福士加代子

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獲得メダル
アジア競技大会
2006年 ドーハ 女子10000m

福士 加代子(ふくし かよこ、1982年3月25日 - )は、日本の女子陸上競技(主に長距離走マラソン)の選手。2010年5月末の時点で、3000m5000mの日本記録、ハーフマラソンおよび10km、15kmのアジア記録を有する。

目次

[編集] 基本データ

  • 身長:161 cm
  • 体重:45 kg
  • 血液型:A型
  • 所属:ワコール
  • 通称:みちのくの爆走娘

[編集] 主な経歴

青森県北津軽郡板柳町出身(現・大相撲幕内力士高見盛精彦が同郷の先輩でもある)。青森県立五所川原工業高等学校機械科を卒業後、2000年にワコールに入社。

高校時代まではこれといった実績も無く、インターハイ国体でも決勝に辛うじて残る位であった。当時は駅伝の古豪だったワコールに入社してからは、トラックレースや駅伝などでメキメキと頭角を現し始める。

[編集] 2002年

6月日本選手権で、女子の5000mと10000mで共に初優勝を果たし、2種目制覇を成し遂げ、釜山アジア大会の代表に選ばれた。

10月に行われたアジア大会本番では、女子5000mと10000mともに銀メダル(両種目とも金メダルは中国孫英傑)。しかし10,000mでは自己ベストを一気に50秒も縮める30分51秒81の記録でゴール、日本女子2人目となる31分突破(日本人初の31分突破は渋井陽子三井住友海上)で30分48秒99)となる。また5000mでは自身が7月20日に出した日本記録を0秒02更新する、14分55秒19をマークした。

12月に行われた、全日本実業団対抗女子駅伝大会では3区10kmの区間で快走、沿道の観客に対して福士は時折笑顔を見せながら走っていた。しかし、次の中継所に間もなく到着する終盤で、すぐ後ろを走っていた羽鳥智子第一生命)と足が絡まって転倒し、左を強打する。その後足をひきずりながら走り続け、それでも区間賞を獲得したものの、膝の靱帯を切る大けがを負ってしまった。

[編集] 2003年

2月、福士の故郷で行われた青森冬季アジア大会で、膝のけがをおして最終聖火ランナーを務める。約半年近くはけがの治療に専念していたが、6月の日本選手権女子10000mでは、終盤スパートして独走、復活の優勝を果たした。その後、世界陸上選手権の長距離走代表として初出場を決める。

8月世界陸上パリ大会では、5000mと10000mに出場したが、5000mは予選敗退、10000mは11位に終わった。

[編集] 2004年

1月11日京都市で行われた第22回全国都道府県対抗女子駅伝競走大会では、ふるさとの青森県代表として最終の9区10kmを走り、30分52秒の区間最高記録をマークして、1997年に熊本県代表の川上優子沖電気宮崎)がマークした31分01秒の区間記録を7年ぶりに塗り替えた。

6月4日の日本選手権、女子10000mではレース前半で福士が飛び出してから、その後独走となる。しかし終盤に入るとややペースが落ちてゆき、ゴール直前で2位の田中めぐみ(現姓:大島。しまむら)や3位の弘山晴美資生堂)らに猛迫を受けるも辛うじて逃げ切り、31分32秒09のゴールタイムで優勝、初のオリンピック代表内定となった。その2日後、6月6日の女子5000mでも15分05秒07の記録で優勝を果たす。

8月27日、五輪初出場となったアテネオリンピックは、女子5000mも出場可能だったが回避し、女子10000mの1種目のみに絞って出場となる。しかし、レース前に発生した足の故障の為に全く力を発揮できず、同じ日本代表の田中めぐみ(13位)と弘山晴美(18位)からもかなり遅れての26位でゴール(しかも福士の次に27位だった女子選手は最下位である)。ゴールタイムは33分48秒66と自己ベスト記録より3分近くも悪く、先頭からは2周も周回遅れとなる惨敗だった。いつもの福士ならレース後のインタビューでおちゃめな言動を見せるも、流石の福士もこの時は思わず悔し涙を流していた。

[編集] 2005年

6月の日本選手権では女子5000m・10000m共に優勝を果たし、世界陸上ヘルシンキ大会代表に選出。同大会には5000mと10000mの2種目で出場するも、10000mでは前回に続き11位に留まり、5000mは決勝進出を果たすものの12位、2種目共に8位内の入賞ラインには至らなかった。

