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前の[[片山内閣]]の[[内閣総辞職|総辞職]]に伴い、引き続き[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]・[[日本社会党]]・[[国民協同党]]を[[与党]]として発足した。[[1948年]](昭和23年)[[10月7日]]に総辞職し、次の第2次吉田内閣の組閣まで職務を執行した。
前の[[片山内閣]]の[[内閣総辞職|総辞職]]に伴い、引き続き[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]・[[日本社会党]]・[[国民協同党]]を[[与党]]として発足した。[[1948年]](昭和23年)[[10月7日]]に総辞職し、次の第2次吉田内閣の組閣まで職務を執行した。


マッカーサーからの書簡に従って、いわゆる[[政令201号]]を出し、公務員のスト権を奪った。
マッカーサーからの書簡に従って、いわゆる[[政令201号]]を出し、公務員のスト権を奪った。[[復興金融金庫]]の融資をめぐる[[昭和電工事件]]で総辞職し、総辞職後、芦田均自身も逮捕された(裁判では無罪)

[[復興金融金庫]]の融資をめぐる[[昭和電工事件]]で総辞職し、総辞職後、芦田均自身も逮捕された(裁判では無罪)。
== 概要 ==
前任の片山内閣は、比較第一党たる日本社会党を中心として、他に民主党・国民協同党・[[緑風会]]を与党とする枠組みとして成立していたが、4党間の対立、更には日本社会党内の右派・左派の対立により瓦解した。

この片山首相の退陣を受け、片山内閣の副総理であった芦田(与党第二党・比較第三党である民主党所属)が内閣総理大臣として推挙されたが、比較第二党である自由党は、明治憲法下の慣例であった「[[憲政の常道]]」を持ち出し、芦田の総理就任を「政権のたらい回し」と厳しく批判して、野党第一党である自由党への政権移行を強く主張した。

こうした批判に対し、片山前首相や政権側は、片山内閣の退陣はあくまで社会党内の対立に起因するものであり、政権枠組みそのものが否定されたわけではないと主張して、片山から芦田への政権移譲を正当化した。当時、日本占領政策の中心を担っており、リベラルな姿勢で、保守政権の復活を嫌ったGHQ[[民政局]]も、芦田内閣の誕生を支持したが、国民世論は、概ね自由党の主張に賛同した。芦田内閣誕生にあたっても、片山内閣では政権与党の一角を担っていた緑風会や、民主党の幣原派が離反したことで、参議院での[[内閣総理大臣指名選挙]]の結果は、[[吉田茂]]への投票が多数を占める有様となった。このため、誕生当初から、芦田内閣の政権基盤は不安定なものとなっていた。

そのような不安定な情勢下で、芦田内閣は、西尾献金問題、[[昭和電工事件]]という未曾有の政治スキャンダルに次々と見舞われてしまう。西尾献金問題は、副総理かつ日本社会党書記長であった[[西尾末広]]が、土建業者から献金を得ていたという問題であり、西尾はこの問題によって証人喚問にまで呼び出され、結果副総理辞任に追い込まれた。そして、昭和電工事件は、大手化学メーカーである[[昭和電工]]社長の[[日野原節三]]が、政府系金融機関である復興金融金庫からの融資を目論み、GHQや野党の自由党を含む政官財各方面に政治献金を行っていた問題であり、およそ2,000人もの人間に事情聴取が行われるという、史上空前の規模で行われた捜査は、内閣総理大臣である芦田本人にまで及んでいた。

結果として、[[栗栖赳夫]][[経済安定本部]]総務長官と西尾末広前副総理が逮捕される事態にまで至り、芦田内閣はもはやこれ以上の外圧に耐えられなかった。西尾が逮捕された翌日である1948年[[10月7日]]、芦田内閣は総辞職を選択し、およそ8ヶ月間の短い任務を終えた。そして、元総理となった芦田は、12月に昭和電工事件に係る疑惑によって逮捕された。

