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コーヒーの歴史

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コーヒー挽き(1905年)

コーヒの歴史ではコーヒーノキの利用と栽培、およびコーヒー飲用の歴史について述べる。

概略

コーヒーノキがいつ頃から人間に利用されていたかは、はっきりしていない。 アラビカ種の原産地であるエチオピアアビシニア高原では、オロモ人ガラ族)が古くから利用していたとする説があり[1]薬草または携帯食として潰した果実獣脂とともに団子状にし、用いていたと考えられている。 このほか西アフリカ沿岸では、ヨーロッパ人が1876年に「発見」する以前からリベリカ種が栽培・利用されており、野生種の利用はかなり以前から行われていたようである。

文献上の最初の記録は、575年イエメンを支配したサーサーン朝ペルシャのもので、「当時のアラビア人はコーヒーの実や葉を煎じて飲料を作った」と記述されている[2](イエメンはこれに先立つ525年エチオピアの勢力から侵入を受けている)。

その後もイエメンではイスラム神秘主義修道者(デルウィーシュ)に眠気覚ましとして用いられたが、宗教的な秘薬に留まっていた。 一般民衆に広まったのは、15世紀にファトワーで認められてから以降で、その後イスラム世界全域に拡大した。 現在の主要消費地域であるヨーロッパには、16世紀末にオスマン帝国から伝わった。

伝説

コーヒーの起源にはいくつもの伝説があり、最も有名なのが『カルディ(en:Kaldi)伝説』である[3]

  • 9世紀のエチオピアで、ヤギ飼いの少年カルディが、ヤギが興奮して飛び跳ねることに気づいて修道僧に相談したところ、山腹の木に実る赤い実が原因と判り、その後修道院の夜業で眠気覚ましに利用されるようになった。
この話の原典とされるのは、レバノンの言語学者ファウスト・ナイロニ(Faustus Nairon)の著書『コーヒー論:その特質と効用』(1671年)に登場する「眠りを知らない修道院」のエピソードだが、実際には時代も場所も判らないオリエントの伝承として記されていた。この話がヨーロッパで紹介されると、コーヒーの流行に合わせて装飾が進み、舞台は原産地エチオピアに設定され、ヤギ飼いの少年にはKaldiというアラブ風の名が与えられた。
  • 13世紀のモカで、イスラム神秘主義修道者のシェーク・オマル(Sheikh Umar)が、不祥事(王女に恋心を抱いた疑い)で街を追放されていた時に山中で鳥に導かれて赤い実を見つけ、許されて戻った後にその効用を広めた。
原典は、アブダブル・カディールの著書『コーヒーの合理性の擁護』(1587年)写本で、千夜一夜物語をヨーロッパに紹介したアントワーヌ・ガラン(Antoine Galland)の著書『コーヒーの起源と伝播』(1699年)によってヨーロッパに紹介された。日本で流行したコーヒールンバの歌詞は、この伝説に着想を得ている。
  • 15世紀のアデンで、イスラム律法学者のシェーク・ゲマレディン(Sheik Gemaleddin)が体調を崩した時、以前エチオピアを旅したときに知ったコーヒーの効用を確かめ、その後、眠気覚ましとして修道者たちに勧めた。さらに学者や職人、夜に旅する商人へと広まっていった。
信憑性が高い話とされ、ウィリアム・H・ユーカーズ(William H.Ukers) の著書『オール・アバウト・コーヒー』(1935年)でも取り上げられている[4]

飲用史

コーヒー豆から抽出した飲料については、9世紀イラン哲学者であり医学者でもあったアル・ラーズィーが、自身が見聞きした民間療法や医学知識を記した『医学集成』に、コーヒー豆を指す「ブン」とその煮汁「バンカム」について記載している。

しかし、現在見られる「焙煎した豆から抽出したコーヒー」が登場したのは13世紀以降と見られる。

イスラム圏

6世紀頃にアラビア半島イエメンに伝わり、イスラム神秘主義修道者が、徹夜で行う瞑想祈りのときの眠気覚ましとして用いた。この頃はまだ潰した実を丸めたものや、生の葉や豆を煮出した汁が用いられていたが、当時はあくまで一部の修道者だけが用いる宗教的な秘薬であった。

