尾崎豊
| 尾崎 豊 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出生 | 1965年11月29日 東京都練馬区 |
| 血液型 | B型 |
| 出身地 | |
| 死没 | 1992年4月25日(満26歳没) |
| ジャンル | ロック |
| 職業 | ミュージシャン、シンガーソングライター、実業家 |
| 担当楽器 | ボーカル ギター ピアノ ブルースハープ |
| 活動期間 | 1983年 - 1992年 |
| レーベル | CBSソニー (1983年 - 1986年) MOTHER&CHILDREN (1987年 - 1988年) CBSソニー (1990年) ソニー・ミュージックレコーズ (1991年 - 1992年) |
| 事務所 | マザー・エンタープライズ (1983年 - 1989年) ROAD AND SKY (1990年) アイソトープ (1991年 - 1992年) |
| 共同作業者 | 須藤晃 西本明 田島照久 町支寛二 福田信[1] |
| 公式サイト | YUTAKA OZAKI OFFICIAL SITE |
尾崎 豊(おざき ゆたか、1965年11月29日 - 1992年4月25日)は日本のミュージシャン、シンガーソングライター。
目次 |
概略[編集]
1983年、シングル「15の夜」とアルバム『十七歳の地図』でデビュー。
破滅的で体当たりなパフォーマンスや自己の内面を抉り出すような赤裸々な歌詞の中で、真実の愛や夢、生きることの意味を追い求め、学校や社会の不条理に立ち向かう心の叫びのようなその音楽の世界が1980年代から1990年代初頭にかけての多くの若者の共感を呼び、カリスマ的存在となる。
1992年、あまりにも若すぎる26歳での突然の死は、当時、社会的にも大きな衝撃を与えた[2]。死後20年を過ぎてもなお、尾崎を慕うファンは絶えず、その曲の数々は多くのアーティストにカバーされ続けている。
生涯[編集]
幼少〜学生時代[編集]
1965年(昭和40年)、東京都練馬区にて2人兄弟の次男として誕生。練馬区立田柄第二保育園から区立田柄第二小学校に入学したが、1976年8月に埼玉県朝霞市へ転居。小学校5年の2学期より、朝霞市内の公立小学校へ通う。父親が防衛庁職員であったため、いずれも陸上自衛隊練馬駐屯地と朝霞駐屯地の近くであった。母親は保険の外交員で、決して裕福ではないが教育熱心な家庭であった。しかし、転校生という理由で同級生から苛めを受けるようになり、一時不登校にもなった。その後ギターを弾くようになり、それがきっかけで苛められなくなった。このことが、後の人生にも影響している。
小学校を卒業すると、本人の強い希望で練馬東中学校へ越境入学。生徒会副会長を務めたが、喫煙により停学処分を受ける。高校受験では、第一志望で埼玉県内最難関の私立高校であった慶應義塾志木高等学校には不合格だったが、青山学院高等部に合格。さらに、陸上自衛隊少年工科学校の1次試験にも20倍の競争率を突破して合格した。しかし髪を短くしなくてはいけないと言う理由で、既に合格していた青山学院高等部に進学することになった。高校在学中にも喫煙で停学、更に同日の夜に渋谷で同級生達と飲酒した挙句、大学生のグループとパトカーが出動するほど乱闘騒ぎを起こし、無期限停学処分を下される。これがオーディションを受ける契機となる[3]。のちに停学処分は解けたものの出席日数が足りず留年となり、自主退学。
デビュー〜10代全盛期[編集]
ファーストアルバムの歌詞は何度も書き直されたもので、リテイクの嵐だったソニーでのレコーディングは、尾崎の持つ情熱をいかに文字として表現させるという事が当初のテーマであった[4]。デビュー当初の評価は完全な口コミであったため、ファーストアルバムである『十七歳の地図』はセールスが伸び悩んだが、音楽評論家からは大絶賛され、音楽雑誌では早くも特集が組まれた。中には10ページ以上尾崎の記事や写真で組まれた特集もあった。しかし、その後口コミにより人気が出て、3rdシングル「卒業」の中の過激な歌詞が話題となり、2ndアルバム『回帰線』は大手音楽チャート1位を記録し、尾崎の名は瞬く間に全国へと広がっていった。
特に10代の頃は「社会への反抗・疑問」や「反支配」をテーマにした歌を多く歌い、マスメディアからは「10代の教祖」「若者のカリスマ」などとも呼ばれたが、本人はこうした呼称を嫌っていた[5]。だが、校内暴力や学生による喫煙、飲酒が横行していた時代と相まって一種の社会現象ともなる[6]。
10代最後の日に3rdアルバム『壊れた扉から』を発売しヒット、同時期に行われていたツアーも満員となるなど人気は絶頂を迎える。
無期限活動休止〜完全復活[編集]
10代の代弁者として一世を風靡した尾崎は、20歳になり方向性を見失い突然無期限活動休止を宣言し単身渡米する。当時曲を生み出せないことに苦悩していた尾崎は、何の収穫もないまま半年後に帰国する。そんな中でレコード会社移籍が決定、須藤晃ら親和していたメンバーと離れてしまい、さらには覚せい剤取締法違反で逮捕され精神的に低迷し、バックバンド「Heart Of Klaxon」のメンバーとも関係が悪化する。復帰後リリースした「太陽の破片」がヒット、フジテレビ系列の『夜のヒットスタジオ』に最初で最後のテレビ出演、そして東京ドームにて復活ライブを行うが、同時期に制作していたアルバム『街路樹』やシングル『核 (CORE)』の完成度を含め満足のいく活動からは程遠かった。
