大嘗祭
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大嘗祭(だいじょうさい)は、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。大嘗祭は本来は「おおにえのまつり」「おおなめのまつり」「おおむべのまつり」と読んだが、現在は「だいじょうさい」と音読みすることが多い。新嘗祭(にいなめさい)は毎年11月に、天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す祭儀であるが当初は「大嘗祭」とはこの新嘗祭の別名であった。後に、即位後初めての新嘗祭を一世一度行われる祭として、大規模に執り行うこととなり、律令ではこれを「践祚大嘗祭」とよび、通常の大嘗祭(=新嘗祭)と区別したものである。
概要
大嘗祭(=新嘗祭)の儀式の形が定まったのは、7世紀の皇極天皇の頃だが、この頃はまだ通例の大嘗祭(=新嘗祭)と践祚大嘗祭の区別はなかった。通例の大嘗祭とは別に、格別の規模のものが執行されたのは天武天皇の時が初めである。ただし当時はまだ即位と結びついた一世一度のものではなく、在位中に何度か挙行された。律令制が整備されると共に、一世一代の祭儀として「践祚大嘗祭」と名付けられ、祭の式次第など詳細についても整備された。延喜式に定められたもののうち「大祀」とされたのは大嘗祭のみである。また、大嘗会(だいじょうえ)と呼ばれることもあったが、これは大嘗祭の後には3日間にわたる節会が行われていたことに由来している[1]。また後には通常の大嘗祭(=新嘗祭)のことを「毎年の大嘗」、践祚大嘗祭を「毎世の大嘗」とよびわけることもあった。
延喜式に式次第が定められた後も、多少変化した。室町時代末期、戦国時代には、朝廷の窮乏や戦乱のため、延期または行われなかったことなどもあるものの、天皇の代替わりに伴う重要な祭儀として、古くから継承されてきた。
今上天皇では、平成2年(1990年)11月12日に即位の礼が、11月22日から23日に大嘗祭が行われている。
即位礼に関わる儀式が国の行事とされたのに対し、大嘗祭に関わる儀式は皇室の行事とされた。しばしば誤解されているが、ここで「皇室の行事」というのは、「皇室の私的な行事」という意味ではなく、「皇室の公的な行事」という意味である。大嘗祭の予算は通常の内廷費以外の臨時のものが組まれている。当時の政府発表(最終回答)によれば、大嘗祭が「国事行為」とされなかった理由は、憲法上の天皇の「国事行為」とは「内閣の助言と承認」を必要とするものであり、皇室の伝統祭祀である大嘗祭は「国事行為」に当たらないためである。
式次第
明治以降の「即位の礼・大嘗祭」関連儀式の具体的な日程等については、即位の礼の項目を参照のこと。
即位と大嘗祭
延喜式によれば(旧暦なので)、天皇の即位がその年の7月以前の場合にはその年に、8月以降の場合には翌年に行われることになっていた。
悠紀と主基
大嘗祭が行われる年には、まず、所司(官司の役人)が、その祭に供える稲を出す斎田を選ぶため、悠紀(ゆき)・主基(すき)の国・郡を卜定(ぼくじょう)する。悠紀・主基の国を斎国(いつきのくに)という。悠紀は東日本、主基は西日本から選ばれるのを原則とし、畿内の国(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の令制5か国(現在の京都府、奈良県及び大阪府))から選ばれたことは一度もない[2]。宇多天皇以降は、近江国が悠紀、丹波国と備中国(冷泉天皇の時のみ播磨国)が交互に主基とされ、その国の中で郡を卜定した。
明治以降の悠紀・主基
天皇 | 大嘗祭が行われた年 | 悠紀 | 主基 |
---|---|---|---|
明治天皇 | 1871年(明治4年) | 山梨県甲府市上石田 (甲斐国) |
千葉県鴨川市北小町 (安房国) |
大正天皇 | 1915年(大正4年) | 愛知県中島町字上丸ノ内 (三河国) |
香川県綾川町上山田 (讃岐国) |
昭和天皇 | 1928年(昭和3年) | 滋賀県野洲市三上町 (近江国) |