しかし、クルアーン(コーラン)の時代(7世紀)にはコーヒーについて十分な知見がなかったのでコーヒーの摂取の是非に関するイスラム法上の規定がなく、同じ頃コーヒー飲用の宗教的な是非が大きな問題となった。多くの法学者は、その飲用はイスラム教の立場からはビドア(逸脱)であるとみなし、クルアーンで禁じられたアルコールの飲用に似た効果のあるコーヒーの飲用は、悪しきビドアとして排斥されたのである。

その背景には、コーヒーを供する場所が庶民や知識人が集まる社交場となりはじめたため、それが為政者や社会に対する不平不満を語り合う場に転ずることを警戒する動機があったと言われる。イスラム法学者たちの間でイスラムの教義に合うかどうかについての論争を経ながらも、現実的には完全な禁止は難しく、それほど大きな弊害もなかったので、一般民衆に飲用の習慣が広まった。

結局、1454年アデンムフティー(法学者)、ジャマールッディーン(Jamal-al-Din)がイスラム法学上の見解で合法と判断し、一般民衆にコーヒーの飲用を正式に認めるファトワー(法学的勧告)を発した。 その後も1511年にはメッカでコーヒー弾圧事件が起きるなど、数十年にわたる論争を経たのち、やがて飲用しても構わないという見解が主流となってコーヒーは中東イスラム世界の全域に伝播し、16世紀までにはエジプトまで飲用地域が拡大した。

オスマントルコ

1516年セリム1世マムルーク朝を征服、イスラム世界の北方の辺境であったオスマン帝国がアラブ地域を併合するとトルコ地域にも伝播し、オスマン帝国の首都イスタンブルにまでコーヒーは持ち込まれるようになった。コーヒーはトルコ語ではアラビア語のカフワがなまってカフヴェと呼ばれた。

トルコにおいては信仰や薬用を離れた嗜好品として飲用され、オスマン帝国の年代記は、翌17世紀の初頭にイスタンブルにやってきたアラブ人によって世界で初めてのコーヒー飲料を供する固定店舗が開かれたことを伝えている。このような店舗はカフヴェハーネ(直訳するとカフヴェの家、すなわち「コーヒー・ハウス」)あるいは単にカフヴェと呼ばれ、庶民や知識人が集まって語り合ったり、詩などの文学作品の朗読会を行う社交の場として広まった。

オスマン帝国では19世紀に安価なインド産のが持ち込まれた結果、社交の場の主要な飲料の座を紅茶に譲るが、一般にトルココーヒーと呼ばれるその飲用法は家庭や喫茶店で広く行われつづけている。トルコにおけるコーヒー飲用の風習はオスマン帝国の支配下にあったバルカン半島16世紀中には広まった。このため現在でもギリシャなどでコーヒーの伝統的飲用法はトルコと同じである。

ヨーロッパ

1692年のモカ港の光景

ヨーロッパには、地中海を渡る盛んな人の往来に乗って16世紀末には既にオスマン帝国から伝わっていった。1602年には、ローマに持ち込まれている。このときすでにcoffeeと呼ばれていたという。

最初のうちはイスラム教徒の飲料に対する抵抗感や、健康に悪い等とする悪評があったものの、ローマ教皇クレメンス8世1605年に行ったコーヒー洗礼(コーヒーに洗礼を施し、キリスト教徒も飲用することを認めた)をきっかけに、ヴェネツィア1615年)、オランダ1618年)、イギリス1641年)、マルセイユ1644年)、パリ1657年)、ドイツ1670年)、スウェーデン1674年)など、ヨーロッパ全土に伝播した。 ヴェネツィアには1645年、ヨーロッパ最初のコーヒー・ハウスができ、さらにローマ、フィレンツェなどでコーヒーを供するカフェが開かれるなど、上流階級から中流階級へと広まった。

