石川

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石川いしかわ たくぼく
石川啄木(1908年10月4日撮影)
誕生 石川 一(いしかわ はじめ)
1886年2月20日
日本の旗 日本 岩手県南岩手郡日戸村
(現:盛岡市日戸)
死没 (1912-04-13) 1912年4月13日(26歳没)
日本の旗 日本 東京府東京市小石川区
墓地 日本の旗 日本 北海道函館市立待岬
職業 歌人
詩人
評論家
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 正則英語学校
活動期間 1903年 - 1912年
ジャンル 短歌
主題 日常生活、孤独感貧困
文学活動 自然主義文学
ウィキポータル 文学
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石川 (いしかわ たくぼく、1886年明治19年)2月20日 - 1912年(明治45年)4月13日)は、日本歌人詩人。本名は石川 一(いしかわ はじめ)。

生涯

出生から盛岡時代・上京

岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)に、曹洞宗日照山常光寺住職の父・石川一禎(いってい)と母・カツの長男として生まれる。戸籍上は工藤一(くどうはじめ)。戸籍によると1886年(明治19年)2月20日の誕生だが、1885年(明治18年)10月28日に誕生したともいわれている。二人の姉(サタとトラ)と妹(ミツ、通称光子)がいる[1]

1887年(明治20年)3月、1歳の時に、父が渋民村(現在の盛岡市渋民)にある宝徳寺住職に転任したのにともなって一家で渋民村へ移住する。

1891年(明治24年)5歳。学齢より一歳はやく渋民尋常小学校に入学。1895年(明治28年)9歳、盛岡高等小学校(現・下橋中学校)に入学し、市内の母方の叔父の元に寄寓する[2]1898年(明治31年)12歳、岩手県盛岡尋常中学校(木入学の翌年、岩手県盛岡中学校と改名、現・岩手県立盛岡第一高等学校)で学んだ。同校の三年先輩には金田一京助がいた。また、10年後には宮沢賢治が入学する。

中学生時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の岡山不衣金田一京助らと知り合う。『明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、また上級生の野村長一(のちの野村胡堂)や及川古志郎らの影響を受け、文学への志を抱く。短歌の会「白羊会」を結成したのもこの頃である。1901年(明治34年)12月から翌年にかけて友人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、木の作品も「翠江」の筆名で掲載される。これが初めて活字となった木の短歌だった。

一方、学校ではカンニングがばれたり出席日数不足や成績の悪さから退学勧告を受け1902年10月27日、中学を退学した[3]。中退した啄木は上京した。

11月9日、雑誌『明星』への投稿でつながりがあった新詩社の集まりに参加、10日には与謝野夫妻を訪ねる。滞在は続き作歌もするが出版社への就職がうまく行かず、結核の発病もあり、1903年(明治36年)2月、父に迎えられて故郷に帰る。5月から6月にかけ『岩手日報』に評論を連載、11月には『明星』に再び短歌を発表し、新詩社同人となる。この頃からのペンネームを使い始め、12月には木名で『明星』に長詩「愁調」を掲載、歌壇で注目される。

帰郷と盛岡における活動

盛岡市内に残る「啄木新婚の家」

1904年(明治37年)1月8日、盛岡にて恋愛が続いていた堀合節子と将来の話をし、6日後に堀合家から婚約に関して同意を得られる。9月から10月にかけて青森小樽を旅行、駅長だった小樽の義兄宅に宿泊。10月31日、詩集出版を目的として再び東京に出る。

1905年(明治38年)1月5日、新詩社の新年会に参加。故郷では、3月に父親が宗費滞納のため渋民村宝徳寺を一家で退去するという事態が起きている。5月3日、出版費用を自分でも集めた第一詩集『あこがれ』を小田島書房より出版。上田敏による序詩と、与謝野鉄幹の跋文が寄せられた。5月12日、木は不在だったが堀合節子との婚姻届を父親が盛岡市役所に出す。このとき木は満19歳、木は親戚が集まった形式的な結婚式には出席しなかった。

6月4日に盛岡に帰り、父母、妹光子との同居で新婚生活を送る。一家の扶養も木が負うようになる。同月、『岩手日報』にエッセイ他を「閑天地」と題して連載。9月5日、木が主幹・編集人となり、文芸誌『小天地』を出版する(発行人は父一禎)。岩野泡鳴正宗白鳥小山内薫等30人余りの作品を掲載し、地方文芸誌として文壇の好評を得るが、資金問題で継続出版ができなかった。

