ウェンディ・リヒター
ウェンディ・リヒター | |
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2012年 | |
プロフィール | |
リングネーム | ウェンディ・リヒター |
身長 | 173cm |
体重 | 64kg - 68kg |
誕生日 | 1961年9月6日(63歳) |
出身地 |
アメリカ合衆国 テキサス州ダラス |
トレーナー |
ファビュラス・ムーラ ジュディ・マーチン |
デビュー | 1979年 |
ウェンディ・リヒター(Wendi Richter、1961年9月6日 - )は、アメリカ合衆国の元女子プロレスラー。テキサス州ダラス出身。
1980年代よりNWAやWWFで活躍し、WWF女子王座などのタイトルも獲得。2010年にはWWE殿堂に迎えられた[1]。WWEスペイン語放送の解説者ヒューゴ・サビノビッチは元夫である[2]。
来歴
[編集]ファビュラス・ムーラの元でトレーニングを積み、1979年にデビュー。1980年9月、全日本女子プロレスに初来日。以降も度々来日し、女子プロ版のスタン・ハンセンやハルク・ホーガン級の存在になり得るスター候補と目されていた[3]。
その後、ジョイス・グレーブルをパートナーにカウガール・ギミックのタッグチーム、テキサス・カウガールズ(The Texas Cowgirls)を結成[4]。1982年5月6日にはサブリナ&プリンセス・ビクトリアを破り、NWA世界女子タッグ王座を獲得[5]。ビンス・マクマホン・シニアのWWF、スチュ・ハートのスタンピード・レスリング、バーン・ガニアのAWAなど各団体を転戦し、ジュディ・マーチン&ベルベット・マッキンタイヤーのコンビと抗争を展開した[4]。
テキサス・カウガールズ解散後は、ヒール陣営の一員として男性レスラーのアングルにも加わり、ジェリー・ジャレットのCWAではジミー・ハートをマネージャーに迎え[6]、ビル・ワットのMSWAではバディ・ランデルと組んでのミックスド・タッグマッチも行われた[7]。
WWF時代
[編集]1984年、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で全米侵攻を開始したWWFと再契約し、悪役マネージャーのキャプテン・ルー・アルバーノと歌手のシンディ・ローパーの対立アングルに、ローパーの助っ人としてベビーフェイスのポジションで参入[4]。同年7月23日、"The Brawl to End It All" と銘打って行われたMSG定期戦ではローパーをセコンドに迎え、アルバーノがマネージメントするWWF女子王者ファビュラス・ムーラと対戦、師匠のムーラを倒して新王者となった[8][9]。この試合はロックン・レスリング(Rock 'n' Wrestling)というコンセプトのもとMTVで放送され大反響を呼び、翌年のレッスルマニアへの伏線ともなった[10][11]。
以降もシンディ・ローパーとのコラボレーションでムーラとの抗争を続け、1985年2月にムーラの差し向けたレイラニ・カイにWWF女子王座を奪われるも、3月31日のレッスルマニア第1回大会にて奪還に成功[12][13]。また、CBSのテレビアニメ "Hulk Hogan's Rock 'n' Wrestling" にてキャラクター化もされるなど、WWFのヒロインとなって各メディアで活躍した[1]。
しかし、契約問題でWWFとの間に軋轢が生じ、1985年11月25日のMSG定期戦において、ムーラが覆面を被って変身したスパイダー・レディに女子王座を奪取されWWFを離脱した[14]。フォールを返しているにもかかわらず、レフェリーの不可解なカウントでリヒターが3カウントを奪われたこの試合は、モントリオール事件に先駆ける "The Original Screwjob" とされている[2][4]。
WWF以降
[編集]WWF脱退後はカルロス・コロンが主宰するプエルトリコのWWCに参戦。1987年5月にはモンスター・リッパーを破りWWC女子王座の初代チャンピオンに認定された[15]。リッパーとは、同年12月にもカルガリーでIWA世界女子王座を争っている[16]。
1988年は末期のAWAにてメデューサ・ミセリーと抗争し、11月26日にミネソタ州ブルーミントンにてメデューサからAWA女子王座を奪取[17]。AWAでは、メデューサと結託するバッド・カンパニー(ポール・ダイヤモンド&パット・タナカ)とのミックスド・タッグマッチも行われた[18]。
引退後は不動産仲介業者に転じる一方、理学療法士と作業療法士の医療資格を取得[4]。長らくプロレス業界との関わりを絶っていたが、2005年1月29日にフロリダ州タンパで行われたリユニオン・イベント "WrestleReunion" にて公の場へ久々に登場し、マリア・ホサカらと組んで8人タッグマッチでシェリー・マーテルのチームと対戦した[19]。
WWEとは1985年以来、絶縁状態が続いていたものの、2010年に殿堂入りが実現[1]。インダクターはロックン・レスリング期のWWFを共に支えたロディ・パイパーが務めた[1]。2012年はシンディ・ローパーやパイパーと共に、6月18日放送のRAWに登場した。
得意技
[編集]獲得タイトル
[編集]- NWA世界女子タッグ王座 : 2回(w / ジョイス・グレーブル)[5]
- WWC女子王座:2回 [15]
脚注
[編集]- ^ a b c d “Wendi Richter: A celebration of her ups and downs”. Slam Wrestling (2010年3月23日). 2023年8月15日閲覧。
- ^ a b “"The first Screwjob" - Vince McMahon told WWE referee to go off-script in a top female star's title match (Exclusive)”. Sportskeeda (2022年2月18日). 2023年8月15日閲覧。
- ^ 『デラックス・プロレス 1983年2月号』P116-117(1983年、ベースボール・マガジン社) ※同誌の1983年1月号では「1日編集長」も務めた。
- ^ a b c d e “Wendi Richter”. Online World of Wrestling. 2010年10月16日閲覧。
- ^ a b “NWA Women's World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2015年10月20日閲覧。
- ^ “The USWA matches fought by Wendi Richter in 1984”. Wrestlingdata.com. 2015年10月20日閲覧。
- ^ “The UWF matches fought by Wendi Richter in 1984”. Wrestlingdata.com. 2015年10月20日閲覧。
- ^ “WWF The Brawl To End It All”. Cagematch.net. 2015年10月20日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1984”. The History of WWE. 2010年10月16日閲覧。
- ^ ショーン・アセール、マイク・ムーニハム共著『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実 』P73-78(2004年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583037880)
- ^ フレッド・ブラッシー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『フレッド・ブラッシー自伝』P395-396(2003年、エンターブレイン、ISBN 4757716923)
- ^ “WWF WrestleMania”. Cagematch.net. 2015年10月20日閲覧。
- ^ “WrestleMania Results”. The History of WWE. 2010年10月16日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1985”. The History of WWE. 2010年10月16日閲覧。
- ^ a b “WWC Women's World Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年10月16日閲覧。
- ^ “Rhonda Sing more Monster Ripper than Bertha Faye”. Slam Wrestling (2001年1月9日). 2023年8月15日閲覧。
- ^ a b “AWA Women's World Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年10月16日閲覧。
- ^ “AWA SuperClash III”. Pro Wrestling History.com. 2010年10月16日閲覧。
- ^ “WrestleReunion January 29, 2005 - Tampa, Florida”. Online World of Wrestling. 2010年10月16日閲覧。
- ^ “WWE Women's World Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年10月16日閲覧。
外部リンク
[編集]- WWE Hall of Fame
- Online World of Wrestling
- ウェンディ・リヒターのプロフィール - Cagematch.net, Wrestlingdata.com, Internet Wrestling Database