一方プライベートでは一般人女性と結婚、長男が生まれ、新たな価値観を見出した尾崎は1990年レコード会社を古巣のCBSソニーに復帰、2枚組アルバム『誕生』をリリースし、オリコン1位を記録。さらに個人事務所「ISOTOPE」(アイソトープ)を設立し、翌年には大規模ツアーを行うなど、尾崎は完全復活を遂げる。
その後『放熱への証』の制作に取り掛かるが、1991年末に母親が急死、親和していたメンバーと次々と疎遠となっていき、再び精神的状況は悪い方向へ向かっていた。翌年尾崎は急逝したため、結果的に『放熱への証』は遺作となった。
20代になってからの尾崎は、かつての「自由」「反支配」といったものとは違い、「真実の愛」「贖罪」「罪」といったものを主題にした歌を多く作っていった。
26歳での突然死[編集]
1992年(平成4年)4月25日早朝、足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで倒れていたところを住人に発見され、通報で病院に運び込まれる。体が傷だらけだったが診察した医師は深酒のみという診断で尾崎は妻とともに自宅マンションに戻る。しかし、午後になり呼吸が止まっているのに気がついた家族が救急車を通報したが、搬送先の日本医科大学付属病院で死亡した。
後日、雨の降る中、東京都文京区の護国寺にて葬儀、追悼式が行われ、参列者は4万人近くに上り、規模は美空ひばり、忌野清志郎、坂井泉水、吉田茂に次ぐものとなった[7]。密葬は日蓮正宗流にて営まれた。戒名は「頌弦院智心碩豊居士」、墓所は埼玉県所沢市にある[8]。
2003年に放送されたラジオ番組「今夜もバリサン」で長渕剛は「尾崎は最後レコード会社からも見捨てられ、本当に孤独だったんだ。彼みたいな才能ある人間を業界は孤独にさせたらだめだ。」と語っている。
略歴[編集]
- 1965年
- 1974年
- 小学3年生の時に初めて詩を書く。タイトルは『雨』[9]。
- 1980年
- 1981年
- 12月26日、「NOA」というバンド名で新宿ルイードにてはじめてライブハウスでのライブを行う。
- 1982年
- 10月11日、CBSソニーオーディションにて「ダンスホール」と「もうおまえしか見えない」を歌い、合格する。
- 1983年
- 1984年
- 1985年
- 1986年
- 1987年
- 2月10日、CBSソニーから新レーベル・MOTHER&CHILDRENに移籍。同レーベルにはHOUND DOGも所属していた[17]。
- 10月21日、初のライブ・アルバム『LAST TEENAGE APPEARANCE』をリリースする。
- 12月22日、覚せい剤取締法違反で逮捕。
- 1988年
- 1989年
- 7月24日、長男・尾崎裕哉が生まれる。
- 1990年
- 1月、音楽事務所をデビューから在籍していたマザーエンタープライズから浜田省吾の在籍するROAD & SKYに移籍する。
- 10月21日、レコード会社を再びCBSソニーに移籍。
- 11月15日、5枚目のオリジナル・アルバム『誕生』(2枚組)をリリースする。
- 12月19日、個人事務所・ISOTOPE(アイソトープ)設立。
- 1991年
- 1992年
- 4月25日早朝、東京都足立区千住河原町の民家の庭にて泥酔状態で発見され、警察に通報される。救急車で病院に運ばれ診察を受け、夫人と共に自宅マンションに帰宅する。その後、夫人、兄、マネージャーが見守る中、自宅マンションで暴れたり眠ったりを繰りかえしながら、突如危篤状態となり、救急車で日本医科大学の緊急病棟に収容される。蘇生措置がされるが午後0時6分死亡。享年27(満26歳)。
- 4月30日、東京都文京区の護国寺で行われた追悼式には3万7500人ものファンが詰め掛ける。
- 5月10日、事実上、ラスト・アルバムとなった6枚目のオリジナル・アルバム『放熱への証』がリリースされる。初回出荷分が即日完売し、結果的に100万枚を超えるセールスを上げる。
- 1993年
- 5月10日、生涯最後のライブを収録したライブ・アルバム『約束の日 Vol.1』『約束の日 Vol.2』が同時リリースされる。
- 1994年
- 1月21日、シングル「OH MY LITTLE GIRL」がリリースされる。フジテレビ系テレビドラマ『この世の果て』の主題歌に使用され、100万枚を超えるミリオンセールスを上げる[18]。
- 1995年
- 4月25日、三回忌にあたるこの日、10代の頃のアルバムを収録したボックス・セット『TEENBEAT BOX』がリリースされる。
- 1996年
- 3月27日、未公開音源集『無題 (WHITE ALBUM)』がリリースされる。
- 9月30日、初のベストアルバム『愛すべきものすべてに』がリリースされる。
- 1997年
- 11月15日、ライブベストアルバム『MISSING BOY』がリリースされる。
- 2002年
- 4月、『週刊少年マガジン』誌上で「尾崎豊物語」が掲載される。
- 2004年
- 3月24日、13回忌として企画されたトリビュート・アルバム『"BLUE" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』『"GREEN" A TRIBUTE TO YUTAKA OZAKI』の2枚が同時リリースされる。
