x | 西関脇 11–0 |
x | x | x |
1937年 (昭和12年) |
東大関 11–0 |
x | 東大関 13–0 |
x | x | x |
1938年 (昭和13年) |
西横綱 13–0 |
x | 東横綱 13–0 |
x | x | x |
1939年 (昭和14年) |
東横綱 9–4 |
x | 東横綱 15–0 |
x | x | x |
1940年 (昭和15年) |
東横綱 14–1 |
x | 東横綱 7–5–3 |
x | x | x |
1941年 (昭和16年) |
西横綱 14–1 |
x | 西横綱 13–2 |
x | x | x |
1942年 (昭和17年) |
東横綱 14–1 |
x | 東横綱 13–2 |
x | x | x |
1943年 (昭和18年) |
西横綱 15–0 |
x | 東横綱 15–0 |
x | x | x |
1944年 (昭和19年) |
西横綱 11–4 |
x | 東張出横綱 9–1 |
x | x | 東張出横綱 4–3–3 |
1945年 (昭和20年) |
x | x | x | 西張出横綱 1–0–6 |
x | 西横綱 引退 0–0–10 |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
主な力士との幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
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安藝ノ海 | 9 | 1 | 東富士 | 0 | 1 | 五ツ嶋 | 5 | 2 |
鏡岩 | 10 | 1 | 汐ノ海 | 1 | 1 | 清水川 | 5 | 4 |
玉錦 | 4 | 6 | 照國 | 2 | 3 | 能代潟 | 3 | 2 |
前田山 | 7 | 1 | 増位山 | 5 | 2 | 男女ノ川 | 10 | 5 |
武藏山 | 2 | 4 |
安藝ノ海とは前述の69連勝で止められた一番の後は全勝。同じ相手に二度は続けて負けないという双葉山の信念を物語る対戦成績である。
玉錦とは4連敗の後6連勝、武藏山とは4連敗の後2連勝、男女ノ川とは5連敗の後10連勝、清水川とは5連敗の後4連勝。先に大関・横綱に上がっていた力士も双葉山が横綱となって力をつけてからは双葉山に全く歯が立たなくなった。
脚注
著書
- 『相撲求道録』 日本図書センター ISBN 4-8205-4341-5
- 『横綱の品格』 ベースボール・マガジン社新書006 ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-10075-3
関連書籍
- 『一人さみしき双葉山』 工藤美代子著 ちくま文庫 ISBN 978-4-480-02516-6
関連楽曲
- 『双葉山』(唄:細川たかし 作詞:高橋直人 作曲:あらい玉英)1998年8月22日