秦真司

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秦 真司
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 徳島県鳴門市
生年月日 (1962-07-29) 1962年7月29日(59歳)
身長
体重
179 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手捕手
プロ入り 1984年 ドラフト2位
初出場 1985年4月13日
最終出場 2000年10月16日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
オリンピック
男子 野球
1984 ロサンゼルス 野球

秦 真司(はた しんじ、1962年7月29日 - )は、徳島県鳴門市出身の元プロ野球選手外野手捕手)・コーチ解説者

1994年から1998年頃までの間、スコアボードでの選手名表記を平仮名の「はた」としていた(登録名はそのまま)。当時の電光掲示板の解像度では「秦」の文字が読み取りづらいための措置である。

野球学校「PBA」の運営会社である有限会社裸裸裸の取締役も務める。マネジメント会社は株式会社レガシージャパンロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。

経歴[編集]

現役時代[編集]

プロ入り前

鳴門高校では3年次の1980年、同期のエース島田茂を擁し捕手として甲子園に春夏連続出場。春の選抜では、1回戦で滝川高石本貴昭に抑えられ敗退[1]夏の選手権では3回戦に進出するが、優勝した横浜高のエース愛甲猛に1-0で完封される[2]。秋の栃の葉国体でも準決勝に進むが、秋田商高山郁夫らに完封負けを喫した。

卒業後の1981年、島田と共に法政大学に進学。東京六大学野球リーグでは4度の優勝を経験し、ベストナイン(捕手)にも2度選出される。全日本大学野球選手権大会でも2年次の1982年、4年次の1984年に優勝している。1984年には第13回日米大学野球選手権日本代表に選出され、同年のロサンゼルスオリンピック日本代表として金メダルを獲得した。

プロ入り後

1984年のドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。背番号は「26」に決まる。

1987年に法大の大先輩である関根潤三が監督に就任する。

1988年より八重樫幸雄を押しのけ正捕手に定着。

1990年、新任の野村克也監督からリードと配球面を問題視され、開幕後数試合はスタメンで出場したが、4月末に新人の古田敦也に正捕手の座を奪われる。野村によると、同年の開幕カードである巨人戦において一塁に走者がおらず、カウント3ボール0ストライクからストライクをとることが最優先の場面で変化球を投手に要求した結果が四球となり、さらに野村が詰問したところ「(打者が)打ってくるような気がしたから」と答えたという[3]。ちなみにこの試合で篠塚和典に「疑惑のホームラン」を打たれており、内藤尚行-秦のバッテリーに対し、野村はこの一球の配球に対しても問題視していた。また、秦の送球術にも難を感じて、後年、秦の捕手としての適性について、「(前任の関根は)このキャッチャーでよくやっておられた」「キャッチャーとしては鈍感の部類」などと振り返っている。捕手としては酷評されたが、強打・地肩の強さ・脚力に着目されて6月から外野手に転向[4]。バッティングは野村も高く評価しており、「アイツの打撃フォームは教科書や。野球少年たちのいいお手本になる」と絶賛している。古田に正捕手を奪われた1990年も打率.292と打撃は好調であった。

1991年には右翼手の定位置を獲得して規定打席にも到達し(12位、打率.292)、同年のオールスターゲームに出場。

1992年には西武との日本シリーズに出場し、10月25日の第6戦では高校の後輩・潮崎哲也からサヨナラ本塁打を記録。

1994年10月6日には巨人との最終戦(神宮)は、巨人が勝ち同日に中日が負ければ、巨人の優勝が決まる試合であった。7回裏にリリーフの槙原寛己をヤクルトがとらえ、同点に追いつき、なおも走者を2人残して秦が打席に立ち、秦は右翼席中段に勝ち越し3ラン本塁打を放った。結局この試合に敗れた巨人は、中日と同8日最終戦で優勝をかけてぶつかることとなった。7日付の朝日新聞読売新聞毎日新聞日本経済新聞は、秦がうなだれる槙原を尻目にダイヤモンドを回るシーン、または打ったシーンの写真を掲載した。

1995年には2年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献したが、日本一の祝勝会ではしゃぎ過ぎて転倒。割れたビール瓶で足を10針縫う大怪我をしてしまうものの、病院で治療してもらった直後に、チームの祝勝会の二次会会場である六本木に合流している。

1997年にはプロ野球脱税事件に関わっていたことが発覚したが、左の代打として同年のリーグ優勝・日本一に貢献。稲葉篤紀真中満らの台頭で控えに回った後も代打で活躍した。

