サッカーボーイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。(あ) (会話 | 投稿記録) による 2021年10月22日 (金) 22:02個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (2407:C800:F00F:4:0:0:0:28EE (会話) による ID:86160349 の版を取り消し)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

サッカーボーイ[1]
欧字表記 Soccer Boy[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 栃栗毛(尾花栗毛)[1]
生誕 1985年4月28日[1]
死没 2011年10月7日(26歳没)
ディクタス[1]
ダイナサッシュ[1]
母の父 ノーザンテースト[1]
生国 日本の旗 日本北海道白老町[1]
生産者 社台ファーム白老[1]
馬主 (有)社台レースホース[1]
調教師 小野幸治栗東[1]
競走成績
タイトル JRA賞最優秀3歳牡馬(1987年)[1]
JRA賞最優秀スプリンター(1988年)[1]
生涯成績 11戦6勝[1]
獲得賞金 2億1993万2400[1]
勝ち鞍
GI 阪神3歳S 1987年
GI マイルチャンピオンS 1988年
GIII 中日スポーツ賞4歳S 1988年
GIII 函館記念 1988年
テンプレートを表示

サッカーボーイ日本競走馬種牡馬である。競走馬時代は1988年マイルチャンピオンシップ優勝や芝コース2000mの日本レコード更新などの活躍をし、1988年にはJRA賞最優秀スプリンターに選出された。

戦績

年齢は旧表記(数え年齢)に統一する。

1985年、北海道の社台ファーム(現・社台コーポレーション白老ファーム)に産まれた。同期の中でもっとも小柄な仔馬だったことに加え当時から気性が激しく、後ろ脚二本で立ち上がって歩いたり、牧柵を超えて脱走を図ったりすることがあった[2]。白老ファームの大須賀康忠牧場長には「生まれた頃から小さかったせいか、とくべつ大物という印象はなかった」[3]との感想を抱かせていたが、育成段階に入ると社台ファーム空港場長の大沢俊一に「長年育成の仕事をしてきたが、乗っていてその主の勘に背中がぞくぞくしてきたのは、サッカーボーイが初めて」と言わしめるほど非凡な走りを見せていた[2]。しかし生まれつき蹄が丈夫でなく、以降裂蹄に悩まされることとなる[2]

3歳時

3歳になり、内山正博を鞍上に函館競馬場でデビューすると、のちに重賞を2勝するトウショウマリオを相手に9馬身差で勝利した[2]。2戦目の函館3歳ステークスでは出遅れもあり4着に敗れたものの、3戦目のもみじ賞では、このレースもスタートで出遅れたものの4コーナーで先頭に立つと後続に10馬身差の大差をつけて勝利した[2]。続く関西の3歳チャンピオン決定戦・阪神3歳ステークスでは、最後の直線200メートルだけで2着のダイタクロンシャンに8馬身差をつけ、それまでのレースレコードを0秒6更新する1分34秒5で優勝した[4]。そのあまりのスピードにある騎手からは「むしろクラシックが心配になるくらい」との声が上がり、サッカーボーイは「テンポイントの再来」もしくは「テンポイント二世」、その強烈な差し脚は「弾丸シュート」と形容されるようになった[2]1987年JRA賞最優秀3歳牡馬(旧称。現在のJRA賞最優秀2歳牡馬)に選出された。

4歳以降

4歳初戦の弥生賞は逃げたサクラチヨノオーを捉えきれず3着に敗れると、石を踏んでさらに蹄が悪化、蹄が感染症にかかる飛節炎を患い、予定していた皐月賞を回避した[2]。ここでサッカーボーイ陣営は日本ダービーに間に合わせるため飛節炎の治療を急ぐために抗生物質を大量に使用したが症状は回復せず、逆に体調をさらに悪化させることとなった。

それでも陣営はダービーを目指すため調整し、内山に代わり鞍上に河内洋を迎え[注 1]、ダービートライアルのNHK杯に挑んだが4着、東京優駿(日本ダービー)でも単勝1番人気に推されたが、8枠22番の大外枠での出走であったことも要因となり、サクラチヨノオーの15着に惨敗した。河内は敗因について距離の長さを挙げたが、その負けっぷりから「ただの早熟な馬」、「マイルまでの馬」という評価もされた[2]

