ランチア・ストラトス
| ランチア・ストラトス | |
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ストラトス HF Gr.4
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| 設計統括 | ベルトーネ |
| デザイン | マルチェロ・ガンディーニ |
| 乗車定員 | 2 人 |
| ボディタイプ | 2ドア |
| エンジン | 2.418 L 60度V6 DOHC |
| 最高出力 | 190 ps(ディーノ246GTのDIN値より換算) |
| 変速機 | 5速MT |
| 駆動方式 | [MR](横置きエンジン) |
| サスペンション | 前:ダブルウィッシュボーン 後:マクファーソンストラット(ストラダーレ仕様) 前後ダブルウィッシュボーン(プロトティーポ及びコンペティオーネ仕様) |
| 全長 | 3,710 mm |
| 全幅 | 1,750 mm(ストラダーレ仕様) 1,860 mm(コンペティオーネ後期Gr.4仕様) |
| 全高 | 1,114 mm |
| ホイールベース | 2,180 mm |
| 車両重量 | 980 kg(ストラダーレ仕様) |
| -自動車のスペック表- | |
ランチア・ストラトス(STRATO'S)は、ランチアが製造したスポーツカー。世界ラリー選手権(WRC)で勝利することを目的に開発されたホモロゲーションマシンである。
目次 |
[編集] 解説
車名のストラトスは、「成層圏」という意味の英語の“stratosphere”あるいはイタリア語の“stratosfera”からの造語であるとされ、“STRATOS”と表記される場合が多いが、実車のロゴをよく見ると“STRATO'S”となっている。これは他社が所有する商標権に配慮したためと言われている[要出典]。
[編集] 開発のいきさつ
「ゼロ」、「プロトティーポ」と呼ばれる試作段階のプロトタイプ期までと量産型の「ストラダーレ」量産期に分けて説明する。
[編集] ゼロ (1970年)
「ストラトス」の名称を冠した車としては1970年のトリノ・ショーでデビューしたベルトーネ作であるショー・カーの「ストラトス・ゼロ」があった。ショー・カーでこそあれストラトス・ゼロは実際の走行を可能とするために動力ユニット(エンジン、ギアボックス)やシャーシーをランチア・フルヴィアクーペのものから流用しており、MR(ミッドシップエンジン、後輪駆動)と言うシャーシレイアウトはここで仮に完成していた。
この車では乗降用のドアはフロントガラスを兼ねたハッチとなっており、フロントに貼られた「LANCIA」のロゴ部分を開閉ノブとしてハッチを開け、上下可動式のステアリングコラムを前に跳ね上げてから前部の黒いマット部分を足場として乗降すると言う風変わりなものであった。この時点でストラトス・ゼロはまだ量産からは程遠い単なるショー・カーであり、フルヴィアに代わる「ラリーで勝てる車」を欲していたランチアにとってこの車は興味の薄いものであった。
[編集] プロトティーポ期 (1971年-1973年)
ランチアにとっては興味の薄いストラトス・ゼロであったが、ベルトーネからしてみると量産モデルとなった場合の年間生産台数3万台というランチア側との幾度かのミーティングにより提示されていた数字は利益を考えても充分魅力的であった。そこでベルトーネはストラトス・ゼロの車両レイアウトがMRというラリー競技車にとり有利であることを利用してここからさらに量産化に向けた売り込みをランチアに対して掛け、様々な要素を検討した。
前述のようにラリー競技での勝利を目指す車を欲していたランチアでワークス・チームの責任者を務めていたチェーザレ・フィオリオは、以下の点をストラトスの条件として課した。
- 補修、点検が容易に行える整備性
- 過酷なサファリ・ステージに耐える頑強な機械機構(高い信頼性)
- ラリーでの高度な運動性能
これらが2、3年で色あせてはならないと言う命題をもとにベルトーネが作り上げたのが強固なモノコック構造のコックピットの前後に堅固なスチールフレームを締結、そのフレーム上に各々その前後端のフックで大きく開口する軽量な前後カウル(後にヒンジ化され、実戦仕様ではさらに肉薄化される)を持つボディであった。
