ロバート・クビサ
ロバート・クビサ | |
---|---|
基本情報 | |
フルネーム | Robert Józef Kubica |
国籍 | ポーランド |
出身地 | 同・クラクフ |
生年月日 | 1984年12月7日(39歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 2006-2010 |
過去の所属チーム |
'06-'09 BMWザウバー '10 ルノー '11 ロータス・ルノー |
出走回数 | 76 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 1 |
表彰台(3位以内)回数 | 12 |
通算獲得ポイント | 273 |
ポールポジション | 1 |
ファステストラップ | 1 |
初勝利 | 2008年カナダGP |
最終戦 | 2010年アブダビGP |
ロバート・ユゼフ・クビサ(Robert Józef Kubica, 1984年12月7日 - )は、ポーランド共和国クラクフ市出身のレーシングドライバー。
ワールド・シリーズ・バイ・ルノーの初代チャンピオンで、ポーランド人初のF1ドライバーである。
姓について
意味
キリスト教の新約聖書に出てくる使徒聖ヤコブ(いわゆる「大ヤコブ」、英語のジェイコブ)のポーランド語読み「ヤクブ(Jakub)」の指小形「クーバ(Kuba、ヤクブちゃん)」より。Kubicaの意味は「ヤクブちゃん家(あるいは、ヤクブちゃんのセガレ)の…」なので、Robert Kubica はを字義どおりに解釈すると「ヤクブちゃん家のロベルト」の意味になる。この姓はポーランドでは南部のマウォポルスカ地方とその周辺に多い。特にタトラ山脈のあるポトハレ地方独特の「グラル人(山の人)」と呼ばれるポーランド人の間でよく見られる姓である。クビサの出身地であるクラクフはかつてポーランド王国の首都が置かれるほど栄えた、マウォポルスカ地方の中心都市で、そこでは「Kubica」という姓は珍しくない。
発音・表記の仕方
日本語表記については、姓は「クビカ」、「クビサ」と表記されていたが、2006年シーズン途中でBMWザウバー広報から「クビカ」表記は止めて欲しいとのリリースがあった。しかし、クビサと親しい川井一仁が本人に聞いたところ「クビカ」、「クビサ」、「クビツァ」を含めどの呼び方をされても気にはしていないようだとF1GPニュースで発言している。
F1関連のウェブサイトなどでは「ロバート・クビサ」と表記するところが最も多い一方で、本来のポーランド語では「ロベルト・クビツァ」(例: サッカー選手のアンジェイ・クビツァ)、ポーランド南部の山岳地方では「ロベルト・クビッチャ」のように訛って発音するところ(グラル人など)もあり、2007年シーズンより、モータースポーツに手厚い東京中日スポーツを始め、朝日新聞、共同通信などメディアでは「ロベルト・クビツァ」へと表記の切替が行われている。アクセントはロベルトのロ、クビツァのビにつく。ポーランドでも人によってはアクセントを強調して「ローベルト・クビーツァ」と発音することがある。 なお、国際音声記号では ['robert ku'bitza]であり、これによればロベルト・クビツァがもっとも近い。また、英語圏のテレビ放送でも「クビーツァ」と母語に近い発音をしており、日本で多くのマスコミが使用する「クビサ」は少数派であるともいえる。
初期の経歴
4歳の時に両親にねだって買ってもらった4馬力のオフロードカーが自身のキャリアの出発点である。クビサはこの車でペットボトルの周りを運転して遊ぶことに日々熱中した。成長すると父親Arturはカートを与えたが、クビツァは当時幼く、10歳以上でなければポーランド・カート選手権(the Polish Karting Championship)に参戦できなかった。10歳になり参戦すると、3年で6つのタイトルを獲得した。
