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山崎首班工作事件

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山崎首班工作事件(やまざきしゅはんこうさくじけん)とは、1948年昭和23年)に吉田茂内閣総理大臣指名を阻止するために山崎猛擁立が図られた事件のこと。工作は頓挫し、第2次吉田内閣が発足することとなった。

概要

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1947年から48年にかけての日本政界は、社会主義政策を推し進める革新系の日本社会党をはじめとする連立与党(片山内閣芦田内閣)と、反共主義を掲げる野党民主自由党(吉田茂総裁)とに二分されていた。当時日本を占領統治していたGHQの内部も、民政局(GS)は与党を、参謀第2部(G2)は野党を後援して対立しており、検察を巻き込んだ暗闘が続いた[1]。1948年10月7日、昭電疑獄によって栗栖赳夫経済安定本部総務長官民主党)や西尾末広副総理(社会党)ら要職者を逮捕された芦田内閣総辞職を余儀なくされた[2][注釈 1]

芦田内閣の崩壊が避けられない情勢となった9月中旬、GSおよび連立与党内では、吉田に政権を渡さずに今の政権枠組みを維持する方策が検討される。その中で、民自党の山崎猛幹事長を首班とする構想が浮かび上がる。すなわち、山崎が民自党を割って出ることで連立与党が民自党の残留組を上回り、吉田登板を阻止できる、というものである。構想の出所の経緯は明確でないが、9月21日にチャールズ・L・ケーディスGS次長が民自党の山口喜久一郎筆頭幹事長および星島二郎総務会長を呼び出して正式にオファーを出す。山崎幹事長も、社・民両党の支持が得られるならばオファーを容れる考えを示したことから工作が始まり、21日中には早くも、吉田総裁の下では民自党には永久に陽がささない、民自党内閣実現のためには吉田棚上げが必要である、という「民自党脱皮論」が流れ始めた[4]

この頃、吉田総裁は軽い胆嚢炎で大磯の私邸にて休養中であったが、党内の造反の動きを見ると断固として鎮圧を支持。芦田内閣総辞職が正式に発表された10月7日、民自党は緊急役員会を開き、山口、星島両名らの弁明を聞いたうえで、

  • 政局収拾は民自党が主導権をとり、社・両党を除く保守戦線統一を基礎として行う。
  • 内閣首班は必ず吉田総裁であること

の2原則を決定する。9日にはダグラス・マッカーサー総司令官との会見に臨み、「日本の政治をここまであなたが指図していいのか。自由党総裁は私じゃないか。どうして幹事長の山崎に総理大臣をやらせるのか。これは貴下の命令か」と迫ると、マッカーサー総司令官は「断じてそんなことはない。私の関知しないことだ。君は君の自由にやったらよかろう」と答えた[5]

11日、民主党は最高幹部会にて「挙国連立か然らずんば野党」の方針を決定。12日の党議員総会でこれを決議し、民自党に対し、大連立の可能性についての態度を照会する。吉田ら民自党幹部は協議の結果、

  • 山崎工作ぶちこわしのため、13日山崎氏の登院を求め、山崎首班説については関知しないし、これに応ずる意思がないことを言明させる。
  • 民主党との連携を実現するため、同党の考えている連立方式については首班指名後十分考慮するという回答をする。

という2点を決める。13日、山崎幹事長は役員会および議員総会で弁明を行い、「他党から押されても断固として受けない」と述べる[6]

しかし民主党は、照会に対する回答、および山崎幹事長の弁明を伝え聞いて、では民自党内部から山崎首班を推す声を上げさせ、それに呼応すればよい、との意見が出され、総務会にて山崎首班挙国連立が党議として決定される。民主党の計算では、吉田と山崎が決選投票に進み、民自党からの造反を誘発して山崎首班が成立する可能性が大、との見立てであった。また、社会党(自党の片山哲委員長に投票する予定であった)にも、民政局から山崎投票の勧請があったという[7]

他党の介入によって党分裂の危機に陥った民自党は、山崎幹事長に議員辞職させて指名資格を喪失させるほかなし、との結論に達する。当選同期の益谷秀次らの説得を受け、14日午前、山崎は議員辞職。こうして山崎擁立の動きは頓挫することとなった。同日夜、山崎辞職の許可に続いて首班指名選挙が行われ、民主党は野党宣言を発表して白票を投じ、それぞれ自党を中心に票を得た吉田総裁と片山委員長による決選投票をへて、吉田が首班指名を受けることとなった[8]

後史

第2次吉田内閣を発足させた吉田は、同年末に衆議院解散、翌1949年1月の第24回衆議院議員総選挙にて民自党は大勝し、吉田はサンフランシスコ講和条約締結、日本の独立回復を成し遂げる等、一時代を築く。一方の山崎も、同総選挙で当選して国政復帰、内閣改造によって運輸大臣として初入閣を果たす等、吉田から配慮を受けた。

備考

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『小説吉田学校』での描写

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戸川猪佐武の『小説吉田学校』では、なかば山崎首班で固まっていた民自党総務会で、田中角栄が「もちろん、わが国は敗戦国だ。が、いかに敗戦国だろうと、アメリカ内政干渉をやらかしちゃいかん。絶対にいかん」と熱弁をふるって事態を転換し、それまで総裁辞任を覚悟していた吉田がこれに乗じて山崎首班が仮にGHQの正式司令であったとしても「憲政の常道を無視する総司令部の横車に、世論がなんというか。その日本の世論に、総司令部がどうこたえるか……私はそれを見る」と主張、これを受けてそれまで山崎首班で動いていた広川が一転して吉田首班に寝返ってもともと山崎首班に批判的であった斎藤隆夫総務会長が吉田首班で党内をまとめたと描写している[9]

しかし、下記の面々は、そもそも総務会に田中は出席していなかった、と証言している。松野頼三は「経過がまったく違う」と語り、日本自由党事務局長だった藤木光雄は「田中さんは若すぎて、総務じゃなかった。総務以外はその場に一人もいなかった」と証言している。村上勇も藤木証言を「その通り」と肯定し、石田博英に至っては「まったくのウソ」と言い切っている。更に、吉田茂の三女で、吉田の私設秘書でもあった麻生和子は「おもしろいけど誤解を与えるんじゃないかしら。あの方(田中)は父が在任中、一度も会ったことさえないと思います」とテレビ番組で語っている。吉田の回想録である『回想十年』などにも、山崎事件に関する記述はあるものの、田中に関する描写は一切ない。

脚注

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注釈

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  1. 昭電疑獄もGS追い落としを図るG2による策謀であったと言われている[3]

出典

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  1. 升味 1983, p. 255.
  2. 安藤俊裕 (2011年10月2日). 吉田自由党に合流、労相で入閣(政客列伝 保利茂)”. 日本経済新聞 電子版. 2020年1月20日閲覧。
  3. 新, 小池 (2019年11月17日). 占領下の日本で大蔵大臣セクハラ事件に「キスの一つや二つ」――批判は被害女性議員に向けられた”. 文春オンライン. 2020年1月20日閲覧。
  4. 升味 1983, pp. 260–261.
  5. 升味 1983, pp. 261–263.
  6. 升味 1983, p. 263.
  7. 升味 1983, pp. 263–264.
  8. 升味 1983, pp. 264–265.
  9. 戸川猪佐武 (1980-12-10). 小説吉田学校. 角川書店. pp. 37-42. ISBN 978-4041481011

参考文献

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関連項目

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