エンジンやトランスミッションを搭載する車体後部は整備性を十分に考慮した骨格とされた。サスペンション周りの構造は同時期にフィアット社で開発され、これも当時ベルトーネ在籍のマルチェロ・ガンディーニがストラトスと並行してデザインに携わっていたフィアット・X1/9と同形式の剛性の高いものが採用されていた。後にX1/9はタルガ・フローリオに出場しこのサスペンションの評価を高いものとしたが、プロトティーポ時点でのストラトスのサスペンションは後述の通り実戦やテスト走行での改修が必要な段階にあった。しかし同様に剛性の確保しやすいホイールベースの短い車両という点から、ストラトスのボディ剛性は当時のF1マシンに匹敵するほどだったという。
この高いボディ剛性のためワークスのラリーカーも大きな補強をすることなく、ほぼそのままの状態であった。この強固なシャシーの発案自体はX1/9の開発にも関与していたダラーラであり、製作はランボルギーニ・カウンタックや後のBMW・M1のフレームも担当したウンベルト・マルケージ社であった。
ストラトスには高い競技能力が期待されたために同様のMRシャーシ・レイアウトを持つX1/9で世界ラリー選手権(WRC)に参戦するよりも、より宣伝効果の高いグループ4にストラトスを優先投入することがフィアット社の販売戦略により決定された。
1971年のトリノ・ショーでは発展系のプロトタイプが発表され、ラリーチームのエースドライバーであるサンドロ・ムナーリの意見も取り入れてその後の開発が行われた結果完成した最終プロトタイプが1972年のツール・ド・コルスからWRCのプロトタイプクラスに投入された。
ツール・ド・コルス参戦当初はサスペンションにトラブルを抱えていたもののその後もダラーラのバックアップ体制の下で熟成は続けられた。1973年にはかなり量産モデルに近いプロトタイプが発表されたが、この車は後に純正オプションとなるルーフとリヤのスポイラーがない点、前後カウルのアウトレットルーバーの形状やダッシュボード上に計器類が配列されるといったように最終的なストラダーレの形態との違いがあり、ワイパーに至っても2本式としていたものを後に1本式に改められている。
[編集] ストラダーレ量産期 (1974年-1975年)
当時のラリー車は量産車両を競技用に改造したものが一般的だったため、グループ4も量産車の競技用特別仕様を想定したものである「連続する12か月に5,000台を生産した量産GTカー」をグループ3として公認し、それをベースに改造した車両をグループ4とする規定であった。しかしランチアのチェーザレ・フィオリオは、グループ4のホモロゲーション取得のための必須生産台数が「連続12か月間に400台」と少ないことを利用し、パワートレーンだけをグループ3車から流用した競技専用車に近い車両を製作してラリーに持ち込むという手法を編み出した。
グループ4の承認は1974年10月に下りたが、フェラーリからのエンジンの供給が途絶えがち[1]だったこともあり、規定台数(分のパーツを含む完成車)を製造できたのは翌年以降であった[2]。このような生産台数に関する疑わしさは、グループB時代のラリー037やデルタS4においてもつきまとった[要出典]。
ストラダーレ仕様車を市販車として見ると、座席は2名分しかなくラゲッジスペースはリアに搭載したエンジンの後端寄り上部のトレー[3]とヘルメットが入る奥行きのあるドアポケット位のスペースしかなかった[4]ため、実用性と掛離れたレイアウトとなっていた。その上馬力や排気量至上主義であった当時のスーパーカーファンからしてみるとこの車以上の数値を持つ車が数多く存在する中でラリー競技に特化したストラトスへの理解が低かったことから市場的に成功した部類の車とは言えなかった[5]。
こういった事情からラリーを宣伝材料に利用したフィアットの販売戦略はその対象を高価で特殊な車から大衆車へと転換し、同社のラリーイメージを鮮明にするためのワークス活動の素材をフィアット・131を基にした「フィアット・131アバルトラリー」へと早々に変更した。
