美土路昌一
美土路 昌一(みどろ ますいち、1886年7月16日/ユリウス暦7月4日 - 1973年5月11日/ユリウス暦4月28日)は、日本のジャーナリスト、実業家。全日本空輸初代社長、朝日新聞社社長を歴任したことで知られている。号は春泥。
来歴・人物
岡山県苫田郡一宮村(現・津山市)に生まれる。津山中学校(現岡山県立津山高等学校)を卒業後、1907年3月に早稲田大学英文科を卒業し、翌1908年1月東京朝日新聞社に入社して社会部員となる。1914年8月に日本が第一次世界大戦に参戦すると、従軍記者として青島攻囲軍に参加。同年12月社会部次長、1918年1月上海特派員、同年11月大阪朝日新聞社に移って社会部員、1919年1月社会部副部長、同年9月ニューヨーク特派員、1921年7月東京朝日新聞社に戻って通信部長、同年11月計画部次長兼務、1923年9月社会部長兼務、翌10月整理部長兼通信部長・編集委員、1925年2月編集局主幹兼整理部長兼論説委員、1930年11月編集総務、1933年12月航空部長兼務と歴任した後、1934年4月編集局長となり、主筆の緒方竹虎が対外的に活躍する中、よく編集局内部を守った。1937年には、飯沼正明操縦士、塚越賢爾機関士による「神風号」の訪欧飛行の指揮を執っている。1935年11月取締役、1936年5月常務取締役、1940年8月編集総長(1941年8月まで)。同じ岡山県出身の陸軍大将宇垣一成側近の一人であった。美土路に京城日報社長への転出を命じた社長村山長挙との対立[1]から1945年4月常務取締役を辞任して顧問(重役待遇)となり、岡山に戻るが、敗戦後、元朝日新聞航空部次長中野勝義とともに、航空関係者の失業救済組織「興民社」を設立し会長となった。1948年、公職追放となる[2]。
追放解除後の1952年、国内民間航空が再開されると日本ヘリコプター輸送株式会社を設立して社長[3]となり、極東航空と合併して、その後1957年12月全日空の初代社長[4]に就任。その後1961年11月に同郷の元官僚の岡崎嘉平太に社長の座を譲り、同社会長、相談役に退いていたが、朝日新聞社の内紛「村山事件」1964年11月で朝日新聞社社長となる(1967年7月まで)。
1973年5月11日、86歳で死去。
関連項目
参考文献
- 美土路昌一「言論弾圧と闘った気骨の人」『別冊新聞研究 聴きとりでつづる新聞史』第4号、1977年3月
- 早房長治『現在窮乏 将来有望評伝 全日空を創った男、美土路昌一』プレジデント社、2009年 ISBN 9784833419253
- 山本武利『朝日新聞の中国侵略』文藝春秋、2011年 ISBN 9784163737300
注
- ^ 山本武利『朝日新聞の中国侵略』文藝春秋、2011年、236-239頁
- ^ 『朝日新聞』1948年6月8日一面
- ^ 「現在窮乏、将来有望 評伝 全日空を創った男 美土路昌一」P28 早房長治
- ^ 「限りなく大空へ 全日空の30年」P449 全日空空輸株式会社発行
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