その後次のステップに進もうと考え、父親の勧めで単身イタリアに渡る。1998年に国際イタリア・ジュニアカート選手権の初の外国人チャンピオンとなり、ヨーロッパ・ジュニアカート選手権でシリーズ2位、ジュニア・モナコ・カートカップで勝利と、初年度から華々しい結果をあげた。翌年、イタリアでのタイトルを防衛し、ドイツ国際カート選手権に参戦。またジュニア・モナコ・カートカップで再び勝利、マルグッティ・トロフィーやエルフ・マスターズレースといった名のある大会でも勝利を収める。2000年、ヨーロッパおよび世界選手権でともに4位となり、カートでのキャリアを終える。
ジュニア・フォーミュラ
2000年にフォーミュラカーレースにステップアップ。フォーミュラ・ルノーのテストドライバーとなる。2001年にユーロカップとイタリア選手権への参戦を開始した。フォーミュラ・ルノーには翌年まで留まり、2002年にユーロカップをランキング7位、イタリア選手権では10戦中4勝をあげてランキング2位という結果で終えた。
2003年にF3ユーロシリーズへと参戦し、ランキング12位。2004年に同選手権でランキング7位、同年のマカオGPでは2位表彰台という結果を残した。
2005年には、この年ワールドシリーズ・バイ・ニッサンから改組されて新たな選手権の初年度として開催されたワールド・シリーズ・バイ・ルノーのエプシロン・ユースカディチームから参戦し、4勝を挙げて初代チャンピオンに輝いた。再びF3マカオGPにも参戦し、前年同様2位表彰台を獲得した。
同時に、この年はルノーやミナルディなどからF1のテストにも参加し、ステップアップへの足がかりを築いた。
F1での経歴
2006年・2007年
2006年はBMWザウバーの第3ドライバーとして起用され、特にシーズン中盤になってチームが力をつけるにつれ、金曜日のフリー走行や、テストなどでも好タイムを記録した。レギュラードライバーのジャック・ヴィルヌーヴが第13戦ハンガリーGPを欠場したため、このレースにおいてポーランド人初のF1ドライバーとして急遽デビューを飾った。荒れたレースの中7位で初完走し入賞圏内でレースを終えたが、マシン重量が最低基準に2kg足りなかったため失格となった。その後、ヴィルヌーヴはそのままBMWザウバーから離脱したため、以降のレースも参戦することとなった。第15戦イタリアGPでは3位でフィニッシュし、デビュー3戦目にして初の表彰台に輝いた。しかし、残りのレースは入賞することは叶わず、結局この年の入賞はイタリアGPのみに留まったが、初年度にして3位表彰台を獲得する活躍を見せた。
2007年はマクラーレンとフェラーリが圧倒的な速さでシーズンを支配した。第3戦バーレーンGPからは3戦連続で入賞するも表彰台には手が届かず、BMWザウバーは苦戦が続いた。そんな中迎えた、第6戦カナダGPでは大クラッシュに見舞われた。オールドピットヘアピン手前の左コーナーでヤルノ・トゥルーリと接触。接触自体は軽かったもののコースアウトした際に芝生の段差でマシンが跳ね、前輪が浮き上がったままになったためにコントロール不能のまま直進し270km/hの速度でコンクリート壁に激突した。車体は跳ね返って数十メートルに渡り回転しながら移動し、ヘアピンのランオフエリアで横倒しになりようやく停止。特にフロント部分の破損が著しく、両足が露出するほどの凄まじいクラッシュだったため安否が気遣われたが、幸いにも軽い脳震盪と右足首捻挫のみと診断された。しかし、FIAの医師団の判断により第7戦アメリカGPは欠場した。第8戦フランスGPで復帰すると、残り10戦中8戦で入賞する安定感を見せたが、表彰台獲得には至らなかった。
この年は最高位は4位に留まり、ランキング6位に終わった。
2008年