1974年から製造開始とされる市場に出たストラダーレ仕様は、後期のラリー仕様と同様の両側に張り出すフェンダーが純正オプション化され、プロトタイプでは前後ダブルウィッシュボーンであったサスペンションがリアをロアアームにラジアスアームを追加したマクファーソン・ストラットに改められていた。元々ラリー車として開発された設計思想からサスペンションは調整可能な構造であり、最低地上高は130~165mmの間で自由に調整できた。スプリングとダンパーはオプションとして数種類が用意され、使用状況に合わせて選択することができたほかスポーツオプションとして固定式のスタビライザーも用意されていた。
[編集] エンジン
エンジンはフェラーリ・ディーノ246GT/GTSやフィアット・ディーノに使われたものと基本的に同じ。元々フェラーリの2,418ccのV6エンジンはディーノ206GT用のユニット自体、F2用に開発されたものであり、ストラトスで採用されたのはこれをボアアップした後の246GT用のユニットであり、両者共高回転よりの特性を持つ。
そこで、ストラトスではラリー用に中低速を重視し、セッティングが見直される。さらに、ブロック本体、コンロッド、ピストンはディーノと同じだが、カムシャフト、クランクシャフト、ヘッドなどは専用パーツに変更。最高出力は5PS低くなり、発生回転数は200rpm低い、低中速のトルクを重視したチューニングを行い、リアミッドシップに横置き、後輪を駆動する。ギア比が極端なクロスレシオに設定されていることもあり、最高速はディーノ246GT/GTSと比べて遅い230km/hとなっている。又、競技仕様であるワークスファクトリーカー最終仕様の出力については、其々の競技の項参照。
採用のエピソードとしては開発の初期段階でフルビアの水冷V型4気筒を一旦検討するが、ワークスカーでも160PS程度で、すでに性能的に限界に近く、当時のランチアには新たにエンジンを新造する時間も資金もなく、ベータ用に開発中だった2.0リットル水冷直列4気筒DOHCにほぼ決まりかけていた。
しかし、1971年にトリノ・ショーで発表されたストラトスには、仮のエンジンとしてディーノ206GTのユニットが搭載されていた[6]。
それを目の当りにしたチェザーレ・フィオリオが、フェラーリと親会社のフィアットに提案、当時現行であるディーノ246GTの2,418ccユニットを獲得することに成功した。
エアファンネル上部にくるサージタンクの違いは湯たんぽの様な形状で両端に2本のノズルが開くタイプと四角いケージ形状のエアクリーナーがつくタイプ(コンペティオーネ、ストラダーレ共に種類あり)、さらには後期型である薄型の平らな黒いケース形状のものがある。
[編集] ホイールベースとトレッドの比率による性能
一般的に、ホイールベースが長いほど直進安定性を得やすいとされているが、ストラトスのリヤのトレッドはスカイラインGT-Rに近い数値なのに対してホイールベースは現在販売されている軽自動車の一般的なホイールベースよりも短い。これは何より、ラリーマシンとしての資質を最優先させたが故である。
ホイールベースが短いため直進安定性を得るのは簡単ではないが、それと引き換えに回頭性の良さを手に入れており、コーナーでは優位に立った。 その異色性と希少性より、ストラトスは第一級のコレクターズアイテムに挙げられる。
その挙動についてはかのWRCでの実戦でストラトスに乗った事のあるラリーストであるミシェル・ムートンやビヨン・ワルデガルドとの取材時エピソード[7]で語られている通り「全てのコースがコーナーであってくれれば良いと思ったくらい」、「直線では気を抜けない」等と表現していた。 そのため当時ラリーに参戦していたストラトスの写真は、どれも決まった車体のコーナリング角度が無く写真を見るだけでもその回頭性能がシビアだったのかが伺える。
当時のタイヤ性能でその特異なコーナリング性能を発揮するにはいささか不足がちとしてワークスチームタイヤ供給元であるピレリに開発を委ね、対応できる専用タイヤ開発に成功。フィードバックされ後に「ピレリ・P7」として商品化される[8]。
[編集] レプリカ
この車も、スーパーカーブームの真っ只中にできた車と言うこともあり、先のランボルギーニ・ミウラの例に漏れず1980年~1990年代へ移行する際も並行輸入とするもオリジナルの現存車両も少なく、ストラダーレ仕様でさえ希少でランチアとは無関係のレプリカのキットカーも多数存在し、中には日本の公道向けに保安部品をつけ、公認を取っている車両も存在する。ここでは代表的なものを挙げる。
