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* 1998年 AFC Player of the Year
* 1998年 AFC Player of the Year
* 1998年 AFC All Star Team
* 1998年 AFC All Star Team
* 1998年 グエリン・スポリティーボ(イタリア有力スポーツ誌)/セリエA・外国人選手MVP
* [[1999年]] AFC All Star Team
* [[1999年]] AFC All Star Team
* 2004年 [[FIFA 100]]に選出
* 2004年 [[FIFA 100]]に選出

2007年9月21日 (金) 03:18時点における版

中田英寿
ファイル:Koji nakata.JPG
名前
愛称 ヒデ
カタカナ ナカタ ヒデトシ
ラテン文字 NAKATA Hidetoshi
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1977-01-22) 1977年1月22日(47歳)
出身地 山梨県甲府市
身長 175cm
体重 72kg
選手情報
ポジション MF
利き足 右足
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

中田 英寿(なかた ひでとし、1977年1月22日-)は元サッカー選手である。元日本代表山梨県甲府市出身。世界三大リーグ、イタリアセリエAイギリスプレミアリーグなどでプレーした。愛称はヒデ2006年7月3日、自身のウェブサイトにて現役引退を表明。その引退メールは大きな反響を呼んだ[1]。現在世界各地を旅している[2]

人物紹介

小学3年、8歳の時『キャプテン翼』の影響でサッカーを始める。幼少期から高校まではFWとしてプレー。甲府市立甲府北中学校3年生時にU-15(15歳以下日本代表)に選出され、アジアユース選手権(U-16)で世界への第一歩を踏み出す。以後、全ての年代別日本代表に選出され、全ての年代別の世界大会(U-17世界選手権ワールドユースアトランタオリンピックシドニーオリンピック)において飛び級で出場し、存在感を見せる。

また韮崎高校時代、2年時に高校選手権に出場している。そこで圧倒的な存在感を放った中田は1995年Jリーグ全12クラブ中ヴェルディ川崎以外の11クラブからオファー[1] を受け、ベルマーレ平塚に入団。翌年、ゲームメイク能力を買われてトップ下にコンバートされる。1996年シーズンオフ、イタリア・セリエAの名門、ユベントスに短期留学[2]。中田の目は海外に向いていることが伺えた。

各年代の日本代表において主力として戦ってきた中田は、1997年前園真聖の離脱により日韓親善試合で日本代表デビュー。ワールドカップ・アジア最終予選で苦しむ日本代表をワールドカップ初出場へと導く原動力となっていく。

日本代表の中心選手のポジションを勝ち取ると、同年12月の『ワールドカップ組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜』に選出され、弱冠20歳でアジアの顔となる。引退までに計8回も世界選抜試合に招かれ、引退後も各国各人から世界選抜試合[3] や親善マッチ[4]への招待が続いている。

1998年、日本初出場となるフランスワールドカップではチームの核としてグループリーグの全3試合にフル出場。チームは全敗し国内では酷評されたが、そのプレーは海外のクラブに認められ、同年7月、中田獲得の名乗りをあげた11クラブからの移籍リスト[5] の中から交渉の結果、21歳の若さでイタリアのセリエA・ペルージャに移籍した。

開幕戦でユベントス相手に2ゴールを奪い、セリエAでの鮮烈なデビューを飾ると、このシーズンはリーグ戦合計10得点(うちPK4得点)を挙げる活躍をし、ミッドフィルダーとして、当時の日本人海外リーグ最多得点記録を打ち立てた。

