玄菟郡

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漢四郡

玄菟郡(げんとぐん)は、前漢により現在の中国東北部の南部から朝鮮半島北部に設置された植民地[1]楽浪郡臨屯郡真番郡と共に漢四郡と称される。玄菟郡はその設置期間に3段階の沿革が存在し、それぞれ「第一玄菟郡」「第二玄菟郡」「第三玄菟郡」とよばれている。歴史研究ではこれらを混同を避けるべく明確な分類を行う必要がある。

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第一玄菟郡

第一玄菟郡、第二玄菟郡、第三玄菟郡
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前107年(元封4年)に遼東郡の東・楽浪郡の北に隣接する地に設置され、幽州に属した。かつての蒼海郡の再建が玄菟郡であるとの説もある。郡治は夫租県[4]に置かれた。

郡内の県は、夫租、高句驪、西蓋馬、上殷台の4県しかわからない。これらの県は第三玄菟郡の県として移転されたので後々まで記録に残ったものであり、これ以外の県についての詳細は記録が散逸して不明である。が、当時の戸数は45,006戸、人口は221,845人。当初の領域は遼東郡北端から出発して、吉林省東部と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)慈江道両江道に跨がる地域を経て、咸鏡道を通り日本海に達する回廊状に県城が並んだものと推察してこれを「玄菟回廊」[5][6]と呼ぶ学者もいる。

前82年始元5年)に漢四郡のうち真番郡・臨屯郡が廃止され、そのうち臨屯郡の6県が楽浪郡に編入された。玄菟郡はこのとき廃止をまぬがれたものの、夫租県が楽浪郡に編入された。この7県(嶺東7県)は楽浪郡東部都尉の管轄とされた。玄菟郡の郡治は夫租県から変わって高句驪県(現在の吉林省集安市通溝郷)[7]に移された[8]。これで、玄菟郡領域のうち日本海沿岸部(咸鏡南北道)は夫租県とその周辺一帯を除いて大部分が放棄されたことになる。同時に臨屯郡領域のうち北部の6県を除く半分以上(9県)も放棄された(3世紀の江原道の「東濊族」の起源)。

第二玄菟郡

紀元前75年元鳳6年)になると、未開であり人口の少ない北部や東部の丘陵・山岳地帯は、統治費用が嵩むとして直接支配を徐々に放棄して、冊封体制下での間接支配に切り替える方針になり、玄菟郡は西へ縮小移転された。郡治の高句驪県は現在の遼寧省撫順市内の東部、新賓満族自治県永陵老城村(昔の興京)付近へ移され、元の場所には高句麗侯(後の高句麗王国の前身)が冊封された。

始建国4年(12年)、異民族蔑視政策を進めた王莽が高句麗を下句麗へ改名した為に、高句麗が玄菟郡を侵犯するようになる。後漢が成立すると光武帝建武6年(30年)に楽浪郡東部都尉は廃止となり、嶺東7県の直接統治は放棄され、それぞれ県侯として冊封して独立させた(その一例として夫租薉君・夫租長の銀印などが発見されている。3世紀の「沃沮族」の起源)。建武8年(32年)に高句麗侯は再び冊封体制下へ組み込まれ、候から王へ昇格された。

第三玄菟郡

107年永初元年)になると、玄菟郡はさらに西に移転し遼東郡の内部に移された。遼東郡北部都尉の管轄区を遼東郡から切り離して新しく玄菟郡とし、遼東郡に隣接していた旧玄菟郡を廃止、高句麗による領有を許可した。これにより、旧玄菟郡の領域はすべて放棄された。郡治の高句麗県は現在の瀋陽(瀋陽と撫順の中間からやや瀋陽寄り)に遷された。諸県のうち、高句麗県・上殷台県西蓋馬県の3県は、元々は玄菟郡にあった諸県の県名を移動させてきたものの残滓である。戸数は4万5006、口数は22万1845人。

高句麗との関係

後漢末、遼東太守の公孫氏が独立すると、隣接する旧玄菟郡西端部から高句麗を駆逐した。その後、曹魏は侵犯を繰り返す高句麗に対して、毌丘倹を派遣して大いに打ち破り、丸都城を毀城した。これにより、旧玄菟郡西部は魏の領有となり、西晋前燕前秦後燕へと継承された。東晋の時代になると、旧玄菟と玄菟遼東の二郡は後燕と高句麗との間での争奪が繰り返されたが、404年、最終的に遼東郡は高句麗の領有となった。これに前後して玄菟郡も高句麗の手に落ちたと推測される。