[編集] 2006年

1月15日京都市で行われた第24回全国都道府県対抗女子駅伝競走大会では、京都府代表として最終の9区10kmを走り、京都府チームとしての過去最高記録で優勝を果たしている。3週間後の2月5日香川県で行われた第60回香川丸亀ハーフマラソンでは、初のハーフマラソンにもかかわらず、日本記録をもっていた野口みずきシスメックス)選手とトップを争い、1時間7分26秒のアジア記録で優勝した。

9月ワールドカップ陸上アテネ大会アジア代表として出場。3000mで5位、5000mでは銅メダルを獲得。12月ドーハアジア大会女子10000mでは、31分29秒38の記録で優勝(3位は当時トヨタ車体所属の大南博美)。1998年バンコクアジア大会の川上優子以来、2大会ぶりの金メダルをもたらした。

[編集] 2007年

2月4日に行われた第61回香川丸亀ハーフマラソンに2年連続で出走。自身の持つアジア・日本記録の更新はならなかったが、1時間8分00秒の記録で2連覇を達成した。

6月29日の日本選手権女子10000mでは、7000m辺りからスパートして独走、この種目で2002年からの6連覇を達成。同年8月開催の世界陸上大阪大会の女子長距離走の代表内定を決めた。その2日後の7月1日に行われた女子5000mでは、スタート直後に転倒するアクシデントにも全く動じず、その後笑顔を振りまく余裕も見せ、10000m同様に後半独走となる圧勝だった。

その後、合宿場所をエチオピアに移した。この時この種目のスーパースターである、ハイレ・ゲブレセラシェとも出会い直接アドバイスも受けている。

地元開催となった世界陸上大阪大会の本番、開幕日だった8月25日の女子10000mでは、レース中盤辺りで靴が脱げかけてしまい、立ち止まって履き直すハプニングが発生する。その後積極的に先頭へ立つ場面もあったが、終盤でペースが落ちて結局10位に甘んじた。9月1日の女子5000m決勝ではスタートから果敢に先頭に立つも、3000m地点で後続に飲み込まれてしまい、その後は離され14位に終わった。

[編集] マラソン挑戦への決意

福士本人は当初「マラソンは絶対に走らない。2時間以上あるなら走り続けるより映画を見たい」と述べるなど、フルマラソン転向について消極的であることを公言していた。しかし、世界陸上大阪大会を目前にした8月23に突如、マラソンに転向して翌2008年北京オリンピックを狙う可能性があることを発表。一部の報道では、長距離走種目で五輪内定した場合でも、内定を蹴ってマラソンで五輪代表を狙うともいわれていた。

女子マラソンでは、土佐礼子(三井住友海上)が世界陸上大阪大会で銅メダルを獲得し、北京五輪代表の内定を得たため、残る枠は2つとなる。さらに同年11月の東京国際女子マラソンでは、アテネオリンピック女子マラソンのディフェンディングチャンピオンである野口みずきが大会新記録で圧勝し、ほぼ五輪代表決定との報道をされ、事実上残る枠は1つになった。この1つの枠を、2000年シドニーオリンピック女子マラソン金メダリストの高橋尚子らを始め、数多くの国内有力選手と争う事になるため、福士には慎重な判断が求められており、マラソン転向に関しては断定を避けていた。

12月18日、日本陸連を通して翌年1月に行われる大阪国際女子マラソンに、「一般参加選手」として初マラソンに挑戦することを表明。福士本人は「まだ本格的な練習をしていないので期待と不安が有りますが、期待に応えられるよう頑張ります」と文書でコメントした。

[編集] 初マラソンは19位と惨敗

福士のフルマラソン初戦として、大阪国際女子マラソンに参加することを発表。本番2日前の2008年1月25日、外国・国内の招待参加選手らとは別に、福士ひとりだけの記者会見が開かれた(通常は招待参加で選ばれた有力選手のみ記者会見に参列するが、一般参加選手が会見に臨むのは異例である)。