2008年、開幕戦オーストラリアGPで予選での自己最高位である2位を記録。決勝ではレース中盤で中嶋一貴に追突されリタイアに追い込まれる。しかし、第2戦マレーシアGPでは自己最高位である2位を獲得し、約1年半年ぶりに表彰台へと上った。さらに第3戦バーレーンGPでは自身とチームにとって初のポールポジションを記録。決勝でもフェラーリの2台に続く3位でフィニッシュし、2戦連続表彰台に上った。また、第6戦モナコGPでもミスの無い走りで2位表彰台を獲得。市街地コースでの強さをアピールした。前年に大クラッシュに見舞われた第7戦カナダGPでは、完走が13台という荒れたレースを制し、ポーランド人として初優勝を飾ると共に、BMWザウバーにも初優勝をもたらした。この結果、ドライバーズランキングで初めてトップに立った。この飛躍の裏にはオフシーズンの大幅な減量で可能になったバラストの追加配分があったとされる[1]。しかし、シーズンが進むに従って調子を落としていった。これはランキング上位に付けチャンピオン争いが可能にもかかわらず、シーズン後半には早々にチームが翌年の車の開発に比重を移してしまった事が影響しており、このチーム方針に対しクビサは不満を呈していた。
この年は、優勝1回を含め7回の表彰台獲得、ポールポジション1回獲得などの活躍を見せ、シーズン終盤までタイトル争いに絡んだ。最終的に3位のキミ・ライコネンと同ポイントのランキング4位でシーズンを終えた。
2009年
2009年シーズンもBMWザウバーから参戦。この年投入されたマシンF1.09には前年ほどの競争力はなく、開幕戦オーストラリアGPで終盤に一時3位を走行する活躍は見せたものの、第10戦ハンガリーGPまでにポイントを獲得したレースは1回のみで、それ以外はポイント圏内はおろか、トップ10にすら入れないレースが続いた。 ベルギーGPでは予選5位を獲得し、決勝でも4位でチェッカーを受けた。第16戦ブラジルGPで雨で混乱が起きた予選では8位を獲得し、決勝では巧みな戦術と運転技術で久しぶりの表彰台となる2位になった。
10月7日にはルノーへの移籍を決め、次期のシートを獲得している。
2010年
2010年シーズンはルノーF1から参戦。シーズン前はチームの資金難が続きR30の開発が遅れたが、その後スポンサーが続々と決定され、また建設中であった新しい風洞試験装置が完成するとともに開発のスピードは上がっている。開幕戦バーレーンGPではスタート直後の1コーナーで前を走るマーク・ウェバーの車がエンジンオイル量過多のため突然白煙を噴いたことに驚いたエイドリアン・スーティルが急な進路変更をしクビサのマシンに接触、クビサとスーティルの2台のマシンはスピンした。2人ともすぐにレースに戻り、特にクビサは最後尾から懸命の追い上げを見せたが11位でゴールし、惜しくもポイント獲得(10位までに与えられる)を逃した。 第2戦オーストラリアGPでは予選9位からスタート、混乱の中1周目に4番手まで順位を上げ、のち2位まで順位を上げた。その間メルセデスGPのニコ・ロズベルグ、マクラーレンのルイス・ハミルトン、フェラーリのフェリペ・マッサからゴールまで30周以上にわたって次々と激しい追撃に遭ったものの、巧みな運転技術でこれを封じて順位を死守したクビサはそのまま2位でゴール、2010年初の表彰台を飾り、上位陣に比べて戦闘力が大幅に劣るといわれるルノーの現行マシンで、しかも上位陣の追い上げを巧みに抑え続けての表彰台獲得はフランスやドイツのメディアから「センセーショナル」と報じられ[1][2]、2009年の第16戦ブラジルGPに引き続いて自己の高い実力を再度証明することになった。
また、得意の市街地サーキットである第6戦モナコGPでは予選で驚異的なパフォーマンスを発揮し、明らかにマシン性能で上回るドライバーらを抑えて2位を獲得すると、決勝ではスタートで1つ順位を落とすもののそのまま3位表彰台を獲得した。同じく市街地サーキットの第15戦シンガポールGPではレース終盤6位走行中にタイヤトラブルにより予定外のピットストップを強いられ13位に後退するも、新しいタイヤのグリップを活かして驚異的な追い上げをみせ、オーバーテイクが非常に難しいマリーナ・ベイ・サーキットで前にいるマシンをごぼう抜きしてみせた。結果落とした順位は僅か1つの7位でフィニッシュするなど、改めて市街地サーキットでの強さをみせた。
2011年
