生島遼一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Arleigh1 (会話 | 投稿記録) による 2022年11月18日 (金) 08:28個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎来歴・人物: リンク)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

生島 遼一(いくしま りょういち、1904年9月2日 - 1991年8月23日)は、日本フランス文学者文芸評論家京都大学名誉教授。

来歴・人物

大阪府生まれ。1929年京都帝国大学文学部仏文科卒、神戸商業大学予科講師、教授、戦後1947年第三高等学校教授、1949年京都大学教養部教授、1964年京都大学文学部教授を務め、1968年定年退官[1]。若くしてスタンダールの『赤と黒』を翻訳。以後バルザックフローベールプルーストら19世紀フランス文学の作家を紹介し、ラファイエット夫人の「クレーブの奥方」、フローベールの「感情教育」では文章の美しさで翻訳の世界に新境地を開いた。

また、ボーヴォワール『第二の性』の訳でも知られ、桑原武夫伊吹武彦とともに京大フランス学を形成した。仏文学者と翻訳家、2つの顔で知られているが、日本文学評論や文芸エッセイも著した。作家でやはり京大教授だった山田稔が「端正と気品が文学のモットーだった」と語る一方で、好き嫌いが激しく時にかんしゃくを起すなど、自ら認める我がままな一面もあった。当時、国際日本文化研究センターの教授だった杉本秀太郎は「昔気質の学者でした」と語り、晩年まで、自らの舞台にも立つ「第三の顔」も有名で、芸術家肌を地でゆく学者でもあった。1981年日本芸術院賞受賞[2]。1991年8月23日、86歳で死去。

著書

翻訳

共著・編著

脚注

  1. ^ 柿谷浩一編「年譜」『春夏秋冬』講談社文芸文庫
  2. ^ 『朝日新聞』1981年3月4日(東京本社発行)朝刊、22頁。

出典

参考文献