1999-2000シーズン途中に、名門・ASローマに移籍。これは当時監督であった、ファビオ・カペッロの強い希望により実現したものとされる。当初は中盤の底で起用されることが多く、フランチェスコ・トッティが欠場した時などに従来のポジションであるトップ下で出場して高いパフォーマンスを発揮した。しかし、生粋のローマ育ちでチームの象徴的存在になりつつあったトッティが復帰すると再び中盤の底で起用され、シーズン半ばから途中出場が多くなり、トッティの交代要員としてトップ下でプレーした。このような状況下でも、腐らずに与えられた時間の中で質の高いプレーを見せ、出場時間を徐々に増やしていった。中でも2000-2001シーズン終盤の第29節ユヴェントス戦での、途中出場ながら引き分けに持ち込むゴールを叩き出した活躍は、ロマニスタに称えられ、語り草となっている(パルマ移籍以降も、ローマのホームスタジアムであるオリンピコにおいては、中田をコールする前に「SHOGUN(将軍)」のキャッチフレーズが付けられていた)。この試合をきっかけに、一時は遠ざかりかけた優勝を再び手繰り寄せたローマは、その年のスクデット(セリエA優勝)を獲得。中田は日本人で初めてスクデットを握った人物となった。

2001年、アジア人最高額の32億円でパルマに移籍。レンツォ・ウリヴィエリ監督の信頼の下、トップ下でプレーしたが、高額な移籍金に見合うパフォーマンスとは言い難く、チームの成績も振るわなかった。ウリヴィエリ監督の更迭後は指揮官が次々と変わり、出場機会も減っていった。その後2002-03シーズンから指揮を執ったチェーザレ・プランデッリ監督は、中田を右サイドハーフでレギュラーとして起用した。アドリアーノアドリアン・ムトゥを生かす徹底したチーム戦術は、中田を加えて「トリデンテ」と呼ばれ奏功した。しかし中田の動きを厳しく制約したため、確執が生まれた。

2002年、25歳で記念すべき地元開催の日韓ワールドカップに出場。精神的にもチームを牽引する中心選手としてグループリーグ3試合、決勝トーナメント1試合の全試合に出場した。予選リーグのチュニジア戦では、ヘディングによる自身ワールドカップ初ゴールを記録している。

2003-04シーズンの冬のマーケットで、中田に甚大な信頼を寄せるカルロ・マッツォーネ監督率いるボローニャに半年のレンタル移籍。センターハーフを任され、かつての輝きを取り戻す。セリエAと日本代表戦の過密日程でグロインペイン症候群を発症するも、セリエA残留に貢献した。マッツォーネは中田の完全移籍を熱望したが、ボローニャ側はレンタル元のパルマ側が要求した移籍金と年俸を工面できず頓挫した。

2004-05シーズン前にフィオレンティーナへ完全移籍。合宿の直前まで日本でグロインペインの治療に専念したが、今まで大きな故障をしてこなかった中田は、回復の目算を大きく見誤り、痛みを抱えたままの低調なプレーに終始することになり、現地ファンから酷評される。結局回復には1年を要し、その間にクラブと日本代表の両方の出場機会を失っていった。完治後は代表に復帰し、ドイツワールドカップ最終予選に出場。クラブにおいても来季に向けての決意を新たにした直後、2005-06シーズンより新監督としてパルマ時代に確執があったプランデッリが就任することを知り、急転直下、移籍先を模索することとなる。

2005年、28歳で7年間住んだイタリアを離れ、イギリスのFAプレミアリーグボルトン・ワンダラーズにレンタル移籍。ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦で、フリーキックからプレミアリーグの初ゴールを記録する。加入後すぐにレギュラーとして出場していたが、間もなく日本代表の親善試合に招集されると、アラダイス監督はコンディションを憂慮して招集に難色を示した。しかし中田は代表戦の招集には全て参加。やがてサム・アラダイス監督の信頼を失い、リーグ戦の途中出場とカップ戦での出場になっていった。しかしそこでのパスを繋ぐプレーが徐々に認められて、リーグ戦の終盤には5試合連続してスターティングメンバーに起用され、チームの勝利に貢献。ドイツワールドカップに向けての試合勘に対する不安視を払拭した。