1998年には打率1割台の0本塁打に終わり、戦力外通告を受ける。

1999年には日本ハムファイターズ金銭トレードで移籍し、背番号は、前年まで落合博満が着けていた「3」であった。

2000年にはテスト入団で千葉ロッテマリーンズへ移籍し、背番号は「31」となる。同年7月16日の西武戦(千葉マリン)では、清水将海の負傷退場により捕手全員を使い切ったため、橋本将の防具を借用して途中から捕手として出場。二軍生活が続き、「来年は二軍でコーチとして選手を育成してくれ」と打診されると、秦は山本功児監督に「最終戦はベンチに入れてもらえませんか?」と直訴[5]20世紀最後の公式戦となった10月16日オリックス戦(千葉マリン)が引退試合となり、石井浩郎の代打で出場し、右中間へ適時二塁打を放った[5]。その後、代走を出されてベンチに戻った秦は感極まって涙を流したが、スタンドのファンから「秦真司コール」が沸き起こった。大きな声援にベンチを出てそれに応え、現役生活を締め括った[5]。同年引退。

引退後[編集]

2001年からロッテ二軍打撃コーチに就任したが、4月半ばに浦和球場で突然、平野謙二軍監督に「今から一軍に行ってくれ。試合はナイター(午後6時開始)だから、急いで新幹線に乗って神戸に向かってくれ」と言われた[5]。一軍に配置転換になり、新幹線の中で当日の相手投手の投球傾向や打者の対戦成績など、ありきたりのデータを調べて一軍に合流した[5]。山本は秦の引退試合を許可してくれるなど普段は優しいが、ユニフォームを着ると豹変し、瞬間湯沸かし器のように熱くなり、見境がなくなってしまう性格だと知った[5]。ミスがあったり、チームが負けたり、気に入らないことがあると、灰皿が飛んでくるほどであり、当時の選手達は山本の顔色をうかがいながらプレーしていた[5]。コーチが手を差し伸べようとすると、「選手を甘やかすな!」と一喝され、周囲の意見には耳を貸してくれなかった[5]。選手、コーチは味方であるはずの山本と戦っているような状態であり、この年は5月末には一時3位に浮上したが、8月末には5位に転落[5]。「9月からまた二軍へ行ってくれ」と言われ、その年で契約は終了となったため[5]、同年退任。その後は解説者(2002年 - 2004年)を務める。

2005年には中日ドラゴンズ一軍捕手コーチに就任。

2006年のリーグ優勝に貢献したが、同年退任。在任中のオフ期間中には筑波大学大学院に通い、捕手の研究を行った[6]。実際は2003年オフに落合博満新監督から要請があり「来年(2004年)はもう決まってる。再来年(2005年)から頼む」とのことであった。在任中は落合が名古屋市内に所有するマンションに住んでいたが、2004年にコーチ契約をする際、球団に「監督のマンションが空いているけど、どうする?」と勧められたのがきっかけであった[7]ナゴヤドームから5kmほどの場所にあり、当時の佐藤道郎二軍監督も住んでいた。ただ、そのマンションに落合は住んでおらず、東京に自宅があるが、名古屋ではホテル暮らしをしていた[7]。中日はコーチ陣の待遇が良く、他球団と違って「自由に使っていいよ」とまとまったタクシーチケットを渡された[7]。秦は30分ほどかけて徒歩で通ったため、ほとんど使わなかったが、「ナイター後くらいは乗って帰っていいんだぞ」と球団に念を押されたほどであった[7]。秦は太っ腹だと思っていたが、落合が「コーチ陣に不自由な思いをさせないように」と球団に頼んでいたのがきっかけであった[7]