- C.A.E.社製
- 英、C.A.E.(Carlson Automotive Engineering)社製。丸型パイプフレームはオリジナルとは全く異なる形状。ボディワークもオリジナルのものとはサイズが微妙に異なるので、オリジナルとの互換性はない。アルファ・ロメオ製V6ユニットやランチア・デルタ用のユニットを積む現車が日本に点在する。オリジナル同様にディーノのV6ユニットも搭載可能。90年代後半まで日本に入ってきたものの多くはC.A.E.社製の物が多い。
- ホークカーズ(別名:ホークリッジ)社製
- アタカエンジニアリングがベースとしたオリジナルベースのHF2000/HF3000シリーズ。選択するエンジン排気量によりモデルネーミングが替わる。エンジンバリエーションはランチア製やアルファロメオ製、フェラーリ製より数種類選択可能。
- アタカ・エンジニアリング社製
- 2000年登場のHFR2000。エンジンは国産中古品をリビルドした物から選べ、改良を加えたtypeIIにまで発展している。このエンジンチョイスはオリジナルより系列メーカーに沿ったパワフルなエンジンとするか、始動やメンテナンス性(アフターパーツの入手製等)による実用性が容易なものにするかの配慮である。なお、アタカ製はホークカーズを母体としているが、独自に変更している点も多く、ボディデザインは多少異なっている。フレームワークは一見オリジナルに似た各断面のリアフレームになっているが、実は中央部もパイプフレームで、オリジナルと違ってセミモノコックになっていない。
- リットンカーズ社製
- オリジナルパイプフレームベース とこちらもランチア・ベータ・モンテカルロベースのアローラがある。
[編集] 競技
ランチア自身のワークス活動としては大別して2種類のカテゴリに投入され、プロトタイプから熟成を重ね頭角を表す様になる。それぞれ、ラリーとオンロードであるが、カテゴリ毎でのレギュレーション上の細かい箇所での仕様変更も伴う。 競技仕様は「コンペティオーネ」として「プロトティーポ」でのサスペンション形式である前後ダブルウィッシュボーンのままパワーソースチューンとタイヤトレッド幅変更によるカウリングの変更を段階的に施され派生した。[9]
[編集] ラリー
前述の通りランチアがストラトスを投入するまでは当時のラリー戦歴的にジャン・クロード・アンドリューが駆るFRPボディによる軽量化まで進化していたアルピーヌ・A110に手を焼いていた1971年シーズンまで、ランチアはフルヴィア、フィアットは124アバルト・スパイダーで対抗するも、RAC・ラリーとスカンジナビア・ラリーでフォードはティモ・マキネンとロジャー・クラーク、サーブはスティグ・ブロンクビストなどが焦点を絞っており、安定した常勝には難しく、サファリ・ラリーには日産がブルーバード510、ダットサン・240Zでシェカー・メッタや地元勢がスポット的に勝ちを狙い、ランチアがヨーロッパのみならずのラリー制覇に目を向けるにはフランス勢[10]の存在もあり、フルヴィアやベータ・クーペの戦闘力で押さえつけるには開発競争的にも熾烈を極めていた状況であった。まず、ストラトスは前述にもある通りプロトタイプクラスで1972年のツール・ド・コルスにルーフの後へインダクションポッドを配す仕様で試験的に投入。1973年、1974年とラリーはオイルショックで一時開催を部分的に自粛されるも、その後はストラトスが旋風を巻き起こす。そこから熟成を重ね、1973年世界戦外であるスペインのファイアストーン・ラリーで初優勝を挙げるとこれをコンペティオーネ仕様として熟成させていくことになる。
世界ラリー選手権での初勝利は、市販モデルとして挑んだグループ4ホモロゲーション取得直後の地元ステージ、1974年サンレモ・ラリーであり、わずか4戦に出場しただけで1974年のメイクス・タイトル[11]を獲得してしまう。その後、1975年、1976年と、他チームはストラトスに基準を合わせ開発を進めるも、どの車よりもその走りはターマック、グラベルを選ばず総合的に寄せ付けなかった。