2006年6月、29歳で自身3大会連続3度目となるドイツワールドカップのグループリーグ全3試合にフル出場。1分2敗で決勝トーナメントへの進出を阻まれたが、第2戦のクロアチア戦では灼熱の試合の中で抜群の運動量を見せてチームを牽引、引き分けながらマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。グループリーグ敗退国から選ぶベストイレブンにも選出された。

2006年7月3日自身の公式HP上で現役引退を表明。現在は世界各地を旅しており、見聞を広めながら自分にできることを探したいという趣旨の発言をしている。また、サッカーの恩恵に感謝しており、「今後の発展を願っているし貢献もしたい」と語っている。

略歴

  • 1991年 4月・14歳中学3年 - 甲府市立甲府北中学校3年生時にU-15に選出
  • 1992年 5月・15歳高校1年 - U-17アジアユース選手権出場
  • 1993年 8月・16歳高校2年 - U-17世界選手権 3試合中2試合出場、ベスト8
  • 1994年 1月・16歳高校2年 - 全国高等学校サッカー選手権大会出場、2回戦敗退
  • 1994年 9月・17歳高校3年 - U-19アジアユース選手権 全6試合出場、準優勝
  • 1994年・18歳高校3年 - 山梨県立韮崎高等学校時代、Jリーグ12チーム中11チームから獲得オファー
  • 1994年12月・18歳高校3年 - ベルマーレ平塚と仮契約
  • 1995年 2月・18歳高校3年 - 東京ドームカップ・対ジュニオール戦 プロデビュー(途中出場)
  • 1995年 4月・18歳 - U-20 FIFAワールドユース選手権 全4試合出場、ベスト8
  • 1996年 7月・19歳 - アトランタオリンピック(U-23)3試合中2試合出場、2勝1敗でグループリーグ敗退(初戦のブラジルに対する勝利は『マイアミの奇跡』と呼ばれている)
  • 1997年 5月・20歳 - ワールドカップ日韓共催記念試合 A代表デビュー
  • 1997年11月・20歳 - フランスワールドカップアジア地区最終予選 イラン戦に3-2の逆転勝利、全得点をアシスト、第3代表に決定(ジョホールバルの歓喜
  • 1997年12月・20歳 - ワールドカップ組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜
  • 1998年 6月・21歳 - フランスワールドカップ 全3試合フル出場、3戦全敗
  • 1998年 7月・21歳 - セリエA・ACペルージャに移籍
  • 1998年 9月・21歳 - シーズン開幕戦(ユべントス戦)で2得点
  • 1998年12月・21歳 - イタリアサッカー協会100周年記念試合 イタリア代表対世界選抜
  • 2000年 1月・22歳 - ASローマに移籍
  • 2000年 8月・23歳 - 世界選抜チャリティーマッチ フランス対世界選抜
  • 2000年 9月・23歳 - シドニーオリンピック ベスト8
  • 2000年10月・23歳 - ジュビレオ杯(イタリア聖年記念試合) イタリア対セリエA外国人選抜
  • 2001年 6月・24歳 - コンフェデレーションズカップ5試合中4試合出場(豪戦では豪雨を計算に入れ地を這うFKでゴールをあげ決勝戦に導く)
  • 2001年 6月・24歳 - セリエA優勝(ASローマ 日本人として初)
  • 2001年 7月・24歳 - ACパルマに移籍、イタリア杯優勝
  • 2002年 6月・25歳 - 日韓ワールドカップ ベスト16、1得点
  • 2002年12月・25歳 - レアル・マドリード創立100周年記念試合『世界選抜対レアル』レアル・マドリード対世界選抜
  • 2003年 6月・26歳 - コンフェデレーションズカップ グループリーグ全3試合フル出場、1勝2敗でグループリーグ敗退
  • 2003年12月・26歳 - 貧困撲滅の慈善試合『ロナウド&フレンズvsジダン&フレンズ』 ロナウドチームで出場
  • 2004年 1月・26歳 - ボローニャに期限付き移籍
  • 2004年 7月・27歳 - フィオレンティーナへ完全移籍
  • 2004年11月・27歳 - 世界エイズデー 国際慈善試合 バルセロナ対世界選抜
  • 2005年 2月・28歳 - スマトラ沖地震チャリティーマッチ 世界選抜対欧州選抜
  • 2005年 6月・28歳 - コンフェデレーションズカップ グループリーグ全3試合フル出場、1勝1分1敗でグループリーグ敗退
  • 2005年 8月・28歳 - イングランド・FAプレミアリーグボルトン・ワンダラーズへ1年契約の期限付き移籍
  • 2006年 6月・29歳 - ドイツワールドカップに出場、1分2敗でグループリーグ敗退
  • 2006年 7月・29歳 - 引退を表明
  • 2007年 6月・30歳 - フィーゴ主催・フィーゴチーム対世界選抜の慈善試合にフィーゴチームで出場。
  • 2007年 7月・30歳 - 香港の中国返還10周年記念試合にて中国代表対世界選抜の試合に、世界選抜チームのキャプテンとして出場