オーストリアでは、1683年のオスマン帝国による第二次ウィーン包囲失敗の際に、コシルツキーがオスマン軍が放棄した物資の中から発見されたコーヒー豆を手に入れたことに始まると言われる。17世紀末には各地で飲み物として定着するにいたった。

イギリスでは、1650年オックスフォードに最初のコーヒー・ハウスがオープンしている。コーヒーがブームとなった1700年頃には、2000軒から8000軒のコーヒー・ハウスがあったと伝えられている。コーヒー・ハウスは、上流階級の溜まり場となり、イギリス王立科学院もここから発祥したという。またコーヒー・ハウスは、女人禁制だったため、女性を中心に反対運動が発生したこともあった(もっとも、後にイギリスでは茶の飲用が広まり、コーヒー・ハウスは衰退していく)。

プロイセン王国では1777年フリードリヒ2世 (プロイセン王)がコーヒー禁止令を出している。これはコーヒーの効能の是非ということではなく、海外貿易に収支や国内産業の育成などが背景にあり、同時にビール推奨令が出されている。さらに1781年からはコーヒーの焙煎は許可制となり貴族や司祭などが独占することとなった。

ヨーロッパに伝播した頃には、挽いたコーヒー豆を煮出して上澄みを飲むトルココーヒー式の淹れ方から、まず布で濾す方法(1711年フランス)が開発され、布ドリップの原型となった。これに湯を注ぐ器具として、ドゥ・ベロワのポット(1800年頃フランス)が考案され、現在のドリップポットに至る。 この他にも、パーコレータ1827年フランス)、コーヒーサイフォン(1830年代ドイツ)、エスプレッソマシン(1901年イタリア)、ペーパードリップ(1908年ドイツ)などが開発され、多様な飲み方が可能となった。

アメリカ

北米にはヨーロッパからの移民によって、1668年に持ち込まれた。1698年にはニューヨークでコーヒー・ハウスがオープンしている。

その後も、アメリカ東海岸ではイギリスと同様に紅茶の飲用が主流だった。しかし戦争負債に苦しむ本国(イギリス)による茶葉の課税と、さらに東インド会社に独占させる茶法への反対運動(ボストン茶会事件など)により、それまで愛飲していた紅茶をボイコットする者が多くなり、代用としてコーヒーの輸入が急増した。 これは、アメリカでコーヒー飲用が主流となるきっかけとされている。

1901年には、ニューヨーク州バッファローで開催されたパンアメリカン博覧会で、最初のインスタントコーヒー(開発者は日本人)が発表され、試供品も配布されている。1939年以降、軍隊で兵士への支給品として採用された。 このほか、1920年禁酒法も、コーヒーの普及を促進し、現在では世界最大のコーヒー輸入国となっている。

日本

日本には、天明年間(1781年 - 1788年)頃に、長崎出島にオランダ人が自分用として持ち込んだといわれている。

出島に出入りしていた一部の日本人が飲用したようで、1804年長崎奉行所に勤めていた大田南畝(大田蜀山人・しょくさんじん)によって記された『瓊浦又綴』(けいほゆうてつ)には、「紅毛船にてカウヒイというものをすすむ 豆を黒く炒りて粉にし 白糖を和したるものなり 焦げくさくして味ふるに堪ず」との記載がある。 嗜好品と言うよりも薬としての効果を期待されており、水腫に効果があるとされていた。これはコーヒーに含まれるビタミンの効用と考えられる。1807年樺太出兵では野菜が摂取できないことによる兵の水腫病が問題になり、幕府から貴重なコーヒー豆が支給されたと言う。1855年頃、やはり寒さなどで殉難が多かった弘前藩士の為に幕府が薬用としてコーヒーを用意したという記録も残っている[5]

開国後の1858年安政5年)から輸入が認められ、主に居留地西洋人向けとして横浜の西洋人商館などで少量が輸入されるようになった。やがて、1869年(明治2年)には新聞広告が出されるなど、少しずつ日本人にも広まっていったと考えられる。

