カフェー・プランタン
カフェー・プランタン(café printemps)は1911年3月、京橋日吉町(現・銀座8丁目)に開業した飲食店で、一般に日本初のカフェーとされる。
[編集] 開店
松山省三(1907年東京美術学校卒業)が、美術学校時代の恩師・黒田清輝らに聞かされたパリの「カフェ」のような、文人や画家達が集い芸術談義をできる場所を作りたいと、友人の平岡権八郎とともに1911年3月、京橋日吉町(現・銀座8丁目)に開業した。建物は銀座煉瓦街のものを改装したもので、相談役の小山内薫が「プランタン」(仏語で春の意)と命名した。なお、平岡はまもなく経営から離れた。
それまでにも1906年に開店した台湾喫茶店(ウーロン)やビヤホールなどの店はあったが、プランタンによって(洋行帰りの人達が口にしていた)カフェが初めて日本にも生れた、という点で評判を呼んだ。
[編集] 営業
日本で初めて「カフェー」と名乗り、珈琲、酒を揃えた。料理はソーセージ、マカロニグラタンなど珍しいメニューを出した。焼きサンドイッチも名物になった。
従来にない営業形態のため、当初は会費50銭で維持会員を募り、2階の部屋を会員専用にしていた。会員には洋画家の黒田清輝、岡田三郎助、和田英作、岸田劉生、作家の森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎、岡本綺堂、北原白秋、島村抱月、歌舞伎役者の市川左團次ら当時の文化人が多数名を連ねた。もっとも、会員制はまもなく自然消滅となった。
フランスのカフェにはいない「女給」(ウェイトレス)が人気を得た。この後に出来たカフェーといえば、有名なカフェー・ライオン、カフェー・タイガーなど、多くは女給を「売り」にする風俗営業であるが、カフェー・プランタンは文学者らの集まる店で普通の人には入りにくい店であったという。
常連の客が店の白い壁に似顔絵や詩などを落書きし、これが店の名物になっていた。永井荷風が当時入れあげていた新橋芸妓・八重次と通ったのもこの店で、『断腸亭日乗』にもしばしば名前が登場する。
[編集] 震災後
1923年9月の関東大震災で日吉町の店は倒壊し、一時期、牛込神楽坂に支店を出した。こちらの店にも文化人が集まり、また慶大、早大生に特に愛されたという。平岡と市川猿之助が上海で買った麻雀牌をこの店に持ち込み、はじめは誰もルールを知らなかったが、やがてブームとなり菊池寛、濱尾四郎、久米正雄らが麻雀に興じた(麻雀史ではこの日本麻雀の黎明期をプランタン時代と称する)。神楽坂店は震災の翌年から約2年営業した。
本店は震災後、銀座通りの南金六町(現・銀座8丁目)に移転した。その後も営業を続けていたが、1945年3月の東京大空襲で焼失した。