- 10月27日、ボックス・セット『TEENBEAT BOX 13th MEMORIAL VERSION』がリリースされる。
- 2006年
- 2007年
- 4月25日、CD-BOX『71/71』リリース。生前に発売されたオリジナル・アルバム6作品をすべて収録し、4枚目のアルバム『街路樹』に「太陽の破片」「街角の風の中」を加えた『街路樹+2』を特別収録している。
- 2008年
- 4月16日、ベスト・アルバム『WEDNESDAY 〜LOVE SONG BEST OF YUTAKA OZAKI』と『SATURDAY 〜ROCK'N'ROLL BEST OF YUTAKA OZAKI』が2枚同時リリースされる。
- 2009年
- 4月18日〜5月5日、尾崎の楽曲から生まれた青春群像劇『MISSING BOYs 〜僕が僕であるために〜』が赤坂ACTシアターにて上演される。
- 4月22日、オリジナル・アルバム6枚とベスト・アルバム『愛すべきものすべてに』がBlu-spec CDで再リリースされる。『街路樹』はシングル「核 (CORE)」と「太陽の破片」のそれぞれA面・B面収録曲を加えた2枚組スペシャルエディションとして発売された。
- 4月25日、TOKYO-FM(JFN38局)にて『KDDI presents 尾崎豊メモリアルスペシャル「BIRTH 〜From 1991 to 2009〜」』がオンエアされる。番組は、1991年5月20日に横浜アリーナで行われたツアー初日の初公開音源に加え、須藤晃によるエピソードで構成された。
- 同日、auの音楽配信サービスLISMOにて、全71曲の着うた配信が開始。同CMに「I LOVE YOU」が使用される。映像は1985年1月12日、日本青年館で行われたライブの一編である(このライブの模様は映像作品『OZAKI・19』に収録)。なお、尾崎自身の映像がテレビCMに使われるのは初めてである。
- 2011年
- 3月21日、テレビ東京系列にて彼の半生を描いたドラマ『風の少年〜尾崎豊 永遠の伝説〜』(尾崎役:成宮寛貴)が放映される。
- 2012年
- 9月、20回忌にあわせて東京・原宿、ラフォーレミュージアムで特別展「OZAKI20」が開始。その後、10月には名古屋・マツザカヤホールで、12月には大阪・心斎橋にある心斎橋BIG STEPで、翌2013年3月には福島・S-PAL福島店、4月に横浜・みなとみらい駅特設会場で開催[19]。
- 2013年
- 3月23日、初の尾崎のライブを完全収録したライブビデオ「LIVE CORE 完全版〜YUTAKA OZAKI LIVE IN TOKYO DOME 1988・9・12」が発売される。
生前、活動期の詳しい経歴はHeart Of Klaxonも参照。
人物[編集]
クールなイメージのある尾崎だがプライベートの尾崎は普通の明るい好青年であった。尾崎と同じCBSソニーに所属していた俳優の坂上忍はインタビュアーの吉田豪との対談の中で「尾崎はいつも暗い顔して写真に写ってたけど、プライベートはホントに明るくて。こっちのほうがよっぽど暗かったですから。『忍ちゃーん!』とか言って登場してくるぐらいですからね。」と語っている[20]。
また、10代の頃は尾崎自身のカリスマ性やイメージを保つ為に、写真は全てモノクロ(白黒)写真で掲載された。
バックバンド[編集]
尾崎のバックバンドは、ツアーやライブごとに名称やメンバーが異なっている。詳しくは「Heart Of Klaxon」を参照。
尾崎の友人[編集]
尾崎の友人の1人として、デビューが同期の吉川晃司が挙げられる。2人は1984年8月5日に日比谷野外音楽堂で開催予定だった「TOKYO ROCKFEELING FESTIVAL」で競演しようとしたが、尾崎が前日の「アトミック・カフェ」出演中にに足を骨折してしまい、実現しなかった[21]。
吉川の他に、岡村靖幸[22]、金山一彦、RED WARRIORSのメンバー、渡辺美里、川上麻衣子、中村あゆみ、南野陽子との交流もあり、大友康平、泉谷しげる、キラー・カーン、坂上忍、とんねるずの石橋貴明、中山秀征、加藤登紀子、小田和正なども素の尾崎を懐かしむコメントを出している[23]。光GENJIとしてデビューする以前の大沢樹生とも、よく夜の六本木で遊んでいた。また、高橋克典は高校の1年先輩である。
弟分として、俳優の吉岡秀隆がいる。尾崎の影響を受け、曲作りを始めたという。吉岡が出演したフジテレビ系ドラマ『北の国から』では、尾崎の曲をBGMとして使ったこともある。生前、尾崎豊は自作の小説『幻の少年』を映画化することがあれば、吉岡を主人公にしたいと思っていた[要出典]。
死因について[編集]
- 司法解剖による見解
- 司法解剖時に検死をした支倉逸人によれば、尾崎の死因は、経時的な悪化による薬物中毒死ではなく、致死量の2.64倍以上の覚醒剤服用(オーバードース、薬の多量摂取)による急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫と結論付けられている[24]。
- 他殺の疑惑
