森繁和
中日ドラゴンズ コーチ #80 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県長生郡一宮町 |
生年月日 | 1954年11月18日(69歳) |
身長 体重 |
181 cm 81 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1978年 ドラフト1位 |
初出場 | 1979年4月9日 |
最終出場 | 1988年9月8日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
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この表について
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森 繁和(もり しげかず、1954年11月18日 - )は、日本の千葉県長生郡一宮町出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ、野球解説者、野球評論家。2014年シーズンより中日ドラゴンズのヘッドコーチを務める。また、同年よりよしもとクリエイティブ・エージェンシー[注 1]からマネジメントを受けている[注 2]。
来歴
プロ入りまで
高校は千葉県の科学技術工業高等学校。2年生からエースとなるが3年時に廃校が決定し、1972年夏の全国高等学校野球選手権千葉大会で千葉県立佐倉高等学校に敗退後、駒澤大学高等学校に移る。
大学時代
卒業後は駒澤大学に進学。東都大学リーグ加盟の駒澤大学硬式野球部では在学中5度の優勝を経験。1975年は春秋季連続優勝を果たし、同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で大阪商業大学を破り優勝。1976年春季リーグでは8勝を挙げる活躍で最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインを受賞。同年の全日本大学野球選手権大会1回戦で近畿大学工学部[注 3]を相手に完全試合を達成するが、準決勝で大商大に敗退、敗者復活戦でも東海大学に敗れた。一方、同年の第5回日米大学野球選手権大会日本代表に選出された。リーグ通算41試合に登板し18勝9敗、防御率2.11、191奪三振。
社会人時代
1976年のプロ野球ドラフト会議でロッテ・オリオンズから1位指名を受けたが入団を拒否し、社会人野球の住友金属へ進む。1977年の第48回都市対抗野球大会に出場するが、1回戦で東芝に延長14回の熱戦の末に敗退。同年の社会人野球日本選手権大会では中村裕二とバッテリーを組み4連勝、決勝で電電四国を降し初優勝を飾る。この大会では最高殊勲選手賞を受賞。国際試合では、同年の第3回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出された。また、1978年には後に中日で監督とコーチの関係となる落合博満らとともに、第25回アマチュア野球世界選手権日本代表にも選出された。しかし、同年の第49回都市対抗野球大会では1回戦の対日本楽器戦で頭部に死球を受け、骨折するアクシデントに見舞われた。
現役時代
1978年のプロ野球ドラフト会議で西武ライオンズ、中日ドラゴンズ、ヤクルトスワローズ、日本ハムファイターズの4球団から1位指名され、抽選の結果、西武ライオンズに入団[注 4]。1979年はルーキーながら先発陣の一角を占めるが、チームが最下位に沈んだこともあり、5勝16敗に終わる。しかし2年目からはコンスタントに二桁勝利を記録し、東尾修、松沼雅之らとともに西武投手陣の中心となる。
広岡達朗が監督に就任した1982年は開幕投手に起用されるが、その後4試合結果が出ず、広岡がリリーフ転向を決断。シーズン途中からリリーフとして西武の所沢移転後の初優勝に貢献[3]。中日ドラゴンズとの日本シリーズでも3試合に登板した。1983年には5勝5敗34セーブ(34セーブは当時の日本記録)の成績で最優秀救援投手を受賞。読売ジャイアンツ(巨人)との日本シリーズでは第4戦でセーブを記録するものの、第3戦で中畑清にサヨナラ適時打、第5戦でクルーズにサヨナラ3ランを喫した。
その後は怪我に苦しみ徐々に成績が低下、1986年は肩の手術のため現役選手登録されず、秋季は若手とともにアメリカのアリゾナ・アストロズに野球留学した。1988年限りで現役引退。
引退後
引退後は、1989年から1991年まで西武二軍投手コーチを務め、1992年からはロッテ監督へ就任した八木沢荘六の後を受け一軍投手コーチへ就任。1998年シーズン途中、投手陣の低迷の責任を取らされ二軍へ配置転換となり、1999年に解雇[4]。
2000年から2001年までは日本ハムファイターズ一軍投手コーチを務めたが2年連続でチーム防御率5位と低迷した[5][6]。
2002年からは森祇晶に請われ横浜ベイスターズ一軍投手コーチへ就任。2003年まで務めたが、チーム防御率4.09(リーグ5位)と4.80(リーグ最下位)と低迷[7][8]。日本ハムと横浜の両球団で投手陣が不振に陥り最下位に沈んだ。
2004年からは中日ドラゴンズの監督に就任した落合博満からの要請を受け中日の投手コーチに就任[9]。2009年まで中日ドラゴンズ一軍バッテリーチーフコーチ[10]を務め、2010年にヘッドコーチへと昇格し4度のリーグ優勝、1度の日本一に貢献し、2011年に退団。
2012年から2013年は文化放送・J SPORTSほかの野球解説者[注 5]、スポーツニッポン(スポニチ)の野球評論家[12]を務めた。