受賞

タイトル

  • 2000~2001年 セリエA 優勝 (A.Sローマ)
  • 2001~2002年 イタリア杯 優勝 (A.Cパルマ)

プレースタイル

瞬時に周囲を見渡せる視野の広さと抜群のスタミナと強靭な精神力を持つ。トップ下、ボランチ、ウイングなど、中盤の様々なポジションをこなし(本人はセンターハーフと答えていた)、特にトップ下でのプレーを好んでいたが、多くのトップ下の選手に特徴づけられる、ファンタジスタと言われる一瞬の閃きによるプレーというよりも、リアリストと言われる予測や合理性に裏打ちされた独特のプレースタイルであると言われている。

「論理的に考えること」が中田の突出した能力である。戦術理解、状況分析と修正、コーチング、スペースメイキングの様に、目に見えない「考える」プレーのクオリティが非常に高く、90分を通して集中を途切れさせることなくチームを引率しながら攻撃を組み立てた。自分の考えを明示する中田は試合中に大声で要求や指示を出すが、特に日本代表の試合では、常にチームメイトを鼓舞し、叱責し、檄を飛ばす姿が目立っていた。しかし、自らは悪質なファウルを受けてもすぐに立ち上がり、淡々とプレーを続ける選手であった。

中田の最大の武器は相手DFを切り裂くスルーパス。スピードとコースの正確性からキラーパスと称された。インサイドから繰り出されるパスも、スピードとコースの正確性において世界でも数人しか出来ない高レベルのプレーであり、また、空スペースの察知力に優れ、アシストのみならず二列目からの飛び出しによるゴールも数多く決めている。

これらの能力は、フィジカルコンタクトの強さ、優れたボディバランス等をベースにした抜群のボールキープ力によって、自らドリブルして相手DFを引き付け、空いたスペースにスルーパスを出す中田の特徴的なプレーや、縦への早いビルドアップを展開するプレースタイルを造っていた。ちなみにボローニャ時代のチームメイトからは「中田は銀行。中田に預けておけば安心」と賞賛された。

このようなプレースタイルは、ポゼッションサッカーよりもカウンターサッカーにより適すが、事実、その特徴を最大限に生かせたベルマーレ平塚やペルージャ、ボローニャといったチームや、1998年フランスW杯日本代表では攻撃の核となった。

また、プレイスキックの名手でもあり、壁の足元を抜ける地を這うような低い弾道を得意としていた。「よっしゃあー!」と雄たけびを上げてガッツポーズを見せた、コンフェデレーションズカップ2001オーストラリア戦におけるFKでのゴールが印象的である。

中田の出現によって日本サッカーはラモス瑠緯に代表される個人技をベースとしたブラジル様式から、少ないタッチでパスをつなぐヨーロッパ様式に変わった、とも言われている。