- 尾崎の遺体には多数の傷やあざがあり、亡くなった当初は傷害致死の可能性も指摘された。しかし警察は、状況捜査や司法解剖を行った結果から「事件性なし」として調査を終結している。検死をした支倉逸人の著書によれば、擦過傷と打撲傷をじっくり調べた結果、他殺をうかがわせるようなものはなかったとの記述がある。またそれを裏付けるように尾崎が転倒したり暴れて転げ回っていたという証言が確認されている[24]。
- 7年後の1999年には週刊誌『フライデー』に蘇生措置を施されている尾崎の写真と死体検案書が掲載され、妻と知人が覚醒剤を飲ませて殺害したという説が浮上した。しかしこの記事は検視を行った支倉に対して一切の取材を行わずに書かれたものであったことが支倉の著書で述べられている。記事を執筆した記者は後に尾崎の妻から訴えられ、一審・二審・最高裁全てで敗訴した[24]。
死後のエピソード[編集]
- 死亡直後の影響
- 尾崎の死後、尾崎のアルバムが急激に売れる現象が起こり、1992年5月25日付けのオリコンアルバムチャートでは、TOP10中6作を尾崎が占める現象が起こった(1位『放熱への証』、4位『回帰線』、5位『十七歳の地図』、6位『LAST TEENAGE APPEARANCE』、7位『壊れた扉から』、9位『誕生』。なお、TOP10外に14位『街路樹』がある)。また、同年6月16、17日の初の日本武道館ライブ[25]を含む全国コンサートツアーが予定されていたが、尾崎の死によって中止となった。しかし、チケットを手元に置くファンが多かったためか、チケットの払い戻しに来る人はほとんどなかった。
- 尾崎が倒れていた東京都足立区千住河原町の民家の部屋は1人の女性ファンが毎日訪問した事をきっかけに所有者の好意によってファンに開放され、「尾崎ハウス」と呼ばれてファンの交流の場になっていたが、2011年10月、改築のため解体された[26]。
- 教科書への掲載
- その思想や活動、若者におけるカリスマ的人気から、中学・高校などの教育現場で長らくタブー視されて来たが、死後、十年以上経った現在では、評価も変わって来ており、高校教科書に顔写真や「15の夜」の歌詞が掲載される(『高等学校 新倫理 - 人間とは何か 思索の糧に - 』 清水書院、2002年)。『新課程用 倫理用語集』(山川出版社、2005年)には、「尾崎豊」は用語頻度「3」で掲載され[27]、「1980年代に活躍し、夭折したシンガーソングライター」「自ら作詞・作曲した歌の世界に没頭しながら全身全霊をこめて歌い」というように記述されている(ISBN 4634053500)。
- 海外でのカバー化
- 尾崎の代表曲である「I LOVE YOU」はアジアのみならず世界各国の歌手にカバーされ、カバー曲を含めた総売上は全世界で1,000万枚に達する。
- 遺書の公開
- 2011年11月9日、翌10日発行の文藝春秋に「遺書」全文が公開されることが報じられた。文藝春秋の記事はジャーナリストの加賀孝英が執筆した。「遺書」と言われる文書の存在は1994年の月刊誌で報じられたが、全文掲載は初めてとなる。加賀が同年に入手していたが、尾崎の妻から「長男の尾崎裕哉が物心つくまで公表しないでほしい」と要請され、全文公開を控えていた。裕哉が成人してアーティストとしてCMで歌声を披露したことや、上述の「尾崎ハウス」が解体されたことを契機として、公開に至ったとしている[28]。
- 一方、NEWS ポストセブンによると、1994年に本来なら未公開で有るはずの「死体検案書」が一部のマスコミに流出して他殺説が噂され、また、当時父が署名を集め警察に再捜査を要請したなどの経緯も有る事から、父は遺書の公開に付いても尾崎の遺書で有る事に疑問を挟み「いまとなっては、他殺だとは思ってないけど、あれは自殺じゃない。豊じゃないからわからないけど、なんで死んだんだって…いまでも思ってます」と自殺で有る事を否定した[29]。
死後の特集番組[編集]
尾崎の死後にはさまざま特集番組が放送されている。
テレビ[編集]
NHK[編集]
「BS2」・「BSプレミアム」では尾崎の特集番組[30]が平成10年(1998年)からほぼ毎年放送されている。
- NHK総合
- 平成5年(1993年)4月25日「I LOVE YOU 真実の証」
- 平成10年(1998年)1月15日「僕が僕であるために」- リハーサル中の映像などが初公開となる。
- 平成24年(2012年)4月28日「SONGS」- 尾崎のライブ映像で構成。出演は尾崎の他に須藤晃ら。
- BS2
- 平成10年(1998年)4月24日「ありがとう尾崎豊」- サブタイトルは「リクエストで甦る永遠の詩」。公開されたライブ映像はすべて1番のみであった。
- 平成11年(1999年)12月9日「21歳の夏」- 1987年8月29日、30日に行われた有明コロシアムでのライブ映像を放送。「TREES LINING A STREET TOUR」のライブ映像は初公開となった。後にこの番組の映像に未公開映像を加えたライブ・ビデオ「OZAKI FILM ALIVE AT ARIAKE COLOSSEUM IN 1987 THE TWENTY-FIRST SUMMER」が発売。
- 平成12年(2000年)4月20日「永遠の詩」- 電話でリクエストを募集。リクエストランキング総合1位は「卒業」。
- 平成13年(2001年)4月20日「尾崎豊への伝言 10th Anniversary」-「Rock」・「BALLAD」・「MESSAGE」の分野別にリクエストを募集。リクエストランキング総合1位は「 I LOVE YOU 」。