2013年10月22日、翌2014年より中日のヘッドコーチに就任することが発表された[13]。11月1日には背番号が80に決定したことが発表された[14]。なお、2014年から2015年までは監督の谷繁元信が選手兼任だったため、谷繁が選手として出場した場合は森が監督代行を務めていた。
人物
口が堅く絶対に投手の調子などを外に漏らさないなど、中日監督時代の落合から絶大な信頼を受けていた。
選手に対しての指導が厳しく、西武投手コーチ時代に駒澤大学の後輩でもある竹下潤がふがいないピッチングでKOされた際には、当時バッテリーコーチだった大宮龍男(大学時代にバッテリーを組んでいた)とステレオで竹下を怒鳴りつけたこともある。しかし、兄貴分として慕われ、人望が厚い。吉見一起はトークショーで「森コーチは怖かったですか?」という質問に対して「あの人は怖くないんです。すごくいいお父さんという感じ。テレビで見る姿と本当の森さんは違う。本当にいい人」と答えていた。但し、「1度だけメチャクチャ怒られた事がある」とも答えている[15]。
西武・横浜のコーチ時代から友利結の能力を高く評価しており、中日では落合監督に獲得を進言したこともある。また、2014年からはヘッドコーチと投手コーチという関係となった。
ドミニカ共和国との関わり
中日のコーチ就任後は外国人選手の獲得にあたって森が自らドミニカ共和国で開催されるウィンターリーグの視察を行っており、そこで得た情報などを基に獲得することが多い。その為森が初めてドミニカに渡った2004年オフから退任までの2011年、復帰した2014年以降の助っ人は殆どがドミニカ共和国の選手である。
森が発掘した主な助っ人選手
- 2005年 ルイス・マルティネス
- 2006年 クラウディオ・ガルバ
- 2007年 ジョー・バレンタイン、フランクリン・グラセスキー
- 2008年 マキシモ・ネルソン、トマス・デラロサ
- 2009年 トニ・ブランコ、ネルソン・パヤノ
- 2010年 ディオニス・セサル、エドワード・バルデス
- 2011年 ジョエル・グスマン、フェリックス・カラスコ
- 2014年 アンダーソン・エルナンデス、アレクシス・ゴメス
- 2015年 ラウル・バルデス、アマウリ・リーバス、リカルド・ナニータ、ラファエル・ペレス
- 2016年 フアン・ハイメ、ジョーダン・ノルベルト、ダヤン・ビシエド
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1979 | 西武 | 43 | 25 | 7 | 0 | 0 | 5 | 16 | 7 | -- | .238 | 893 | 203.1 | 207 | 27 | 78 | 9 | 9 | 130 | 3 | 0 | 120 | 102 | 4.51 | 1.40 |
1980 | 40 | 18 | 4 | 1 | 1 | 10 | 14 | 7 | -- | .417 | 676 | 156.2 | 160 | 31 | 53 | 6 | 2 | 73 | 0 | 1 | 97 | 82 | 4.71 | 1.36 | |
1981 | 31 | 30 | 10 | 3 | 2 | 14 | 11 | 0 | -- | .560 | 834 | 200.1 | 188 | 26 | 51 | 1 | 4 | 83 | 1 | 0 | 94 | 84 | 3.77 | 1.07 | |
1982 | 51 | 6 | 1 | 0 | 1 | 10 | 2 | 10 | -- | .833 | 396 | 101.2 | 81 | 12 | 23 | 5 | 0 | 46 | 0 | 1 | 37 | 36 | 3.19 | 1.02 | |
1983 | 59 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 5 | 34 | -- | .500 | 322 | 85.0 | 53 | 6 | 22 | 1 | 3 | 46 | 1 | 0 | 17 | 14 | 1.48 | 0.88 | |
1984 | 38 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 7 | 13 | -- | .462 | 267 | 64.0 | 66 | 7 | 15 | 1 | 2 | 36 | 0 | 0 | 24 | 20 | 2.81 | 1.27 | |
1985 | 39 | 2 | 0 | 0 | 0 | 6 | 6 | 8 | -- | .500 | 324 | 73.1 | 85 | 14 | 26 | 3 | 2 | 22 | 3 | 1 | 41 | 35 | 4.30 | 1.51 | |
1987 | 22 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | -- | 1.000 | 119 | 28.2 | 24 | 0 | 12 | 4 | 0 | 10 | 0 | 0 | 6 | 5 | 1.57 | 1.26 | |
1988 | 21 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | -- | .000 | 109 | 26.0 | 25 | 4 | 7 | 2 | 1 | 9 | 0 | 0 | 13 | 11 | 3.81 | 1.23 | |