逸話

個人として

  • 高校生の時からセリエAへの移籍を考えてイタリア語の勉強をしており、今ではほとんどの訛りも分かる程イタリア語を身につけている。また、イタリアにいるころから英語の家庭教師に付き、英語のインタビューには英語で応対していたが、プレミアリーグへの移籍会見で初めて全て英語で応答している姿が放映され、いつの間に英語も習得したのかと驚かれた。さらに、映画『GOAL!』の主演男優とはスペイン語で話している映像も見られたが、スペイン語やポルトガル語・フランス語も簡単な会話が出来、ますます語学力を広げている。
  • 彼が日本に帰国するたびに「成コレ」と呼ばれるファッションがファンやマスコミの注目を集めていた。しかし、マスコミのフラッシュを浴びる中田に対し、空港に居合わせた一般客に「フォーの人?」っとレイザーラモンHGと間違えられたこともある。
  • 98年フランスワールドカップ時の一連の出来事(朝日新聞が「『君が代』ダサい」と発言したと報じたが中田側は「歪められた」と否定。これにより右翼から家族を巻き込んだ嫌がらせを受ける)を契機に「真実を伝えない」として、マスコミとの軋轢が絶えなくなった。そのため一時期は日本における生放送以外でのメディア出演は一切拒否する姿勢をとり、自身のホームページで情報・メールを発信。スポーツ選手のホームページの先駆けとなった。ワールドカップ日韓大会終了時あたりからは録画放送へも出演するようになった。さらにnakata.net TVという自身のテレビ番組も企画作成していた。
  • 上述の「君が代事件」に端を発する右翼団体からの圧力を警戒し、国際空手道連盟極真会館の黒帯選手たちによるボディーガードが付いていた事がある。その中の一人は、2001年のK-1 JAPANで優勝した経験を持つニコラス・ペタス選手であった。
  • メディアとの接触を極力避けるため無愛想に映るが、中山雅史曰く、中田は非常に礼儀正しく、体育会よりももっと上下関係を重んじる人間だそうで、特に年上から可愛がられる一面を持ち、世界各国に人脈があり友人がいる。
  • 寡黙な性格だと思われているが、ドーハ世代やアトランタ世代である中山雅史三浦知良川口能活らは「人懐っこく、明るく、普通の若者」としている。逆に、シドニー世代以降の選手は近寄りがたく思う選手が多かったようで、代表の晩年には、和気藹々とした代表に馴染まない厳しい態度によって、敬遠される存在になってしまった。プライベートで連絡を取り合う前園真聖は、「(ドイツワールドカップメンバーに)自分がいたら、プレー以外の事でフォローが出来たはず。もしかするとヒデも引退を先延ばしにしたかもしれない」と歯がゆそうに語った。
  • 韮崎高校時代、「サッカーしか知らない人間になりたくない」とメディアのインタビューで答えたことがあり、30歳ぐらいには引退して他の道に進むのではないかという青写真をそのころから持っていた。
  • 引退後、アジアの孤児院などを訪問して子供達の心に触れたことで「結婚はしたくないが子供は欲しい」と語った。
  • 野菜は形が残っていると食べられず、中国の孤児院で子供達と一緒に作った餃子も食べるマネをしてしのいだ。
  • 2007年F1モナコGPに姿を見せる場面を取り上げられるなど、放浪中の旅行先が判明するとメディアで取り上げられている。
  • 前園真聖とともに、日清ラ王のCMに出演したことがある。どちらかといえば一連のラ王のCMシリーズはメインは前園であり、中田はコメディリリーフ的な役割であった。前園がサッカー選手として絶頂の時期であり、中田はまだ知名度的に前園に及ばない時期であったためである。
  • ホワイトバンドプロジェクトに参加した。なお、このプロジェクトの日本版の企画は中田をマネジメントするサニーサイドアップである。