- 平成14年(2002年)4月21日「尾崎豊 青春の叫び BORN TO RUN」- 初公開となる1985年8月25日の大阪球場でのライブ映像を中心に構成。「BORN TO RUN」は尾崎に大きな影響を与えたブルース・スプリングスティーンの曲で[31]。
- 平成15年(2003年)4月26日「永遠の肖像」- 1987年8月22日に開催されたロックイベント「BEAT CHILD」の「Driving All Night」、「Bow!」などのライブ映像が初公開となる。
- 平成16年(2004年)4月24日「尾崎豊 十代の素顔」- サブタイトルは「不滅の名曲・その原点に帰る」。1988年9月12日に東京ドームで行われた「LIVE CORE」のリハーサル映像が初公開される。
- 平成17年(2005年)4年23日「尾崎豊に会える日」- サブタイトルは「帰らざる青春の光と風」。1987年8月29日の有明コロシアムでの「誰かのクラクション」や1985年11月14日に代々木オリンピックプールで歌われた「米軍キャンプ」などが初公開となる。
- 平成19年(2007年)4月28日「尾崎豊15年目のアイラブユー」- 1988年9月12日に東京ドームで開催された「LIVE CORE」での「遠い空」や1987年8月22日の「BEAT CHILD」での「街角の風の中」などが初公開となる。
- BSプレミアム
- 平成22年(2010年)4年24日「歌伝説 尾崎豊 ~少年のように駆け抜けた男~」
- 平成24年(2012年)11月10日「ヒーローたちの壮絶人生 おとなになった君たちへ 尾崎豊 20年目の真実」- 1984年8月4日に開かれた反核イベント「アトミック・カフェ」で「Scrambling Rock'n'Roll」の間奏の際に高さ7mの照明器具から飛び降りる映像がテレビ初公開となる[32]。
- NHKハイビジョン
- 平成15年(2003年)11月29日「迷宮美術館」- 尾崎が描写したパステル画「動脈静脈」を紹介。
テレビ東京系列[編集]
- 平成23年(2011年)2月12日「放熱の行方」- サブタイトルは「尾崎豊 知られざる伝説」。Gackt、DAIGOらが出演。
- 平成23年(2011年)3月21日「風の少年〜尾崎豊 永遠の伝説〜」- 出演は俳優の成宮寛貴。
フジテレビ系列[編集]
- 平成4年(1992年)6月2日「尾崎豊 ~作られた教祖~」
- 平成5年(1993年)5月5日「絆の証」
日本テレビ系列[編集]
テレビ朝日系列[編集]
- 平成11年(1999年)12月31日「今夜蘇るカリスマ尾崎豊の光と影」
- 平成5年(1993年)11月5日「驚きももの木 20世紀」- 尾崎が友人の結婚式で「I LOVE YOU」を歌う映像が初公開となる。
- 平成11年(1999年)11月19日「ターニングポイント」-「知られざる尾崎豊の神話」と題し尾崎の生涯を放送。出演はユースケサンタマリア、優香ら。
WOWOW[編集]
- 平成13年(2001年)8月19日「尾崎豊 もうひとつのリアリティ “Live + Documentary”」- 尾崎のライブツアー『1991 BIRTH TOUR』から1991年8月27日の郡山市民文化センターでのライブ映像や須藤晃による尾崎のインタビュー映像を放送。のちに、未公開映像3曲を加えてこの番組を再編集したライブビデオ『もうひとつのリアリティ “LIVE + DOCUMENTARY”』が発売されている。
ラジオ[編集]
- 平成23年(2011年)5月5日「今日は一日“尾崎豊”三昧」- 正午から10時間生放送。コメンテーターは落合昇平。
- 平成4年(1992年)6月22日「15の夜 ラストナイト」- サブタイトルは「尾崎豊 FINAL TOUR 92 ON THE RADIO」。尾崎が高校生のときに組んでいたバンド「NOA」時代に歌った「町の風景」が初公開された。
- 平成21年(2009年)4月20日「オールナイトニッポンGOLD」- パーソナリティーは早乙女太一。
- 平成15年(2003年)5月4日「Hits from the Radio~感動へのトリビュート」- 西本明氏が「I LOVE YOU」の誕生秘話を語る。出演は他に須藤晃氏。
- 平成16年(2004年)4月29日「僕が僕であるために 26歳のメッセージ」- リスナーからのリクエスト番組。リクエストのベスト5は一位から順に「I LOVE YOU」、「卒業」、「僕が僕であるために」、「15の夜」、「シェリー」。
- 平成21年(2009年)4月25日「KDDI presents 尾崎豊メモリアルスペシャル BIRTH 〜From 1991 to 2009〜」- 1991年5月20日に横浜アリーナで行われたツアー初日の初公開音源に加え、須藤晃によるエピソードで構成された。
- 平成9年(1997年)11月29日「だから僕には君のクラクションが聞こえる」- 1985年11月20日に放送された「誰かのクラクション[33]」の再放送。
- 平成18年(2006年)3月18日「誰かのクラクション Again」- 「誰かのクラクション」の再放送。 パーソナリティーは須藤が務める。
- 平成15年(2003年)4月26日「おかしな惑星」- 須藤晃が「Scrambling Rock'n'Roll」について語っている。