完走の難易度が高い1975年のサファリ[12]ではビヨン・ワルデガルドとサンドロ・ムナーリのストラトス2台、ベータ・クーペが1台支援としてエントリー。サービスポイント数やセスナの手配においても他チームより万全のサポート体制を敷く。79台出走中完走14台と言う過酷なラリーとなった。3台とも度重なるミッション、サスペンショントラブルの中、幸運な事にポイントリーダーである三菱・ランサーのジョギンダー・シンが翌日の第2レグ前半でリタイア。ベータもその直後リタイア。ワルデガルドもブレーキトラブルでペースダウンを余儀なくされ、オヴェ・アンダーソンのプジョー・504よりポイントでリードしていた分、ミッション修復でポイント減点されていたムナーリが最終ステージでコースアウト。リアセクションをヒットさせ、スペアタイアの重みでリアカウルが吹き飛び、三菱勢を抑えつつもゴール手前でカウルを付け直しなんとかムナーリが2位、ワルデガルドが3位に食い込む。翌年からのサファリではタイアをルーフに取り付ける様になったのはこの時の有名なエピソードが含まれる。更にサファリをも得意としていたワルデガルドが76年後半にフォードへ移籍。この事から1977年のサファリを勝ち取るのがこの車にとって如何に難しかったかが伺える[13]。結果1974年、1975年、1976年の世界ラリー選手権製造者部門のタイトルを獲得。1974年はフルヴィアやベータ・クーペでのポイントを含む。ただ、この時点で3度メイクスタイトルに輝いたとしてもムナーリ、ラウノ・アルトーネン、ヴィック・プレストン・ジュニアなどと多くのドライバーに委ねようとRAC・ラリーだけは勝てなかった。
ランチアチームのカラーリングの移り変わりとしては1975年からはそれまでの継続的なマールボロカラーとは一変。アリタリア航空がスポンサーにつき、ボンネットフード部分にアリタリアのトレードマークを配した白と緑主体のカラーリング。ここからWRC上ではワークスファクトリーで組まれた払下げ車両を含む「ファクトリーカー」[14]を使用した地元有力プライベーターと共に破竹の強さを見せることとなる。1976年、1977年とボディ上面フロントからリアに矢を髣髴とさせるリボン状の赤、緑、白のストライプにボディサイドセンター部へ大らかにトレードマークを配した有名なカラーリングとなる。
だが1965年のフィアットによるランチア買収で、フィアットは実質2つのチームを持つこと。下位カテゴリ(Gr.1、2)で128(後継に当初X1/9投入を考えていたが131投入後にリトモを投入する)などでも参戦していた手前上これらを並行して運営して行くにはいささかつらかったのである。
フィアットの意向でワークス活動を1979年フィアット・131アバルトに移す[15]以前よりセミ・ワークス状態であるフランスのプライベートチーム、シャルドネやジョリークラブにも継続供給。
だが1979年は「100ユニット生産によってホモロゲーションに仕様追加できる」というルール上の特例が廃止され、ワークスでのラリー最終仕様となっていた300馬力の4バルブエンジン、軽量フライホイール、ツインプレートクラッチ、レーシングギアボックスといった勝利を掴むためのパフォーマンス向上を要するユニット類が使用禁止となる。そこで「コルス・マイスター」の異名を持つベルナール・ダルニッシュはツール・ド・コルスをシャルドネで勝利するために4バルブエンジン完成まで使われていた270馬力に進化させていた2バルブエンジンをワークス・エンジニアであるクラウディオ・マリオーリに委ね、283馬力を絞り出すことに成功し、フォード・エスコートRSを駆るワルデガルドに勝利する[16]。1980年代序盤もその戦闘力を実戦に託され続ける。最後の優勝は前述のダルニッシュによる、1981年ツール・ド・コルス。また、ローカルイベントであるシャモニー・アイスレース(氷上耐久レース)でもその勇姿を見ることができた。
市販車とは一線を画すような特徴である、流線型とは程遠いように鋭角的に張り出したドライビングライト(当時ではフォグランプ)を装備しているが、これは通常の車両用ではなく多大な光量を得るために特殊な航空機用を流用したものだった。しかし夜間に見学していたギャラリーの暗闇に慣れた目を直撃してしまい、あまりに眩しいとクレームが付いたので使用禁止になり、後年は光量を落としたレンズカッティング化された競技車両用に換装された。