高句麗を構成する5部族の前身が玄菟郡の5県の県侯だったとすれば、32年建武8年)に王に冊封された段階で5部族の連合体としての王国が成立したともみえる。高句麗の王都「丸都城」は玄菟城が訛ったものである。後世に編纂された『三国史記』に記載された伝承では、高句麗は前37年に建国されたことになっており、これは第二玄菟郡の期間内にあたるため、中国側から高句麗侯と呼ばれた勢力が大雑把にほぼその頃の建国であることは信憑性があると考えられている。なお、『三国史記』では高句麗は最初から王として出てくるが、中国が与える称号(冊封体制内での官職)としての「王」と、自国内の自称としての「王」は必ずしも一致しないのでこれは大きな矛盾とはいえない。

異説

北朝鮮の学界の定説及び韓国の学界の一部では、漢帝国による朝鮮半島併合の事実はなかったとして、漢四郡の位置が実は朝鮮半島の外部(具体的には通説でいう遼東郡の内部)に存在したと主張する。この説の場合の玄菟郡は、徐々に縮小したのではなく紀元前107年から一貫して瀋陽付近にあった(つまり通説でいう第三玄菟郡)というものである。

これらの異説は、北朝鮮の学界では「定説」となっており、韓国でも在野の歴史学界(アマチュアの歴史愛好家)から支持されているが、主流の歴史学界(大学教授からなる)からは批判されており、韓国では「定説」になっていない。また日本やアメリカや中国の学界では全く認められていない。