- 平成16年(2004年)2月7日「続・おかしな惑星」
- 平成21年(2009年)3月30日「kakiiin尾崎豊」- プロデビュー前の1980年に原宿音楽祭で歌った「町の風景」や1984年6月の札幌ペニーレインでの「OH MY LITTLE GIRL」が初公開される。
- 平成22年(2010年)10月2日「CONCERNED GENERATION」- この番組で尾崎の長男である尾崎裕哉がDJデビュー。
作品[編集]
- 詳細は「尾崎豊の作品」の頁を参照。
シングル[編集]
- 15の夜 - THE NIGHT (1983年)
- 十七歳の地図 - SEVENTEEN'S MAP (1984年)
- はじまりさえ歌えない - CAN'T SING EVEN THE BEGINNING (1984年)
- 卒業 - GRADUATION (1985年)
- DRIVING ALL NIGHT[34] (1985年)
- 核 (CORE) - CORE (1987年)
- 太陽の破片 (1988年6月21日)
- LOVE WAY (1990年)
- 黄昏ゆく街で - 57TH STREET (1990年)
- 永遠の胸 - ETERNAL HEART (1991年)
- I LOVE YOU (1991年)
- 汚れた絆 - BOND (1992年)
- 15の夜 (ライブ) - THE NIGHT (LIVE) (1993年)
- OH MY LITTLE GIRL (1994年)
- もうおまえしか見えない (1996年)
- 風にうたえば (1999年)
- FORGET-ME-NOT/OH MY LITTLE GIRL (2001年)
アルバム[編集]
- 十七歳の地図 - SEVENTEEN'S MAP (1983年)
- 回帰線 - TROPIC OF GRADUATION (1985年)
- 壊れた扉から - THROUGH THE BROKEN DOOR (1985年)
- 街路樹 (1988年)
- 誕生 - BIRTH (1990年)
- 放熱への証 - CONFESSION FOR EXIST (1992年)
公演[編集]
同じツアー内でも、ライブ会場に よってセットリストは一部異なっていた。
| 年 | 形態 | タイトル | 公演規模・会場・セットリスト | 収録作品 |
|---|---|---|---|---|
| 1984年 | 単発コンサート | LIVE HOUSE APPEARANCE |
全13公演
全13曲
1984年3月15日 |
ビデオ『OZAKI・18』 |
| 単発コンサート | アトミック・カフェ・ミュージック・フェスティバル'84 |
全1公演
8月4日 日比谷野外音楽堂 全4曲
1.反核[35] |
- | |
| 1984年 - 1985年 | コンサートツアー | FIRST LIVE CONCERT TOUR |
21都市全21公演
1984年 全20曲
1.シェリー |
ビデオ『OZAKI・19』 |
| 1985年 | コンサートツアー | TROPIC OF GRADUATION TOUR |
38都市全38公演
5月7日 立川市民会館 全20曲
1.米軍キャンプ |
アルバム『MISSING BOY』 アルバム『OSAKA STADIUM on August 25th in 1985 Vol.1』 アルバム『OSAKA STADIUM on August 25th in 1985 Vol.2』 |
| 1985年 - 1986年 | コンサートツアー | LAST TEENAGE APPEARANCE TOUR |
26都市全27公演
1985年 全20曲
1.卒業 |
アルバム『LAST TEENAGE APPEARANCE』 アルバム『MISSING BOY』 ビデオ『LAST TEENAGE APPEARANCE』 DVD『625 DAYS』 |
| 1987年 | コンサートツアー | TREES LINING A STREET TOUR[36] |
25都市全26公演
7月1日 茨城県民文化センター 全19曲
1.LIFE |
アルバム『MISSING BOY』 DVD『OZAKI FILM ALIVE AT ARIAKE COLOSSEUM』 |
| 1988年 | 単発コンサート | LIVE CORE |
全26曲
1.COLD WIND |
ビデオ『LIVE CORE』 アルバム『MISSING BOY』 Blu-ray & DVD『LIVE CORE 完全版〜YUTAKA OZAKI LIVE IN TOKYO DOME 1988・9・12』 |
| 1991年 | コンサートツアー | TOUR 1991 BIRTH |
34都市全48公演
5月20日 横浜アリーナ 全24曲
1.FIRE |
ビデオ『TOUR 1991 BIRTH』 アルバム『MISSING BOY』 DVD『AFTER THE BIRTH』 DVD『もうひとつのリアリティ “LIVE + DOCUMENTARY”』 映画『復活 尾崎豊 YOKOHAMA ARENA 1991.5.20』[37] |
| コンサートツアー | TOUR 1991 BIRTH ARENA TOUR The Day |
全8公演
全20曲
1.FIRE |