1月27日に開催された大阪国際女子マラソンでは、スタート直後に長居陸上競技場を先頭で駆け出してから大阪城公園を出る30km付近まで、福士がハイペースで後続を大きく突き放し、独走する展開となる。しかし、福士は30kmを過ぎてから急激にペースダウン。その後34km過ぎでは優勝したマーラ・ヤマウチイギリス)や2位の森本友天満屋)らに抜かれると、35km以降から殆どジョギング状態が続いて十数人の選手に次々と追い抜かれていく。それから福士はフラフラの状況で走り続ける中、さらに40kmを過ぎた長居陸上競技場へ入る手前の、ゴールまで残り570m付近では足がもつれて1度転倒、そして競技場へ入ってからは3度も転倒しながらも、2時間40分54秒のタイムでようやくゴール。着順も19位と惨敗に終わった[1]

この大阪国際における福士の惨敗について、当日のテレビ中継でゲスト解説者として招かれていた谷口浩美は「男女を問わず25km程度までであれば、スピードで押し切れてしまうんです。しかしそこから先になると、どんな人間でもスタミナが尽きて駆け引きの勝負になる」と述べ、福士の経験不足からくるペース配分のミスを指摘した。また福士はマイペース調整を重んじるあまり、練習でも40km以上の距離を継続して走った経験が無かったことが報道により明らかになった。後年フルマラソン復帰に際して、福士本人も「当時はマラソンを甘く考えていた。反省している」と語り、準備不足で臨んだことを認めている。

福士は大阪の後にもう1戦フルマラソンへの参加をほのめかすが、時期的な問題から北京五輪女子マラソンの代表枠がほぼ埋まってしまい断念。その後のフルマラソン出走に関しては、3年9か月にわたって封印する事となった。

[編集] 2008年

その後は、本職である長距離トラック競技で五輪切符を目指すこととなった。今季初レースの6月2日新潟選抜競技会の10000mは、32分22秒18の6位に終わったが、6月11日ホクレン・ディスタンスチャレンジ深川大会の10000mでは、五輪参加標準A記録を上回る31分30秒94で優勝。

優勝すれば北京五輪代表内定となる6月27日日本選手権の女子10000mでは、渋井陽子・赤羽有紀子(ホクレン)と激しい競り合いを展開し、勝負はラスト1周まで持ち込まれたが、渋井(優勝)・赤羽(2位)のラストスパートに遅れを取って3位(31分18秒79)と敗れ、五輪内定には至らなかった。また、2002年より続いていた福士の日本選手権女子10000mでの連覇も6でストップした。又6月29日の女子5000mも小林祐梨子豊田自動織機・優勝)と赤羽(2位)に敗れて3位(15分16秒27)に終わったが、翌6月30日日本陸連理事会で北京五輪代表に選出、2大会連続の五輪代表入りを果たした。

北京オリンピック本番は、8月15日に女子10000mへ出走。序盤から超高速のペースに積極果敢についたものの中盤辺りで脱落。8位入賞には届かなかったがなんとか周回遅れは免れ、31分01秒14の11位に入った。これは日本の代表3選手(他渋井・赤羽)の中では最も上位の成績であった。8月19日の女子5000m予選にも出場したが、15分20秒46で組の10位に終わり、決勝進出はならなかった。

[編集] 2009年

社内で世代交代が進んだこともあってか、チームリーダーとしての位置を占めることとなった。会社代表としての位置付けもあり、プロフィール写真なども、より女性らしさを強調したものに改められた。また、この年の日本選手権では順位としては振るわなかったものの、それまでに派遣標準記録をクリアしていたことから、世界陸上4大会連続出場権獲得を果たした。

世界陸上ベルリン大会では女子10000mの1種目のみに出場、初の1ケタ順位となる9位でゴールするも、同じ日本代表の中村友梨香(7位入賞)に先を越され、入賞ラインには及ばなかった。

12月13日の全日本実業団対抗女子駅伝では3区に出場し、12人抜きでチームをトップで襷を手渡して通過。1998年エスタ・ワンジロが記録した、31分10秒の大会記録を11年ぶりに更新する31分02秒の区間新記録をマークした。

[編集] 2010年

6月の日本選手権では女子5000m・10000m共に、2007年以来3年ぶりとなる2種目制覇を果たした。しかし、2連覇を期待された広州アジア大会の女子10000mでは、終盤プリージャ・スリードハランインド勢のスパートについていけず4位と敗れる。続く女子5000mでも5位に終わり、結局2種目共にメダルを獲得することはできなかった。