サッカー選手として

  • 8年に及ぶ欧州でのプレー、様々な世界選抜試合、チャリティーマッチに出場し、社交的な性格もあって世界のスーパースター選手との交流がある。ドイツワールドカップでは、対ブラジル戦、試合前の入場通路でロナウド、ロナウジーニョカカらと談笑。また、試合後倒れている中田を元同僚のアドリアーノが慰めるシーンが見られた。
  • 2001年のコンフェデレーションズカップでは、セリエAの首位を走っていたASローマと日本代表との間で、中田の召集を巡って軋轢が起こった。「予選リーグ3試合のみ参加」という条件で日本に帰国したものの、その後日本代表が予選を突破したため、代表監督トルシエとの話し合いで「準決勝まで参加を延長し、その後イタリアに戻る」という選択をする。準決勝では激しい雨の中、直接フリーキックを叩き込みチームをフル代表初の国際大会決勝に導いた。その後決勝には参加せずイタリアに戻り、スクデット獲得の瞬間に居合わせることとなった。日本人初のセリエA優勝という快挙と合わせ、世界的なビッグクラブと代表チームの間で綱引きが起こるほどにまで、中田の存在感は強まっていった。[6]
  • 2002 FIFAワールドカップの日本代表メディアセンターに選手の写真にサインとメッセージが書かれていたが彼のパネルには「行け中山!!」と書かれていた。[3]
  • パルマでの2シーズン目は、プランデッリ監督に中盤の右サイドで起用され、敵地でのユベントス戦でゴールを決めるなど攻撃の中心として活躍した。しかし、シーズン後半になると守備的なチーム戦術への変更により、中央への進出を禁じられ、攻撃力ではなくサイドでの運動量ばかりを求められるようになる。この起用法についてはイタリアのメディアでも議論が起こり、ペルージャ時代の恩師マッツォーネが「ナカタはサイドの選手ではない」と苦言を呈したこともあった。中田自身もプランデッリと話し合ったものの、戦術を受け入れシーズンを終える。だが翌シーズンになっても改善されない状況に、自分のスタイル(中盤の中央で自由に動く)を貫くことを選択。その結果ポジションを失ったため、ボローニャを率いていたマッツォーネに請われてレンタル移籍。移籍初戦から2試合連続アシストするなど、ボローニャのセリエA残留にその力を発揮し、恩師の期待に応えた。
  • サッカーに対する真摯な態度とそのひたむきさから、他チームに移籍後も古巣との試合では相手サポーターからも拍手が送られた。
  • 2006年10月フィリピンスラム街を訪れ、そこに住む子供たちとともにサッカーを楽しんだ。
  • 2007年7月25日、モンゴルにてモンゴルサッカー協会主催のサッカーイベントに大相撲横綱朝青龍とともに飛び入り参加をし、ともに笑顔でサッカーに興じる姿が日本でも放映されたが、朝青龍は腰の疲労骨折により夏巡業の休場を決めたばかりであった。国内世論の批判もあり、日本相撲協会は朝青龍に対し長期の謹慎と出場停止、減俸等を言い渡した。この件について、中田は朝青龍が腰の疲労骨折により夏巡業を休場していた事を知らなかったと日本サッカー協会川淵三郎キャプテンは擁護している。