日本で最初のコーヒー店は、1888年(明治21年)4月上野に開かれた可否茶館(かひいちゃかん)だと言われる。但し、軽食やアルコール類を提供する近代的なコーヒー店が日本で広がるには、1911年(明治44年)、銀座に開かれたカフェー・プランタンや、カフェ・パウリスタ、カフェ・ライオン(精養軒)を待たなければならなかった。普及の背景には、当時進められたブラジル移民政策の見返りとして、ブラジル・サントス州政府がコーヒー豆を10年間無償提供し、全国でパウリスタ系列の喫茶店が開店したことがある。

その後も輸入量は増え続けるが、1937年(昭和12年)に8,751トンとなった翌年、戦時体制強化により全国珈琲統制組合による軍需物資としての扱いとなり半減、やがて全廃され代用コーヒーに置換された(国が代用珈琲統制要綱を定め、規制)。もっとも一部高級軍人向けに輸入は続いており、敗戦後にそのコーヒー豆を巡って知事が関与した「群馬コーヒー事件」が起きている[6]

ふたたび一般の日本人がコーヒーを口に出来たのは、1950年(昭和25年)の輸入再開以降だが、物品税が50%も科せられるなど、高嶺の花だった(輸入自由化は、この10年後)。 その後、インスタントコーヒーを中心に消費が伸び、現在では輸入量で世界3位となっている。

栽培史

最初に栽培されたコーヒーノキは、エチオピアのアビシニア高原が原産のアラビカ種である。

当初は寺院や修道院の庭園で植栽され、やがて果樹園のように拡大したと見られるが、詳しい資料がない。今日見られる大規模な農園は、17世紀末のオランダによって、東南アジアでつくられた。

17世紀に入り、ヨーロッパ各国にコーヒーが普及し始めると、イギリス・フランス・オランダの東インド会社がこぞって、イエメンからの輸入取引を始める。コーヒーの積み出しが行われたイエメンの小さな港の「モカ」が最初のコーヒーブランド、モカコーヒーにもなった。

東南アジア

1505年セイロン島にコーヒーノキが伝わっている[7](なお、インド西部にはコーヒーノキと近縁のPsilanthus属が自生し、利用されている)。

1658年オランダ東インド会社がセイロン島へコーヒーの苗木を持ち込み、少量の栽培に成功。 さらに1700年からジャワ島でロブスタ種の大規模農園を拓き、大量生産に成功する。これが今日のコーヒー農園の走りとなり、その後もインドネシアではコーヒー栽培は重要な換金作物として生産が広がって行く。

オランダは、セイロン・ジャワで生産したコーヒーを一旦、イエメンに持ち込む。ここで当時の大ブランドのモカの価格を調査して、それより安い値段でヨーロッパに持ち込む。この低価格戦略が功を奏し、オランダはコーヒー取引を独占するに至る。だが、1861年ビクトリア湖周辺で発見されたコーヒーさび病Hemileia vastatrix )が1868年にはセイロンに到達し、同地のコーヒーは10年ほどで全滅。その後は茶葉の生産拠点となり現在にいたる。またイギリス東インド会社は、コーヒーから中国茶の取引に重点を移した。

さらにコーヒーさび病はインド、ジャワにまで蔓延し、従来の品種(アラビカ種)は壊滅的な打撃を受けた。このため、東南アジア一帯ではこの病気に強いロブスタ種への切り替えが進み、従来の品種の多くが失われた、という意味において歴史的な事件であった。

現在生産量世界2位のベトナムでは、フランスの植民地とされた19世紀に栽培が始まったが、生産量は(長い戦争の影響もあり)限られていた。1980年代から栽培を拡大し、1990年の約7万トンだったものが、その後10年で8倍に伸び、2009年には100万トンを超えている。

中南米、オセアニア

南米には、1723年、フランスの海兵隊士官のド・クリュー(en:Gabriel_DeClieu)がフランス領西インド諸島に苗木を持ち込み、少量の栽培に成功。これが、中南米にコーヒー栽培が広まるきっかけとなった。