1906年(明治39年)2月17日、函館駅長の義兄を訪問し、一家の窮状打開を相談するも解決できなかった。2月25日、長姉田村サダが結婚先の秋田県鹿角郡にて肺結核で死去する。

3月4日、妻と母を連れて渋民村に戻る。4月14日、渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務。21日には徴兵検査で筋骨薄弱にて徴集が免除される。6月、小説を書き始める。12月、評論「林中書」を脱稿し、12月29日、長女京子が生まれる。

北海道における活動

木は盛岡において落ち着いた生活が続いたが、1907年(明治40年)1月、函館の文芸結社・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)より原稿の依頼があり松岡蕗堂らと知遇を得る。4月1日、新生活を北海道で開こうとし、教職を離れることを決意して辞表を出す。いったんは引き留められるが、結局ストライキ騒ぎで退職する。

1907年5月5日、函館に移り松岡蕗堂の下宿に身を寄せるが、妻子は盛岡の妻の実家、妹は小樽駅長の義兄に託しての新生活だった。5月11日から5月末日まで函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てる、6月、吉野白村の口利きで、函館区立弥生尋常小学校の代用教員となり、そこで片想いの女性・橘智恵子と知り合う。また、苜蓿社メンバーの宮崎郁雨と知り合い、以後死去前年まで交友を持つこととなる。7月から8月の間に家族を北海道へ呼び寄せる。8月には代用教員在職のまま函館日日新聞社の遊軍記者も兼ねたが、8月25日の函館大火により勤務先の小学校・新聞社がともに焼失する。

9月には単身で札幌(札幌市)へ渡り、北門新報社の校正係となるも、9月末には北門新報社を退社し小樽に移る。

近く創刊される小樽日報社の『小樽日報』記者となるも、12月には社の内紛に関連して暴力をふるわれ退社。なお、小樽日報では同僚に野口雨情がいた。当時の主筆が雨情と以前に確執があり、木も主筆と対立したことから雨情の起こした主筆排斥運動に荷担する。しかし、主筆側の巻き返しで雨情一人が退社する形になった。この主筆はそのあとに解任されている。

1908年(明治41年)1月4日、小樽市内の「社会主義演説会」で当時の社会主義者、西川光二郎の講演を聞き、西川と面識を得る。19日、啄木の才能を買っていた北海道議会議員で小樽日報社長兼釧路新聞社長である白石義郎に誘われ、家族を小樽に残し、釧路新聞 (2代目)(現在の釧路新聞社とは無関係、現在の北海道新聞社)に編集長として勤務するが、3月には上司である主筆への不満と東京での創作活動へのあこがれが募り、釧路を離れる決意をする。

東京での小説家活動と生活

木(右)と親友の金田一京助(左)。1908年(明治41年)10月4日、『明星』終刊の際の写真(部分)

4月28日より東京・千駄ヶ谷の新詩社に暫く滞在。5月2日、与謝野鉄幹に連れられ森鷗外宅での観潮楼歌会に出席する(参会者は8名)。5月4日、中学校の同窓である金田一京助の援助もあり本郷区菊坂町赤心館に止宿、生計のため小説を売り込むが成功せず。6月23日から25日にかけ「東海の小島…」「たはむれに母を背負ひて…」など、後に広く知れ渡る歌を作り、続いて作った246首とともに翌月の『明星』に発表する。金田一は、自身が結婚するまで、友人として木に金銭を含むさまざまな支援をしている。9月6日、下宿先を本郷区森川町蓋平館に移す。11月『東京毎日新聞』に小説「鳥影」を連載。『明星』は終刊するも、続けて『スバル』の創刊準備にあたる。

1909年(明治42年)1月1日、当用日記に「今日から24歳(数え年)」と記す。『スバル』創刊、発行名義人になる。就職活動が実り、3月1日に『東京朝日新聞』の校正係となる。4月3日よりローマ字で日記を記すようになる。7日より新しいノートで「ローマ字日記」を著す。ローマ字の記述全文が翻字され公刊されたのは、木死後70年近くを経た1970年代の全集出版時からである。それまで一部が伏せられていたのは、浅草に通い娼妓と遊んだ件が赤裸々に描写されていたためである。「彼の借金のほとんどはこうした遊興に費やされ、それが為の貧困だった」と、金田一春彦は語っている[要出典]