春のクラシックは不本意な成績に終わったが、中日スポーツ賞4歳ステークスでは勝ちパターンに持ち込んでいた皐月賞優勝馬ヤエノムテキを並ぶ間もなく差し切り勝利した。次走の函館記念ではメリーナイスシリウスシンボリの2頭のダービー馬に加えて牝馬クラシック二冠馬マックスビューティが出走してきたが、サッカーボーイは道中後方でレースを進めると3コーナー手前から前へ進出して4コーナーで先頭に立ち、2着のメリーナイスに5馬身差をつけて当時の日本レコードとなる1分57秒8を記録して優勝した[5]。このレコードタイムは日本初の1分57秒台であり、現在も函館競馬場のコースレコードである。

陣営は秋の目標として菊花賞を考えていたが、京都新聞杯の前になって右前脚を捻挫したことによりクラシック路線を断念した[6]。目標をマイルチャンピオンシップに切り替えたあとは、管理する小野幸治が「中間の具合はよかったので今回も自信はあった」という状態で当日を迎えた[6]。レースでは後方4番手あたりを追走していたが、3コーナーの坂の下りから外々を周ってあっという間に先団に取りつき、直線入り口では先頭から5馬身差まで接近する。残り1ハロンの地点で内埒一杯を粘るミスターボーイに大外から並びかけると一瞬のうちにトップに立ち、あとは後続を引き離す一方の4馬身差でゴールインした[6]。鞍上の河内は本レースに対して「前半はちょっと置かれたけど、それほど心配はしていなかった。坂の下りからの行きっぷりがよかったので、4コーナーで勝てると思った」と振り返っている。また、河内はこの勝利により年間重賞13勝の新記録を達成した[7]

次走は第33回有馬記念に出走。タマモクロスオグリキャップの対決が注目されたこのレースでサッカーボーイはこの2頭とともに単枠指定を受け、3番人気に支持された[8]。ゲートで暴れて鉄枠に顔を強くぶつけて出血するアクシデントがあり、スタートで後方に遅れて最後の直線でも最後方に位置していたが、直線で脚を伸ばし、3位入線のスーパークリークが前年覇者のメジロデュレンへの進路妨害で失格(当時は降着制度がなかった)したこともあり繰り上がりの3着に入った[8]

翌年も現役を続行したサッカーボーイだったが、春初戦に予定していたマイラーズカップへの調整中に骨折。秋にはトレセンに帰厩し毎日王冠に登録したものの、再び脚部不安を発症。そのまま現役引退が発表され、結局古馬になってからは1走もできなかった。

サッカーボーイとオグリキャップ

サッカーボーイが夏に快進撃を続けていたころ、同期のオグリキャップが高松宮杯毎日王冠古馬を撃破する快進撃を続けていた。オグリキャップがマイル路線を進んでいればマイルチャンピオンシップでの対決の可能性もあったものの、オグリキャップは天皇賞(秋)からジャパンカップと進んだため、結局両馬はともに適距離とは言い難い有馬記念まで対決することはなかった。サッカーボーイの主戦騎手で、オグリキャップにも数戦に渡って騎乗した河内洋は、両馬の比較について「1600mならオグリキャップ、2000mならサッカーボーイ」と語ったことがある。サッカーボーイは前述の通り2000mの函館記念をレコード勝ちし、オグリキャップは6歳春に1600mの安田記念でレコード勝ちしている。

なお、この2頭に1歳上のタマモクロスを加えた3頭の1987年から1988年の軌跡は『昭和最後の名勝負』というタイトルでポニーキャニオンよりビデオ化されている。

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[9]およびJBISサーチ[10]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)