ビデオ『TOUR 1991 BIRTH』 アルバム『約束の日 Vol.1』 アルバム『約束の日 Vol.2』 ビデオ『約束の日 LAST APPEARANCE』 DVD『約束の日 LAST APPEARANCE 完全版』 |
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| 1992年 | コンサートツアー | TOUR 1992 “放熱への証” Confession for Exist[38] | - |
書籍[編集]
著書[編集]
- 誰かのクラクション (1985年、角川書店) ISBN 4048831925
- 普通の愛 (1991年、角川書店) ISBN 4048726307
- 白紙の散乱 (1992年、角川書店) ISBN 4048713515
- 黄昏ゆく街で (1992年、角川書店) ISBN 404872715X
- 堕天使達のレクイエム (1996年、角川書店) ISBN 4048727419
- 幻の少年 (1999年、角川書店) ISBN 4087803031
写真集[編集]
- WORKS (1988年、CBSソニー出版) ISBN 4789704203
- FREEZE MOON (1992年、角川書店) ISBN 4048511009
- MEMORIAL (1992年、ソニー・マガジンズ) ISBN 478970775X
- 尾崎豊 午前0時の十字架 (1994年、幻冬舎) ISBN 487728009X
- 尾崎豊 MEMORIAL PHOTO BOOK (1995年、飛鳥新社) ISBN 487031231X
- Naked (1998年、マイストロ)
関連書籍[編集]
- 尾崎豊ストーリー 未成年のまんまで (1985年、落合昇平著、ソニー・マガジンズ) ISBN 4789701964
- 失くした1/2 尾崎豊にアンサー・コール (1986年、ソニー・マガジンズ) ISBN 4789702464
- ファンからのメッセージ集。
- 尾崎豊「誕生」想い出の幼少年時代 (1993年、尾崎健一著、リム出版新社) ISBN 9784898000083
- 尾崎の父による著作。
- 放熱の行方 (1993年、吉岡忍著、講談社) ISBN 978-4062063593
- ノンフィクション作家によるドキュメンタリー。
- 弟尾崎豊の愛と死と (1994年、尾崎康著、講談社) ISBN 4062070049
- 尾崎の兄による尾崎伝。
- 尾崎豊が伝えたかったこと (1995年、須藤晃著、主婦と生活社) ISBN 439111741X
- 尾崎豊覚え書き (1998年、須藤晃著、ソニーマガジンズ、小学館) ISBN 4094021019
- 尾崎を育てたプロデューサーによる尾崎伝。
- 親愛なる遥(とお)いあなたへ 尾崎豊と分けあった日々 (1998年、尾崎繁美著、東京書籍) ISBN 4487754089
- 尾崎の妻の著作。
- 尾崎豊物語(ヤング・ジャンプ・コミックス愛蔵版)(1998年、堀口純男著、集英社) ISBN 4087825582
- KAWADE夢ムック 尾崎豊(2001年、河出書房新社) ISBN 4309976069
- 尾崎豊 目覚めゆく魂 - 母と子の物語(2001年、尾崎健一著、春秋社) ISBN 4-393-33196-6
- 尾崎の父による著作。
- 尾崎豊物語(KCデラックス)(2002年、長緒隆也著、講談社) ISBN 4063346048
- 愛すること、それがすべて 尾崎豊との永遠の絆 (2003年、鬼頭明嗣著、扶桑社) ISBN 4594041930
- 尾崎の元マネージャーによる著作。
- 誰が尾崎豊を殺したか (1993年、大楽光太郎著、ユニオンプレス) ISBN 4-946485-01-5
- 新 誰が尾崎豊を殺したか (1995年、大楽光太郎著、松文館) ISBN 978-4790100898
- 尾崎豊 7年目の真実 (1997年、大楽光太郎著、ジャパンミックス) ISBN 978-4883214358
- 最後のひとかけら - 誰が尾崎豊を殺したか 最終章 (2003年、大楽光太郎著、サウンドシャワーパブリッシャー) ISBN 978-4860620134
- 尾崎の最後のマネージャーであり、死を看取った一人による著作。
関連項目[編集]
- 須藤晃
- CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)- 尾崎がデビューの際に所属したレーベル会社。
- マザーエンタープライズ - 尾崎がデビューの際に所属した事務所。
- Heart Of Klaxon - 尾崎のバックバンド。
- ISOTOPE - 尾崎が設立した個人事務所。
- 渋谷クロスタワー - 旧東邦生命ビル。尾崎が高校時代によく通っていた場所で、「街の風景」の歌詞が刻まれた石碑がある[5]。
脚注[編集]
- ^ 尾崎の所属事務所『マザー・エンタープライズ』およびレーベル『MOTHER&CHILDREN』の社長。
- ^ 当時、1ヶ月にも及んで民放のみならずNHKも含めたテレビ各局は連日のように尾崎の特集を組んだ。
- ^ 尾崎は2、3年生共に文化祭直前に停学処分を受けており、文化祭に出れなくて悔しかったことをオーディションの際に述べている。(2012年11月10日 NHK-BSプレミアム『ヒーローたちの壮絶人生』より)