実業家として

  • 故郷の山梨で中学時代の恩師が監督をしている「フォルトゥナSC」のクラブサポートをしており、会員No.0001である。
  • J2に降格したベルマーレのクラブスポンサー。ローマ在籍時より、自身のHPの"nakata.net"を広告で出している。ユニフォームの背中に出した年も。平塚競技場の7番ゲートは"Hideゲート"と名づけられている。
  • ベルマーレジュニアユースの公式戦用ユニフォームをデザイン。一式をプレゼントしている。
  • 名波浩西澤明訓城彰二などが海外移籍→国内の元所属チームに戻ると言う、いわゆる「出戻り組」が目立つ中、中田も「ベルマーレに戻る日が来るのか」と言った質問に、「それは無いです。だって僕は(ベルマーレの)スポンサーですよ?」と笑いながら答えた。
  • 2005年ニューヨークにビルを購入。ここを拠点に世界を旅したいと語っている。
  • 購入したビルのリフォームを手がけるのは安藤忠雄である。シェフチェンコが「部屋を借りたい」と申し出たらしい。
  • 出身地の山梨県をホームとするヴァンフォーレ甲府のJ1昇格を祝福。スポンサーも紹介している。また、山梨県にユニフォームを贈呈するなど、故郷への思いが伺える。
  • 個人的親交のあった「株式会社モック」の山田納生房代表取締役社長兼CEOと、なでしこリーグスポンサー契約の橋渡し役となった。
  • 2003年7月9日より、菓子メーカー株式会社東ハトの非常勤の執行役員CBO(Chief Branding Officer=チーフ・ブランディング・オフィサー)に就任。
  • 2006年7月 東ハトが山崎製パンに買収されたが、山崎製パン側より「買収後も継続して中田を起用していく」との回答があった。

所属クラブ

  • 1986年 - 1988年 北新サッカースポーツ少年団
  • 1989年 - 1991年 甲府北中学校
  • 1992年 - 1995年 山梨県立韮崎高等学校
  • 1995年2月 - 1998年 6月 ベルマーレ平塚 (現湘南ベルマーレ)日本の旗
  • 1998年7月 - 2000年 1月 ACペルージャイタリアの旗
  • 2000年1月 - 2001年 6月 ASローマイタリアの旗
  • 2001年7月 - 2003年 12月 ACパルマ (現パルマFC)イタリアの旗
  • 2004年1月 - 2004年 6月 ボローニャ (レンタル)イタリアの旗
  • 2004年7月 - 2005年 7月 フィオレンティーナイタリアの旗
  • 2005年8月 - 2006年 6月 ボルトン・ワンダラーズ (レンタル)イングランドの旗

経歴

クラブにおける個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯天皇杯 期間通算
1995 平塚 - J 26 8 - 2 1 28 9
1996 平塚 - J 26 2 12 2 3 0 41 4
1997 平塚 7 J 21 3 6 1 3 0 30 4
1998 平塚 7 J 12 3 - - 12 3
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
1998-1999 ペルージャ 7 セリエA 33 10 0 0 - 33 10
1999-2000 ペルージャ 7 セリエA 15 2 2 1 - 17 3
1999-2000 ローマ 8 セリエA 15 3 1 0 - 16 3
2000-2001 ローマ 8 セリエA 15 2 1 0 - 16 2
2001-2002 パルマ 10 セリエA 24 1 3 0 - 27 1
2002-2003 パルマ 10 セリエA 31 4 2 1 - 33 5
2003-2004 パルマ 7 セリエA 12 0 0 0 - 12 0
2003-2004 ボローニャ 16 セリエA 17 2 0 0 - 17 2
2004-2005 フィオレンティーナ 10 セリエA 20 0 3 0 - 23 0
イングランド リーグ戦 FLカップFAカップ 期間通算
2005-2006 ボルトン 16 プレミア 20 1 - 2 0 22 1
通算 日本 J 85 16 18 3 8 1 111 20
イタリア セリエA 182 24 12 2 - 194 26
イングランド プレミア 20 1 - 2 0 22 1
総通算 287 40 30 5 10 1 327 46
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点 出場 得点
UEFAUEFA ELCL予選
2000-2001 ローマ 8 6 1 -
2001-2002 パルマ 10 6 1 2 1
2002-2003 パルマ 10 4 0 -
2003-2004 パルマ 7 3 1 -
2005-2006 ボルトン 16 6 0 -
通算 UEFA 19 3 2 1