[編集] 2011年

4年ぶりに出走した、2月6日の第65回香川丸亀国際ハーフマラソンでは、1時間9分00秒の記録で通算3回目の優勝となった。また5月1日出場の米カージナル招待女子10000mでは、自身2番目の記録となる30分57秒90をマーク。しかし6月の日本選手権は、5月上旬に左足甲の良性腫瘍を摘出手術後、回復が思わしくないため欠場を表明。世界陸上大邱大会代表選出は絶望となり、福士の世界陸上選手権への連続出場は4大会でストップした。

[編集] 2度目のマラソン挑戦

2011年9月8日10月9日開催のシカゴマラソンに、福士がエントリーしたと主催者が発表。福士のフルマラソン出場は、2008年1月の大阪国際女子マラソン以来3年9か月ぶり2回目。福士は「2時間20分を目指す。ロンドンオリンピックに女子マラソン代表を目指す為の準備になる」と意気込んで臨んだ[2]。本番当日はレース途中までは野口みずきの日本記録(2時間19分12秒)を更新するペースで快走したが、中間点を過ぎた辺りからペースダウン。レースは優勝したリリア・ショブホワ(2時間18分20秒・世界女子歴代2位をマーク)に6分近く離され、日本最高にも5分以上及ばなかったものの、マラソン2回目で2時間25分を切る2時間24分38秒でゴールし、ロンドン五輪の女子マラソン日本代表争いに大きく名乗りを挙げた[3]

[編集] 3度目のマラソン、又も失速

3度目のマラソンは、ロンドン五輪女子マラソン選考レースである2012年1月29日の大阪国際女子マラソンへ、4年前の同大会では19位に終わったその雪辱を胸に秘め、今回国内招待選手として挑んだ(マラソンコースは前回出場時と変更箇所有り。当初アテネ五輪女子マラソン金メダリスト・野口みずきとの直接対決が話題を呼んだが、野口は左太股裏の炎症により欠場、同年3月11日名古屋ウィメンズマラソンスライド出場する事を表明)。福士はスタートから高速ペースの先頭集団についていき、中間点を過ぎてからは優勝した重友梨佐とのマッチレースとなったが、26Kmを過ぎたあたりから動きが悪くなり徐々に失速。30kmを過ぎた頃には重友に完全に引き離され、ペースダウンしたところを後続の選手に次々と追い抜かれるという展開になる。結局2時間37分35秒のタイムで9位と敗れ、北京五輪に続いてロンドン五輪も女子マラソン代表選出は難しい情勢となった[4]

レース後のインタビューで福士は「レースから1週間ほど前に体が少し重いと感じ、軽い減量のつもりで食事を減らしたが、それが結果的にスタミナを削る要因になってしまった」と語り、今回の敗因が調整ミスであることを認めている。

ロンドン五輪について問われると、「出るとするなら(立場的に)遠回りにならないトラックでしょうね」と述べた。マラソンについては今のところ考えていないが、今後も機会があれば挑戦する意向だという。