福岡県福岡市早良区脇山 (筑前国) |
今上天皇 | 1990年(平成2年) | 秋田県五城目町 (出羽国) |
大分県玖珠町大字小田 (豊後国) |
本祭当月までの儀式
8月上旬には、大祓使(おおはらえし)を卜定し、左京・右京に1人、五畿内に1人、七道に各1人を差し遣わして祓い、8月下旬にはさらに祓使を差し遣わして祓った。この祓いが済むと、伊勢神宮以下、各国の天神地祇に幣帛を供え、告文(こうもん)を奏じた。また、8月下旬には、抜穂使を卜定して斎国に遣わし、抜穂使はその国で斎田と斎場雑色人、造酒童女らを卜定した。9月になると斎田から稲穂を抜き取り、初めに抜いた4束を御飯(みい)とし、あとは黒酒(くろき)・白酒(しろき)として供される。御飯や黒酒、白酒は、9月下旬から祭日まで、都に設けられた斎場院外の仮屋に収められる。10月下旬には、天皇は川に臨んで御禊(ぎょけい)した。この御禊は、江戸時代中期以降になると皇居内で行われた。
本祭当月の儀式
祭は、11月の卯の日に行われる。11月に卯の日が3回あれば、中の卯の日に行われるものとされたが、後世には下の卯の日に行う習いとなった。今日では11月23日の勤労感謝の日に新嘗祭が行われるため、今上天皇の大嘗祭も、平成 2年11月22日深夜から23日未明にかけて行われた。
11月になると、1日から晦日(みそか。月末)までは散斎(あらいみ。簡略な物忌。)、祭儀の行われる卯の日の前の丑(うし)の日から3日間は致斎(まいみ。厳重な物忌。)とされ、穢れに触れることを戒めた。悠紀・主基の斎場を設け、それぞれに神供、神酒、調度などを調理製作する諸屋を建てた。祭の7日前から大嘗宮を造り始め、5日以内に造り終える。大嘗宮は悠紀殿・主基殿の2殿から成る。
本祭の儀式
祭の当夜、天皇は廻立殿(かいりゅうでん)に渡御し、小忌御湯(おみのおゆ)で潔斎して斎服を着け、深夜、悠紀殿(ゆきでん:千木は伊勢神宮外宮と同じ外削ぎ)に入る。悠紀殿には、南枕に布団(衾)が敷いてあり、沓と沓を載せる台も布団の北隣に置いてある。布団に置いてある枕の名は坂枕(さかまくら:逆枕の意味か?)という。この寝具類は神座、神の為に設けられたものであり、この中に天皇が直接入ることはない。悠紀殿では、神饌を神に供し、告文を奏して神と直会(なおらい)、つまり神に献じた神饌を、天皇親ら(みずから)聞こし召す(食べる)のである。廻立殿に戻り、次いで主基殿(千木は伊勢神宮内宮と同じ内削ぎ)に入り、悠紀殿と同じことを行う。
付属する儀式
この中心的な祭のほか、辰(たつ)の日には中臣氏が天神寿詞(あまつかみのよごと)を奏する行事、巳(み)の日には和舞(やまとまい)・風俗舞が催され、午(うま)の日には五節舞(ごせちのまい)が催されるなど、多くの行事がある。
憲法との問題
この一連の大嘗祭や、また即位の礼について、国の公費で行うことは違憲であるとする説[3]もある。
参考文献
- 田中初夫『践祚大嘗祭』木耳社、1983年
- 岡田精司編『大嘗祭と新嘗』学生社、1979年、復刊1989年、(特に折口信夫「大嘗祭の本義」)
- 折口信夫『古代研究II 祝詞の発生』中公クラシックス、2003年。上記を収録
- 鎌田純一『平成大礼要話 即位礼・大嘗祭』錦正社、2003年
- 吉野裕子『天皇の祭り』講談社学術文庫、2000年
脚注
- ^ 小山田義夫「大嘗会役小考」(『一国平均役と中世社会』(岩田書院、2008年) ISBN 978-4-87294-504-1(原論文は1976年))
- ^ ただし、天武天皇(悠紀:播磨国・主基:丹波国)、持統天皇(悠紀:播磨国・主基:因幡国)、文武天皇(悠紀:尾張国・主基:美濃国)、聖武天皇(悠紀:備前国・主基:播磨国)の時は東西の原則は当てはまっていない。(加茂正典『日本古代即位儀礼史の研究』(思文閣出版、1999年) ISBN 978-4-7842-0995-8 第1篇第2章及び第5篇第1章)
- ^ 金子勝『日本国憲法の原理と「国家改造構想」』1994年
関連項目
外部リンク
- 皇位の継承に関わる儀式等(大嘗祭を中心に)について - 皇室典範に関する有識者会議(第 8回)、配付資料