通算:9年 | 344 | 81 | 22 | 4 | 4 | 57 | 62 | 82 | -- | .479 | 3940 | 939.0 | 889 | 127 | 287 | 32 | 23 | 455 | 8 | 3 | 449 | 389 | 3.73 | 1.25 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最優秀救援投手:1回 (1983年)
表彰
- ファイアマン賞:1回 (1983年)
記録
- 初登板・初先発:1979年4月9日、対近鉄バファローズ前期2回戦(日生球場)、3回2/3を5失点で敗戦投手
- 初奪三振:同上、2回裏にクリス・アーノルドから
- 初完投:1979年4月22日、対ロッテオリオンズ前期2回戦(川崎球場)、8回1失点で敗戦投手
- 初勝利・初完投勝利:1979年5月9日、対南海ホークス前期3回戦(大阪球場)、9回3失点
- 初セーブ:1979年5月16日、対日本ハムファイターズ前期9回戦(西武ライオンズ球場)、7回表に2番手で救援登板・完了、3回2失点
- 初完封勝利:1980年5月2日、対日本ハムファイターズ前期4回戦(西武ライオンズ球場)
- オールスターゲーム出場:2回 (1981年、1983年)
背番号
- 11 (1979年 - 1988年)
- 86 (1989年 - 1999年、2002年)
- 81 (2000年 - 2001年、2003年)
- 80 (2004年 - 2011年、2014年 - )
関連情報
著書
- 『参謀』(講談社:2012年4月、ISBN 4062175983)
- 『勝ち続ける力』(ビジネス社:2012年10月、ISBN 4828416811)
- 『軍師の逆襲』(ヨシモトブックス:2014年3月)
解説者としての出演番組
※特記ない限り、プロ野球中継。参考…[注 5]
- 『スーパーベースボール』(BS朝日・メ〜テレ)
- テレ朝チャンネル向け埼玉西武ライオンズ主催試合中継
- 『燃えよドラゴンズ!』(CBCテレビ)
- 東海テレビ向けプロ野球中継(東海テレビ)
- 『J SPORTS STADIUM』(J SPORTS)
- 『文化放送ライオンズナイター』(文化放送)
- 『文化放送ホームランナイター』(文化放送)
- 『CBCドラゴンズナイター』(CBCラジオ)
- 『メジャーリーグ中継』(J SPORTS)[注 6]
脚注
注釈
- ^ 吉本興業傘下の芸能事務所。
- ^ 参考…[1][2]
- ^ 広島六大学リーグ加盟。近畿大学体育会硬式野球部(関西学生リーグ加盟)とは別個に組織されたチーム。
- ^ ライオンズ(1978年までの球団フルネームは、クラウンライターライオンズ)が福岡市から所沢市に本拠地移転して初の新入団選手でもある。
- ^ a b 『12球団全選手カラー百科名鑑』シリーズでは、2012年・2013年版ともに文化放送の解説者として紹介。2013年に発行された書籍『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑』の各放送局別解説者リスト[11]では、メ〜テレ、中部日本放送、東海テレビ放送、J SPORTS(プロ野球、メジャーリーグ)、テレ朝チャンネル2、文化放送、CBCラジオのリストに記載(局名は原資料より)。
- ^ 参考:2012年[16]、2013年[17]。2014年に発行された書籍『プロ野球解説者を解説する』(著者:広尾晃。発行元:イーストプレス)より、J SPORTSのメジャーリーグ中継解説者として取材を受けている。
出典
- ^ 2014年10月当時の吉本興業公式サイト内所属スポーツ選手(指導者・解説者なども含む)一覧 - インターネット・アーカイブ同18日付保存キャッシュ
- ^ 2014年10月当時の吉本興業公式サイト内プロフィール - インターネット・アーカイブ同20日付保存キャッシュ
- ^ 九州スポーツ、2009年10月29日4面
- ^ 週刊ベースボール、1999年11月1日号、P.36
- ^ 年度別成績 2000年 パシフィック・リーグ
- ^ 年度別成績 2001年 パシフィック・リーグ
- ^ 年度別成績 2002年 セントラル・リーグ
- ^ 年度別成績 2003年 セントラル・リーグ
- ^ 落合中日8年間の真実 オレ流とともに去りぬ・前ヘッドコーチ森繁和 - 日刊ゲンダイ2011年12月22日付
- ^ 2004年は投手コーチ、2005年は投手チーフコーチ、2006年から2009年まで一軍バッテリーチーフコーチとなっている
- ^ 古矢徹著『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑 ただいま放送席の音声のみでお送りしています』(2013年7月1日、メタモル出版発行。コード:ISBN 978-4-89595-8448)P158-159掲載の解説者リスト(P159に、同年6月20日現在の情報である旨が明記)
- ^ 森繁和氏は初!吉村禎章氏は7年ぶりにスポニチ復帰 - 『スポニチアネックス』2012年1月14日
- ^ 来季のスタッフについて - 中日ドラゴンズ公式サイト 2013年10月22日配信
- ^ ★来季スタッフの背番号について中日ドラゴンズ 公式サイト - ドラゴンズニュース 2013年11月1日配信
- ^ 吉見「あの人は怖くないんです」日刊スポーツ 2012年1月15日
- ^ 2012年当時J SPORTS公式サイト内で配信されたMLB中継実況・解説者一覧 - インターネット・アーカイブ同10月11日付保存キャッシュ
- ^ 2013年当時J SPORTS公式サイト内で配信されたMLB中継実況・解説者一覧 - インターネット・アーカイブ同4月20日付保存キャッシュ