こうして、昭和電工事件によって芦田内閣は総崩れとなったが、これは、中道政権を支持するGHQ民政局と、保守政権の復活を容認するGHQ参謀第2部による激しい主導権争いが背景にあったことが指摘されている。当初、GHQによる日本の占領政策は、リベラルな政策を好む民政局の主導によって、徹底した民主化・非軍事化・小国化政策が取られた。しかし、間もなく米ソ対立による冷戦が始まったことで、アメリカ本国は、むしろ日本に国力を付けさせ、反共の砦として活用することを目論む。こうした意向がGHQにも伝えられたことで、社会主義的傾向を持つ民政局は、焦燥感を募らせ、代わって、保守的傾向を持ち、民政局としばしば対立していた参謀第2部は、勢いづいていた。

昭和電工事件による収賄疑惑は、民政局の中心人物であるチャールズ・ケーディスにも及んでいた。ケーディスは逮捕こそされなかったものの、マッカーサーの命を受けて、アメリカ本国へ帰国せざるを得なかった。そして、芦田内閣の崩壊にまで至ったことで、とうとう民政局は窮地に追い込まれる。民政局は、なおも保守派の重鎮である吉田茂の首相復帰を阻止すべく、今度は[[民主自由党 (日本)|民主自由党]]幹事長の[[山崎猛 (政治家)|山崎猛]]を首班に推した上で、社会党や民主党も与党に組み込んだ、中道政権の維持を画策した([[山崎首班工作事件]])。しかし、これは吉田が一枚上手だった。吉田は、マッカーサーから山崎首班を否定する言質を引き出し、それまで山崎首班でほぼ固まっていた民主自由党は一転、山崎への批判を募らせる。これを受けて、山崎は議員辞職に追い込まれ、内閣総理大臣に就任する資格を失ったことで、山崎首班工作は完全に頓挫。結局、吉田茂を首班とする、[[第2次吉田内閣]]が誕生することとなった。そして以後、[[1993年]]の[[細川内閣]]誕生に至るまで、左派政党が政権の座に就くことはなかった。


== 閣僚 ==
== 閣僚 ==

2017年5月28日 (日) 04:38時点における版

芦田内閣
内閣総理大臣 第47代 芦田均
成立年月日 1948年(昭和23年)3月10日
終了年月日 同年10月15日
与党・支持基盤 民主党日本社会党国民協同党
施行した選挙 なし
衆議院解散 なし
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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芦田内閣(あしだないかく)は、外務大臣衆議院議員民主党総裁の芦田均が第47代内閣総理大臣に任命され、1948年(昭和23年)3月10日から同年10月15日まで続いた日本の内閣

前の片山内閣総辞職に伴い、引き続き民主党日本社会党国民協同党与党として発足した。1948年(昭和23年)10月7日に総辞職し、次の第2次吉田内閣の組閣まで職務を執行した。

マッカーサーからの書簡に従って、いわゆる政令201号を出し、公務員のスト権を奪った。復興金融金庫の融資をめぐる昭和電工事件で総辞職し、総辞職後、芦田均自身も逮捕された(裁判では無罪)。

概要

前任の片山内閣は、比較第一党たる日本社会党を中心として、他に民主党・国民協同党・緑風会を与党とする枠組みとして成立していたが、4党間の対立、更には日本社会党内の右派・左派の対立により瓦解した。

この片山首相の退陣を受け、片山内閣の副総理であった芦田(与党第二党・比較第三党である民主党所属)が内閣総理大臣として推挙されたが、比較第二党である自由党は、明治憲法下の慣例であった「憲政の常道」を持ち出し、芦田の総理就任を「政権のたらい回し」と厳しく批判して、野党第一党である自由党への政権移行を強く主張した。

こうした批判に対し、片山前首相や政権側は、片山内閣の退陣はあくまで社会党内の対立に起因するものであり、政権枠組みそのものが否定されたわけではないと主張して、片山から芦田への政権移譲を正当化した。当時、日本占領政策の中心を担っており、リベラルな姿勢で、保守政権の復活を嫌ったGHQ民政局も、芦田内閣の誕生を支持したが、国民世論は、概ね自由党の主張に賛同した。芦田内閣誕生にあたっても、片山内閣では政権与党の一角を担っていた緑風会や、民主党の幣原派が離反したことで、参議院での内閣総理大臣指名選挙の結果は、吉田茂への投票が多数を占める有様となった。このため、誕生当初から、芦田内閣の政権基盤は不安定なものとなっていた。