[編集] レース
ストラトスはモンツァ等での地元サーキットレースやルマン等の24時間耐久カテゴリにも参戦した。参戦にあたり、クーゲルフィッシャー製インジェクタとKKK製ターボチャージャーを装備し、ドライサンプ化、ホイールベースを140mm延長とした耐久仕様の320psであるGr.5車両が作成された。また、タルガ・フローリオと言ったスポーツカー世界選手権外となった公道クラシックイベントにも1973年にWRC参戦前、リア後端に6つのアウトレットが開いているマールボロカラーのプロトティーポを投入し、サンドロ・ムナーリ、ジャン・クロード・アンドリュー組でバケットシートトラブルでピットインしつつも2位の成績を収めると、ツール・ド・レズナでも再び優勝を果たし、その後9月のツール・ド・フランスで優勝。熟成の進んだ1974年のタルガにはアミルカーレ・バレッストリエーリ、ジェラール・ラルース組で優勝している。その後ロングホイールベースとし、ボディワークがシルエット化されると、イタリア中のサーキットを巡るジロ・デ・イタリア等でもムナーリ等の手による活躍がみられた。
1977年のジロ・デ・イタリアをムナーリの手で制した「#539」優勝車は直後日本へ空輸されると同年富士スピードウェイで開催されたフォーミュラーチャンピオンレースのアトラクション「スーパーカーVSレーシングカーショー」で当時星野一義がエキシビジョンとしてドライブし、一時話題となった[17]。同時に展示車両としてもGr.4コンペティオーネ仕様とストラダーレを展示。この事もあって1977年仕様のワークス(アリタリア航空)カラーが当時日本でストラトスとして一番連想させるカラーリングとして根付くようになる。
1979年のGr.5仕様では先のインジェクション化やターボ化によるりファインに加え、3バルブヘッド化。出力も耐久性を無視すれば560psに到達するものの、スプリントレース仕様では530psとしている。ボディワークの軽量化も手伝って、850kgまで軽量化された。[18]以降、ワークス活動をベータ・モンテカルロ・ターボ Gr.5へとリカルド・パトレーゼ、ジル・ヴィルニューヴ等の手により移していくと、多くのストラトスはプライベーターの手に委ねられた。
[編集] ラリークロス
また、1975年頃からヨーロッパ各地で盛んであるERAヨーロッパラリークロス選手権(現在のFIA ヨーロッパ選手権 ラリークロスドライバーズ)でも地元プライベーター転用されている。中でも赤と白のメンフィスカラーのストラトスを駆るかのF1ドライバーであるアレクサンダー・ヴルツの父、フランツ・ヴルツがアルピーヌ・A110、ポルシェ・911などが猛威を振るっていた1975年から使用し、1976年にはシリーズタイトルを獲得。アンディー・ベッツァもストラトスユーザーとして息の長かった存在でありヴルツと共に勝利を重ねている。ベッツァはシーズン後半にアウディ・クワトロA2に乗り換える事になる1983年当時の仕様ではグループ5として3.0リッターエンジンにまで発展させた仕様を投入していた[19]。
[編集] 名声の復興
- ストラトス・ゼロから数えると、生誕から2010年で40周年となる。コレクターズミーティングである「World Stratos meeting」上、水面下で2000年台よりそのメモリアルとしてニューストラトスのプロジェクトが発足。2005年の時点で商標権が既にランチア、ベルトーネからフェノメノンに移り、モックアップも完成。量産化については難航しており、フェノメノン代表がピニンファリーナに籍を移しつつ2010年、ワンオフと言う形で「ニューストラトス」が生まれた。
[編集] フェノメノン・ストラトス
- 2005年、ロンドン新興のデザイン会社フェノメノン[20]とADDがジュネーブ・モーターショーにてコンセプトモデルとして発表。かのワークスドライバーであるサンドロ・ムナーリのアドバイスの基、デザインされたものである。現在「ストラトス」という名称の権利はランチアでもフィアットでもなく、フェノメノン社が所有しており[21]、今後の動向がファンにより注目されていた。同年9月の段階ではラリーで関り合いのあるプロドライブと量産契約を交している[22][23]。