[編集] エピソード

  • ワコールに入社して間もない時期(2001年~2002年頃)には、かつて頭のてっぺん部分の髪の毛をヒモで括り付ける、所謂「ちょんまげ」姿のレース出走でも話題を集める。その後もこのスタイルは長らく彼女のトレードマークとなっていた。
  • 2002年1月の全国都道府県対抗女子駅伝では、優勝した京都チームのアンカーを務めた。そのレース中、福士は終始満面の笑みを浮かべながら走っていた(「微笑み走法」とも呼ばれる)ためか、実況解説者の山下佐知子世界陸上東京大会銀メダリスト・現第一生命監督)はその福士に対して苦言を述べる場面があった。
  • 福士の最大のライバルでも有る渋井陽子とは、かつて二人でお互いにふざけ合う光景がTVで放送された事も有った。
  • 釜山アジア大会5000m決勝後のインタビューで「(記録更新は)大きいですよー。乳首3つ分くらいですかねえ」と評した。
    • 同レースに出走した当時テレビ朝日所属の市川良子アトランタシドニー五輪5000m代表)は、思わず「シー!(しゃべっちゃ駄目)」と困惑していた。
    • 速報では0秒03の更新と伝えられたが、インタビューで100分の3秒を福士なりに具体的に表現した名(迷)言である。
    • また、別のレースで数十センチの差で負けたとき、インタビューで同様に「乳首三つぶん」と言っていた。
  • 2007年日本選手権5000mでの優勝インタビューでは「アレ(スタート直後の転倒)ねえ!面白かったー。でも逆にそれで終始落ち着いて走れたから、コケてしまって大正解です」と福士らしいコメントを残している。
    • 通常は一般的なランニングパンツを着用してレースに臨むが、ヘルシンキ世界陸上女子5000m決勝でビキニタイプのレーシングショーツを着用した。これについて福士は当時「海外の選手の衣装を意識した」と語っている。
    • 世界陸上大阪大会では、全出場レースにおいてビキニのレーシングショーツを着用して出場した。発言も以前のような過激なものは鳴りを潜めた。
  • 2007年12月の日体大記録会にて姿を見せたものの、報道陣が多いとの理由により、出場をドタキャンする。これについては様々な憶測が飛び散っているが、その真意は不明である。
  • 初マラソンの大阪国際女子マラソンでのレース終盤、40Km地点を過ぎた長居陸上競技場の周回道路では、明らかに意識朦朧で足を動かすのが精一杯の福士に対し、ワコールの永山忠幸監督が「もうやめてもいいよ」と叫びながら併走を続けていたが、それでも福士は「ゴールさせて下さい」と監督の制止を振り切るようにゆっくり走り続けた。しかしその後、福士はゴール直前で合計4回も転んでしまい、その場面がTV中継でもハッキリと映し出された。競技場のスタンドで観戦していた、福士の母親は「もう止めさせて!」と泣きながら絶叫、父親は福士の懸命の完走に「よく頑張った。でも見ているのが辛かった…」と福士の状態を心配そうに語った。一方、ゴール後の福士自身は「大阪城公園の下り坂付近で、急に目の前が真っ暗になった。競技場が見えてからは頭の中が真っ白になり、記憶が無くなった。でも初マラソンは面白かったかな」というコメントを発表している。
  • それから数日経ってからのインタビューでは、福士自身曰く「とても良い経験をさせてもらいました。マラソンに挑戦した事に後悔はありません。ゴール後のタオルが欲しかったので、何時間掛かっても何回転んでも完走するつもりでした。もし途中で辞めてたら、『名古屋(国際女子マラソン)走ります』と言って名古屋の練習をしてるかも知れませんよ」と時折苦笑いを浮かべながら、初マラソンの感想を笑顔で語っていた。
  • 2010年7月にFNNスーパーニュースANCHOR関西テレビ)の番組取材放映で、日本国内の現役女子選手達は「次のロンドンオリンピックの女子マラソンで金メダルを狙えるのは福士」だと口を揃えていた。当時の福士本人は「まあ又いつかはマラソンに挑戦しようかな、とは思いますけどね。今度は転ばないように…」と述べるに留まっている。

[編集] 主な記録

日本記録

距離 タイム 日付 大会名
3000m 8分44秒40 2002年7月5日 パリゴールデンリーグ
5000m 14分53秒22 2005年7月8日 ゴールデンガラ
15 km 46分55秒 2006年2月5日 丸亀ハーフマラソン(途中計時)
20 km 1時間03分41秒 2006年2月5日 丸亀ハーフマラソン(途中計時)
ハーフマラソン 1時間07分26秒 2006年2月5日 丸亀ハーフマラソン
3000m(Jr記録) 8分52秒3 2001年10月13日 YONDEN長距離記録会
5000m(Jr記録) 15分10秒23 2001年7月14日 ナイトオブアスレチックス

主な自己記録

距離 タイム 日付 大会名
10000m(日本歴代2位) 30分51秒81 2002年10月8日 アジア大会釜山大会
10000m(Jr日本歴代2位) 31分42秒05 2001年9月29日 全日本実業団選手権
マラソン 2時間24分38秒 2011年10月9日 シカゴマラソン

[編集] 関連項目

[編集] 脚註

  1. ^ 福士フラフラ 初マラソンは惨敗19位 スポーツニッポン 2008年1月27日閲覧
  2. ^ 福士、シカゴマラソン出場「ロンドン五輪への準備」 時事通信 2011年9月9日閲覧
  3. ^ 福士、3年9カ月ぶり出場で3位/マラソン サンケイスポーツ 2011年10月10日閲覧
  4. ^ 福士「また失敗」トラック再転向/マラソン 日刊スポーツ 2012年1月29日閲覧

[編集] 外部リンク

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