そのような不安定な情勢下で、芦田内閣は、西尾献金問題、昭和電工事件という未曾有の政治スキャンダルに次々と見舞われてしまう。西尾献金問題は、副総理かつ日本社会党書記長であった西尾末広が、土建業者から献金を得ていたという問題であり、西尾はこの問題によって証人喚問にまで呼び出され、結果副総理辞任に追い込まれた。そして、昭和電工事件は、大手化学メーカーである昭和電工社長の日野原節三が、政府系金融機関である復興金融金庫からの融資を目論み、GHQや野党の自由党を含む政官財各方面に政治献金を行っていた問題であり、およそ2,000人もの人間に事情聴取が行われるという、史上空前の規模で行われた捜査は、内閣総理大臣である芦田本人にまで及んでいた。

結果として、栗栖赳夫経済安定本部総務長官と西尾末広前副総理が逮捕される事態にまで至り、芦田内閣はもはやこれ以上の外圧に耐えられなかった。西尾が逮捕された翌日である1948年10月7日、芦田内閣は総辞職を選択し、およそ8ヶ月間の短い任務を終えた。そして、元総理となった芦田は、12月に昭和電工事件に係る疑惑によって逮捕された。

こうして、昭和電工事件によって芦田内閣は総崩れとなったが、これは、中道政権を支持するGHQ民政局と、保守政権の復活を容認するGHQ参謀第2部による激しい主導権争いが背景にあったことが指摘されている。当初、GHQによる日本の占領政策は、リベラルな政策を好む民政局の主導によって、徹底した民主化・非軍事化・小国化政策が取られた。しかし、間もなく米ソ対立による冷戦が始まったことで、アメリカ本国は、むしろ日本に国力を付けさせ、反共の砦として活用することを目論む。こうした意向がGHQにも伝えられたことで、社会主義的傾向を持つ民政局は、焦燥感を募らせ、代わって、保守的傾向を持ち、民政局としばしば対立していた参謀第2部は、勢いづいていた。

昭和電工事件による収賄疑惑は、民政局の中心人物であるチャールズ・ケーディスにも及んでいた。ケーディスは逮捕こそされなかったものの、マッカーサーの命を受けて、アメリカ本国へ帰国せざるを得なかった。そして、芦田内閣の崩壊にまで至ったことで、とうとう民政局は窮地に追い込まれる。民政局は、なおも保守派の重鎮である吉田茂の首相復帰を阻止すべく、今度は民主自由党幹事長の山崎猛を首班に推した上で、社会党や民主党も与党に組み込んだ、中道政権の維持を画策した(山崎首班工作事件)。しかし、これは吉田が一枚上手だった。吉田は、マッカーサーから山崎首班を否定する言質を引き出し、それまで山崎首班でほぼ固まっていた民主自由党は一転、山崎への批判を募らせる。これを受けて、山崎は議員辞職に追い込まれ、内閣総理大臣に就任する資格を失ったことで、山崎首班工作は完全に頓挫。結局、吉田茂を首班とする、第2次吉田内閣が誕生することとなった。そして以後、1993年細川内閣誕生に至るまで、左派政党が政権の座に就くことはなかった。

閣僚

政務次官

伊東隆治:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月15日
  • 大蔵政務次官
荒木万寿夫:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月26日
森下政一:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月26日
  • 法務政務次官
松永義雄:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月15日
  • 文部政務次官
細野三千雄:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月15日
岩木哲夫:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月15日
  • 厚生政務次官
喜多楢治郎:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月15日
赤松常子:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月15日
  • 農林政務次官
大島義晴:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月15日
平野善治郎:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月15日
  • 商工政務次官
正木清:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月15日
駒井藤平:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月15日
  • 運輸政務次官
木下栄:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月15日
植竹春彦:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月15日
  • 逓信政務次官
五坪茂雄:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月15日
下条恭兵:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月15日
  • 労働政務次官
大矢省三:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月15日
水橋藤作:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)7月3日
  • 建設政務次官
天野久:1948年(昭和23年)4月15日 - 1948年(昭和23年)10月15日
  • 経済安定政務次官
西村栄一:1948年(昭和23年)4月17日 - 1948年(昭和23年)10月15日
藤井丙午:1948年(昭和23年)4月17日 - 1948年(昭和23年)6月15日
  • 地方財政政務次官
西郷吉之助:1948年(昭和23年)4月17日 - 1948年(昭和23年)10月15日

参考文献

外部リンク