オッズ
(人気)
着順 タイム
(上り3F)
着差 騎手 斤量
[kg]
1着馬(2着馬) 馬体重
[kg]
1987.08.09 函館 3歳新馬 芝1200m(不) 7 6 6 02.2(01人) 01着 01:14.5(39.2) -1.5 内山正博 53 (トウショウマリオ) 438
0000.09.27 函館 函館3歳S GIII 芝1200m(重) 12 6 8 06.2(03人) 04着 01:12.9(37.2) 0.7 内山正博 53 (ディクターランド) 442
0000.010.31 京都 もみじ賞 OP 芝1600m(重) 9 3 3 02.3(01人) 01着 01:36.4(36.8) -1.6 内山正博 53 (ラガーフラッグ) 438
0000.12.20 阪神 阪神3歳S GI 芝1600m(良) 10 3 3 01.9(01人) 01着 01:34.5(36.2) -1.3 内山正博 54 ダイタクロンシャン 452
1988.03.06 東京 弥生賞 GII 芝2000m(良) 11 6 8 01.6(01人) 03着 02:01.5(35.5) 0.4 内山正博 55 サクラチヨノオー 458
0000.05.08 東京 NHK杯 GII 芝2000m(稍) 16 7 14 03.5(01人) 04着 02:02.4(35.8) 0.4 河内洋 56 マイネルグラウベン 454
0000.05.29 東京 東京優駿 GI 芝2400m(良) 24 8 22 05.8(01人) 15着 02:28.0(36.8) 1.7 河内洋 57 サクラチヨノオー 448
0000.07.03 中京 中日スポーツ賞4歳S GIII 芝1800m(良) 11 5 6 03.4(02人) 01着 01:48.9(34.1) -0.1 河内洋 56 ヤエノムテキ 444
0000.08.21 函館 函館記念 GIII 芝2000m(良) 14 8 13 02.2(01人) 01着 R1:57.8(35.6) -0.8 河内洋 56 メリーナイス 440
0000.11.20 京都 マイルCS GI 芝1600m(良) 17 7 14 02.2(01人) 01着 01:35.3(35.2) -0.7 河内洋 55 ホクトヘリオス 458
0000.12.25 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 13 3 5 04.8(03人) 03着 02:34.3(35.5) 0.4 河内洋 55 オグリキャップ 454
  • 枠番・馬番の太字は単枠指定を示す。

引退後

引退後は社台スタリオンステーションで種牡馬入りした。その際には「内国産種牡馬は繋養しない」という方針を貫いていた当時の社台グループ総帥吉田善哉と、「サッカーボーイは種牡馬として絶対に成功する」と主張した吉田勝己(吉田善哉の次男)の衝突があった。当時の社台スタリオンでは四冠馬ミスターシービーを唯一の例外として、当時の社台生産馬の出世頭だったアンバーシャダイですらグループ外の牧場に繋養されるなど、種牡馬のラインアップは輸入馬で固められていた。このとき善哉は「内国産馬と輸入馬との間にはまだまだ大きなレベル差がある」と主張したが、これに対し勝己が「天下の社台ファームが内国産種牡馬を育てられないようでは情けない」と主張し、この勝己の熱意に善哉が折れたことと引退した1989年に父・ディクタスが死亡し、その後継という点からサッカーボーイの社台スタリオン入りが決まったというエピソードがある。こうしてサッカーボーイはGI昇格後の阪神3歳ステークス勝利馬で種牡馬になった数少ない馬の1頭となった。

種牡馬入り後は4頭のGI馬をはじめ多数の重賞馬を輩出し、勝己の相馬眼が当たった結果となった。2000年からはブリーダーズスタリオンステーションに移動した。甥のステイゴールドがブリーダーズスタリオンステーションにスタッド入りした際にサッカーボーイがステイゴールドを威嚇したというエピソードもある。

2006年末、種牡馬シンジケートを解散。以後は社台グループの所有馬として種牡馬生活を続行する。2007年シーズンは社台スタリオンステーション荻伏で種牡馬生活を送ったが、2007年8月25日に生まれ故郷である白老ファームに移動、2008年シーズンからふたたび社台スタリオンステーションにて種牡馬生活を送った。