- ^ 須藤は「尾崎がノートに書いてくるのは歌詞ではなく、もはや散文のようなもので、それもノート1ページだけではなく、時には2、3ページ書いてくることもあった。」と語っている。(2012年11月10日 NHK-BSプレミアム『ヒーローたちの壮絶人生』より)
- ^ a b c 日本テレビ系列「知ってるつもり?!」1997年4月13日放送分より
- ^ 実際に当時は「卒業」の歌詞に影響されて、学校の校舎の窓ガラスを割るという事件が頻発した。(「知ってるつもり?!」1997年4月13日放送分より)
- ^ それぞれ、美空ひばり、忌野清志郎の追悼式は4万2000人、坂井泉水の追悼式は4万100人、吉田茂の国葬は4万人という規模であった。(日刊スポーツ2009年7月4日付「三沢光晴 お別れ会」の記事より)
- ^ 防犯上、警備上の理由のため、実際にはこの墓地には尾崎の遺骨は納骨されていない。
- ^ 須藤晃 - 「尾崎豊 覚え書き」(1998年、小学館、ISBN 4094021019)P147より
- ^ のちに、Mr.Childrenらをを生んだ小林武史が優勝している。
- ^ ファーストアルバム『十七歳の地図』に収録されている『街の風景』の原曲。平成21年(2009年)3月30日に放送されたTBSラジオ系列のラジオ番組「kakiiin尾崎豊」にて公開されている。
- ^ この日に尾崎は友人らを招いて『退学記念パーティー』を開催、「街の風景」などを涙で声をつまらせながら歌った。(フジテレビ系列「尾崎豊 ~作られた教祖~」平成4年(1992年)6月2日放送分より)。
- ^ 正確には「Scrambling Rock'n'Roll」の間奏中。その後もなんとかステージに這いつくばりながらセットリストのすべての曲を歌い切った。
- ^ その後もなんとかスタッフに支えられステージに這いつくばりながらセットリストのすべての曲を歌い切った。
- ^ 大阪球場でのライブはライブツアー「Tropic of Graduation Tour」時に開催されたものであるが当時のツアーパンフレットには日程が記載されておらず、大阪球場での公演2日前の8月23日でツアーは終了する予定であったがツアー開始初日の5月6日に関係者の間で会見を行い公表した。チケットは発売後に即日完売したことからも当時、尾崎の人気が一気に高まっていたことが伺える。
- ^ 最初にニューヨークへ渡ったのは1月で、その後は行ったり帰ったりを繰り返し、6月から長期滞在していた。
- ^ 同社はのちにアルファ・ムーンと合併しエム・エム・ジーとなり、その後イーストウエスト・ジャパンとなる。
- ^ 2013年現在、このCDの売り上げが尾崎史上最高となっている。
- ^ アイソトープ公式サイト「OZAKI20」
- ^ 吉田豪×坂上忍の衝撃トーク いまだから語れる素顔の尾崎豊 - NEWSポストセブン
- ^ 結局「TOKYO ROCKFEELING FESTIVAL」は尾崎以外の出演者で行われた。
- ^ 岡村とは1987年8月6日の広島平和コンサート「ALIVE HIROSHIMA '87」で共演し、岡村の楽曲「Young Oh! Oh!」を岡村と共に歌っている。
- ^ RED WARRIORSや大友康平(HOUND DOG)らは尾崎と同じ事務所であるマザーエンタープライズに所属していた。
- ^ a b c 支倉逸人『検死秘録』 ISBN4-334-97352-3
- ^ 武道館でのライブは尾崎の夢であった。(須藤晃『尾崎豊覚え書き』より)
- ^ 尾崎の記憶永遠に 読売新聞 2011年10月4日
- ^ 現行教科書11種類のうち3種類の本に記述があること。
- ^ 2011.11.9 MSN産経ニュース 尾崎豊さんの“遺書”あった 10日発売の「文藝春秋」に掲載 「先日からずっと死にたいと…」
- ^ 2011.11.18 Yahoo!ニュース 尾崎豊の遺書公開に実父 「本当の遺書?」「自殺じゃない」
- ^ 主にライブ映像を中心として構成されている。
- ^ 今番組内で放送された「ハイスクールRock'n'Roll」のMCでブルース・スプリングスティーンに関する話をしている。
- ^ 既に2010年に開催された音楽イベント「フジロック」において公開されていた。
- ^ 「誰かのクラクション」は尾崎がパーソナリティを務めたレギュラー番組で、1985年10月から1986年3月、1986年10月から1987年3月にオンエアされていた。番組ディレクターは加藤与佐雄。
- ^ アルバム版では『Driving All Night』となっている。
- ^ 「核 (CORE)」の原曲。
- ^ ツアー途中に尾崎本人の急病により、ツアーが中断している。
- ^ 2012年12月1日公開
- ^ 尾崎本人が急死したため全公演中止となった。
外部リンク[編集]
- YUTAKA OZAKI OFFICAL HP 2012 - アイソトープによる公式サイト。
- 尾崎豊公式サイト - ソニー・ミュージックエンタテインメント(旧・CBSソニー)による公式サイト。
- ソニー・ミュージックレコーズ特設サイト
- 尾崎豊オフィシャルサイト - マインドスケープによるオフィシャルサイト。
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