ブラジルには1727年(1725年とも)にフランス領ギアナで試験栽培されていた苗木が密かに持ち込まれて栽培されたのが最初とされる。18世紀末にはプランテーションによる本格的な商業生産を行われた。独立後のブラジルはコーヒー生産で発展したといってよい。1850年代にはコーヒーの世界生産に占めるブラジル産の割合は50%を越えていた。1970年にはついにコーヒーさび病がブラジルに到達し、10年ほどで中南米全域に広がったが、農薬及び耐性種の開発によりアラビカ種の生産を続けることができた。2011年現在もブラジルは世界最大のコーヒー生産量を維持している[8](詳細はブラジルにおけるコーヒー生産参照)。

ハワイへは1825年、イギリス訪問中に病死したカメハメハ2世夫妻の遺体を乗せた船がブラジル寄港時に、アラビカ種(グァテマラ)の苗を持ち帰ったのが、はじまりとされる[9]。 捕鯨と製糖に圧され絶滅寸前となるが、1890年代のコーヒー投機ブームで栽培面積が拡大するがやがて暴落、砂糖が取って代わり、コナコーヒーは壊滅する。 この後、コーヒー産業は日本人移民の手に委ねられ、1930~60年代には学校も9~10月に夏休み(コーヒー休暇)を設定し、子供達の手伝いを促した。[10]

ニューカレドニア1856年に宣教師がアラビカ種(ブルボン)を導入し、本国へ輸出もしたが、豊富な鉱物資源(ニッケル鉱石やボーキサイト)や害虫被害により廃れた。 現在では少量生産され、幻のコーヒー(リロイ種)として、100g 数千円という異常な高値で取引されている[11]

アフリカ

アフリカはコーヒーの原産地だが、現在の栽培品種(アラビカ種)は1900年頃、イギリス・ドイツの手で東アフリカに持ち込まれ、栽培が始まった。エチオピアとケニア、タンザニアが栽培の中心。

コンゴではロブスタ種が発見され、ベルギーやオランダで品種化された後に逆輸入され、主要品種となっている。

このほか、西アフリカでは古くからリベリカ種が栽培されていたが、商品作物としてはアラビカ種に圧され、栽培量は限られている。

日本

1878年(明治11年)、オランダ留学中に関心を抱いた榎本武揚が、ジャワ島で入手した苗を小笠原で栽培を試みたのが最初とされる。栽培は成功し、コーヒー豆の生産も行われたものの、経済性でサトウキビ栽培に及ばないことからやがて廃れた。 その後、昭和初期から太平洋戦争後にかけて、台湾沖縄でも栽培が試みられたが、大規模栽培には成功しなかった。

現在は、沖縄、九州、小笠原諸島[12]で個人や小規模農園、観光農園で生産・販売されている。

関連項目

参考文献

脚注

  1. ^ http://books.google.com/books?id=Qyz5CnOaH9oC&pg=PA3&dq=coffee+goat+ethiopia+Kaldi&hl=ja#v=onepage&q&f=true ワインバーグ著『カフェイン大全』(2001年)
  2. ^ http://www.bluemountain.gr.jp/buruman/buruman2.htm ジャマイカコーヒー輸入協議会
  3. ^ http://www.tsujicho.com/oishii/recipe/pain/cafemania/hakken02.html 辻調おいしいネット - カフェ・マニアックス
  4. ^ http://www.gutenberg.org/ebooks/28500 ALL ABOUT COFFEE
  5. ^ 「弘前はコーヒーの街」宣言
  6. ^ http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/002/0512/00204300512044a.html 衆議院会議録情報
  7. ^ http://ajca.or.jp/library/guide/history.html 全日本コーヒー協会
  8. ^ http://www.ico.org/prices/po.htm 世界コーヒー機関
  9. ^ http://www.ucc.co.jp/company/estate/hawaii_02.html ハワイのコーヒーの歴史 UCC上島珈琲
  10. ^ http://www.coffeetimes.com/japan/about_cona_coffee/cona_history_nikkei.html コナ・コーヒーについて コーヒータイムズ
  11. ^ http://www.ucc.co.jp/bourbon/ 幻のコーヒー BOURBON POINTU(ブルボンポワントゥ) 公式サイト UCC上島珈琲
  12. ^ http://www.mugajin.jp/topics/nose_garden/1.html 東京都父島、野瀬農園