代表歴

出場大会など

日本代表における個人成績

国際Aマッチ
試合数 背番号 出場 得点
1997 (24) 8 16 5
1998 (11) 8 10 1
1999 (7) 8、28 3 0
2000 (18) 8、7 4 0
2001 (13) 7 7 1
2002 (13) 7、27 8 2
2003 (16) 7 11 1
2004 (22) 7 2 0
2005 (20) 7 10 0
2006 (19) 7 6 1
通算 77 11

関連作品

VHS

  • 中田英寿 イン・セリエA 1998-99 Vol.1
  • 中田英寿 イン・セリエA 1998-99 Vol.2

DVD

  • NAKATA
  • Grande NAKATA-グランデ・ナカタ-
  • HIDETOSHI NAKATA DVD-BOX 1
  • HIDETOSHI NAKATA DVD-BOX 2
  • HIDETOSHI NAKATA 2004-2005 FIORENTINA VOLUME.7
  • HIDETOSHI NAKATA 2005-2006 BOLTON VOLUME.8
  • HIDETOSHI NAKATA-THE JOURNEY2枚組
  • HIDETOSHI NAKATA [THE JOURNEY] Vol.3 ベルマーレ平塚

書籍

執筆書籍

関連書籍

CD

  • 2005年 FREE STYLE VOL.1 R&B COLLABORATIONS~nakata.net music
  • 2005年 FREE STYLE VOL.2 DANCE&SOUL~nakata.net music 
  • 2006年 FREE STYLE VOL.3 Special edition for nakata.net cafe

出演

CM

テレビ・ラジオ番組

脚注

  1. ^ 鹿島アントラーズ浦和レッドダイヤモンズジェフユナイテッド市原横浜マリノス横浜フリューゲルスベルマーレ平塚清水エスパルスジュビロ磐田名古屋グランパスエイトガンバ大阪サンフレッチェ広島
  2. ^ 期待したトップチームではなく下部での練習だったため落胆したらしい。nakata.net tv 最終回において、ベルマーレ平塚が気持ちよく留学に送り出してくれたことを感謝の念をもって語っている。
  3. ^ (1)1997年12月・20歳 - ワールドカップ組み合わせ抽選会記念試合 世界選抜対欧州選抜 (2)1998年12月・21歳 - イタリアサッカー協会100周年記念試合 イタリア代表対世界選抜 (3)2000年 8月・23歳 - 世界選抜チャリティーマッチ フランス対世界選抜 (4)2000年10月・23歳 - ジュビレオ杯(イタリア聖年記念試合) イタリア対セリエA外国人選抜 (5)2002年12月・25歳 - レアル・マドリード創立100周年記念試合『世界選抜対レアル』レアル・マドリード対世界選抜 (6)2003年12月・26歳 - 貧困撲滅の慈善試合『ロナウド&フレンズvsジダン&フレンズ』(ロナウドチーム) (7)2004年11月・27歳 - 世界エイズデー 国際慈善試合 バルセロナ対世界選抜 (8)2005年 2月・28歳 - スマトラ沖地震チャリティーマッチ 世界選抜対欧州選抜 (9)2007年 6月・30歳 - ルイス・フィーゴチャリティーマッチ2007 フィーゴチーム対世界選抜(フィーゴチーム) (10)2007年7月・30歳 - 香港返還10年記念試合 中国・香港代表対FIFA選抜(キャプテン)
  4. ^
    • 2007年 6月・30歳 - (1)元ミャンマー代表同士の試合(2)ミャンマー代表同士の試合 以上2試合にキャプテンでフル出場
  5. ^ 以下の11クラブ
  6. ^ セリエAでは90年代からACミランとユべントスの2強がスクデットを独占していたが、ASローマに移籍した00-01シーズンではASローマが18シーズンぶりにスクデッドを獲得した。

関連項目

外部リンク


先代
コダダド・アジジ
アジア年間最優秀選手賞
1997,1998
次代
アリ・ダエイ