- ドアを兼ねたフロントガラスを2分割しているセンターピラーを軸に開くガルウイング方式とされていた。[24]
[編集] ワンオフモデル
- ニュースリリースとオフィシャルHPによれば「ニューストラトス」という名称をもつ。[25]ロゴについては「'」(ダッシュ)が抜けている「STRATOS」がリアに冠されている。一見、前述のフェノメノン・ストラトスと見間違う様な前面のシルエットであるが、独大手部品メーカー、Brose社のオーナー兼CEOを務めるMichale Stoschek氏がフェラーリ・430スクーデリアをベースとしてピニンファリーナによってデザイン、製作を依頼。
- 後日発表によるスペックとしては全長4181×全幅1971×全高1240mm、ホイールベース2400mm。F430と比較すると、334mmもコンパクトなボディと、200mm短いホイールベースとなる。4.3リッターV8エンジンにはリアアクスルレシオも兼ね、より加速性能重視の設定とされる専用チューンが施され、最大出力540ps/8200rpm、最大トルク51kgm/3750rpmを獲得。
- フルカーボンファイバーのボディにより、車両重量はF430よりも200kg以上軽い1247kgに抑えられ、パワーウェイトレシオは2.3kg/psを達成。前後重量配分は、44対56とし、0‐100km/h加速は3.3秒、最高速は274km/h。その結果1トンあたり413bhpのウェイトパワーレシオとなる。[26]
- 同年9月のテスト走行[27]を経て同年11月に完成。オーナーMichale Stoschek氏に引き渡された。[28]
[編集] 関連項目
- ランチア
- ベルトーネ
- マルチェロ・ガンディーニ: 生みの親。ダラーラとのパイプをも持ち、フィアット・X1/9の開発も担当していた。
- フィアット・X1/9: デザイナー、開発陣が同様。ストラトスと同時並行していたプロジェクトで、この車のプロトティーポのほうが扱いやすかったとの逸話もある。
- ダラーラ: プロトティーポ世代よりウンベルト・マルケージ社と組んでシャシ、足廻りの完成度を実践であげていった。
- チェーザレ・フィオリオ: ラリーチーム統括。彼が居なければ現在のパッケージングやディノエンジンの調達はありえなかった。
- フェラーリ・ディーノ246GT/GTS: エンジン供給のベースとなった車。
- フィアット・ディーノ: 同じくエンジン供給を受けていた車。
- ランチア・ラリー037: ディメンションは違うがパッケージングの手法がこの代でも同様とされる。
- ランチア・デルタS4
- アリタリア-イタリア航空: 75年~78年のランチアチームメインスポンサー。79年にフィアットの政治力により移ってしまうが日本においてのGr.4 サファリラリー仕様、Gr.5ターボ仕様のカラーリングで有名。
- サンドロ・ムナーリ: ストラトス開発初期より最も関わっていたラリースト。
- ベルナール・ダルニッシュ: 有力プライベータチーム「シャルドネ」でのツール・ド・コルス最多優勝記録保持者。79年モンテカルロでの逆転劇で人々を魅了させる。
- ミシェル・ムートン: 唯一、ストラトスで本戦を駆った事のある女性ドライバーであり、後の女性ドライバーで唯一成功したラリースト。
- ビヨン・ワルデガルド: ランチアチームのスター・ドライバー。76年サンレモ・ラリーでムナーリとのチームオーダー無視による確執により76年後半、フォードへ移籍。
[編集] 脚注
- ^ フェラーリ側の供給問題の背景としては、ベース車両となるディーノ246GTの後継である308GT4の生産にスイッチする時期にあり、フィアット首脳部がグループ4ホモロゲーション取得のためだけに246エンジンの生産ラインを維持することに難色を示したことが挙げられる。この問題を乗り切るために時間を浪費した結果、オイルショックに直面する。
- ^ 双葉社刊 「幻のスーパーカー」福野礼一郎著
- ^ 後には後部カウル後端に外部から開閉可能なフタを持つ荷室を配した。
