中央銀行

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中央銀行(ちゅうおうぎんこう、: Central bank)は、国家や、国家連合、国家的地域、事実上独立している地域などの金融機構の中核となる機関で、銀行券(通貨紙幣))を発行し、市中銀行を相手に資金を貸し出す業務を行うものである。

国債売買し、国へも資金の提供を行う。また、通貨価値の安定化などの金融政策もつかさどるため「通貨の番人」とも呼ばれる。「発券銀行」「政府の銀行」であると共に、最後の貸し手として「銀行銀行」としての役割を果たす。

中央銀行の起源

世界最古の中央銀行はスウェーデン・リクスバンク(1668年)であり、1694年にはイギリス・イングランド銀行が設立された。イングランド銀行は対フランス戦のための資金調達目的で設立された王国政府の銀行であったが、19世紀初頭までは単なる大銀行の1つの位置づけであり、当時は特権認可された複数の銀行が独自の銀行券を発行していた。イギリスでは19世紀の初頭に金融恐慌が頻発し、多くの銀行が破綻して銀行券が無価値になる混乱が発生したため、1844年に銀行条例(ピール条例)が制定され、イングランド銀行以外の銀行による発行業務が禁止された。

これら自然発生型の中央銀行に対して、日本銀行(1882年)やアメリカの連邦準備制度(1913年)などは、当初から物価の安定や通貨の発行業務を目的として設立されたものである。中央銀行の数は1900年には18行、1920年代から急増し1960年までに約50ヶ国、1990年には160行を越える状況となった。

詳細は銀行#銀行の起源を参照。

中央銀行の独立性

通常、中央銀行は一つの通貨に対して一つ存在する。中央銀行はこの通貨量を調整する権限を持つため大きな影響力を持つ。

1960年代、世界的にケインズ政策が行なわれるようになった。ケインズ政策においては財政政策として歳出を増大させるとクラウディングアウトが発生し、乗数効果に制約が掛かる。しかし、中央銀行が適切に金融緩和を行なえば、クラウディングアウトは発生せず、財政政策が最大の効果を発揮する。このポリシーミックスは供給力に未稼働の余剰部分がある場合は有効であるが、供給力が限界に達すればその政策効果は実質GDP増大ではなく物価上昇(インフレーション)の積極的な要因となる。

民主主義の政府は、物価の安定よりも完全雇用を志向する性質があるため、インフレが起きる可能性があっても財政政策の効果発現のため中央銀行へ金融緩和を求めることになる。もし、中央銀行に政府の要求を断る力がなければ、最終的にインフレーションとそれに伴う資産の再分配(インフレリスク)および潜在成長力をそこなう可能性がある。このため、中央銀行は政府から独立する必要があり、政府の要求いかんに関わらず、通貨価値を保持することが求められる(通貨の番人)。

しかし、中央銀行の独立性が弊害をもたらす場合がある。中央銀行が雇用よりもインフレ抑制を志向した場合、景気対策を実施する政府の意向に対立して、独立性を持つ中央銀行が金融引締めにまわることで財政政策の効果が相殺され、デフレーションが続き、失業率が高止まりすることや、それに伴う潜在成長力低下のリスクがある。

景気循環の責任を中央銀行だけが負うわけではなく、また自国の通貨価値の下落を避け、インフレーション率を低く保つべきであるという立場を取ることは、中央銀行としては当然のことであるが、国際化された現代経済では、市場が予想していないタイミングでの金利引き上げは景気萎縮効果よりも債券・株式市場や為替市場への影響が迅速かつ多大であり、債券価格の急落や為替の急上昇などが予期せぬ市場の混乱をまねき批判の対象とされることになる。2000年に、日本銀行は政府の反対を押し切りゼロ金利政策を解除し[1]、市場に多大な混乱をまねきデフレスパイラルを加速させてしまった。

中央銀行の独立性がもたらした弊害の最悪の事例として、第一次大戦後のドイツにおけるハイパーインフレーションが挙げられる。当時のドイツの中央銀行であるライヒスバンクは政府からの独立性は高く、総裁は第二帝政期を引き継いで終身制であり、宰相は任命権はあっても罷免権はなく、国会(ライヒスターク)は総裁人事に関与出来なかった。

そのため私企業の手形割引を濫発して通貨が大増発され(いわゆる「パピエルマルク」)、1兆倍のインフレが発生。日常の経済活動遂行にも障害が発生した。政府はハイパーインフレ抑制のために当時のライヒスバンク総裁ルドルフ・ハーヴェンシュタインの罷免を考えたが、終身制に阻まれ実現出来なかった。

1923年11月20日にハーヴェンシュタインは急死するが、その1週間前に、国内の土地を担保とする新通貨の発行によるインフレの収束を主張してきたダルムシュタット及び国家銀行頭取ヒャルマル・シャハトドイツ民主党の結党メンバーでもあった)がフリードリヒ・エーベルト大統領より新設された国家通貨委員(Reichswährungskommissar)に任命された。シャハトの協力によりドイツ・レンテン銀行(Deutsche Rentenbank )が設立され、国内の土地を担保とする新通貨レンテンマルクの発行によりインフレが収束した。シャハトは同年12月にライヒスバンク総裁に就任している。

ドイツ(1990年の東西統一前は西ドイツ)の中央銀行だったブンデスバンクはこのハイパーインフレーションへの反省から、通貨価値の保持を最優先としていた。ブンデスバンクの影響を強く受けている現在の欧州中央銀行(ECB)も「物価の安定」が第一義的目的となっている。一方、アメリカのFRBはその政策目標が「物価の安定」と「最大の雇用」となっている。これは、世界恐慌で25%とも言われる失業率を記録した経験からである。実際、1970年代中頃まではFRBはほぼ財政政策による高金利の火消し役となっており、1970年代における高インフレの原因を作っていた。このため、ブンデスバンクとFRBは金融政策の方向性について衝突することが多かった。

現代においては、政府のインフレバイアスに対する中央銀行の独立性が低かったり、中央銀行がインフレ抑制に積極的でなかったりする国の通貨は信認されにくい。

世界の中央銀行

FRSのあるエクルズ・ビル
イングランド銀行
欧州中央銀行本店のあるユーロ・タワー
スイス国立銀行
日本銀行本店

その他

日本の地方銀行第二地方銀行で以下の銀行が名称の中に「中央銀行」という語を入れているが、この記事で述べている中央銀行には該当しない。また、信託銀行中央信託銀行(現・中央三井信託銀行の前身の片方)も該当しない。

脚注

  1. ^ 「金融政策決定会合議事録 2000年8月11日開催:議事録」日本銀行[1]

関連項目