脚注・出典

  1. ^
    • 鳥越憲三郎「前漢武帝が元封三年に朝鮮半島の北部を植民地として楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡を設置」(中西進王勇[要曖昧さ回避]編 編『人物』大修館書店〈日中文化交流史叢書 第10巻〉、1996年10月。ISBN 4-469-13050-8 )。
    • 渡辺延志朝日新聞記者「楽浪郡は前漢が前108年に設置した植民地(渡辺延志 (2009年3月19日). “紀元前1世紀の楽浪郡木簡発見”. 朝日新聞. http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200903190125.html 2011年6月1日閲覧。 )」「中国の前漢が朝鮮半島に置いた植民地・楽浪郡(渡辺延志 (2010年5月29日). “最古級の論語、北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(1/2ページ)”. 朝日新聞. http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005280277.html 2011年6月1日閲覧。 )」「漢字が植民地経営のために、朝鮮半島にまで広がっていた(渡辺延志 (2010年5月29日). “最古級の論語、北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(2/2ページ)”. 朝日新聞. http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005280277_01.html 2011年6月1日閲覧。 )」
    • 長野正孝「武帝は朝鮮半島に楽浪と玄菟、真番と臨屯の漢四郡をつくって、漢人の郡太守と県令を送り、植民地政策を始めた。侵略した漢人達は土着の住民達を奴隷のように使って半島の地下に眠る鉄鉱石を掘り出し、衛氏朝鮮の古い製錬・鍛造施設を使い何ら投資することなく鉄生産を始めた。」『古代史の謎は「鉄」で解ける』PHP研究所2015年
    • 武光誠魏志倭人伝は、朝鮮半島にあったの植民地、帯方郡から邪馬台国にいたる道筋を詳しく記している」武光誠「古代史最大の謎邪馬台国の21世紀的課題」『月刊現代』2008年6月号、87頁
    • 魚塘漢の武帝紀元前一〇八年衛満朝鮮の末王右渠を征服して、衛満朝鮮の故地に植民地というべき漢の四郡を設置した。」『朝鮮の民俗文化と源流』同成社1981年、41頁
    • 全浩天「漢が漢四郡を設置し、植民地支配をはじめるころ、高句麗族は、当代に威名をとどろかした漢帝国にたいする反侵略戦争の過程で真番、玄菟二郡を崩壊させ、国家形成をとげたのであった。これは、まさに凄絶な戦いであったにちがいない。」『古代史にみる朝鮮観』朝鮮青年社1996年
    • 築島裕「この東方は、漢の東方植民地を指すが、楽浪人の楽浪は、漢の東方植民地の最先端地にあたる、朝群の四郡を指したことも、ここではっ きりしてきた」『国語学論集―築島裕博士還暦記念』明治書院1986年、554頁
    • 黄文雄春秋時代から戦国時代初期にかけての封建体制下では、諸子や功臣の封地は国と称されたが、それとは別の県が、帝国以降の郡県制の基礎となった。漢の時代に朝鮮半島北部に設置された四郡など、まさしく漢民族の植民地だった。」『台湾朝鮮満州日本の植民地の真実』扶桑社2003年、385頁
    • 武雄市史』「これらの直轄植民地の四郡には、優れた文化をもった漢民族の官吏や軍隊が派遣され、一般の漢人の移住も行なわれた。」『武雄市史』第1巻、国書刊行会1981年、184頁
    • 水野祐「朝鮮の楽浪郡以下の植民地は、漢帝国の勢力圏の東の果てで、はるか遠隔の地と思われていた所であった。」『日本民族の源流』雄山閣1986年、263頁
    • 義富弘倭人朝鮮半島の漢の植民地楽浪郡に年々往来していたというのである。」『しまぬゆ 1 1609年、奄美・琉球侵略』南方新社2007年、17頁
    • 河合敦「朝鮮半島にあった漢の植民地・楽浪郡や帯方郡を通じて、中国王朝へ朝貢していたことが記載されている。」『早わかり日本史』日本実業出版社2008年
    • 武光誠「武帝はこのあと四か所の郡と呼ばれる植民地を設置して朝鮮半島を支配した。このような動きによって、大量の中国人が朝鮮半島に入ってくることになったのである。箕子朝鮮衛氏朝鮮の都も、武帝の四郡の中で最も有力であった楽浪郡の郡治(郡を治める役所)も、現代のピョンヤンのあたりにあった。」『地形で読み解く世界史の謎』PHP研究所2015年、195頁
    • 田辺広「紀元前一〇八年漢の武帝は北朝鮮を植民地として現在の平壌を中心に楽浪郡を置き後にソウル付近に帯方郡を設けた。」『日本国の夜明け』文芸社2003年、13頁
    • 西本昌弘「楽浪郡は漢武帝時代の紀元前108年に、朝鮮半島に設置された漢の植民地」『古代文化』第41巻、1989年、14頁
    • 羽原又吉「臨屯、真番の植民地四郡をおき、後漢の西暦二〇四年にはさらに帶方郡をおかれた」『日本近代漁業經濟史』第2巻、岩波書店1957年、13頁
    • 影山剛「漢はこの地域に新しく帯方郡を設置して植民地経営を開始した」『漢の武帝』教育社1979年、56頁
    • 杉原荘介「楽浪郡が漢帝国の最東方の漢民族の植民地」『日本の考古学: 弥生時代』河出書房新社1966年、414頁
    • 安田元久「武帝は北朝鮮に楽浪、臨屯、玄菟、真番の四郡を置き、植民地として郡県的支配が行われるようになった。」『資料對照日本史の新研究』洛陽社1959年、22頁
    • 田村実造「ところが漢の武帝は対匈奴作戦の一環として半島の征服を計画し、紀元前108年(元封3年)に大軍をおくって衛氏朝鮮をほろぼし、ここに楽浪郡以下の四郡をおいて植民地とした。楽浪郡はその後313年に高句麗に併合されるまで420年あまり中国の植民地として存続した。」『世界の歴史9』中央公論社1961年、399頁
  2. ^ 人口28万人は1戸5人と概算すると約5万〜6万戸となり、後世(三世紀)の高句麗3万戸東濊2万戸沃沮5千戸の合計に近い。
  3. ^ 『史記』及び『漢書』武帝紀による。『漢書』食貨志では「蒼」の字を「滄」としているが一般的にはこちらは誤字と考えられている。
  4. ^ 現在の北朝鮮咸鏡南道咸興市に相当
  5. ^ 森浩一著『考古紀行 騎馬民族の道はるか―高句麗古墳がいま語るもの』日本放送出版会
  6. ^ 森浩一監修『高句麗の歴史と遺跡』中央公論社
  7. ^ 高句驪県城は以後玄菟郡の郡治となったので一名「玄菟城」ともいった。
  8. ^ 少数意見ではあるが玄菟郡の郡治は夫租県ではなく最初から高句驪県にあったという異説を唱える学者(李丙燾)もいる。

参考文献

関連項目