4月13日「老いたる母から悲しき手紙がきた」、「今日は社を休むことにした」、「貸本屋が来たけれど、六銭の金がなかった。そして。『空中戦争』という本を借りて読んだ」と日記にあり、次にその書物からイメージを喚起した詩らしき記述がある。これについては桑原武夫による「予言的に見たというのは空襲の歌がありますね」との評価がある。『空中戦争』はH・G・ウェルズの作品『The War in the Air』を翻案したもので、1909年3月に出版されている。

6月16日、函館から妻子と母が到着し、本郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に移る[4]。10月、妻節子が木の母との確執で盛岡の実家に向かうが、金田一の尽力で暫く後に戻る。12月になり父も同居するようになる。

1910年(明治43年)3月下旬、『二葉亭全集』の校正を終え、引き続き出版事務全般を受け持つ。

大逆事件と社会主義の影響

1910年5月下旬から6月上旬にかけて小説『我等の一団と彼』を執筆する。6月3日には明治天皇の暗殺を計画したとされる幸徳秋水管野スガ社会主義者無政府主義者が多数検挙された幸徳事件(大逆事件)が発生する。同日、幸徳秋水拘引の記事解禁となるも、刑法73条に関わる記事はなかった。しかし新聞社勤務の木は連日の新聞記事を集める作業を進めており、これを「大逆罪」の件と認識していたと思われる。

7月1日に社用も兼ね、入院中の夏目漱石を見舞う。木は大逆事件に関して6月に評論「所謂今度の事」、8月下旬には「時代閉塞の現状」を執筆しているが『朝日新聞』には掲載されていない。9月15日、『朝日新聞』紙上に「朝日歌壇」が作られ、その選者となる。8月の朝鮮併合後の作として「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」があるが、歌集には収録しなかった。

10月4日、長男真一が誕生したが、27日には病死している。12月、第一歌集『一握の砂』を東雲堂より出版。このとき木は満24歳であった。また同年に刊行された土岐善麿(土岐哀果)のローマ字による第一歌集『NAKIWARAI』の批評を執筆したことが縁となって親交を深める。善麿とは啄木が病死するまでわずか1年ほどの交友であったが、啄木の才能を高く評価していた善麿は啄木の死後も遺族を助け、『啄木遺稿』『啄木全集』の編纂・刊行に尽力するなど、啄木を世に出すことに努めた。

大逆事件は1911年(明治44年)1月の判決により、幸徳・管野らは死刑となった。同月、木は友人の弁護士で大逆事件を担当していた平出修と会い、幸徳秋水の弁護士宛「意見書」を借用し、筆写する。平出修は新詩社に加入し『明星』へ詩や短歌を発表していた歌人でもあり、木は平出から大逆事件の経緯などを聞いた。

木は「人生の落伍者」の自覚から、大逆事件以前から社会や歴史、あるいは社会主義に傾倒していたことが指摘される。木は北海道の北門新報社時代に同僚で社会主義者の小国善平(露堂)を知り合い、社会主義評論を数多く読んでいる。こうした経緯から、木は入手した幸徳の「陳弁書」を読み、より深く社会主義を研究し始める。

1月10日、アメリカ合衆国で秘密出版され、日本国内に送付されたピョートル・クロポトキン著の小冊子『青年に訴ふ』(日本国内では大杉栄訳により刊行[5])を、歌人谷静湖より寄贈され愛読する。1月13日、土岐善麿と会い、雑誌『樹木と果実』の出版計画を相談したが、結局実現はしなかった。

木の幸徳事件への興味は尋常ではなく、膨大な公判記録を部分ではあるが読み込み、裁判全体は政府によるでっち上げだったと確信する。5月には幸徳の弁護士宛の意見書を写したものに「A Letter from Prison」と題し前文を書く。6月15日から17日にかけて長編詩を執筆、「はてしなき議論の後」と題す。

病気療養と死

1904年(明治37年)婚約時代の木と妻の節子(部分)

7月28日、妻節子も肺尖カタルと診断される。8月7日、病気回復のために環境が少し良い小石川区久堅町(現:文京区小石川5丁目-11-7)へ移る。9月3日、父が家出をする。

9月に郁雨が節子に送った無記名の手紙に「君一人の写真を撮って送ってくれ」とあったのを読み、これを妻の不貞と採った木は節子に離縁を申し渡すと共に、郁雨と絶交することを告げた[6]。1911年9月16日付の木の妹・光子宛の葉書では、この事件を「不愉快な事件」と記している。