2006年の日本シリーズで日本ハムに敗れ、翌日に空路で札幌から名古屋に戻ると、すぐに球団事務所に呼び出された[8]。秦は「とりあえず、リーグ優勝は果たした。少しは年俸が上がるかも……。」と淡い期待を抱きながら部屋をノックすると、神妙な面持ちの伊藤一正球団代表に「お疲れさまでした。2年契約満了です。更新はしません」と通告される[8]。秦はまさかのことで、すぐには受け入れられず絶句した後に「リーグ優勝したわけですし、来年こそ日本一だと思っていたので残念です。どうしてですか?何か問題がありましたか?」と聞いても、伊藤は「契約なので」の一点張りで、落合からは一言もなかった[8]。後任の捕手コーチには田村藤夫に決まったが、秦はシーズン中から頻繁に球場で田村を見かけるようになっていた[8]。2006年オフ解任後の会見で「球団からは人間関係じゃないですかと言われた」、「9月ごろに他球団から声を掛けていただいたが、優勝があるので断った」、「(中日からの解任理由について)契約しない理由が明確じゃないんでね。ベンチで声を出しすぎていたんじゃないですか」と語っていた[9]。秦と同じように「3年契約の満了で更新はしない」と言われた長嶋清幸一軍作戦・外野守備走塁コーチは怒りの記者会見を開いたが、秦も悔しかった。名古屋市内の行きつけの中華料理店に顔を出すと、店長から「来年も頑張ってくださいね」と激励され、秦は「いや、実はクビになったんです」と返すのが辛かった。餃子をつついていると、涙が溢れてきた[8]。総額で8000万円から1億円とされたラスベガスへの優勝旅行は、球団に「今年のご褒美なんだし、来てもいいんだぞ」と言われたが、行かなかった[8]

2007年東北放送NHK-BS1メジャーリーグ中継」解説者を務める。

2008年にはNHKのMLB中継の解説と並行して、BCリーグに新加入した群馬ダイヤモンドペガサス初代監督に就任。秦の後年の記述によると、球団側は当初群馬県出身の渡辺久信を迎える意向だったが、渡辺が西武の一軍監督に就任したため断念し、秦と渡辺の両者に親交のあった笘篠賢治が仲介する形で秦に声がかかったという[10]。1年目から初チームを上信越地区の後期優勝と年間優勝に導く。

2009年も前後期を連覇、地区年間優勝し、石川とのリーグチャンピオンシップに勝利して初のリーグ優勝を達成した。

2010年も前後期を連覇、3年連続の地区年間優勝を達成したが、石川とのリーグ年間優勝決定戦を1勝3敗で終えた責任を取り、10月3日に監督辞任を示唆したものの続投となった。

2011年は前期優勝したものの後期は3位に終わり、半期優勝の連覇は6でストップした。地区後期優勝の新潟との地区チャンピオンシップに0勝2敗で敗退し、3年連続の地区年間優勝はならず、10月31日に監督を退任[11]。前記の通り、解説者の仕事も兼務していたため、日曜日のデーゲーム(ホーム)の場合は試合終了後に東京のスタジオに移動して深夜に解説をしていたという[12]

パンクラスに練習生として稽古に行ったことがあり、それ以前からも格闘技に詳しく、サムライTVのSアリーナのMCを務めた(2003年頃)。

ロッテ退団後の2004年、タレントの井手らっきょがテレビ番組『マネーの虎』(日本テレビ、同年2月2日放送分)に出演し、元プロ野球選手による野球塾開校を希望。堀之内九一郎社長が激しく批判するも、井手と共に交渉にあたった秦がその場で実際に素振りをしたところ社長達がとても感動し、「下手な説明よりプロの素振りを見た方がよほど説得力があるよ」と他の社長を味方に付けたことでマネー成立させた逸話がある。結果、小林敬社長から270万円、高橋がなり社長と岩井良明社長からそれぞれ1000万円の投資を受け、2270万円という番組史上最高額のマネー成立を勝ち取った。塾は神奈川県の海老名市に開校予定だったが、建築基準法の関係で井手の出身地の熊本市になった。中日コーチ就任後の2005年5月28日にPBA(プロフェッショナル・ベースボール・アカデミー)という名前で開校。同年9月に設立された運営会社・有限会社裸裸裸の取締役として名を連ねる。

2012年には読売ジャイアンツ一軍バッテリーコーチに就任し、2年連続リーグ優勝と2012年の日本一に貢献。

2014年からは二軍バッテリーコーチを務めていたが、同年8月1日から再び一軍バッテリーコーチとなり[13]、リーグ3連覇に貢献。

2015年はリーグワーストタイの12捕逸を記録した[14]

2016年からは新設の三軍バッテリーコーチに就任[15]