サッカーボーイ自身は現役時代にマイルから中距離で活躍したが、血統はサンクタスに遡る長距離血統で、(ただし、父ディクタスはマイラーであるが、サンクタスは長距離のG1を制したステイヤーであり、曾祖父にあたるファイントップの産駒にはサンクタス以外に、仏オークス優勝馬ファインパール、凱旋門賞優勝馬で、引退後種牡馬として日本に輸入され3冠馬ミスターシービーの母の父となったトピオがいる)ヒシミラクルナリタトップロードキョウトシチーアイポッパーゴーゴーゼットなど長距離馬を多数輩出し、中央競馬で1600メートルの重賞を勝ったのはブルーイレヴン1頭である。牝馬の代表産駒は秋華賞ティコティコタックがいる。また母の父としてもツルマルボーイ(安田記念)、チョウサン毎日王冠)、メジロマイヤーきさらぎ賞小倉大賞典)、マイネルキッツ天皇賞・春)を送り出し成功している。

2011年10月7日、繋養先の社台スタリオンステーションで蹄葉炎のため死亡した。馬齢26歳[11]

おもな産駒

ナリタトップロード(1996年産)
ヒシミラクル(1999年産)

2005年JRA賞最優秀父内国産馬部門に無効票が2票投じられたが、これは馬名のイメージからハットトリックを本馬の産駒と誤認したものである。

ブルードメアサイアーとしてのおもな産駒

血統

サッカーボーイ血統ファイントップ系 / Lady Angela5×4=9.38%(母内)) (血統表の出典)

*ディクタス
Dictus
1967 栗毛
フランス
父の父
Sanctus
1960 鹿毛
Fine Top Fine Art
Toupie
Sanelta Tourment
Saranella
父の母
Doronic
1960 鹿毛
Worden Wild Risk
Sans Tares
Dulzetta Bozzetto
Dulcimer

ダイナサッシュ
1979 鹿毛
北海道早来町
*ノーザンテースト
Northern Taste
1971 栗毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Lady Victoria Victoria Park
Lady Angela
母の母
*ロイヤルサッシュ
Royal Sash
1966 鹿毛
Princely Gift Nasrullah
Blue Gem
Sash of Honour Prince Chevalier
Sylko F-No.1-t


血統背景

父ディクタスはフランス産馬。ジャック・ル・マロワ賞などに勝利すると、種牡馬としてもフランスサイアーランキング2位に入るなど活躍し、1981年に社台グループにより輸入された。ファイントップの子孫は世界でもほぼ勢力を失っており、本馬が孤軍奮闘している状態である。母は未勝利だが、本馬の甥(本馬の全妹の仔)にステイゴールド、近親にバランスオブゲームドリームパスポートスノードラゴンショウナンパンドラがいる。

エピソード

直前で回避した第40回毎日王冠は、オグリキャップイナリワンメジロアルダンと人気・実績馬が顔を揃えた。当初の予定ではサッカーボーイを含めた4頭が単枠指定を受け、史上初の「4頭単枠指定」となるはずだった。

脚注

注釈

  1. ^ 当初は回避した皐月賞から河内に乗り替わる予定であった。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q サッカーボーイ”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2019年8月20日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h 『優駿』2021年1月号、p.124
  3. ^ 『優駿』1989年2月号、p.10
  4. ^ 『優駿』2021年1月号、pp.123-124
  5. ^ 『優駿』2021年1月号、p.126
  6. ^ a b c 『優駿』1989年1月号、pp.134-135
  7. ^ 『優駿』1989年1月号、pp.125
  8. ^ a b 『優駿』2021年1月号、p.127
  9. ^ netkeiba サッカーボーイの競走成績”. Net Dreamers Co., Ltd.. 2019年8月20日閲覧。
  10. ^ サッカーボーイ 競走成績”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2019年8月20日閲覧。
  11. ^ 快速馬サッカーボーイ逝く 26歳 デイリースポーツオンライン 2011年10月7日閲覧

参考文献・出典

  • 優駿」(日本中央競馬会)1988年2月号-5月号
  • 「優駿」(日本中央競馬会)2021年1月号
    • 辻谷秋人「未来に語り継ぎたい名馬59 レコード駆けの弾丸シュート サッカーボーイの底知れぬ魅力」

外部リンク