12月、腹膜炎と肺結核を患い、発熱が続く。

1912年(明治45年)3月7日、母カツ死去。4月9日、土岐善麿は第二歌集出版の話を木に伝える。4月13日午前9時30分頃、小石川区久堅町にて肺結核のため死去。妻、父、友人の若山牧水に看取られている。26歳没。戒名は啄木居士[7]

死後

石川木一族の墓(立待岬)

4月15日、浅草等光寺で葬儀が営まれ、漱石も参列する。土岐が生まれた寺で、彼が葬儀の世話をした。6月14日、節子が次女を出産。房州(千葉県)で生まれたため房江と名付ける。6月20日、第二歌集『悲しき玩具』出版、土岐善麿が題名を付ける。9月4日、節子は二人の遺児を連れ、函館に移っていた実家に帰る。また土岐善麿は同年に第二歌集『黄昏に』を刊行、前書きに「この一小著の一冊をとつて、友、石川啄木の卓上におく。」と記した。

1913年(大正2年)、一周忌を機に、函館の大森浜を望む立待岬に宮崎郁雨らの手で墓碑が立てられ遺骨も移される。同年5月5日、節子も肺結核で死去。遺児は節子の父が養育する。東雲堂書店から『木遺稿』『木歌集』が出版される。函館への遺骨移送と墓碑建立は「啄木の遺志」として岡田健蔵が主体となって実行したものだったが、これについては批判も存在する(岡田の記事を参照)。

1915年(大正4年)には、『我等の一団と彼』が東雲堂書店から出版。1919年(大正8年)、友人たちの尽力により、3巻から成る全集が新潮社より出版される。全集はその後も改造社(1928-29年 全5巻。1978年ノーベル書房から復刻)、河出書房(1949-53年 全25巻)、岩波書店(1953-54年 全16巻)、筑摩書房(1967-68年 全8巻、および1978-80年 全8巻)から出版されている。1930年(昭和5年)京子が妊娠中に急性肺炎を起こし、二児を残して24歳で死去。その2週間後には房江も肺結核により19歳で死去。

代表歌

青森県大間町大間崎にある石川木歌碑
蓋平館跡地に立つ石川木の歌碑

歌集「一握の砂」より

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

  • 歌集巻頭の歌。 青森県の大間町大間崎にある石川木歌碑に彫られており、この歌の原風景は大間崎で、東海の小島は、沖の灯台の島「弁天島」であると説明されている。

砂山の砂に腹這い
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日

  • 越谷達之助の作曲で、歌曲「初恋」として歌われている

いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ

頬につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず

  • 前記歌碑流失後に陸前高田に建立された歌碑[8]

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽(かろ)きに泣きて
三歩あゆまず

はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく

  • 今昔秀歌百撰82,選者:大喜多俊一(元京都市教育委員会)。上野駅に歌碑がある。

かにかくに渋民村は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川

石をもて追はるがごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし

やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに

  • 1922年、渋民に全国で最初に建立された木歌碑に刻まれた。

ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな

顕彰施設

人物

家族・交友関係

母カツは四人の子供の中で唯一の男児だった木を溺愛していた。息子が丈夫になることを願い、自らは肉を食べることを絶ったという。

カツと節子は非常に仲が悪く、一家が病に見舞われるまでは家の中は冷戦状態だった。

木は亡くなる前、節子に日記を燃やすように命じたが、節子は「愛着から燃やす事ができませんでした」と日記を金田一に託した。日記は浅草に通い娼妓と遊んだ件がローマ字で書かれているが、才女として知られていた節子ならローマ字の文を読むことは可能だったと考えられている[9]

新詩社で収入を得るために行っていた短歌の添削指導で依頼人の菅原芳子に懸想し、熱烈な恋文を送っている。その一方で他の依頼人の平山良子に送られた写真に一目惚れしこちらにも恋文を送るも、実は「平山良太郎」という名の男性だったという痛い目にも遭っている[10]。平山は所属する文芸結社、みひかり会で木と文通する女性がいたことから啄木は快く添削に応じてくれるとの思いからの行為で、自分のものだとして知人の祇園で人気の芸者の写真も送っており、平山は事実が発覚して謝罪したが、木はみひかり会の顧問になり、平山に対しての手紙で「平山良子様」としていたのを「平山良子殿」と、男性に対する敬称をつけて嫌みを表した[10]