2017年限りで退団。

2018年からNHK-BS1・J SPORTSの野球解説者に復帰。

2019年は巨人にファームバッテリー兼打撃コーチとして復帰したが、同年限りで退団。

2020年からはDAZN解説者を務める。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1985 ヤクルト 41 46 44 5 8 2 0 2 16 7 0 1 0 0 1 0 1 14 1 .182 .217 .364 .581
1986 59 74 63 10 15 3 0 2 24 8 2 1 1 2 8 0 0 21 0 .238 .315 .381 .696
1987 33 70 68 8 14 4 0 3 27 11 1 0 0 0 2 0 0 11 2 .206 .229 .397 .626
1988 122 388 354 33 89 17 3 7 133 29 3 1 5 0 27 8 2 52 8 .251 .308 .376 .684
1989 84 265 245 23 71 12 0 8 107 28 2 3 0 0 19 4 1 40 3 .290 .343 .437 .780
1990 93 279 250 26 73 18 3 11 130 35 1 1 0 2 22 1 5 57 0 .292 .358 .520 .878
1991 117 419 383 51 112 20 4 16 188 47 5 2 5 0 26 1 5 70 4 .292 .345 .491 .836
1992 112 392 342 42 86 19 0 15 150 51 5 0 0 2 40 2 8 63 1 .251 .342 .439 .780
1993 92 269 243 23 58 11 0 7 90 27 2 0 2 1 20 1 3 47 3 .239 .303 .370 .674
1994 92 264 248 25 65 6 4 9 106 31 6 1 1 1 14 1 0 32 10 .262 .300 .427 .728
1995 96 273 252 24 72 13 1 9 114 31 1 2 3 2 15 4 1 43 2 .286 .326 .452 .778
1996 80 164 141 16 34 4 0 6 56 17 1 0 0 0 20 1 3 27 2 .241 .348 .397 .745
1997 71 73 63 9 17 2 1 2 27 11 1 0 1 0 7 1 2 18 0 .270 .361 .429 .790
1998 49 52 48 1 8 3 1 0 13 4 1 0 1 1 2 0 0 10 2 .167 .196 .271 .467
1999 日本ハム 17 19 16 2 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 3 1 0 2 0 .125 .263 .188 .451
2000 ロッテ 24 31 30 3 8 2 0 0 10 4 0 0 0 0 1 0 0 6 1 .267 .290 .333 .624
通算:16年 1182 3078 2790 301 732 137 17 97 1194 341 31 12 19 11 227 25 31 513 39 .262 .324 .428 .752

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1996年8月16日、対読売ジャイアンツ17回戦(東京ドーム)、8回表に宮本慎也の代打として出場 ※史上336人目
その他の記録

背番号[編集]

  • 26 (1985年 - 1998年)
  • 3 (1999年)
  • 31 (2000年)
  • 77 (2001年)
  • 82 (2005年 - 2006年、2012年 - 2015年)
  • 88 (2008年 - 2011年)
  • 102 (2016年 - 2017年)
  • 89 (2019年)

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  3. ^ 野村克也氏「捕手は年重ねて味出る。35歳から面白くなった」
  4. ^ 松下茂典『捕手ほど素敵な商売はない 野村克也 VS.森祇晶』朝日新聞出版、2009年。ISBN 978-4022506054138頁 - 139頁
  5. ^ a b c d e f g h i j ロッテ二軍コーチに就任 開幕半月で一軍行きを命じられた【秦真司 間近に見た「名将」の真実】
  6. ^ 落合博満監督は性格が強過すぎる谷繁元信を買っていた【秦真司 間近に見た「名将」の真実】
  7. ^ a b c d e 肩が強くなくても盗塁を刺せる正捕手・谷繁元信の高等技術【秦真司 間近に見た「名将」の真実】
  8. ^ a b c d e f 落合監督のドライな思考 私の後任はとっくに決まっていた【秦真司 間近に見た「名将」の真実】
  9. ^ 秦捕手コーチも「退団会見」で皮肉たっぷりの発言、2006年10月29日、スポーツニッポン
  10. ^ “秦真司 間近に見た「名将」の真実 日曜ナイター後バスで7時間かけて群馬に帰ると…朝の6時に (1/3ページ目)”. 日刊ゲンダイ. (2021年3月27日). https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/287036 2021年3月28日閲覧。 
  11. ^ 秦 真司監督退任のお知らせ - 2011年10月31日
  12. ^ “秦真司 間近に見た「名将」の真実 日曜ナイター後バスで7時間かけて群馬に帰ると…朝の6時に (3/3ページ目)”. 日刊ゲンダイ. (2021年3月27日). https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/287036/3 2021年3月28日閲覧。 
  13. ^ コーチ人事につきまして
  14. ^ 中日 94失策は人工芝のナゴヤドーム移転後最多 - 日刊スポーツ(2015年12月30日)
  15. ^ 来季の三軍コーチングスタッフについて - 読売巨人軍公式サイト(2015年10月29日)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]