開幕前のバレンシアテストの最終日に新車R31で全体のトップタイムを記録するなど好調なスタートを切ったが、その直後の2月6日にイタリアで趣味でもあるラリーに参戦中大クラッシュ、手首を含む複数個所を骨折した。
- (※:下記#事故に詳細)
事故
2011年2月6日、イタリアで開催されたラリーイベント「ロンド・ディ・アンドラ(Rally Ronde di Andora)」で大クラッシュを喫した。シュコダ・ファビアS2000で参戦したクビサは右から左へと連続して曲がる高速カーブでミスをしガードレールに接触した。事故ではガードレールがクビサが駆っていたファビアの車体を正面から突き破り、クビサは右腕の複雑骨折、左手、足などの単純骨折を負う重傷であった。その後医師達によってサヴォーナ県のピエトラ・リーグレにあるサンタコロナ病院にヘリコプターを使って搬送された[2][3]。施術に伴う右腕切断の可能性も検討されたが、専門医による7時間にも渡る手術の末に切断という最悪の事態は免れた。しかし重傷である事には変わりなく、今後レースを続けられる程に右手の機能が回復するかどうかが懸念されている。また、クビサの完治には10ヶ月以上かかるとみられ、2011年のF1世界選手権を欠場することが確定的であると報じられた[4]。
2月8日、クビサがクラッシュした様子のコンピュータシミュレートが公開された[5]。シミュレーションでは右カーブが終わる際に車両後部左側をガードレールに接触させた反動で車体が過度に左に旋回し、ガードレールに正面から接触した。その際にガードレールの鉄板がボンネットから突き破って車内を貫通し、そのままハッチバックドアにまで至った。今回の事故は力点が分散する「面」での接触事故ではなく「線」での接触事故であり、車両設計の段階で安全基準をクリアしていても、重大事故を避けられない車両設計の難しさを露見する結果ともなった。この他にもクビサの事故直後の様子を捉えた車載カメラの映像も公開され、後続車はクビサの救助にあたるべく停車するが、マシンから煙があがるほど大破した車両を目の当たりにした後続車のドライバーとコ・ドライバーが大きく動揺している様子まで収められていた[6]。
複数個所の骨折と、肺の損傷が認められた為に手術は複数回に分ける必要があった。一時期はICUに再び入るなど予断を許さない状況もあったが、2月16日に最後の手術を終え19日にリハビリ病棟に移った[7]。
リハビリ中の2012年1月12日、自宅近くで散歩中に凍った路面で転倒し、右足脛骨を骨折した[8]。しかし大事には至らず、半月後にはオートマチックの自家用車を運転できるまでに回復したと報じられた[9]。
エピソード
- 2008年、ロレンツォ・バンディーニ賞を受賞[10]。
- 母国ポーランドで行われた一般投票で約13万票を獲得し、2008年の最優秀スポーツ選手に選出された[11]。
- 前述のように大変なラリー好きとしても知られており、F1が開かれない期間に度々ラリーに出場しているが、それが大事故につながってしまった。
- 市街地コースを得意としており、「ストリートファイター」の異名を持つ(一般的に市街地コースはサーキットと舗装の材質などが異なるため、レース用タイヤでの走行は難しい)。
- 同じF1ドライバーのフェルナンド・アロンソとは親友である。2人の面識はカート時代より既にあったがF1デビューをした2006年ハンガリーグランプリでクビサの走りを見たアロンソが絶賛した事を切っ掛けに交友を深めた。その後、2009年シーズン終了後にBMWザウバーが撤退することによりクビサのシートが喪失の危機に陥ったとき、既にルノーからフェラーリに移籍が決定していたアロンソが「僕の後任として迎えられるならば彼を推挙したい」と述べ、クビサのルノー入りの強い後押しになったと言われる[12]。又、2011年シーズン開幕前に参加した前述の事故で、数多くのドライバーや関係者が電報による見舞いを行う中、アロンソは真っ先にクビサのもとを訪問している[13]。各チームがマシンテストなどで開発に注力するような時期に直接の見舞いを行うアロンソが、如何にクビサとの親交が深いか伺える[14]。