借金

木はいわゆる「たかり魔」で、困窮した生活ゆえに頻繁に友人知人からお金をせびっていた。特に先輩の金田一京助樺太に出張中にも木から金の無心を受けた。

上述のように木は各方面に借金をしており、またそのことを自身で記録に残しているが、合計すると全63人から総額1372円50銭の借金をしたことになる。この金額の内、返済された金額がどれくらいあるかは定かではない(2000年頃の物価換算では1400万円ほど[11])。この借金の記録は、宮崎郁雨(合計額として最多の150円の貸し主)によって発表されたが、発表の後には啄木の評価は「借金魔」「金にだらしない男」「社会的に無能力な男」というものが加わるようになった[11]

性格

木は友人宛の手紙で蒲原有明を「余程食へぬやうな奴だがだましやすい」、薄田泣菫与謝野鉄幹を「時代おくれの幻滅作家」と記すなど、自身が影響を受けたり世話になった作家を裏で罵倒したほか、友人からの援助で生活を維持していたにもかかわらず「一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと」と詠んだ句を遺すなど、傲慢不遜な一面があった。

商標化

「石川啄木」は1963年(昭和38年)に、広島県の酒造会社・賀茂鶴酒造によって商標権登録されている(登録第605542号、指定商品:酒類)[12]

演じた人物

石川木(石川一)
石川節子

脚注

  1. ^ 池田功著『木日記を読む』新日本出版 2011年 177ページ
  2. ^ 池田功著『木日記を読む』新日本出版 2011年 178ページ
  3. ^ フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 5』講談社、2004年。 
  4. ^ 「喜之床」の建物は、明治村に移築の上、復元保存されている。
  5. ^ 青年に訴ふ クロポトキン 著,大杉栄 訳 1922 (大正11), 労働運動社”. 国立国会図書館サーチ. 国立国会図書館. 2020年12月19日閲覧。
  6. ^ むかしの日本公演:『啄木祭にちなんで』川並秀雄 p.19に「『不愉快な事件』について」として、三浦光子木の実妹)による『兄木の思い出』(1964年、理論社刊)が抜粋掲載されている。
  7. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)27頁
  8. ^ 津波で2度流失…陸前高田の啄木歌碑再建 - 読売新聞2013年11月15日
  9. ^ フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 8』講談社、2004年。 
  10. ^ a b フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 9』講談社、2004年。 
  11. ^ a b 北海道新聞:啄木の風景 <8> 借金編 素顔の啄木像 ―石川啄木研究者・桜井健治さんに聞く
  12. ^ 商標公告昭37-017888
  13. ^ a b c 内田洋一 (2011年10月18日). “シス・カンパニー「泣き虫なまいき石川啄木」作者井上ひさしとの苦悩の二重唱”. 日経アート&レビュー 舞台・演劇. https://style.nikkei.com/article/DGXBZO35521700S1A011C1000000/ 2020年9月19日閲覧。 

参考文献

  • 草壁焔太『啄木と牧水―二つの流星 』日貿出版社、1976年
  • 草壁焔太『石川啄木―天才の自己形成』講談社<講談社現代新書>、1977年
  • 『石川木全集』筑摩書房、1978年
  • 阿部たつを・桜井健治『啄木と函館』幻洋社、1988年
  • 国際啄木学会(編)『論集 石川啄木』おうふう、1997年
  • 国際啄木学会(編)『石川啄木事典』おうふう、2001年
  • 遊座昭吾『北天の詩想―啄木・賢治、それ以前・それ以後』桜出版、2008年
  • 長浜功『啄木を支えた北の大地―北海道の三五六日』社会評論社、2012年
  • ドナルド・キーン(角地幸男訳)『石川啄木』新潮社2016年

関連項目

  • 港文館 - 旧釧路新聞社を復元した建物。「木資料室」が開設されている。
  • 大森浜 - 石川啄木小公園があり、そこに銅像がある。
  • 石川木賞 - 北溟社主催の文芸賞。岩手日報文学賞木賞とは別。
  • 函館市中央図書館 - 岡田健蔵が中心になって収集した資料による「啄木文庫」がある。
  • 岩城之徳 - 啄木の実証的研究の基礎を築いた。
  • 岡田弘子 - 本文中に記した岡田健蔵の娘で、函館における啄木資料収集や顕彰事業を引き継いだ。
  • 尾崎豊 - 「中等教育を中退してデビュー」「26歳で死去」といった啄木との共通点を指摘した論考やテレビ番組が存在する([1][2])。
  • 江口きち西塔幸子 - 「女木」と呼ばれた人物
  • 寺山修司 - 「昭和の啄木」と呼ばれた人物
  • 枡野浩一 - 朝日出版社『石川くん』で木の歌の現代語訳(超訳)を試みている。

外部リンク