- ^ シート裏とエンジンルームとの隔壁(ファイヤウォール)の隙間はシートを後退位置にするとないに等しく、スペアタイヤの収納スペースとなる前部カウル内は車体前方に置かれたラジエータからの熱風とそれを排出する上部アウトレットの通風経路として確保しておく必要があった。
- ^ さらにフェラーリとしては以前から続いているフィアット・ディーノへ優先的にエンジンを供給しなければならない立場にあり、ランチアにしても1973年のオイルショック後の景気回復までの影響が災いし、ストラダーレといった市販仕様でさえも消費者ニーズの優先順位的には低いものでしかなく、利益を上げることには繋がらなかったのである。結果的に最終的な全体での生産台数はFIAの規定台数クリアとはなったが、フィアット社の意向もありストラトスの生産は492台(英Wikiによる)に留まった。その時点でストラトスの生産工程があるベルトーネのグルリアスコの工場が火災に見舞われ、全体生産台数に計上される予定であった1/5程のストラトスが失わた。結果的に当時の残存数は生産済みのもの含め400台(これらは世界的なコレクターの調査による)未満とされる。
- ^ 当時、ディーノは206から246に進化していたが、ベルトーネにあったのは206GTのエンジンだった。
- ^ TV朝日 カーグラフィックTV「ランチアストラトス特集」放送内。『カーグラフィック』誌元編集部員の田辺憲一が語るラリー取材上でのエピソード。
- ^ ピレリ RIBASSATOシリーズヒストリーより
- ^ 又、シャルドネチームは1975年のツール・ド・フランス等Gr.4マシンの持ち駒がない時にGr.5マシンをレンタルし、Gr.4仕様に改造(Gr.5仕様のスポイラーを切り取る等)してラリーやレースに出場する等の例外もある。(ネコ・パブリッシング CAR MAGAZINE誌2007年10月号による)
- ^ 主にプジョー、ルノー勢
- ^ サンレモ、リドー湖、ツール・ド・コルスの3勝
- ^ 山海堂オートテクニック誌 昭和50年5月臨時増刊号 「'75ラリー&rally SAFARI」参考。
- ^ この年のサファリはムナーリの手で3位に入ったもののシモ・ランピネン等もエンジントラブルで終わる。rallybase.nl 「25th Safari Rally result」 より
- ^ ネコ・パブリッシング社 CAR MAGAZINE 2007年10月号「ストラトス史上最大の作戦」より
- ^ ストラダーレが売れない事から実質フィアットが131を投入したのは1977年。ランチアチームはメインスポンサーを実質上取られるなどの政治的圧力と前述の製造上の不運があったがそれでも1978年、ランチアは事実上赤と黒基調の欲に言われるピレリカラーで臨戦態勢を続けた。ワークス最後の優勝は1978年マルク・アレンによるサンレモ・ラリー。
- ^ 結果この年はモンテカルロ、サンレモ、ツール・ド・コルスの3勝
- ^ 京商 「ランチア ストラトス ターボ グループ5 1977」 1/43ミニカーモデル添付インストラクションより。
- ^ サムネイル写真のデータによる
- ^ 動画ポータル等にアップされている当時の放映VTRより確認。
- ^ 代表兼デザイナーはChris Hrabalek氏。
- ^ response.jp 2005-3-15 プレスリリース
- ^ ホビダスオート 2005-09-20 プレスリリース
- ^ 以後の発表がなく、コンセプトカーとされるものの、唯一ゲーム作品「Colin Mcrae DiRT」(Codemasters)の作中でも「New STRATOS」として量産手前のテスト段階車両が登場する。
- ^ Car Design News 2005-03-05プレスリリース(英語)中コンセプトイラスト参照。
- ^ 但し、2010年9月現在、日本側プレスからの名称使用権の説明は一切ないが、公式HPによればMichale Stoschek氏が世界的なストラトスのコレクターズミーティングである「World Stratos meeting」上でフェノメノン代表との面識、関り合いがあり、フェノメノン・ストラトスからの影響について述べられている。
- ^ 2010-12-08 プレスリリース
- ^ response.jp 2010-09-13 プレスリリース
- ^ 2010-11-13 プレスリリース