- 大変社交的でかつ、紳士的な人物であると評価がなされている。小林可夢偉と日本人記者がインタビューを行っている際に、小林が落とした無線機器(イヤホン)をインタビュー中に届けるなどユーモアを見せる。又、前述のラリー事故にて昏睡から目覚めたクビサがまず最初に尋ねた質問がコ・ドライバーを務めたヤクプ・ゲルベルの安否や容態であったとクビサの手術を担当した医師が語っている[15]。
- 2011年のF1ではシーズン前のテストで走行したのみで事故後は一切参戦していなかったが、ロータス・ルノーGPはクビサにこの年の給料を支払った[16]。
- 2012年 復帰戦としてイタリアのラリー、ロンデ・ゴミトロ・ディ・ラナに出場。4回行われたタイムトライアルすべてでトップタイムを記録し、見事に優勝を果たした。
F1での年度別成績
年 | 所属チーム | 車番 | ランキング | 獲得ポイント | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 | 予選最高位・回数 | FL記録回数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2006年 | BMWザウバー | 17 | 16位 | 6 | 3位・1回 | 1回 | 6位・1回 | 0回 |
2007年 | 10 | 6位 | 39 | 4位・3回 | 0回 | 4位・1回 | 0回 | |
2008年 | 4 | 4位 | 75 | 1位・1回 | 7回 | 1位・1回 | 0回 | |
2009年 | 5 | 14位 | 17 | 2位・1回 | 1回 | 4位・1回 | 0回 | |
2010年 | ルノー | 11 | 8位 | 136 | 2位・1回 | 3回 | 2位・1回 | 1回 |
年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2006年 | BMWザウバー | F1.06 | BHR | MAL | AUS | SMR | EUR | ESP | MON | GBR | CAN | USA | FRA | GER | HUN DSQ |
TUR 12 |
ITA 3 |
CHN 13 |
JPN 9 |
BRA 9 |
16位 | 6 | |
2007年 | F1.07 | AUS Ret |
MAL 18 |
BHR 6 |
ESP 4 |
MON 5 |
CAN Ret |
USA |
FRA 4 |
GBR 4 |
EUR 7 |
HUN 5 |
TUR 8 |
ITA 5 |
BEL 9 |
JPN 7 |
CHN Ret |
BRA 5 |
6位 | 39 | |||
2008年 | F1.08 | AUS Ret |
MAL 2 |
BHR 3 |
ESP 4 |
TUR 4 |
MON 2 |
CAN 1 |
FRA 5 |
GBR Ret |
GER 7 |
HUN 8 |
EUR 3 |
BEL 6 |
ITA 3 |
SIN 11 |
JPN 2 |
CHN 6 |
BRA 11 |
4位 | 75 | ||
2009年 | F1.09 | AUS 14 |
MAL Ret |
CHN 13 |
BHR 18 |
ESP 11 |
MON Ret |
TUR 7 |
GBR 13 |
GER 14 |
HUN 13 |
EUR 8 |
BEL 4 |
ITA Ret |
SIN 8 |
JPN 9 |
BRA 2 |
ABU 10 |
14位 | 17 | |||
2010年 | ルノー | R30 | BHR 11 |
AUS 2 |
MAL 4 |
CHN 5 |
ESP 8 |
MON 3 |
TUR 6 |
CAN 7 |
EUR 5 |
GBR Ret |
GER 7 |
HUN Ret |
BEL 3 |
ITA 8 |
SIN 7 |
JPN Ret |
KOR 5 |
BRA 9 |
ABU 5 |
8位 | 136 |
脚注
- ^ F1-Live.com 2008年6月4日
- ^ “ロバート・クビサ、骨折で開幕戦は絶望 ・・・ 選手生命に影響もF1”. F1 Gate.com. (2011年2月6日) 2011年2月7日閲覧。
- ^ “ロータス・ルノーGP 「ロバート・クビサは骨折し、手術を受けている」”. F1 Gate.com. (2011年2月6日) 2011年2月7日閲覧。
- ^ “クビサ 2011年シーズンの戦線離脱が確定的”. GPUpdate.net. (2011年2月7日) 2011年2月7日閲覧。
- ^ “Computer simulation of Kubica’s accident”. GPUpdate.net. (2011年2月8日) 2011年2月15日閲覧。
- ^ “【動画】クビカの事故直後を捉えた後続車のオンボード”. AUTO SPORT web. (2011年2月9日) 2011年2月22日閲覧。
- ^ “ロバート・クビサ、リハビリ病棟に移動”. AUTO SPORT web. (2011年2月19日) 2011年2月22日閲覧。
- ^ “酒落にならない? ロバート・クビサ再び骨折の報”. FMotorsports F1. (2012年1月12日) 2012年2月8日閲覧。
- ^ “ロバート・クビサ、再び自動車を運転できるまで回復”. F1-Gate.com. (2012年1月29日) 2012年2月8日閲覧。
- ^ “クビサ、F1マシンに乗って授賞式に登場”. Carview.com. (2008年5月19日) 2011年2月8日閲覧。
- ^ “inister of Foreign Affair's awards for the most popular Polish sportsperson”. Ministry of Foreign Affairs of the Republic of Poland. (2008年10月27日) 2011年2月8日閲覧。
- ^ “アロンソ、ルノーの後任にクビサを推薦”. F1 Gate.com. (2009年10月2日) 2011年2月8日閲覧。
- ^ “フェルナンド・アロンソ、ロバート・クビサのラリー参戦を擁護”. F1-Gate.com. (2011年2月17日) 2011年2月17日閲覧。
- ^ “【動画】ロバート・クビサの担当医、手術について語る フェルナンド・アロンソ訪問の様子も”. TN topnews.jp. (2011年2月7日) 2011年2月8日閲覧。
- ^ “ロバート・クビサ、右手の指を動かす”. F1 Gate.com. (2011年2月8日) 2011年2月8日閲覧。
- ^ “ロータス・ルノーGP、今年もロバート・クビサに給料を支払う”. F1 Gate.com. (2011年10月4日) 2011年12月4日閲覧。
外部リンク
レッドブル | メルセデス | フェラーリ | マクラーレン | アストンマーティン | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | マックス・フェルスタッペン | 63 | ジョージ・ラッセル | 16 | シャルル・ルクレール | 81 | オスカー・ピアストリ | 18 | ランス・ストロール |
11 | セルジオ・ペレス | 44 | ルイス・ハミルトン | 55 | カルロス・サインツ | 4 | ランド・ノリス | 14 | フェルナンド・アロンソ |
アルピーヌ | ウィリアムズ | RB | キック・ザウバー | ハース | |||||
31 | エステバン・オコン | 23 | アレクサンダー・アルボン | 3 | ダニエル・リカルド | 77 | バルテリ・ボッタス | 20 | ケビン・マグヌッセン |
10 | ピエール・ガスリー | 2 | ローガン・サージェント | 22 | 角田裕毅 | 24 | 周冠宇 | 27 | ニコ・ヒュルケンベルグ |
その他参戦したドライバー | 38 | オリバー・ベアマン | |||||||